世界支配~超能力に目覚めた平社員、まずは会社を乗っ取ることにした~ 作:八咫烏葵
『総務の人。……名前、確か宍戸さん』
声は四階の総務課の入口から聞こえた。
火曜の午後二時。蛭田は朝から千葉の営業所へ出張していて、夕方まで戻らない。課の島の空気はいつもより少しゆるんでいた。安達はイヤホンを片耳だけ外して仕事をしているし、隣の島の係長は湯呑みを片手に窓の外を眺めている。
蛭田の机の上には、昨日の夕方のまま書類の山が残っていた。ブラインドの隙間から差しこむ光が、机の端の消しゴムのかすを白く浮かび上がらせている。一番下の引き出しの隙間からは、白い紙の端が、昨日と同じ一センチだけ顔を出していた。
朝から、宍戸は待っていた。
誰でもいい、というわけではなかった。課の人間が拾えば、蛭田の耳に入る前に握りつぶされるかもしれない。外の人間がいい。紙がこの島の外へ運ばれていくように。
入口に立っていたのは、六階の秘書室の女性だった。
榎本沙耶。社長秘書、二十九歳。黒い髪をうなじで一つにきっちりとまとめ、紺のスーツに低いヒール。歩くと、床の上で小さく乾いた音がする。社内で彼女を知らない者はいないが、彼女と雑談をしたことのある者は、ほとんどいない。
「お疲れさまです。社長の名刺の追加をお願いしたくて。それと、来月の役員会の会議室を」
「承ります」
名刺の発注を受けているのは宍戸だった。榎本は宍戸の机の横まで来てメモ用紙を一枚差し出す。名刺の枚数と会議室の日付が、小さく整った字で書いてあった。近くで見ると、香水ではなく柑橘のハンドクリームのにおいがした。
『この人、いつも仕事が早いって前の秘書さんが言ってた。……会議室、第一が空いてればいいけど』
宍戸は会議室の予約表をパソコンで開いた。榎本は宍戸の画面をのぞきこむように立っている。その位置から蛭田の机までは、一メートル半。
来た。
宍戸は予約表のカーソルを動かしながら、意識の半分を、蛭田の机の一番下の引き出しへ伸ばした。白い紙の端を、見えない指でつまむ。
すっと、紙が隙間から抜け出た。
白い紙は音もなく宙を滑り、蛭田の机の脚の横を通って、榎本の靴の先に、ふわりと落ちた。
指先が冷える。宍戸は画面から目を離さなかった。
「第一会議室、十五日の午後でしたら空いています」
「では、そこで……あら」
榎本が足もとに目を落とし、膝を折って紙を拾いあげる。
領収書だった。宍戸の位置からも印字が読めた。銀座、ラウンジ月白。六万八千四百円。宛名は伊庭興産株式会社様。日付は九月十四日、日曜日。
榎本が領収書を裏返す。ボールペンの走り書き。丸山梱包様、二名、会食。
かちり、と、榎本の頭の中で何かが嵌まる音がした。
『十四日。日曜。丸山梱包の丸山社長は、この日、うちの社長とゴルフだった。千葉の。予約したのは私。朝七時スタートで、そのあと会食まで』
『銀座のラウンジにいたはずがない』
榎本の視線が床から蛭田の机へ、その横に積まれた精算待ちの書類の箱へ、それから、宍戸へ。
宍戸は画面を見ていた。
「第一会議室、十五日の十三時から十七時で押さえます」
「……ありがとうございます」
ほんの少し、返事が遅れた。
手の中の紙を見下ろしながら、榎本沙耶は、自分の心臓の音を聞いていた。
蛭田課長の机のほうから落ちてきた。たぶん。でも、風もないのに、どこから。
総務の主任は画面から顔を上げない。宍戸。いつもへこへこしていて、何を頼んでも断らない人。秘書室の誰も、名前をちゃんと覚えていない人。
この人、見てた?
確かめる方法はなかった。それに、確かめている場合でもなかった。
社長は今、役員会で専務に詰められている。総務の管理が甘い、経費が緩い、と。社長は言い返せない。いつもそうだ。言い返す材料を、何一つ持っていないからだ。
この紙を、社長に渡したら。
社長は専務に一つ言い返せる。専務が引っぱってきた蛭田課長の不正を、社長自身の手で暴いた、という形にできる。そして、その紙を社長の机に置いたのが誰かを、社長は覚えている。
社長に、恩を売れる。
二十歳の冬、実家の工場のシャッターに貼られた、差し押さえの紙の赤い判子が、目の奥でちらりと光った。上に行かなければ、また閉められる。
沙耶は領収書を二つに折った。もう一度折って、スーツの内ポケットに入れた。
使える。
榎本の頭の中の、その最後の一言を、宍戸ははっきりと聞いた。
使える。
宍戸の手の中のマウスが、かすかに汗で湿っていた。
予想していなかった。紙を拾うのは安達でも係長でも、誰でもよかった。拾った人間が経理か部長か蛭田本人に渡せば、どの道を通っても、蛭田の引き出しの中身に誰かの目が向く。宍戸が計算していたのはその程度のことだった。
拾った女は紙を誰にも渡さなかった。
自分のポケットにしまった。紙一枚を拾った瞬間に、その値段を量ったのだ。社長に恩を売る。専務に言い返す材料を渡す。それで自分の立場を一段上げる。
面白い、と宍戸は思った。
あの女は使える。そして、あの女自身も、宍戸と同じように誰かを使おうとしている。使おうとしている人間ほど、使いやすいものはない。何を欲しがっているのかが、こちらには全部聞こえるのだから。
胸の奥が熱かった。この会社に、自分と同じ目で紙を見る人間がいた。紙の値段がわかる女が、六階にいる。それを知っているのは宍戸だけだ。
「名刺は、木曜にはお届けできます」
「助かります」
榎本は軽く頭を下げて総務課の島を出ていった。低いヒールの音が、廊下を遠ざかっていく。
宍戸は給湯室へ行った。
四階の廊下の突き当たり。窓のない小さな部屋で、電気ポットと古い冷蔵庫と、誰かが置いていった観葉植物の鉢がある。換気扇がいつも低い音で回っている。壁には、三年前に宍戸が作って貼った「節電にご協力ください」の紙が黄ばんでいた。誰も読まない紙は、剥がされもしない。換気扇の風で端がめくれてぱたぱたと鳴っている。
コップに水を汲んで一気に飲んだ。
手が冷えている。引き出しから紙を一枚抜いて、二メートル運んで落とす。それだけで指の先がしびれていた。見えにくい場所から物を動かすと、そのぶん重くなるらしい。ミルク飴を口に入れると、袋の中身はもう残り四つだった。
蛭田の引き出しの奥には、まだ二枚残っている。
そして六階には、紙の値段がわかる女がいる。
あの女はあの紙をどこまで持っていく。社長の机か。役員会か。蛭田はどこまで落ちる。考えるほど、飴の甘さが濃くなっていくような気がした。十二年間、宍戸は会社の中で起きることを、いつも後から知らされる側だった。今は違う。今日、この会社で一番先に何かを知っているのは、総務の島の奥で飴を舐めている、この男だった。
換気扇の音が少し大きくなった気がした。
廊下を歩いてくる足音がある。低いヒールの、乾いた音だった。
宍戸は流しの蛇口をひねった。水が勢いよくコップを叩く。
「宍戸さん」
給湯室の入口に、榎本が立っていた。手には何も持っていない。内ポケットのあたりが、ほんのわずかに膨らんでいる。
「さっきの名刺、肩書きを一つ、直していただきたくて。それと」
榎本は給湯室の中へ一歩入った。狭い部屋で、二人のあいだは一メートルもない。
宍戸は蛇口を締めた。水の音が止むと、換気扇の唸りだけが残る。
榎本の目が宍戸の目をまっすぐに見た。
『この人、見てた』
第5話 了