わたしはモルモットである。名前は捨てた。
「メイリン。そこの試験管を持ってきていただけますか? 気を付けて運んでください」
名前は捨てたのだけれど、普通に呼ばれている。
実験動物に名前を付けて、普通なら心が痛みそうなのに。さすがはルアン・メェイ。
いくつか試験管が転がっていたが、中身が入っているのは一本だけ。木製の試験管入れに刺さっていて、中身は蛍光ピンク。さらにキラキラと緑色の謎の欠片みたいなものが浮き沈みしていた。
ルアン・メェイを手伝って数か月。さすがにそろそろ、常識外れの謎物質を見るのにも慣れてきた。
言われた通りに、試験管を運ぼうとして、思いっきり自分の足に躓いて転んだ。
「びゃぁ!!」
頭から試薬をかぶって、激痛に悲鳴を上げた。悲鳴を上げてからそこまで痛くないことに気が付いた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……それより、薬をこぼしてしまってごめんなさい!」
「ぇ……浴びて、しまったのですか?」
「…………え?」
あのルアン・メェイが悲壮感たっぷりに言うので、途端に血の気が引いた。
身体がずっと冷たくなって、脳の奥がじくじくと痛むほどの恐怖心。なんか、シャレにならなそう。
ルアン・メェイのモルモットを自称しているわたしだが、本当に危険な人体実験はされないと高を括っていた。
万が一死ぬ危険があったとしても、彼女は必ず確認を取るし、痛みが伴う実験は行わない。
ルアン・メェイはその程度の、最低限の倫理観は有しているのだ。
そして、最低限の倫理観しかないはずの彼女が、悲壮感たっぷりにわたしを見ている。
「あの、わたし、死にます……?」
「いえ……その反応なら大丈夫そうですね。先ほど生成した物質でしたが、失敗です」
「えっと……?」
「本来なら、先ほどの薬品を浴びてしまった場合、全身の神経が置き換えられその痛みに耐えきれずに命を落としていたでしょうから」
「ほひっ」
安堵と恐怖で喉がきゅっとしまって、心臓がバクバクと鳴る。思わず零れた空気は変な音に変換され、間抜けな声が出た。わたしの表情も負けず劣らずの間抜け面だろう。
心を落ち着けるためにも、仕事を見つける。自分の失敗は自分で処理しよう。
「えっと、とりあえず床を拭くね」
「拭いたごみは、必ず向こうの危険物用のごみ箱に。それと、念のため服もそこに入れて、すぐにシャワーを浴びるように」
言われた通りに床を拭き、服を脱いでゴミ箱に入れる。
服は、お気に入りの白いワンピース。飾り気のないシンプルなものではあるが、ルアン・メェイが胸元に刺繡を入れてくれて、大切にしていたものだ。
シャワー室に移動する直前に、ルアン・メェイが手袋をして改めて床を掃除している様子が見えた。
「……やっぱりやばい?」
少し急いでお湯を出して、なるべく長時間浴びる。
しばらくして、特に体に変化はない。
鏡を見る。
病的に白く、病的に細く。肋骨が浮いて、長い手足は枯れ枝のように細く頼りない。
顔は、わたしは自分でかわいいと思っている。ルアン・メェイとおそろいの碧い瞳が自慢で、そして髪が白くて長い。
シャワーを止めたため、背中に張り付いた髪の毛が徐々に冷えて気持ち悪い。
気持ち悪い。
違和感。
「あれ、あたしの髪、白かったっけ?」
おそろいなのは、瞳と髪だった気がする。
ルアン・メェイの研究は、あたしには難しすぎて。
それでも、顔立ちは似ていないけれど、同じ特徴があるのが嬉しくて。
あたしはルアン・メェイを友達だと思っていたけれど、きっとあの子は、そこまであたしのことを思ってくれなかった。寂しかったけれど、それでも、いい人生だったと思って。
「っ、いや、白かった、よね?」
今日わたしがルアン・メェイに起こされた時。
目をこすりながら上体を起こして、纏めていた髪を解いたとき、視界の端に流れる髪は白かった。
昨日は……そう、昨日はルアン・メェイより先に起きた。
一昨日は、この日は徹夜していたルアン・メェイに付き合ってずっと起きていた。
その前は……もう覚えていない。別に、少し前のことを忘れてしまうのは普通のことだ。
今度は、冷えてしまった身体を暖める目的でシャワーを浴びた。
すぐにシャワー室を出て、タオルで全身を拭く。新しいワンピースには、ルアン・メェイの刺繍がない。いつもあったそれがなくなるのは、寂しいものだ。
「あれ? わたし、何日も同じ服を着てたの?」
我ながら怠惰だと思う。
うーん?
あたしって、綺麗好きだったような……
不思議に思いながら、実験室に戻ると、ルアン・メェイはゴミ箱の処理をしていた。
燃やして問題ないものは焼却炉に持っていくはずなので、今回の場合は確か、破棄Bのパターンだ。
「ルアン・メェイ。あたしがやるよ。確か、破棄Bだよね」
わたしの言葉に、ピタリとルアン・メェイは動きを止めて。じっとりとした目でわたしを見た。
感動、希望、絶望。ルアン・メェイの綺麗な碧の底に、深海のような深さがあった。海底の柔らかい泥を突き抜けたみたいに、彼女の理性で押し留められていた何かが巻き上がる。
「破棄Bではなく、向こうの処理室Eに運んでください」
「え、あ。ごめんなさい。そうだったっけ?」
言われた通り、ゴミ箱をもって処理室Eに運ぶ。
いかにも研究室といった廊下を通り、処理室Eに放り込む前に、ごみ箱の中身をちらりと確認した。
不思議なことに、わたしが大切に思っていたルアン・メェイの刺繡は、わたしの記憶と違っていた。
あたしにくれた、あの梅の花の刺繍とは違う。
ただ、57という数字だけが見えた。
◆
微睡の中から意識が浮上する。
身体は浅い培養液のようなものに浸っていた。
どうにか身体を起こそうとしても力が入らない。無理やり腕を目の前に移動させると、大量の管が伸びて、いくつか針が抜けてしまった。血が流れてきたが痛みはない。
「起きましたか?」
淡々とした口調だけれど、あたしにはどうにも、意外そうにしているように感じられた。
ルアンとは付き合いが長いから、わかる。
「あたしは、いま、どうなっているの?」
「あなたの身体は、あと少しで崩壊してしまいます」
「死ぬ?」
「いいえ。かつてのあなたも、もちろん、今の……これまでのあなたも。すべて取り戻します」
「……」
相変わらず凄いことをやっているねとは、言わなかった。
どうやらルアンの実験はうまくいっているらしい。
あたしには、今日を過ごした「わたし」昨日の「わたし」一昨日の「わたし」、一年前の「わたし」二年前の「わたし」三年前の「わたし」、十年前の「わたし」そして、百年前の「あたし」の記憶がある。
身体が崩壊する瞬間にのみ、記憶の復元に成功するのか。
ルアンは、あたしの腕から血液を採取していた。
「メイリン。またいつか。おやすみなさい」
続いて、点滴に何かの薬品を注射していた。
おそらくは意識を失わせる何か。苦しまないようにという配慮なのかもしれない。
「ぁ、もう……」
もういいよと言っても、どうせ続ける。
あたしは、やれやれと呆れて肩をすくめ付き合うしかない。
しかし、ただの友人を復元しようとするなんて。
ルアン・メェイは意外と友達思いなのか、あるいは、やっぱりモルモット扱いなのか。
「ど……が」
どっちでもいいか。
◆
意識を失ったメイリンの髪を、ルアン・メェイはそっと撫でた。
かつての黒く美しかった髪は、真っ白。どれだけ遺伝子情報を近づけても、不思議なことに髪の色だけは黒にならない。理論上黒になっていなければおかしいはずなのに、ありえない何かが起きている。
なぜか、彼女だけは、うまく蘇らせることが叶わない。
今回は、触覚があるにもかかわらず、痛みを感じない個体だった。
一週間痛みを感じないままだったのか、あるいは限界に近い今日だけ痛みを感じなくなっていたのか。それさえわからない。
「痛みを伴う実験は……やりたくありませんね」
あの薬は、間違いなく彼女の神経をズタズタにしたはずだ。
そもそも痛みを感じなくとも、活動は不可能になっていなければおかしい。
「何が起きたのでしょう……?」
解剖はできない。やりたくないし、そもそも身体はもう少しすればドロドロに溶ける。
そして今回も、メイリンは最後まで記憶を取り戻さなかった。
それでも、かつての記憶の片鱗は見せてくれた。
破棄Bパターンは、かつてメイリンが助手をしていたころの研究室での話だ。
最後に。唇にそっと指を這わせる。
「メイリン。また、会いましょう」
幾度と作り上げたメイリンのクローンも、そのすべての意識を統合させて、彼女を蘇らせる。
「その時、あなたに恨まれていても……私は構わない」
◆
わたしはモルモットである。名前は捨てた。
「メイリン。こちらを抑えていてもらえますか?」
名前は捨てたのだけれど、普通に呼ばれている。
実験動物に名前を付けて、普通なら心が痛みそうなのに。さすがはルアン・メェイ。
言われた通り、彼女の持っているフラスコを両手で包んで、動かないようにする。
試験管の中の、蛍光ピンクに緑色の光る欠片がちらちら浮かび上がっている不思議な薬品が、注ぎ込まれていった。
続く予定はあります。
構造上信頼できない語り手なので少し補足。
今回の「わたし」個体は1週間で崩壊。
数ヶ月の間ルアン・メェイの手伝いをしていた気になっている(曖昧に記憶があるため)。
最後の「あたし」は、それでも記憶の混濁があって、例えば自らの死因や、今回の「わたし」が時折記憶を取り戻していたことなどは認識できていない。