世の中には不可解な出来事、霊障と呼ばれる科学では説明できないものがある。それは妖怪のしわざ。
4月8日
可笑しなことが起こった。
朝起きたら、自分自身の名前がわかなかったのだ。ど忘れなんてものではない。全ての人間が当たり前に記憶して当たり前の自らの名前を忘れるなどということが起きてたまるものか。そして、俺の名前である『飯沼湊』を認識したとしても納得感もない。あぁそうだった、と思い起こすことができない。
これは明らかな異常事態だ。とても昨日と同じ日常を過ごせるようなものではない。だから日記としてここに情報を残す。仮にこの記憶喪失すらも忘れたとしても現状を把握できるように。そして、読み返すことで僅かでも違和感を見つけられるように。
現状で一つ言えるのは、もしかしたらこれが初めてではないのかもしれないことだ。名前という分かりやすいものを忘却したことで気がついただけで、些細な日常の記憶や日常に支障の出ないような記憶の喪失をしていてもおかしくはない。それを留意しなければ進行段階を見誤って最悪の結末を迎えかねない。
ひとまず、病院に行こう。何か脳の病気かもしれない。
4月9日
近くのクリニックに受診したが、当然そんな場所程度で精密な検査もできない。やはり以前としてこの記憶喪失は未知のままだ。
大きい病院への紹介はしてくれたため、そこで脳の検査をしてもらう。とはいえ医学の発展した現代でも脳はブラックボックスだ、原因が判明するかは分からないだろう。それでも検査する以外の道はない。
そして消えた記憶に関してだが、今のところ名前以外は見当たらない。これを被害がなかったと捉えるか、きっかけもないほど忘却の効力が恐ろしいと捉えるか。前者として考えたいが、今は最悪を想定しなければいけない。
4月17日
いくつかの検査をしたがなんの異常も見つからない。ただ漠然と記憶喪失という現実だけしかわからないのだ。
記憶も、起きたときこの家が全く知らない場所と感じた。今でもそうだ、きっとこの家は数年ほど住んでいるはずなのにどことない居心地の悪さがある。他にもいつ忘れたのか、隣人の存在を憶えていなかった。向こうからは知人として話しかけられたと言うのに、こちらは曖昧な生返事しかできなかった。
症状は進行した。つまり、この記憶喪失は突発的で一度きりの事象じゃないということだ。
俺は今、心の底から怖い。自分というアイデンティティが崩れていくのが、怖い。
情報を手に入れるためには、少しでも多くの病院に行かなければ。
4月30日
だめだ、どこの病院に行こうが、どんな検査を受けようが、清々しいほどに異常の文字は並ばない。代わりといってはなんだが、現代医学的に俺の健康はたくさんのお墨付きを受けられたわけだ。
だがそんなものいらない。ただこの記憶喪失をどうにかしてほしいだけなのだ。対霊障系の組織など頼れるわけもないし、俺はどうしたらいいのだろう?
記憶もどんどんと消えていっている。俺の通う高校、両親との思い出、友人関係、その全てがまるで記憶にないのだ。もはや『飯沼湊』という人間は体を成していないのかもしれない。まるで補填されることのないテセウスの船だ。
あぁ、実に笑えない。
5月10日
どういうことだ、俺は記憶を喪失していたのか?
まるで記憶にない。いや、確かにこの日記は俺のもので、日々文字を書き足していった記憶はあるのだ。しかし、この日記の主題である記憶喪失について書いた憶えはまるでない。
そうか、これが記憶喪失の症状。なんと、なんと恐ろしいことか。今の俺には昨日までの苦悩は知らない。それに伴う焦りさえも。つまり、これまでの俺という人間が消えたということ。そんなことがあって良いわけがない。俺はもはや飯沼湊じゃなくなったのだ、どうしてそれが恐れずにいられる?
日記を読んで対霊障系、つまりお祓いにはいってないことはわかった。きっと前の俺は意地になっていたのだ。
明日は神社に行ってみることにしよう。
5月13日
やはりというべきか、いくつかの神社に行ったところでなにも進展はなかった。やったことといえば形だけの儀式をやっただけだ。
この世界に神と言える者がいるならば、果たして俺に何をしろと言うのだろうか?やれることはやったといえる。だと言うのに、ただ無情に記憶が欠落していくだけだ。
あるいは、ただ有効な手段を取れていないだけなのか?何か俺の知らない技術があって、それを実行できていないだけなのかもしれない。
そうなのであればなんと意地悪な神サマだろう?だって答えを知らないのだからこんな悪問など解けるわけがない。
世界は理不尽だ。
5月14日
たいへんだ。ついにおこってしまった。かんじのきおくがきえてしまった。
いまおれはかんじがよめず、かくこともできない。もはやこのにっきをよみかえすことすらできなくなってしまった。このさき、じぶんかんでのちしきのでんたつがこんなにもよみずらいものになってしまうのだ。
なによりまずいのは、もじのきおくにもえいきょうをはじめたことだ。きおくそうしつでげんごにかんするきおくをうしなうれいはきょくたんにすくない。それも、かんじのいっさいをいっきにわすれるというれいはない。
そもそもおれのげんじょうは、しょうこがなくいがくてきにきおくそうしつというらくいんはおしきれないじょうたいだ。もうすでにこのきおくそうしつはオカルトのいきにはいっている。しかし、おはらいなどやってもむだだったのだ。もはやこのきおくそうしつをせきとめるどころか、かいふくすることなどできないのだろうか?
ガラガラとくずれゆくおれというアイデンティティをまえに、おれはなにもすることができずにぼうかんするほかないのか?
なぁ、おれはなにをすればゆるされる?だれかこたえてくれ。
5月17日
(日本語に似た文字のようなものが記されている)
俺は、文字すら忘れてしまった。この日記はもう読み返すこともできない。それどころか、インターネットを利用することすらままならない。だって、調べ物しようとしてもまず文字をタイプできないのだ。そしてそれをなんとか突破したところで辿り着くのは文字の海。
不幸中の幸いというべきか、言語自体を忘れはしなかった。つまり今の俺は喋れるし聞き取れるが、書けないし読めないという状態なのだ。
そんな俺では、もはや今の俺にできるのは口頭で情報のやり取りをすることだけ。その事実が俺を焦らせる。
だって、今行えるのは酷く古代的な情報収集だけだ。そもそも藁にも縋り付いている現状だ。現代のものを十全に扱えたって情報は増えていなかったというのに、ただ話しかけるだけの行為で一体どれだけ情報が増えると言うのか?
さらに文字が読めないのだから電車だって使えないし、とても遠くに足を伸ばすことはできない。そんな状況で、はたして何ができる?
なにもできない。
その言葉だけが思い浮かんだ。何度思考の隅へ追い払おうとも決して頭から離れてくれなかった。
「だとしても、動かないとダメだ」
震える体を右手で押さえ、玄関の外へ踏み出す。
向かう先は神社だ。近くにあるが、これまで行っていなかった場所である『山途神社』。
なぜ行かなかったのかと聞かれれば、そこがただ地図に載っていただけの無名の神社だったからだ。得体の知れない神社と言い換えてもいい。ネットで調べようが大した情報もなく、山の麓にあるためそこ目当てでもなければ近づくこともない神社だった。
だが、今はその『山途神社』に行く他ない。まともな移動手段がないのだ、徒歩で行ける範囲では俺にはもうそこしか知らない。
そうして山途神社へ辿り着く頃には太陽はもう真上に昇っていた。俺はゼェハァと息を荒く吐きながら山道特有の長い登り階段を登り、鳥居をくぐった。
そこには、巫女服の少女がいた。少女と言っても、俺と同じくらいの17くらいの女性だろう。その少女は長く美しい濡れ羽色の髪を持ち、黒曜石のような透き通った瞳を持っていた。
状況が状況でなかったらつい見惚れてしまうほど可憐な人だった。
「参拝の方ですか?」
向こうもこちらに気がついていたようで、にこりと微笑み話しかけてくる。
「いや、参拝じゃない。俺にお祓いをして欲しいんだ」
「いいですよ」
少女は当たり前のように笑った。
……今の俺は大分おかしな人間だと自負している。記憶喪失の云々ではなく、予約もなく突然神社に来てお祓いを頼むという行動をしたという意味で、だ。そもそもここでお祓いを請け負ってるのかすら分からない。というか、ホームページもないここでお祓いをしたいという人間なんてせいぜい俺くらいなものだろう。
そんな辺鄙な場所に突然お祓いをしてくれと言う人が尋ねて来たら少しくらい動揺するものだと思うのだが、この少女はまるで前から分かっていたように俺の言葉に快諾したのだ。
我ながら理不尽だが、この少女と神社が不気味に感じた。
少女は俺を見つめて、微笑む。
「神社の中に入ってください。中で説明しますから」
そう言うと少女は軽やかな足取りで神社へ歩いていく。ついてこいということだろう。それに誘導され、俺は彼女の後をついて行った。
たどり着いたのは神社の裏手側から入れる、生活感のある場所だった。そこは畳が敷かれており、座布団も用意されている。
俺は少女に促されるまま、そこへ座り込んだ。
「単刀直入に聞きます。あなた、憑かれてますね?」
「……」
「もちろん、倦怠感を意味する方の『疲れてる』じゃない。霊障に脅かされていることを意味する方の『憑かれてる』です」
少女はじっと俺を見つめた。その瞳は俺の事情の全てを見透かしているようで、どこか神秘性を孕んでいる。見つめ返すことが俺にはどうにも出来なかった。
「そうだ、俺はきっと憑かれているんだと思う。朝……多分、毎朝目が覚めると何かの記憶が消えている。そして消えているものに気が付かないんだ、忘れたものに直面するまで。きっといくつも、俺が自覚していない忘れたものがある。なにより、消えていくものは無慈悲だ。………もう、今の俺には文字を読むことすら忘れてしまった」
いつのまにか、俺は俯いていた。
「そうでしたか、辛かったでしょう。そして、よく耐えました」
顔を上げれば、少女は笑っていた。まるで勝ちを確信したような、覇気のある笑みだった。
「原因が何か、分かるのか…!?」
「ええ。しっかりと」
「それは『
俺は首を振った。そんな存在、この漂白された脳にはかけらも検索に引っかからない。
「貘とは中国神話に登場する幻獣です。しかし、本来は貘に『夢を喰う』なんて特性はありません。伝承的にはむしろ食べるのは金属でした。そもそも『夢』なんて言葉は出てきません。ところが、貘が日本へ伝来し広まる過程で『夢を喰う』とされるようになった。どういうワケかは知りませんけどね」
「……まってくれ、貘が喰うのは夢なんだろ?じゃあそれがどうして記憶がなくなるのに繋がる?」
少女は右手を持ち上げてピンと人差し指と中指を立てる。
「それは、『解釈の変化』と『別の恐れとの合体』です」
少女は語り出す。この不可解な霊障の正体を紐解くように。
「妖怪というものは『集合思念』がカタチを持ったもの。例えば、夜が怖いとか、突然雨が降るかもとか、知人が別人に成り代わっていたらとか。そう言った大勢の人間がうっすらと考えている空想が具現化したもの、それが妖怪です。つまり、人間の集合思念で生まれている分、それが変われば妖怪も性質を変化させるんですよ」
「貘の場合は『夢』の解釈が時代と共に変化したことが一因です。昔は夢と記憶の関連性は知られていなかった。多くの人にとって夢は所詮ただの幻という認識だったことでしょう。しかし、睡眠についての研究が進み、夢が記憶の整理をするためのものだと判明して、その事実が広まった。つまり、人々にとって夢と記憶が直接繋がっていると知れ渡ってしまったんです。しかし、これだけならば貘は記憶を喰う妖怪にはならなかったはずです。貘が元々持っていた『悪性でない妖怪』というイメージが僅かに勝るはずなので」
「しかしそこで二つ目の要因がその均衡を崩した。それは、記憶喪失を主題にした作品も多く生まれてしまったこと。そうした作品が出回ったことで『記憶を失ってしまったら』という想像も大勢に広まったのです。そうして、『記憶喪失』を司る妖怪を世界は孕んでしまった」
「『夢を喰う妖怪』と『記憶喪失の妖怪』という二つの要素が、変化した解釈からなる集合思念の親和性の高さゆえに混ざり合い、『記憶を喰う妖怪』へと進化した。それが現代の『貘』という妖怪です」
解説を終えれば、すくりと少女は立ち上がる。そのまま座布団を掴んで、俺の隣へ近づいてきた。
「貘を祓うのは少し特殊です。なぜなら夢に現れるワケですから、こちらも精神の内側に入らないと祓うことができません」
「なので、とりあえず寝てください」
少女は平然とそう言った。
「待て、寝ると貘に記憶が喰われるんだろ!?それじゃあまた……」
「寝ている時は霊的に隙が多く、入り込みやすいんです。いや、そうでなければ入れない」
「……」
「大丈夫、あなたが寝入ったらすぐ私もあなたの夢の中に入ります。私にはそれができる技能がある。信じてください」
少女は真っ直ぐに俺を見る。だから、俺は折れるしかなかった。
「……あぁ、わかった。だから俺を助けてくれ」
「ええ、必ず」
俺は寝転がり、寝る体勢に入った。この神社に来るまでに体力を使ったからか、すんなりと俺は眠りに落ちた。
目が覚めれば、そこは知らない天井だった。いや、俺は憶えている。ここは山途神社の室内だ。しかしいくら見渡せどもあの少女の姿はない。まぁ、そもそもこの部屋自体あまり大きくないのだが。
きっと外にいるのだろうとあたりをつけて部屋を出る。すれば予想通り、掃き掃除をする少女が見えた。
向こうもこちらに気がついたようで、近づきながらも話しかけてきた。
「起きたんですね」
「はい、たった今」
「貘は無事に撃退しました。あなたはもう記憶喪失に悩まされることはないでしょう」
「はい、ありがとうございます!このご恩は一生忘れません」
俺は深々と頭を下げて感謝を告げた。この恩を考えれば、これでも足りないぐらいだろう。なのに、なぜかくつくつと少女は笑い出す。
「あはっ。敬語、やっぱり忘れてたんですね」
「え、あぁ……そういえば、確かに敬語の存在を今まで憶えていなかったです」
そう、きっと敬語というものが記憶から消えていた。これも貘せいだろう。敬語を忘れていたから、敬語が使えなかった。恩のある相手にタメ口で話すなんて無礼にも程がある。心底記憶が戻ってきてよかった。
いや、しかしだとすればおかしなことがある。なぜ記憶は戻ってきた?いくら撃退したといえど、そんな都合よく記憶を返してくれるのだろうか?
そんな疑問を脳内に浮かべていると、目の前から解答が飛んできた。当然、少女だ。
「忘れていた記憶は、私の記憶から一部流し込むことで補填しておきました。もちろん私個人の思い出なんかは抜いて、ただの意味記憶だけですよ」
少女はそう言って微笑んだ。
そんなことができるのかだとか、そんな驚きはもうどうでも良かった。俺はもう一度深く頭を下げて感謝する。この少女に多大なる恩を感じながら。