東京の湾岸エリアに聳え立つ東京国際フォーラムの巨大ガラス棟は、八月の強烈な日差しを反射して白銀の要塞のように煌めいていた。その地下二階に位置する最大規模のコンベンションホールには今、世界中から集まった海洋学者や地球物理学者、環境保護団体の代表、そして数百社におよぶ国内外の報道陣が詰めかけ、異様な熱気と喧騒が渦巻いていた。
緊急招集された国際海洋学会の特別シンポジウムである。世界七つの海をマッハのバタフライで蹂躙し、ハワイ沖での激戦を経てなお人類を恐怖と混乱のどん底に陥れている『黒の行進』について、科学的な見地からその正体と対策を議論するための場であった。
しかし、壇上に並ぶ世界的な権威とされる老教授たちの議論は、大衆のヒステリーと海パン連合軍のプロパガンダに完全に迎合した、空疎で政治的な言葉の羅列に終始していた。
ある高名な海洋生物学者は、彼らを「海底火山の熱水噴出孔から生まれた未知の突然変異群体であり、人間の着用するカラフルな水着を捕食対象と誤認している危険な害獣である」と断定した。またある軍事アナリスト兼任の物理学者は、彼らが銃弾を受けて流す涙について「体内の高圧水分が衝撃によって眼球の隙間から噴出しているだけの物理現象であり、そこに人間のような感情や知性を見出すのは非科学的なセンチメンタリズムに過ぎない」と冷笑してみせた。会場のスクリーンには『#KillAll
ホールの最前列に近い記者席の片隅から、その茶番劇を冷ややかな、いや、煮えたぎるような怒りの眼差しで見つめている男がいた。
東都海洋大学の准教授、シバタである。
普段はヨレヨレの白衣の下に十五年モノの競泳用ブーメランパンツ一丁という奇抜な格好で研究室に籠もっている彼だったが、今日ばかりは世界中のメディアのカメラが集まる公式の場とあって、珍しくチャコールグレーの麻のジャケットとスラックスを着用していた。だが、その仕立ての良い服の下には、もちろんYシャツもネクタイも身につけてはおらず、素肌に直接ジャケットを羽織り、ズボンの下には愛用する色褪せた紺色のブーメランパンツをしっかりと穿き込んでいる。潮風と紫外線に灼かれた浅黒い顔には深い皺が刻まれ、無造作に撫でつけられた白髪交じりの黒髪の下で、分厚いレンズの眼鏡が照明を反射してギラリと光っていた。彼の隣では、助手の大学院生であるタカハシが、発表用のデータが入ったノートパソコンと分厚い資料の束を胸に抱え、緊張で顔を青ざめさせながら小刻みに震えている。
「先生、本当にこの空気の中で発表するんですか。会場の周りにも、海パン連合軍の腕章をつけた警備兵がたくさん立っていますよ。もし僕たちが連中を擁護するような発表をしたら、袋叩きに遭うんじゃ」
タカハシが消え入りそうな声で耳打ちすると、シバタは鼻を鳴らし、鍛え上げられた分厚い胸板を張って答えた。
「臆するな、タカハシ君。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えた時も、周囲はこのような無知と傲慢の壁に囲まれていたのだ。学者どもが保身と大衆への阿諛追従に魂を売り渡している今、私たちが真実を語らねば、誰が母なる海の涙を代弁するというのか」
その時、壇上の司会者がプログラムの進行表に目を落とし、マイクに向かって少し迷惑そうな声で告げた。
「えー、続きまして、東都海洋大学のシバタ准教授より、個体群の組成分析および行動原理に関する独自の緊急報告がございます。持ち時間は十分です。シバタ准教授、壇上へどうぞ」
会場の学者たちの間から、クスクスという嘲笑と、やれやれといった溜息が漏れた。「海は巨大な一つの生命体である」というガイア理論を唱えるシバタは、この学会においてすでに爪弾き者のマッドサイエンティストとして知れ渡っていたからである。誰もが、この緊迫したシンポジウムの場違いな幕間劇程度にしか彼を見ていなかった。
だが、シバタは周囲の嘲笑など微塵も意に介さず、堂々たる足取りで中央の階段を上り、演台の前へと立った。タカハシが慌てて後ろから追いかけ、演台脇のコンソールにノートパソコンを接続する。
シバタはマイクの角度をぐいと自分の口元へ引き寄せると、まず会場を埋め尽くす数千人の聴衆と、無数のテレビカメラのレンズを、分厚い眼鏡の奥の鋭い双眸でゆっくりと見渡した。
「諸君。先ほどから壇上で繰り広げられている愚劣極まりない議論を聞いて、私は同じ科学者として深い絶望と羞恥を禁じ得ない」
第一声から会場の空気を逆撫でするようなシバタの言葉に、ホール内がざわめき立った。最前列に座っていた学会の重鎮である白髪の老教授が、顔をしかめて怒鳴った。
「シバタ君、言葉に気をつけなさい! 我々は海パン連合軍と連携し、人類の危機を救うための現実的な討議を行っているのだぞ!」
「現実的な討議だと? まだ一度も彼らの残留物を精密分析することすらしていない連中が、よくもまあそんな寝言を言えたものだ。タカハシ君、最初のスライドを出しなさい!」
シバタが指を鳴らすと、背後の高さ十メートルにおよぶ巨大スクリーンに、高分解能質量分析計と次世代シーケンサーの解析グラフ、そしてX線結晶構造解析の三次元モデルが一斉に映し出された。先ほどまでの抽象的な議論とは一線を画す、圧倒的に緻密で生々しい科学データの羅列に、会場の科学者たちの目が思わず画面へと釘付けになる。
「これは、先日ブラジルのリオデジャネイロで軍の対物ライフルに撃ち抜かれ、消滅した個体の体液および残留結晶を、私の研究室で極秘に分析したデータだ。目を皿にしてよく見ろ! 彼らの肉体からは、DNAも、RNAも、細胞を構成するタンパク質や脂質すら、一ミリグラムたりとも検出されなかった! 彼らを構成していたのは、現代のあらゆる環境汚染物質を一切含まない、四十億年前の原始海洋と完全に一致する『太古の純粋な高濃度海水』と、未知のエネルギー場によって水分子を固定した『結晶化ミネラル』だけなのだ!」
ホールの中が、水を打ったように静まり返った。報道陣のカメラのシャッター音だけが、機関銃のように激しく鳴り響く。
「DNAもタンパク質も存在しないだと? 馬鹿な、ではあの筋肉の塊は何だというのだ!」
会場の中央から、アメリカの海洋研究所の所長が立ち上がって叫んだ。シバタは指示棒を振り上げ、スクリーンの結晶構造モデルを強く叩いた。
「水だよ! 母なる海そのものが、自らの最も純粋な深層水を人間の男の姿へと凝縮させ、地上へと送り出したのだ! 彼らは突然変異の害獣でもなければ、誰かが作った生物兵器でもない。東京湾の汚れた海水を瞬時にエメラルドグリーンへと浄化し、銃で撃たれれば血ではなく透き通った海水を流して水蒸気へと還る。彼らは、地球という巨大な生命体が引き起こした純粋なる『自然現象』であり、地球自身の意志の集合体なのだ!」
シバタの獅子吼がホール全体にビリビリと反響した。テレビカメラの向こう側、生中継を見守っている世界中の視聴者や、ニューヨークの地下司令部のモニターにも、シバタの姿と決定的な科学データがリアルタイムで映し出されていく。
「では、なぜ地球の意志である彼らが、人間の男の姿を取り、あの漆黒のブーメランパンツだけを穿いて世界中の水着を引き裂いて回っているのか! 次のスライドだ、タカハシ君!」
スクリーンが切り替わり、古代の潜水漁の壁画から近代の競泳水着の流体力学データ、そして過去五十年間の『世界の水着の布面積の増加と海洋汚染の相関グラフ』が映し出された。
「このグラフを見ろ! かつて人類は、水という大自然の圧倒的な抵抗を極限まで減らし、己の生身の肉体と生命力だけで海と対等に渡り合うため、急所を守る最小限の布、すなわち『ブーメランパンツ』という究極の機能美を生み出した。それは自然への畏怖と敬意の象徴だったのだ! だが、現代の人類はどうだ! 海を畏れる心を忘れ、他人の目を気にする矮小な羞恥心からダボダボのサーフパンツやラッシュガードで肌を隠し、あるいは海をただのインスタ映えの背景としか見ずに、泳ぐ役にも立たない化学繊維のフリルやシリコンのパッドで身体を飾り立てた!」
シバタは演台から一歩前へと踏み出すと、自らが着ていたチャコールグレーのジャケットとスラックスのベルトに手をかけ、聴衆の目の前でそれらを一気に剥ぎ取って床へと放り投げた。
ホール中から、悲鳴にも似たどよめきが巻き起こる。
照明の下に露わになったのは、四十五歳の学者とは思えぬほど見事に鍛え上げられた、体脂肪率数パーセントの鋼のような細マッチョの肉体と、その腰にピタリと密着した十五年モノの色褪せた紺色の競泳用ブーメランパンツただ一枚だけであった。
「見ろ、この姿を! これこそが、人間が海に対して何一つ嘘をつかず、虚飾を捨てて向き合うための本来の正装だ! 地球は、人類が水着の布面積を増やし、合成繊維のゴミと化学物質で海を汚し続ける現状を、自然への敬意の喪失、すなわち惑星を蝕む『病気』として認識したのだ! あの男たちは侵略者ではない! 見栄と羞恥心の殻に閉じこもった我々人類を、もう一度素直な姿へと解放するために母なる海が送り込んだ『地球自身の
シバタは自らの分厚い胸板を拳でドンと叩き、マイクが割れんばかりの声量で絶叫した。
「彼らには生殖能力もなく、数は初期の十万体から減る一方だ! 我々が銃や機雷で彼らを殺すたび、母なる海の純粋な命そのものが削り取られているのだぞ! だから彼らは、引き裂いたくだらない水着の布切れと、死んだ仲間の亡骸を見比べて、人間の愚かさに涙を流しているのだ! 人類よ、今すぐ攻撃を止めろ! 海パン連合軍の銃を下ろさせろ! 我々が今すぐサーフパンツやフリルビキニという名の虚飾を脱ぎ捨て、全人類がこのブーメランパンツ一丁の姿に戻って海へ謝罪すれば、彼らは必ず鎮まり、海へと還っていくのだ!」
圧倒的な熱量と、狂気すれすれの説得力を持ったシバタの演説に、会場の空気は完全に呑み込まれていた。先ほどまで彼を嘲笑っていた学者たちも、ペンを走らせていた記者たちも、ブーメランパンツ一丁で仁王立ちするシバタの神々しいまでの気迫と、スクリーンに映し出された動かぬ科学データの前に、誰一人として反論の声を上げることができなかった。
だが、その沈黙を破ったのは、ホール後方の重厚な防音扉が外側から乱暴に蹴り開けられる、乾いた破壊音だった。
バンッ! という轟音とともに、黒いタクティカルアーマーとフルフェイスのヘルメットに身を包み、自動小銃を構えた数十人の武装兵士たちが、一糸乱れぬ動きでホール内へと雪崩れ込んできたのである。彼らの肩には、海パン
「きゃあああっ! な、なんだ、軍隊だ!」
会場の記者や学者たちがパニックになって椅子から立ち上がる。兵士たちは素早く通路を駆け下りると、中継カメラを回していたテレビ局のクルーたちの前に立ちはだかり、銃床でカメラのレンズを次々と叩き割って強制的に放送を遮断した。
同時に、壇上の巨大スクリーンに映し出されていたシバタの分析データのスライドが、激しいノイズとともにプツリと消え去った。
代わりにスクリーン全面に映し出されたのは、ニューヨークの国連本部地下にある最高司令部から直接割り込んできた、ドミニク・ハワード最高司令官の巨大な顔だった。
ボトックスで張り詰めた能面のような白人の顔は、極度の嫌悪と冷酷な怒りによって氷のように固まっている。首元までを完全に覆う特注の迷彩柄ラッシュガードを着込んだドミニクは、スクリーンの中から、壇上でブーメランパンツ一丁になっているシバタの姿を、まるで汚物でも見るかのような灰色の瞳で見下ろした。
「そこまでよ、シバタ准教授。いいえ、露出狂の哀れなテロリストさんと言った方がいいかしら」
ホール全体に設置されたスピーカーから、ドミニクの冷たく増幅された声が響き渡った。
シバタは壇上で一歩も退かず、腕を組んでスクリーンのドミニクを真っ直ぐに睨み返した。
「ドミニク・ハワードか。カメラを壊し、言論の場を軍靴で踏みにじるとは、ずいぶんと野蛮なやり口だな。私の提示したデータが、よほどあなた方の都合に悪いと見える」
「データですって? 笑わせないでちょうだい」
ドミニクは黒い革手袋をはめた手で口元を覆い、氷の刃のような嘲笑を浴びせかけた。
「あなたが捏造したその馬鹿げたオカルト論文が何を主張しているかと思えば、『人類はすべての水着を捨てて、黒いブーメランパンツ一丁になれ』ですって? 正気なの、あなた。人間が何千年の歴史をかけて築き上げてきたファッションの文化も、個人の羞恥心や尊厳を守るための美しいドレスも、そして年間数兆ドルを生み出し数千万人の雇用を支えている世界のアパレル・リゾート経済も、たかがパンツ一丁になるためにすべてドブに捨てろと言うの? そんなこと、文明社会において万に一つもあり得ないわ!」
ドミニクの声は次第にヒステリックな熱を帯び、ホール内の学者や企業関係者たちの恐怖と利己心を巧みに煽り立てた。
「いいこと、会場の皆さん! この男は、私たちの豊かな経済と自由な社会を根底から転覆させ、人類を原始時代の裸の猿へと退化させようと企む、過激派エコテロリストのスパイよ! あの気味の悪い筋肉の怪物どもを『地球の意志』などと神格化し、海パン連合軍の防衛作戦を妨害する行為は、全人類に対する明確な裏切りに他ならないわ! ただいまをもって、シバタ准教授を『エコテロリストとの内通および国家反逆罪』の現行犯で逮捕・拘束する! 憲兵隊、その見苦しい裸の男を今すぐ壇上から引きずり下ろしなさい!」
「はっ!」
壇上へと駆け上がった六人の屈強な憲兵隊員が、シバタとタカハシの周囲を完全に包囲した。
タカハシが「や、やめろ! これは純粋な科学研究だ!」と叫んでノートパソコンを抱え込んだが、兵士の一人に鳩尾を蹴り上げられ、うめき声を上げて床へと転がされた。兵士たちはタカハシの手からパソコンと資料の束を乱暴に奪い取ると、その場でパソコンを床に叩きつけ、軍靴の踵でハードディスクを粉々に踏み砕いた。
「タカハシ君! 貴様ら、人類の叡智の結晶に何をするか!」
シバタが怒りの形相で踏み出そうとした瞬間、四人の憲兵が四方から同時に飛びかかり、シバタの鍛え上げられた両腕と両脚を背後から押さえ込んだ。シバタは潜水調査で培った驚異的な背筋力で二人の兵士を振り飛ばしかけたが、隊長格の兵士が彼の首筋に高圧電流のスタンガンを容赦なく押し当てた。
バチィッ! という青い火花が散り、シバタの引き締まった肉体が激しく痙攣して演台の横へと膝をつく。
兵士たちはすぐさまシバタの両手首を背中に回し、分厚い鋼鉄の手錠をガチャリと食い込ませた。さらに、ブーメランパンツ一丁の彼の姿をカメラから隠すかのように、黒い拘束用の防弾布を頭から乱暴に被せようとする。
だが、シバタは激しく首を振ってその黒い布を振り払うと、鼻から血を流しながらも顔を上げ、会場の学者たちと、スクリーンの向こうのドミニクに向かって最後の力を振り絞って叫んだ。
「目を覚ませ、愚かな人類どもよ! いくら私の口を封じ、研究データを踏み砕こうとも、母なる海の怒りと悲しみを隠蔽することなどできんぞ! あなた方が守ろうとしているその華やかな水着の布切れは、いずれ地球そのものを窒息させる死装束になるのだ! 真実は、決して消えはせん! 必ずや、虚飾を脱ぎ捨てた新たな使者が、この真実を世界中に解き放つだろう!」
シバタの脳裏には、昨日の夜、湘南の暗い岩場で涙を流しながら暗号化メモリを握りしめていた、あの若い女子大生インフルエンサー、ミオの真っ直ぐな瞳が浮かんでいた。
東都海洋大学の地下研究室には、今この瞬間にも海パン連合軍の別動隊が突入し、すべてのサーバーと実験機材、そしてリオから取り寄せたサンプルを跡形もなく押収・焼却しているに違いない。だが、ミオに託したあの親指大の黒いメモリだけは、ドミニクの諜報網も絶対に掴んではいないはずだった。
「黙りなさい! さっさと口に猿轡を噛ませて、横須賀の極東基地の地下独房へ放り込むのよ! 二度と太陽の光を拝ませるんじゃないわ!」
ドミニクの冷酷な命令とともに、兵士の一人がシバタの顔を床へと強く押し付け、強制的に黒い目隠し袋を頭から被せた。
両脇を抱えられてホールから引きずり出されていくシバタと、泣き叫びながら連行されるタカハシの姿を、会場に残された数百人の学者や記者たちは、恐怖に凍りついたまま誰一人として助けようともせず、ただ黙って見送るだけだった。やがてスクリーンには『放送機材トラブルのため中継を終了します』という無機質なテロップが表示され、国際海洋学会のシンポジウムは、軍事力による完全なる言論封殺をもって幕を閉じた。
一時間後、世界中のネットニュースやテレビからは、シバタの発表に関するあらゆる記録と動画が、海パン連合軍のサイバー部隊によって検閲・削除されていた。公式発表として流されたのは、「学会に乱入してわいせつな姿でテロリストの宣伝を行った狂信的な大学教授を、国家反逆罪で逮捕した」という、わずか数行の歪曲された記事だけであった。
真実は闇へと葬られ、人類が自らの手でブレーキを踏む最後の機会は、ドミニクの革手袋によって握り潰されたかに見えた。
そして、邪魔者をすべて排除した海パン連合軍の最高司令部では、中部太平洋のポイント・ネモへと集結しつつある残り三万体の『黒の行進』に対し、人類の歴史上、決して越えてはならない「核の境界線」を踏み越えるための、最悪のカウントダウンが始まろうとしていた。