ブーメラン・バタフライ   作:ろくさん

15 / 16
第15話:託された真実

真夏の夜風が、湘南海岸の東端に突き出た黒い岩場を静かに吹き抜けていた。

雲の切れ間から降り注ぐ蒼白い満月の光が、ゴツゴツとした磯の窪地と、そこに溜まった潮水を銀色に照らし出している。遠くの沖合では、海パン連合軍が敷設した対潜機雷原の赤い警告灯が、まるで海面を監視する無数の不気味な眼球のように規則正しい点滅を繰り返していた。しかし、波が打ち寄せるこの岩場の片隅だけは、世界の喧騒や軍事的な緊張から完全に切り離された、奇妙なほど清らかで厳粛な空気に包まれていた。

 

岩場の窪みに背中を預けるようにして座り込んでいるのは、沖合の機雷爆発に巻き込まれて左腕を肩から失い、脇腹を大きく抉られた一人の男だった。

身長百九十センチに迫る、体脂肪率三パーセント未満のギリシャ彫刻のような肉体。しかし、その強靭な大胸筋や深く刻まれた腹筋の輪郭は、今や月明かりの下で淡いエメラルドグリーンの燐光を放ちながら、少しずつその形を失いつつあった。傷口からは赤い血ではなく、ダイヤモンドの粉末を溶かし込んだような純粋な高濃度海水と白い塩の結晶がサラサラと止めどなく零れ落ち、彼の足元を洗う潮溜まりの水を、水晶のように透明な太古の海水へと浄化し続けている。

 

その消えゆく男の目の前には、二人の人間が膝をついていた。

一人は、大きめの黒いスウェットパーカーを着た二十歳の現役女子大生インフルエンサー、ミオ。彼女の大きな瞳からは大粒の涙が溢れ出し、化粧っ気のない白い頬を伝って顎先からポタポタと岩肌へと落ちている。彼女の膝の上には、あの日この湘南のビーチで男たちの手刀によって引き裂かれた、パステルピンクのフリル付き三角ビキニの残骸が乗せられていた。

そしてもう一人は、薄汚れた白衣を脱ぎ捨て、鍛え上げられた細マッチョの肉体に十五年モノの色褪せた競泳用ブーメランパンツ一丁という異様な姿で正座している四十五歳の海洋学者、シバタ准教授であった。少し離れた岩の上では、シバタの助手である大学院生のタカハシが、上半身裸にダボダボのサーフパンツ姿で大きなバックパックを抱え、息を呑んで三人の様子を見守っている。

 

傷ついた男は、自らの左胸に当てていた右手をゆっくりと下ろした。

シバタが穿いている古びた紺色の競泳用ブーメランパンツを見つめる男の瞳には、深い海の底のような静けさと、自分たちの意志を理解してくれる同胞に出会えたことへの確かな安堵の光が宿っていた。

だが、限界の時はすでに訪れていた。

男の残された右腕の指先が、潮風に吹かれた砂の城のように、音もなくサラサラと崩れ始めたのである。

 

ミオが息を呑み、思わず両手を伸ばして男の右手を包み込もうとした。

しかし、彼女の白い指先が触れるよりも早く、男の浅黒い皮膚と強靭な筋肉の隆起が、内側から眩いばかりの青白い光を放ち始めた。熱は全くない。むしろ、真夏の蒸し暑さを一瞬で忘れさせるような、深海の底から湧き上がる冷涼で心地よいミントのような冷気が、ミオとシバタの顔を優しく撫でた。

 

男は最後に一度だけ、泣きじゃくるミオの顔を真っ直ぐに見つめた。

その彫りの深い顔に浮かんだのは、自分を機雷で吹き飛ばした人間たちへの恨みではなく、これから残酷な真実と向き合わなければならない小さな人間の少女を気遣うような、どこまでも慈愛に満ちた微笑みだった。

 

次の瞬間、男の百九十センチの巨体が、形を保つための臨界点を完全に超えた。

ザァァァッ、という、穏やかな砂浜に波が打ち寄せては引いていく時のような、涼やかで美しい水音が岩場に響き渡った。

男の頭部から胸板、そして強靭な大腿部へと至る肉体のすべてが、一斉に何千万というエメラルドグリーンの光の雫と、純白の微細な塩の結晶へと分解され、夜の空気の中へと弾け飛んだのである。

 

「あっ、待って、行かないで!」

 

ミオが悲鳴のような声を上げて手を伸ばしたが、彼女の指先が掴んだのは、キラキラと月光を反射しながら夜空へと昇っていく冷たい水蒸気と、潮溜まりへと降り注ぐ清らかな水しぶきだけだった。

光の飛沫が夜の海風に乗ってフッと吹き抜けると、そこにはもう、あの圧倒的な肉体の質量はどこにも残されてはいなかった。ただ、男が座っていた黒い岩肌の窪みに、純白の美しい塩の結晶が雪のように薄く積もり、その真ん中に、彼が最後まで身に纏っていた一枚の『漆黒のブーメランパンツ』だけが、主を失った抜け殻のように静かに残されていた。

 

波の音だけが、再び夜の磯場に帰ってきた。

ミオは空っぽになった自分の両手を見つめ、それから岩の上に残された黒いブーメランパンツへと視線を落とした。あんなに大きくて、あんなに力強い生命の鼓動を伝えてくれた人が、血の一滴も、骨のかけらすら残さずに、ただの綺麗な海水と塩になって消えてしまった。

 

「消えちゃった。本当に、海の水に戻っちゃった」

 

ミオが呆然と呟くと、隣で正座していたシバタが静かに立ち上がった。

シバタは分厚いレンズの眼鏡の奥で目を細め、岩の上に残された漆黒のブーメランパンツと、その周囲の白い塩の結晶を恭しい手つきで拾い上げると、タカハシが持ってきたサンプルケースの中へと慎重に収めた。そして、白衣を再び羽織ると、まだ岩場にへたり込んで涙を流しているミオの隣へと歩み寄り、少し離れた平らな岩の上に腰を下ろした。

 

「悲しむことはないよ、お嬢さん。いや、インフルエンサーのミオ君と言ったかな。彼は死んだのではない。一時的に借りていた人間の男という窮屈な器を解き放ち、本来の姿である母なる海そのものへと還っていっただけなのだ」

 

シバタの落ち着いた、それでいてどこか熱を帯びた声に、ミオは涙に濡れた顔を上げた。

目の前にいる中年男は、前を開け放った白衣の下にヨレヨレのブーメランパンツ一丁という、常識で考えれば警察に通報レベルの不審者だった。しかし、先ほど消えていった男とこの学者が交わした、あの厳粛で魂の震えるような敬礼を見たミオには、彼がただの変人ではないことが直感的に理解できていた。

 

「本来の姿って、どういうことですか。テレビやネットでは、あの人たちはどこかのテロ組織が作った生物兵器か、未知の怪物だって言ってます。海パン連合軍の偉い人たちも、あいつらは人間の尊厳を踏みにじる敵だから、全部撃ち殺すしかないって」

 

ミオは自分の膝の上にある、引き裂かれたパステルピンクのフリルビキニを強く握りしめながら尋ねた。

 

「でも、私にはどうしてもそうは思えないんです。あの日、湘南のビーチで一番最初に水着を裂かれた時、あの人は私の裸なんて見向きもしないで、このピンクの布切れを見てすごく悲しそうな目をしていました。さっき消えちゃったあの人も、片腕をちぎられてあんなに苦しいはずなのに、私に謝るように頭を下げて、優しい目で笑ってくれたんです。ねえ、おじさん、大学の先生なんでしょう? あの人たちが本当は何者なのか、知っているなら教えてください!」

 

ミオの真っ直ぐで必死な眼差しを受け止め、シバタは眼鏡のブリッジを中指でグイと押し上げた。

背後に立つ助手のタカハシが、心配そうに周囲の暗闇を警戒しながら声を潜めて言った。

 

「先生、こんな場所で一般人に話して大丈夫ですか。ここも軍の警戒エリアのすぐ近くですし、もしドミニク司令の諜報網に感づかれたら」

 

「構わんよ、タカハシ君。見て分からんのか。この娘は、世界中でただの水着破壊パニックとして消費されているこの事象の裏で、彼らが流した涙の本当の温度に触れた数少ない人間の一人だ。真理を知る資格が十分にある」

 

シバタはそう断言すると、再びミオへと向き直った。夜の潮風がシバタの白髪交じりの髪と白衣の裾を激しく揺らす中、彼は静かに、しかし一言一言をミオの魂に刻み込むような重々しい口調で語り始めた。

 

「いいかね、ミオ君。まず結論から言おう。あの漆黒のブーメランパンツを穿いた男たちは、誰かが作った兵器でもなければ、地球外から来た侵略者でも、ましてや人間の変質者でもない。先日、ブラジルのリオデジャネイロで軍の銃弾に倒れた個体の残留物を、私の研究室で極秘に分析した。その結果、彼らの肉体には遺伝子であるDNAも、細胞を作るタンパク質も、一ミリグラムたりとも含まれていないことが判明したのだ」

 

「え? DNAもタンパク質もないって、じゃあ、さっき私が握ったあの冷たくて硬い筋肉は、何でできていたんですか」

 

ミオが目を丸くして自分の手のひらを見つめる。シバタは今しがた回収したばかりの、淡く光る白い塩の結晶が入ったサンプル管をミオの目の前に掲げた。

 

「水だよ。ただし、現代の人間が生活排水やマイクロプラスチック、日焼け止めクリームの化学物質で汚してしまった海水ではない。今から四十億年前、この地球に最初の生命が誕生するよりもさらに昔の、一切の不純物を含まない『太古の純粋な高濃度海水』と、未知のエネルギー場によってダイヤモンドのように強固に結びついた『結晶化ミネラル』だけだ。つまり、彼らは文字通り、母なる海そのものが人間の男の姿をとって地上へと顕現した『歩く海』、自然現象そのものなのだよ」

 

ミオは息を呑み、先ほど男が消えていった潮溜まりの水面を見つめた。あの透き通ったエメラルドグリーンの光と、胸の奥まで洗われるような清冽な潮の香り。あれが海そのものだったと言われれば、頭で考えるよりも先に、彼女の肌に残る感触がそれを真実だと肯定していた。

 

「でも、どうして海が人間の男の姿になって、しかも世界中のビーチで水着ばっかりを引き裂いて回っているんですか。海が人間を怒っているなら、津波とか台風で街を壊せばいいじゃないですか。どうしてブーメランパンツだけを穿いて、バタフライで泳いでいるんですか」

 

ミオの疑問に、シバタは深く頷き、ミオが握りしめているパステルピンクのフリルビキニの残骸を指差した。

 

「それこそが、今回の事件の核心だ。なぜ彼らがブーメランパンツ以外の水着をすべて引き裂くのかを知るには、人類と水着の歴史を振り返らなければならん。ミオ君、かつて太古の人類が、生きるために海という過酷な大自然へ挑んだ時、人間は何を身につけていたと思うね」

 

シバタは立ち上がり、岩場の上で自らの引き締まった肉体と、腰に密着した古い競泳用ブーメランパンツを月明かりの下に晒した。

 

「水という流体は、空気の八百倍もの密度を持つ。その中で余分な布地を纏うことは、水の激しい抵抗を受け、自らの命を危険に晒すことを意味した。だからこそ人類は、水の抵抗を極限までゼロに近づけ、自らの生身の肉体と生命力だけで大自然と対等に渡り合うため、急所を守る最小限の布――すなわち、このブーメランパンツという究極の機能美を生み出したのだ。それは人間が海に対して何一つ隠し事をせず、持てるすべての力で向き合うという、自然への畏怖と敬意の象徴だったのだよ」

 

シバタは再びミオを見下ろし、その手にあるピンクの布切れへと厳しい視線を向けた。

 

「だが、文明が発展し、生活が豊かになるにつれて、人類は堕落した。海を命がけで対話する神聖な大自然として畏れることを忘れ、単なる週末の安全な遊び場、あるいは自分の承認欲求を満たすための巨大な写真スタジオとしか見なくなったのだ。男たちは鍛えることを怠った己の体型を隠すためにダボダボのサーフパンツへと逃げ込み、女たちは水の中で泳ぐことすら放棄して、胸を大きく見せるためのシリコンの塊や、水の抵抗にしかならない幾重もの化学繊維のフリル、リボン、宝石を水着に縫い付けた。君が着ていたそのビキニが良い例だ」

 

ミオの肩がビクリと震えた。シバタの言葉は、あの日湘南のビーチで「海で泳ぐ気なんてさらさらなく、ただ可愛い自分をフォロワーに見せびらかすためだけ」にこの水着を着て配信していた彼女の胸を、鋭いナイフのように突き刺した。

 

「人類が他人の目を気にする矮小な『羞恥心』や、自分を着飾る『ファッション性(虚飾)』に魂を売り、水着の布面積と装飾を増やしていった歴史は、そのまま人類が自然との真剣勝負から逃げ出した敗北の歴史なのだ。そして、その大量消費の果てに、毎年何百万トンもの合成繊維のゴミや有害な化学物質が海へと垂れ流され続けた。四十億年の記憶を持つ地球という生命体は、人間の肌と海水を隔てるその『余分な布面積の増加』を、自然への敬意の喪失、すなわち地球を蝕む病気として認識したのだよ」

 

シバタの声が、夜の波音と重なって低く響き渡る。

 

「だから地球は、最後の免疫反応として、首都直下のプレートから彼ら『黒の行進』を産み落とした。彼らが最も過酷で神々しいバタフライ泳法で海を渡り、人間の水着を引き裂いているのは、決して我々を憎んでいるからでも、辱めようとしているからでもない。見栄と羞恥心という名の分厚い虚飾の殻に閉じこもってしまった愚かな人間たちを、もう一度、海と素直に対話していた頃の純粋な姿へと解放しようとしているのだ」

 

ミオの脳裏に、あの日自分のビキニを裂いた男の瞳と、リオの砂浜で銃弾に倒れた仲間の前で泣いていた男たちの姿、そして今しがた目の前で消えていった片腕の男の優しい微笑みが、走馬灯のように蘇った。

 

「しかも、彼らには生殖能力もなければ、数を増やす手段もない。最初に発生した推定十万体という数は、今の傷ついた地球が絞り出した純粋な生命エネルギーの限界量なのだ。海パン連合軍の銃弾や機雷によって一体が消滅すれば、それだけ母なる海の命そのものが削り取られ、二度と元には戻らない。彼らは自分が撃たれれば消えてしまうと知りながら、それでも人間に指一本触れず、ただ我々の目を覚まさせるためだけに、傷つき、涙を流しながら、こんな小さな布切れを引き裂き続けているのだよ!」

 

シバタが感情を昂ぶらせて叫んだ瞬間、ミオの目から再び、熱い涙がポロポロと堰を切って溢れ出した。

彼女は自分の膝の上にある、パステルピンクのフリルビキニを見つめた。

パリの人気ブランドの限定モデル。フリルがたくさんついていて、胸が大きく見えて、写真映えするからという、たったそれだけの理由で買った水着。そんなちっぽけな自分の見栄と「可愛いと思われたい」という虚栄心のために、地球が泣いていたのだ。自分の着ていたこのピンクの布切れが、あの優しくて美しい男たちの身体を傷つけ、その限りある命を削り取らせていたのだ。

 

「う、ううっ、そんな。私、そんなこと全然知らなくて。ただ可愛いからって、みんなに褒められたいからって、こんな偽物のパッドとフリルだらけの水着を着て、海を背景にして笑ってた。あの人たちが命がけで伝えてくれようとしていたのに、私、変態だとか怪物だとか言って、怖がって逃げることしかしてなかった!」

 

ミオはピンクのビキニの残骸を両手で胸に抱きしめ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。自分自身の浅はかさと、人間という生き物の傲慢さが、恥ずかしくて、情けなくて、胸が張り裂けそうだった。

 

しばらくの間、岩場にはミオの嗚咽と波の音だけが響いていた。

やがてシバタは、白衣のポケットから、黒いラバーで覆われた親指ほどの大きさの頑丈なUSBメモリを取り出した。軍用の高度な暗号化ロックがかけられた、防水・耐衝撃仕様の特殊メモリである。

シバタはしゃがみ込み、泣いているミオの目の前にその黒いメモリを差し出した。

 

「ミオ君。泣いている場合ではないぞ。君が本当に彼らに対して申し訳ないと思うのなら、君にしかできない役割があるはずだ」

 

ミオは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、鼻をすすりながらシバタの手元のメモリを見つめた。

 

「これ、なんですか」

 

「私がこれまで極秘に進めてきた、彼らの残留物の化学分析データ、ブーメランパンツと流体力学の歴史的考察、そして彼らが『地球自身の免疫反応(意志の集合体)』であるという動かぬ証拠をすべて記録した、研究データの完全なバックアップだ」

 

シバタはミオの冷たい手を取り、ピンクのビキニと一緒にその暗号化メモリを強く握らせた。

 

「私は明日、国際海洋学会の緊急シンポジウムと主要メディアを通じて、この真実を世界に公表するつもりだ。人類が今すぐ攻撃を止め、すべての虚飾の水着を捨ててブーメランパンツ一丁の姿に戻れば、彼らは必ず鎮まるとな。だが、数兆ドル規模のアパレル利権と軍需産業を背負っている海パン連合軍のドミニク司令にとって、私のこの研究は絶対に認めるわけにはいかない最大の邪魔者となるだろう」

 

シバタの眼鏡の奥の瞳が、冷徹な現実を見据えて鋭く細められた。

 

「おそらく軍の上層部は、力づくで私の口を封じ、学会のサーバーからデータを抹消して真実を隠蔽しようとするはずだ。私が国家反逆罪か何かで軍に拘束され、表舞台から消される可能性は極めて高い」

 

「えっ、消されるって、先生、そんな危ないことを」

 

「科学者が真理を前にして口を閉ざすことこそ、死に等しい。だが、私の身がどうなろうと、この真実の火種だけは絶対に消してはならんのだ。そこで君の出番だ、ミオ君」

 

シバタはミオの両肩をガシリと掴み、真っ直ぐにその瞳を覗き込んだ。

 

「君は三百万人ものフォロワーを持つ、世界的なインフルエンサーだろう。そして何より、あの日湘南で一番最初に彼らに水着を裂かれ、その映像が世界中に拡散された『事件の象徴』だ。もし私が軍に捕らえられ、公式なメディアがすべて情報統制された時は、このメモリのロックを解除し、君自身の言葉と影響力で、この真実を世界中の人々へ直接届けてほしいのだ。パスワードは『BLACK-ORIGIN』。太古の黒い起源という意味だ」

 

ミオは手の中の小さな黒いメモリの重みに、ゴクリと息を呑んだ。

巨大組織である海パン連合軍を敵に回し、世界中の人々が信じ込んでいる「正義の戦争」を真っ向から否定する。ただの女子大生である彼女にとって、それはあまりにも巨大で恐ろしい役目だった。

しかし、ミオの掌にはまだ、先ほど消えていった片腕の男の、あの清冽で力強い海の鼓動と、彼女を許すように微笑んだ最期の瞳の記憶が生々しく残っていた。

 

ミオは袖で涙を乱暴に拭うと、暗号化メモリを胸の前で固く握りしめ、力強く頷いた。

 

「分かりました。私、もう自分の見栄のために嘘をつくのはやめます。もし先生に何かあったら、私のアカウントがどうなろうと、絶対にこの真実を世界中に伝えてみせます!」

 

「うむ、いい目になったな。頼んだぞ、ミオ君」

 

シバタが満足そうに口元を緩めた、その時だった。

沖合の暗い海面から、サーチライトの強烈な白い光が幾筋も伸びてきて、岩場の周辺をなぎ払うように照らし始めた。遠くから、海パン連合軍の沿岸警備艇のエンジン音が複数近づいてくるのが聞こえる。機雷の爆発反応と、男が消滅した際のエネルギー波長を検知したパトロール部隊が、調査に向かっているのだ。

 

「先生、まずいです! 軍の哨戒艇がこっちに来ます!」

 

岩の上で見張りをしていたタカハシが、青ざめた顔で駆け下りてきた。

シバタは素早く立ち上がると、ミオの背中を軽く押した。

 

「よし、ここで鉢合わせしてはまずい。ミオ君、君は裏の防砂林の道からすぐに帰りたまえ。誰にも今のことは話してはいけないよ」

 

「は、はい! シバタ先生も、気をつけて!」

 

ミオは暗号化メモリと引き裂かれたビキニをパーカーのポケットに深くしまい込むと、もう一度だけ男が消えた白い塩の窪地に一礼し、暗闇の林道へと身を翻して走り去った。

シバタは彼女の小さな背中が闇に溶け込むのを見届けると、白衣の裾を翻し、迫り来る軍のサーチライトの光を睨みつけながら、自らの戦場である学会へと向かうべく夜の岩場を後にしたのだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。