ブーメラン・バタフライ   作:ろくさん

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第6話:波乗りの英雄

神奈川県、湘南海岸のほど近く。国道百三十四号線から一本奥へと入った静かな裏通りに、潮風に晒されて白く塗装の剥げた木造の小さなサーフショップが建っていた。

かつては毎週末になると、波を求めて集まる色黒の若者たちや、華やかな水着姿の女性たちの笑い声で溢れかえっていたその場所も、今では見る影もなく閑散としている。通りを見渡せば、隣のマリンギア専門店も、向かいのハワイアンカフェも、すべて固く重いシャッターを下ろしていた。数日前にこの相模湾を襲った『黒の行進』による水着引き裂き事件以来、海辺の街からは人間の気配そのものが完全に消え失せてしまっていたのだ。

 

店の奥にある薄暗い工房には、シェイピングルーム特有のポリウレタンフォームの削りカスと、甘いココナッツの香りがするサーフワックスの匂いが濃厚に立ち込めていた。

天井から吊るされた裸電球の鈍い光の下で、一人の男が作業台の上に置かれた白いロングボードの曲面を、大きな手でゆっくりと撫でていた。

 

タクヤ、二十八歳。

身長百八十センチを超えるしなやかで均整の取れた体躯は、長年にわたって世界の荒波と格闘し続けてきたことによる、鋼のような筋肉で覆われている。太陽に灼かれた精悍な浅黒い肌には、過酷な自然の中で生き抜いてきた者だけが持つ野性味が宿り、少し伸びた茶色がかった黒髪は無造作に後ろへと流されていた。だが、誰よりも海を愛し、波の上で輝くはずの彼の力強い双眸には今、拭い去ることのできない深い憂鬱の影が落ちていた。

 

タクヤの左肩から脇腹にかけての皮膚には、白い稲妻のような巨大な手術痕が痛々しく刻まれている。

三年前の冬、彼はハワイのマウイ島沖に現れる伝説的な巨大波、通称「ジョーズ」に日本人として単身挑んだ。ビル数階建てにも匹敵する高さ二十メートルの水の壁を滑り降りた瞬間、予測不能な突風と海底の岩礁が作り出した悪魔のようなうねりに足元を掬われ、彼は数トンもの質量を持つ波の渦へと飲み込まれたのだ。

海面下で洗濯機のように回され、サーフボードが真っ二つに折れて左肩の骨を砕いたあの瞬間、タクヤは間違いなく死を覚悟した。人間の力など、母なる海の圧倒的な暴力の前では塵芥に等しい。薄れゆく意識の中で、彼は海という大自然に対する底知れぬ恐怖と畏怖を骨の髄まで味わった。

しかし同時に、彼は不思議な感覚に包まれたのである。肺の中の空気が尽きかけたその時、先ほどまで彼を殺そうとしていたはずの冷たい海流が、まるで傷ついた子供を揺りかごに乗せるかのように優しく彼の身体を下から押し上げ、穏やかな浅瀬の砂浜へとそっと運んでくれたのだ。海は残酷なまでに巨大で、それでいてすべてを包み込む慈悲深い生命体である。九死に一生を得てプロサーファーの第一線から退いた後も、タクヤの魂の根底には、あの日ジョーズの深淵で触れた「海の心」への敬意が強く刻み込まれていた。

 

タクヤはボードから手を離すと、自身の腰元へと視線を落とした。

彼が今穿いているのは、鮮やかな赤と黄色のハイビスカス柄がプリントされた、膝丈のロングサーフパンツだった。三年前のあの日、ハワイの海で彼の命がけの挑戦を共に戦い抜き、奇跡的に破れずに残った一番の相棒である。

タクヤにとって、カラフルなサーフパンツとは、単なるファッションや流行の布切れではなかった。それは、海という偉大な相棒と共に笑い、共に波と戯れるための、サーファーにとっての誇り高き正装だったのだ。

だからこそ、現在の世界中の海を取り巻く異常事態は、タクヤの胸を激しく締め付けていた。画面越しに見た、あの漆黒のブーメランパンツを穿いた男たちの姿。彼らがマッハのバタフライで海を渡り、人々の水着を引き裂いていく光景は、タクヤが愛した「笑顔と自由が溢れるビーチ」を根底から破壊する悪夢そのものだった。

 

その時、静まり返った店の前の道路に、重々しいエンジンの駆動音が響き渡った。

工房の曇りガラスの向こうに、黒塗りの重厚な大型SUVが三台、タイヤを軋ませて停車するのが見える。車のドアが一斉に開き、迷彩服に身を包んだ屈強な兵士たちが周囲を警戒するように展開した。彼らの肩には、昨日ニューヨークの国連本部で設立が宣言されたばかりの超法規的防衛組織『海パン連合軍』、略称BDFの真新しいエンブレムが輝いていた。

 

ショップの入り口のドアが荒々しく押し開けられ、カランコロンと場違いにのどかなベルの音が鳴る。

兵士たちに守られるようにして工房へと足を踏み入れてきたのは、一人の女性だった。

五十二歳という年齢を全く感じさせない、陶器のように滑らかで冷たい白人の顔立ち。プラチナシルバーの短いボブカットに、氷の破片を思わせる鋭い灰色の瞳。真夏の湘南のむせ返るような湿気の中だというのに、彼女は首元まで完全に覆う特注の迷彩柄ラッシュガードと、身体のラインを厳重に隠す漆黒のウェットスーツ素材でできた軍服風のジャケットを隙なく着込んでいた。海パン連合軍の最高司令官、ドミニク・ハワードその人であった。

 

ドミニクは黒い革手袋に包まれた手で鼻先を軽く覆い、工房の中に漂うワックスと潮の匂いを不快そうに一瞥すると、作業台の前に立つタクヤへと冷ややかな視線を向けた。

 

「ここが、かつて世界のビッグウェーブを制した伝説のサーファーの隠れ家というわけね。ずいぶんと埃っぽくて、原始的な匂いがする場所だわ」

 

ドミニクの傲慢な物言いに、タクヤは眉一つ動かさず、手にしたウエスで指先のワックスを拭き取りながら低く答えた。

 

「閉店中の看板が出ていたはずだが。国連の偉い司令官殿が、こんな寂れた田舎のサーフショップに何の用だ」

 

「単刀直入に言うわ、タクヤ。あなたに、我が海パン連合軍の極東および南米方面における最前線迎撃部隊の指揮官、その部隊長に就任してもらいたいの」

 

ドミニクが指を鳴らすと、背後に控えていた副官がアタッシュケースを開き、一台の大型タブレット端末を作業台の上に置いた。

画面には、世界中の閉鎖されたビーチの映像と、現在大西洋を猛烈な速度で南下している約五千体のブーメランパンツ集団の衛星追跡データが映し出されている。

 

「なぜ俺なんだ。軍人でもなければ、兵器を扱ったこともないただの元サーファーだぞ。あの異常な速度で泳ぐ連中を相手にするなら、各国の特殊部隊や海軍の指揮官に任せるのが筋だろう」

 

タクヤの疑問はもっともだった。しかし、ドミニクは能面のような顔に薄い笑みを浮かべ、タクヤが穿いているハイビスカス柄のサーフパンツを指差した。

 

「いいえ、軍人ではダメなのよ。世界中の人々は今、あの気味の悪い黒いパンツの怪物どもに怯え、海に行くという当たり前の権利を奪われてパニックに陥っているわ。この戦争に必要なのは、冷酷な軍人ではなく、大衆が熱狂し、希望を託すことのできる『海の英雄』なの。かつて死の淵から生還し、誰よりも海とサーフパンツを愛する男が、人類の自由と笑顔を取り戻すために最前線で戦う。これ以上完璧なプロパガンダの象徴が他にいるかしら?」

 

ドミニクは一歩踏み出し、タクヤの目を真っ直ぐに見据えた。彼女の灰色の瞳の奥には、大衆を駒として扱う冷徹な計算高さと、あの男たちに対する異常なまでの憎悪が渦巻いていた。

 

「それに、あなた自身もこのまま指をくわえて見ているつもりはないでしょう? あの露出狂のテロリストどもは、あなたが愛するサーフカルチャーも、子供たちが水着で駆け回る楽しい砂浜も、すべてを破壊して一本の黒い布切れに染め上げようとしているのよ。次の標的はブラジルのリオデジャネイロ、コパカバーナ海岸よ。明日、あそこで連中を完全に粉砕し、人類が自然の脅威に屈しないことを世界に証明するわ。力を貸しなさい、タクヤ」

 

タクヤは視線を落とし、自分の拳を強く握りしめた。

ドミニクという女の言葉の裏に、巨大なアパレル資本や政治的な思惑が透けて見えることは、彼にも十分に理解できた。この女は海を愛してなどいない。

だが、それでもタクヤの脳裏には、数日前にこの湘南の浜辺で、水着を裂かれて泣き叫びながら逃げ惑っていた若者や家族連れの顔が焼き付いて離れなかった。海は本来、人間にとって自由で楽しい相棒であるはずだ。なぜあの男たちは、あんなにも悲しげな目をしながら、人々の笑顔と水着を奪い去っていくのか。その答えを知るためにも、そして何より、誰もが自分の好きな水着を着て笑えるビーチを取り戻すためにも、自分はもう一度あの荒波の最前線へ立たなければならない。

 

タクヤは顔を上げ、作業台に置かれていた真新しい海パン連合軍の部隊長章を強い力で掴み取った。

 

「一つだけ条件がある。俺はあんたの広告塔になるつもりはないし、あの軍服も着ない。俺はこのサーフパンツのまま、俺のやり方でビーチを守る。それでいいなら、部隊長の任を引き受けよう」

 

「ええ、構わないわ。あなたがその派手なサーフパンツで黒い悪魔どもを撃ち抜く姿こそ、世界のスポンサーたちが最も見たがっている絵なのだから」

 

ドミニクは満足そうに頷くと、踵を返して工房を出て行った。

タクヤは誰もいなくなったショップの中で、愛用のロングボードに一度だけ別れを告げるように手を触れると、眩しい夏の太陽が照りつける表へと足を踏み出した。

 

それから十八時間後。地球の反対側、ブラジル連邦共和国、リオデジャネイロ沖。

南半球は季節の上では冬にあたるはずだったが、熱帯に近いリオの空には雲一つなく、真夏と見紛うばかりの強烈な太陽がコパカバーナ海岸の白い砂浜と青い海を照りつけていた。

 

洋上約五キロメートルの地点には、かつてない規模の巨大な防衛ラインが構築されていた。

海パン連合軍が世界中から緊急徴用した最新鋭のイージス駆逐艦、高速ミサイル艇、そして重武装を施された数十隻の沿岸警備艇が、コパカバーナの美しい弓なりの海岸線を守るように幾重もの陣形を組んで海面を埋め尽くしている。空には武装ヘリコプターと報道用のドローンが群れをなして飛び交い、海面下には潜水艦ソナーと機雷原が張り巡らされていた。

 

その艦隊の中央に位置する旗艦、大型強襲揚陸艦『ポセイドン』の艦橋に、タクヤは立っていた。

冷房の効いた近代的なブリッジの中で、彼一人が上半身裸にハイビスカス柄のロングサーフパンツ一丁、首から軍用の双眼鏡と通信マイクを下げただけの異色の姿で、前方の海を睨みつけている。当初は「素人上がりのサーファーに何がわかる」と冷ややかな目を向けていた各国のベテラン船員たちも、タクヤが海図を見るだけで局地的な潮流の変化や波のうねりを秒単位で言い当て、的確に艦艇の配置を修正してみせたことで、今や彼の指揮に絶対の信頼を寄せていた。

 

艦橋の大型サブモニターには、背後のコパカバーナ海岸で行われている異様な光景が映し出されていた。

砂浜に急造された巨大な特設ステージの上で、数百人のブラジル人美女たちが、極彩色の羽飾りとスパンコールを散りばめた極小のセクシーな三角ビキニを身に纏い、大音量のサンバのリズムに合わせて激しく腰を振り、踊り狂っていたのである。

それは、ブラジル政府と世界の巨大リゾート企業が共同で企画した、『恐怖に屈しない人類の美と自由』をアピールするための全世界向けプロパガンダ生中継であった。ステージの周囲には何百台ものテレビカメラが並び、安全なVIP席に陣取った政治家や企業家たちが、ビキニの美女たちに拍手を送りながらシャンパンを掲げている。

 

タクヤはそのモニターを一瞥し、吐き捨てるように呟いた。

 

「悪趣味な連中だ。あの女の子たちを、黒い連中をおびき寄せるための撒き餌にしてやがる」

 

「同感です、隊長。ですが、上層部はこの中継で世界中の株価を一気にV字回復させるつもりですよ」

 

隣に立つ副官のマルコス大尉が、苦々しい表情で肩をすくめた。彼もまた、軍服のズボンの下にブラジル国旗の柄が入ったトランクス型の水着を穿いている、生粋の海好きの男だった。

 

その時、艦橋内の戦術レーダーコンソールから、鼓膜を突き刺すような甲高いアラート音が鳴り響いた。

オペレーターの兵士が、ヘッドセットを押さえながら切迫した声で叫ぶ。

 

「た、隊長! 北東の海域より、高エネルギー反応群が接近! 数、およそ五千! 移動速度、マッハ一・一! 海流を完全に逆走して、一直線にこのコパカバーナへ向かってきます!」

 

艦橋の空気が一瞬にして張り詰めた。

タクヤは無言で双眼鏡を構え、防弾ガラスの向こうに広がる大西洋の水平線へと焦点を合わせた。

まだ肉眼では何も見えないはずの遠い海の彼方で、青い海面が一本の白い線となって盛り上がるのが見えた。それは津波ではない。五千人の屈強な男たちが、一糸乱れぬバタフライで海面を叩き、超音速で水を切り裂くことで発生している、巨大な白波の壁だった。

 

通信スピーカーから、安全なニューヨークの地下司令部にいるドミニクの冷酷な声が響き渡った。

 

「全艦に通達するわ。これより海パン連合軍は、人類の尊厳と市場の自由を守るための最初にして最大の迎撃作戦を開始する。タクヤ隊長、まずは非殺傷の音響兵器とゴム弾、そして新開発の『高周波ネット弾』で連中の足を止めなさい。世界中のカメラがあなたたちの戦いを見ているわよ。一匹たりとも、後ろの美しいビキニのダンサーたちに指一本触れさせるんじゃないわよ!」

 

タクヤはマイクのスイッチを入れ、短く答えた。

 

「こちら前線指揮官のタクヤ。作戦を開始する。全艦、第一迎撃陣形をとれ。連中のスピードは人間の常識を超えている、ソナーの予測位置よりコンマ五秒早く網を張れ!」

 

タクヤの力強い号令が全艦隊に伝達される。

駆逐艦やミサイル艇の甲板に設置された、巨大な大砲のような特殊発射機が一斉に旋回し、白波を立てて迫り来る海面へと照準を合わせた。

五千体の『黒の行進』との距離が、瞬く間に十キロ、五キロ、三キロへと縮まっていく。

海面を伝わるマッハの振動が、鋼鉄の巨大艦艇の船底をビリビリと震わせ始めた。かつてハワイのジョーズで巨大な波を前にした時と同じ、いや、それ以上の圧倒的な自然の威圧感が、タクヤの全身の肌を粟立たせた。

 

「来るぞ! 構えろ!」

 

タクヤがサーフパンツの裾を握りしめ、前方の海面を見据えて叫んだ。

ビーチで鳴り響く陽気なサンバのドラム音と、艦隊の機関砲が装填される乾いた金属音が交錯する中、ついにリオデジャネイロの青い海面が爆発し、漆黒のブーメランパンツを纏った男たちの群れが、人類の防衛網の目の前へとその姿を現したのだった。

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