ブーメラン・バタフライ   作:ろくさん

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第2話:湘南の悲鳴

新宿のスクランブル交差点を突如として埋め尽くし、硬いアスファルトの上を水しぶきを上げながらバタフライで泳ぎ去った漆黒のブーメランパンツ集団。お台場から東京湾へと飛び込み、外洋へ向けて姿を消した推定十万体におよぶ謎の男たちのニュースは、発生からわずか数時間で世界中のメディアとインターネットを席巻していた。

しかし、その受け止められ方は、人類の危機というにはあまりにも呑気で、どこか祝祭的な空気すら帯びていた。

なぜなら、あれほどの大規模な集団が猛烈な速度で首都を縦断したにもかかわらず、死者も負傷者も、さらには窓ガラス一枚の破損すら報告されなかったからである。彼らが通り過ぎた後の道路は、なぜか長年こびりついていた排気ガスの煤やガムの噛みカスまで綺麗に洗浄されており、ほのかな潮の香りが漂うばかりだった。

 

翌日の朝刊やワイドショー、そしてSNSのタイムラインは、この前代未聞の珍事を面白おかしく消費する言葉で溢れかえった。

あるコメンテーターは、最新鋭のホログラム技術と特殊メイクを駆使したハリウッド映画のゲリラプロモーションだとしたり顔で解説した。またあるネットユーザーは、海外の過激なボディビル団体やプロテインメーカーによる新手のフラッシュモブに違いないと書き込み、何十万もの共感を集めていた。スマートフォンで撮影された、アスファルトから半身を跳ね上げてバタフライを泳ぐ筋骨隆々の男たちの動画には、軽快なダンスミュージックが合成され、瞬く間に数億回再生を超えるミームとして世界中のお茶の間に笑いを振りまいていた。

人々はエアコンの効いた部屋で冷たい飲み物を手にしながら、画面の中の黒いブーメランパンツの群れを指差して笑った。誰も気づいてはいなかったのだ。あの彫刻のような男たちの瞳に宿っていた深い悲哀が、何を意味していたのかを。

 

そして事件の翌日、真夏の太陽が照りつける神奈川県、湘南海岸。

由比ヶ浜から江ノ島を望む広大な砂浜は、都会の喧騒と昨日の珍ニュースなどどこ吹く風とばかりに、カラフルなパラソルと水着姿の若者たちで埋め尽くされていた。海の家からは最新のサマーチューンが大音量で鳴り響き、焼きそばのソースが焦げる香ばしい匂いと、ココナッツオイルの甘い香りが潮風に混ざり合っている。

 

そのビーチの一角、ひときわ目を引く白い天蓋付きのプライベートシートの前で、一人の若い女性がスマートフォンを固定した自撮り棒を片手に、眩しい笑顔を振りまいていた。

現役女子大生インフルエンサーのミオ、二十歳。プラットフォームのフォロワー数は三百万人を超え、同世代の女性からはファッションのカリスマとして、男性からは抜群のプロポーションを誇るグラビアアイドル顔負けの美少女として絶大な支持を集めている。

明るい栗色に染められた緩やかなウェーブヘアが潮風に揺れ、大きな瞳と形の良い唇が太陽の光を浴びてツヤツヤと輝いている。そして何より周囲の視線を釘付けにしていたのは、彼女の瑞々しい肢体を包む、今年の新作水着だった。

 

それは、パステルピンクを基調とした極上のフリル付き三角ビキニだった。

胸元には幾重にも重なるシフォン素材のフリルと、白いレースのリボンがふんだんにあしらわれ、彼女の豊満なGカップのバストをさらに大きく、華やかに見せている。腰回りのショーツにも同様に愛らしいフリルのスカートが付属しており、動くたびにピンクの花びらのように揺れていた。水に入って泳ぐための機能性など最初から考慮されていない、ただ砂浜で他者の視線を集め、写真の中で最も可愛く映えることだけを目的として作られた、現代のビーチファッションの結晶とも呼べる一着である。

 

ミオは画面の中で高速で流れていく視聴者のコメントを読み上げながら、小首を傾げてみせた。

 

「みんな、こんにちは。ミオだよ。今日は朝から湘南のビーチに来てまーす。見て見て、このビキニ、パリの人気ブランドの限定モデルなんだよ。フリルがすっごく可愛くない?」

 

画面の向こう側からは、ミオの可愛さを絶賛するコメントや、水着のブランド名を尋ねる質問、そして高額なデジタルギフトが滝のように送られてくる。ミオは満足そうに胸を張り、フリルの隙間から覗く深い谷間をさりげなく強調するようにカメラの角度を調整した。

彼女にとって、海とは泳ぐ場所ではなかった。自分を最も美しく演出するための巨大な書き割りであり、承認欲求を満たすためのステージに過ぎない。足首まで水に浸かることはあっても、髪が濡れてメイクが崩れるような真似は絶対にしないのが、彼女たちの世代の不文律だった。

 

ふと、コメント欄に昨日の新宿の事件に触れる書き込みがいくつか流れた。ミオはくすくすと笑いながら、白い歯を見せて答えた。

 

「ああ、昨日のブーメランパンツのお兄さんたち? ミオも動画見たよ。道路をバタフライで泳ぐなんて、CGだとしても発想がヤバすぎだよね。もしこのビーチにも現れたら、一緒にコラボ配信しちゃおうかな」

 

ミオが冗談めかしてウインクをした、まさにその瞬間だった。

彼女の背後、きらきらと日差しを反射していた穏やかな相模湾の沖合で、異変が起きた。

 

突如として、海の家から流れていた音楽や人々の歓声をかき消すほどの、低く重い轟音が海面から響き渡ったのである。まるで海底火山の噴火か、あるいは巨大な潜水艦が急速浮上してきたかのような地鳴りだった。

ミオの笑顔が引きつり、ビーチにいた数千人の海水浴客が一斉に海へと視線を向けた。

 

水平線の少し手前、青い海面が不自然なほど白く泡立ち、一本の巨大な白い線が岸に向かって猛烈な速度で伸びてきていた。モーターボートや水上バイクではない。その白い飛沫の帯は、幅数百メートルにわたって横一列に広がり、通常の波の何十倍ものスピードで浅瀬へと迫ってくる。

 

「え、なに、あれ。津波じゃないよね」

 

誰かが不安げに呟いた直後、浅瀬の海面が爆発したように弾け飛んだ。

高く舞い上がった白い水柱の中から現れたのは、太陽の光を弾く浅黒い筋肉の壁だった。

百九十センチ近い長身に、一分の隙もない彫刻のような肉体。そして、鍛え抜かれた腰回りにピタリと張り付いた、光を吸い込むような漆黒のブーメランパンツ。

昨日、新宿のアスファルトから噴出し、東京湾へと消えたはずのあの男たちだった。

 

ザバァッ、ザバァッ、と豪快な水音を立てながら、数百人の男たちが一糸乱れぬバタフライで浅瀬を突破し、そのままの勢いで砂浜へと乗り上げてきた。彼らは水から上がってもなお直立して歩くことはせず、灼熱の砂浜をまるで深いプールであるかのように、白い砂煙と飛沫を上げながらバタフライで泳ぎ進んできたのである。

 

ビーチは一瞬にして凍りついた。

冗談やCGなどではない。目の前で、何百人もの半裸の屈強な男たちが、人間離れした速度で砂を掻き分けながら迫ってくるのだ。その異様な迫力と、一切の言葉を発しない不気味な沈黙に、海水浴客たちは声も出せずに立ち尽くした。

 

一方、波打ち際から少し離れた場所にいたミオは、恐怖よりも先に、インフルエンサーとしての歪んだ使命感に突き動かされていた。画面の視聴者数が、わずか数秒で十万人から五十万人へと跳ね上がったのを見たからだ。

彼女は震える足に力を込め、砂浜へ上陸してきた男たちの群れにカメラを向けた。

 

「み、みんな見て! 本物だよ、昨日のブーメランパンツの人たちが湘南に現れたの! すごい筋肉、本当に砂の上を泳いでるよ!」

 

ミオが興奮した声で実況を続けたその時、砂浜をバタフライで進んでいた先頭の男が、ふと動きを止め、ミオの方を向いた。

それまで砂の上を泳いでいた男が、ゆっくりと砂浜に足を下ろし、すっくと立ち上がったのである。背後から続いていた十数人の男たちもまた、同じようにバタフライを止め、ミオを取り囲むようにして無言で立ち上がった。

 

ミオの喉が、ひゅっ、と鳴った。

目の前に立つ男は、見上げるような巨躯だった。濡れた浅黒い肌からは、都会の海とは比較にならないほど純粋で、どこか太古の深海を思わせる冷涼な潮の香りが立ち昇っている。分厚い胸板、鋼のような腹筋、そして極小の黒いブーメランパンツに包まれた強靭な下半身。

しかし、ミオを最も戦慄させたのは、その完璧な肉体ではなく、男の瞳だった。

彫りの深い顔に嵌め込まれたその黒い瞳は、ミオの顔をではなく、彼女の胸元と腰を覆うパステルピンクのフリルビキニをじっと見つめていた。その眼差しには、下卑た欲望や敵意は微塵もなかった。あるのはただ、取り返しのつかない過ちを犯した我が子を見るような、底知れぬ深い悲しみと憐れみだけだったのである。

 

「あ、あの、なんですか。写真なら、事務所を通してから」

 

ミオが一歩後ずさり、愛想笑いを浮かべようとした瞬間だった。

正面に立っていた男の右腕が、目にも留まらぬ速さで霞のように動いた。

マッハの速度で海を渡る彼らの手刀が、空気を切り裂いてミオの胸元と腰を同時に掠める。

 

ビシュッ、と鋭く短い音が鳴った。

痛みは全くなかった。風が肌を撫でた程度の感触しかなかったにもかかわらず、次の瞬間、ミオの身体からふわりと何かが剥がれ落ちた。

 

「え?」

 

ミオが間の抜けた声を漏らし、自分の胸元に視線を落とす。

そこにあるはずの、幾重にも重なったパステルピンクのフリルも、可愛い白いリボンも、すべてが消え失せていた。男の手刀は、ミオの柔らかい肌にミリ単位の傷すらつけることなく、ビキニの肩紐と背中のホック、そしてショーツの両サイドの結び目だけを、レーザーメスのような正確さで切断していたのだ。

 

重力に従って、引き裂かれたピンクの布切れがひらひらと砂浜に落ちる。

真夏の太陽の下、三百万人のフォロワーが見守る生配信のカメラの前で、ミオの豊満な双丘と、日焼け跡のない真っ白な臀部、そして一糸纏わぬ生まれたままの肢体が完全に露わとなった。

 

一拍の空白の後、ミオの口から、湘南の空を引き裂くような甲高い悲鳴がほとばしった。

 

「きゃああああああああああっ!」

 

ミオは自撮り棒を放り出し、両手で胸と股間を必死に隠しながらその場にうずくまった。砂浜に落ちたスマートフォンのレンズは、幸運にも彼女の裸体ではなく、そのすぐ横に立つ男たちの姿と、青空を映し出していた。

もし彼らが暴漢や変質者であれば、無防備になったミオの肉体に襲いかかっていたはずだ。だが、男たちはうずくまるミオの裸体には一瞥すらくれなかった。

 

先頭の男は静かに膝をつくと、砂の上に落ちたパステルピンクのビキニの残骸を、大きな手でそっと拾い上げた。

分厚いパッドが詰め込まれ、水の抵抗を増やすだけの無意味なフリルと化学繊維のレースで飾り立てられた、小さな布切れ。男はその虚飾の塊を手のひらに乗せ、まるで傷ついた小鳥でも見るかのように、悲しげに目を細めてじっと見つめた。周囲を取り囲んでいた他の男たちもまた、そのピンクの布切れに視線を落とし、深い溜息をつくかのように静かに首を振った。

 

やがて男は、手の中の布切れを砂の上にそっと置くと、ミオに向かって一度だけ、深く頭を下げた。それは謝罪というよりも、長い間彼女を縛り付けていた重い鎖を解き放ったことへの、厳粛な儀礼のようにも見えた。

 

そして次の瞬間、砂浜の至る所で、ミオと同じ悲鳴が連鎖的に巻き起こった。

 

「いやあああっ! なにするのよこの変態!」

 

「おい、やめろ! 俺のサーフパンツを引っ張るな、うわあああっ!」

 

砂浜に展開した数百人の男たちが、ビーチにいた海水浴客へと一斉に散らばり、手当たり次第に水着を引き裂き始めたのである。

ギャルたちが着ていた流行のオフショルダービキニも、若者たちが穿いていた膝丈のカラフルなサーフパンツも、さらには日焼けを気にする女性や中年男性が着込んでいた長袖のラッシュガードまでもが、男たちの神速の手刀によって次々と紙切れのように切り裂かれていく。

誰一人として殴られたり蹴られたりした者はいない。にもかかわらず、わずか数分のうちに、湘南のビーチは鮮やかな水着の残骸が舞い散る戦場と化し、老若男女を問わず、数千人の人間が素っ裸で砂浜を逃げ惑うという前代未聞の阿鼻叫喚に包まれた。

 

「警察を呼べ! いや、自衛隊だ! 水着が、水着が全部やられるぞ!」

 

パニックに陥った人々が、手で股間や胸を押さえながら国道の方へと雪崩を打って逃げていく。

そんな混沌の極みにある砂浜で、ただ一人、波打ち際にぽつんと立ち尽くしている小柄な老人がいた。

地元で五十年以上も毎日海に入り続けているという、七十代のスイマーだった。老人は迫り来る黒い男たちの群れに腰を抜かし、逃げることもできずに目を瞑って震えていた。

三人の屈強な男が、バタフライで老人の目の前に滑り込み、すっくと立ち上がった。

老人は観念して、自分の水着が裂かれるのを待った。しかし、いつまで経っても手刀は振り下ろされなかった。

 

恐る恐る目を開けた老人は、信じられない光景を目にした。

自分の前に立つ三人の男たちが、老人の腰に巻かれた古びた紺色の競泳用ブーメランパンツを見つめ、まるで歴戦の英雄に出会ったかのように、背筋を伸ばして深々と敬礼のような眼差しを向けていたのである。

老人のブーメランパンツには、フリルもポケットも、体型を誤魔化すための余分な布地も一切なかった。ただ海と真剣に向き合い、泳ぐためだけに存在するその最小限の布を前に、男たちの悲哀に満ちた瞳には、確かな安堵と敬意の光が宿っていた。

 

男たちは老人の肩にそっと手を置いて頷くと、踵を返し、他の仲間たちと共に再び相模湾の海へと飛び込んだ。

ビーチに残されたのは、引き裂かれた何千着もの派手な水着の布切れと、裸で泣き叫ぶ人々、そして呆然と立ち尽くすブーメランパンツの老人だけだった。

 

砂浜に落ちていたミオのスマートフォンは、この一部始終を、途切れることなく世界中へと生中継し続けていた。

画面の向こうで笑っていた数百万人の視聴者は、もはや誰一人として笑ってはいなかった。

彼らが目撃したのは、単なる露出狂やフラッシュモブではない。人間の常識や物理法則を超越し、ただ「ブーメランパンツ以外の水着を地上から抹殺する」という一点の狂気じみた意志だけで動く、未知なる存在の威容だった。

 

ミオが落としたスマートフォンの画面の中で、視聴者数を示すカウンターが、一千万、二千万と桁を跳ね上げていく。

湘南であげられた彼女の悲鳴は、ネットの海をマッハの速度で駆け巡り、これから世界中で始まる巨大なパニックの狼煙となって地球全体を震わせたのだった。

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