世界支配~超能力に目覚めた平社員、まずは会社を乗っ取ることにした~   作:八咫烏葵

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第3話 「聞こえる距離」

 

 『いらっしゃいませー。……早く上がりてえ』

 

 神田駅北口のコンビニの店員は、口と頭で同じ温度の声を出していた。

 

 朝六時三十五分。レジの前には、早番の会社員が四人並んでいる。宍戸は列の最後について、前の三人の頭の中を順番に聞いた。おにぎりは鮭にすればよかった。今日の会議、資料が足りるか。あの店員はいつも釣り銭を投げる。バーコードを読む音が、ぴっ、ぴっ、と秒針のように正確に続く。

 

 『このおっさん、毎朝、缶コーヒーと何か甘いやつ買ってくな』

 

 宍戸の番が来たとき、二十歳くらいの店員はそう思っていた。

 

 この店に通って五年になる。店員は何人も入れ替わったが、顔を覚えられていると感じたことは一度もなかった。覚えられていた。毎朝、缶コーヒーと何か甘いもの。それだけの男として。

 

 レジの横に、袋入りの飴が並んでいる。宍戸はミルク飴の袋を一つ取ってカウンターに置いた。

 

「袋、いいです」

 

 飴の袋を上着の右のポケットに押しこむ。歩くたびに、膨らんだポケットが腰のあたりで小さく揺れた。

 

 今日は一日かけて会社じゅうの「自分」を聞いて回る。昨夜、ベッドに入ってから決めたことだった。眠れなかった。目を閉じると、明日、誰の頭の中を聞けるかが次々に浮かんできて、そのたびに心臓が速くなった。遠足の前の晩の子どものようだと思い、それから、その子どもが手に入れたものの中身を思って、暗い天井に向かって少しだけ笑った。

 

 

 

 総務課は社内のあちこちに用事がある。書類を届ける。蛍光灯を替える。会議室の予約を調整する。台車を押して廊下を歩いていれば、どのフロアに顔を出しても誰も不思議に思わない。

 

 これほど都合のいい仕事はなかった。十二年、それに気づかなかった。

 

 三階、営業部。コピー用紙の箱を台車で運びこむと、何人かがちらりとこちらを見た。紙だ、ありがたい。総務の人、名前なんだっけ。宍戸……だったっけ、違うか。十二年いて、名前を覚えているのは三人に一人。

 

 窓際の席で、若い営業マンが受話器に向かって何度も頭を下げていた。口からは「申し訳ございません」、頭からは『このクソ客、一回くらい黙って注文しろよ』。二つの声が同じ速さで出ている。

 

 宍戸は紙の箱を下ろしながら、その二つを聞き比べた。自分も十二年、ああやって頭を下げてきた。下げながら、頭の中で何を言っていたのか。思い出そうとして、何も浮かばないことに気づいた。言い返す言葉さえ、頭の中で用意していなかったのだ。

 

 それが今朝は少し可笑しかった。

 

 五階、経理部。経費精算の束を受け取りに行くと、経理の課長が書類を差し出しながら考えていた。

 

 『総務の宍戸さん、仕事は丁寧なんだよな。でも出世はしないタイプ』

 

 評価というより、天気予報を読み上げるような調子だった。

 

 六階、役員フロア。決まった用事がなければ上がれない階だ。宍戸は会議室の湯呑みを下げるという名目で廊下を歩いた。社長室の扉は閉まっている。隣の秘書室で、髪をうなじで一つにまとめた秘書が、パソコンを打っていた。目が合うと、小さく会釈が返ってくる。

 

 『総務の人』

 

 その先は何もなかった。秘書室から三メートル離れると、何も聞こえなくなった。

 

 四階に戻ると、総務部長の小田切が、島の向こうの個室から出てくるところだった。五十六歳。物腰がやわらかく、怒鳴ることはない。蛭田が怒鳴っているときも、ガラスの向こうでそれを見ているだけの人だった。

 

「宍戸くん、来週の防災訓練の段取り、頼めるかな」

 

「やっておきます」

 

 『宍戸くんに渡しておけば、まあ間違いはない。置いておくと便利な男だ』

 

 置いておくと、便利。

 

 小田切の頭の中で、宍戸は、棚の上の電気ポットと同じ場所に置かれていた。

 

 昨日までなら、その一言は何日も胃の底に沈んだだろう。今日は違った。宍戸は小田切が個室に戻っていく背中を見ながら、頭の中の秤に、分銅を一つ載せた。この人はこう。この人はこう。

 

 量っている。量りながら、宍戸自身は少しも傾いていない。傾いていないことが、ひどく気持ちよかった。

 

 午後三時、安達美緒が机の横に立った。

 

「宍戸さん、すみません。これ、今日中なんですけど、ちょっと私、手が回らなくて」

 

 差し出されたのは、来月の社内報の原稿だった。安達の担当の仕事だ。

 

 『断らないよね、いつも断らないし。……私、今日、合コンなんだよな。定時で出たい』

 

「いいですよ。置いておいてください」

 

「ほんとですか! ありがとうございます、助かります」

 

 『やった。宍戸さん、ほんとちょろい』

 

 原稿を受け取りながら、宍戸は安達の顔を見上げた。にこにこしている。悪い子ではない。ただ、宍戸のことを、便利な棚くらいにしか思っていない。

 

 ちょろい。

 

 宍戸はその言葉を、喉の奥でゆっくりと味わった。そうだな、と思った。今日のところはちょろくしておいてやる。

 

 去年の忘年会の幹事も、宍戸だった。会場の予約から二次会の店まで全部手配して、当日、安達は乾杯の音頭を取る係長の隣で笑っていた。宍戸の席は入口のそばの、料理が最後に回ってくる場所だった。冷めた唐揚げを一つ食べて、会計の計算をして、それで宍戸の忘年会は終わった。

 

 

 

 夕方六時。安達は宣言どおり定時で帰った。蛭田は「取引先と会食」と言って五時半に出ていった。出ていく背中から、今日もあの店、ミカちゃん、と聞こえた。

 

 島に残っているのは、宍戸と、隣の島の年配の係長だけだった。係長はイヤホンで何かを聞きながら、ゆっくりと伝票を打っている。蛍光灯の何本かが、ちらちらと瞬いていた。

 

 安達の原稿を赤ペンでめくる。誤字が四つ、日付の間違いが一つ、単位のずれが二つ。一時間で終わった。原稿を安達の机に置いたとき、係長と目が合った。

 

 『総務の宍戸さんか。いつも最後まで残ってるな』

 

 三秒のあいだに、その下から、もう一つの声が浮かんでくる。

 

 『俺も三十代のころ、こうだった。何でも引き受けて、いつか誰かが見てくれると思ってた。……誰も見てなかったけどな』

 

 係長が目をそらすと、声はイヤホンから漏れる落語の笑い声に紛れて消えた。

 

 宍戸は自分の席に戻り、ミルク飴を一つ口に入れた。

 

 あの係長の三十年後が、宍戸の三十年後だった。昨日までは。

 

 誰も、見ていなかった。十二年間、宍戸は会社のどこにいても、誰の頭の中にもいなかった。いたとしても、電気ポットやコピー用紙の箱の隣に置かれていた。それを今日一日で宍戸は一枚残らず聞いた。

 

 胸の奥で、何かがゆっくりと煮えはじめていた。

 

 怒りに似ていた。だが怒りのように熱くはなかった。もっと低い火で、鍋の底からじわじわと泡を立てていく何か。今日聞いたすべての声がその鍋に放りこまれていく。置いておくと便利。出世はしないタイプ。ちょろい。いつもへこへこしてる人。

 

 それなら、と宍戸は思った。

 

 見られていない男が何をしても、誰にも見えない。

 

 口の中の飴が舌の上で溶けていく。宍戸はその甘さが消えるまでのあいだ、明日、誰の頭の中に指をかけてみようかと考えていた。考えるだけで、指の先がかすかに熱くなった。

 

 

 

 中野の部屋に帰りついたのは夜の九時だった。

 

 玄関で靴を脱いでいると、スマホが震えた。母からだった。

 

〈恭司、お誕生日おめでとう。遅くなってごめんね。三十四歳だね。体に気をつけて。〉

 

 誕生日は二日前だった。母は北関東の実家で、父が死んでから八年、一人で暮らしている。年に一度、正月に電話をするだけの間柄だ。

 

 この文字が本当なのかどうか、ここからは確かめようがない。百キロ以上離れた母の頭の中は、宍戸の耳には届かない。

 

 親指で、ありがとう、とだけ打った。頭を下げる猫のスタンプを一つ送ってスマホをベッドの上へ放る。

 

 スマホはベッドに届く前に宙で止まった。ゆっくりと回って、画面を下にして枕の上に置かれた。

 

 指先が冷える。宍戸はポケットから飴を出して口に放りこんだ。ミルク飴の袋は朝より半分ほど軽くなっていた。

 

 明日も、この袋を買って会社に行く。その次の日も。袋が空になるたびに、宍戸の中の何かが、一つずつ満ちていく気がした。

 

 

 

第3話 了

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