東京湾の潮風が吹き抜ける東都海洋大学キャンパスの最奥部に、築五十年を超える老朽化した鉄筋コンクリートの研究棟がひっそりと佇んでいる。最新の設備を誇るメインキャンパスからは完全に隔離されたその建物の地下二階に、海洋生物および海洋物理学の異端児、シバタ准教授の個人研究室は存在した。窓が一つもない地下室の壁面は、床から天井に至るまで分厚い専門書や古い海図、そして世界各地の深海から引き揚げられた奇妙な鉱物標本やホルマリン漬けの瓶で隙間なく埋め尽くされている。換気扇の低いモーター音と、複数台の質量分析計や遠心分離機が発する規則的な電子音だけが、薄暗い部屋の中に絶え間なく響き渡っていた。
時刻は午前三時を回っていた。世間がリオデジャネイロでの『黒の行進』撃退のニュースと、あの男たちが流した涙の映像を巡って激しい議論に明け暮れている中、シバタは外界の喧騒を完全に遮断し、中央のステンレス製実験台の前に仁王立ちしていた。
暖房も冷房も切られた室温十八度の冷え切った研究室の中で、四十五歳のシバタが身に纏っているのは、薄汚れた白衣と、その下に穿いた十五年モノのヨレヨレの競泳用ブーメランパンツただ一枚だけであった。前を開け放った白衣の隙間からは、長年の過酷な潜水調査とフィールドワークによって極限まで鍛え上げられた、鋼のように引き締まった細マッチョの胸板と腹筋が覗いている。白髪交じりの無造作な黒髪はボサボサに逆立ち、分厚いレンズの眼鏡の奥にある双眸は、睡眠不足による充血をものともせず、狂気じみた知的好奇心の光を爛々と放っていた。
「遅い。実に遅いぞ、タカハシ君。羽田空港からここまでタクシーを飛ばせば、四十分で到着できる計算のはずだ」
シバタは腕を組んだまま、実験台の周囲を大型の肉食獣のように落ち着きなく歩き回っていた。彼の引き締まった脹脛の筋肉が動くたび、床に貼られた古いリノリウムのタイルが微かに軋む。
その時、研究室の重い鉄扉が外側から激しくノックされ、ロックが解除される音とともに、大学院生のタカハシが転がり込むようにして部屋へと入ってきた。タカハシは真夜中にもかかわらず、日焼け防止用の長袖ラッシュガードの上に大学のジャンパーを羽織り、膝下まであるダボダボのサーフパンツを穿いている。彼は肩で荒い息をしながら、両手でしっかりと抱え持った銀色のジュラルミン製小型保冷ケースを、シバタの前へと差し出した。
「はあ、はあ、す、すみませんシバタ先生。空港の検問が想像以上に厳しくて、裏ルートを通るのに時間がかかったんです。海パン連合軍の諜報部が、ブラジルからの貨物便を片っ端から調べていましたよ」
タカハシは額の汗を袖で拭いながら、怯えたように背後の鉄扉を振り返り、二重の電子ロックを慌てて施錠した。
「ご苦労だった。して、中身は無事だろうな」
「はい。先生の古いご友人であるサンパウロ大学の海洋研究所のカルロス教授が、現地の清掃局員を買収して、軍の回収班が現場を封鎖する直前にコパカバーナ海岸の砂ごと採取してくれたものです。でも先生、これが本当に、あの銃で撃たれて消滅した男の残留物なんですか。もしこんなものを勝手に持ち出したと海パン連合軍にバレたら、僕たち、学界追放どころか軍事法廷に引きずり出されますよ」
タカハシの震える声を、シバタは鼻で笑って一蹴した。シバタは実験台の上に置かれた保冷ケースに歩み寄ると、長い指先で素早くダイヤルロックを解除し、留め具を跳ね上げた。プシューッという冷気の噴出音とともに蓋が開き、ドライアイスの白い煙の奥から、厳重に密封された三本の石英ガラス製サンプル管が姿を現した。
一本目の管には、リオの銃撃現場の砂浜から採取された、まだ湿り気を帯びた白い珊瑚砂が入っている。二本目の管には、男が胸を撃ち抜かれた瞬間に周囲の機材に飛び散り、奇跡的に蒸発を免れて回収された、わずかな量の透明な液体。そして三本目の管には、男の肉体が太陽の光に溶けるように消滅した後、砂の表面に薄く結晶化して残されていたという、純白の粉末が収められていた。
シバタはゴム手袋すら着用せず、素手のまま二本目のサンプル管を恭しく持ち上げ、蛍光灯の光にかざした。ガラス管の中で揺れるわずか数ミリリットルの液体は、まるでそれ自体が淡い光を放っているかのように、一点の曇りもないエメラルドグリーンの輝きを宿していた。
「軍事法廷など恐れるに足りん。世界の愚かな政治家や軍人どもは、あの男たちをただの『新種の生物』か『人工のバイオロイド』程度にしか考えておらんのだ。だから対物ライフルで撃ち抜いて血が出なかったことにも疑問を持たず、死体が数時間で蒸発して消えたことも、特殊な化学薬品による自己融解現象だなどと的外れな発表をしておる。真理を見抜く目を持たぬ者に、このサンプルの価値は分からんよ」
シバタは眼鏡のブリッジを中指でグイと押し上げると、実験台の上のマイクロピペットを手に取り、流れるような鮮やかな手つきでサンプル管から液体と結晶を吸い上げた。異端の学者として変人扱いされてはいるものの、彼の実験操作の正確さとスピードは、世界最高峰の研究者たちと比較しても群を抜いていた。
「タカハシ君、次世代シーケンサーと高分解能質量分析計、それにラマン分光装置の立ち上げは完了しているな。まずは生物学的アプローチからだ。この液体の中に含まれるであろう細胞片から、DNAおよびRNAの塩基配列を特定し、連中の遺伝的ルーツを暴き出すぞ」
「は、はいっ。すでにスタンバイできています」
タカハシも研究者の端くれとして覚悟を決めたのか、パソコンのモニターの前に座り、キーボードを叩いて分析プログラムを起動させた。シバタがサンプルをセットしたプレートを装置のトレイに挿入すると、ウィーンという静かな駆動音とともに、レーザー光による高精度な解析が開始された。
通常、どれほど未知の深海生物や突然変異体であったとしても、地球上の生物である以上、その体液や組織の残留物からは必ず細胞膜を構成する脂質や、生命活動の根幹であるタンパク質、そして遺伝情報を記録した核酸が検出されるはずであった。あの男たちは、身長百九十センチ近い堂々たる肉体を持ち、強靭な筋肉を収縮させてマッハのバタフライを泳ぎ、さらには悲しみの感情を表現して涙まで流したのである。精巧なロボットでない限り、そこには何らかの高度な有機的生命構造が存在すると考えるのが、現代科学における絶対の常識であった。
数分後、質量分析計と遺伝子シーケンサーのモニターから、解析完了を知らせる短い電子音が鳴った。タカハシが画面のグラフと数値の羅列に目を走らせ、次の瞬間、そのまま石のように固まった。
「どうした、タカハシ君。塩基配列は既存のどの生物種に近かったかね。やはりクジラやイルカのような海洋哺乳類の遺伝子がベースになっているのか」
シバタが背後から覗き込むように声をかけたが、タカハシは唇をわなわなと震わせるばかりで、すぐに答えることができなかった。タカハシは自分の目を疑うように何度もまばたきを繰り返すと、キーボードのエンターキーを強く叩き、エラーチェックのプログラムを走らせた。
「おかしい。こんなはずはありません。機械が壊れているんだ、センサーの感度がゼロになっているのかもしれません」
「どきたまえ」
シバタはタカハシを軽く押しのけ、モニターの正面に顔を近づけた。画面に表示されていた解析結果のグラフは、異様なまでに平坦な直線を描いていた。
DNA検出量、ゼロ。RNA検出量、ゼロ。アミノ酸およびタンパク質構造、一切検出されず。脂質、糖質、その他あらゆる有機化合物、すべて測定限界値以下。
「な、なんだこれは。有機物が一ミリグラムも含まれていないだと」
さすがのシバタも、分厚い眼鏡の奥で大きく目を見開いた。人間のような精巧な筋肉を持ち、あれほど激しい運動を行っていた存在の体液と残留物から、生物の痕跡である有機物やタンパク質が何一つ検出されなかったのである。これでは、彼らが炭素をベースとした生命体ではないということになってしまう。
「タカハシ君、無機成分の定量分析データと、結晶構造の回折データを出しなさい。急げ」
シバタの低く緊迫した声に弾かれるように、タカハシが隣のモニターのウィンドウを切り替え、ラマン分光装置とX線結晶構造解析の結果を表示させた。画面いっぱいに、複雑な三次元の分子構造モデルと、含有される元素の比率を示す円グラフが浮かび上がる。
それを一瞥した瞬間、シバタの全身の筋肉が、電流を浴びたかのようにビクリと硬直した。
「塩化ナトリウム、塩化マグネシウム、硫酸マグネシウム、硫酸カルシウム、塩化カリウム。そして、残り九十六・五パーセントは、純粋なH2O、すなわち水だ」
シバタは画面の数値を指先でなぞりながら、まるで神託を読み上げる預言者のような厳粛な声で呟いた。
「せ、先生、それってつまり、どういうことですか。そのサンプルは男の血液や体液ではなく、ただの周囲の海水が混入しただけだったんじゃないですか」
タカハシの疑問に対し、シバタは激しく首を横に振った。彼の白髪交じりの髪が振り乱れ、眼鏡が鼻先までずり落ちる。
「違う。断じて現代の海水の混入などではない。この微量元素の比率と、不純物のデータを見ろ」
シバタが拡大表示させたのは、サンプル中の不純物および人工化学物質の検出リストであった。現代の地球上の海水であれば、それがどれほど人里離れた南極の深層水であろうと、産業革命以降に人類が排出し続けたマイクロプラスチックの微粒子や、微量な重金属、放射性同位体、あるいは農薬や界面活性剤といった化学物質が、一リットルあたり数ナノグラムは必ず検出されるのが常である。ましてや、数百万人が暮らす大都市リオデジャネイロのコパカバーナ海岸で採取された水であれば、生活排水や船舶の油分、日焼け止めクリームの成分で汚染されていなければおかしいのだ。
しかし、画面に並んでいたのは、またしても完璧なまでの『ゼロ』の羅列であった。一切の汚染物質、一切の人工化合物、一切のバクテリアすら含まれていない、文字通り無菌かつ完全無欠の純粋な海水。それだけではない。含まれているミネラルの同位体比率は、先日シバタが東京湾の海底プレート直上で観測したデータと完全に一致していた。それは、今から約四十億年前、地球に最初の生命が誕生するよりもさらに昔の、太古の原始海洋の組成そのものだったのである。
「さらに驚くべきは、この三本目のサンプル、死体が蒸発した後に残された白い結晶の構造だ」
シバタは三次元モデルで表示された結晶の格子構造を回転させ、食い入るように見つめた。通常の塩化ナトリウムの結晶であれば、単純な立方体の格子構造をとるはずだ。しかし、モニターに映し出されている結晶は、水分子とマグネシウムイオン、そして未知の微細なエネルギー場が複雑に絡み合い、まるでダイヤモンドや石英の結晶格子のように強固で幾何学的な『超高密度・結晶化ミネラル構造』を形成していたのである。
「水分子が、常温常圧下でこれほど強固な結晶格子を維持しているなんて、既存の物理学ではあり得ません。まるで、水そのものが自分の意志で手を取り合い、筋肉や骨格の役割を果たしているとでも言わんばかりじゃないですか」
タカハシが半ばパニックに陥りながら叫んだ。その言葉を聞いた瞬間、シバタの脳内で、これまでバラバラだったすべてのパズルが、凄まじい音を立てて一つに繋がった。
新宿のアスファルトから湧き出した十万体の男たち。お台場の海に彼らが飛び込んだ瞬間、汚れた東京湾の海水が一瞬にしてエメラルドグリーンに浄化された現象。銃弾で胸を貫かれた男から噴き出した透き通った飛沫と、数時間で水蒸気と塩の結晶だけを残して消滅した肉体。そして何より、彼らが一切の言葉を発さず、生殖能力も持たず、ただひたすらに世界中の海をマッハのバタフライで泳ぎ続ける理由。
「タカハシ君、君は今、核心を突いたぞ」
シバタは実験台の両端に手をつき、震える声で言った。彼の浅黒い顔には、恐怖を通り越した圧倒的な畏敬の念と、科学者としての法悦が浮かんでいた。
「彼らは生物ではない。もちろん、誰かが作った兵器でもない。あの屈強な男たちの肉体は、太古の純粋な高濃度海水と未知の結晶化ミネラルだけで構成された、言わば『歩く海』そのものなのだ」
「歩く、海、ですか。そんな馬鹿な。ただの海水が、どうして人間の男の形をして、しかもあんなに悲しそうな目で涙を流したりするんですか」
タカハシが椅子から立ち上がり、信じられないという表情でシバタを見つめた。シバタは白衣を翻して研究室の奥にある本棚へと歩み寄ると、自分が十年前に執筆し、学会からオカルトだと嘲笑された一冊の論文集を引き抜いた。
「私が長年唱えてきたガイア理論を忘れたとは言わせんぞ、タカハシ君。地球の表層の七割を覆う海は、単なる水の溜まり場ではない。数十億年にわたって熱と物質を循環させ、あらゆる生命を育んできた、地球で最も巨大で最も古い『一つの意識体』なのだ。普段、その意識は緩やかな海流や波のうねりとしてしか表現されない。だが今、母なる海は、何らかの強烈な目的と意志を持って、自らの最も純粋な深層水を人間の男の姿へと凝縮させ、地上へと送り出したのだよ」
シバタは再び実験台へと戻ると、モニターの隅に表示されていたリオデジャネイロでの戦闘映像の静止画を指差した。そこには、銃弾に倒れた仲間の前で、引き裂いたエメラルドグリーンのビキニの布切れを見つめながら涙を流す、漆黒のブーメランパンツの男たちの姿が映っていた。
「考えてもみたまえ。もし彼らが単なる自然現象の塊、たとえば台風や津波のような無慈悲なエネルギーの暴走であるならば、人間の都市を丸ごと飲み込み、何百万人もの命を簡単に奪い去ることができたはずだ。マッハ一・二で泳ぐ彼らの質量エネルギーをもってすれば、海パン連合軍の軍艦など体当たり一発で沈められる。にもかかわらず、彼らは人間を一人も殺さない。銃で撃たれても反撃せず、ただ悲しみに耐えながら、老若男女の水着だけを引き裂いて回っているのだ」
シバタは自らの穿いている古びた競泳用ブーメランパンツのゴムを、強い力で握りしめた。
「そして、最大の謎がこれだ。なぜ、純粋な海水の結晶である彼らが、一糸纏わぬ全裸ではなく、あえて『漆黒のブーメランパンツ』だけを身に纏っているのか。なぜ、サーフパンツやフリルのついたビキニ、ラッシュガードを目の敵にして引き裂くくせに、このブーメランパンツを穿いた人間だけには深い敬意を示して見逃すのか」
研究室の中に、再び換気扇の低い音だけが響く静寂が落ちた。タカハシもまた、いつの間にか自分が着ている長袖のラッシュガードとダボダボのサーフパンツを見下ろし、ゴクリと生唾を飲み込んでいた。
「彼らが純粋な海そのものの化身であるならば、その行動には必ず、海と人類の歴史に根ざした重大なメッセージが隠されているはずだ。人間がいつ、どのようにしてブーメランパンツを生み出し、そしてなぜそれを捨てて布面積を増やしていったのか。その歴史の変遷を紐解かない限り、我々は彼らの涙の本当の理由に辿り着くことはできん」
シバタは分厚い眼鏡の奥の瞳をギラリと光らせると、研究室の壁一面を覆う膨大な書架へと向き直った。そこには、海洋物理学の専門書だけでなく、古代からの人類の潜水漁の歴史、近代オリンピックにおける競泳水着の流体力学データ、さらには過去百年間のビーチファッションの変遷を記録した文化人類学の文献までが、雑然と、しかし体系的に収められていた。
「タカハシ君、コーヒーを淹れたまえ。いや、やはり不要だ。カフェインなどなくとも、今の私の脳細胞はかつてないほどに沸騰している。これより我々は、人類と水着の歴史の深淵へと潜行するぞ」
シバタは白衣を脱ぎ捨てて椅子の上に放り投げると、鍛え上げられた上半身とブーメランパンツ一丁の姿のまま、脚立に駆け上がって最上段の古い文献の束を次々と抱え下ろし始めた。世界中で海パン連合軍がさらなる武力増強を進め、大衆がヒステリックな殲滅論へと傾倒していく中、東京の冷たい地下室で、ただ一人の異端の学者だけが、地球が流した涙の真相へと確実にその手を伸ばしつつあった。