この物語はハッピーエンドにはならない。 作:閲覧は推奨されない
最初に異変へ気付いたのは、ロドスへ戻る途中だった。
今日の任務は予定よりも長引いていた。負傷者の数も多く、後送されてきた者の中にはわたしが手を離せばそのまま容体を崩しかねない人もいた。だから一人終われば次へ触れ、次が落ち着けばまた別の誰かへ手を伸ばした。
途中から手の感覚は曖昧になっていたし、何人治療したのかもよく覚えていない。それでも治療そのものは続けられていた。身体の奥で『あの子たち』がざわつく感覚もあったし、疲れてはいるけれど、まだ動けると思っていた。
だから最後の一人へ触れた時、何も起こらなかったことを最初は単なる失敗だと思った。
「……あれ」
掌を傷口へ重ね直す。
意識を集中する。
しかし何も起きない。
いつもなら触れた瞬間、身体の奥で微細な何かが一斉に目を覚ますような感覚がある。わたしの意志を待っていたかのようにそれはざわついて、指先へ向かって流れていく。それが今日は、ひどく静かだった。
もう一度。
やはり何も起きない。
「セストダ」
後ろからケルシーの声がした。
「ちょっと待って。今、もう一回――」
「やめろ」
「でも、この人まだ」
「別の医療班へ引き継ぐ。君は手を離せ」
何故だか言われた通りにしたくなかった。
まだ治せる気がしたからではない。治せないという事実を認めたくなかったのだ。
「一回くらい失敗することあるでしょ」
「君にはない」
「じゃあ今日が初めて」
「だから止めろと言っている」
「少し休めば戻るよ」
「その判断を今の君に任せるつもりはない」
語調は平坦だった。
いつものケルシーだ。
なのに、その言い方が妙に腹立たしかった。
「なんで」
自分でも驚くほど強い声が出た。
ケルシーがこちらを見る。
「何がだ」
「なんで、今のわたしに決めさせないの」
「過剰使用が疑われるからだ」
「でも意識あるし、喋れるし、歩けるよ」
「それは継続可能である根拠にならない」
「じゃあ何が根拠になるの」
口が止まらない。
自分でも、こんな事で噛みつく必要はないと分かっている。それなのに、一度引っ掛かった言葉が喉の奥から次々と出てきた。
「検査値? アーツ反応? それともケルシーの勘?」
「全てだ」
「ずるいなぁ、それ。何言ってもそっちの方が正しいってことにできるじゃん」
ケルシーは答えなかった。
その沈黙がまた腹立たしかった。
「君は今、会話を続けられる状態ではない」
「……なにそれ」
「セストダ」
「都合悪くなったら患者扱いするの、やめてよ」
言った瞬間、胸の奥が冷えた。そこまで言うつもりはなかった。けれどケルシーは怒らなかった。
ただ、数秒こちらを見たあと、静かに言った。
「今の発言も含めて、休ませる理由が増えたな」
その返しに、何故か笑ってしまった。
「患者扱いしないで」
笑いながら、目の奥が熱くなった。
変だった。
さっきまで腹が立っていた筈なのに、今度は泣きそうだった。
「……あれ」
頬に触れると、指先が濡れた。
「なんで泣いてるんだろ」
「セストダ」
「怒ってないよ」
「そうは聞いていない」
「でも怒ってたよね、わたし」
涙が止まらない。
なのに口元は笑ったままだった。
「すごいね。怒って、笑って、泣いてる。効率いい」
「座れ」
「嫌」
「座れ」
「今度は命令?」
「そうだ」
「ケルシーって強引だなぁ」
笑った。
そのまま、急に立っているのが嫌になった。
脚から力が抜ける。近くの椅子へ腰を落とした瞬間、身体の重さが一気に増した気がした。
「……あ、これちょっとまずいかも」
「どこがだ。具体的に説明しろ」
「頭痛い。身体も重い。寒い。暑い。あと、なんか」
言葉が止まった。
胸の中で何かが走り回っている。
落ち着かない。
じっとしているのが耐えられない。
なのに動くのも嫌だ。
「なんか、すごい元気」
ケルシーの眉が僅かに動いた。
「元気?」
「頭だけ」
言葉が溢れる。
「考えることいっぱいある。今なら何でも分かる気がする。ねえ、これってさ、アーツ止まったから普段抑えられてる分が全部出てるとかない? わたし、普段もっと賢いのに『あの子たち』が適当に丸めてたとか。逆か。今の方が壊れてる? でも壊れてるにしては頭回るよ。むしろ普段より速い。これ面白くない?」
「そうは思わない」
「なんで?」
「君が正常ではないからだ」
「正常って何?」
反射的に返した。
ケルシーが黙る。
その沈黙が今度は楽しかった。
「ほら、答えられない」
「定義の問題ではない」
「でも大事じゃない? だって普段のわたしがアーツ込みなら、それって正常なの? アーツが止まって今こうなってるのが本来なら、どっちが正常?」
「今その議論を行う必要性を感じない」
「あるよ」
「セストダ」
「あるって言ってるでしょ!」
声が響いた。
近くにいたオペレーターが、こちらを振り向いた。
ただそれだけだった筈なのに、その視線が急に怖くなった。さっきまでは誰に見られていようと気にもならなかったのに、今は自分の声の大きさも、表情も、立ち方まで全部おかしい気がする。見られている。変だと思われたかもしれない。面倒な奴だと思われたかな。嫌われたかもしれない。
「……ごめん。怒鳴るつもりはなかった」
「分かっている」
「本当に?」
「本当だ」
「嘘じゃない?」
「嘘をつく理由がない」
「でも、今のわたし面倒でしょ」
「そうだな」
分かっていたのに苦しくなる。
でも嘘を言わなかった事に嬉しくもなる。
死にたいと思った。
「……そこ否定しないんだ」
「面倒であることと、見放すことは別だ」
「でも面倒なんだ」
「今の君はな」
「やっぱり」
涙がまた出る。
止めようとすると余計に出た。
「最悪」
「セストダ」
「嫌いにならないで」
口から出た瞬間、自分が嫌になりそうだった。
「違う、今のなし」
「なしにはしない」
「やめて」
「記録の話ではない」
「じゃあ忘れて」
「無理だ。諦めろ」
「なんで!」
また声が大きくなる。
自分でも何に怒っているのか分からない。
「忘れてって言ってるじゃん! なんでそういう時だけ真面目なの? わたし今おかしいんだから、言ったこと全部なしにしてよ!」
「おかしいからといって、君が今感じていることまで存在しなかった事にはならない」
「じゃあ何? これも本当のわたしって言いたいの?」
「そうは言っていない」
「じゃあ何なの!」
怒鳴った直後、笑いが込み上げた。
本当に意味が分からなかった。
自分の声が可笑しい。
泣きながら怒鳴って、そのくせ笑っている。
「やば」
笑いが止まらない。
「これ、めちゃくちゃだね」
「セストダ」
「わたし今、自分の感情に振り回されてるんだ……」
笑いながら涙を拭う。
「次何くるかな。怒り? 悲しい? 楽しい? 全部一緒?」
「刺激を減らせ。今の君は自分で自分を傷付けている」
その言葉に、急に腹が立った。
「ケルシーに何が分かるの。分かった顔しないでよ。わたしの頭の中知らないでしょ。サンクタでもない癖に」
「───……」
ケルシーの表情が、ほんの僅かに変わった。
本当に一瞬だった。それでも見えた。見えてしまった。
傷付けた。
そう思った途端、胸の奥を鋭く裂かれたように痛んだ。さっきまで自分の中で暴れていた怒りも苛立ちも、全部どうでもよくなる。ただ、今の一言で何かを壊した気がした。嫌われたかもしれない。呆れられたかもしれない。もう隣にいてくれないかもしれない。
「……違う。今のは違うの。言いたくなかった、ごめんなさい」
「分かっている」
「分かってない!」
もう自分でも支離滅裂だった。
「分かってるって言わないで。分かんないで。分かってほしいけど分かったって言わないで。違う、もうやだ。喋りたくない」
両手で耳を塞ぐ。
静かにならない。
頭の中がうるさい。
言葉が止まらない。
昔の記憶も、任務も、ヴァルドも、ケルシーも、誰かに褒められたことも、役に立てなかったことも、何年も前の苦しい失敗も、全部が同じ距離に押し寄せてくる。
「うるさい」
「何がだ」
「全部」
「何が聞こえる」
「聞こえるんじゃない」
息が速い。
「頭の中に全部があるの」
視界が歪む。
「昔のことが今みたいに近い。さっきのことも昔みたいに遠い。順番分かんない。わたし、今何してたっけ」
「セストダ」
「ねえ、わたし今どこ?」
「君はロドスに居る」
「知ってる。知ってるのに、分かんなくなる。こわい……こわい……っ」
自分の腕を掻きむしりたくなった。
何か強い刺激が欲しい。
頭の中の騒音を一回切りたい。砂嵐が走るようになったテレビを切るみたいに。
その衝動が浮かんだ瞬間、ケルシーの手がこちらの手首を掴んだ。
「何するの」
「君が今何を考えたか、おおよそ分かる」
「分かったって言わないでって言ったじゃん」
「今は言葉遊びをしている場合ではない」
「離して」
「離すものか」
「やだ」
「許可できない」
「離して!」
振り払おうとする。
力が入らない。
それが悔しくて、また涙が出た。
「なんでこんなこともできないの」
「君が今何をしようとしたか、自分でも理解しているか」
「知らない」
「セストダ」
「知らないって言ってるじゃん!」
「なら尚更離す事は出来ないな」
その瞬間、何もかもがどうでもよくなった。
本当に唐突だった。怒りも、恐怖も、悲しさも、ついさっきまであれほど激しく胸の内側を掻き回していたものが、一斉に遠のいていく。消えたわけではない。ただ、どれも自分とは関係のないところへ押し流されていくようだった。
ああ、もういいや。
そう思った途端、頭の中が静かになった。さっきまで幾つもの考えが重なって、互いに喚き合うみたいに騒がしかったのに、今は何も聞こえない。
不思議なくらい、楽だった。
「……もういい」
ケルシーがこちらを見る。
「疲れた」
声が自分のものではないみたいだった。
「喋るのも、考えるのも、明日を待つのも」
「セストダ」
「今日ここで終わったら、楽だなって」
ケルシーの手に、僅かに力が入った。
「あ」
自分で口にしてから、遅れて意味に気付いた。場違いなくらい軽い笑いが漏れる。
「今のは、駄目なやつだ」
「君を医療区画へ移す」
さっきまでなら、そこでまた何か冗談を返せたかもしれない。でも今度は笑えなかった。胸の奥に薄く残っていた静けさがその一言で急に剥がれ落ちた気がしたから。
「嫌」
「これは決定だ」
「嫌だ」
反射みたいに言葉が出た。理由なんてもう上手く説明できなかった。ただ連れていかれるのが怖い。見張られるのも、閉じ込められるのも、自分が自分を信用できない人間だと認めさせられるのも嫌だった。
「君の意思確認を待てる状態ではない」
その言葉が、ひどく遠く聞こえた。
「嫌だって言ってるでしょ」
「同じことを言わせるな」
「わたしのことなのに!」
「だからだ」
その返事が、どうしようもなく嫌だった。
正しいから。
わたしのことだからこそ、今のわたしには任せられない。そういう意味だと分かってしまう。分かるから反論できないし、反論できないことが余計に腹立たしかった。
正しい言葉で逃げ道を塞がれるのが、たまらなく嫌だった。自分の身体も、自分の気持ちも、本当ならわたしのものの筈なのに、そのどちらも今は自分で決めていい状態ではないと突き付けられているみたいだった。
「大嫌い」
「構わない」
「ほんとに嫌い」
「そうか」
「……行かないで」
声が勝手に小さくなった。
最低だと思った。さっきまであれほど追い払いたかった相手に、今は離れてほしくない。近くに居られるのも苦しいのに、居なくなられる方がもっと怖い。
嫌いだと言った舌の根も乾かないうちに縋りつくみたいなことをしている自分が、どうしようもなく醜く思えた。
こんなの、自分でも扱えない。
「行かないさ」
ケルシーはそれだけ言った。
慰めるでもなく、大丈夫だと決めつけるでもなく、ただ側に残ることだけを約束する言い方に、わたしはまた泣いてしまった。
今度は何が悲しいのかも分からなかった。ただ、行かないと言ってくれたことだけが嬉しくて、それが嬉しい自分まで情けなくて、止めようとするほど涙が次々に溢れてきた。
医療区画へ移した後の数日間、セストダを徹底した管理下に置いた。
自傷に利用できるものは全て個室から撤去し、身体状態と精神状態を常時監視した。本人の判断能力が安定するまではベッドから離れられないよう固定し、食事は経口摂取を断念して点滴へと切り替えた。食べ物を見るだけで吐き気を訴える時もあれば、そもそも食事という行為そのものへ意味を見出せず、「明日の身体を維持する理由がない」と平然と言う時もあった。
情動の変化は激しかった。
朝には饒舌で、今後の検査予定まで自ら聞いてきた人間が、昼には声をかけても反応せず、夕方には突然笑い出し、深夜には泣きながら「何も信じられない」と繰り返した。自分が迷惑をかけていることを過剰に謝罪した直後、今度は「どうせみんなわたしを迷惑に思ってる」と怒り、さらに数分後にはその発言を後悔して泣きじゃくった。
一貫していたのは、一貫性がないことだった。
だから努めて、本人が「もう大丈夫」だと主張しても管理を緩めなかった。
たとえ笑えていても、会話が成立していても、あるいは一見すると妙に落ち着いて見える時間があっても、それを回復とは判断しなかった。感情の振れ幅が大きすぎる以上、静けさそのものが安定の証拠とは限らない。むしろ、その直前まで激しく揺れていた分だけ、急に何も感じなくなっている可能性すらあった。
三日目の夜から、途絶えていたアーツ反応がごく僅かに戻り始めた。数値として見ればまだ微弱で、変化と呼ぶには慎重さが必要な程度だったが、四日目の朝、最初にそれへ気付いたのは本人だった。
「……静か」
久しぶりに、セストダの声がまっすぐ耳へ届いた。
掠れてはいたが、数日前のように不自然に弾んでもいなければ、底へ沈み切ってもいない。
「何がだ」
「頭の中」
端末から視線を上げると、セストダは天井を見ていた。手首の固定具はまだ外していない。頬は痩せ、目の下には薄く影が落ちている。白い肌はいつも以上に血の気を失っていたが、表情にはようやく一つの感情だけを保てる余裕が戻っていた。
「昨日まで、考えたことが全部同じ大きさだったのに」
「今は?」
「遠いものが、ちゃんと遠い」
言い方は曖昧だったが、意味は分かった。昨日までは何年も前の記憶も、たった今起きたことも、これから起こるかもしれない不安も、全てが等しい切迫感を伴って彼女の中へ押し寄せていたのだろう。時間も重要度も関係なく、浮かんだものから順に現在へ引きずり出され、その度に感情まで当時の鮮度で蘇っていた。
今はようやく、それらの間に距離が戻り始めている。
忘れたわけではない。何も感じなくなったわけでもない。ただ、昔の痛みを昔のものとして眺められる程度には、現在との間へ時間が挟まるようになった。それはごく小さな変化だったが、数値に現れ始めたアーツ反応と無関係だとは考えにくかった。
「昔のことは、ちゃんと昔のことに戻ってる。嫌なことを思い出しても、それだけで頭の中が全部埋まったりしない」
「気分はどうだ」
「分かんない。……でも、昨日みたいに急に世界ごと嫌いにはならないよ」
そこまで言ってから、セストダは目を伏せた。少し前までなら、何か変化があればそれだけで軽口の一つも挟んだ筈なのに、今は自分の中で起きていることを慎重に確かめるように黙っている。
「アーツが、戻ったの?」
「……ああ」
やはり、とでも言いたげに、セストダの表情が僅かに沈んだ。その返事を聞いても、安心した様子はなかった。むしろ、先ほどまで自分の回復だと思いかけていた変化が、本当に自分だけのものなのか分からなくなったように、しばらく何も言わなかった。
「わたし、今まで結構、自分のこと信用してたんだよね」
声は静かだった。取り乱しているわけでも、自嘲するように笑っているわけでもない。ただ、これまで当たり前だと思っていた自分の性質を、一つずつ確かめ直すような話し方だった。
「嫌なことがあっても、何日か経てば薄くなる。死にたいって思っても、それがずっと同じ濃さで続くわけじゃない。どれだけ酷いところまで落ちても、そのうち少しは浮いてくるから。だから、まあ大丈夫かなって思ってた」
一度、言葉が途切れた。
「わたしって、思ってたよりちゃんとしてるんだなって。壊れそうになっても、結局は自分で戻ってこられるんだって」
そこで初めて、セストダは僅かに笑った。けれど、その表情には安堵も誇らしさもなかった。
「でも、ぜんぶ『あの子たち』のお陰だったんだね」
私は返さなかった。
返せなかった、という方が正確だった。否定できるだけの根拠がなく、かといって肯定すれば、彼女がこれまで自分の強さだと信じてきたものを、その場で丸ごと奪うことになる。どちらの言葉も安易に口にするべきではなかった。
「ねえ、ケルシー」
「……何だ」
「もしアーツが完全に戻ったら、また今日までのことも薄くなるのかな?」
「……その可能性はある」
「怖いな。今これだけ怖いって思ってることまで、また平気になっちゃうこと」
私は答えなかった。否定する根拠はなかったし、安易に安心させれば、彼女が今ようやく掴みかけている違和感まで取り上げることになる。
セストダは視線を落としたまま続けた。
「平気になるのは楽だよ。苦しいより、ずっといい。でも、“楽になった”のか、“楽にされた”のか分かんなくなる」
「その区別を今決める必要はない」
「またそれ」
「今の君は、答えを急ぎすぎる」
「答えないままなの、嫌いなんだよね」
「知っている」
セストダはそこで少しだけ黙った。反射的に言い返すのではなく、今度は本当に言葉を飲み込んで考えているようだった。
「でも、たぶん今は無理なんだろうね」
珍しく、自分から引いた。
それが回復の兆しなのか、疲れて諦めただけなのかはまだ分からない。ただ少なくとも今の彼女には、分からないものを分からないまま抱えておく余地が、ほんの僅かに戻り始めていた。
「今はまだ、自分のこと考えると、すぐ深いところまで落ちちゃいそう」
「なら考える必要はない」
「雑」
「必要な指示だ」
「……じゃあ何してればいい?」
「回復に専念しろ」
「役に立たなくても?」
「構わない」
「食べられなくて、点滴だけで生きてても?」
「構わない」
「ベッドに縛られてても?」
「構わない」
そこまで同じ答えを返されると、さすがにセストダは少し眉を寄せた。苛立ったというより、理解し難いものを見るような顔だった。
「それ、わたしが一番嫌いな状態だ。何もできなくて、誰の役にも立たなくて、自分のことすら自分で決められないのに、それでもただ生きてるだけ」
「知っている」
「なのに、それでいいって言うんだ」
「ああ」
するとセストダは黙った。言葉を探しているというより、その考え方を自分の中へ入れていいものか迷っているようだった。
「何もできないのに、生きてるだけでいいって、よく分かんない」
「なら、今覚えるといい。何もできない時でも、生存に価値を付与する必要はない。役に立つから生きていていい訳でも、何かを返せるから生き延びる資格がある訳でもない。ただ生きている。それだけで成立する時間もあるという事をだ」
セストダはすぐには返事をしなかった。ただ僅かに視線を伏せたまま、その言葉だけを確かめるように何度か瞬きをした。
「……難易度高くない?」
「今の君には必要だ」
「ケルシー、最近わたしに厳しくない?」
「私の態度は、君と出会った時から一切変えていない」
「そうだっけ」
「そうだ。君が今まで都合よく聞き流していただけだ」
「ひどい言い方」
「事実だ」
セストダは一瞬だけ不満そうに眉を寄せ、それから耐えきれなかったように小さく笑った。
「そうだっけ」
「そうだ」
数秒して、セストダはまたほんの少しだけ笑った。大きく表情を崩したわけではない。ようやく冗談を冗談として受け取れる程度には、感情と自分との間へ距離が戻ってきたのだろう。
回復したわけではない。アーツもまだ完全には戻っていないし、拘束を外せる段階でもなければ、経口摂取へ切り替えられる状態でもない。数時間後にまた感情の振れが大きくなる可能性もある以上、今の落ち着きだけを見て判断することはできなかった。
それでも少なくとも今の彼女は、自分の感情にただ押し流されながら喋っているわけではない。
湧き上がったものをそのまま言葉にするのではなく、一度自分の中で見て、選んで、それから口にしている。
その僅かな違いだけでも今は十分だった。
「ケルシー」
「何だ」
「もうちょっとだけ、そこにいて」
「今回は特別に君の言う通りにしても構わない。幸いと言うべきか、しばらく確認すべき事項はないからな」
「じゃあ、それでいい」
セストダはそれ以上何も求めず、静かに目を閉じた。呼吸はまだ浅かったが、先ほどまでのような張り詰め方はない。眠りに落ちるまで数分もかからなかった。
私はその間も席を立たなかった。
アーツが戻れば、身体も精神も再び均されていくのだろう。今までと同じように、傷も疲労も感情の振れも彼女自身が意識しないうちに少しずつ整えられていく。
それを回復と呼んでいいのか、あるいは単なる再調整と呼ぶべきなのかは、今の段階では判断のしようがない。何が彼女自身の力で、何がアーツによって均された結果なのか。その境界を見誤れば、また同じことを繰り返す。
だからこそ、見極めなければならない。
彼女が自分を取り戻していく過程を、今度こそ彼女自身にも分かる形で。