ブーメラン・バタフライ   作:ろくさん

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第4話:崩壊する市場

世界は最初、その異常事態を巨大なエンターテインメントとして消費しようとした。

湘南海岸で大学生インフルエンサーのミオがパステルピンクのビキニを引き裂かれた衝撃的な生配信を皮切りに、マイアミ、イビサ島、バリ島、コート・ダジュールといった地球上のあらゆる高級リゾート地から、同様の映像が秒単位でインターネットの海へとアップロードされ続けたからである。

画面の中で、突然海から現れた漆黒のブーメランパンツ一丁の屈強な男たちが、マッハのバタフライで砂浜を蹂躙し、逃げ惑う美男美女たちの水着を神業のような手刀で次々と切り裂いていく。誰も怪我をせず、血の一滴すら流れないまま、ただ着飾ったセレブリティや観光客たちの裸体だけが白日の下に晒されるという前代未聞の映像の数々は、安全な部屋から画面を覗き込む大衆の覗き見趣味と悪趣味な喝采を大いに刺激した。

 

SNSのタイムラインや動画サイトのコメント欄は、当初、下品な熱狂と無責任な歓声で埋め尽くされていた。

もっとやれ、次はあのグラビアアイドルの水着を頼む、ブーメラン兄貴たち最高だ、といった野次馬たちの書き込みが毎秒数百万件のペースで溢れかえり、男たちが水着を裂く瞬間のスローモーション動画や、逃げ惑う人々の姿を面白おかしく編集したまとめサイトが莫大なアクセス数を稼ぎ出した。テレビのワイドショーでさえ、コメンテーターたちが神妙な顔を作りながらも、どこか口元の緩みを隠せないまま、この不可解な現象を連日トップニュースとして扱い続けていた。人間という生き物は、自分の身に直接の火の粉が降りかからない限り、他人の羞恥やパニックを蜜のように甘く味わうことができる残酷な生き物だった。

 

だが、その下品な笑いが凍りつき、底知れぬ恐怖と社会的なパニックへと反転するまでに、一週間という時間はかからなかった。

 

事件発生から五日目の朝、世界中のあらゆる海岸線から、人間の姿が完全に消え失せたのである。

それは当然の帰結であった。どれほど屈強なボディガードを雇おうが、どれほど高い防壁で囲まれたプライベートビーチであろうが、海と繋がっている限り、あるいは地面が存在する限り、あの漆黒のブーメランパンツの男たちは前触れもなく現れる。しかも彼らの移動速度は音速を超え、警察の威嚇射撃や警備員のスタンガンなどまるで意に介さず、ただ機械的なまでの正確さで、ブーメランパンツ以外のあらゆる水着を確実に破壊し尽くすのだ。

海に入れば百パーセントの確率で公衆の面前で全裸にされる。その事実が単なるゴシップではなく、逃れようのない物理的な法則として世界中の人々に理解された瞬間、海水浴やマリンスポーツという文化そのものが、文字通り一夜にして死滅した。

 

ハワイのワイキキビーチからはカラフルなパラソルとサーフボードが消え、無人の白い砂浜にはただ空しく波の音だけが響き渡った。モルディブの水上コテージは予約のキャンセルが相次いでゴーストタウンと化し、地中海を巡る豪華客船はすべてのプールを閉鎖して港へと引き返した。沖縄でも、湘南でも、海の家は一軒残らずシャッターを下ろし、真夏の書き入れ時であるはずの観光地からは悲鳴のような倒産報告が相次いだ。

 

被害は観光業やホテル業界だけに留まらなかった。

世界中の人々が海やプールへ行くことを完全に諦めた結果、年間数兆ドルという天文学的な規模で回っていたマリンレジャー産業と、それに付随するアパレル市場のサプライチェーンが、根底から崩壊を始めたのである。日焼け止めクリームの売上は前年の二パーセント以下に落ち込み、ビーチサンダルや浮き輪、さらには水着を着るために通うエステサロンやフィットネスジムの解約が世界中で殺到した。昨日まで画面の向こうの裸を見て笑っていた大衆は、自分たちの勤める企業の業績悪化や、保有する株式の暴落という現実の痛みに直面して初めて、あの黒い男たちがもたらした真の脅威に気づき、青ざめたのだった。

 

フランス、パリ八区。

凱旋門からコンコルド広場へと続く華やかなシャンゼリゼ通りから一本入ったモンテーニュ通りに、白亜の宮殿のような威容を誇る巨大ファッションメゾン『ELENA』の本社ビルが聳え立っていた。

その最上階にある、ヴェルサイユ宮殿の一室を思わせる豪奢な執務室には、今、重苦しい沈黙と、電子機器が発する無機質なアラート音だけが鳴り響いていた。

 

高い天井から吊るされたバカラのシャンデリアの下、壁一面を覆う超大型の湾曲モニターには、ニューヨーク、ロンドン、東京、そしてパリの証券取引所の株価チャートがリアルタイムで映し出されている。そこにあるのは、滝のように垂直に落下していく真っ赤な下落ラインの羅列だった。『ELENA』の株価は、この三日間連続でストップ安を記録し、時価総額の半分以上がすでに市場から蒸発していた。

 

執務室の中央に置かれた黒檀のデスクの後ろで、一人の女性が、彫刻のように美しい横顔をピクリとも動かさずにそのモニターを睨みつけていた。

エレナ・ヴァレンティノ、三十六歳。

世界のオートクチュール界と高級スイムウェア市場の頂点に君臨する、絶対的な女帝である。

背筋を完璧な角度で伸ばして立つ彼女の身長は、ピンヒールを合わせれば百八十センチに達する。一点の曇りもない白磁のような肌と、氷の結晶を削り出したかのように整った高い鼻梁、そして血のように鮮やかな真紅のルージュが引かれた唇。プラチナブロンドの長い髪は一分の隙もなく後頭部でシニヨンにまとめられ、エメラルドグリーンの双眸は、モニターの赤い数字を射殺さんばかりの激しい光を放っていた。

 

彼女が身に纏っているのは、自身がデザインした今年度の最高級リゾートコレクションのドレスだった。シルクシフォンを何十層にも重ね、胸元から裾にかけて数千粒のスワロフスキーと繊細なレースのフリルが惜しげもなくあしらわれたその衣装は、一着で高級外国車が買えるほどの価格がつけられている。自然の風や波に身を任せるのではなく、人間の高度な技術と装飾美によって自然を圧倒し、着用者を女王へと変貌させるための鎧。それこそが、エレナが生涯をかけて築き上げてきた美の哲学の結晶であった。

 

執務室の重厚なマホガニーの扉がノックされ、秘書のクロエが青ざめた顔で駆け込んできた。彼女の手にあるタブレット端末もまた、絶え間なく届く凶報によって震えている。

 

「エレナ様、ミラノとドバイの統括支社から緊急の連絡です。今期の新作スイムウェアコレクションの受注が、すべてキャンセルされました。百貨店側も、水着売り場そのものを閉鎖して秋冬物のコートに差し替えると通告してきています」

 

クロエの声は恐怖で裏返っていた。しかし、エレナはモニターから視線を外すことすらせず、手にしたクリスタルグラスの中の琥珀色の液体を静かに揺らした。

 

「コート・ダジュールの直営ブティックはどうなっていて?」

 

「そ、それが、昨日から一人の客も入っておらず、周辺のリゾートホテルもすべて閉鎖されたため、本日の朝から無期限の休業に入りました。それと、先ほど経理部門から試算が出ましたが、このまま世界中のビーチが閉鎖され続ければ、我が社のスイムウェア部門は今月末までに完全に破綻します」

 

年間約二兆五千億ドルとも言われる世界の女性用水着市場。そのトップシェアを誇り、フリルやリボン、宝石を散りばめた装飾美で世界中の女性たちを虜にしてきた『ELENA』にとって、人々が海へ行かなくなることは、そのまま帝国の死を意味していた。しかも、このパニックの元凶である男たちが唯一見逃しているのが、エレナが最も軽蔑し、ファッションの歴史から駆逐したはずの「ただの黒いブーメランパンツ」であるという事実が、彼女のプライドをズタズタに引き裂いていた。

 

エレナはゆっくりとグラスをデスクに置くと、リモコンを操作してモニターの画面を切り替えた。

株価チャートの代わりに映し出されたのは、昨日コート・ダジュールのニース海岸で撮影された監視カメラの映像だった。

画面の中では、エレナがデザインした一着五十万円の7層フリル付きビキニを着た富豪の令嬢たちが、海から現れた漆黒のブーメランパンツの男たちに囲まれ、瞬く間にその水着を切り裂かれていた。男たちは、砂浜に落ちたエレナ自慢の最高級シルクのフリルを拾い上げ、まるで汚らわしいゴミか、あるいは哀れな道化の衣装でも見るかのような悲しげな瞳で見つめた後、無造作に砂の上へと捨て去っていた。

 

エレナの白い指先が、デスクの角を血が滲むほど強く握りしめた。

 

「許せないわ」

 

低く、地を這うような声だった。クロエがびくりと肩を震わせる。

 

「あの男たちの目を見た、クロエ? あいつら、私の創り上げた至高の芸術品を、まるで人間を堕落させる不潔な布切れででもあるかのように見下していたわ。筋肉と黒い布切れ一枚しか持たない、野蛮で原始的な肉の塊の分際で!」

 

エレナはデスクの前にあったトルソーへと歩み寄った。そこには、来シーズンの目玉として発表される予定だった、純金の糸と極上のチュールレースを編み込んだ芸術的なワンピース水着が着せられていた。人間の体型のアラを完璧に隠し、バストを不自然なまでに高く持ち上げ、ウエストを極限まで細く見せるためのコルセット構造が組み込まれた、虚飾の最高傑作である。

 

「水着とは、ただ水に濡れるための道具じゃないのよ」

 

エレナはトルソーのレースを愛おしそうに撫でながら、熱に浮かされたように語り始めた。

 

「いいこと、クロエ。太古の昔、人間は海という野蛮な自然の前で、ただ震えるだけの無力な裸の猿だった。けれど私たちは知性を持ち、文明を築き、美しい布を織ることで自然を克服したのよ。フリルも、リボンも、華やかな色彩も、すべては人間が自然よりも高貴で美しい存在であることを証明するためのドレスなの。それなのに、あの男たちは何? 水の抵抗を減らすためだけの、機能性しかない一本の黒い布切れに人類を逆戻りさせようとしている。そんなものはファッションではないわ。ただの退化よ、文明への冒涜よ!」

 

感情の昂ぶりとともに、エレナはデスクの上のクリスタルグラスを掴み、株価が暴落し続けるモニターに向かって思い切り投げつけた。

ガシャアン、と激しい音を立ててグラスが砕け散り、液晶画面に亀裂が走る。飛び散った破片が彼女の頬をわずかに掠め、一筋の赤い血が白磁の肌を伝ったが、エレナは痛みなど感じていないかのように、画面の中の漆黒のブーメランパンツの男を睨み据えていた。

 

「あんな一本の黒い布切れに、私が築き上げた美の帝国が負けるはずがないわ。絶対に、絶対に認めない。あいつらがどれほどの怪力を持っていようと、私のデザインの前にはひれ伏させてみせる」

 

その時、デスクの上の秘匿回線用の電話機が、甲高い電子音を鳴らした。

通常の取引先やメディアには決して知らされていない、各国の政府首脳や超巨大企業のトップたちと直接繋がるホットラインであった。クロエが慌てて受話器を取り、相手の名前を確認すると、息を呑んでエレナを振り返った。

 

「エレナ様、国連の緊急安全保障理事会からです。現在ニューヨークで開かれている対策会議の議長、ドミニク・ハワード様がお話ししたいと」

 

エレナはハンカチで頬の血を軽く拭うと、冷酷な女帝の仮面を瞬時に取り戻し、受話器を受け取った。

 

「私よ、ドミニク。ずいぶんと遅い連絡ね。あなたの愛する自由貿易とアパレル市場が、今まさに海の藻屑になろうとしているというのに」

 

受話器の向こうから、落ち着き払った、しかし底に粘りつくような権力欲を秘めた中年女性の声が響いてきた。

 

「ご機嫌斜めのようね、エレナ。でも安心なさい。私たちもただ指をくわえて、あの気味の悪い露出狂どものバタフライを眺めていたわけではないわ。たった今、主要二十カ国と世界のメガ・コーポレーションの全会一致で、ある超法規的組織の設立が承認されたの」

 

「超法規的組織? 警察や沿岸警備隊のゴム弾すら効かない相手よ。今さら何をしようというの」

 

エレナが苛立ちを隠さずに問い返すと、ドミニクは受話器の向こうで低く忍び笑いを漏らした。

 

「警察ではないわ。軍よ。世界中のビーチと、私たちが築き上げた数兆ドルの市場、そして何より、人間が自分の好きなデザインの水着を自由に着る権利を守るための、世界規模の防衛軍。その名も『海パン連合軍』よ。そしてエレナ、あなたにはその特別技術顧問として、私たちの戦争に協力してもらいたいの」

 

「戦争、ですって?」

 

「ええ、そうよ。これは単なる害獣駆除ではないわ。自然の猛威という名のテロリズムに対する、人類の文明とファッションの聖戦よ。あなたには軍の莫大な予算と最新鋭の素材科学をすべて提供するわ。あの男たちの手刀でも絶対に引き裂くことのできない、地上最強にして最も華麗な装飾水着を創り出してほしいの」

 

ドミニクの言葉を聞いた瞬間、エレナのエメラルドグリーンの瞳に、獰猛な炎が宿った。

絶対に引き裂かれない装飾水着。あの忌々しいブーメランパンツの男たちの前で、どれほど彼らが手刀を振るおうとも傷一つ付かず、誇らしげにフリルを揺らし続ける究極のドレス。それこそが、暴落した市場の信頼を一瞬で取り戻し、自然に対する人間の完全なる勝利を証明する唯一の方法に違いなかった。

 

エレナは真紅の唇の端を吊り上げ、獰猛にして華麗な笑みを浮かべた。

 

「いいでしょう、ドミニク。その依頼、私のプライドにかけて引き受けるわ。あの野蛮な黒いパンツどもに、本物の美の力がどれほど強靭なものか、骨の髄まで思い知らせてあげる」

 

受話器を置いたエレナは、窓の外に広がるパリの街並みを見下ろした。

人類の飽くなき虚栄心と、数兆ドルの巨大資本が、自然現象であるはずの男たちを「絶対に殲滅すべき敵」としてロックオンした瞬間であった。ファッションの都パリとニューヨークの国連本部を繋ぐ見えない糸が絡み合い、世界は今、水着の布面積を巡る前代未聞の戦争へと、大きく舵を切ろうとしていた。

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