Simulation of the Simulacra → SALVATION PARADOX ← さあ、答え合わせに行こうか 作:ゼノリカの名もなき宣教師
「文字を勉強する理由が、遺言を書く為ってのは、肝が座ってんだか、アホなんだか……」
スバルは、もう一度看板を見た。
先ほどまで、意味不明な記号の羅列にしか見えなかったもの。
だが今は、値段らしい場所があることだけはわかる。
ほんの少し、自分の目で、わかった。
「……なあ、トウシ」
『なんや』
「今の、俺にもわかったぞ。あの記号が数字なんだろ?」
『正確には、数字として使われとる可能性が高い、やけど』
「細けえな!」
『細かいところが、あとで命取りになるんや』
それから、トウシは別の店の看板を示した。
『ほな、次はお前の番や。あの看板の中で、値段に当たりそうな場所を探してみい』
「……え?」
『答えは教えへん。間違えたら、なんで間違えたか一緒に考えたる』
「異世界初日から授業開始!?」
『授業料は無料や。良心的やろ』
「教師が人の頭の中に住んでる時点で、だいぶ良心的じゃねえよ!」
そうして、スバルは言語を習得するための、最初の一歩を踏み出した。
もちろん、流暢に読めるようになったわけではない。
今すぐ必要な情報はトウシが補い、スバル自身も、少しずつ規則を覚えていく。
それは、あまりにも小さな進歩だった。
だが。
少なくとも、誰かの満点を借りたわけではなかった。
そうして、スバルは言語の勉強を始めたのだった。
「いや、まだ数字っぽい記号しかわかってねえんだが」
『せやから、これから少しずつ覚えていくんや。安全を確保したら、ちゃんと勉強する時間も作ろうな』
「……よかったと言うべきか、なんと言うか……」
正直なところ、ありがたい。
知らない土地で、知らない人間に囲まれて、書き言葉も通じない。
そんな状況に放り込まれた人間が、まともに情報収集をしようと思えば、言語の習得は避けて通れない道だろう。
今すぐ必要な部分だけでも補ってくれたのだから、トウシには感謝してもしきれない。
ただし。
「……お前、俺が寝ている間に全部教え込んでくれたりしない?」
『調子に乗るなと神は言った』
「ひどい!」
『自分で使う道具の使い方ぐらい、自分で覚えるんやな。ワシが全部やったら、お前はいつまで経っても一人前になれへんやろ』
「異世界に来て早々、教育方針が厳しいんですけど!?」
『異世界やからこそや。日本と同じ感覚で生きていけると思うんやない』
「……それは、そうなんだけどさ」
スバルは言葉を濁した。
そうなのだ。
ここは、日本ではない。
見慣れない街並み。聞き慣れない言語。見たこともない服装の人々。
そして何より、さっきから何度も目にしている、どう考えても現代日本では成立しない光景の数々。
ファンタジー。
その6文字が、嫌になるほど似合う世界だった。
……だったら、もっとこう、都合のいい展開があってもいいと思うのだが。
異世界転移。
主人公には特別な能力が与えられ、可愛い女の子と出会い、困難を乗り越え、最後には世界を救う。
そんな夢物語を、スバルだって一度くらいは、いや、一度どころじゃない。何度も考えたことがある。
しかし、現実は非情だった。
特別な能力といえば、今のところトウシが頭脳労働を担当しているくらい。
スバル本人には、何ができるのかもわからない。
おまけに、元の世界に帰る方法も不明。
「……まあ、悩んでも仕方ねえか」
そんな会話を交わしている間に、二人は路地裏へとたどり着いていた。
薄暗い路地。
建物の隙間から差し込む日差しは細く、地面には乾ききらない水溜まりが点々と残っている。
表通りの喧騒が嘘のように遠のき、代わりに聞こえてくるのは、誰かが歩く足音と、低い男たちの笑い声だった。
そして。
「おいおい、兄ちゃん。こんなところに何の用だ?」
「観光か? だったら、ちょっとばかし金を置いていきな」
出会うのは、トンチンカンの三人組。
見るからに堅気ではない。
少なくとも、道案内を頼めば親切に観光名所を教えてくれるタイプの人間ではなさそうだ。
スバルは三人を見比べ、次に自分の手元を見た。
何もない。
財布もない。
そもそも、ここがどこなのかすらわからない。
そんな人間から金を巻き上げようというのだから、商売相手を間違えているとしか言いようがなかった。
「ど、どうする?」
『相手は三人。お前は素手。こっちの身体能力が高うても、喧嘩の経験差までは埋まらん。逃げ道は後ろに一つ。まず、どうする?』
「おい待て。今、妙に不穏な言葉が聞こえたんだけど?」
『ワシなら、財布がないことを先に伝えて、隙があれば大通りへ戻る。勝負はその後やな。せやけど、判断はお前がせえ』
「俺の命を教材にすんな!」
とはいえ、トウシの言うことにも一理ある。
いつまでも他人に頼りきりではいられない。
危険なのは、わかっていた。
だが、言われた通りに逃げるだけでは、またトウシの正解を借りたことになる。
そんな考えが、一瞬、頭をよぎってしまった。
それが、どれほど馬鹿げた意地なのかも理解しないまま。
せっかく異世界に来たのだ。
ここは一発、主人公らしく格好よく決めてやろうではないか。
スバルは拳を握り締め、男たちを睨みつけた。
「おーけ……それじゃあ、異世界チートを見せてやるぜぇぇ!!!」
「俺の握力は108キロぉぉぉ!!」
スバルは勢いよく突撃した。
……そして。
「すみません俺が全面的に悪かったです許してください命だけはーー!」
「このやろう!」
「ぎゃあああ!!」
あっという間に地面へと叩き伏せられた。
拳が飛ぶ。
蹴りが飛ぶ。
何とか逃げようとしたところで足を引っかけられ、転がったところをさらに踏みつけられる。
異世界チートとは何だったのか。
主人公補正とは何だったのか。
今のスバルには、そのどれもが存在しないらしい。
そうして、踏み躙られていくスバル。
痛い。
普通に痛い。
異世界だからといって、人間の身体が頑丈になるわけではないらしい。
それどころか、何の準備もなく喧嘩を売れば、相手の人数と体格に応じた結果が返ってくる。
実に公平な世界。素晴らしい世の中である。今現状を除けば。
男の一人がスバルの胸倉を掴み上げる。
「おい、聞いてんのか? 金を出せっつってんだよ!」
「だ、だから持ってねえって……!」
「だったら、持ってるもんを全部置いていきな!」
「服まで脱がせる気かよ!? 異世界に来て早々、そんな特殊なイベントは求めてねえんだが!?」
「何をわけのわからねえことを!」
再び拳が飛んできた。
スバルは目を閉じ、衝撃に備える。
……だが。
「はは……」
なぜだろう。
こんな目に遭っているというのに、笑いが込み上げてきた。
「何笑っていやがるんだ!」
「なんなんだよって思える……」
自分でも、何を言っているのかよくわからなかった。
ただ、思ったのだ。
何もできない。
何もわからない。
何も持っていない。
そんな自分が、今、目の前の理不尽に対して、悔しいと思っている。
腹が立つと思っている。
どうにかしてやりたいと、心の底から思っている。
それだけは、間違いなく自分の感情だった。
誰かの知識を借りたわけでもない。
トウシの力で生み出された感情でもない。
自分自身の中から、確かに湧き上がってきたものだった。
ボコボコにされたスバル。
けれど、その顔には笑顔が宿っていた。
『……ふうん』
「……なんか言ったか?」
トウシは、ただ今は、スバルの内面に生まれた小さな変化を観察していた。
そして。
「ちょっとどけどけどけ! そこの奴ら、ホントに邪魔!」
場違いなほど明るい声が響いた。
金髪の少女が、路地裏を駆け抜けていく。
小柄な身体。
身軽な足取り。
人混みをすり抜ける動きは、獲物を追う獣のように俊敏だった。
少女は、倒れているスバルを一瞥して、
「なんかスゴイ現場だけど、ゴメンな! アタシ忙しいんだ! 強く生きてくれ!」
「お、おい! 何者だ!」
言い終わる前に、少女は走り去っていた。
スバルは、地面に転がったまま、その背中を見送った。
「……なんだ、今の」
『身体能力が高いな』
「いや、そこじゃねえよ! 普通、こういう場面で助けてくれるもんじゃねえの!?」
『それは、助ける義理がないやろ……』
「本当に正論を言うな!」
それにしても、速かった。
人間というより、チーターとかに近いと思う。
いや、チーターはさすがに言い過ぎかもしれないが、少なくとも一般的な人間の走り方ではなかった。
運動能力に秀でているというだけでは説明しきれない、何かがある。
『魔法とかある世界観なんかな』
「……お前、そういうのも推測できるのか?」
『まだ断定はできへん。せやけど、街並みや服装、技術水準、それにあの子の身体能力。複数の情報を合わせると、その可能性は十分あるな』
「なるほど……」
『まあ、魔法があるなら便利やな。ワシの解析能力との相性もええかもしれん』
「俺との相性は?」
『お前さんはまず、喧嘩に勝てるようになりなさい』
「ぐうの音も出ねえ!」
その間にも、暴行は続く。
どうやら男たちは、先ほどの少女よりも、目の前の獲物を優先することにしたらしい。
もっとも、獲物と呼ぶにはスバルはうるさすぎた。
「くそっ、覚えてろよ……!」
「まだ口答えするか!」
「いや、だってよ……!」
スバルが何か言い返そうとした、その時だった。
「それ以上の狼藉は見過ごせないわ。ーーそこまでよ」
落ち着いた声が、路地裏に響いた。
今度こそ、助けが来たらしい。
振り返ると、そこには銀髪の少女が立っていた。
長い髪が、風に揺れている。
整った顔立ち。
澄んだ紫紺の瞳。
その姿は、この薄汚れた路地裏には不釣り合いなほど美しかった。
ただし、スバルは顔を見ただけで、彼女が普通の人間ではないことを察した。
いや、正確には、彼女の隣にいる存在が、だ。
「な、なんだ、お前は!」
男の一人が威嚇する。
少女は答えない。
ただ、静かに手を掲げた。
「お願い、パック」
「はーい。じゃあ、ちょっとだけお仕置きしようか」
ふわり、と。
少女の隣に、小さな生き物が浮かび上がった。
猫。
いや、猫に見える何か。
その小さな身体から、明らかに異質な力が放たれていた。
次の瞬間、男たちの足元に冷気が広がった。
「うおっ!?」
「な、なんだこりゃ!」
地面が凍りつき、男たちの足を拘束する。
彼らは慌てて逃げようとしたが、思うように身体が動かない。
「ひ、ひいいっ!」
「精霊だ!」
男たちは、来た時と同じ勢いで逃げていった。
……来た時よりも遥かに情けない姿ではあったわけだが。
スバルは呆然と、その光景を眺めていた。
「……魔法?」
「ええ、そうよ。怪我はない?」
「いや、めちゃくちゃありますけど!?」
「あら……ごめんなさい。少し遅かったわね」
「いやいやいや! 助けてもらった立場で文句を言うのも違うんですけど、もうちっと早く来てくれてもよかったんじゃない!?」
『お前、流石にそれは言い過ぎ』
「ふふ、ごめんなさい」
少女は、申し訳なさそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、スバルの心臓が跳ねた。
……いや、待て。
落ち着け。
異世界に来てから、まだどれほど時間が経った?
ろくに情報収集もできていない。
帰還方法だってわからない。
そんな状況で、女の子に見惚れている場合ではないだろう。
だが。
美少女だった。
圧倒的に、美少女だった。
「……ありがとうございます」
スバルは、妙に丁寧な声で礼を言った。
『露骨やなぁ』
「うるせえ!」
トウシの冷静な指摘を、スバルは即座に切り捨てた。
その間、トウシは少女の隣に浮かぶ猫を観察していた。
『精霊かぁ、なんか、猫やけど。首もとはサイベリアン。体長に反して尻尾の長さはメインクーンみたいで、全体を総合するとアメリカンショートヘアに若干近いな』
「んな情報はいらねえって!」
『いや、猫の形状をしている以上、分類したくなるやろ』
「ならねえよ! 普通の人間は精霊を見て猫種分析しねえんだよ!」
少女は、二人のやり取りを不思議そうに眺めていた。
「……えっと、あなた、一人で話しているの?」
「いや、違うんです! これは、その、俺の中にいる奴と会話しているというか……!」
「そういう魔法もあるのね」
「理解が早い!?」
この世界の人間は、そういうものなのだろうか。
それとも、彼女が特別なのか。
いずれにせよ、事情を説明するには情報が足りなかった。
スバルは、ひとまず深く考えるのをやめた。
こうして、スバルは少女に出会った。
そして、彼女に惚れた。
……我ながら、ちょろい男である。
その後、彼女が奪われた徽章というものを回収するために動いていると知り、スバルは半ば勢いで協力を申し出た。
もちろん、善意だけではない。
惚れた女の子の役に立ちたい。
できれば格好いいところを見せたい。
あわよくば、名前を覚えてもらいたい。
そんな、17歳の少年らしい打算もあった。
『……お前、さっきまで地面に転がっとったんやぞ』
「だからなんだよ!」
『いや、立ち直りが早いなと思って』
「男ってのはな、美女の前では無限の可能性を発揮するんだよ!」
『その可能性、さっきは発揮されてへんかったけどな』
「うるせえ!」
そうして、スバルたちは王都の中を歩いていた。
人々が行き交い、商人が声を張り上げ、店先には見慣れない商品が並んでいる。
活気に満ちた街並みだった。
それなのに、スバルの心には、どこか落ち着かないものがあった。
知らない世界。
知らない常識。
そして、知らない自分。
先ほどの喧嘩で、自分の無力さは嫌というほど理解した。
では、これからどうするのか。
何を目指し、何を成し遂げるのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
けれど。
せめて今、目の前にいる少女の役に立つことくらいはできるかもしれない。
そう考えたスバルは、彼女の隣を歩きながら、胸を張った。
「ところで、俺の名前はナツキスバルだ。よろしくな!」
「……そう。私はサテラよ」
「サテラ……」
名前を反芻する。
覚えた。
絶対に覚えた。
この名前だけは、忘れるわけにはいかない。
そんな決意を胸に秘めながら、スバルは彼女の顔を見た。
すると、サテラは少しだけ不思議そうな表情を浮かべた。
「あなた、本当に使える人なの?」
「ぶっ!?」
唐突な一言だった。
いや、待て。
ここは男として、格好よく返すべき場面だろう。
一瞬、その言葉に、
ーー世紀の大天才、万能の超人、ナツキスバルって呼ばれているぞ。
そう言おうと思った。
だが。
先ほどの喧嘩が脳裏をよぎった。
握力108キロ。ただし武道経験なし。
異世界チートなし。
そして、地面に転がる自分。
……うん。
嘘はよくない。
嘘というか、ここでは通用しないようだ。
トウシがいないと、結局は自分なんてただの弱虫なのだ。
「いや? 俺なんてみみっちい弱虫さ。でも、負けん気だけはここ最近ついてきた予定……だから、安心しろ」
「……そう」
サテラは、少しだけ考えるように視線を落とした。
その反応が、スバルには妙に気になった。
自分の言葉を、どう受け取ったのだろう。
頼りないと思われただろうか。
あるいは、期待外れだと思われただろうか。
だが、今さら取り繕う気にもなれなかったし、する気もなかった。
今度こそ、強くないものを強いとは言わない。
今度こそ、できないことを、できるとも言わない。
それでも、
できないからといって、最初から諦めるつもりはない。
それだけは、今のスバルにも言えることだった。
「因みに、ここ最近、この王都を騒がせている輩とかいないの? さっきみたいなトンチンカンとぶつかるのはこりごりオニゴーリなんだが」
「腸狩りっていう人がいるわね」
「腸狩り……ファンタジーって感じもするが……向こうでも、ゾルディックを名乗る殺人鬼もいるしな。そういうもんか」
軽口を叩きながらも、スバルは内心で警戒を強めていた。
腸狩り。
名前からして、ろくでもない。
少なくとも、初対面の人間に向かって気軽に名乗れるような二つ名ではないだろう。
『その名前、ちょっと気になるな』
「何が?」
『物騒な通り名が定着するいうことは、単なる喧嘩好きやない可能性が高い。被害の傾向、活動範囲、目撃証言。情報が揃えば、ある程度の行動パターンは推測できる』
「……お前、そんなことまでできるのか」
『情報があればな。何もないところから正解を生み出せるわけやない』
「それを聞いて安心したような、しなかったような……」
『ただし、情報の集め方には気をつけえ。危険人物の情報を集めるために、危険人物に近づいたら本末転倒や』
「わかってるって」
スバルは軽く返事をした。
だが、実際のところ、わかっているだけでは足りないのだろう。
知識と行動は別物だ。
それを、先ほど身をもって学んだばかりだった。
そうした小話を少々交えながら、スバルたちはサテラと共に、盗品蔵へとたどり着いた。
建物の外観は、ひどく寂れていた。
周囲の建物と比べても目立たず、入り口の扉も古びている。
「ここが、盗品蔵か……」
「ええ。私の徽章を持っている人が、ここにいるはずよ」
「なるほどな」
スバルは扉を見た。
鍵がかかっている。
当然といえば当然だ。
盗品を保管している場所なのだから、簡単に出入りできるようでは困るのだろう。
「……で、どうやって入るんだ?」
『壊せばー?』
「いやいやいや、急にIQさげてんじゃねえよ」
……物理的に……いけるか? そんなことを思ったスバルだったが、やっぱり首を振り、
「どうするんだってばよ!」
パックも破壊案を提示したことで、扉は破壊された。
スバルは頭を抱えた。
こうして、盗品蔵へとお邪魔することになった。
魔法でこじ開けたのだ。
後戻りはできない。
スバルは深呼吸し、扉の向こうへ足を踏み入れた。
内部は薄暗く、さまざまな品物が雑然と置かれていた。
武器らしきもの。
装飾品らしきもの。
用途すらわからない道具。
それらが、無造作に積み上げられている。
そして、その奥に。
「私の徽章をとった人は……そこのあなたね!」
サテラの声が響いた。
奥にいた金髪の少女が、面倒くさそうに顔を上げる。
「うわ……昼間の姉ちゃんじゃねえか……だが、ここにきた限りは商売相手だ。この徽章? ってもんは高級そうな匂いがするからな」
少女は手元にある品物を弄びながら笑った。
徽章を返すつもりはなさそうだった。
スバルは少女の様子を観察する。
相手は余裕を持っている。
自分たちがここに来ることを、ある程度予想していたのかもしれない。
あるいは、単純に、逃げられる自信があるのか。
どちらにせよ、真正面から喧嘩を売るのは得策ではなさそうだった。
そうして、スバルたちは交渉の席に着く。
「俺が提示するのはこれだ!」
スバルが勢いよく差し出したのは、ガラケーだった。
魔法器と偽ったら、聖金貨で二十枚以上の価値があるものと言われた。
スバル自身は、そこまでの価値があるとは思っていなかった。
だが、相手がそう判断するのであれば、交渉材料としては十分だろう。
虚偽の情報を相手に与えて、そして、有利に立ち回っていく。
言葉を選び、相手の反応を観察し、交渉の主導権を握る。
少なくとも、殴り合いよりは得意な分野だ。
……たぶん。
「どうだ? こいつなら、そっちの徽章と釣り合うんじゃねえか?」
スバルは、できる限り余裕のある表情を作った。
内心では、心臓がうるさいほどに鳴っている。
ここで失敗すれば、また暴力沙汰になるかもしれない。
しかも、今度は逃げ道の少ない建物の中だ。
だからこそ、慎重に進めなければならない。
老人がガラケーを眺め、値踏みするように目を細めた。
その反応を見て、スバルは内心で小さく拳を握った。
よし。
少なくとも、興味は持たせられた。
これなら、交渉を続けられる。
そう思った、その時だった。
「ーーあら、扉が壊れているけど、大丈夫かしら?」
穏やかな声が、盗品蔵の中に響いた。
スバルは、反射的に振り返った。
そこに立っていたのは、漆黒の女だった。
黒い衣服。
整った顔立ち。
静かな佇まい。
その姿は、どこか不気味なほどに落ち着いていた。
扉が壊れていることを気にしているようでいて、実際には、そんなことなど、どうでもいいと考えているようにも見える。
女は室内を見回し、最後にスバルたちへと視線を向けた。
その目を見た瞬間、スバルの背筋に嫌なものが走った。
理由はわからない。
ただ、危険だと感じた。
先ほどの三人組とは、明らかに違う。
彼らが単純な暴力を振るう人間だったのに対し、目の前の女は、もっと別の種類の危険を感じさせた。
不用意に近づいてはいけない。
そんな直感が、スバルの頭の中で警鐘を鳴らしていた。
『アイツ、多分、武の心得があるなぁ。というか、例の殺人鬼ちゃう?』
「は? どういうことだ?」
『歩幅が一定で、重心の移動が直線的で無駄が少ない。手も自然な位置に置いとるけど、すぐ動かせるようにしとる。戦い慣れとる可能性は高いな』
「……それだけで?」
『それだけやない。一瞬やったけど、光が反射しておった。衣服の一部に不自然な膨らみがある。武器を隠しとるかもしれん。ただし、ナイフかどうかは断定できん。しかしなんらかの凶器である可能性は高い』
ヒソヒソと、スバルは、
「例の殺人鬼ってのは?」
『そこは仮説や。噂の特徴とは合う。せやけど、似た格好の別人かもしれん。確かめるために近づくんは論外やで』
「……お前、そんなシャーロック・ホームズみたいなスキルもあんの?」
『解析しかできんともいう。街を歩いとる間、会話や看板から拾える情報は整理しといた。王都の地名、貨幣の呼び方、王選の噂。最低限の手がかりは集まったな』
「最低限って……」
『せや。ただ、噂には嘘も混ざる。ワシがこっちの常識を全部知っとると思うんは危険やで』
「と、というか、会話とか看板って……は……?」
スバルは、思わず言葉を失った。
歩いている間に聞こえていた会話。
店先で交わされていたやり取り。
通りすがりの人間が口にしていた噂話。
その全てを、トウシは情報として処理していたらしい。
つまり、自分が街を歩いている間、トウシは周囲の情報を集め続けていたということだ。
「お前……どこまでやってんだよ」
『必要なことを必要なだけや』
「その必要の範囲が広すぎるんだよ!」
『まあ、今はそれより目の前の相手や』
トウシの声が、わずかに低くなり、
『……まずは、この子を無事に帰すことやな。恩を売るかどうかは、そのあと考えたらええ』
「……え?」
『この子、かなり重要な立場におる可能性がある。せやけど、利用価値があるから助ける、いう順番で考えたら、お前はまた自分の気持ちを見失うで』
「どういうこと?」
『王選いう、次の王を選ぶ仕組みがあるらしい。街の噂に、銀髪のハーフエルフが候補に関わっとる、いう話があった。この子の特徴とは合う』
「……じゃあ、王様になるかもしれないってことか?」
『可能性はある。ただ、噂だけで断定はできん。本人が名乗った名前も、偽名かもしれんし、本名かもしれん。ワシの感覚からすれば、ほぼ前者やけど。まあ、今の段階で確かなんは、何か大事なものを取り戻そうとしとることだけや』
「……は?」
スバルは、思わずサテラを見た。
王選。
王を決める大会。
つまり、目の前の少女は、王様になるかもしれない人物だということか。
いや、待て。
そんな重要人物が、どうして一人で徽章を取り返しに来ているのだろう。
護衛は?
部下は?
そもそも、身分を隠しているのはなぜだ?
「どうしてだ?」
『理由は何通りもある。素性を隠したいのか、お前を巻き込みたくないのか、単に警戒しとるのか。本人に聞かん限り、決めつけは出来へんな』
「……」
スバルは、黙り込む。
先ほどまで、サテラは普通の少女だと思っていた。
もちろん、普通ではないとは感じていた。
精霊を従えていること。
魔法を使えること。
そして、盗まれた徽章を取り返そうとしていること。
それらを考えれば、何らかの事情を抱えているのは明らかだった。
だが、まさか王位継承に関わる人物だとは思わなかった。
それも、名前を偽っている可能性があるという。
トウシの推測が正しければ、彼女は自分の身分を隠し、スバルを厄介事から遠ざけようとしていたのかもしれない。
……だとしたら。
自分は、彼女のことを何も知らない。
何も知らないまま、彼女の隣を歩き、勝手に惚れて、勝手に協力を申し出た。
少しばかり、恥ずかしくなった。
けれど、同時に思う。
知らないなら、これから知ればいい。
彼女が何者であろうと、今ここで、自分がすべきことは変わらない。
目の前に危険がある。
自分には、それを完全に取り除く力はない。
それでも、できることを探すくらいはできるはずだ。
スバルは、そっと拳を握った。
「……なあ、トウシ」
『なんや?』
「俺、今から何をすればいい?」
『まずは状況を観察しろ。焦って動くな。相手の目的も、実力も、まだわからん』
「……了解」
スバルは、息を吸った。
そして、目の前の漆黒の女を見据える。
格好よく決めるには、まだ早い。
今はまず、生き残ること。
そして、できることなら。
この場にいる全員が、無事に帰れる道を探すこと。
それが、今のナツキスバルにできる、精一杯の一歩。
「あら、相手がいるのね。私は聖金貨20枚を賭けるわ」
「おっと、俺の魔法器も聖金貨20枚なんだが……どうする?爺さん」
「そうじゃな……まあ、ただの聖金貨20枚よりも、価値があるのがこの魔法器だと信じようかのう……」
「よっし!」
「ちょっとまって!どうしてあなたの物で私の徽章を返してもらう手筈になっているのよ!」
「……ん? 『私の紀章……?』」
黒い女がサテラを見つめる。
「なぜって、男の子にはそう言う、可愛い女の子にカッコつけたい欲求ってのがな……」
「いいから!……でも、どうしたらいいのかわからないし……」
そう言うと、サテラは押し黙った。きっと、王選に出る為に必要な物なのだろう。
「だったら、これから返せ!」
「……え?」
「聖金貨20枚分の行動をいつかして返せば、それで問題ナシ……だろ?」
そう言って、最終的に徽章はサテラの手に渡ることになったが……
「んじゃ、どうぞ」
「あれ? お前が持ったら、徽章が光ってないか?」
「そうだが、そう言う魔法器じゃないのか? だからあんたも欲しがったんだろ?」
「ち、違うわよ! ど、どうしよう……パック……」
「どうするもこうするも、それは敵を増やすだけだよ?」
『多分、王選候補者が見つかったってことやな』
カンニングどうも! スバルはそう思いながらも、
「……ん、もしかしてコイツにも王選候補である資格があるってこと?」
「へー……よくわかったね。察しがいい」
「おーけ。因みに、王選って5人集まらないといけないって言うが、そう、ぽんぽん候補者ってでるものなのか?」
「いいや?」
『……なるほど。そして徽章が反応したんやな。ほな、状況が変わった』
「どういうことだ?」
『王選に関わる資格が、あの子にもある可能性が出てきた。けど、ここで勝手に身柄を引き渡すんは危ない。本人の事情も、国の扱いも、まだわからんからな』
「……じゃあ?」
『まず、本人の意思を聞く。その上で、信頼できる窓口を探す。急ぐ理由があるかどうかも確認や』
「……お前、思ったより慎重なんだな」
『賢い言うんは、急いで答えを出すことやない。答えを急がん方がええ場面を見極めることでもある』
「……お前が王選に関わる人間なら、国に話を通す方法もあるんじゃねえか? もちろん、嫌なら無理にとは言わねえけどさ」
「はぁ!? アタシは国の世話になんてーー」
「ねえ、あなたたち」
「ん? なんだ……?」
『気をつけるやで、スバル。何か持っとるのは確実なんやから』
「ああ、わかってる」
「もしかして、徽章の持ち主?」
「ああ、そうだぜーー」
「そう」
「っ!!!」
スバルの腹にナイフが通り過ぎる。服の生地が裂け、腹も同時に薄皮一枚裂かれる。
「っ……ぶねぇ! 腸狩りなら、来るなら腹だよなぁ!」
『コイツ、人間が出せるスピードを超えてる!』
スバルの認知が、どうにか追いついた瞬間、トウシの声が脳裏に響き渡る。
場は混乱する。
金髪の少女は動揺し、サテラも同様だったが、動き出す。
「サテラ! コイツが腸狩りだ!」
「ーーええ!!」
「あら、自己紹介、遅れて申し訳ないわ。私は腸狩り、エルザ・グランヒルテ」
スバルはなんとか初撃を避け、回避に成功した。
『スバル! お前じゃ役者不足や! 流石に代わるぞ!』
「お前でも! どうにかならんだろ! コイツ強すぎるっ!」
『ワシやったら、どうにかなる! 多分!』
「出来ればしたくないけど、しゃあねえなぁ!!!」
サテラとバックが気を引くようにし、スバルはトウシと入れ替わる。
ジャージ姿のスバルの代わりに現れたのは、空色のシャツを着ており、胸元を開けている男だった。
「おいお前……よおウチのスバルを殺そうとしてもろたな」
「どう言うこと? 面白い魔法? が使えるのね」
「そうやな……更にオモロいのを見せてやろう」
トウシは小さく呟く。
「こい、エルメス」
「こないな……」
『なんのターン今の!?』
「うーん、おかしいのお。波動は感じるねんけどな」