ブーメラン・バタフライ   作:ろくさん

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第20話:エレナの転向

アメリカ合衆国ニューヨーク、マンハッタン島の地下深くに建造された海パン連合軍の最高司令部。その中心にある最高戦略会議室には、冷え切った空調の風にもかかわらず、異様な熱気と興奮の余韻が渦巻いていた。

中部太平洋の絶海、ポイント・ネモの周辺海域に集結しつつある残り約三万体の漆黒のブーメランパンツの男たち。彼らを一網打尽にし、地球上から永遠に抹殺するための最終手段として、新型戦術熱核弾頭『ポセイドン・パージ』の投入が全会一致で承認された直後のことである。

 

円形の巨大なホログラム投影テーブルの周囲では、これまでパニックと不況の恐怖に怯えていた主要国の首脳陣や国防長官、そして年間数兆ドル規模のアパレル・リゾート複合企業の最高経営責任者たちが、まるで勝利の祝杯でも挙げるかのように笑顔で握手を交わし合っていた。彼らの頭上にある壁面の株価ボードでは、早くもインサイダー情報が流れたのか、暴落していたスイムウェア関連株やリゾート開発企業の株価が、一斉に緑色の急騰サインを点滅させ始めている。

 

議長席からゆっくりと立ち上がった最高司令官のドミニク・ハワードは、ボトックスと美容整形で張り詰めた能面のような白人の顔に、深い愉悦の笑みを浮かべていた。五十二歳になる彼女は、今日も自らの貧相で老いた肉体を他者の視線から完全に隠蔽するため、顎の下まで隙間なく覆う特注の迷彩柄ラッシュガードと、漆黒のウェットスーツ素材で仕立てられた軍服風のロングコートを着用している。両手にはめた黒い革手袋の指先で、彼女はホログラムの海図に浮かぶ赤い標的マークを愛おしそうに撫でた。

 

しかし、その狂気じみた祝祭の空気の中で、ただ一人、氷の彫像のように凍りついたまま立ち尽くしている女性がいた。

特別顧問席に招かれていたパリの世界的トップ水着デザイナー、エレナ・ヴァレンティノである。

 

三十六歳の美の女帝は、スワロフスキーと七層のフリルをあしらった最高級のリゾートドレス水着の上から羽織っていた白貂の毛皮のストールが、自らの肩から滑り落ちて床に溜まるのにも気づいていなかった。身長百八十センチに迫るモデル顔負けの肢体は小刻みに震え、普段なら血のように鮮やかな真紅のルージュと完璧なコントラストを描く白磁の肌は、今や死人のように蒼白く血の気を失っている。後頭部で一分の隙もなくまとめられたプラチナブロンドの髪の下で、エメラルドグリーンの双眸が大きく見開かれ、ホログラムテーブルの中央に浮かび上がる禍々しい核弾頭の三次元モデルを凝視していた。

 

核兵器。

数億度の熱球によって、半径三十キロメートル以内の海水を、そこに浮かぶ三万体の男たちごと一瞬にして蒸発させる究極の破壊兵器。

その言葉が持つ本当の意味が、エレナの脳髄を鈍器のように殴りつけていた。

 

彼女の脳裏に、数日前に南仏コート・ダジュールのテストビーチで目撃した光景が、鮮烈な色彩を伴って蘇る。

自分が軍の最新鋭素材を使って創り上げた、絶対に引き裂かれないはずの特殊装飾水着『イージス・フリル』。あの重さ三キログラムのアラミド繊維とチタンワイヤーの鎧を前にした時、海から現れた百体の男たちが見せた、あの胸が張り裂けんばかりの悲哀の瞳。

彼らは、硬いチタンワイヤーに阻まれて自らの指先が砕け、青い海水の飛沫が噴き出すのも構わずに、大粒の涙をポロポロと零しながら超振動する手刀を振るい続けた。そして、モデルのナタリーの柔らかな素肌にはミリ単位の傷すらつけることなく、ただ彼女を縛り付けていた重苦しいフリルの装甲だけを跡形もなく引きちぎり、静かに頭を下げて海へと帰っていったのだ。

 

さらにエレナの記憶は、昨日東京の国際海洋学会から流出し、軍の検閲によって即座に削除される直前に彼女が極秘ルートで目にした、あの異端の海洋学者シバタの演説映像へと繋がった。

彼らは人間を憎む怪物などではない。自然への畏怖を忘れ、羞恥心とファッションという名の虚飾の布で心を覆い隠してしまった人類に対する、母なる海自身の悲しきカウンターなのだ、と。

 

エレナは自分の両手を見下ろした。

白く細長い、美しい指先。この指で、自分はこれまで何万着という華麗な水着をデザインし、世界中の女性たちを魅了してきた。自然とは不完全で野蛮なものであり、人間の知性と装飾によって初めて究極の美が完成するのだと信じて疑わなかった。

だが、その結果がこれだというのか。

自分が美しいと信じて縫い付けた一枚のフリルが、一粒のスワロフスキーが、人間の見栄と巨大資本の欲望を際限なく肥大化させ、ついには母なる地球の海そのものに向けて「核ミサイル」の発射ボタンを押させる引き金になってしまったというのか。

 

会議の閉会が宣言され、上機嫌な首脳たちが次々と部屋を出て行く中、ドミニクがヒールの音を響かせてエレナの元へと歩み寄ってきた。

 

「どうしたの、エレナ。さっきから一言も発しないなんて、あなたらしくもないわね。それとも、自分の株価がストップ高になって感激のあまり声も出ないのかしら」

 

ドミニクは黒い革手袋をはめた手で、エレナの冷え切った肩に馴れ馴れしく触れようとした。

その瞬間、エレナはまるで汚らわしい害虫に触れられたかのように、激しく肩を振ってドミニクの手を振り払った。

 

「触らないで、ドミニク」

 

低く、氷の刃のように研ぎ澄まされた声だった。ドミニクの灰色の瞳が、わずかに細められる。

エレナはゆっくりと顔を上げ、目の前に立つ全身ラッシュガード姿の最高司令官を真っ直ぐに見据えた。

 

「あなた、本気で太平洋のど真ん中に核を撃ち込むつもりなの。あそこに集まっている三万体の男たちが何者なのか、東京のあの学者のデータを見て、あなたも本当は気づいているはずでしょう。彼らはただの生物じゃない、地球の海そのものが形を成した存在なのよ」

 

エレナの言葉に、ドミニクは周囲にまだ残っていた数人の軍高官や企業トップたちに聞こえよがしに、大きく肩をすくめて鼻で笑った。

 

「またその話? あなたまであの変態学者のオカルトに感化されたの、エレナ。コート・ダジュールで自分の自慢の水着を破られたショックで、少し神経が参っているんじゃないかしら。相手が海の化身だろうが、地球の免疫反応だろうが、私には関係ないわ。あいつらが私たちの美しい水着を引き裂き、市場を破壊する邪魔者であるなら、核の炎で一滴残らず蒸発させてやるだけよ」

 

ドミニクは一歩近づき、ボトックスで固まった顔をエレナの目の前に突き出して、粘りつくような声で囁いた。

 

「喜びなさい、エレナ。あさってには、あなたを苦しめたあの忌々しい『漆黒のブーメランパンツ』は、この世から完全に消滅するのよ。そうすれば、来シーズンのコレクションでは、あなたがデザインしたフリルと宝石だらけのドレス水着がまた何百万着も売れるわ。私たちの勝利よ、美の女帝さん」

 

その言葉を聞いた瞬間、エレナの胸の奥で、これまで彼女の人生を支えてきた何かが決定的にプツリと音を立てて千切れた。

目の前にいるこの女は、そしてこの部屋で拍手を送っていた人間たちは、美を愛してなどいない。海を愛してもいなければ、人間の肉体を愛してもいない。ただ自分のコンプレックスと金銭欲という名の醜い内臓を隠すために、自分が作った「ファッション」という名の綺麗な包装紙を利用し、あろうことか地球を焼き殺そうとしているのだ。

 

エレナの右腕が、美しい弧を描いて振り上げられた。

 

パァンッ!!

 

乾いた、しかし会議室の分厚い壁にビリビリと反響するほど強烈な平手打ちの音が響き渡った。

エレナの白く長い手のひらが、ドミニクのボトックスで張り詰めた左頬を真正面から捉え、その顔を真横へと激しく弾き飛ばしていた。

 

会議室に残っていた国防長官や補佐官たちが、息を呑んで凍りつく。

不意を突かれてよろめいたドミニクは、黒い革手袋で自らの真っ赤に腫れ上がった頬を押さえ、信じられないというように目を剥いてエレナを睨みつけた。彼女の完璧に整えられたプラチナシルバーのボブカットが乱れ、能面のような顔が激しい怒りと屈辱で醜く歪む。

 

「な、なにをするのよ、この狂女が! 誰に向かって手を上げているのか分かっているの!?」

 

ヒステリックに叫ぶドミニクを、エレナは絶対零度のエメラルドグリーンの瞳で見下ろした。

 

「私が愛したファッションは、人間を美しくするためのものよ。自分の見栄と利権を守るために、地球を核の炎で焼くためのものじゃないわ!」

 

エレナは自らの首にかかっていた、海パン連合軍・特別技術顧問の黄金のIDパスを強い力で引きちぎると、それをドミニクの足元へと思い切り叩きつけた。プラスチックのケースが砕け、床の上を滑っていく。

 

「今日この瞬間をもって、私と『ELENA』は海パン連合軍とのすべての契約を破棄するわ! あなたたちに提供した特許も、ブランドのロゴの使用権も、すべて引き揚げさせてもらう!」

 

「け、契約破棄ですって!? 笑わせないで! 軍との国家機密契約を一方的に破棄すれば、数百億ドルという天文学的な違約金が発生するのよ! あなたの会社どころか、あなたの個人資産まで根こそぎ差し押さえて、パリの路頭に迷わせてやるわ! 警備兵、この女を拘束しなさい!」

 

ドミニクが唾を飛ばして吠えたが、エレナは一歩も退かず、近づこうとした警備兵を女王の威厳に満ちた一瞥だけで立ちすくませた。

 

「違約金なら、私の全財産でもブランドの株でも、好きに持っていきなさい! 核ミサイルのスポンサーとして歴史に名を汚すくらいなら、無一文になって針と糸一本からやり直した方がマシよ! それからドミニク、私を拘束できるものならしてみなさい。フランス政府と世界中のメディアに、あなたが私を脅迫して核開発に協力させたと今すぐ暴露するよう、パリの弁護士にデッドマンズ・スイッチを預けてあるわ!」

 

エレナの気迫に圧倒され、ドミニクは唇をわなわなと震わせながら言葉を詰まらせた。大衆の支持を頼りに暴走している今の時点で、世界的なファッションアイコンであるエレナを不当逮捕したというスキャンダルが表に出れば、さすがに世論が揺らぎかねないことを計算したのだ。

 

「いいわ、勝手にしなさい! どうせ四十八時間後にはすべてが終わるのよ! パリの薄暗い部屋で、自分の愚かさを呪いながら震えているといいわ!」

 

ドミニクの捨て台詞に背を向け、エレナは床に落ちた白貂の毛皮を拾うことすらせず、ピンヒールの音を誇り高く響かせて最高戦略会議室の重い扉を押し開け、地下司令部から一人で去っていった。

 

それから十時間後。フランス、パリ八区。

モンテーニュ通りにある『ELENA』本社ビルの最上階、エレナ個人の自宅を兼ねた広大なペントハウス・アトリエは、外界の光を遮断した深い静寂の中にあった。

秘書のクロエをはじめとするすべてのスタッフを帰宅させ、携帯電話やパソコンの通信回線もすべて引き抜いたその空間には、ただ一人、ニューヨークから自家用ジェットでとんぼ返りしてきたエレナの姿だけがあった。

 

アトリエの壁面には、彼女が二十代でブランドを立ち上げて以来、世界を熱狂させてきた歴代のスイムウェアコレクションのデザイン画が、何百枚も額装されて飾られている。部屋の中央には、黄金の装飾が施された何十体ものトルソーが並び、そこには来シーズンに向けて制作中だった、最高級のシルクシフォンやチュールレース、スワロフスキー、そして幾重もの豪華なフリルを纏った試作品の水着たちが、シャンデリアの光を浴びて華やかに煌めいていた。

 

エレナはアトリエの中央に立ち、かつて自分が「美の帝国」と呼んで誇っていたその光景を、ゆっくりと見渡した。

彼女の脳裏には、ニューヨークを発つ直前に見た世界のニュース映像が焼き付いていた。核兵器の使用決定はまだ極秘とされていたものの、街頭では大衆が派手なサーフパンツやフリルビキニを着て『#KillAllBoomerangs』と叫びながら、古い競泳用のブーメランパンツを山積みにして燃やしていた。その狂乱の中心で掲げられていたプラカードには、他ならぬ『ELENA』のブランドロゴと、彼女がかつてインタビューで語った「水着とは自然を克服するためのドレスである」という言葉が、虐殺を正当化するスローガンとして誇らしげに引用されていたのである。

 

「私が、作ったのね。この狂った世界を」

 

エレナの真紅の唇から、押し殺したような呟きが漏れた。

彼女はゆっくりと歩み寄り、一番手前にあったトルソーの前に立った。そこに着せられていたのは、バストを極限まで大きく見せるために分厚いウレタンパッドを三重に仕込み、ウエストのくびれを偽装するために硬いボーンと七層のフリルを巻き付けた、一着百万円を超えるオートクチュール・ビキニだった。

 

「自然は不完全だから、人間の手で飾り立てなければならないですって? なんて傲慢で、なんて醜い嘘だったのかしら」

 

エレナの白く長い指先が、そのビキニの胸元のフリルを強く掴んだ。

あの日、コート・ダジュールの砂浜で、男たちが自らの指を砕きながら『イージス・フリル』を引きちぎった後、そこに残されたモデルのナタリーの一糸纏わぬ素肌。太陽の光を浴びて汗と海水を弾く、人間本来のしなやかな筋肉と曲線のラインは、自分がどんな高価なシルクや宝石を縫い付けるよりも、遥かに気高く、圧倒的に美しかったではないか。

それに引き換え、今目の前のトルソーにかかっているこの布切れは何だ。これは美ではない。他人の目を気にする矮小な羞恥心と、自分を大きく見せたいという浅ましい見栄、そして海という偉大な自然に対する恐怖をごまかすための、ただの臆病者の鎧に過ぎないではないか。

 

「こんなもの、美じゃないわ……!」

 

次の瞬間、エレナは掴んでいた最高級シルクのフリルを、ありったけの力を込めて力任せに引きちぎった。

ビリィッ! と、静まり返ったアトリエに絹が裂ける鋭い音が響き渡る。縫い付けられていた何百粒ものスワロフスキーが糸から弾け飛び、大理石の床の上を乾いた音を立てて転がり落ちていった。

 

一度タガが外れると、エレナの裡に渦巻いていた激しい後悔と情熱は、すべてを破壊する暴風となって吹き荒れた。

彼女は裁断テーブルの上から大型の裁ち鋏を鷲掴みにすると、アトリエに並んでいた何十体ものトルソーへと次々に襲いかかった。

 

「こんなフリルも! こんな偽物のパッドも! 人間と海を切り離すだけの、こんな醜い装飾なんて、全部いらないわ!!」

 

ザクッ、ビリビリッ、ガシャアン!

エレナは髪を振り乱し、狂ったように鋏を振るい、素手でレースを引き裂きながら、何千万、何億円という価値を持つ試作品の水着たちを片っ端からズタズタに切り刻んでいった。トルソーがなぎ倒され、白い羽毛やシリコンの破片、引き裂かれた極彩色の布切れが、まるで吹雪のようにアトリエの宙を舞う。

さらに彼女は壁際へと駆け寄ると、額装されていた過去の自分のデザイン画を次々と壁から引き剥がし、ガラスが割れるのも構わずに床へ叩きつけ、その上に描かれた華麗なドレス水着のスケッチを自らの手で真っ二つに引き裂いていった。

 

ガラスの破片で白い指先が切れ、赤い血が滲んで純白のスケッチブックを汚したが、エレナは痛みなど微塵も感じていなかった。彼女の目からは、いつしか大粒の涙が溢れ出し、白磁の頬を伝って床へと滴り落ちていた。コート・ダジュールで、あの男たちが砕けた指先から青い海水を流しながら見せた、あの涙と同じ温度の涙だった。

 

どれほどの時間が経っただろうか。

アトリエの中にあったすべての装飾水着とデザイン画が、文字通り一片の原形も留めない布切れと紙くずの山へと変わった時、エレナは肩で荒い息をしながら、その残骸の海の真ん中に膝をついた。

の後頭部のシニヨンは完全に崩れ落ち、プラチナブロンドの長い髪が汗に濡れた顔から肩へと乱れかかっている。

 

エレナは涙に濡れたエメラルドグリーンの瞳で、自分が今しがた着ている服を見下ろした。

スワロフスキーと七層のフリルをあしらった、自身のブランドを象徴する最高級のリゾートドレス水着。

彼女はゆっくりと立ち上がると、自分の背中に手を回し、そのドレスのファスナーを引き下ろした。そして、自分の胸元と腰を覆っていた豪華なフリルの生地を自らの両手で掴むと、迷うことなくビリビリと引き裂いて、床の残骸の山へと脱ぎ捨てたのである。

 

シャンデリアの淡い光の下に、三十六歳のエレナの、一切の装飾を剥ぎ取られた生まれたままの美しい裸体が浮かび上がった。

ひんやりとしたアトリエの空気が、彼女の豊満な双丘と、引き締まったウエスト、そして長く伸びた脚の素肌を直接撫でる。長年、最高級の布地で自らを武装し続けてきた彼女にとって、それは驚くほど無防備で、しかし同時に、魂の底から震えるような解放感に満ちた感覚であった。

 

「これが、人間本来の姿。何一つ嘘のない、自然が創り出したままのライン」

 

素っ裸のままアトリエの中央に立ち尽くしたエレナの視線が、部屋の隅、破壊を免れた古い木製の作業机の引き出しへと向けられた。

彼女は裸足のまま布切れの山を踏み越えてその机へと歩み寄ると、一番下の鍵のかかった引き出しを開けた。

そこに入っていたのは、彼女がまだ無名の学生だった頃、ファッションの基礎と人体構造学を学ぶために使っていた一冊の古いデッサン帳と、どんな過酷な海水の圧力にも耐えるとして試作されたままお蔵入りになっていた、一反の『漆黒の超高密度シルク・ポリウレタン混紡生地』のロールだった。光の反射率を極限までゼロに近づけた、あの男たちが穿いているブーメランパンツと全く同じ、深い夜の海のような黒色をした布地である。

 

エレナはその黒い布地のロールを胸に抱きしめ、デッサン帳の最初のページを開いた。

そこに描かれていたのは、フリルもリボンも一切ない、古代ギリシャの彫刻のような男女の肉体と、その股関節の稼働ラインに沿って最小限の三角形を描いた、シンプルな一本の構造線だけだった。

 

核ミサイルが発射されるまで、残された時間はあと三十数時間しかない。軍隊も持たず、政治権力も捨てた一人のデザイナーに、空から落ちてくる核の炎を物理的に止める力はないかもしれない。

だが、エレナのエメラルドグリーンの瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、芸術家としての生涯最大の霊感と、燃えるような使命感の炎が宿っていた。

 

「ドミニク、あなたは核で彼らを消せば、また人々が私のドレス水着を買うと言ったわね。大間違いよ」

 

エレナは一糸纏わぬ裸体のまま、古い足踏み式のミシンと裁断台の前へと静かに腰を下ろした。

 

「私がこれから創るのは、人間を自然から隠すための鎧じゃない。人間の肉体と、母なる海を最も美しく、最も純粋に繋ぎ止めるための、究極の境界線よ!」

 

引き裂かれた豪華なフリルの残骸が散らばるパリの孤独なアトリエで、世界の頂点に君臨した美の女帝は、すべての虚飾を捨て去り、自らの魂とプライドのすべてを込めた一着の『漆黒のブーメランパンツ』を縫い上げるための、静かなる聖戦を開始したのだった。

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