Simulation of the Simulacra → SALVATION PARADOX ← さあ、答え合わせに行こうか 作:ゼノリカの名もなき宣教師
1話:失礼のないように
目覚めた時、白い天井が、視界を支配した。
……白い。
あまりにも白い。
汚れ一つない天井を、スバルはしばらくの間、ぼんやりと見つめていた。
寝起きの頭は、まだ完全には覚醒していない。意識だけが先に浮上して、身体の方はまだ夢の中に置いてきてしまったような、そんな感覚。
とりあえず、状況を整理しよう。
知らない天井。
知らないベッド。
知らない部屋。
そして、こういう時に真っ先に頼れる、いつもの相棒。
「……えーっと、どこだっけ、ここ?」
『屋敷やろ』
「ウチのサポートAIが優秀な子すぎる……優秀すぎてダメな子になりそう……いや、もうダメな子なんだけど……」
『だれがサポートAIじゃ』
即答だった。
いや、だって仕方ないだろ。
こういう時に、状況を端的に説明してくれる存在がいるというのは、実にありがたいことなのだ。
もっとも、説明される側のスバルが、説明を理解する気のある人間なのかどうかは、また別の問題である。
そもそも、屋敷と言われても。
……屋敷?
ああ、屋敷か。
なるほど。
うん。
わからん。
「まあ、いいか」
『よくないやろ』
「細かいことを気にしていたら、大物にはなれないってばっちゃが言ってた」
『お前のばっちゃ、誰やねん』
「俺も知らん」
『知らんのかい』
いつも通りのやり取り。
いつも通りの、どうしようもない会話。
けれど、こういう何気ないやり取りができるというのは、案外、馬鹿にできないものなのかもしれない。
少なくとも、目覚めたばかりの人間が、知らない場所で一人きりになっているという状況よりは、ずっとマシだ。
……いや、そもそも俺、一人きりじゃないんだけど。
そういう意味では、かなり恵まれているのかもしれない。
自分の境遇を客観的に見つめ直すと、なかなかに奇妙な人生を送っている気がするが。
まあ、今さらだ。
スバルは、そんなことを考えながら上体を起こした。
ベッドの上に手をつき、軽く伸びをする。
身体に目立った違和感はない。
頭も、痛くない。
とりあえず、動ける。
ならば、よし。
細かいことは歩きながら考えればいい。
問題を先送りにしているだけとも言うが、人生には、そういう技術も必要なのである。
スバルはベッドから降りると、そのまま部屋の扉へと向かった。
そして、何のためらいもなく扉を開ける。
その先には、長い廊下が広がっていた。
「広いな……」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
直線に長い廊下。
壁も、床も、天井も、どこか上品な雰囲気を漂わせている。
いかにも金持ちの住む屋敷、といった感じだ。
庶民代表、ナツキスバル。
こういう場所に来ると、なんとなく落ち着かなくなる。
別に、粗相をしたら即座に追い出される、と決まっているわけではない。
ないのだが。
高そうなものが並んでいる場所では、どうにも、自分の行動一つ一つに値札がついているような気分になる。
もし壁にぶつかったら?
もし花瓶を倒したら?
もし床に傷をつけたら?
……うん。
考えるのをやめよう。
庶民の精神衛生上、あまりよろしくない。
スバルは、なるべく壁や家具に触れないようにしながら、スタスタと廊下を歩いていった。
別に、目的地があるわけではない。
とりあえず、周囲を確認する。
知らない場所に来たのなら、まずは情報収集。
異世界生活で培った、実にまともな判断である。
ただし、情報収集のために何をすればいいのかは、まだ考えていない。
……うん。
いつも通りだな!
そんな調子で歩いていると、ふと、ある扉が目に留まった。
いや。
目に留まった、という表現は少し違うのかもしれない。
何かが気になった。
特別に立派な扉でもない。
装飾が派手なわけでもない。
なのに、そこだけ、妙に意識が引っかかる。
「……なんだ、これ」
『どうしたんや?』
「いや、なんか、この扉だけ気になるんだけど」
『……ふむ』
トウシが、少し黙った。
こういうときの沈黙は、あまり好きではない。
何せ、こいつが考え込んだ後には、だいたい面倒なことが待っている。
「なあ。開けていいと思う?」
『判断材料が足らん。屋敷の中にある扉やし、客が入ってええ場所かも分からん。せやけど――』
「せやけど?」
『その扉だけ気になる、っちゅう感覚は、調べる価値がある』
「……つまり?」
『ノックぐらいはしてもええんちゃうか』
「なるほど。実に常識的な提案!」
『お前が常識を持ってなさすぎるだけや』
「ひどくね?」
スバルは扉の前に立ち、二度、軽く叩いた。
返事はない。
……ないのだが。
なぜか、今なら開けられるような気がした。
根拠はない。
根拠がないからこそ、妙に気持ち悪い。
「……開けるぞ」
『おう。何かあったら、まず謝れ』
「最初から俺が悪い前提!?」
そして、扉を開けた。
その先に広がっていたのは、書庫だった。
本。
本、本、本。
壁一面の本棚。
床から天井まで、紙の束がこれでもかと並べられている。
なるほど。
知識の宝庫。
人類の英知の結晶。
そして、文字の読めないナツキスバルにとっては、ただの紙の集合体。
……悲しきかな。
「いや、待て。ここにある本、全部読めたら、俺だって知的な男になれるのでは?」
『読めたらな』
「夢を否定する速度が光を超えてる!」
そうして騒いでいると。
「……朝から、ずいぶんと騒がしい客なのかしら」
声がした。
振り向く。
そこには、小さな少女がいた。
人形のように整った顔立ち。
金色の髪。
落ち着いた服装。
そして、見た目の幼さとは不釣り合いなほど、堂々とした態度。
「えーっと、どちらの坊ちゃん?」
「どちらかというと、お嬢ちゃんかしら」
「ですよねー」
即座に訂正された。
いや、わかっていた。
わかっていたけど、こういうのは最初の一言が大事なのである。
『……スバル』
「ん?」
『ちょい、妙やな』
「お前の存在の方がよっぽど妙だと思うんだが」
『そこは否定せん。けど、今はあの子の話や』
トウシの声から、いつもの軽さが少し消えた。
『歩いたときの重心の移動が、人間のそれと微妙にちゃう。呼吸の間隔も、身体の動きと一致しとらん。人形みたいに整った顔、っていう印象も、単なる顔立ちの話やないな……感情はどうやらあるみたいやな。だってーー』
「……つまり、ロボット?」
『いや、そこまでは流石に言うてへんやろ』
「言ってるようなもんだろ!」
『人間と違う、という可能性が高いだけや。見ただけではようわからん義肢かもしれんし、種族が違うのかもしれん。そもそも、この世界の人間の標準的な身体構造を、ワシはまだ十分に知らん』
「……へえ」
『確かめるなら、まず本人に聞くんが早い。ただし、失礼のないようにな』
「おう。任せろ」
スバルは少女へ向き直った。
「俺の相棒がお前のこと人間じゃないかもしれないって言ってるんだけど、実際どうなん?」
『お前の失礼の基準、どうなっとんねん!!』