八月の太陽が、東京湾の濁った水面を容赦なく照りつけていた。
東都海洋大学の小型調査船『うみかぜ』の甲板には、逃げ場のない熱気と、都市の排水が混ざり合った特有の生臭い潮風が淀んでいる。しかし、船尾のウィンチ横に陣取った男は、額から滴り落ちる汗を拭おうともせず、手元のポータブル水質分析器のモニターを食い入るように見つめていた。
男の名はシバタ。四十五歳になる東都海洋大学の准教授である。
潮風と紫外線に晒され続けた浅黒い肌には深い皺が刻まれ、無造作に伸ばされた白髪交じりの黒髪が海風に揺れている。分厚いレンズの眼鏡の奥にある瞳だけは、獲物を狙う深海魚のように異様な光を放っていた。彼はヨレヨレの白衣の下に、十五年間愛用している色褪せた競泳用のブーメランパンツ一丁という、学者としては極めて不審なスタイルで甲板に立っていた。海と対話する際、余分な衣服は感覚を鈍らせるノイズになるというのが彼の持論であり、その奇行と「海は巨大な一つの生命体であり意志を持つ」という独自のガイア理論のせいで、学会からは完全に異端児扱いされていた。
「シバタ先生、もう引き上げましょうよ。熱中症で倒れちまいますって」
操舵室から顔を出した大学院生のタカハシが、首に巻いたタオルで顔を拭きながら情けない声を上げた。タカハシは日焼けを防ぐための長袖のラッシュガードに、膝下まであるダボダボのサーフパンツを穿いている。シバタが最も嫌悪する、現代の軟弱なビーチスタイルそのものだった。
シバタはタカハシの泣き言など耳に入っていないかのように、震える指先でモニターの数値を叩いた。
「黙りたまえタカハシ君。今、我々は地球科学の歴史が覆る瞬間に立ち会っているのかもしれんのだぞ」
「はあ、いつもの地球の意志ってやつですか。でも先生、さっきから水温計がバグってるみたいで、数値がめちゃくちゃなんですよ」
タカハシが甲板に降りてきて、シバタの肩越しにモニターを覗き込んだ。画面には、水深五十メートル地点から採取された海水の成分データが表示されている。しかし、そこにあるはずの東京湾特有のマイクロプラスチックや重金属、生活排水由来の有機物といった汚染データが、すべてゼロを示していた。それだけではない。塩分濃度とミネラルの結晶構造が、現代の海のものではなく、生命が誕生する以前の太古の海洋成分と完全に一致していたのである。
「バグではない。先ほどからセンサーは正常に稼働している。見ろ、この海底プレートの脈動データを」
シバタが別のタブレット端末をタカハシの鼻先に突きつけた。波形グラフが、まるで巨大な心臓の鼓動のように規則正しく、そして激しく上下している。震源地は東京湾ではない。もっと内陸、首都のど真ん中である新宿直下のプレート境界からだ。
「なんだこれ、直下型地震の前兆ですか。まずいですよ、すぐに港へ戻らないと」
顔色を変えたタカハシが操舵室へ駆け戻ろうとしたその時、シバタが彼の細い手首を強い力で掴んだ。普段は研究室に籠もっているとは思えない、フィールドワークで鍛え抜かれた鋼のような握力だった。
「待て。地震ではない。これは陣痛だ」
「は? 陣痛って、誰のですか」
「決まっているだろう。地球だよ。長きにわたり、人間の傲慢と虚飾に耐え続けてきた母なる海が、ついに何かを産み落とそうとしているのだ」
シバタは白衣を脱ぎ捨て、鍛え上げられた細マッチョの肉体を太陽の下に晒した。彼の腰に密着した古いブーメランパンツが、潮風を受けてわずかに震える。シバタは眼鏡のブリッジを中指で押し上げると、北西の方角、高層ビル群が陽炎の向こうに聳え立つ新宿の空を睨みつけた。
同じ時刻、午後二時十四分。東京、新宿大ガード西交差点から続くスクランブル交差点。
連日の猛暑日により、地上付近の気温は四十度を超えていた。ビル群の室外機が吐き出す熱風と、隙間なく並ぶ自動車の排気ガスが混ざり合い、交差点全体が巨大なオーブンのようになっている。信号が青に変わると、日傘を差したOLや、汗だくでスマートフォンを見つめる若者、重いスーツケースを引く外国人観光客たちが、溶けかけたアスファルトの上へと一斉に足を踏み出した。誰もが暑さに顔をしかめ、早く冷房の効いたビルの中へ逃げ込みたいと願っていた。
異変は、音もなく足元から始まった。
交差点の中央を歩いていたサラリーマンの革靴が、ぐにゃりと奇妙な感触と共に沈み込んだ。チューインガムを踏んだにしては深すぎる。彼が足を止め、怪訝そうに下を見た瞬間、黒く硬いはずのアスファルトが、まるでゼリーか水面のように円状の波紋を広げたのを目撃した。
「え、なんだこれ」
サラリーマンが声を上げた直後、交差点全体の地面がうねりを上げた。
地震のような激しい縦揺れではない。地面そのものが質量を持った液体へと変貌し、ちゃぷん、と巨大な水音を立てて波打ったのである。通行人たちが悲鳴を上げてバランスを崩し、進入してきたタクシーやトラックが急ブレーキをかけてタイヤを滑らせる。しかし、タイヤと路面の摩擦音は鳴り響かなかった。代わりに響いたのは、真夏のプールサイドで聞くような、涼やかで豪快な水しぶきの音だった。
次の瞬間、スクランブル交差点の中央がドーム状に大きく膨れ上がり、黒いアスファルトの飛沫を撒き散らして弾け飛んだ。
周囲にいた数千人の群衆が、一斉に息を呑んで後ずさる。
液体化した道路の裂け目から、何かがゆっくりとせり上がってきた。
それは、人間の男だった。
いや、人間の男の形をした、圧倒的な肉体の塊だった。
身長は百九十センチ近い。太陽の光を弾く浅黒い肌には、一グラムの無駄な脂肪も存在しない。古代ギリシャの彫刻家が神々の姿を模して彫り上げたかのように、分厚い大胸筋、深く刻まれた六つの腹筋、そして鋼のワイヤーを束ねたような広背筋と三角筋が、完璧な黄金比で構築されていた。顔立ちは彫りが深く、濡れた黒髪が額に張り付いている。
そして何より異様だったのは、その男が身に纏っているものだった。
一糸纏わぬ全裸ではない。彼の引き締まった腰回りには、周囲の光をすべて吸収してしまうかのような、極めて布面積の小さい漆黒のブーメランパンツただ一枚だけが、第二の皮膚のようにピタリと密着していたのである。V字型に鋭くカットされたその黒い布地は、男の強靭な大腿四頭筋の付け根を完全に露出させ、股間の中央には生命力の塊のような堂々たる隆起をくっきりと浮かび上がらせていた。
「な、なんだあいつ。マンホールから出てきたのか?」
「すごい筋肉。どこかのジムの宣伝?」
野次馬たちがスマートフォンを取り出し、カメラを向け始める。
しかし、現れたのは一人ではなかった。
ボコボコと泡立つアスファルトの泉から、二人、三人、十人、五十人と、全く同じ体格、全く同じ漆黒のブーメランパンツを穿いた屈強な男たちが、まるで湧き水のように次々と地上へと噴出してきたのだ。わずか数十秒のうちに、スクランブル交差点は数百人を超えるブーメランパンツの男たちによって埋め尽くされた。
彼らは一言も発しなかった。うめき声も、掛け声も、荒い呼吸音すらない。
ただ、その彫りの深い顔に嵌め込まれた瞳には、見る者の胸を締め付けるような、深く静かな悲哀の色が湛えられていた。彼らは周囲を取り囲むビル群の巨大広告や、着飾った通行人たちの姿を、まるで迷子になった子供を憐れむかのような眼差しで一度だけ見渡した。
直後、先頭に立っていた男が、大きく両腕を広げ、膝を深く曲げた。
そして、前方の硬いアスファルトの路面に向かって、猛然と頭からダイブしたのである。
「あっ、危ない!」
最前列にいた女子大生が目を覆った。時速数十キロの勢いで顔面からコンクリートに激突すれば、頭蓋骨が砕け散るはずだった。
だが、鈍い激突音はしなかった。
ザバァッ! という豪快な水音と共に、男の肉体がアスファルトの中へと滑らかに潜り込んだのだ。男が飛び込んだ周囲の路面だけが、半径数メートルにわたって透明な水のように流体化し、白い飛沫を上げていた。
一拍遅れて、路面から男の頭と鍛え抜かれた上半身が、弓なりに反り返りながら勢いよく飛び出してきた。
両腕を同時に後方から前方へと大きく振り抜き、水面を叩くようにして再びアスファルトへと潜り込む。臀部から足先にかけてがイルカの尾びれのようにしなやかにうねり、強烈なドルフィンキックが路面の空気を震わせた。
バタフライだった。
競泳において最もエネルギーを消費し、最も華麗で、かつ最も過酷とされるバタフライ泳法。
先頭の男に続き、背後にいた数百人の男たちが一斉にアスファルトの海へと飛び込んだ。
ザバァッ! ザバァッ! ザバァッ!
新宿のど真ん中に、耳を劈くような水しぶきの大合唱が轟いた。
何百という筋骨隆々の男たちが、漆黒のブーメランパンツの臀部を太陽に煌めかせながら、一糸乱れぬシンクロナイズドスイミングのような完璧なリズムで、大通りをバタフライで泳ぎ始めたのである。
「うわあああっ! こっちに来るぞ!」
渋滞で立ち往生していたトラックの運転手が、迫り来る黒いブーメランパンツの大群を見て絶叫した。
男たちの移動速度は、人間の常識を遥かに凌駕していた。一掻きで十メートル以上を進み、みるみるうちに加速していく。時速六十キロ、百キロ、二百キロ。周囲の空気が圧縮され、男たちの鍛え上げられた肉体が風を切るゴォォッという咆哮がビル街を揺らす。
しかし、不思議なことに、彼らは誰一人として人間や車両に接触しなかった。
立ち尽くす歩行者のわずか数ミリ横を、驚異的な動体視力とボディコントロールで擦り抜け、停車しているバスの車体の下を、液状化させたアスファルトの深い層を潜行することで滑らかに通過していく。彼らが通り過ぎた後の路面は、何事もなかったかのように瞬時に元の硬いアスファルトへと戻り、ただ純粋で冷たい潮の香りだけが一陣の風となって残された。
「なんなのこれ。夢? ドッキリ?」
呆然と立ち尽くす群衆の足元で、今もなお新宿直下の亀裂からは、新たなブーメランパンツの男たちが次々と湧き出し続けていた。その数は数千、数万へと膨れ上がり、黒い肉体の奔流となって明治通りを南へ、靖国通りを東へと、ただひたすらに東京湾を目指して地表を泳ぎ抜けていく。
それから約十分後。東京湾、お台場海浜公園沖。
調査船『うみかぜ』の甲板で、タカハシが双眼鏡を覗き込みながら、裏返った声で叫んだ。
「せ、先生! あれを見てください! レインボーブリッジの向こう、海岸線の道路から、何か黒い塊が海に飛び込んできます!」
シバタは無言でタカハシから双眼鏡を奪い取り、レンズを覗き込んだ。
視界の先に広がる人工ビーチと防波堤。そのコンクリートの壁を乗り越え、何万という漆黒のブーメランパンツを穿いた男たちが、一切の躊躇なく東京湾の茶色い海へと次々にダイブしていた。
彼らが海面に突入した瞬間、シバタは自分の目を疑った。
男たちの肉体が触れた場所から、赤潮や油膜で汚れていた東京湾の海水が、瞬く間にエメラルドグリーンの透き通った輝きを取り戻していくではないか。
「来たか」
シバタが低く呟いた直後、調査船のすぐ横の海面が、爆発したかのように盛り上がった。
白い飛沫のカーテンを突き破り、数十人の男たちの鋼の肉体が、太陽に向かって一斉に跳ね上がる。
逆光の中で輝く水滴と、鍛え抜かれた広背筋。そして、腰に巻かれた一本の黒い布切れ。
船べりから身を乗り出したシバタと、空中へ跳躍した先頭の男の視線が、ほんの一瞬だけ交錯した。
男の左目の下には、アスファルトを突き破った際にできたのか、わずかな擦り傷があった。その深い海の底のような瞳が、シバタの穿いている色褪せたブーメランパンツを捉える。
男の厳格な表情がほんのわずかに緩み、同志を認めたかのような、静かな敬意の眼差しがシバタに向けられた。
次の瞬間、男たちは海面へと着水し、ジェット戦闘機が低空飛行で通過したかのような凄まじい衝撃波を置き去りにして、外洋へと向かってマッハの速度でバタフライを加速させた。海面がモーセの十戒のように左右へ割れ、一本の白い航跡が水平線の彼方へと真っ直ぐに伸びていく。
暴風のような水しぶきを全身に浴びながら、シバタは甲板に仁王立ちし、遠ざかる黒い群れに向かって歓喜の声を張り上げた。
「美しい! なんという完璧なストリームライン、なんという純粋な生命の躍動だ! 見ろタカハシ君、あれこそが人類が置き忘れた、大自然との対話の究極形なのだよ!」
ずぶ濡れになって腰を抜かしているタカハシの横で、シバタのブーメランパンツは、東京湾に吹き始めた新しい時代の風を受けて、誇らしげに張り詰めていた。
これが、後に世界を震撼させ、人類の歴史と水着の概念を根底から覆すことになる『黒の行進』の、記念すべき第一歩であった。