懐かしい顔が、目の前にあった。
かつて誰よりも近くにいた、大切な親友。長い間その安否を案じ、もう一度会いたいと願い続けてきた少女。
吉良きらりは、以前と変わらない人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「イブ……ひっさしぶり! 元気だった?」
まるで、しばらく会っていなかった友人と偶然出会ったかのような、気さくな声だった。
「うん、元気だよ。きらりちゃんの方こそ、元気そうで良かった」
イブは微笑んだ。いつもと変わらない、穏やかな笑顔を作ろうとした。
けれど、胸の奥に押し込めていた不安は、簡単には消えてくれなかった。
「妖魔と一緒にいるって聞いてたから……酷いことされてるんじゃないかって、ずっと心配してたんだよ?」
きらりは一瞬だけ目を伏せ、それから困ったように笑った。
「そっか……心配かけてごめん。でも、あたしはこの通り、大丈夫だから」
「うん、今すごくホッとしてる」
その言葉は、紛れもない本心だった。
生きていてくれた。それだけでよかった。妖魔に囚われ、傷つけられているのではないかと、幾度も最悪の想像をしてきたのだ。
こうして自分の意思で笑っている親友を見られただけで、胸につかえていたものが少しずつ溶けていく気がした。
「アハハ、良かった。それだけでも今日、顔を見せた甲斐があったー」
きらりはいつもの調子で笑う。
その笑顔が、かえってイブの胸を締めつけた。
話したいことは、山ほどあった。どうしていなくなったのか。あの日、何があったのか。今までどんな思いで過ごしてきたのか。
けれど、何よりも先に伝えなければならないことがあった。
「私ね、きらりちゃんにどうしても伝えたい事があって」
「…!」
きらりの笑顔が、わずかに強張った。
イブは両手を胸の前で握りしめた。言葉を口にしようとすると、喉の奥が震える。
ずっと考えてきたはずなのに、いざ本人を前にすると、何から話せばいいのか分からなかった。
「きらりちゃん……」
イブの瞳が揺れた。
「ごめん……ごめんね」
「ちょっ! なんでイブが謝んの!? 今のあたしは……」
慌てて言葉を挟むきらり。しかし、イブは首を横に振った。
「だって……私……あなたのこと……何も分かってなかった」
堪えていた感情が、溢れ出していく。
それは大粒の涙となってイブの頬を伝った。
「一番側にいたはずなのに……あなたがどれだけ思い詰めてたのか、気付けなかった」
きらりの表情から、笑みが消えた。
イブの脳裏には、かつての二人の日々が浮かんでいた。
互いのことなら何でも分かっていると、そう信じていた。
なのに、自分は何も分かっていなかった。
きらりが何を抱え、何に苦しみ、どんな思いで自分の前から姿を消したのか。
「私がもっと早くあなたの心に気付いていれば……こんな事には……ならなかったのに……」
声が震え、視界が滲む。
涙で濡れた頬に長い黒髪が張り付くのを気にも留めず、イブは嗚咽を漏らす
「イブ……お願い……泣かないで」
きらりが苦しそうに呟く。いつもの快活な声ではなかった。
「親友失格だよ……」
涙と共に絞り出すような声でイブは続ける。
「本当は、私にあなたを追う資格なんて無いのかもしれない……。けど、もう一度きらりちゃんに会いたくて、声が聞きたくて……」
会いたかった。
ただ、それだけだった。
以前のように、隣にいてほしかった。
その願いが、どれほど身勝手なものだったとしても。
「イブ……あたしは……」
「今更遅いかもしれないけど、私、何でも償うから……!」
きらりの言葉を遮るように、イブは叫んだ。
「きらりちゃんの為なら何だってするから……! だから! お願い……私のそばからいなくならないで……」
大切な人を失いたくないと願う、少女の悲痛な叫びが廃墟にこだました。
きらりは黙っていた。
何かを言おうとして唇を開き、けれど、結局は言葉を飲み込む。
しばらくの沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。
「……いなくなっちゃうのは……イブの方でしょ」
「え……?」
イブが顔を上げる。
きらりの瞳には、はっきりと悲しみと怒りの感情が渦巻いていた。
初めての、親友から叩きつけられる負の感情。
「何でもするっていうならさ、あたしより長生きしてよ!」
突然の叫びに、イブは息を呑んだ。
「あたしを一人にしようとしてるのは! イブの方じゃん!」
「きらりちゃん……」
「あたしが……今までどんな思いで……っ」
言葉が途切れる。
きらりは唇を噛みしめ、俯いた。
その拳は、震えていた。
イブには分からなかった。
自分がきらりを失うことを恐れていたように、
きらりもまた、イブを失うことを恐れていたのだということが。
「そこまでだ」
冷徹な声が割って入った。
「話が逸れすぎだ、きらり。お前が伝えるべき事柄は他にあるはずだが?」
その声を耳にした途端、イブの身体が強張った。
忘れるはずもない。
決して忘れられない、忌まわしい存在。
「マーラ……!!」
瓦礫の影から小さな影がふわりと歩み出る。
幼子ほどの背丈。だがその風格だけが変わらない。
まるで、この場のすべてを見透かしているかのような、余裕に満ちた表情。
マーラはイブの顔を眺め、薄く笑った。
「久しいな、朝霞イブ。ずいぶんと泣き腫らした顔だ。うちの『同朋』が何か粗相でもしたか?」
「なんでお前が生きてるかとかは、この際どうでもいい」
イブはマーラを睨みつけた。
胸の奥で渦巻いていた悲しみが、たちまち鋭い怒りへと変わっていく。
「お前がきらりちゃんを引き込んだの?」
「違うよ、イブ」
答えたのは、きらりだった。
イブは信じられないという顔で彼女を見る。
きらりは目を逸らすこともなく、まっすぐにイブを見つめ返した。
「あたしはあたしの意思で、妖魔といる」
「きらりちゃん……なんで……」
理解できなかった。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
自分が助け出すべきだと思っていた親友は、妖魔に囚われていたわけではない。
彼女自身が、自らの意思で妖魔の側に立っている。
イブの中で、わずかに残っていた希望が音もなく崩れていった。
「それとね、あたしからも伝えなきゃいけない事があるの」
きらりは、努めて平静な声で続けた。
「近いうちに、退魔士協会に総攻撃を仕掛けるよ。妖魔からの宣戦布告ってやつ」
「……!」
イブの目が見開かれた。
それは、妖魔と退魔士の全面的な衝突を意味していた。
多くの仲間が戦場に立つことになる。傷つき、命を落とす者も出るだろう。
そして、その計画を告げているのは、かつて自分の隣で笑っていた親友だった。
「……きらりちゃんも、そこにいるの?」
イブは震える声で尋ねた。
「妖魔と一緒に……みんなを襲うつもりなの……?」
「…………っ」
きらりは答えなかった。
ほんの一瞬、彼女の瞳が揺れた。
けれど、それ以上の言葉はなかった。
「答えてっ!」
イブの悲痛な叫びが響き渡る。
しかし、きらりは俯いたままだった。
「沈黙もまた答えだろう」
マーラが淡々と告げる。
「用件は済んだ。行くぞ、きらり」
「……っ」
きらりは一度だけイブを見た。
何かを伝えたそうな、けれど何も伝えられないような、複雑な眼差しだった。
「ごめんイブ、またね」
まるで、明日も会えるとでもいうような軽い挨拶。
それが、かえって残酷だった。
「行かせない……」
イブの声が低く響いた。
「お前なんかに、きらりちゃんを渡すものか」
マーラときらりの行手を塞ぐように、激しい迅雷が奔る
当然、自然現象などではない
「ほう。遠隔攻撃の霊術か」
足元の焼け跡を見下ろし、マーラは感心したように呟く。
「この一年でまた霊力の扱いが上達したと見える。結構なことだな。だが――」
次の瞬間だった。
「……ぁ! な、に……これ……?」
イブの身体が、不意に硬直した。
胸の奥から何か得体の知れないものが這い上がってくる。
「身体の奥が……!」
(この感じ……ナージャに見つめられた時と同じ……)
(いや、違う……あの時より……ずっと……深い……!)
「自分で言っていただろう。今のお前にきらりを追う資格は無い」
その口元に、酷薄な笑みが浮かぶ。
「その身を持って味わうがいい」
「ああああぁ!!」
イブの絶叫が響き渡った。
地面に手をつき、指が、土を掻く。
「マーラ! やめて!」
きらりが悲鳴のような声をあげる。
しかしマーラは冷たく言い放った。
「ではどうする? ここでイブと一戦交えるか?」
「……っ、冗談でしょ」
きらりは苦々しく顔を歪めた。
けれど、その手をイブに伸ばすことも出来なかった。
一度だけ、苦しげに目を伏せた。
そして再びイブへと向き直ると、いつものような笑顔を作ろうとした。
「イブ、きっとまたすぐ会えるよ」
その声は、かすかに震えていた。
「だから、今は大人しくしていて……」
「ま、まっ……て……」
床に崩れ落ちそうになりながら、イブは必死に手を伸ばした。
「きらりちゃん……いか……ないで……!」
声が掠れる。
視界が滲み、目の前の姿が遠ざかっていく。
「きらり……ちゃん……」
最後の呼び声は、誰にも届くことなく、静寂の中へと消えていった。