ブーメラン・バタフライ   作:ろくさん

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第19話:最悪の決断

アメリカ合衆国ニューヨーク、マンハッタン島の東端に位置する国際連合本部ビル。その地下数百メートルの岩盤をくり抜いて建造された超法規的防衛組織、海パン連合軍の最高司令部は、外界の太陽の光や潮風から完全に遮断された、巨大な鋼鉄の棺桶のような場所であった。分厚い鉛と強化コンクリートの壁に囲まれた最高戦略会議室の中央には、直径十メートルにおよぶ円形のホログラム投影テーブルが鎮座し、その周囲には世界の運命を左右する主要国の首脳陣や国防長官、そして海パン連合軍に莫大な資金を提供している巨大アパレル・リゾート複合企業の最高経営責任者たちが、重苦しい沈黙の中で顔を揃えていた。

 

室内の空調は極限まで低く設定されており、肌を刺すような冷気が漂っている。ホログラムテーブルの上に浮かび上がっているのは、青く輝く地球の立体映像と、その表面を移動する無数の赤い光点の群れであった。会議室の最奥、一段高い議長席に深く腰掛けている最高司令官のドミニク・ハワードは、黒い革手袋に包まれた指先をゆっくりと組んで、そのホログラムの光を氷のような灰色の瞳で見下ろしていた。

 

五十二歳になる彼女の顔は、ボトックスと美容整形によって皺一つない陶器のような滑らかさを保っているものの、その内側には、東京のシンポジウムでシバタ准教授が強行した演説への激しい怒りと、自らの絶対的な権力を誇示しようとする冷酷な野心が渦巻いていた。彼女は今日もまた、自らの貧相で老いた肉体を他者の視線から完全に隠蔽するため、首元の顎下まで隙間なく覆う特注の迷彩柄ラッシュガードを着込み、その上から漆黒のウェットスーツ素材で仕立てられた軍服風のロングコートを羽織っている。

 

ドミニクの斜め後ろに設けられた特別顧問席には、パリから緊急招集された世界的トップ水着デザイナー、エレナ・ヴァレンティノが座っていた。三十六歳の美の女帝は、プラチナブロンドの髪を完璧なシニヨンにまとめ、スワロフスキーと七層のフリルをあしらった純白のドレス水着の上に高級な毛皮のストールを掛けていたが、その美しい顔立ちには深い疲労と困惑の色が濃く滲んでいた。数日前、コート・ダジュールのテストビーチで、自らが心血を注いで開発した絶対防御水着『イージス・フリル』が、指を砕きながら涙を流して殺到した男たちの執念の前に引き裂かれたあの光景が、今も彼女の脳裏から離れずにいたのである。

 

ドミニクが革手袋の指先で手元のコンソールを軽く叩くと、ホログラムの地球儀がぐるりと回転し、南太平洋の中央部が大きく拡大された。

 

「皆様、お集まりいただきありがとうございます。まずは現在の戦況について、最終的な報告をさせていただきますわ」

 

ドミニクの冷たく澄んだ声が、静まり返った会議室に響き渡った。彼女は立ち上がると、レーザーポインターの赤い光を、南米チリ沖から西へ数千キロ離れた絶海の海域へと向けた。

 

「ハワイ沖での大規模な迎撃作戦、および世界各地の機雷原による掃討の結果、今から二週間前に日本の首都直下から発生した推定十万体の個体群は、現在およそ三万体にまで減少しています。連中に生殖能力や分裂能力がないことはすでに証明されました。そして現在、生き残った約三万体の主力群は、世界各地の海岸線から一斉に撤退し、この中部太平洋の深海域、通称『ポイント・ネモ』へと向かって集結を続けています」

 

ホログラムの海図上に、ニュージーランドと南米大陸、そして南極大陸のちょうど中間に位置する、文字通り何もない青い海のど真ん中が示された。無数の赤い光点が、まるで傷ついた獣が巣穴へ戻るかのように、その一点へ向かって世界中から細い線を描いて収束している。

 

テーブルの向かいに座っていたアメリカ合衆国の国防長官が、太い葉巻を灰皿に押し付けながら、訝しげに眉をひそめた。

 

「ポイント・ネモだと? どの陸地からも二千六百キロ以上離れた、地球上で最も人間から遠い到達不能極ではないか。連中、いったいそんな何もない海のど真ん中に集まって何をするつもりなのだ。そこには引き裂くべき水着も、襲撃すべきビーチも存在しないぞ」

 

「おそらく、傷ついた肉体の再編成か、あるいは深海のプレート境界へ潜ってエネルギーを再充填するつもりでしょうね」

 

ドミニクはさも当然といった口調で答えた。その言葉の裏には、昨日シバタ准教授から押収した極秘研究データの断片が巧妙に利用されていたが、彼女はその核心部分である『彼らが地球自身の免疫反応である』という事実についてはおくびにも出さなかった。

 

「ハワイ沖の戦闘で、連中の多くは手足を欠損し、移動速度も大幅に低下しています。これまでの連中は地球全体に散らばっていたため、我が海パン連合軍の艦隊をもってしても一網打尽にすることは困難でした。ですが、見ての通り、いまや生き残った三万体のすべてが、直径わずか五十キロメートル足らずの狭い海域に自ら密集してくれているのです」

 

その時、ヨーロッパの巨大リゾート企業連合の会長を務める老人が、震える手でテーブルを叩き、苛立たしげに声を上げた。

 

「密集していようがいまいが、早く連中を全滅させてもらわねば困るのだよ、ドミニク司令官! ハワイでの戦闘映像が流れて以来、世論は『#KillAllBoomerangs』で盛り上がる一方、昨日の東京での学会テロの噂がネットの闇サイトで拡散され、一部の消費者の間に妙な動揺が広がっている! 夏が終わってしまう前に、あの気味の悪い黒いブーメランパンツどもがこの世から完全に消滅したという確定的な事実を作らなければ、来期のスイムウェア市場もホテル業界も完全に破綻してしまうのだぞ!」

 

老会長の悲鳴に近い要求に、他のアパレル企業のトップや観光大臣たちも一斉に頷き、口々に早期決着を求める声を上げた。彼らにとって重要なのは、四半期ごとの決算数字と株価の回復だけであり、そのためにどれほどの血が、いや、どれほどの純粋な海水が流されようとも知ったことではなかったのである。

 

ドミニクは満足そうに目を細め、騒ぎ立てる首脳たちを片手で制した。彼女の能面のような顔に、氷の彫刻が微笑んだかのような、残酷で蠱惑的な笑みが浮かぶ。

 

「ご安心なさい、皆様。そのために本日、この最高戦略会議を招集したのですから。現在、ポイント・ネモの周辺海域は、我が海パン連合軍の太平洋艦隊百二十隻によって完全に包囲されています。ですが、水深四千メートルを超えるあの海域で、通常の魚雷や機関砲を用いて三万体を一匹残らず仕留めようとすれば、数週間もの時間と莫大な弾薬を消費し、取り逃がすリスクも生じるでしょう」

 

ドミニクはそこで言葉を切ると、手元の端末を操作し、ホログラムの中央に一発の巨大なミサイルの三次元設計図を浮かび上がらせた。黒く塗装された流線型の弾頭の内部には、複雑な磁気閉じ込めコイルと、禍々しい黄色の放射能マークが鮮やかに刻印されている。それを見た瞬間、各国の軍人たちの顔からサッと血の気が引いた。

 

「そこで私は、この戦争を今日この場で、たった一撃で永遠に終わらせるための最終解決策を提案します。我が軍の兵器開発部門が極秘裏に完成させた、局地殲滅用・新型熱核弾頭『ポセイドン・パージ』の投入です」

 

「なっ、核だと!?」

 

イギリスの代表が椅子をガタリと鳴らして立ち上がった。特別顧問席で黙って話を聞いていたエレナもまた、息を呑んで大きく目を見開き、ドミニクの背中を凝視した。

 

「正気か、ドミニク司令官! たかが水着を引き裂くだけの生物を駆除するために、核兵器を使用するつもりか!? 冷戦終結以降、いかなる戦争においても使用されてこなかった核のタブーを、こんなことで破るなど国際社会が絶対に許さんぞ!」

 

顔を真っ赤にして抗議するイギリス代表に対し、ドミニクは眉一つ動かさず、冷ややかな声で言い返した。

 

「旧世代の汚い核兵器と一緒にしないでいただきたいわね。この『ポセイドン・パージ』は、核分裂の起爆プロセスを極限まで抑え、純粋な重水素と三重水素の核融合反応のみを水中で指向性爆発させる、最新鋭のクリーンな戦術熱核兵器よ。残留放射能による海洋汚染は従来の百分の一以下に抑えられるわ。その一方で、爆発の中心温度は数億度に達し、半径三十キロメートル以内の海水を、そこに浮かぶ三万体の薄汚い筋肉ダルマどもごと、一瞬にして跡形もなく蒸発させることができるのよ」

 

ドミニクは自らの首元のラッシュガードを指先で撫でながら、うっとりとした狂気の瞳でホログラムの核弾頭を見つめた。

 

「考えてもごらんなさい。ポイント・ネモは、一番近い有人島からでも二千キロ以上離れているわ。民間人の被害はゼロ、建物の損壊もゼロよ。ただ誰もいない太平洋のど真ん中で、少しばかり大きな水蒸気の花火が上がるだけ。それだけで、あの忌々しい漆黒のブーメランパンツは地球上から永遠に絶滅し、明日から世界中の人々が再び安心して私たちの美しいビキニとサーフパンツを買い求めるようになるのよ。これ以上、人道的で経済的な解決策が他にあるかしら?」

 

会議室の中に、悪魔の囁きが深く静かに染み渡っていく。核兵器の使用という人類最大の禁忌と、数兆ドルの市場を一瞬で取り戻せるという抗いがたい誘惑。首脳や企業家たちの目が、恐怖と欲望の間で激しく揺れ動いた。

 

「しかし、いくら汚染が少ないとはいえ、太平洋の真ん中で核を爆発させれば、海洋生態系や海流にどのような影響が出るか分からん。環境保護団体や世論が黙っていないのではないか」

 

フランス代表が弱々しく口を挟むと、今度はアメリカの国防長官が、吹っ切れたように太い腕を組んで頷いた。

 

「いや、ドミニク司令官の言う通りかもしれん。昨日の世論調査を見ただろう。国民の九割近くが『手段を選ばずブーメランを皆殺しにしろ』とヒステリーを起こしているのだ。通常兵器でダラダラと戦闘を長引かせ、もし連中が再びマイアミやコート・ダジュールに上陸してくれば、我々政府の支持率は地の底に落ちる。ポイント・ネモの絶海で一撃で蒸発させてしまえば、大衆はむしろ『人類の断固たる勝利』として喝采を送るはずだ」

 

「そうだ、その通りだ! 連中は生物ではなく、ただの海水の塊だという噂もある。ならば核で蒸発させても、動物愛護法にすら引っかからんではないか!」

 

先ほど声を荒らげていたリゾート企業連合の老会長が、真っ先に賛同の声を上げた。一度誰かが「正義」の言い訳を見つければ、あとは雪崩を打つように集団心理が傾いていく。次々と各国の首脳や企業のトップたちが、「経済回復のためだ」「やむを得ない自衛措置だ」と自らに言い聞かせるように頷き始めたのである。

 

彼らにとっては、あの男たちが銃弾を受けて流した涙も、人間の肌に傷一つつけまいとして自らの指を砕いた優しさも、すべては市場の利益を損なうノイズでしかなかった。人間の見栄と羞恥心、そして金銭欲を守るためなら、母なる海の化身に向けて核の炎を放つことすら躊躇わない。それこそが、現代文明が行き着いた傲慢の極致であった。

 

「では、決まりね」

 

ドミニクは灰色の瞳をギラリと光らせ、議長席の承認パネルに手を置いた。

 

「ただいまより、海パン連合軍最高戦略会議は、ポイント・ネモ集結個体群に対する新型戦術熱核兵器『ポセイドン・パージ』の使用を全会一致で承認するわ。発射時刻は、連中の全個体が標的エリアの中心に収束する四十八時間後。アラスカの戦略ミサイル基地から大陸間弾道ミサイルによって撃ち出し、太平洋の海面ごと連中を地獄へ送り返してやるわよ」

 

会議室に、重苦しくも熱狂的な拍手が湧き起こった。人類が自らの手で、取り返しのつかない破滅のトリガーに指をかけた瞬間であった。だが、その拍手の渦の中で、ただ一人、特別顧問席に座っていたエレナ・ヴァレンティノだけが、血の気を失った真っ白な顔で立ち尽くし、自らの震える両手を見つめていた。

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