世界支配~超能力に目覚めた平社員、まずは会社を乗っ取ることにした~   作:八咫烏葵

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第1話 「6時12分」

 

 『あー、仕事か。嫌なんだよな、会社』

 

 すぐ耳元で男の声がした。

 

 宍戸恭司は思わず横を向いた。隣の男はスマホの画面を親指で送り続けている。唇は閉じたまま、一度も動いていない。

 

 6時12分の上り電車は、この時間でも吊り革がほとんどふさがっている。整髪料と誰かの昨夜の酒と、濡れた傘のにおいが車両の底に溜まっていた。宍戸は十二年、毎朝この電車に乗ってきた。始業の二時間前に会社に着いて、課長に回された仕事を誰もいないうちに片づける。それが宍戸の朝だった。

 

 聞き違いだ。寝不足のせいだ。昨夜も資料の仕上げで、布団に入ったのは二時を過ぎていた。

 

 『もうすぐ駅か、また始まるのか』

 

 また聞こえた。

 

 今度は反対側。紺のカーディガンの女が、目を閉じて立っている。口元は動いていない。

 

 宍戸は耳に手をやった。イヤホンはしていない。誰かの音漏れかと車内を見回すが、誰も何も聞いていない。

 

 『部長、またやるんだろうな。会議で、私だけ名前を呼ばないやつ』

 

 『金曜まで持つかな』

 

 『死ねばいいのに』

 

 車両じゅうから声が湧いてくる。誰も口を開けていない。車輪がレールの継ぎ目を叩く音と空調の唸りしかないはずの車内に、何十人ぶんの独り言が重なっていく。夏祭りの夜、人混みの真ん中で目をつぶったときに似ていた。一つ一つは聞き取れるのに、まとめると波の音になる。

 

 心臓が跳ねた。

 

 吊り革を握る手のひらに汗がにじみ、輪っかの中で指が滑る。頭がおかしくなったのか。脳のどこかが壊れたのか。父は八年前、六十で脳の血管が切れて死んだ。倒れる前の日、耳鳴りがする、と言っていた。

 

 次の駅で降りて病院に行こう。

 

 電車が揺れて隣の男の肩にぶつかった。

 

「あ、すみません」

 

 十二年間、何千回と言ってきた言葉が勝手に口から出た。男は画面から目も上げずに、小さく顎を引く。

 

 『うぜえな』

 

 宍戸は男の横顔を見た。

 

 胸の中で暴れていた怖さに、別のものがすっと混じった。熱い湯に、冷たい水を一滴落としたような。

 

 頭を下げるたびに、みんな、こう思っていたのか。

 

 怒りは来なかった。代わりに来たのは、背中の産毛が逆立つような、妙な感覚だった。この男は自分の頭の中を誰かに聞かれているとは夢にも思っていない。この車両の誰も、そんなことは考えていない。知っているのは宍戸ひとりだけだ。

 

 その考えが喉の奥でほんの少しだけ甘かった。

 

 甘いと感じた自分を、宍戸は少しだけ怖いと思った。思っただけで、次の駅のアナウンスがその怖さを押し流していった。

 

 次の駅で扉が開いた。降りていく背中に肩を押されながら、宍戸はポケットの十円玉を指で挟んだ。病院の待合室で医者に何と言えばいい。人の考えが聞こえます、とでも言うのか。

 

 扉が閉まる。

 

 十円玉は朝の空気のぶんだけ冷たかった。

 

 

 

 伊庭興産の本社は神田の古いビルで、七階建てのうち三階から上を使っている。総務課は四階の奥、コピー機と段ボールの壁に挟まれた島だ。

 

 今日で三十四歳になる。誰にも言っていないし、誰も知らない。母からのメッセージも、まだ来ていない。

 

 六時四十分のフロアには誰もいなかった。蛍光灯を半分だけ点けて席に座ると、空調の低い音とパソコンの起動音が、がらんとしたフロアに薄く広がっていく。

 

 宍戸は長く息を吐いた。人がいなければ、声もしない。

 

 七時を過ぎると、ぽつぽつと人が来はじめた。一人来るたびに声が一つ増え、そのたびに宍戸の肩がこわばる。二度、トイレに立って顔を洗った。鏡の中の男はいつもと同じ紺のスーツを着て少しだけ目が赤かった。

 

 八時過ぎ、斜め向かいの席に安達美緒が座った。入社四年目、二十六歳。

 

 『だる。あの見積もり、今日までだっけ。……宍戸さんに頼めばいいか。あの人、断らないし』

 

 幻聴なら、こんなに中身が細かいはずがない。

 

 宍戸は画面を見るふりをしながら、斜め向かいの気配を待った。五分。安達が椅子ごとこちらを向く。

 

「宍戸さん、すみません。営業所の見積もり、今日までなんですけど、手伝ってもらえたりしますか」

 

 すぐには答えられなかった。机の下で膝の上の手を握る。爪が手のひらに食いこむほど強く。

 

「……いいですよ」

 

「ありがとうございます!」

 

 聞き違いではない。病気でもないのかもしれない。

 

 本当に、聞こえている。

 

 八時半、一階の郵便受けから郵便物の束を取ってきた。戻りのエレベーターには九人が詰めこまれていて、誰も口をきかない。それでも箱の中は騒がしかった。三階で降りるやつ早く降りろ、この人香水きつい、月曜からこれかよ。宍戸は郵便物を胸に抱えたまま、四階で扉が開くまで九人ぶんの朝を聞いた。朝の電車のときほど、心臓は暴れなかった。

 

 八時五十分、課長の蛭田克也が来た。

 

 四十八歳。肩幅が広く、声が大きい。廊下の向こうから聞こえる足音だけで課の空気が一段固くなる。今朝の宍戸には、その足音より先に蛭田の頭の中が聞こえた。

 

 『昨日の店、また行きてえな。経費で落ちるうちに。……宍戸のやつ、例の資料、出来てんのか。出来てたら俺の名前で上に出しとくか』

 

 蛭田は自分の席に鞄を置き、こちらを見ないまま言った。

 

「宍戸。消耗品の発注の見直し、どうなってる」

 

「昨日の夜に仕上げました。共有フォルダに入れてあります」

 

「見とく。あとで俺から部長に上げるから、お前は触るな」

 

 『よし。これで今期の評価、一個稼げる』

 

 キーボードの上で宍戸の指が止まった。

 

 あの資料には三週間かかった。全国の営業所が別々に頼んでいたゴミ袋と軍手と梱包テープを一本にまとめれば、年に千八百万円が浮く。それを数字で示すために、二百枚の伝票を一枚ずつめくった。それを、蛭田が自分の名前で出す。

 

 入社三年目の春もそうだった。宍戸が初めて一人で作った見積もりが、蛭田の名前で部長に上がった。打ち上げの居酒屋で、蛭田はその見積もりの自慢話をし、宍戸は末席でビールを注いで回った。誰も宍戸のほうを見なかった。注いだビールの泡がグラスの縁からこぼれて、宍戸の指を濡らした。

 

 腹は立たなかった。

 

 立たないことのほうが不思議だった。十二年間、こういうことは何度もあった。そのたびに胃のあたりが熱くなり、トイレの個室で深呼吸をして席に戻って笑ってきた。今日はその熱が来ない。代わりに頭の芯がひやりと澄んでいる。真冬の朝に窓を開けて、部屋の空気を入れ替えたときの冷たさだ。朝の電車であれほど暴れていた心臓が、いつの間にか静かになっていた。

 

 昨日の店、経費で落ちるうちに。蛭田の頭の中のその一行を、宍戸は舌の上で転がした。十二年、この男の機嫌ひとつで朝の胃が痛んだ。その男の、誰にも見せていない引き出しの中身が、今、勝手に宍戸の耳に流れこんでくる。

 

 もし、明日も聞こえるなら。

 

 宍戸はその先を考えるのをやめた。やめたのに、指先がかすかに震えていた。怖さの震えではなかった。

 

 昼過ぎ、課の全員に聞こえる声で蛭田が呼んだ。

 

「宍戸、ちょっと来い」

 

 宍戸は席を立ち、蛭田の机の前に立つ。蛭田は分厚いファイルを机に叩きつけた。

 

「お前さ、この備品の台帳、先月の数字と合ってねえぞ。何年この仕事やってんだ」

 

 数字が合わないのは、蛭田が持ち出した高級ボールペン二ダースを記録していないからだ。宍戸はずっと前から知っていて、黙っていた。

 

 『こいつは何言っても怒らねえから楽だ』

 

 蛭田の声が口と頭の両方から聞こえる。口のほうは大きく、頭のほうはだらしなく笑っていた。

 

「すみません。確認します」

 

 頭を下げながら、宍戸は課の島をぐるりと聞いた。また始まった。宍戸さんかわいそう、でも私じゃなくてよかった。課長、昨日も同じこと言ってたな。早く終われ。

 

 誰も、助けようとは思っていない。誰も、宍戸のことなど考えていない。考えているのは自分の席に火の粉が飛んでこないかどうかだけだ。

 

 顔を上げたとき、宍戸の口元はいつもの形に戻っていた。少しだけ眉を下げた、困ったような笑い。十二年かけて固めた、型抜きのクッキーのような笑い方。

 

 蛭田は鼻を鳴らして、ファイルを宍戸の胸に押しつけた。

 

 押しつけた手を引っこめるとき、蛭田はほんの一瞬だけ、宍戸の目を見た。

 

 なんだ、こいつ。

 

 いつもの、へらへらした総務の置物だ。それなのに、目だけが妙に静かだった。叱られている人間の目ではない。どこか遠くから、こちらの中身を量っているような。

 

 蛭田は舌打ちして目をそらした。気のせいだ。こいつにそんな度胸はない。

 

「さっさと直しとけ」

 

 宍戸はファイルを両手で抱え、自分の席へ戻った。

 

 

 

 夜九時を過ぎてようやく会社を出た。

 

 九月の夜は昼の熱をまだアスファルトに溜めている。神田駅へ向かう途中、ガード下の焼き鳥屋から煙と甘いたれのにおいが流れてきて腹が鳴った。今日は昼を食べていない。

 

 駅の手前に、少し光の弱い自販機が一台ある。いつも缶コーヒーを買う自販機だ。百円玉を二枚出して一枚目を入れる。二枚目を入れようとしたとき、指から滑った。

 

 チン、と歩道で跳ねた百円玉は、自販機の下の暗がりへ転がっていく。

 

「あ」

 

 しゃがみこんで暗がりをのぞく。銀色の縁が奥のほうでわずかに光っている。手を伸ばしても、指先が届かない。

 

 戻ってこい。

 

 思っただけだった。子どものころ、なくした消しゴムに向かって念じたのと同じくらいの軽さで。

 

 百円玉が動いた。

 

 ずっ、と埃の上を滑る小さな音。銀色の縁が暗がりから這い出してくる。まっすぐ宍戸の指先へ。そこで止まらず、指の腹に吸いつくようにして手のひらの上に乗った。

 

 宍戸は尻もちをついた。

 

 歩道の縁石が尻の骨に固く当たる。

 

 硬貨は冷えていた。それ以上に、宍戸の指が冷えていた。指先から手首まで、氷水に浸けたように感覚が遠い。九月の夜なのに、息を吐けば白く見えそうだった。

 

 しばらく、動けなかった。焼き鳥屋の換気扇が回っている。駅のアナウンスが遠くで鳴っている。自販機の前で尻もちをついた三十四歳の男を、誰も見ていない。

 

 朝から一日、自分に言い聞かせてきた。寝不足だ。疲れだ。病院に行けば、何かの名前がつく。

 

 病気では硬貨は動かない。

 

 笑いが漏れた。

 

 最初は喉の奥で空気が引っかかっただけだった。それが止まらなくなった。しゃがみこんだまま、宍戸は肩を震わせて笑った。声を殺そうとして、殺しきれずに、くっ、くっ、と喉が鳴る。焼き鳥屋から出てきた酔っぱらいが、気味悪そうにこちらを見て足早に通りすぎていった。

 

 十二年間、声を出して笑ったことがあっただろうか。会社で笑うのは頭を下げるときだけだった。

 

 宍戸は立ち上がり、百円玉を自販機に入れた。缶コーヒーではなく、隣のミルクココアのボタンを押す。甘いものが無性に欲しかった。

 

 ガコン、と缶が落ちる。プルタブを起こし、立ったまま一気に半分飲んだ。熱いココアが喉を通って胃に落ちると、手首のあたりから、じわじわと指に血が戻ってくる。

 

 朝の電車の声。課の島の声。蛭田の頭の中の、だらしない笑い声。そして、暗がりから這い出してきた百円玉。

 

 宍戸は空になった缶を、ゴミ箱の穴の上にかざした。手は離さない。缶だけを見つめる。

 

 缶が手のひらの上でかすかに震え、ことりと、自分から穴の中へ落ちていった。

 

 宍戸は空になった自分の手のひらを見下ろした。

 

 十二年、誰にも見られずに、頭を下げつづけてきた手だった。その手が今夜、初めて何かを持った。

 

 口の端がゆっくりと持ち上がっていく。誰も見ていない夜の歩道で、宍戸は、眉を下げずに笑っていた。

 

 

 

第1話 了

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