その日は、朝から妙に騒がしかった。
「お兄ちゃん!修行しようよ!
元気よく声をかけてきたのは、幼い孫悟飯だった。
未来悟飯は、手にしていた水の入ったコップを置く。
「修行?」
「うん! お兄ちゃんの動きをもっと見てみたいんだ!」
「僕でいいのか?」
「お兄ちゃんだからいいんだよ!」
迷いのない返事だった。
未来悟飯は、少しだけ目を伏せる。
この子は、どうしてこんなにも真っ直ぐなのだろう。
自分に向けられる好意を疑わない。
自分が強いと言われれば素直に喜び、教えてもらえることを楽しみにしている。
そこには、未来への不安も、誰かを失う恐怖もない。
「……分かった。少しだけだぞ」
「やった!」
幼い悟飯が飛び跳ねる。
その姿を見て、未来悟飯は小さく笑った。
今度こそ、この笑顔を守りたい。
そう思った。
*
「いくよ!」
幼い悟飯が踏み込んできた。
未来悟飯は、その攻撃を軽く受け流す。
「力任せになっている。相手の動きをよく見るんだ」
「うん!」
「もう一度」
何度も攻撃を繰り返す。
幼い悟飯は転んでも、すぐに立ち上がった。
「もう一回!」
「焦らなくていい。呼吸を整えてからだ」
「でも、早く強くなりたいんだ!」
未来悟飯の動きが止まった。
「……どうして?」
「え?」
「どうして、そんなに強くなりたいんだ?」
幼い悟飯は少し考えた。
「お父さんやピッコロさんみたいに強くなりたいから!」
「それだけか?」
「うん。それに……」
幼い悟飯は、少し照れくさそうに笑った。
「みんなを守れるようになりたいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、未来悟飯の胸に何かが突き刺さった。
みんなを守りたい。
その願いは、自分も同じだった。
幼い頃から、ずっと。
そのために修行をして、そのために戦ってきた。
けれど。
「……そうか」
未来悟飯は視線を逸らした。
「お兄ちゃん?」
「いや。いい目標だと思う」
「本当?」
「ああ」
未来悟飯は、もう一度構えた。
「なら、もっと強くならないとな」
「うん!」
幼い悟飯は嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見ているのが、少しだけ苦しかった。
*
修行を終えたあと、幼い悟飯はピッコロのところへ走っていった。
「ピッコロさーん! 見ててくれた?」
「ああ。だが、まだまだだな」
「ええっ!」
「調子に乗るな。基礎ができていない」
「そんなあ……」
いつものやり取り。
未来悟飯は、少し離れたところからそれを眺めていた。
ピッコロが幼い悟飯の頭に手を置く。
「だが、悪くはなかった」
「本当!?」
「一度褒められたくらいで騒ぐな」
「えへへ……」
その光景に、未来悟飯は目を細めた。
懐かしい。
懐かしくて、どうしようもなく苦しい。
自分にも、あんな時間があった。
ピッコロに修行をつけてもらい、叱られ、褒められた。
父と過ごし、仲間たちと笑った。
決して、最初から何もなかったわけではない。
自分にも確かに、幸せな時間があった。
それなのに。
「……何を見ている」
声をかけられ、未来悟飯は顔を上げた。
ピッコロがこちらを見ていた。
「いえ、何でもありません」
「またそれか」
「すみません」
「謝るなと言ったはずだ」
ピッコロは幼い悟飯に向き直った。
「悟飯。少し休んでいろ」
「うん!」
幼い悟飯が離れていく。
その背中を見送ったあと、ピッコロは未来悟飯に向き直った。
「お前も来い」
「……はい」
*
「お前は、あいつを見るときに妙な顔をする」
人のいない場所まで移動すると、ピッコロはそう切り出した。
「妙な顔、ですか」
「ああ。嬉しそうに見えることもあれば、苦しそうに見えることもある」
未来悟飯は答えなかった。
「何かあるのだろう。あいつとお前の間に」
「……同じ人間です」
「それは分かっている」
「俺は、あいつの未来を知っています」
ピッコロの目が細くなる。
「未来?」
「……いえ」
未来悟飯は、そこで口を閉ざした。
まだ言えない。
自分がどんな世界から来たのか。
この世界で何が起きるのか。
話すべきなのかどうかさえ、決められずにいた。
けれど、ひとつだけ。
もう隠しきれない感情があった。
「俺は、あいつが羨ましいんです」
ピッコロは黙っていた。
「父さんがいて、あなたがいて、クリリンさんたちがいて。これから先も、きっとたくさんの人と出会う」
言葉が止まらない。
「それなのに、あいつは何も知らない。自分がどれだけ恵まれているのかも、どれだけ幸せなのかも」
「悟飯」
「分かっているんです。あいつは何も悪くない。あいつに嫉妬するなんて、おかしいって」
拳を握る。
「でも、どうしても思ってしまうんです」
声が震えた。
「どうして、お前には全部あるんだって」
ピッコロは何も言わなかった。
未来悟飯は俯いたまま、続けた。
「俺だって、父さんともっと一緒にいたかった。あなたにもっと修行をつけてもらいたかった。クリリンさんたちと、くだらない話をしていたかった」
ひとつひとつ、言葉にする。
「もっと普通に暮らしたかった」
その言葉は、ずっと胸の奥に閉じ込めていたものだった。
「でも、そんなことを願う余裕もなかった。戦わなければ、誰かが死ぬ。俺が戦わなければ、誰も守れない」
未来悟飯の声が掠れる。
「だから戦いました。何度も。何度でも」
そして。
「それでも、守れなかった」
沈黙。
風が吹き抜ける。
「……俺は、あいつが羨ましい」
未来悟飯は、ようやく顔を上げた。
「何も失っていないあいつが。これから先、何だって選べるあいつが。俺が欲しかった未来を、当たり前のように持っているあいつが」
目の奥が熱くなる。
「そんなことを考える自分が、許せないんです」
ピッコロはしばらく未来悟飯を見つめていた。
やがて、口を開く。
「……そうか」
それだけだった。
否定も、慰めもない。
ただ、受け止めるような声だった。
「お前は、ずいぶん長い間ひとりで戦ってきたんだな」
未来悟飯は息を呑んだ。
「……はい」
「ならば、もう少し自分のことを考えてもいい」
「俺のこと?」
「お前は誰かを守ることばかり考えている。だが、お前自身はどうなんだ」
未来悟飯は答えられなかった。
「お前は何がしたい?」
「……分かりません」
「そうか」
ピッコロは空を見上げた。
「なら、これから考えればいい」
*
その日の夕方。
未来悟飯は、ひとりで庭に座っていた。
自分の気持ちを口にしたことで、少しは楽になると思っていた。
けれど、そう簡単ではなかった。
羨ましい。
悔しい。
悲しい。
そして、何よりも。
自分自身が嫌いだった。
「お兄ちゃん」
顔を上げると、幼い悟飯が立っていた。
「どうした?」
「さっきから元気がないから」
「そう見えるか?」
「うん」
幼い悟飯は隣に座った。
「僕、何か悪いことした?」
「……どうしてそう思うんだ?」
「お兄ちゃん、僕を見ると悲しそうな顔をするから」
未来悟飯は、言葉を失った。
気づかれていた。
自分がどれだけ隠そうとしても、この子には分かっていたのだ。
「そんなことはない」
「本当?」
「ああ」
幼い悟飯は、少しだけ考えるように黙った。
「じゃあ、僕のこと嫌い?」
「そんなわけないだろ!」
思わず強い声が出た。
幼い悟飯が驚いて目を丸くする。
未来悟飯は、すぐに声を落とした。
「……ごめん」
「ううん」
幼い悟飯は首を振った。
「僕、お兄ちゃんのこと好きだよ」
その言葉に、未来悟飯の胸が締めつけられる。
「強くて、優しくて、僕の知らないことをいっぱい知ってる。だから、もっといろいろ教えてほしい」
「……俺は」
「うん?」
「俺は、そんな立派な人間じゃない」
幼い悟飯は不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「守れなかったものがある。助けられなかった人がいる」
「でも、お兄ちゃんは助けようとしたんでしょ?」
未来悟飯は固まった。
「だったら、立派だと思うよ」
「……違う」
「違うの?」
「助けようとしただけじゃ駄目なんだ。実際に守れなければ、意味がない」
幼い悟飯は、困ったように眉を寄せた。
「僕には、よく分からないけど……」
そして、まっすぐに未来悟飯を見た。
「僕は、お兄ちゃんに会えて嬉しいよ」
未来悟飯の喉が詰まった。
「だから、お兄ちゃんも嬉しいって思ってくれたらいいのに」
その言葉に、何も返せなかった。
嬉しい。
もちろん、嬉しい。
父に会えたことも、ピッコロに会えたことも、クリリンたちに会えたことも。
そして、目の前にいる自分自身に会えたことも。
全部、嬉しい。
それなのに、どうして。
「……ごめんな」
未来悟飯は、幼い自分の頭に手を置いた。
「お前は何も悪くない」
「うん?」
「何も悪くないんだ」
幼い悟飯は、よく分からないまま頷いた。
「うん!」
その笑顔を見て、未来悟飯はようやく理解した。
自分が羨んでいたのは、幼い自分そのものではない。
その子が持っている未来だった。
もう二度と戻らない、自分の未来。
けれど。
それを羨むことは、いけないことなのだろうか。
失ったものを惜しむことは。
もう一度、普通の暮らしをしたかったと願うことは。
自分には、許されないことなのだろうか。
*
夜。
未来悟飯は、ピッコロのもとを訪ねた。
「ピッコロさん」
「どうした」
「少し、話を聞いてもらえますか」
ピッコロは頷いた。
未来悟飯は、しばらく言葉を探した。
「俺は……自分を許せないんです」
「何故だ」
「生き残ったからです」
ピッコロの表情が変わった。
「みんながいなくなって、俺だけが生き残った。もっと早く強くなれていれば、もっと上手く戦えていれば、何かが変わったかもしれない」
「……」
「それなのに、俺は生きている。こうして、もう一度みんなに会えている」
未来悟飯は、自分の手を見つめた。
「本当は、嬉しいんです。もう一度会えたことが。みんなが生きていることが」
そして、静かに続けた。
「でも、俺だけが幸せになっていいのか分からない」
ピッコロはすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「お前は、誰かが死んだら、自分も幸せになってはいけないと思うのか」
「……はい」
「それは、死んだ者たちが望んだことか?」
未来悟飯は息を止めた。
「お前の父親はどうだ。クリリンはどうだ。ここにいる仲間たちは、お前が苦しみ続けることを望んでいると思うか?」
「それは……」
「答えろ」
未来悟飯は、唇を噛んだ。
答えは分かっている。
父なら、きっと笑って言うだろう。
そんなこと気にすんな、と。
クリリンなら、きっと困ったように笑ってくれる。
そして、ピッコロなら。
「……望んでいないと思います」
「ならば、なぜ自分を罰し続ける」
未来悟飯は答えられなかった。
自分を罰することでしか、失ったものと向き合えなかったからだ。
自分が苦しみ続ければ、あの日々を忘れずにいられる気がした。
自分が幸せにならなければ、失った人たちを裏切らずに済む気がした。
けれど。
「……俺は、みんなに会いたかった」
初めて、素直に言えた。
「ずっと、会いたかったんです」
声が震える。
「父さんにも、あなたにも、みんなにも。もう一度、会いたかった」
ピッコロは何も言わず、ただ聞いていた。
「でも、会えたら会えたで、苦しくて……。俺は、どうしようもないですね」
「そうだな」
「えっ」
「どうしようもない」
ピッコロは、いつもの調子で言った。
「だから、少しずつどうにかしていくしかないだろう」
未来悟飯は、目を見開いた。
そして。
ほんの少しだけ、笑った。
「……そうですね」
その笑顔は、まだぎこちなかった。
それでも、確かに笑っていた。
ピッコロはそれを見て、何も言わなかった。
*
その夜、未来悟飯は久しぶりに眠ることができた。
失った未来は戻らない。
自分が犯したと思っている失敗も、消えることはない。
それでも。
自分が生き残ったことを、誰かへの裏切りだと思わなくてもいいのかもしれない。
まだ、そう思えるほど強くはない。
けれど、少しずつ。
少しずつでいい。
自分を許すことを、考えてみてもいいのかもしれない。
――そして翌朝。
「悟飯!」
聞き慣れた声が、部屋の外から響いた。
父の声だった。
「ちょっと修行しねえか?」
未来悟飯は、ゆっくりと目を開ける。
その声を聞くのは、何年ぶりだろう。
もう一度、聞きたいと思っていた声。
もう二度と聞けないと思っていた声。
「……はい!」
返事をした声は、昨日より少しだけ明るかった。
まだ、すべてを許せたわけではない。
それでも。
今度は、自分から一歩を踏み出してみようと思った。