東都海洋大学の地下二階に位置する研究室は、夜明けが近づくにつれてさらに冷え込み、まるで深海の底に取り残された潜水艇のような静寂に包まれていた。換気扇が発する低い唸り声と、数台のサーバーが奏でる無機質な電子音だけが、コンクリートむき出しの壁面に反響している。部屋の中央に置かれた巨大なステンレス製の実験台の上には、古代から現代に至るまでの水着の歴史書やアパレル産業の統計年鑑、そしてリオデジャネイロの海岸から極秘裏に回収された『黒の行進』の残留物分析データが、うずたかく積み上げられていた。
その資料の山の前で、四十五歳になる海洋生物および海洋物理学の准教授、シバタは、微動だにせず腕を組んで立ち尽くしていた。空調を切った冷たい空気の中で、彼が身に纏っているのは、十五年間愛用して色褪せた紺色の競泳用ブーメランパンツただ一枚だけである。長年の潜水調査と過酷なフィールドワークによって極限まで鍛え上げられた彼の肉体は、四十五歳という年齢をまったく感じさせないほど引き締まっていた。浅黒い肌の下には、余分な皮下脂肪を一切削ぎ落とした鋼のような大胸筋と、くっきりと六つに割れた腹筋が浮かび上がり、床を踏みしめる強靭な大腿四頭筋には血管が網の目のように浮き出ている。無造作に伸びた白髪交じりの黒髪は四方八方に跳ね、分厚いレンズの眼鏡の奥にある双眸は、徹夜の疲労をものともせず、真理の核心を射抜く獰猛な光を放っていた。
実験台の脇でパイプ椅子に浅く腰掛けていた大学院生のタカハシは、自分が着ている日焼け防止用の長袖ラッシュガードの袖口を、先ほどから落ち着かない様子で何度も引っ張っていた。膝下まであるダボダボのサーフパンツに包まれた彼の細い脚が、貧乏ゆすりで小刻みに震えている。タカハシは、ホワイトボード一面に書き殴られた流体力学の方程式と、世界の水着の布面積の推移グラフを見上げ、渇いた唇を舌で湿らせた。
「シバタ先生、ここまでの分析で、二つの大きな事実が判明したのは僕にも理解できました。一つは、あの男たちの肉体がDNAやタンパク質を一切持たず、太古の汚染されていない純粋な高濃度海水と未知の結晶化ミネラルだけで構成されていること。もう一つは、かつて人類が水の抵抗を減らして自然と一体になるために生み出したブーメランパンツを捨て、時代とともに羞恥心やファッション性に負けて水着の布面積を増やしてしまったという歴史です」
タカハシはそこで言葉を切ると、震える指先で眼鏡の位置を直し、シバタの引き締まった背中へと視線を向けた。
「でも先生、その二つがどうやって結びつくんですか。ただの海水とミネラルの塊が、どうして人間の水着の歴史なんていう文化的な事情を知っているんでしょうか。それに、なぜ今になって突然、日本の首都直下から十万体も湧き出して、世界中の海をバタフライで泳ぎ回るなんていう異常現象が起きたのか、そこがまだ説明できていませんよ」
タカハシの極めて真っ当な疑問に対し、シバタはすぐには答えなかった。彼はゆっくりと踵を返すと、裸足のまま冷たいリノリウムの床を歩いてパソコンのモニターへと近づいた。白衣すら羽織っていない彼の広背筋が、蛍光灯の青白い光を浴びて彫刻のように美しい陰影を作る。シバタが長い指先でキーボードのキーを数回叩くと、壁面に設置された大型プロジェクターが起動し、ホワイトボードの隣にある白い壁に、地球全体の海洋汚染と平均水温の推移を示す三次元シミュレーションマップが映し出された。
「文化的な事情だと? タカハシ君、君はまだ人間中心主義という傲慢な色眼鏡を外せておらんようだな」
シバタは低く、しかし地下室の空気をビリビリと震わせるような重厚な声で言った。彼は手にした金属製の指示棒の先で、プロジェクターに映し出された赤い地球の姿を強く突いた。
「いいか、タカハシ君。私がこれまで学会で発表し、頑迷な老教授どもからオカルトだと嘲笑され続けてきた『海洋ガイア理論』の根幹を思い出してみたまえ。地球の表面積の約七割を占める海は、単なる無機質な水の溜まり場ではない。総量にして約十三億五千万立方キロメートルにおよぶ海水は、熱と塩分、そして微弱な生体電流を地球規模で絶えず循環させることで、一つの巨大なニューラルネットワーク、すなわち『惑星規模の脳であり生命体』として機能しているのだ」
シバタは画面を切り替え、過去百年間の海洋環境のデータを次々と表示させていった。そこには、産業革命以降に急増した二酸化炭素の吸収による海水の酸性化、年間八百万トンという途方もない量が投棄され続ける海洋プラスチックごみの分布図、そして世界中のリゾート開発によって埋め立てられ、死滅していったサンゴ礁の記録が、生々しい数値となって並んでいた。
「四十億年の長きにわたり、母なる海は自らの胎内で無数の生命を育み、その進化を静かに見守ってきた。陸上へと上がった人類が、再び海へと挑んできた時も、海は厳しくも温かい試練をもって我々を迎え入れたのだ。古代の海人たちが素肌を晒し、最小限の布切れ一枚で荒波に飛び込んだ時、人間の皮膚から伝わる鼓動と、海水の波動は完全に共鳴していた。そこには、食うか食われるかの真剣勝負があり、大自然に対する絶対的な畏怖と敬意が存在したのだよ」
シバタの眼鏡の奥の瞳が、怒りと悲しみの入り混じった激しい光を帯びた。彼はホワイトボードに貼られた、パリの高級ブランド『ELENA』の豪華な七層フリルビキニの広告写真と、リオデジャネイロの海岸でサンバを踊っていたダンサーたちの写真を、指示棒で激しく叩いた。
「だが、ここ数十年で人類が海に対して行った仕打ちはどうだ。人間は科学技術と資本主義という名の虚飾の鎧を手に入れた途端、自らを自然界の支配者だと錯覚し始めた。海を畏れる心を忘れ、ただの安全な遊び場、あるいは自分の承認欲求を満たすための巨大な背景ボードへと貶めたのだ」
シバタは研究室の中央へと歩み出ると、自らの鍛え上げられた両腕を大きく広げ、タカハシを見下ろした。
「人々は太陽の光や波の力を嫌ってラッシュガードという名の防護服を着込み、他人の目を気にする矮小な羞恥心からダボダボのサーフパンツで下半身を覆い隠した。女性たちは泳ぐことすら放棄し、胸を大きく見せるためのシリコンの塊と、水の抵抗にしかならない化学繊維のフリルや宝石を幾重にも纏って波打ち際で笑っている。そして、そうした大量消費の果てに剥がれ落ちた合成繊維のマイクロプラスチックや、海に溶け出した日焼け止めクリームの有害な紫外線吸収剤が、毎日何千トンも母なる海の血管へと垂れ流され続けてきたのだぞ」
タカハシは言葉に詰まり、自分の胸元を覆う化学繊維のラッシュガードを無意識のうちに握りしめた。シバタの言葉は、単なる環境保護の道徳論ではなく、物理的な事実として彼の胸をえぐった。
「海はすべてを感じ取っていたのだ。自らの水面を撫でる人間たちの肌が、年々分厚く不自然な化学繊維の布地によって遮断されていくのをな。地球という巨大な生命体にとって、人類が水着の布面積を増やし、過剰な装飾を飾り立てていくプロセスは、そのまま『自然への畏怖の喪失』であり、地球の生態系を蝕む『悪性腫瘍の増殖』として認識されたのだよ」
シバタは再びパソコンへと向き直り、第一話で東京湾の調査船『うみかぜ』から観測した、あの新宿直下のプレート境界の脈動データを画面に呼び出した。規則正しく、そして激しく上下していたあの巨大な波形グラフが、プロジェクターの光の中で浮かび上がる。
「タカハシ君、我々人間の肉体にウイルスや病原菌が侵入し、勝手気ままに増殖を始めた時、身体の中では何が起きるかね」
「え? それは、免疫システムが作動して、白血球やリンパ球が病原菌を攻撃しに行きますけど」
「その通りだ!」
シバタは実験台の上の石英ガラス管を掴み、その中に収められたエメラルドグリーンの純粋な海水を、タカハシの目の前へと高らかに掲げた。
「これこそが、私の導き出した結論だ。あの漆黒のブーメランパンツの男たちは、宇宙からの侵略者でもなければ、人間の変質者でも、ましてや誰かが作った生物兵器などでもない。自然への畏怖を忘れ、羞恥心とファッションという名の虚飾の布を纏って海を汚し続ける人類に対する、地球自身の免疫反応。すなわち、母なるガイアが最後の警告として産み落とした『純粋なる意志の集合体』であり、地球自身のカウンターなのだ!」
地下室に響き渡ったシバタの宣言に、タカハシは息を呑み、椅子から立ち上がった。地球の免疫反応。人類という種の傲慢さを正すために、海そのものが白血球のように姿を変えて地上へと溢れ出したという途方もない仮説。だが、そう考えれば、これまで世界中の科学者や軍人が頭を抱えていたすべての矛盾が、恐ろしいほど綺麗に説明できてしまうのだった。
「だからこそ、彼らは人間を一人も殺さないのだよ」
シバタはガラス管を静かに実験台へ戻すと、分厚い眼鏡の奥の瞳を細め、まるで遠く離れた海を泳ぐ男たちの姿を思い描くかのように語り続けた。
「母なる海は、決して人類という我が子を滅ぼしたいわけではない。ただ、人間がまとわりつかせた『余分な虚飾と傲慢』という名の病気だけを取り除き、かつてのように素直な肉体と心で海と対話していた頃の姿へと、我々を還したいだけなのだ。彼らが身に纏う漆黒のブーメランパンツは、人類がかつて海に捧げた最大の敬意の象徴であり、同時に、本来は形を持たない海洋のエネルギーが三次元の人間界に顕現し、人間の姿を保つための『最小限の境界線(器)』に他ならない」
「じゃあ、あの男たちがマッハの速度でバタフライを泳いでいるのも、理由があるんですか」
タカハシが食い入るように尋ねると、シバタは我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
「もちろんだ。なぜ彼らが、最も効率よく速く進めるはずのクロールではなく、あえて『バタフライ』という泳法を選んだのか。バタフライとは、両腕を同時に水から抜き、全身をイルカのようにうねらせ、海面から鍛え抜かれた上半身を大きく天へと跳ね上げる、競泳の中で最もエネルギー消費が激しく、最も過酷で、かつ最も神々しい泳法だ。彼らは合理性で動いているのではない。全身の筋肉と生命力を振り絞って波を叩くその姿そのものが、『海に対してこれほどの本気と情熱をもって向き合え』という、地球からの魂の叫びなのだよ」
シバタはホワイトボードに貼られた、リオデジャネイロでの銃撃戦の写真へと視線を移した。十二・七ミリの対物ライフルで胸を撃ち抜かれて倒れた男の亡骸と、その周りを取り囲み、引き裂いたエメラルドグリーンのフリルビキニの布切れを見つめながら、大粒の涙を流していた男たちの写真である。
「そして、あの涙の意味も、これで完全に氷解した」
シバタの声が、わずかに震えた。彼はその写真の男の顔を、指先でそっと撫でた。
「彼らには生殖能力もなければ、数を増やす手段もない。あの日、新宿のプレート境界から噴出した推定十万体という数は、地球が現在の歪んだ環境の中から絞り出すことのできた、純粋な太古の海水エネルギーの限界量なのだ。一体が銃弾に倒れて蒸発すれば、その分だけ確実に彼らの数は減り、二度と補充されることはない。彼らは自らが有限で儚い命であることを最初から知っている。それでもなお、彼らは一切の反撃をせず、自らの身を削りながら、人間を虚飾から解放するためだけに水着を引き裂き続けているのだ」
シバタは拳を強く握りしめ、実験台をドンと叩いた。
「それなのに、愚かな人類はどうだ。彼らが命がけで引き裂いた布切れが、自然への冒涜であることに気づくどころか、たかがスワロフスキーのついたビキニや派手なサーフパンツを守るために、そして年間数兆ドルの薄汚い市場を守るために『海パン連合軍』などという軍隊を作り、彼らの胸に鉛の弾丸を撃ち込んだのだぞ。倒れた仲間の亡骸と、手の中のくだらない虚飾の布切れを見比べた時、彼らの胸に去来したのは、自らを撃った人間への憎しみではない。『なぜ人間は、こんな無意味な布切れ一つのために、母なる海の愛を拒み、我々を殺すのか』という、底知れぬ絶望と悲哀だったのだ!」
研究室の中に、シバタの熱い咆哮が木霊し、そして深い沈黙が落ちた。
タカハシの目から、ぽろぽろと涙が溢れ落ちた。彼は震える手で、自分が着ていた長袖のラッシュガードのジッパーを掴むと、それを一気に引き下ろし、乱暴に脱ぎ捨てて床へと放り投げた。まだ肌寒い地下室の空気が彼の白い貧弱な胸板を撫でたが、タカハシは恥ずかしがる素振りすら見せず、鼻水をすすりながら叫んだ。
「先生、僕、自分が恥ずかしいです! 日焼けしたくないとか、お腹が出ているのを笑われたくないとか、そんなちっぽけな見栄のために、こんな化学繊維の服を着て海に入ろうとしていたなんて! あの男たちは、僕たちの目を覚まさせるために、血の代わりに綺麗な海水を流して死んでいったんですね!」
「うむ。君がそれに気づけただけでも、我々が徹夜で研究した甲斐があったというものだ」
シバタは満足そうに頷き、タカハシの丸出しになった肩をバシッと強く叩いた。
「いいか、タカハシ君。この真実を、一刻も早く世界中に公表しなければならん。海パン連合軍の最高司令官であるドミニク・ハワードは、次のハワイ沖防衛戦で、さらに大量の重火器と魚雷を投入して彼らを虐殺しようとしている。だが、彼らを武力で殲滅することなど、地球自身の免疫系を破壊する自殺行為に等しい。彼らを鎮め、この戦いを終わらせる方法はただ一つ、全人類が今すぐサーフパンツやフリルビキニという名の虚飾を捨て、ブーメランパンツ一丁の純粋な姿に戻って海へ謝罪することだけだ」
「は、はいっ! すぐに論文の形にまとめて、国際海洋学会の緊急サーバーと、世界中の主要メディアにデータを送りましょう!」
タカハシが涙を拭いながらパソコンの前へと駆け寄り、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
シバタはそんな助手の頼もしい背中を見守りながら、自らの腰に巻かれた十五年モノのブーメランパンツの感触を確かめるように、深く静かな呼吸を繰り返した。
しかし、研究室の分厚いコンクリートの壁に守られた二人は、まだ気づいてはいなかった。
自分たちがアクセスしようとしている大学のネットワーク回線が、すでに海パン連合軍の諜報部門によって完全に監視下に置かれていたことに。そして、シバタが辿り着いた「ブーメランパンツに戻れば解決する」というあまりにもシンプルで純粋な真理こそが、数兆ドルのアパレル利権と装飾の美に魂を売った者たちにとって、絶対に地上から抹殺しなければならない最大の「不都合な真実」であるということに。
同じ頃、夜明けを迎えたばかりのフランス、パリでは、シバタの思想とは完全に正反対の極北に位置する女帝が、男たちの手刀を物理的に粉砕するための、悪魔的なまでの装飾兵器の最終テストに臨もうとしていた。