ブーメラン・バタフライ   作:ろくさん

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第5話:海パン連合軍の結成

アメリカ合衆国ニューヨーク、マンハッタン島の東端に位置する国際連合本部ビル。イースト川を見下ろすそのガラス張りの摩天楼は、かつてないほどの厳戒態勢と異様な熱気に包まれていた。ビルを取り囲む道路はニューヨーク市警の装甲車とバリケードによって完全に封鎖され、上空には報道各社のヘリコプターが幾重にも旋回し、ローターが空気を叩く乾いた轟音が絶え間なく響き渡っている。

 

安全保障理事会の議場内は、冷房が極限まで効かされているにもかかわらず、そこに集まった男たちの額から滲み出る冷や汗と、高価な葉巻や香水の匂いが混ざり合い、息が詰まるような重苦しい空気が澱んでいた。馬蹄形に配置された重厚なデスクには、常任理事国をはじめとする主要二十カ国の政府首脳や国防長官、さらにはこの緊急会議のために特別オブザーバーとして招集された、世界有数の観光省大臣や巨大アパレル・リゾート複合企業の最高経営責任者たちが顔を揃えていた。誰もが睡眠不足で目の下に黒い隈を作り、手元のタブレット端末に表示される壊滅的な経済指標を、まるで自らの死刑判決文でも読むかのような蒼白な表情で見つめている。

 

議場の正面に設置された巨大スクリーンには、世界各地の沿岸部から送られてくる衛星画像と、経済損失のリアルタイム集計カウンターが映し出されていた。カリブ海のカンクン、地中海のサントリーニ島、ハワイのホノルル、そして日本の沖縄。かつては色とりどりのパラソルと観光客の笑顔で埋め尽くされていたはずの世界中のビーチが、今や人の気配を完全に失い、ただ白い波が打ち寄せるだけの無機質な砂漠へと変貌していた。そして、画面の隅で赤い数字を跳ね上げ続けている損失額のカウンターは、すでに年間換算で数兆ドルという、一国の国家予算を優に超える天文学的な領域へと突入していたのである。

 

「これ以上、我が国の海岸線を封鎖し続けることなど不可能だ」

 

たまらず席を立ち、マイクを握りしめたのは、地中海に広大なリゾート地を抱える南欧某国の観光大臣だった。彼の仕立ての良いスーツは汗で皺になり、綺麗に整えられていたはずの白髪は乱れきっている。大臣は震える人差し指でスクリーンを指し示し、唾を飛ばしながら声を荒らげた。

 

「我が国の国内総生産の三割は、夏のバカンス産業に依存しているのだぞ。ホテルはキャンセルの嵐、航空会社は減便に次ぐ減便、ビーチ周辺のレストランやブティックは毎日何百軒ものペースで倒産している。それなのに、軍や警察はいったい何をしているのだ。たかが黒いパンツを穿いた裸の男どもの群れに、なぜ最新鋭の沿岸警備隊が手も足も出ないのか、納得のいく説明をしてもらいたい」

 

大臣の悲鳴にも似た抗議に、隣に座っていたアメリカ合衆国の国防長官が、苦虫を噛み潰したような顔で重々しく口を開いた。分厚い胸板に数々の勲章を下げた老将軍は、手元の極秘報告書をデスクに叩きつけた。

 

「たかが裸の男どもだと? まだそんな認識でいるから、貴国の警備隊は昨日も水着を裂かれて笑い者になったのだ。いいか、連中は断じて人間のテロリストや変質者ではない。マイアミ沖で我が海軍の高速哨戒艇が撮影した映像を見ろ。連中は水中および海面を、最大マッハ一点二という超音速でバタフライ移動している。陸上でも、特殊な波動でアスファルトや砂浜を一時的に流体化させ、時速数百キロで泳ぎ抜けるのだ。ゴム弾や催涙ガス、スタンガンはおろか、小口径の威嚇射撃すら、連中の強靭な筋肉とマッハの衝撃波の前には全く通用しない」

 

「ならば、重火器やミサイルで吹き飛ばせばいいではないか。連中の数は増えているのか?」

 

別の国の代表が身を乗り出して問い詰める。国防長官は首を横に振り、さらに険しい表情を作った。

 

「いや、連中に生殖能力や分裂能力があるという兆候は確認されていない。発生源である日本の東京・新宿直下からの噴出もすでに止まっており、現在地球上の海を回遊している総数は、初期発生時の推定十万体から増えてはいない。だが、問題は連中の行動原理だ。連中は人間に対して一切の殺傷行為を行わない。武器も持たず、ただブーメランパンツ以外の水着だけを、着用者の皮膚に傷一つつけずに手刀で切り裂いて去っていく。そのせいで、国際法上、連中を武力攻撃の標的として認定し、軍隊に実弾射撃や爆撃の命令を下すための法的根拠がどこにもないのだ。もし下手に海岸で重火器を乱射して民間人に犠牲が出れば、人道に対する罪として世界中の人権団体やメディアから袋叩きに遭うぞ」

 

議場内から、うめき声のような溜息が一斉に漏れた。

それこそが、各国政府の首脳陣を最も苦しめているジレンマであった。相手は人を殺さない。建物も壊さない。ただ、サーフパンツやビキニやラッシュガードという「布切れ」だけを正確に破壊していくのだ。しかし、その一見すると滑稽で無害に思える行為が、結果として人間の羞恥心を直撃し、世界中の海から人間を締め出し、数兆ドル規模の巨大市場を窒息死させている。既存の法律や軍事ドクトリンでは全く対応できない、人類史上最も厄介で、最も屈辱的な危機であった。

 

「法的根拠がないなら、今この場で作ればいいだけの話よ。あなたたち男は、いつまでそうやって手続き論ばかりを捏ねくり回しているつもりかしら」

 

突如として議場に響き渡った、氷のように冷たく、しかし有無を言わせぬ威圧感を伴った女の声に、並み居る首脳たちが一斉に声の主へと視線を向けた。

 

議場の最奥、議長席のさらに一段高い特別席からゆっくりと立ち上がったのは、一人の女性だった。

ドミニク・ハワード、五十二歳。国籍や過去の経歴の多くがベールに包まれている、国連の特別危機管理調整官にして、世界の巨大アパレル資本と軍需産業の双方に太いパイプを持つ怪物的なロビイストである。

彼女の容姿は、見る者に強烈で異様な印象を与えた。五十二歳という年齢を感じさせないほど皮膚はボトックスと美容整形によって不自然に張り詰め、感情の読めない能面のような白人の顔立ちをしている。プラチナシルバーに染め上げられた髪は一分の乱れもなく短いボブカットに揃えられ、鋭い灰色の瞳は、氷の破片を埋め込んだかのように冷酷に光っていた。

 

そして何より異様だったのは、彼女の服装であった。

真夏のニューヨークでありながら、彼女は首元から手首、足首に至るまで、一ミリたりとも素肌を露出していなかった。ダークグレーの特注のハイネック・ボディスーツの上に、軍服を思わせるかっちりとしたダブルブレストのジャケットを羽織り、両手には黒い革の手袋まで着用している。極度の潔癖症であり、同時に自らの加齢した貧相な肉体に対する異常なまでのコンプレックスを抱えている彼女は、他者の目に自分の肌が触れることを病的なまでに嫌悪していたのである。

 

ドミニクは革手袋に包まれた指先でマイクのスイッチを入れると、灰色の瞳で議場を見下ろし、唇の端をわずかに吊り上げた。

 

「いいこと、紳士諸君。私たちが直面しているのは、単なる経済危機ではないわ。これは、人類が数千年の歴史をかけて獲得してきた『自由と多様性』に対する、自然界からの最も野蛮なハラスメントなのよ」

 

ドミニクがリモコンを操作すると、正面の巨大スクリーンの映像が切り替わった。

そこに映し出されたのは、引き裂かれた色とりどりのビキニやサーフパンツの山と、その横で誇らしげに胸を張り、一糸乱れぬバタフライで海を渡る漆黒のブーメランパンツの男たちの姿だった。無駄な脂肪の一切ない、体脂肪率三パーセント未満の完璧なギリシャ彫刻のような肉体。太陽の光を弾く浅黒い筋肉の隆起と、極小の黒い布地が強調する圧倒的な男性性の象徴。

 

その映像を一瞥した瞬間、ドミニクの能面のような顔が、ほんの一瞬だけ、激しい嫌悪と嫉妬によって醜く歪んだ。

なぜ、あんな野蛮な肉の塊が、あれほどまでに完璧なプロポーションを持っているのか。なぜ、肌を隠すことなく、ありのままの姿を太陽の下に晒して恥じないのか。自分の貧相な肉体を幾重もの高級な布と補正下着で隠し続けてきたドミニクにとって、男たちの存在そのものが、自分の人生に対する最大の侮辱であり、絶対に許しがたい目の上のたんこぶであった。

 

彼女はすぐさま表情を取り繕うと、政治家たちが最も好む「正義の言葉」を流暢に紡ぎ始めた。

 

「画面を見なさい。あの男たちは、自分たちの鍛え上げられた肉体と、ブーメランパンツという単一の価値観だけを海に持ち込み、それ以外のすべてを暴力的に排除しているわ。世の中には、自分の体型に自信がなくてラッシュガードを着たい人もいる。宗教や文化的な理由で肌を隠したい人もいる。可愛いフリルのビキニで自己表現をしたい女性もいれば、ゆったりとしたサーフパンツでリラックスしたい男性もいるのよ。あらゆる体型、あらゆる思想の人々が、自分の好きなデザインの水着を自由に着て海を楽しむ権利。すなわち、ファッションの多様性と消費の自由こそが、現代文明の根幹ではないかしら」

 

議場に座っていたアパレル企業のトップや、ポリティカル・コレクトネスを重視する各国の首脳たちが、我が意を得たりとばかりに大きく頷き始めた。

ただ「金儲けの邪魔だから殺す」と言えば世論の反発を招くが、「多様性と個人の尊厳を守るために戦う」と言い換えれば、それは一点の曇りもない正義の聖戦へとすり替わる。ドミニクは、現代社会の空気と大衆の心理を完璧に知り尽くしていた。

 

「あの黒いパンツの男たちは、人間に『ありのままの肉体を晒せ』と強要する、究極のルッキズムであり、全体主義の怪物よ。個人の尊厳を踏みにじり、自由な水着を着る権利を奪うテロリストに対して、私たち人類が武力をもって自衛するのは当然の権利だわ。違うかしら?」

 

「その通りだ! ドミニク調整官の言う通りだ!」

 

「多様性を守れ! ビーチの自由を取り戻すのだ!」

 

議場内から、割れんばかりの拍手と賛同の声が巻き起こった。数兆ドルの利権と、大衆の「見栄と羞恥心」という名のプライドが、ポリティカル・コレクトネスの美しい包装紙に包まれて完全に一つにまとまった瞬間であった。

 

ドミニクは満足そうに頷くと、デスクの上から一冊の分厚いバインダーを持ち上げた。

 

「結構。では、ただいまをもって国連安全保障理事会は、仮称『黒の行進』に対処する超法規的・世界規模の沿岸防衛軍事組織『海パン連合軍』、略称BDF(ビーチ・ディフェンス・フォース)の設立を全会一致で承認するわ」

 

スクリーンに、BDFの新たなエンブレムが映し出された。地球儀の周りを、交差した二丁のライフルと、カラフルなサーフパンツおよびフリルビキニのシルエットが取り囲むという、大真面目でありながらどこか狂気じみたデザインであった。

 

「海パン連合軍には、加盟各国の海軍および沿岸警備隊から最新鋭の艦艇と兵器が優先的に供与され、世界のメガ・コーポレーションから無制限の活動資金が提供される。そして、この私、ドミニク・ハワードが最高司令官として全軍の指揮を執らせてもらうわ」

 

誰一人として異議を唱える者はいなかった。この前代未聞の戦争の泥をかぶり、かつ強権を振るって市場を回復させてくれる独裁者を、誰もが心の底で求めていたからである。

 

ただ一人、フランスの代表席の後ろに控えていた特別顧問の女性だけが、腕を組んだまま冷ややかな視線をドミニクに送っていた。先ほどパリから超音速旅客機でニューヨークへと到着したばかりの、世界的トップ水着デザイナー、エレナ・ヴァレンティノである。

エレナは会議の閉会が宣言され、興奮した首脳たちが次々と議場を後にするのを待ってから、ハイヒールの音を響かせてドミニクの席へと歩み寄った。

 

「見事な演説だったわね、ドミニク司令官。多様性の保護、ね。あなたがそんな安っぽい言葉を一ミリも信じていないことくらい、私にはわかるわよ」

 

エレナが皮肉たっぷりに微笑むと、ドミニクは周囲の補佐官たちを人払いのジェスチャーで下がらせ、能面のような顔をエレナに向けた。

 

「あら、エレナ。遠いところをご苦労様。信じていようがいまいが、大衆を動かし、予算を引き出すにはこれが一番効率的なのよ。あなたのブランドの株価も、今の私の演説がニュースで流れた瞬間にストップ安から反転して、五パーセントも値を戻しているはずだわ」

 

ドミニクがタブレットの画面を見せると、確かに『ELENA』をはじめとするアパレル関連株が、海パン連合軍結成の速報を受けて急激に買い戻されていた。エレナはフンと鼻を鳴らし、プラチナブロンドの髪を揺らした。

 

「株価の小手先の回復などどうでもいいわ。私が欲しいのは、あの忌々しい黒いブーメランパンツの男どもに対する完全なる勝利よ。電話で話していた、軍の最新鋭素材のデータは用意できているの?」

 

「ええ、もちろんよ。すでにパリのあなたのアトリエに、軍需産業が開発した防弾用のアラミド繊維と、超弾性の形状記憶チタンワイヤーのサンプルを送らせてあるわ。それであなたの美しいフリルを編み上げればいい。どんな怪力の手刀でも絶対に引き裂けない、人類の文明の結晶をね」

 

ドミニクは革手袋の指先で自分の首元のハイネックを神経質な仕草で撫でながら、声を潜めて続けた。

 

「そして、あなたがその究極の水着を完成させるまでの間、私の海パン連合軍が最前線で連中を叩きのめしてあげるわ。まずは南米、ブラジルのリオデジャネイロ沖よ。今、大西洋を南下している約五千体の集団が、明日にもコパカバーナ海岸へ到達する予測が出ている。そこを私たちの最初の戦場にし、人類の圧倒的な火力を世界中に見せつけるの」

 

「リオデジャネイロですって? あそこは世界一ビキニが似合う街よ。もし失敗してビーチが蹂躙されれば、今度こそ市場は完全に死ぬわよ」

 

エレナの鋭い指摘に、ドミニクは灰色の瞳を細め、獲物をいたぶる蛇のような薄笑いを浮かべた。

 

「失敗などしないわ。そのために、最高の人材を最前線の部隊長として日本から呼び寄せたのだから。大衆が熱狂し、メディアがこぞって英雄として祀り上げるのにうってつけの、海とサーフパンツを愛する元プロサーファーの青年をね」

 

ドミニクが視線を向けた先のサブモニターには、一人の日本人青年のプロフィール画像が映し出されていた。

太陽に灼かれた精悍な顔立ちに、人懐っこくも強い意志を秘めた瞳。かつてハワイの伝説的な大波に挑み、世界にその名を轟かせた男、タクヤ。

 

ニューヨークの国連本部で振り下ろされた開戦の槌音は、地球の裏側で静かに波を見つめていた一人のサーファーの運命をも、巨大な渦の中へと巻き込もうとしていた。人類の虚飾とプライドを賭けた『海パン連合軍』と、地球の純粋なる意志『黒の行進』との最初の激突まで、残された時間はあと二十四時間を切っていた。

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