父を失い、師を失い、仲間を失い。
それでも孫悟飯は、たった一人で戦い続けていた。
そして、最後の戦いを迎えたはずだった。
だが、次に目を覚ましたとき、彼の目の前には死んだはずの父がいた。
生きている師匠。笑っている仲間たち。
そして、何も失っていない、幼い自分。
守れなかったものが、そこにはすべてあった。
嬉しいはずだった。
幸せなはずだった。
――なのに、どうして。
どうして俺は、あいつを見ていると、こんなにも苦しいんだろう。
これは、未来を失った孫悟飯が、過去の自分と向き合う物語。
空は、今日も灰色だった。
かつては青かったのだと、母は言っていた。
もっとも、孫悟飯はその言葉を信じていないわけではない。ただ、青空というものを最後に見たのがいつだったか、もう思い出せなくなっていた。
見上げれば、崩れかけた高層ビル。
足元には、かつて道路だったもの。
遠くでは黒煙が立ち上り、風に乗って焦げた匂いが運ばれてくる。
人造人間が現れてから、もう何年が経っただろう。
十年か。
十五年か。
正確な年数など、どうでもよかった。
大切なのは、今日も誰かが命を落としたということ。
そして、自分にはそれを止められなかったということだけだった。
「……くそっ」
悟飯は瓦礫に腰を下ろした。
左腕があったはずの場所に、無意識に右手を伸ばす。
当然、そこには何もない。
何度繰り返しても、慣れるものではなかった。
痛みではない。
失ったという事実に、だ。
「……トランクス」
小さく呟く。
最後に見た弟子の顔が、脳裏をよぎった。
あいつは、強くなる。
きっと、自分なんかよりも。
だからこそ、もう少しだけ時間が欲しかった。
もう少しだけ、教えてやりたいことがあった。
戦い方も。
気の扱い方も。
そして何より。
強くなることだけが、人生のすべてではないということを。
「……俺が言えたことじゃないか」
自嘲する。
悟飯は、戦うことが好きではなかった。
子供の頃から、ずっと。
父のように強い相手と戦うことに喜びを感じたことはない。
ピッコロのように、戦士としての誇りを持っていたわけでもない。
ただ、守りたかった。
母を。
仲間を。
そして、今では唯一残された希望であるトランクスを。
それだけだった。
なのに。
「……どうして、こんなに難しいんだろうな」
答える者はいない。
そのときだった。
「おーい、孫悟飯!」
聞き慣れた、軽薄な声。
悟飯はゆっくりと顔を上げた。
崩れたビルの屋上。
そこには、金髪の少年と黒髪の少女が立っていた。
人造人間十七号と十八号。
「また来たのかよ。しつこいねえ」
十七号が肩をすくめる。
「いい加減、諦めたらどうだ?」
「……お前たちこそ」
悟飯は立ち上がった。
「いい加減、人を傷つけるのをやめろ」
「は?」
十八号が呆れたように笑った。
「まだそんなこと言ってんの?」
悟飯は答えなかった。
代わりに、右手を握り締める。
全身から金色の気が噴き上がった。
超サイヤ人。
かつて父が到達した、伝説の戦士。
だが、その力をもってしても、二人には届かない。
それでも。
「……俺は、諦めない」
十七号が笑った。
「そうかい」
そして、戦いが始まった。
◇
どれほどの時間が経ったのか。
悟飯には、もう分からなかった。
呼吸が苦しい。
視界が霞む。
全身が悲鳴を上げている。
それでも、膝をつくわけにはいかなかった。
「しぶといなあ、お前」
十七号の声が聞こえる。
「もう終わりにしようぜ」
悟飯は答えない。
答える余裕がなかった。
ただ、脳裏に浮かんだのは、懐かしい顔ばかりだった。
父さん。
ピッコロさん。
クリリンさん。
ヤムチャさん。
天津飯さん。
餃子さん。
ベジータさん。
みんな、もういない。
自分だけが残った。
自分だけが、生き延びてしまった。
『悟飯』
不意に、声が聞こえた気がした。
低く、厳しい声。
『何をしている。立て』
ピッコロさん。
悟飯は、かすかに笑った。
そんなこと、言われなくても分かっている。
立たなきゃいけない。
戦わなきゃいけない。
だって、自分が最後の戦士なのだから。
『悟飯!』
今度は、別の声。
明るくて、少し呑気で。
何より、温かい声。
『おめえなら、できるさ!』
父さん。
……本当に、そう思う?
俺なら、できる?
俺は。
俺は、もう。
「……疲れたよ」
その言葉は、誰にも届かなかった。
最後に見えたのは、こちらへ向けられた眩い光。
悟飯は目を閉じた。
ごめん、トランクス。
お前に、全部押し付けることになっちまったな。
母さんにも、謝らなきゃ。
約束、守れなかった。
そして。
父さん。
ピッコロさん。
クリリンさん。
みんな。
もし、もう一度だけ会えるなら。
俺は――。
◇
「……飯」
声がした。
「……悟飯」
誰だろう。
聞き覚えがある。
いや。
聞き覚えがあるなんてものじゃない。
「おーい、悟飯!」
悟飯は、目を開けた。
青かった。
空が。
どこまでも、青かった。
「……え?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
雲が流れている。
鳥が飛んでいる。
風が、草の匂いを運んでくる。
こんな景色を、最後に見たのはいつだっただろう。
「おめえ、大丈夫か?」
その声に、悟飯はゆっくりと顔を向けた。
そこにいたのは。
「……とう、さん?」
橙色の道着。
逆立った黒髪。
見慣れた、優しい笑顔。
孫悟空だった。
「ん? どうした?」
悟空は首を傾げる。
「そんな変な顔して」
悟飯は、何も言えなかった。
父がいる。
目の前に。
生きている。
笑っている。
「……父さん?」
「おう」
「……本当に?」
「何がだ?」
「……本当に、父さんなの?」
悟空は困ったように頭を掻いた。
「なんだなんだ。オラはオラだぞ?」
その仕草。
その声。
その笑顔。
全部、覚えている。
忘れるはずがない。
「……父さん」
悟飯の声が震えた。
「父さん……!」
「お、おい!?」
気づけば、悟飯は父に抱きついていた。
右腕だけで。
力いっぱい。
もう二度と離したくないとでもいうように。
「お、おめえ、どうしたんだよ!?」
悟空が慌てる。
悟飯は答えられなかった。
言葉にならなかった。
ただ、何度も繰り返した。
「父さん……父さん……!」
ずっと。
ずっと、会いたかった。
父さんに。
もう一度だけ。
会いたかったんだ。
◇
「……で、つまり」
しばらくして。
悟空は腕を組み、目の前の青年を眺めていた。
「おめえ、悟飯なのか?」
「……うん」
「未来から来た?」
「……そうみたい」
「ふーん」
悟空は頷いた。
「そっか!」
「……え?」
「いやあ、びっくりしたぞ!」
悟飯は目を瞬かせた。
「……それだけ?」
「ん?」
「もっと、こう……驚かないの?」
「驚いてっぞ?」
悟空は笑った。
「でも、トランクスだって未来から来たんだしな。そういうこともあんだろ!」
……ああ。
そうだった。
この人は、こういう人だった。
どんなに信じられないことでも、意外なほど簡単に受け入れてしまう。
それが、孫悟空という男だった。
「それにしても……」
悟空は悟飯の姿を眺める。
「ずいぶんでっかくなったなあ」
「……そりゃ、まあ」
「オラより背、高えんじゃねえか?」
「……そうかもね」
「ははっ! すげえな!」
笑う父を見て、悟飯は胸が苦しくなった。
こんなふうに、何でもないことで笑い合ったのは、いつ以来だろう。
いや。
そもそも、父とこうして話した記憶が、どれほど残っているだろう。
自分の世界では、父は心臓病で亡くなった。
まだ、自分が幼かった頃に。
だから。
こうして大人になった自分を、父に見てもらうことなんて。
本当なら、絶対にありえなかった。
「……父さん」
「ん?」
「……俺、強くなったかな」
悟空は少しだけ目を細めた。
そして、笑った。
「おう。すっげえ強くなったみてえだな」
その言葉に。
悟飯は、俯いた。
強くなった。
確かに、強くなった。
だけど。
誰も守れなかった。
何も守れなかった。
強くなったところで、意味なんてなかった。
「……そっか」
それだけ答えるのが、精一杯だった。
◇
「悟空!」
遠くから声がした。
悟飯は、顔を上げた。
その声を、知っていた。
忘れるはずがなかった。
振り返る。
緑色の肌。
白いマント。
厳しい表情。
「こんなところで何をしている。そろそろ修行に戻るぞ」
ピッコロだった。
「おう、ピッコロ!」
悟空が手を振る。
「ちょうどよかった! 面白えことがあったんだ!」
「面白いこと?」
ピッコロは眉をひそめた。
そして。
悟飯を見た。
「……誰だ、そいつは」
その瞬間。
悟飯は、息をすることさえ忘れた。
ピッコロさん。
そこにいる。
生きている。
あの頃と、何も変わらない姿で。
「……ピッコロ、さん」
「……?」
ピッコロは目を細めた。
「なぜ、俺の名前を知っている?」
「……あ」
悟飯は口を開いた。
けれど、言葉が出てこない。
何を言えばいい?
久しぶり?
会いたかった?
ずっと、謝りたかった?
違う。
そんな言葉じゃ足りない。
だって。
この人は。
自分を守って、命を落とした人なのだから。
「……俺」
声が震える。
「俺は……」
ピッコロは黙っていた。
悟飯は、必死に言葉を探した。
けれど。
「……ごめんなさい」
出てきたのは、それだけだった。
ピッコロが眉を動かす。
「……何?」
「ごめんなさい……ピッコロさん……」
謝りたかった。
ずっと。
あの日から、ずっと。
自分がもっと強ければ。
自分がもっと早く成長していれば。
ピッコロは、死なずに済んだかもしれない。
みんなも。
父さんも。
誰も失わずに済んだかもしれない。
「……俺が、弱かったから」
悟飯は俯いた。
「俺が……もっと、強ければ……!」
「おい」
低い声がした。
悟飯は顔を上げる。
ピッコロが、目の前に立っていた。
「何を謝っているのか知らんが」
その声は、記憶の中と少しも変わらなかった。
「まず、顔を上げろ」
「……え?」
「そんな顔で謝られても、何も分からん」
ピッコロは腕を組んだ。
「事情があるなら話せ。聞いてやる」
悟飯は目を見開いた。
聞いてやる。
その一言が。
どれほど、嬉しかったことか。
「……はい」
悟飯は、小さく頷いた。
「……はい、ピッコロさん」
◇
その後、悟空から事情を聞いたピッコロは、しばらく黙り込んでいた。
「……未来の悟飯、だと?」
「ああ!」
悟空は楽しそうに頷く。
「すげえだろ!?」
「……お前はもう少し事態を深刻に考えろ」
「へへっ」
ピッコロはため息をついた。
そして、改めて悟飯を見る。
「……なるほどな」
その視線が、悟飯の左肩に向けられる。
悟飯は反射的に身を強張らせた。
「……その腕」
「……はい」
「人造人間にやられたのか」
「……そうです」
ピッコロは、それ以上何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ表情を険しくした。
「……そうか」
短い返事。
それだけだった。
なのに。
悟飯には分かった。
この人は、怒っている。
自分を傷つけた人造人間に。
そして、おそらく。
自分を守れなかった、未来の自分自身に。
「……ピッコロさん」
「何だ」
「……俺、ちゃんと戦いました」
なぜ、そんなことを言ったのか。
自分でも分からなかった。
「……最後まで、逃げませんでした」
「……ああ」
「……でも、勝てませんでした」
「……そうか」
「……みんなを、守れませんでした」
ピッコロは黙っていた。
悟飯は、拳を握り締めた。
「……俺、頑張ったんです」
情けない声だった。
まるで、幼い子供のような。
「……本当に、頑張ったんです」
ピッコロは、ゆっくりと目を閉じた。
そして。
「……ああ」
静かに答えた。
「分かっている」
たった、それだけ。
たった、それだけなのに。
悟飯は、もう顔を上げていられなかった。
◇
しばらくして。
悟空は何かを思い出したように手を叩いた。
「あ、そうだ!」
「……何だ、悟空」
「悟飯にも会わせてやろうぜ!」
悟飯は、顔を上げた。
「……悟飯?」
「おう! こっちの悟飯だ!」
そうだった。
この世界には、もう一人の自分がいる。
まだ幼くて。
まだ、何も失っていない自分が。
「今は修行してるはずだぞ!」
悟空は笑った。
「きっとびっくりすっぞ!」
未来悟飯は、曖昧に笑った。
「……そうだね」
会ってみたい。
そう思った。
自分とは違う人生を歩んでいる、自分自身に。
どんなふうに育ったのだろう。
どんな顔で笑うのだろう。
どんな夢を持っているのだろう。
きっと。
幸せなのだろう。
そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。
……はずだった。
◇
「父さーん!」
遠くから声がした。
悟飯は振り返った。
小さな少年が、こちらに向かって走ってくる。
紫色の道着。
黒い髪。
まだ幼さの残る顔。
かつての、自分だった。
「おう、悟飯!」
悟空が手を振る。
「ちょうどよかった! おめえに会わせてえやつがいるんだ!」
「え?」
少年は足を止めた。
そして、未来悟飯を見上げる。
「……誰ですか?」
その声。
その顔。
その瞳。
全部、自分のものだった。
けれど。
決定的に違うものがあった。
少年の瞳には、希望があった。
何も疑わずに未来を信じられる、まっすぐな光があった。
「へへっ、驚くなよ!」
悟空は嬉しそうに笑う。
「こいつ、未来のおめえなんだ!」
「……ええっ!?」
少年が目を丸くする。
「ぼ、僕!?」
「おう!」
「す、すごい……!」
少年は未来悟飯に駆け寄った。
「本当に、未来の僕なんですか!?」
「……ああ」
未来悟飯は、かすかに笑った。
「そうだよ」
「わあ……!」
少年は目を輝かせる。
「すごいなあ……!」
その無邪気な反応に、未来悟飯も少しだけ頬を緩めた。
……ああ。
俺も、こんな頃があったんだな。
そう思った。
けれど。
「ねえ、未来の僕!」
「……何だい?」
「僕、大人になったら、ちゃんと学者になれてますか?」
その瞬間。
未来悟飯の笑顔が、止まった。
学者。
そうだった。
自分は、学者になりたかった。
母に言われたからだけではない。
本当に、勉強が好きだった。
知らないことを知るのが楽しかった。
いつか、大きな研究室で。
たくさんの本に囲まれて。
平和な毎日を過ごすのが、夢だった。
けれど。
そんな未来は、来なかった。
「……あ」
少年が、不思議そうに首を傾げる。
「……未来の僕?」
未来悟飯は、口を開いた。
何かを言おうとした。
大丈夫だよ。
きっとなれるよ。
そう言えばよかった。
けれど。
「……ごめん」
出てきたのは、そんな言葉だった。
「……え?」
「……俺は、なれなかった」
少年は、目を瞬かせた。
「……そう、なんですか」
「……ああ」
しばらく、沈黙が流れた。
やがて少年は、にこりと笑った。
「でも、きっと大丈夫ですよ!」
「……え?」
「だって、まだこれからですから!」
少年は、当たり前のように言った。
「僕、頑張ります!」
未来悟飯は、何も答えられなかった。
まだこれから。
その言葉が、胸に刺さった。
そうだ。
この子には、未来がある。
学者になれるかもしれない。
父と一緒に暮らせるかもしれない。
ピッコロさんと修行を続けられるかもしれない。
クリリンさんと笑い合えるかもしれない。
母さんを、悲しませずに済むかもしれない。
何もかも。
この子には、可能性がある。
自分には、もうないものが。
「……そっか」
未来悟飯は、笑った。
笑おうとした。
「……頑張れよ」
「はい!」
少年は、元気よく頷いた。
その笑顔は。
あまりにも、眩しかった。
◇
夕暮れ。
未来悟飯は、一人で崖の上に座っていた。
遠くには、穏やかな森が広がっている。
鳥の声が聞こえる。
風が吹いている。
平和だった。
信じられないほどに。
「……いい世界だな」
ぽつりと呟く。
父がいる。
ピッコロさんがいる。
そして、幼い自分がいる。
みんな、生きている。
それだけで、十分なはずだった。
それだけで、幸せなはずだった。
なのに。
「……なんでだよ」
悟飯は、右手を握り締めた。
胸の奥に、黒いものがあった。
自分でも、認めたくない感情。
あの少年を見たとき。
あの笑顔を見たとき。
あの、何も知らない瞳を見たとき。
確かに、思ってしまった。
――ずるい。
「……っ」
悟飯は、唇を噛んだ。
何を考えているんだ、俺は。
あいつは、何も悪くない。
あいつだって、戦っている。
あいつだって、これから苦しい思いをするかもしれない。
それなのに。
どうして。
どうして俺は。
「……羨ましいんだよ」
声が、震えた。
「……俺だって」
学者になりたかった。
父さんと、もっと話したかった。
ピッコロさんに、もっと修行をつけてもらいたかった。
クリリンさんと、くだらないことで笑いたかった。
母さんに、安心してほしかった。
ただ。
それだけだったのに。
「……俺だって、あんなふうに……」
悟飯は、空を見上げた。
夕焼けが、世界を赤く染めていた。
綺麗だった。
あまりにも、綺麗だった。
そして。
その美しさが、どうしようもなく苦しかった。
「……ごめんな」
誰に謝ったのか。
自分でも分からなかった。
幼い自分にか。
死んでいった仲間たちにか。
それとも。
こんなことを考えてしまう、自分自身にか。
悟飯は、静かに目を閉じた。
遠くから、声が聞こえる。
「おーい! 未来の僕ー!」
幼い自分の声だった。
「ご飯ですよー!」
未来悟飯は、目を開けた。
そして。
ゆっくりと立ち上がった。
「……今、行くよ」
笑顔を作る。
いつものように。
誰にも、気づかれないように。
だって。
あの子は、何も悪くないのだから。
悪いのは。
幸せな自分を見て、素直に喜べない。
そんな、俺の方なのだから。
――未来悟飯は、過去の自分を許せない。
けれど本当は。
誰よりも許せなかったのは、未来を守れなかった自分自身だった。