世界支配~超能力に目覚めた平社員、まずは会社を乗っ取ることにした~   作:八咫烏葵

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第4話 「課長の頭の中」

 

 『部長、これで俺のこと見直すだろ』

 

 月曜の朝十時。四階の小会議室で、蛭田の頭の中は朝から上機嫌だった。

 

 長机をロの字に並べた狭い部屋に、総務部長の小田切と、課長が二人、主任が四人。ブラインドは半分下ろされ、外の光が床に縞を作っている。コーヒーメーカーの、焦げかけた豆のにおいがした。宍戸はいつものように議事録係として、入口の横のパイプ椅子に座っている。破れた座面の合皮の縁が、太ももの裏に固く当たった。

 

「では総務課から。蛭田くん」

 

「はい。今期の重点として、消耗品の発注の一本化を提案します」

 

 蛭田が立ちあがって、プロジェクターの電源を入れる。

 

 壁に映ったのは宍戸が三週間かけて作った資料だった。表紙の作成者の欄が、蛭田克也になっている。フォントも色もグラフの並びも、宍戸が夜中に一つずつ直したものだ。三ページ目の凡例が一ミリだけ右にずれている。宍戸が直し忘れたところまでそのまま残っていた。

 

「全国十四の営業所が個別に発注しているゴミ袋、軍手、梱包テープ等を、本社で一括契約に切り替えます。試算では年間でおよそ千六百……失礼、千八百万円の削減が見込めます」

 

 『やべ。数字、ちゃんと見てなかった』

 

 小田切が資料をめくりながらうなずいた。

 

「よくまとまってるね。蛭田くん、これ、自分で全部やったの?」

 

「はい。営業所の伝票を一枚ずつ確認しまして。三週間かかりました」

 

 蛭田の目がちらりと宍戸のほうへ動いた。

 

 あいつ、何も言わねえだろうな。……言わねえよな。あいつは置物だ。

 

 宍戸は手もとの議事録に目を落としていた。ボールペンを持った手は、動いていない。動かさないでいるのに、かなりの力が要った。

 

 ペンを握る指の中で何かが暴れていた。昨日までなら、それは悔しさだった。今は違う。宍戸は自分の中で暴れているものの正体を、冷静に見下ろしていた。

 

 楽しんでいる。

 

 この男は自分が何を盗んだのか、誰から盗んだのかを、盗まれた本人に全部聞かれながら、得意げに読み上げている。会議室の誰も、それを知らない。知っているのは宍戸ひとりだ。

 

 これが褒められた気持ちでないことは、宍戸にもわかっていた。わかっていて、やめる気にはならなかった。十二年、褒められる気持ちだけで生きてきて、何が手に入ったというのだ。

 

「これは役員会に上げよう。蛭田くん、ありがとう」

 

「いえ、総務課として当然のことです」

 

 蛭田が腰を折って座る。パイプ椅子のきしむ音が、宍戸の耳にはやけに大きく聞こえた。

 

 

 

 会議が終わると、蛭田は上機嫌のまま宍戸の机の横を通った。

 

「宍戸。資料、まあまあだったな」

 

 小田切に褒められた資料が、宍戸の机の横では、まあまあになる。

 

「ありがとうございます」

 

 『こいつ、ほんとに何も言わねえ。楽でいいわ』

 

 蛭田が自分の席に戻る。席と席のあいだは二メートル半。楽に届く。だが表面の声だけでは足りなかった。宍戸が欲しいのはその下だ。

 

 何かを訊こうとするふりをして顔を上げる。蛭田も、ちょうど顔を上げた。

 

 目が合う。

 

 『なんだよ』

 

 その下から、どっと流れこんできた。古い洗濯機の排水口を開けたように、濁ったものが一度に溢れてくる。経費、今月もう三回使ったな、あと一回はいけるか。ミカちゃん、昨日、指輪の話してたな、誕生日は来月か。嫁にはバレてねえ、カードの明細は会社のだし。領収書の宛名は適当な取引先にしとけば経理もわかんねえ。丸山梱包、使いすぎか、次は東和資材にしとくか。引き出しの奥の、まだ出してない三枚、今週中に精算しねえと。

 

 三秒。

 

「……何だよ、宍戸。何か用か」

 

「防災訓練の名簿に、課長の印鑑をいただければと。後でいいです」

 

「後にしろ。忙しいんだよ」

 

 宍戸は頭を下げて伝票に目を戻した。

 

 指先が冷えている。三秒目を合わせただけで、自販機の夜の半分ほどの冷たさが手に残っていた。引き出しからミルク飴を出して口に入れる。甘さが広がるのを待ちながら、宍戸は今聞いたものを、頭の中で一つずつ並べ直した。

 

 銀座の、ミカという女。取引先との会食のふりをして経費で通っている。領収書の宛名には、実在する仕入れ先の名前。丸山梱包。東和資材。どちらも宍戸がよく知っている会社だ。そして、一番下の引き出しの奥に、まだ精算していない領収書が三枚。

 

 見つけた。

 

 宍戸は自分の胸の中で何かがはっきりと形を持つのを感じた。それは十二年かけて底に溜まった泥のようなものだった。怒鳴られた朝の数。手柄を取られた資料の数。笑って頭を下げた回数。それが今、泥ではなくなっていく。固まって刃物の形になっていく。

 

 宍戸は飴を舌の上で転がしながら、斜め向かいの島に座る蛭田の後頭部を見た。十二年、この後頭部に頭を下げてきた。この男の機嫌ひとつで、月曜の朝、胃が痛んだ。

 

 その男の首根っこが、今、宍戸の手の届く引き出しの中にある。

 

 口の中が甘かった。飴のせいだけではなかった。

 

 

 

 昼休み、宍戸は五階の経理部へ上がった。防災訓練の名簿を回す、という名目だ。名目はいつでも作れる。総務の仕事は会社じゅうに名目が転がっている。

 

 経理の島では若い社員が二人、弁当を食べていた。揚げ物とソースのにおいがする。名簿を置き、経理の主任と二言三言話すあいだに、ちょうどいい声が聞こえてきた。

 

 『総務の蛭田課長の接待費、また多いな。でも領収書は揃ってるし、相手先も実在するしな。……丸山梱包さんとの会食、今期で七回目か。これだけ会ってて、取引額は増えてねえんだけど』

 

 疑ってはいる。だが口に出すほどではない。課長クラスの接待は上が認めている。経理の主任が言うことではない。

 

 つまり、誰かが口に出させてやればいい。

 

 廊下の突き当たりの窓から、神田の街が見下ろせた。ビルとビルのあいだを、昼の人波が流れていく。どの頭の中にも、何かが詰まっている。昼の献立。午後の会議。家のローン。誰かへの怒り。

 

 ここから見下ろすと、蟻の行列に似ていた。一匹一匹に、それぞれの重さがある。どの一匹の、どこを押せば崩れるのか。

 

 窓ガラスに、自分が映っていた。紺のスーツに、少し曲がったネクタイ。いつもと同じ、印象に残らない三十四歳の男だ。

 

 ネクタイの結び目が、ひとりでに、すっと上へ締まった。

 

 ガラスの中の男は、少しだけ背筋が伸びて見えた。宍戸はその男に向かって声を出さずに笑いかけた。お前は今まで何をしていたんだ。ガラスの中の男は、答えなかった。

 

 

 

 午後四時、蛭田が席を立って喫煙所へ行った。

 

 蛭田の机は島の窓際、一番奥にある。書類の山と、灰皿代わりのコーヒーの空き缶と、写真立てが一つ。写真の中で、奥さんと中学生くらいの娘が、どこかの海を背に笑っていた。

 

 一番下の引き出しが、少しだけ手前に飛び出している。蛭田はいつも閉めきらずに席を立つ。

 

 見えないものは動かせない。

 

 宍戸は伝票の箱を取るふりをして、椅子を少しだけ後ろへ引いた。斜めの角度から、引き出しの隙間の暗がりがのぞける。白い紙の端が一枚だけ見えた。

 

 宍戸は膝の上に伝票の箱を載せたまま、その白い端を見つめた。ほんの少しだけ、見えない指をかける。紙の端が隙間の中でかすかに震えた。

 

 喫煙所のほうから、蛭田の咳払いが聞こえた。

 

 宍戸は視線を外した。心臓が速い。だが電車の中で跳ねたのとは違う速さだった。自分で選んで、自分の手で、誰かの足もとに石を置いている。その手ごたえが指の先から腕を伝って、胸の真ん中まで上がってくる。

 

 白い紙の端は引き出しの隙間で止まったまま、さっきより一センチだけ、外へ顔を出していた。

 

 

 

第4話 了

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