ブーメラン・バタフライ   作:ろくさん

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第14話:傷ついた黒鯨

真夏の夜の湘南海岸は、かつての喧騒が嘘のように深い闇と静寂に沈んでいた。

わずか二週間前まで、由比ヶ浜から江ノ島へと続くこの弓なりの砂浜には、夜通し営業する海の家のカラフルなネオンが煌めき、酒に酔った若者たちの笑い声や打ち上げ花火の破裂音が絶え間なく響き渡っていたはずだった。しかし今、海岸線に立ち並ぶ海の家はすべてベニヤ板と鉄パイプで厳重に封鎖され、まるで廃墟の街のような不気味なシルエットを月明かりの下に晒している。国道百三十四号線を走る車のヘッドライトもまばらで、砂浜への立ち入りを禁じる海パン連合軍と警察の黄色い規制テープが、生ぬるい海風に吹かれてカサカサと乾いた音を立てていた。

 

時刻は午後十一時を回っていた。

誰一人として近づこうとしないその漆黒の砂浜を、一つの小さな影が波打ち際に向かってゆっくりと歩いていた。

現役女子大生インフルエンサーのミオである。

 

彼女は普段の華やかなメイクを完全に落とし、明るい栗色のウェーブヘアを無造作に後ろで束ね、目深に被った黒いキャップの下から、少し泣き腫らしたような大きな瞳だけを覗かせていた。いつもなら体のラインを強調するトレンドの服を好んで着る彼女だったが、今夜は自分の存在そのものを夜闇に溶け込ませようとするかのように、大きめの黒いスウェットパーカーとデニムのショートパンツという地味な装いに身を包んでいる。素足に履いた白いスニーカーが、湿った砂を踏みしめるたびにサクサクと小さな音を立てた。

 

ミオの右手のひらの中には、あの日、この同じ砂浜で彼女の身体から切り裂かれたパステルピンクのフリル付き三角ビキニの残骸が、汗ばむほど強く握りしめられていた。

あの悪夢のような生配信から十日あまりが過ぎていた。三百万人のフォロワーが見守るカメラの前で、突如海から現れた漆黒のブーメランパンツの男たちに囲まれ、一瞬にして素っ裸にされた恐怖と羞恥心。事件の直後、ミオのSNSアカウントには世界中から数千万件ものコメントが殺到した。彼女を心配する声もあったが、それ以上に多かったのは、流出した彼女の裸体のキャプチャ画像を求める下品な男たちの声や、調子に乗って海で配信なんかしているからだと嘲笑う心ない言葉の数々だった。

 

最初の数日間、ミオはマンションの部屋のカーテンを閉め切り、スマートフォンの電源を切って布団の中で震え続けていた。もう二度と外は歩けない、自分の人生はあの黒いパンツの怪物たちにめちゃくちゃに破壊されたのだと、枕を濡らして彼らを呪った。

だが、数日前にテレビで放送されたブラジル、リオデジャネイロでの生中継映像を見た瞬間から、ミオの胸の奥にあった感情は、恐怖や恨みとは全く別の、名前のつけられない激しい疼きへと変わっていた。

 

十二・七ミリの対物狙撃銃で胸を撃ち抜かれ、エメラルドグリーンの透き通った飛沫を散らして砂浜に倒れた一人の男。そして、銃口が向けられる中で逃げようともせず、倒れた仲間の亡骸と、自分たちが引き裂いたばかりの派手なビキニの布切れを交互に見比べながら、彫刻のような頬に大粒の涙を伝わせた五千人の男たちの姿。

 

ミオは足を止め、手の中にあるピンクの布切れへと視線を落とした。

月明かりに照らされたそれは、幾重にも重なる化学繊維のシフォンフリルと、すでに形が崩れた分厚いシリコン製のパッド、そして千切れた白いレースのリボンの塊だった。あの日、自分の水着を裂いた先頭の男もまた、砂の上に落ちたこのピンクの布切れを拾い上げ、リオの海岸で見せたのと全く同じ、底知れぬ悲哀と憐れみに満ちた瞳で見つめていたのだ。

 

「本当に、あなたたちは怪物なの?」

 

ミオは誰もいない夜の海に向かって、風に消えてしまいそうなほど小さな声で呟いた。

もし彼らが人間を傷つけ、辱めることを目的とした凶悪なテロリストや変質者であるなら、なぜあの日、無防備にうずくまった自分の裸体には指一本触れず、最後に深く頭を下げて去っていったのだろう。なぜ、仲間を殺されても人間に反撃一つせず、ただ布切れを見つめて泣いていたのだろう。

ネット上のニュースやワイドショーは、海パン連合軍の発表を鵜呑みにし、彼らを「人間の尊厳と市場を破壊する気味の悪い有害生物」として一斉に叩き始めていた。しかし、世界で一番最初に彼らと至近距離で向き合い、その瞳の奥を覗き込んだ人間として、ミオはどうしても世間の言葉に頷くことができなかったのだ。確かめなければいけない。あの日、自分が失ったのは単なるお気に入りの水着だったのか、それとももっと別の何かだったのかを。その一心だけが、恐怖にすくむ彼女の足をこの夜の海岸へと向かわせていた。

 

ミオは規制テープの下をくぐり抜け、砂浜の東端、由比ヶ浜から材木座を抜けて逗子方面へと続く、ゴツゴツとした黒い岩場が突き出た岬の暗がりへと足を踏み入れた。

このあたりは昼間でも人の少ない磯場であり、今は満潮に近い黒い波が、鋭く尖った岩肌にぶつかっては白い泡を散らしている。さらに沖合の数キロメートル先には、海パン連合軍の極東防衛部隊が敷設した対潜機雷原と、無人警戒ブイの赤い点滅灯が、夜の海面に不気味な光の列を作っていた。昨日も、東京湾へ再侵入を試みた数体の男たちがその機雷原に接触し、水中爆発によって撃退されたというニュースが流れたばかりだった。

 

潮風に混じる磯の香りを吸い込みながら、ミオが湿った岩の上を慎重に歩いていた、その時だった。

 

ザパァン、とひときわ大きな波が岩場を洗い、引いていく水の音に混じって、すぐ先の窪地から、何か硬い結晶が擦れ合うような微かな音が聞こえた。

人間のうめき声ではない。まるで、分厚い氷の塊が少しずつひび割れていくような、低く澄んだ音だった。

 

ミオはハッと息を呑み、岩陰に身を隠すようにして立ち止まった。

雲の切れ間から覗いた蒼白い満月の光が、数メートル先の潮溜まりと、そこを取り囲む濡れた岩肌を明るく照らし出す。

そこに、何かが横たわっていた。

 

最初は、嵐で打ち上げられた巨大な黒いクジラかイルカのようにも見えた。だが、月光がその輪郭をくっきりと浮かび上がらせた瞬間、ミオは自分の心臓が跳ね上がるのを感じ、思わず両手で口元を覆った。

 

それは、人間の男だった。

身長百九十センチに迫る、一切の贅肉を削ぎ落としたギリシャ彫刻のような肉体。濡れた浅黒い肌の下に隆起する分厚い大胸筋と、深く刻まれた腹筋、そして引き締まった腰回りにピタリと張り付いた、光を一切反射しない漆黒のブーメランパンツ。あの日、ミオのビキニを引き裂いた『黒の行進』の一人に間違いなかった。

 

しかし、その男の姿はあまりにも凄惨で、痛々しいものだった。

男のたくましい左腕が、肩の付け根から完全に失われていたのである。沖合の機雷原を突破しようとした際に、水中機雷の至近弾を浴びたのだろう。さらに左の脇腹から太腿にかけても大きく抉れるような深い傷を負っており、男は岩場の窪みに背中を預けるようにして、半ば座り込むような姿勢でぐったりと動かなくなっていた。

 

ミオは恐怖で足がすくみ、すぐさま踵を返して逃げ出そうとした。だが、男の傷口から溢れ出しているものを見た瞬間、彼女の足は岩場に縫い付けられたように止まった。

 

男の欠損した左肩と脇腹の傷口からは、赤い血は一滴も流れていなかった。

代わりにそこからサラサラと止めどなく零れ落ちていたのは、夜の闇の中でさえ淡いエメラルドグリーンの燐光を放つ、透き通った純粋な海水と、ダイヤモンドの粉のように煌めく白い塩の結晶だったのである。傷口周辺の浅黒い皮膚は、すでに人間の肉体としての形状を保てなくなりつつあり、波が足元を洗うたびに、その強靭な筋肉の端々が泡のように溶けて夜の海へと還り始めていた。それにつれて、周囲の潮溜まりの濁った水が、驚くべき速さで水晶のように澄み渡っていく。

 

男はまだ生きていた。いや、生物としての呼吸をしているのかどうかすら分からなかったが、うつむいていた男の彫りの深い顔がゆっくりと持ち上がり、その黒い瞳が、岩陰で震えているミオの姿を捉えたのである。

 

ミオの全身が硬直した。

今すぐ叫んで逃げなければ、今度こそ殺されるかもしれない。仲間を人間の兵器で傷つけられ、自分自身も片腕を失って死にかけているのだ、目の前に現れた人間に激しい憎悪を向けて襲いかかってきてもおかしくはない。ミオは目を強く閉じ、手の中のピンクのビキニを胸に抱きしめて肩をすくめた。

 

一秒、二秒、五秒。

岩場を洗う波の音だけが響き、男が飛びかかってくる気配は一向になかった。

ミオが恐る恐る瞼を開けると、男は窪地から立ち上がろうとすらしていなかった。それどころか、男は残された右手を岩肌について、ミオを驚かせまいとするかのように、自らの巨体をわずかに後ろへと引いていたのである。

 

月明かりの下で、ミオと男の視線が真っ直ぐに交錯した。

男の顔には、左腕を吹き飛ばされた苦痛の歪みも、人間に対する怒りの色も、微塵も浮かんでいなかった。長い睫毛に縁取られたその深い海の底のような瞳に宿っていたのは、やはり、見る者の胸を締め付けるような静かな悲哀と、夜道で迷子になった小さな子供を見守るかのような、どこまでも穏やかで優しい光だけだった。

 

「あ、あの」

 

ミオの唇から、震える声が漏れた。

彼女は自分の足が、恐怖に反して一歩、また一歩と男の方へ踏み出していることに気づいていなかった。

すぐ近くまで歩み寄ったミオの鼻腔を、男の身体から立ち昇る、都会の海とは全く違う清冽で神聖な太古の潮の香りが優しく撫でた。テレビの画面越しではなく、生身の状態で再び目の当たりにする男の肉体は、神話の神々がそのまま顕現したかのように完璧で美しかったが、その左半身が光の粒子と塩の結晶になって少しずつ崩れていく様は、言葉にできないほどの儚さを伴っていた。

 

男は、ミオの視線に気づくと、自分の失われた左肩をちらりと見た。そして、まるで「こんな不完全な姿を見せて怯えさせてしまい、すまない」とでも言うかのように、眉をわずかに下げて困ったように微笑んだのである。

その微笑みを見た瞬間、ミオの胸の奥で、これまで張り詰めていた恐怖の氷が音を立てて溶け落ちていった。この人は、怪物なんかじゃない。

 

ふと、男の視線が、ミオが胸の前で握りしめているパステルピンクの布切れへと移った。

あの日、湘南のビーチで彼の仲間が引き裂いた、フリルとリボンのついた三角ビキニの残骸である。

ミオはハッとして、そのビキニを後ろに隠そうとした。しかし、男がゆっくりと残された右手を持ち上げ、手のひらを上にしてミオの方へと差し出したのを見て、彼女は動きを止めた。

 

男の右手は、ミオの細い胴体など片手で簡単に握り潰せるほど大きく、分厚い筋肉の隆起に覆われていた。だが、その差し出された指先は、春の微風のように優しかった。

ミオはごくりと唾を飲み込むと、しゃがみ込み、自分の手の中にあったピンクのビキニの残骸を、男の大きな手のひらの上へとそっと乗せた。

 

男は、手のひらの上に乗せられたその小さな布切れをじっと見つめた。

幾重にも重なった無意味な化学繊維のフリル、不自然に胸を大きく見せるためだけの分厚いシリコンパッド、そして千切れた白いレースのリボン。

男は太い人差し指の先で、その千切れたリボンの端を、まるで壊れやすい花びらに触れるかのようにそっと撫でた。次の瞬間、男の瞳から、月光を反射して輝く大粒の透明な涙がぽろりと溢れ落ち、ピンクのフリルの上へと落ちた。

 

涙が染み込んだ部分の化学繊維から、汚れや人工的な染料がスッと抜け落ち、純白の清らかな繊維へと浄化されていく。

男は、手の中のビキニの残骸をミオの手へと静かに返すと、岩場に座り込んだままの姿勢で、ミオに向かって深々と頭を下げた。

 

それは、あの日ビーチでいきなり彼女の水着を引き裂き、怖い思いをさせてしまったことへの、心からの謝罪の礼であった。そして同時に、あなた本来の美しい姿と心を、こんな重苦しい虚飾の布で縛り付けないでほしいという、言葉なき魂の嘆願でもあった。

 

ミオの大きな瞳から、堰を切ったように熱い涙が溢れ出した。

どうして、こんなにも傷ついて、片腕を失って消えかけているのに、自分のことなんかより私の心配をして頭を下げるの。私たちが、人間が勝手に海を汚して、勝手にあなたたちを怖がって機雷や銃で撃ったのに、どうしてそんなに優しい目ができるの。

 

「やめてよ、頭なんか下げないでよ」

 

ミオはその場に膝をつき、ボロボロと涙をこぼしながら、男の冷たくなり始めた右手の甲に自分の両手を重ねた。

触れた男の肌は、人間の体温のような生温かさではなく、真夏の火照った身体を芯から癒やしてくれるような、深海の清冽で心地よい冷たさを持っていた。そしてその奥からは、ドクン、ドクンという、地球の潮汐そのもののような大きく力強い生命の鼓動が、ミオの掌へとダイレクトに伝わってきた。

 

「ごめんなさい。私、あなたたちのこと、何も分かってなかった。ただ可愛いってだけでこんな水着を着て、海のことなんかこれっぽっちも考えてなかった。ごめんなさい、死なないで、消えないでよ」

 

ミオが泣きじゃくりながら男の手を握りしめた、まさにその時だった。

 

「おい、そこのお嬢さん! その個体から離れてはいかん、いや、むしろそのまま手を握り続けていたまえ!」

 

突如として背後の暗い岩場の上から、場違いなほど張りのある、興奮に満ちた中年男の声が響き渡った。

ミオが驚いて涙顔を上げると、ゴツゴツとした高さ三メートルの岩の頂上に、一人の異様な風体の男が仁王立ちしていた。

 

月明かりを背負って立つその男は、真夜中の磯場であるにもかかわらず、薄汚れた白衣の前を完全に開け放ち、その下には色褪せた紺色の競泳用ブーメランパンツただ一枚だけを穿いていた。白衣の隙間からは、四十代半ばとは思えないほど見事に鍛え上げられた細マッチョの大胸筋と腹筋が覗き、ボサボサの白髪交じりの髪の下で、分厚いレンズの眼鏡が月光を反射して不気味にギラリと光っている。その背後からは、大きなバックパックを背負い、上半身裸にサーフパンツ姿の若い男――大学院生のタカハシが、息を切らしながら顔を覗かせていた。

 

東都海洋大学の准教授、シバタであった。彼は昨日の東京湾での機雷爆発のニュースを聞きつけ、傷ついた個体が潮の流れに乗ってこの三浦半島から湘南にかけての岩場に漂着するはずだと計算し、軍の警戒網を潜り抜けて夜間フィールドワークに来ていたのである。

 

シバタは背中の防水ケースから測定機材を取り出すのも忘れ、岩の上から驚異的な身のこなしでタカハシを置いて飛び降りると、水しぶきを上げてミオと傷ついた男のすぐ横へと着地した。

 

「き、きゃあっ! だ、誰ですかあなた! 変態!?」

 

突然現れた白衣にブーメランパンツ一丁の男に、ミオは傷ついた男を庇うようにして悲鳴を上げた。先ほどまで神聖な涙に包まれていた岩場の空気が、シバタの登場によって一瞬にして混沌としたものへと変わる。

遅れて岩場を滑り降りてきたタカハシが、慌てて手を振りながら弁明した。

 

「ち、違いますよお嬢さん! この人は変態じゃなくて、東都海洋大学のシバタ准教授です! いや、格好は完全に変態ですけど、怪しい者じゃありません! ていうか、その顔と声、もしかしてインフルエンサーのミオさんですか!?」

 

タカハシの言葉など耳に入っていないかのように、シバタは中指で眼鏡のブリッジをグイと押し上げ、ミオが握っている男の右手と、その足元でエメラルドグリーンに浄化されていく潮溜まりを食い入るように見つめた。

 

「素晴らしい。なんという奇跡的な遭遇だ。銃撃や機雷で構造崩壊を起こした個体は、通常なら誰の目にも触れぬ深海で蒸発してしまうというのに、まさかこんな浅瀬の岩場で、しかも最初に彼らに水着を裂かれた娘と心を通わせている現場に立ち会えるとは!」

 

シバタは白衣をバサリと脱ぎ捨てて岩の上に置くと、自らの引き締まった肉体と十五年モノのブーメランパンツを晒したまま、傷ついた男の正面へと静かに膝をついた。

傷ついた男は、新たに現れたシバタを見上げた。そして、シバタの腰に巻かれた古びた競泳用ブーメランパンツを目にした瞬間、男の消えかけていた瞳に、ふっと深く温かい安堵の光が灯ったのである。

 

男は、ミオの手を握っていた右手をゆっくりと離すと、最後の力を振り絞るようにしてその右手を自らの左胸に当て、ブーメランパンツ姿のシバタと、涙を流すミオの二人に向かって、誇り高き同志に対するような敬礼の眼差しを向けた。

 

シバタもまた、一切のふざけた態度を消し去り、背筋をピンと伸ばして自らの胸に手を当て、深々と頭を下げて礼を返した。

夜の湘南の岩場で、消えゆく太古の海の化身と、真理に辿り着いた異端の科学者、そして虚飾の愚かさに気づき始めた一人の少女の魂が、言葉を超えて静かに交錯した瞬間であった。

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