東都海洋大学の最奥部に位置する老朽化した研究棟の地下二階は、地上を焼き尽くす八月の猛暑から完全に切り離され、深海のような静寂と冷気に支配されていた。
窓のないコンクリートむき出しの壁面には、天井まで届くスチール製の書架が幾重にも並び、何千冊もの海洋学の専門書や古びた海図、さらにはホルマリン漬けにされた深海生物の標本瓶が、蛍光灯の青白い光を鈍く反射している。しかし、今のこの部屋は、最先端の海洋物理学の研究室というよりも、どこか狂気じみた歴史学者の秘密図書館のような有様を呈していた。
部屋の中央に置かれた巨大なステンレス製の実験台の上からは、昨日まで使用されていた質量分析計やマイクロピペットが隅へと追いやられ、代わりに分厚い革表紙の洋書や、黄ばんだ紙束の古文書、さらには過去百年間のオリンピック記録映画のフィルム缶やアパレル産業の年鑑が、雪崩を起こす寸前の山となって積み上げられていたからである。床のリノリウムのタイルの上にも、開かれたままの文献や古い写真資料が足の踏み場もないほどに散乱し、カビと古いインクの匂いが、研究室特有の薬品臭と混ざり合って独特の濃密な空気を作り出していた。
その紙の山の真ん中で、四十五歳の准教授、シバタは、まるで獲物を狙う鷹のように鋭い眼光で一冊の古い文献を睨みつけていた。
空調が切られ、ひんやりとした湿気が淀む地下室の中で、彼は相変わらず上着を一切羽織らず、十五年間穿き続けて生地が薄くなった色褪せた紺色の競泳用ブーメランパンツただ一枚だけを腰に纏っていた。長年の潜水調査と過酷なフィールドワークによって鍛え上げられた彼の肉体は、四十五歳という年齢を全く感じさせないほど引き締まっている。浅黒い肌の下には、余分な脂肪を削ぎ落とした鋼のような大胸筋と、くっきりと割れた腹筋が浮かび上がり、脚立を昇り降りするたびに強靭な大腿四頭筋と脹脛の筋肉が生き物のように隆起した。無造作に伸びた白髪交じりの黒髪は寝癖で四方八方に跳ね、分厚いレンズの眼鏡の奥にある瞳は、徹夜の作業によって真っ赤に充血しながらも、真理の核心へと迫る異様な熱量を放っていた。
研究室の隅に置かれたパイプ椅子の上では、大学院生のタカハシが、日焼け止め用の長袖ラッシュガードと膝下まであるダボダボのサーフパンツを着込んだまま、机に突っ伏して浅い眠りに落ちていた。彼の目の下には濃い隈ができ、手元には空になった栄養ドリンクの瓶が何本も転がっている。
シバタは手にしていた古代地中海の海洋交易に関する図録をパタンと閉じると、それを実験台の上に勢いよく叩きつけた。
乾いた破裂音が地下室に響き渡り、タカハシがビクリと肩を震わせて飛び起きた。
「うわあっ、す、すみませんシバタ先生、僕、また寝てましたか」
タカハシは寝ぼけ眼をこすりながら、慌てて周囲の資料の山を見渡した。
「眠っている場合ではないぞ、タカハシ君。見ろ、ついに繋がった。点と点が、一本の完璧な補助線によって結ばれたのだ」
シバタは中指で眼鏡のブリッジをグイと押し上げると、ホワイトボードの前へと歩み寄った。ボードの表面には、昨日リオデジャネイロの現場から極秘に入手した『黒の行進』の残留物の化学組成式と、彼らが身に纏っていた漆黒のブーメランパンツの拡大写真が貼り付けられている。そしてその周囲には、シバタが赤と黒のマーカーで殴り書きした、紀元前から現代に至るまでの人類の海洋進出の年表と、流体力学の方程式がびっしりと書き込まれていた。
「先生、まだあの水着の歴史を調べていたんですか。連中の肉体が、DNAもタンパク質も持たない『太古の純粋な高濃度海水と未知の結晶化ミネラル』で構成されていると分かっただけでも、世紀の大発見じゃないですか。なぜ彼らがブーメランパンツを穿いているかなんて、ただの偶然か、あるいは人間が勝手にそう見えているだけの目の錯覚かもしれませんよ」
タカハシが欠伸を噛み殺しながら言うと、シバタは心底嘆かわしいというように深く首を振り、手にした指示棒でタカハシの穿いているダボダボのサーフパンツの裾をピシャリと叩いた。
「痛っ、なにするんですか先生」
「自然界に偶然など存在しない。ましてや、四十億年の記憶を持つ母なる海が、明確な意志を持って人間の男の形を模倣し、地上へと顕現したのだぞ。彼らが身長百九十センチの鍛え抜かれた肉体を持ち、バタフライで海を渡り、そして他ならぬ『ブーメランパンツ』だけを身に纏っていることには、絶対的な物理学的、かつ歴史的必然性があるのだ」
シバタは指示棒の先端を、ホワイトボードの左端、紀元前の年表へと突きつけた。
「いいか、タカハシ君。まずは根本的な問いから始めよう。そもそも人類は、なぜ水着というものを発明したのか。そして、かつて人類が海に挑んだ時、その水着はどのような形をしていたのかだ」
シバタは実験台の上から、一冊の分厚い考古学の図録を取り上げ、付箋が貼られたページを開いてタカハシの鼻先に突き出した。そこには、古代ギリシャやローマの遺跡から発掘されたモザイク画や、日本の古代における海人族の潜水漁を描いた絵巻物の写真が掲載されていた。
「人類の祖先はかつて海から生まれ、陸へと上がった。だが、再び食料を求め、あるいは未知の大陸を目指して海という過酷な大自然へと足を踏み入れた時、人間は痛感したはずだ。陸上を歩くために進化した我々の肉体がいかに水中では無力であり、そして陸上での生活のために発明した『衣服』というものが、水の中ではいかに恐ろしい死の罠になるかをな」
シバタは自らの引き締まった胸板に手を当て、研究室の中をゆっくりと歩きながら語り始めた。その声は、単なる講義のトーンを超え、太古の海と人類の闘争の歴史を追体験するかのような重厚な響きを帯びていた。
「空気の約八百倍もの密度を持つ水という流体の中では、わずかな布のたるみや装飾が、凄まじい粘性抵抗と渦流を生み出す。もし君が今着ているそのだらしなく広がったサーフパンツや長袖のラッシュガードを着たまま、荒れ狂う外洋の潮流に投げ出されたらどうなると思う。布地が水を吸って鉛のように重くなり、波の抵抗をまともに受けて体温と体力を急速に奪われ、あっという間に海の藻屑だ」
タカハシは思わず自分のラッシュガードの袖を握りしめ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「だからこそ、太古の昔、真に海を畏れ、海と対等に渡り合おうとした海人たちは、水に入る際にすべての虚飾を脱ぎ捨てたのだ。だが、完全に無防備な全裸では、激しい水流や海洋生物、岩礁から人体の急所である生殖器を守ることができない。そこで人類が、数千年の試行錯誤の末に辿り着いた究極の回答が何であったか」
シバタは立ち止まり、自らが穿いている色褪せた紺色の競泳用ブーメランパンツの両サイドを、誇らしげに親指で弾いた。パチン、と乾いたゴムの音が地下室に響く。
「これだよ。大腿部の付け根、鼠径部のラインに沿って鋭角なV字型にカットされ、臀部と股間の最小限の面積だけを強固にホールドする構造。すなわち、現代においてブーメランパンツと呼ばれているこの形状こそが、人類が水という大自然と一体になるために生み出した、最初にして究極の機能美だったのだ」
シバタはホワイトボードの真ん中に貼られた、二十世紀中盤の競泳水着の変遷データを指し示した。そこには、一九三〇年代から七〇年代にかけて、シルクや初期のナイロン、そしてポリウレタン繊維の発明とともに進化を遂げたスイムブリーフの写真と、風洞および回流水槽実験における流体抵抗のグラフが並んでいた。
「見ろ、このグラフを。近代に入り、人類がより速く、より遠くへ泳ぐことを追求した時、科学とスポーツ工学が導き出した結論もまた、このブーメラン型であった。股関節の可動域を百パーセント解放し、ドルフィンキックや平泳ぎの蹴り込みにおいて一ミリたりとも筋肉の収縮を妨げない。さらに、皮膚と布地との境界層における乱流の発生を極限までゼロに近づけることで、人間は初めてイルカやクジラといった海洋生物と同じ土俵に立つことができたのだ」
シバタは熱っぽく語りながら、実験台の横に置かれたパソコンのキーボードを叩き、画面に三次元の流体シミュレーション映像を表示させた。
画面の中では、身長百九十センチの筋骨隆々の人体モデルが、ブーメランパンツ一丁の姿で水中をバタフライで泳いでいる。人体モデルの周囲を流れる水流のラインは、鍛え抜かれた大胸筋から腹筋、そして腰のブーメランパンツの表面を、まるで最初から一つの連続した魚体であるかのように滑らかに撫で、一切の無駄な渦を作ることなく後方へと流れていた。
「美しいとは思わんかね、タカハシ君。これこそが、人間が己の肉体ひとつと、最小限の布切れ一枚だけを武器に、母なる海へ真剣勝負を挑んでいた時代の証なのだ。ブーメランパンツとは、単なる下着や水着ではない。それは『私はあなたに対して何一つ隠し事をせず、持てるすべての生命力を使って対話します』という、人類から海への敬意の誓約書であり、最も崇高な正装だったのだよ」
タカハシは画面の美しい流線型のグラフと、シバタの真剣な眼差しを交互に見比べた。最初はいつもの突拍子もないマッドサイエンティストの妄想だと思っていたタカハシだったが、シバタが提示する膨大な歴史的文献と、一点の曇りもない流体力学のデータは、奇妙なほどの説得力を持って彼の脳髄を揺さぶり始めていた。
「な、なるほど。ブーメランパンツが、水の抵抗を減らして自然と一体になるための究極の形だったというのは、科学的にも歴史的にもよく分かりました。だからこそ、コート・ダジュールや湘南で、昔ながらのブーメランパンツを穿いていたお年寄りやスイマーの人たちだけが、あの男たちから敬礼のような目で見られて見逃されたんですね」
「その通りだ。海そのものの化身である彼らにとって、ブーメランパンツを穿いている人間は、太古の誓約を守り続けている誇り高き同胞に見えたのだろう」
シバタは深く頷いた。するとタカハシは、ふと眉をひそめて素朴な疑問を口にした。
「でも先生、だとしたらおかしいじゃないですか。そんなに完璧で素晴らしい水着だったのに、どうして現代では、僕を含めて世界中のほとんどの人がブーメランパンツを穿かなくなってしまったんですか。街のスポーツ用品店に行っても、売っているのは僕が今穿いているような膝丈のサーフパンツやトランクス、女性ならフリルやリボンがついたビキニばかりです。なぜブーメランパンツは、こんなにも衰退してしまったんでしょうか」
タカハシがその言葉を口にした瞬間、シバタの表情から熱狂的な輝きがスッと消え、代わりに、あのリオの砂浜で男たちが見せたのと全く同じような、深く暗い悲哀の影がその彫りの深い顔に落ちた。
シバタは無言のままホワイトボードの右半分、一九八〇年代から現代に至るまでのビーチファッションの変遷をまとめたエリアへと歩み寄った。そこには、パリのトップブランド『ELENA』の豪華絢爛なフリルビキニの広告写真や、ミオのようなインフルエンサーたちがビーチで自撮りをしているSNSのスクリーンショット、さらには全身を隙間なく覆うラッシュガードやダボダボのサーフパンツのカタログが、隙間なく貼り付けられていた。
「それこそが、今回の事件の核心であり、人類が犯した最大の堕落の歴史だ」
シバタは低く、地を這うような声で言った。彼は実験台の上から、一九九〇年代以降の繊維産業と大衆消費社会のマーケティング戦略に関する分厚いレポートを持ち上げた。
「タカハシ君、君はなぜ今日、その膝下まであるダボダボのサーフパンツと長袖のラッシュガードを選んだのかね。正直に答えてみたまえ」
突然矛先を向けられたタカハシは、気まずそうに視線を泳がせ、自分の細い腹回りをさすりながら答えた。
「えっと、それは、日焼けすると肌がヒリヒリして痛いからですし。それに、ブーメランパンツなんて穿いたら、お尻の形や股間のラインが丸わかりで恥ずかしいじゃないですか。僕、先生みたいに筋肉があるわけじゃないし、周りから変な目で見られたくなくて」
「それだ!」
シバタの雷のような一喝が地下室に轟いた。タカハシがひっと短い悲鳴を上げて椅子から転げ落ちそうになる。
シバタはタカハシの目の前まで大股で歩み寄ると、彼の貧弱な肩を両手でガシリと掴んだ。
「今の君の言葉の中に、現代文明が抱えるすべての病理が凝縮されている。一つは『他者の目を気にする羞恥心とコンプレックス』。そしてもう一つは、自然の太陽や波の力から己の身を隠そうとする『臆病な逃避』だ」
シバタはタカハシの肩から手を離すと、ホワイトボードに貼られた華やかなファッション誌の切り抜きを、指示棒で次々と叩いていった。
「歴史を振り返ってみろ。二十世紀の後半、人類の生活が豊かになり、海が『命がけで食料を獲り、己の限界を試す神聖な闘技場』から、単なる『週末のレジャー施設』へと成り下がった瞬間から、水着の堕落は始まったのだ。人々はもはや、海で本気で泳ごうとはしなくなった。代わりに彼らが海へ持ち込んだのは、陸上でのくだらない人間関係や、見栄、そして肥大化した自意識だ」
シバタの声は次第に熱を帯び、研究室の壁を震わせた。
「鍛えることを怠った己の弛んだ腹や貧相な臀部を他人に笑われたくないという羞恥心から、男たちはブーメランパンツを捨て、太腿までをすっぽりと隠すトランクスやサーフパンツへと逃げ込んだ。女性たちもまた、水の中で泳ぐことなど完全に放棄し、胸を大きく見せるための分厚いシリコンのパッドを詰め込み、水の抵抗にしかならない幾重ものフリルやリボン、宝石を水着に縫い付けた。海をただの『自分を可愛く見せるための背景ボード』としか見なくなったのだ」
シバタはそこで一度言葉を切ると、ボードの端に貼られた、世界の年代別・水着布面積の推移グラフを指差した。
一九七〇年代には極めて小さかった平均布面積のグラフが、九〇年代、二〇〇〇年代と時代が下るにつれて急激な右肩上がりを描き、近年のラッシュガードや体型カバー水着の流行によって、今や洋服と変わらない面積にまで膨れ上がっていることが一目瞭然となっていた。対照的に、ブーメランパンツの市場シェアを示す黒いラインは、今や全体のわずか一・二パーセントという絶滅寸前の数値にまで落ち込んでいる。
「さらに決定的な罪は、アパレル産業と資本主義の暴走だ。一本のシンプルなブーメランパンツは、生地も少なく、デザインの流行り廃りもないため、高く売ることができない。だからパリのエレナ・ヴァレンティノのようなデザイナーや巨大企業は、『肌を露出するのは恥ずかしいことだ』『去年のデザインの水着を着るのは時代遅れだ』と大衆の不安と虚栄心を煽り立て、毎年のように新しい装飾と余分な布地を付け足した水着を大量生産し、消費させ続けたのだ。その過程で、どれほど大量の化学繊維のクズやマイクロプラスチック、日焼け止めの化学物質が海へと垂れ流されてきたか」
タカハシは床に尻餅をついたまま、言葉を失ってホワイトボードのグラフを見上げていた。
自分が何気なく流行に合わせて選び、恥ずかしいからという理由で身に纏っていたサーフパンツとラッシュガード。それが、人類が数千年かけて築き上げた「自然との真剣勝負の歴史」を裏切り、海を侮辱し続けた象徴であったという事実が、重く冷たい鉛となって彼の胸にのしかかってきた。
「分かったか、タカハシ君。ブーメランパンツの需要減少とは、単なるファッションの流行の移り変わりなどではない。それは、人類が母なる海への畏怖と闘争本能を失い、羞恥心と虚飾に魂を売って、自然との真剣な対話から逃げ出した『敗北の歴史』そのものなのだよ」
シバタは再び実験台へと向き直り、リオデジャネイロの砂浜で銃弾に倒れた男の写真を静かに見つめた。
なぜ、純粋な海水の結晶である彼らが、あの漆黒のブーメランパンツだけを穿いて現れたのか。
なぜ、彼らが世界中のビーチをマッハのバタフライで駆け巡り、人間には傷一つつけず、ただサーフパンツやフリルビキニだけを引き裂き続けているのか。
そしてなぜ、引き裂いた派手な水着の布切れと、凶弾に倒れた仲間の亡骸を見比べて、あれほどまでに悲しい涙を流したのか。
すべてのピースが、完璧な一つの絵となってシバタの脳裏に浮かび上がった。
足元から、東京湾の海底プレートを伝わる微かな振動が、コンクリートの床を通してシバタの素足の裏へと伝わってくるような錯覚があった。
「先生、じゃあ、あの男たちが僕たちの水着を引き裂いているのは」
タカハシが震える声で問いかけた。
シバタはゆっくりと頷き、分厚い眼鏡の奥の瞳に、科学者としての揺るぎない確信の光を宿して答えた。
「ああ。あれは破壊でもなければ、侵略でもない。見栄と羞恥心という名の分厚い殻に閉じこもり、海を忘れた愚かな子供たちを、もう一度あの純粋だった頃の姿へと解き放とうとする、地球自身の慈悲深きカウンターなのだ」
地下室の蛍光灯が、電圧の変動でジジッと音を立てて瞬いた。
シバタが導き出したこの前代未聞の結論は、すでに海パン連合軍によって「有害危険生物の完全殲滅」へと舵を切った人類社会の暴走と、真っ向から衝突する運命にあった。しかし、この時のシバタにはまだ知る由もなかった。自らが掘り起こしたこの『ブーメランパンツの真実』が、やがて世界を揺るがす国家反逆罪の引き金となり、そして最終的には核ミサイルの閃光の下で全人類の魂を救う唯一の希望になろうとは。