梅宮と姉の話 | もろもろ捏造
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2025年5月28日ウェブサイトにて発表
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細道の奥に獣が2匹

 客の見送りで店頭に立っていた。酒とタバコの匂いを振り解くように夜風の間に手を振っていた。「またきてね、まってるから」。感情も思考も伴わない常套句を、胃から迫り上がってくる酒と偽って飲んでいたウーロン茶の香りとともに唇の隙間から垂れ流していた。客を乗せたタクシーのドアが閉まり、無駄に気を利かせた運転手が開けるパワーウィンドウの間から差し出される初老男性の手と握手をするため少し身をかがめようとした時、タクシーの屋根の向こうから刺すような視線を受けていることに気がついた。

 

「おい、待てって」

 

 逃げ出した私を追いかける大柄な男。履き慣れないハイヒールで逃げたところで足の長さが比にならないその長身の男に捕まるのはすぐだった。終電の時間を過ぎてなお明るい真夜中の歓楽街。走って逃げるドレス姿の女の腕を無理に引き留める男の姿は日常の一部だった。

 

「はなして」

 

 華奢なブレスレットをつけた手首をつかむ手は、先ほど見送った客の色情にまみれた油っぽい手でも、新人のくせに生意気だと特別な理由もなく私の頬をはった先輩キャストのやつれた手でもなく、ところどころに傷のついたかさつく手だった。私はこの手を知っている。この手が、おそらく、そう簡単に私を離さないだろうことも知っている。あきらめて立ち止まる。振り返る。見知った顔。見知った姿。そして、この見知った男にとって見知った顔の私、見慣れない姿の、私。

 

「どうしたんだよ。なんでこんなところに」

「はじめに関係ない」

「あるだろ、家族なんだから」

「年頃の女の子は家族と口きかないもんでしょ」

「そういうのは、知らないけどよ」

 

 男は私の「家族」の一人のはじめだった。「家族」といっても血の繋がりはない。故あって家族とともに暮らせなくなった子供が暮らす施設で共に育った、という意味での「家族」だ。人一倍家族思いのはじめが、今年の春から大学に通うと「家」を出て行った女がドレスを着て酔っ払った中年男に手を握られている様子を見て追いかけてきた。そして聞いた。なぜこんな時間の歓楽街に。なぜこんな露出の多い服を着て。なぜそんな見知らぬ男に接触を許して。動転と心配と、少しの怒気がはじめの肩からも髪からも立ち上っているのが目に見えるようだった。

 

「大学は」

「行ってるよ、明日1限からあるから早く上がって帰りたいんだけど」

 

 平時は饒舌なはずのはじめは感情が昂っているせいか短く問う。そんな彼の手を振り払い、握られていた手首をわざとらしくさする。その様子に良心を痛める表情はいつも通りだった。閉店時間となった店へ戻ろうときびすを返す私を、はじめは今度は控えめに、しかしきっちりと追いかけてくる。隣を歩く。おぞましいほどに煌びやかな真夜中の路上で、店からレンタルしているドレスの裾と学生の証である制服の裾とが重なりあいながら夜風になびく。

 

「明日って、もうこんな時間だぞ」

「あんたこそ、高校生のくせに“こんな時間”にこんなところウロチョロして。ったく警察は補導とかしないわけ」

「この辺は無法地帯だからなぁ」

 

 それか、そういう店のやつって思われてるのかもな。水商売に携わる私の姿に怒りを覚えておきながら、自分が守られるはずの未成年として適切な指導を受けないことにも、誇りを持って着ているはずの学生服を他人の情欲を金に変えるために着飾っているとみなされることにも、さして気をとめていない様子の、その矛盾について指摘してもよかったが口にしなかった。疲れていたのだ。だから、終礼を終えて送りの車に乗ろうとしたところを再び呼び止められてはじめと一緒に帰ることを余儀なくされても、もはや拒否はしなかった。

 

「あんた、またケンカしてたんでしょ」

「まぁ、そんなところだ」

「ほどほどにしなよ」

「心配してくれてんの」

「ばか」

 

 はじめは歩いて帰れる距離にある私の住むアパートまで送ってくれるとのことだった。歓楽街の喧騒から遠ざかるにつれ、私たちは夜の底を泳ぐ深海魚のように目も合わせず緩慢に意志を通わせる。長い間ともに暮らした仲だからこそ、言葉は少なくても多くを語り合えるのは、今の私にとってちょうど良いコミュニケーションだった。先ほどまで大して興味もない相手に気に入られるため、思ってもいないことばかりを口にしていたので、余計、そう感じるのだろう。

 

「生活けっこう厳しいのか」

「まあね。大学の費用に一人暮らしの費用。あしながの奨学金の他に、企業とか大学独自の奨学金できるだけ借りてもやっぱ足りないからさ」

 

 朝から大学に行き、夕方は塾講師のバイト、夜はキャバクラでバイト。あいた時間で課題と試験勉強。それが私の大学生活だった。若さだけでは補いきれないほど疲弊していた。それが、この男を拒否しなかった理由だ。いや、本当はそれだけが理由ではないのだが、身内の距離に甘えて言わないことにした。言わなくても伝わっているだろうこともわかっていた。私が久しぶりに「家族」に会って、内心喜んでいること、安心を得ていることに、はじめは気がついていて、無理にもこの帰り道を並んで歩くことにしてくれたことも、こちらに伝わっている。言外で私たちは再会を祝していた。

 

「それに、私、学部卒業したらロースクール行きたいの、だからその分、お金貯めなきゃって」

「ロースクール?」

「うん。弁護士とか裁判官とかになるために行く法科大学院。法律を勉強して、それこそ弁護士とか検察官になって、その力でここを守るの。私たちを受け入れて育ててくれたこの町を守りたいって思ってるのはあんただけじゃないんだから」

 

 我々の育った町、警察や司法の手も届かないような荒れた町。その町を、町の人々を、町での暮らしを守るために拳をふるい続けるこの男の姿を、一番近くで見てきた一人として、同じ思いを抱く人間として、できることは何か、考えていた。はじめには恵まれた体躯と腕力があった、私にはなかった。代わりに頭の回転は良い方だという自覚があった。必死に勉強して大学へ進学した。この町にふりそそぐあらゆる不幸に抵抗する、腕力ではない力を高等教育の先で得ようと思ったのだ。

 

「あんたはバカだけどバカじゃない。この先、暴力だけで町を守り切れるはずがないことくらいわかってるんでしょ。だからといって、あんたが作った自警組織を手放すわけにもいかないのは私も理解してる。だから今はあんたに任せちゃってるけど、もう少し待って。絶対力になるから」

 

 はじめは何も言わなかった。夜道は静かだった。住宅街へ入って、車両の通れない細い道を並んで歩いている。空き家となった民家に繁茂する庭木が怪物のように黒く覆いかぶさるカビ臭い路地。その庭木に当たらないよう身をかがめれば、剥き出しの土にポツポツと敷かれた石畳とそれを縁取る雑草や苔が目に入る。暗闇のどこかで猫かネズミか、何か獣がうごめく音がした。私たちも変わらない。獣のように力で力に抵抗しつづける。獣道のような細い道を歩きながら、人間の使う言語というコミュニケーションを用いずに意図を伝え合う。穴ぐらのように狭くて暗いアパートの一室に滑り込む。

 

「でもちょっと飛ばし過ぎたかも。さすがに疲れるわ、この生活」

 

 水道水を沸かしただけの白湯を一つだけあるマグカップに注いではじめに差し出す。花の女子大生にしては簡素な畳敷の古いアパートの部屋に、自分以外の人間がいる光景を見るのは初めてだった。施設の食堂や談話室で共に時間を過ごしたが、大勢が暮らすためのそこは広く、はじめが大柄であること、私がこの男よりもはるかに小さいことにそこまで気をとめていなかったことに気付かされる。

 

 マグカップを受け取ったはじめは畳に座るのでもなく、私と共にキッチンの前に立ったままシンクに軽く腰をかけた。キッチンの手元用の蛍光灯は切れたまま交換していない。共有廊下側の窓越しに差し込むぼんやりとした月明かりを背に受けながら、私たちは6畳の部屋を眺めている。先ほどから言葉数を減らしていたはじめがゆっくりと口を開いた。

 

「一緒に住もう」

 

 断定的な言い方だった。

 

「は?」

 

 驚いて顔を見上げる私に、はじめは歯を出して笑った。よく知っている表情。わざとらしいほどの笑顔。自分の意志の揺るがなさを示し、他者を鼓舞するために作り上げた、この男の武器の一つ。

 

「来年からオレもあそこ出なくちゃだし、どうしようかと思ってたんだ。家賃・生活費、折半したら結構節約になるんじゃないか? 卒業したら働くつもりだ、多めに出してもいい。大学で忙しいなら家事もまかせてくれ」

 

 高校を卒業したら施設を出るのが慣例だ。私は今年、はじめは来年、施設を出て独り立ちを余儀なくされる。この都市で、この歳で、厳しいものがあるのは現実である。はじめの言っていることは正しいのだが。

 

「いや、だって、あんた、年頃の男女が一緒に住んじゃダメでしょうよ」

「一緒に住んでただろう」

「二人きりとはわけが違うでしょ」

 

 そうか? と、まだ本心の見えない貼り付けたような笑顔でカラカラと笑うはじめの足を蹴る。

 

「それに、私と一緒に住んでたら好きな子連れ込んだりできないよ」

 

 白湯を飲み終わったマグカップを洗い始めたはじめが横顔のまま瞳だけで私をチラと見た。水道から流れる水の音が響く。一つだけしかない洗い物はすぐに終わった。古めかしい回転ハンドルをギュッとひねり、シンク下収納の取手にかかっている商店街の福引でもらったスポンサーの名前入りの薄っぺらいタオルで手を拭く。拭きながら問う。

 

「そっちは、いるのか? そういう人」

「いないけど」

「よかった。じゃ、問題ないな。なんなら明日から飯作りにくるけど」

「ええ……」

 

 はじめは力が強かった。この男の後で水道を使おうとしても栓がきつく締められていて開けられないことが度々あった。施設での話だ。この家の、この水道も、先ほど彼がきつく締めていた。料理をするとき、大変そうだ、そう思っただけだった。私たちの共同生活が試験的に始められた理由だ。

 

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 大学の敷地と最寄り駅までの間にある小さなカフェは、客の半分が学生のようだが落ち着いた雰囲気だった。このカフェの単価が周囲の飲食店より比較的高いことによって客層が自然としぼられているのだろう。ランチプレートが1500円のカフェで、学科の先輩と交流を兼ねてランチ会が開かれた。過去問をくれるということと、ランチ代は先輩持ちだということを聞いて、私はこの場にいる。

 

「ね、今日何限まで? 夜、ダーツバー行くんだけど一緒にどう?」

 

 食後に運ばれてきたコーヒーを一口飲んでから先輩の一人が言った。決して派手ではないけれどしっかりと化粧を施した顔がいかにも都会的な女性の先輩は、ダーツを投げる仕草をしながら我々1年生に片目を瞑って見せた。この女性の先輩のほか、女性がもう1人、男性が2人の合計4人の先輩を前に、私を含め3人の1年生がカフェの奥のソファ席2カ所に別れて座っている。私の前に座る男性の先輩が、「ダーツ、やったことある?」と聞いた。私は首を振る。

 

「あ、でも、すみません。私、今日バイトで」

 

 講義が終わってすぐに塾講師のバイトがあるので断る。そもそも、ダーツバーに行っているような金銭的余裕もない。「私たちは行きたいです、何時にどこですか〜?」。私の言葉に対し先輩たちが何かを言う前に、同級生の友人が明るく答えた。私がすぐに断ったために気まずい空気になることを避けてくれたようでもあり、先輩からの誘いにただ喜んでいるようでもあったが、なんにせよ、こういう時にこういう人間がいてくれるのは非常に助かる。私は私で、ものの言い方に気をつけなければと居住まいを正す。

 

「昨日もバイトって言ってたよね。もしかして毎日?」

「いや、毎日じゃないけど」

「お昼は学食じゃなくて手作りのお弁当だし、倹約家なんですよ〜、この子」

 

 もう一人の友人がのんびりとした様子ながらも、私にフォローを入れてくれる。彼女らの優しさに身を縮こませながらモゴモゴと何を言うわけでもない何かを口から漏らしながら、コーヒーカップに口をつけた。カップ越しに向かいの席の先輩たちの様子をチラとのぞくと、正面の男性の先輩と目が合う。先輩はニコリと笑った。

 

「いいね、そういうの。結婚したい」

 

 突飛な言葉に驚いて、思わずカップからコーヒーがこぼれた。こぼれたコーヒーを慌てておしぼりで拭きながら、先輩からの視線を避ける。男子大学生というのは浮わついてるものなのだ、真に受けて動揺するなど恥ずかしい。そう思うほどどんな顔をして良いのか分からず顔を上げられないでいると「赤くなっちゃって。かわいいんだ」と追い打ちをかけるような言葉が添えられる。キャバクラの客のように明らかな下心が示されるだけならあしらい方もいくつか手札があったが、こういう場面は不慣れなのだった。なにせまだピカピカの1年生なのだから。

 

「おい、すぐ口説くのやめろよな」

「わりわり」

 

 斜向かいに座るもう一人の男性の先輩が隣に座る、つまり私の向かいに座る軟派な先輩を叩いて、この話題は終わった。友人たちよ、こういう時こそ助け舟を出してほしい。ニヤニヤしながらこちらを見るだけでなく。

 

「オレ、次サボるから代返よろ」

 

 先輩たちと一緒に皆で大学の構内まで戻る。道すがら先輩の一人がフラっと道を逸れる。サークルや部活動の部屋が集まる別棟に行く様子だった。

 

「はぁ? またぁ?」

「次のサークル合宿で出し物しなくちゃいけなくて、それの打合せ」

「雀荘で?」

「負けすぎからの親に借金しすぎでヤバい」

「みんな〜、ここでネギがカモ背負ってるよ〜」

「ふざけんな。今日は勝つんだよ」

 

 え〜、私もサボろうかな。バイト代入ったからマツエク行きたかったんだよね。女性の先輩が笑う。大学生活に慣れた先輩たちの自由な様子に、私と同じ1年生の友人たちは驚きと、少しの憧憬を滲ませている。授業をサボることが、麻雀で遊ぶことが、親に借金することが、バイト代をそのまま趣味につぎ込めることが、大人っぽくてかっこいい、とでも言うように。

 

「すみません、私、図書館に本返してから講義に行くので、ここで失礼します」

 

 急にその場を去りたくなって駆け出した。誰にも声をかけさせないように、図書館のある敷地の方へ道路を渡る。返すべき本の入っていない鞄はずっしり重い。教本やノートのほかに、突然企画されたこのランチ会のために、食べるタイミングを見失ったお弁当が入っているからだった。

 

「おかえり。おつかれ」

 

 アパートに戻るとはじめがいた。塾の最後の授業まで担当して帰ってきたのは21時だ。小さなローテーブルの上にのるラップをかけた野菜炒めはすっかり冷めている。何時からここにいたのだろう。

 

「ただいま。ご飯、ありがと」

「ん。食べるよな? あっためるから」

 

 ユニットバスの小さい洗面台で手を洗う私の背後で、はじめは電子レンジに野菜炒めをいれる。合鍵を渡してから、ほとんど毎日、料理や掃除をしにやってくるようになった。私よりも長い時間、このキッチンを使っている彼は慣れた手つきで、これも彼の作ってくれている麦茶を冷蔵庫から取り出した。

 

「弁当、どうだった?」

 

 野菜炒めをかきこむ私を面白そうに見ながら、はじめは言った。小さいローテーブル越しだと、随分と距離が近かった。家族の距離。カフェのソファ席で向かい合う他人との距離の半分もない。そんなことを考え出すと、あの自堕落で軟派な大学生をしている先輩たちのことが思い出されて、美味しいはずの野菜炒めの味が薄らいでいくように感じた。

 

「ごめん、お弁当食べなかった。急に友達とご飯食べに行くことになって。朝ごはんに食べるから」

「さすがに腐るって。いいから捨てろよ。明日は弁当どうする?」

 

 疲れた体、疲れた心に家族の声が染み込んでいく。私のことを心配して、私のことを大事にして、私のことを思ってくれているのがよくわかる言葉、温度、態度。まるで、親のようだ。親など、もはや顔も思い出せないのに。

 

「ねぇ、もういいよ、ご飯とかお弁当とか。頑張って作ってくれてありがたいけど、大変でしょ。ご飯くらい自分で用意できるから。今日みたいに食べれなくても申し訳ないし。あんただって暇じゃないんだから。そもそもここまで来るの、家からも学校からも遠回りすぎるよ。そんな時間あるなら、友達と遊んだり、勉強したりした方がいいって。ほら、高校最後の年なんて二度とないんだよ、それこそ恋人作ったり……」

 

 言い過ぎている、これ以上言うべきでない、分かっていても、目の前の優しい「家族」に甘える以外、今の私の気持ちのやりどころがなかった。私を見る慈しむような眼差しをくもらせたくなって、私に嫌われることを恐れるような顔を見たくなって。にもかかわらず、まだ本当に懐に飛び込む勇気はなく、相手を気遣うふりをした意地の悪い言い方しかできない。

 

「わ、わるかった! なんていうか、気合い入れすぎて引いたよな。人に飯作んの楽しくなっちゃってたわ。同級生と飯いったりもあるだろうし、勝手に作んのはやめる。でも、家で食うときくらいは作らせてくれよ。オレの作った野菜、食ってほしいからさ」

 

 はじめは傷ついた顔も、怒った顔もせず、ただ少し困ったような顔をした。自分の気遣いが迷惑だったのかと戸惑っている、そんな様子だった。優しくて、未熟で、無力な少年の姿だった。その姿を見て、後悔と自己嫌悪で喉がつまった。そうじゃない、はじめは何も悪くない、八つ当たりしただけ、試しただけ、素直にそう言って、急いで帰ろうとする背に追いすがれたら良かったのだが、私もまた、未熟で無力な人間だった。

 

「ごめん、ありがとう。あの、明日はバイト早く終わるから」

「ん。また明日」

 

 私を待っている間、暇だったのだろう、読んでいたと思われる漫画雑誌が部屋に転がっている。はじめが忘れていったのだ。明日も来るなら伝えなくてもいいか、はじめとのチャットを開くが、文字を打たずに閉じた。チャットアプリには今日作った先輩たちを含めたグループから連絡が多数届いていた。ダーツバーでの写真が並んでいる。グループは抜けずにミュートにしてからシャワーを浴びることにした。

 

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 大学の講義が終わってバイトまでの時間が空いたので、町に戻ってポトスに寄った。同じ施設で育った妹分のことはが切り盛りしている喫茶店だ。腹ごしらえをし、レポートを進める。そこへ、やはり同じ施設で育った家族の一人、はじめがやってきた。はじめは当たり前のように私の座る奥のカウンター席までやってきて隣に座った。先日の一方的な八つ当たりをしてからどうにも距離感の掴めないでいる私としては袖が触れ合うような近さに緊張を覚える。顔にこそ出さないが。はじめは何もなかったような顔をして翌日からも家事をしにアパートに来ており、今もことはと私と三人で施設の食堂にいるかのように朗らかに笑っている。今まで通りでいられることに少しホッとして食後に出されたコーヒーに口をつける。レポートに夢中になっていたため、コーヒーは冷めていた。

 

「梅って恋人とか作らないの?」

 

 カウンターの向こうでグラスに水を注ぎながらことはが聞いた。唐突な質問にはじめが肩をそびやかす。

 

「なんだ急に。うーん、そうだな。ほらオレってあちこちで恨み買ってるからそういうヤツできたらそいつも危険になるだろ、そう考えるといない方がいいかもな」

 

 ふーん、と自分から話を振っておきながら興味があるのかないのか、ことはは気のない返事をする。

 

「だったら椿は」

 

 氷のぶつかる透明な音をさせながらグラスが提供される。冷たい空気の刃でも突きつけるような鋭さで短い質問が差し込まれる。

 

「あんたのことやこの町のことを理解してるし、何より強い。そんな心配は必要ない。いつまであの子の気持ちに気が付かないフリしてんの」

「あー……」

 

 いつもの調子の良い言葉はなく、はじめは気まずそうに目を泳がせている。何も答える気のなさそうな様子に、ことははわざとらしく大きなため息をついた。もとより返事は期待していなかったのだろう。「ま、いいや」と早々に刃をおさめた。「はは……」と乾いた笑いを漏らしながら、はじめは水を一口飲んだ。

 

「ね、それこそ大学はどう? いい人できた?」

 

 おさめられた刃は再びひらめき、今度は私の方へ向けられる。隣から水にむせる声がした。今日は随分とリアクションが大きい。

 

「なに、今日は恋バナモードなの?」

 

 喫茶店の切り盛りをしていたとしてもことはは年頃の女の子だ。恋愛ごとに興味があるのだろう。そういえば、最近配信されている恋愛ドラマにハマっていると言っていたような気がする。商店街のおじいちゃんおばあちゃんを相手にしている日中にはできない色気のある話を求めているようだった。

 

「そうなの、さっき風鈴の子たちが誰に恋人ができたのなんだの騒いでて、なんかみんな青春してるんだな〜って。そういえば、高校の時、彼氏いたよね?」

「え、あ、うん、一人ね。数ヶ月で別れたから彼氏に数えていいのか分からないけど」

 

 話をしながら器用にもオムライスの準備を進めていることはは「けっこうカッコよかったのに。もったいないんだからー」と笑った。卵をかき混ぜる軽快な音がほかに客のいない店内に響いた。その音に紛れながら氷がぶつかりあう音がする。はじめが水を飲み干していた。自らカウンターの奥のピッチャーを取ろうと立ち上がる。ピッチャーを豪快に傾け、水がそこらじゅうにはねた。「なにやってんのよ」とことはが台拭きを投げて寄越す。

 

「そういえば、最近やたらと連絡してくる先輩がいるって言ってたよな」

 

 カウンター伝いにこちらへ台拭きごと手を伸ばしたはじめが私の顔を一瞬見る。すぐに視線を外して台拭きを右に左にすべらせる。

 

「え! 何それ! 聞いてない!」

 

 調理場から顔を出して、ことはが大声で騒いだ。今度は私が乾いた笑いを漏らす番だった。

 

「別に話すようなことは何もないから。ただの学科の先輩」

 

 望むような話ではないことを知って、「なぁんだ」とつまらなそうに調理場へ戻って行くことはを苦笑いで見送る。

 

「でも、飯誘われたんだろ?」

 

 はじめは話を続けた。先ほどまでの自分の話をかき消したいのか、やたらと私の話を掘り下げようとしている。掘っても何も出てこない不毛な話をしたって仕方がないというのに。

 

「デートのお誘いってやつ?」

「デートじゃないから。過去問もらったり進路のこととか聞いたりするだけ」

「ふぅん。いくの?」

「時間が合えばね」

「最近忙しいとか言って私とは遊んでくれないくせにー」

「えー、なに、ことはちゃん、ヤキモチやいてくれんだ? かわいいねぇ」

 

 出来上がったオムライスがはじめの前に運ばれたところで、ことはと次の休みに出かける約束をし、店をあとにした。店を出た後ではじめからチャットが送られてくる。今夜もご飯を作って待っているらしい。

 

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 アパートへ向かう路地は今日も獣道のように狭くて暗かった。その細道の前で同行者と別れようと話しているところに、暗がりからぬっと大きな生き物が現れる。

 

「なぁ、だれ、そいつ」

 

 はじめだった。機嫌が悪いのか、はじめはいつもの愛想の良い笑顔など見せず、それどころか初対面の人間を睨みつけ、顎をしゃくるように「そいつ」と指す。そいつ、というのは私の隣に立つ男性のことだ。

 

「え、あ、大学の先輩。遅くなっちゃったから送ってくれたの」

 

 先日ランチをした学科の先輩が他の講義の過去問もくれるといって食事に誘ってきた。あの軟派な先輩だ。軟派ではあるが、成績は優秀で人気のゼミに参加しているという情報があったので、今後の参考になるかと思い食事に行った。無理に飲まされることもなく、過去問に加え、次年度以降の講義の内容、進路とゼミの選び方、我々の大学からのロースクール進学状況、インターンや就活の情報と私の知りたいことの多くを教えてくれた。もちろん食事代も出してくれた。軟派だとは思うが、親切で面倒見の良い部分があることに絆され、夜道は危ないから家まで送る、というどう考えても下心ありげな申し出を無碍にできなかったのが今の状況だ。

 

「どうも。えっと、紹介してくれる?」

「あ、こちら、弟のはじめです」

 

 先輩は戸惑いを見せながらも、いたって冷静に状況を整理しようとする。もちろん初対面の相手を顎で示すようなことも、「そいつ」呼ばわりすることもなく、かといって不躾な人間と直接言葉を交わすのでもなく、両者を知る私をあくまで間に立てる。たった数年の年の違いとはいえ、人生経験の差を感じさせられた。おそらく、育ちが良いのだろう。少し嫌味なほどスマートな先輩の顔をちらりと見る。 

 

「なんだ、弟さんか。はじめまして」

 

 前言撤回だ。わざわざ「なんだ」をつけるあたり、苛立ちが滲み出ている。ワンナイトを狙っていた女の家まであと一歩のところで、その「弟」と鉢合い、「弟」は明らかに自分を敵視して尋常じゃない目つきで睨んでくる、となれば苛立ちもあって当然なのかもしれないが。通りを駆け抜ける自動車のヘッドライトが、先輩の引き攣った笑顔を容赦なく照らした。と、同時に、「弟」の姿も照らし出す。

 

「え、ちょっと、はじめ。あんた怪我してんの」

 

 我々の背後を自動車が通り過ぎ、再び細道の暗がりに身を溶かしたはじめに駆け寄った。暗くて見えていなかったが額が血で濡れている。鼻血を拭った跡がある。頬には痣がある。学生服も汚れている。服の下にも多くの怪我をおっているに違いない。考える前にはじめの手をとった。

 

「送ってくださってありがとうございました、私たちここで。ほら、早く帰るよ」

 

 先輩の返事を待たずに暗い路地へはじめを引っ張りこんだ。はじめは言葉を発さずに、私に手を引かれるままアパートへ続く暗闇を進む。どこか痛むのかゆっくりとしか進まない男を振り返り、手ではなく腕をとりなおし、アパートの階段をのぼる。二人分の重量に古い鉄骨階段がギィギィと鳴いた。

 

「またケンカか。するなとは言わないけど、なんで毎回こんな血みどろになるかねぇ。ほら見せてごらん」

「……大したことないって」

 

 畳間を汚すと思ったのか、単に元気がないのか、はじめは玄関に座り込んだままだ。照明のつかない薄暗いキッチンで、大きな生き物がうずくまっている様子は異様だった。とにかく血や汚れを拭うべく、部屋干ししていた洗濯物からタオルをとってきて水道水を含ませた。まだうっすらと暴力の余韻をまとう男に近づく。

 

「ねぇ、はじめ。あんたは町のみんなを守るっていうけど、そのみんなにあんた自身は入ってる?」

 

 誰かを殴ってきたのだろう指の関節部分の皮膚が擦り切れている手をとる。昔は同じような大きさだったが、今では私の手がすっぽりと隠れるように大きい。野菜作りで土が挟まっているはずの爪がいくつか割れている。施設の子供たちの頭を撫でるはずの手のひらには泥と血がこびりついている。

 

「私、はじめのことも守りたいって思ってるよ。いつでも先頭に立って、みんなを率いて、自分が傷つくのなんかお構いなしに町を守ろうとしているあんたのこと。それができるのは私くらいじゃないかってうぬぼれてもいるの。だからこの道を選んだんだよ。……手当ぐらいさせてよ」

 

 血がついている額に傷がないか確認するため、乱れた髪をかきあげる。ほこりにまみれた髪がキシキシと指に絡まった。

 

「ほら、顔、拭くから。こっち向いて……」

 

 膝をついてタオルを顔に近づけたとき、はじめはその手をとった。私の背後の畳間の照明がはじめの目の中で光った。夜闇に目を光らせる獣のようだった。私たちの唇が重なった。

 

「え、なに」

 

 食らいつくようにキスを繰り返すはじめを押し返そうにも力の差がありすぎて抵抗になどならなかった。長い腕は私の腰をからめとり、大きな手は私の頭を覆った。逃げ出そうとして後ずさった拍子に床に倒れ込む。キッチンスペースは板間で、ひんやりとした冷気が私の背を撫でた。と同時に、私を抱え込む腕の熱さが際立つ。

 

「ちょっと、こら」

「わり」

 

 謝りながらはじめはキスを止めなかった。腰に回していた手がうごめきシャツの裾をたくしあげて素肌に触れようとする。足の間に自分の体を割り入れる。押し付けられた下腹部は下着越しに胸をつかむ手よりもずっと熱かった。薄暗い中に光る目の奥に、情欲の炎が揺れていた。

 

「は、はじめっ、あんた、ゴム、持ってるの?」

「え?」

 

 肉食獣が今にも獲物の息の根を止めようとするように女の首に舌を這わせる男へ、口が開放された私は問うた。あけすけな質問に驚いている顔に急いで持っていた濡れタオルを押し付ける。

 

「ないならできないよね」

「……いや、うん、そもそも、その、わるかった」

「うん」

 

 我にかえった様子のはじめは体を起こし、手を引いて私の体も起こした。再び玄関先にうずくまって、濡れタオルでゴシゴシと顔を擦る。部屋の奥へ絆創膏を取りに行って戻ってくると、タオルの中に顔を隠しながらうなだれていた。

 

「……それ、どうすんの」

「……」

「手で、しようか?」

「は!? え、手!?」

 

 ガバッとあげた顔にはうっすらタオルの毛のあとがついている。顔についていた血はほとんど他人のものだったようで、頬の痣以外はきれいなものだった。そのきれいな顔が見る見る赤くなっていくのが暗がりでも分かった。

 

「いや、トイレで一人でしてきてくれてもいいんだけど。その後、あんたがどんな顔で出てきてもいたたまれないっていうか」

「いやいや、さすがにそんなことさせられないって。……マジで?」

「どっちだよ」

 

 命の危険を感じると子孫を残さなければという本能が強く働く。獣でも人間でも。命の危険ほどのものだったかはしらないが、今日も町のために命を削ってきたこの男が一時的に性的衝動に駆られていたとしてなんら不思議はない。そこへ無防備な女が触れてきたのだから、食らいついた。それだけの話だ。とすれば、この一幕の責任は私にも少しばかりあるのかもしれない。謎の罪悪感が湧いていた。それゆえの申し出だった。

 

 だとしてももう少しマシな責任の取り方があったのではないかと後悔しながら、「恥ずかしいから」と電気を消された畳間で男の性器を握りしめている。もはや普通に致してしまった方がまだ自然だったかもしれない。自分の手で悶えている「弟」の顔を見れず、かといって手元を注視するのもはばかられ、カーテンの模様を眺めていた。カーテン越しに街灯のあかりが滲んでいた。

 

「オレも触っていい?」

「ダメ」

「触りたい」

「調子乗るな」

 

 壁に寄りかかっていた体を起こしてこちらに近づこうとするはじめを制するため、手に力を込めて素早く動かした。

 

-

 

「あんた、親いないんだっけ」

「はぁ、まぁ」

「いいな〜」

「そんなこと言う人、珍しいですね。かわいそうとかは言われますけど」

「クソが親だとさ、いない方がマシなわけ」

 

 待機席で隣合った先輩に話しかけられた。大学の先輩ではなくバイトの先輩だ。客に来店を促すチャットを打ちながら話を続けるなんて器用なものだ。今日のキャバクラは空いていて、ほとんど話したことのないこの先輩との会話は続いた。

 

「うち、親の借金払うために16から夜職やってんだけどさ、親がいなけりゃ稼いだ分であんたみたいに大学とか行けたのかなって」

「親がいたらいたで大変なんですね」

「タメ語でいいよ。同い年」

 

 キャバクラでのバイトはもう止めていたにもかかわらず今日またドレスを着ているのは、どうしてもキャストが足りないので少しでも良いから来てほしい、バイト代は色を付ける、とマネージャーから直々に電話が入ったからだった。主にバイト代につられてここに来ているわけだが、店内で風邪が流行り人気キャストが多く欠席しているからか閑散としている店内で自分の存在意義をはかりかねていた。

 

「君、苦学生なんだって? 社長にお願いすればマンションくらい買ってもらえるよ」

 

 やっと呼ばれて卓につく。社長と呼ばれる実業家らしい男性と、その太鼓持ちのような男性の二人組だった。強い香水の匂いをさせながら、電子タバコの煙を吐いている社長の横で、太鼓持ちがベラベラと喋るのが彼らのスタイルのようだった。

 

「え〜、儲かってるんですね」

「まぁ、最近の円安が響いたけどそれなりにね」

 

 自分がいかに金を稼いでいる優秀な人間であるかを具体的に聞いて欲しそうな様子だったが、今後につなげる必要もないので特段掘り下げずにぞんざいな相槌を打つ。

 

「株価もこの頃変動が大きいですしね」

「経済に興味があるの? 経営者志望だったり?」

「いえいえ、ニュースで知ってるだけです」

「ふぅん」

 

 品定めをするように社長が目を細める。太鼓持ちが末席でニヤニヤとこちらを見る。「よかったな、気に入られそうだぞ」とでも言いたげな表情に苛立つが、もはや作り笑顔など慣れたものなのでとりあえずニコニコしている。

 

「今度、起業家集めた交流会があるから来る?」

 

 これオレの名刺。と、無駄に分厚く、無駄に簡素な名刺を差し出される。たびたび自分のマンションで起業家仲間を呼んだホームパーティーを開いており、近々また開催する予定があるとのことだった。なんとかという勢いのあるベンチャーのなんとかという社長はオレが面倒見たんだ、と説明をしてくれるが一つも興味が湧かなかった。

 

「私のような未熟者が行っても社長の顔に泥を塗っちゃうだけなので、もう少し勉強した頃にまた誘ってもらいたいです」

「誰でも最初は未熟だよ。気にしなくていいのに。ま、謙虚なところが君の魅力なのかな。そうだ、まずは少人数で勉強会開こうか。オレの事務所で時々やってるんだよ」

 

 話しながら社長がポケットに手を入れる。おそらくスマホを取り出して連絡先を交換しようと言い出すのだろう。面倒臭いな、と思っていたところに、社長の反対側に座る先輩キャストが身を乗り出して声をかけた。

 

「社長〜、それ私が行きたい〜」

 

 待機席で一緒だった先輩だ。この社長は先輩の客らしく、先ほど連絡をして来てくれることになったそうだ。社長名義のキープボトルからどんどんと水割りを作っていた彼女は相槌に徹していたが、やっと手があいて話に混ざり始めた。

 

「お前、何聞いてたんだよ。勉強だぞ?」

 

 そんな柄じゃないだろ、と社長は先輩の肩をこづく。砕けた口調で言葉を交わす二人は親密そうだった。

 

「うち、結構勉強好きだよ。九九覚えるのクラスで早い方だったし」

「おー、じゃあ7の段いってみ」

「しちいちがしち、しちにじゅうに……」

「もうちげぇじゃねぇか」

 

 ゲラゲラと大きな口を開けて社長が笑う。「やだ〜」と恥ずかしがるように社長の腕を叩く先輩はどこか得意げに目を細めている。先輩は、社長がちょっと知恵のある女より、ちょっと間抜けな女の方が好きということを熟知しているのだろう。少しの向上心と真面目さのあるタイプは自己実現のために危険に気づきながらも罠に掛かることがあるから声をかけただけで、社長はやはりこの先輩とのたわいのない時間を楽しむために店に来たのだとよく分かった。太鼓持ちも自分が馬鹿のふりをしなくてすむので肩の力を抜いて場を楽しんでいる。一気に蚊帳の外となった私は先輩に代わって水割りを作ろうとボトルに手を伸ばす。

 

「あの社長と仲良いんだね」

 

 ラストまで終わってロッカールームで先輩に話しかける。ドレスのチャックを下ろしていた先輩が私の言葉を聞いて吹き出した。

 

「あは、なにそれ。そういう商売でしょうが」

「あ……、うん」

 

 あくまで客とキャストの関係を個人的な親密さに勘違いする自分の未熟さに恥じ入りながら、借り物のドレスを脱いだ。慣れないヒールに靴擦れした足を毛玉だらけの靴下に入れようとフラフラしている横で、先輩はブランドロゴが散りばめられた丈の短いワンピースへさっと着替える。

 

「あの社長、自分が囲ってる女の名義で別会社作って、マンション買って住ませてんの。それが節税になるんだって」

 

 アフター、来る? という問いに首を振る。彼女は行く以外に選択肢がない。自分のために来てくれる客を次につなげるために、そういった客から多く稼いで親の借金を返すために、いつかマンションを買ってもらって親のいない場所に住むために。親がいないこと、血のつながった家族がいないことを不幸なものだとばかり思っていたこともあるが、言い換えれば私はどこまでも自由なのだった。アフターに行くかどうかを選ぶ自由がある、キャバクラのバイトを続けるかどうかを選ぶ自由も。

 

-

 アパートの部屋の明かりがついているのを見てギクリとした。引き返そうにもこの部屋以外に行くところのない私は重い足と気持ちを運ぶ。部屋に入ると見慣れた姿が畳の上に座っていた。

 

「キャバクラはやめたって言ってなかったか」

 

 私の帰らない部屋で深夜まで待っていた様子のはじめは、ただいま、や、おかえり、の前に、怒気のこもった言葉を投げかけた。

 

「最近、試験勉強したいからってオレのこと避けてたの、こういうことだったのか」

 

 はじめに会うのは数日ぶりだった。先日のこの部屋での出来事が気まずく感じ、ちょうど大学の試験期間が始まる頃だったのもあって勉強を理由にはじめを遠ざけていた。試験が終わったことを言っていなかったのは、このまま会わずに自然と距離ができれば良いと思っていたからだ。会わないでいれば、この男と私はまた「家族」の距離に戻れるのではないかと。

 

「ちがう、勉強してたのは本当で、今日は急遽ヘルプで」

 

 畳間の手前で立ったまましどろもどろに弁解らしきを述べている私にはじめが近づく。畳間の照明が遮られ、はじめの大きな影に私の体はすっぽりと覆われる。

 

「こんなタバコの匂いさせてんなよな……」

 

 今度は影だけでなく体全体が私を覆う。私の髪に顔を埋めたはじめが呻いた。社長の吸っていた電子タバコの匂いが染み付いた髪にはじめの指が絡む。

 

「……イヤなんだよ。お前が他のヤツに触られんのも、そういう目で見られんのも」

 

 その言葉を口にするかどうか戸惑っているように、はじめの声は震えている。声だけでない、髪に絡めた指も、背を抱く腕も、背後の照明が降り注いで光る肩も。かわいそうに。私がいけなかった。この子のことをもてあそぶような真似をして。大きな体で小さく震える「弟」の頭を撫でる。

 

「はじめはお姉ちゃん子だなぁ」

 

 ガバッと体が離れる。私の両腕を強くつかんで、はじめは語気荒く言った。

 

「きょうだいで、あんなことしないだろ!」

 

 真夜中だよ、静かに。はじめの手をそっとはずす。うなだれた姿を敷居に残して水を飲みに行く。はじめが作りおいていた麦茶はとっくになくなって、最近は水道水をそのまま飲んでいた。生ぬるい液体が喉を滑り降りる。

 

「彼氏にもしてやったのか」

 

 目的語が省かれた問いを、私は理解する。この男が何を聞きたいのか。きっと、言葉さえなくても、その眼差しだけで分かる。天井から吊り下げられた古いペンダント照明が隙間風で揺れている。照明がうつりこんだはじめの瞳も揺れている。おそらく、私の瞳も。

 

「してないよ」

 

 はじめはぐっと口を結ぶ。何も言わない。鼻からふっと息を吐く。少し肩を下げる。私ははじめのその様子から目を逸らして続けた。

 

「お互い恋人ってのに興味があるってなって付き合ったのはいいんだけど、そんなに好きじゃなくてすぐ別れたの。だからそういうのは何もしてない。あ、キスはしたか」

 

 サッと衣擦れの音がする。はじめがうなだれていた顔を突然あげたのだろう。しかし見えないフリをする。はじめが持ってきたと思われるタッパーを手に取ってレンジへ持っていく。

 

「高校の時、彼氏いたって聞いてない」

「言ってないもの」

 

 ミネストローネをすすりながら答える。夜遅くまで勉強に勤しんでいるはずの私のために胃に優しいスープを作って持ってきてくれたらしいはじめはどこか虫の居所が悪そうな様子だ。自分の分は先に食べたと言いながらも同じ量のスープを食べている。夜の深い時間にもかかわらずガツガツと大きな口に具を放り込んでいく様子は若さそのものだった。

 

「ことはは知ってた」

「言ったもの」

「なんで」

「仲間はずれみたいで寂しくなっちゃった?」

「茶化すなよ」

 

 何がそんなに気に入らないのか。あっという間に食べ終わったスープの器を両手で覆ったまま、空の底を見つめるように俯いている。はじめが来るようになって食器が増えた。一つしかなかったマグカップは二つになり、皿も椀も二枚ずつになった。施設や商店街の人からもらってきたという食器たちは色も形もバラバラである。バラバラの寄せ集め。施設での生活を思い出す。目の前の駄々をこねているようなこの男の子も一緒に育った「家族」を思い出す。バラバラの場所で生まれ、寄せ集められ、ひとときの食卓を囲む。「家族」だ。思い出している、というよりも、言い聞かせていた。私たちはバラバラではあるが、寄せ集めではあるが、「家族」なのだから、「家族」だからこそ、言えないこともあれば干渉しなくていいこともある。きょうだいの恋愛事情など腹の足しにもならない。本当の「家族」を知らない私たちは、手探りでも真似事でも「家族」の形を保つべきだ。それが孤独な我々を受け入れてくれたあの「家」に対する忠誠の示し方だと、そう信じようとする。

 

「ごめんごめん。数ヶ月だけで終わっちゃったから“家族”に話すほどのものじゃなかったの、本当に」

「“家族”、ね」

 

 「家族」を人一倍大事にしているはずのはじめは不機嫌そうに言った。器を見つめていた視線をあげる。こちらを見る。あの夜、視覚を排して触れ合った闇の中で、この熱を感じていた。気づかないふりをし続けた。気づかないふりをし続けている。視線というものが温度を持っていること、その温度が意味を持っていること。気づかないふりをして私は口を開く。

 

「はじめこそ、いい人いるんだったら早く応えてあげたらいいんじゃないの、その、ツバキさん? って子」

 

 ポトスでことはが話していた、おそらくはじめのことを好いている子の名前を出す。この状況でその子の名前を使うなど、その子にもはじめにも失礼極まりないのは分かっていた。「ちっ」と舌打ちが聞こえた。正解だ。そうされるべき発言だった。私は無責任で無遠慮な人間だ。震えながら大事そうに抱きしめる必要もなければ、熱のこもった視線を投げかける必要もない。自分を悪者にすることで自分を守るような汚いところのある人間なのだから。

 

「なぁに、機嫌悪いなぁ。眠いんでしょ。ちょっと寝たら?」

 

 テーブル越しにはじめの頬をつまむ。出会った頃は肉が豊かで柔らかかった頬はひきしまり、思春期の少年らしく少し脂が浮いている。頬をつまむ手を煙たがるように振り払って、はじめは私を睨んだ。今度の視線に先ほどまでの熱はない。やっと見つめ返せる。不服そうに眉を寄せ、口を曲げる顔を、大らかな気持ちで眺めることができる。

 

「子供扱いするなよ」

「弟扱いしてるの」

「……」

 

 はい、枕。この家に一つしかない枕を差し出す。はじめは素直に横になった。テーブルの上の空になった器を回収してキッチンに持っていく。薄暗いキッチンで洗う。横目に見えるはじめは動かない。寝てしまったのかもしれない。もう時刻は朝に近づいていた。洗い物を終え、畳間の電気を消す。シャワーを浴びにユニットバスへ向かう。着替えを持とうと押入れをあさるも暗くて時間のかかっている私の背中に、ポツリと言葉が投げつけられた。

 

「一緒に町を守るって言われて嬉しかった。オレにできないことで町のために頑張ってるお前を尊敬してる、支えたいと思ってる」

 

 振り向くとはじめは仰向けになって片腕で目を覆っていた。寝ていなかったようだ。

 

「うん、私も」

 

 暗くて狭い部屋で、手を伸ばせばすぐに触れあえる距離で、夜を越し、朝を迎えようとしている。町の奥、光の当たらない細道の先の、小さな穴蔵で、身を寄せ合って、この世界をひっくり返してやるという野望を持ち寄って。

 

「私たちは同胞で同志」

 

 手に手をとって殴りにいく者同士。あらゆる抑圧を。弱者とみれば踏み潰そうとする傲慢を。こういうものだと抵抗を忘れた諦念を。力を蓄え、私たちのスミカを守ろう。私たちの生活を守ろう。私たちの「家族」を守ろう。思いは同じはず。それ以上でも以下でもないはず。それでいいはずではないのか。

 

「私たちは背中を預けられる仲間。信頼してるし頼りにしてる。それと同じくらい誰からも頼りにされるはじめを守ってあげなきゃと思ってる。大事な家族、大事な弟だから」

 

 お昼寝をする施設の小さい子たちにしてきたように、寝転ぶ「弟」の頭を撫でる。この人間の抱える悲しみを象徴する白い髪に触れる。ここは安全だからお眠り。祈りをこめて。その手を大きな手がつかんだ。

 

「弟だから?」

 

 手をつかんだまま、はじめは体を起こした。カーテン越しの街灯のあかりに、顔の半分を白銀に染めている。髪も頬も内側から発光するように白い。

 

「弟じゃなかったら、家族じゃなかったら、オレのことはどうでもよかったのかよ。こうやって家に入れたり、優しくしたり、あんなっ、あんなことしたり……、しなかったっていうのかよ」

「それは……」

 

 私の手首を握る力は強かった。暗がりでも表情がわかるほどに顔が近づく。相手の目の中に自分が見える。その姿は水分を得て震えている。

 

「弟じゃなかったら、抱きしめんのも、キスすんのも、拒んでたのかよ……!」

 

 つかまれた手が強くひかれた。畳に倒れる。その上に大きな影がさす。はじめが私の上に馬乗りになっている。

 

「……買ってきた」

 

 何やらズボンのポケットを探って、はじめは小さな箱を取り出した。紙タバコの箱くらいの大きさだ。

 

「え、これ」

「ゴムないならできないっつったから。あったらできるってことだろ」

 

 はじめが取り出したのは避妊具の箱だった。先日も同じような体勢になったが、その際に慌てて話を逸らそうとそんなことを口走った私の言葉を自分なりに解釈した結果のようだった。

 

「えぇ、そんな極端な……。どこで買ったのさ。先生が見かけたら心臓止まっちゃうよ」

「町で買うと噂になるかと思って、電車乗って隣町まで行って買ってきた」

「なにそれ、ちょっと面白いが勝つ」

「わ、笑うなよ」

「ごめんごめん」

 

 はじめが私を気遣って体重をかけないように上に乗っていたのをいいことに、体を滑らせて抜け出る。上体を起こして座る。互いに正座して向かい合う。

 

「そういうことに興味のある年頃に、刺激的なことをしすぎたね。私のせいだ、ごめん」

 

 頭を下げる。私が悪かった。年上ぶっていらないことをした。そのせいで、勘違いさせてしまった。親愛を性愛と取り違えさせてしまった。一度しかない大事な青春時代に水を差すようなことをしてしまった。なぜあの時、抱き寄せる腕を強く拒まなかったのか。なぜあんなことをしてしまったのか。自分でももはやよく分からなかった。

 

「でも手近で好奇心を満たしても仕方ないよ。こういうことは本当に好きな人とするべき」

 

 ね? 自分に言い聞かせていた。分別のあるふりをしなければ、また、あの夜のように拒みきれないと分かっていたから。同時に、なぜ拒めないか、分からないふりをしていた。何もかも分かっているような顔をして、何も分からないと目を逸らして、苦い顔のままこちらを睨んでいるはじめによそよそしく笑いかける。

 

「だから! 好きだって言ってんだろ!」

 

 はじめは大きな声を出した。朝日がのぼる前の白んできた部屋で空気が震える。窓の外で鳴き始めていた鳥が驚いて飛び立った。

 

「え」

 

 遠ざかる鳥の羽ばたきを聞きながら一音発する。それ以外何も言わない私の顔を、はじめは恨めしそうに睨んだ。ほのぼのと明るさを得ていく部屋の中で、影になっていた半分の顔をお互いにさらしはじめる。

 

「なんだよその顔」

「いや、初耳ですが」

 

 思わず敬語で答える。

 

「は? いや、そうか。言ってなかったか」

 

 はじめは正座していた足を崩して、後ろに手をつき天井をあおいで「あー」と長く声を出した。そして、あぐらをかいて座り直す。

 

「キスさせてくれたからじゃない、抜いてくれたからじゃない、その前から、好きだ。必死に勉強して自分の努力で大学って道を進んでく姿がまぶしかった。家からいなくなって、今頃どうしてるかって毎日考えてた。ここに来るようになって、オレの飯食ってうまいって言ってくれるのが嬉しかった。知らない男と歩いてるとこ見てムカついた。キャバクラなんかやめて欲しいと思った。心配して怪我の手当てをしてくれるお前を抱きしめていいのかって、悩んだ。そんなことしたら家族ですらいられなくなるかもしれないって、怖かった。なのに、いざ、手を伸ばしたら、お前は拒まなかった。……もう、どうしようもないんだよ」

 

 うなだれながら、恐る恐るといったようにはじめは手を伸ばした。膝に置いていた私の左手にはじめの右手がそっと重ねられる。握るのでもなく、ただ上に置かれたその手はしっとりと汗ばんでいる。

 

「オレ、いつまで弟してたらいいんだ?」

「ごめん、ごめんね」

 

 何に対して謝っているのか自分でも分からないまま「ごめん」を繰り返して、はじめの右手に自分の右手を重ねた。右手の下ではじめの手が私の左手をつかんだ。私の左手も応える。

 

「謝るなよ」

「うん、うん」

 

 大きな体を弛緩させてうなだれている姿がかわいそうで、かわいくて、抱きしめたくなる。それは家族だからなのか。仲間だからなのか。それは親愛なのか。性愛なのか。それは恋なのか、欲なのか。名前をつけなければ抱えてはいけないものなのか。

 

「今はまだ家族で、きょうだいでいよう」

「……」

 

 逃すまいとするかのように私の右手にさらにはじめの左手が重なる。二人で両手を握り合って、その手を見つめる。手の中でなにか大事なものを守っているかのように。

 

「私も、はじめのことが好きだよ」

 

 祖父のように私がしていることを褒めてくれる、祖母のように私のしたいことを応援してくれる、父のように私のしたことを怒ってくれる、母のように私のことを心配してくれる、兄のように私のことをからかってくれる、姉のように私とたわいもない話をしてくれる、妹のように私のことを慕ってくれる、弟のように私を信用して頼ってくれる。唯一無二の人。好きだ。当たり前だ。本当の家族かどうか、贋物のきょうだいかどうか、そんな能書きはもはや無意味なのかもしれない。

 

「好きだけど、でも、はじめと同じ好きかまだ分からない。家族の好きとも違うと思う。じゃなきゃキスされて嫌だって思っただろうし。だから、その、もう少し、待って欲しい。今は、勉強もしたいし、進学っていう目標もあるから」

 

 言い終わって、そっと顔を上げると、はじめは朝の光に頬を輝かせていた。

 

「……わかった」

「今まで通りってわけにいかないなら、しばらく会うのはやめたほうがいいかなとは思うけど……」

「今まで通りにできるなら会いにきて良いんだな」

「う、うん」

「良かった」

 

 はじめは腰を折って握り合った手に顔を埋めた。熱い息が膝に当たってくすぐったかった。同じ鳥か別の鳥か、再び鳴き声が聞こえる。隣の空き家で放置され生い茂る庭木をすみかにしている鳥たちはいつも朝早くから何事かを言い合っている。たまたま行きあった個体同士でコミュニケーションをとり、助け合い、そうしてまた一日を過ごすのだろう。

 

「もう少し待ってって言うけどよ、その「もう少し」って、いつまでだ?」

「……はじめが、高校卒業するまで?」

「けっこうすぐだな。それ答え出てんじゃないか?」

「う、うるさいな! 一応、世間的には高校生といかがわしいことしちゃいけないんだよ!」

「手コキはいいのかよ」

「あれ、完全に痴女だったよね、恥ずかしくて消えたい……」

「夢みたいだったな、好きなヤツがオレの−−」

「だまれ」

 

 朝ごはんを買いにいくため部屋を出た。家族と、きょうだいと、同志と手を取り合って。いや、この関係に名前など不要だ。私たちは私たちにしか構築できない役割を与え合う。私たちにしか通れないような狭い道を拓き、その先の結果の良し悪しさえも私たちだけで決める。

 

 アパート前の細道は相変わらず暗くて狭い。獣しか通らないような細道の出口で朝日がのぼっている。眩しさに徹夜のまぶたが痙攣する。新しい朝が来た。希望の朝かどうかは分からない。今日もまた厳しい現実かもしれない。どんな一日でも血肉にしてやる。私たちは明け方の町を睨みつける。私たちは穴蔵に住む二匹の獣。

 

-

 

♪椎名林檎と宮本浩次「獣ゆく細道」


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