ハロウィンデートの後、フェイトは次第にネルとうまくいかなくなり……
彼女は本当に自分の知っているネルなのだろうか?
果たしてこれはフェイネルなのか?

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第1話

 恋とは痛みだった。

 指の隙間からこぼれ落ちていくような、つかみどころのない痛みだった。それなのに、フェイトの胸を鷲づかみにした。こんなにわかりたくて、けれどわからなくて、むちゃくちゃに頭を掻き毟りたい想いは初めてだった。

 恋を失った時、自分の中の一部が凍りついた気がした。ネルのさよならの笑顔を、フェイトは一生忘れることはないだろうと思った。今でも夢に見る。ネルと手を繋いで歩いている時も、ネルと温かいシチューを食べている時も、愛を育みながら、恋に破れている感覚があった。

 もう二度とネルを失いたくない。

 その願いだけが、フェイトの中で凍りついたまま、今も息をしていた。

 

 

「全部500フォルだよ。あっちより安いよ」

 浅黒い肌をした露店商が、フェイトが手に持った大ぶりの髪飾りを見て声をかけてくる。露店には魔女の帽子や光るかぼちゃのカチューシャ、骸骨のお面など、ハロウィンらしい仮装の頭飾りが並んでいる。フェイトは500フォルを払って、手に持った髪飾りを包むように持って微笑んだ。

 振り返ると、向かいに並んだ露店から漏れる光の渦と絶えず左右に流れる人いきれに軽い眩暈をおぼえた。あちこちから楽しげな声がする。

 このところ、ハロウィン週間とあって大通りにずっと露店が並んでいた。アークデーモンやサキュバスなどの仮装をしたり、骸骨の姿をした大道芸人がマジックを披露したりして多くの人で賑わっている。

 フェイトは露店のそばで居心地悪そうに衣装を見下ろしている赤毛を見つけて、手に持った髪飾りをいきなり髪に飾った。

「わっ! 何するんだい」

 ネルはびっくりしたように目を見開いて、フェイトを見つめる。フリルと黒レースをあしらった白いコルセット風ドレスを身にまとい、ダイヤ柄の白いレースのソックスが太ももの施文のあたりまで飾り立てている。腰の光る紫かぼちゃのポシェットと背中の黒い翼はさっきフェイトが買ったものだ。そして今、新たに加わったのが大ぶりの黒い角を模した髪飾りだ。赤毛によく映えている。頭の後ろには施術で天使の輪を模した模様まであしらわれてあって、どうやらシーハーツのハロウィンは芸が細かいようだ。

「小悪魔が大悪魔になった」

 フェイトが大きな角を撫でながらからかうと、ネルは目元に差した赤みを帯びたアイシャドウくらい真っ赤になってフェイトを睨みつけた。

「あんた、喧嘩売ってるのかい!?」

「ごめんごめん、モチーフは堕天使だったね」

「まったく……私で着せ替え人形をするのはやめてもらいたいもんだね!」

 フェイトは思わず笑った。

 さっきから良さそうな露店で仮装の小物を見つけるたびにネルに買ってやっては勝手に身につけさせている。それでも着せられるがまま外しはしないから、ネルも内心は気に入っているに違いない。

 ネルの手袋をした指に指を絡めると、そっと耳元に囁いた。

「似合ってる。可愛いよ」

 ネルは恨みがましそうにフェイトを横目で見たが、満更でもなさそうにフェイトの指をぎゅっとつかんだ。

 誰もが仮装しているこの通りでは、どんな格好をしていても浮かない。

 フェイトはネルが選んでくれた骸骨モチーフのストライプスーツを着ていたが、フェイトが選んだネルの衣装に比べるとおとなしい。でもそのぶん、ネルがよく映えた。道行く人がネルに見とれていく視線に気づいていないわけがない。フェイトはネルを離さないように、ほとんど無意識に腰を引き寄せた。

 ネルがフェイトの顔を覗き込んで、少しだけ笑う。

「どうしたんだい?」

「何が?」

「さっきから、ずいぶんと離してくれないじゃないか」

「……嫌?」

「……まさか」

 ネルはフェイトの胸元に頬を寄せた。

「好きなだけそうしていればいいさ」

 フェイトは答えず、ネルの髪に顔を埋めた。それから、髪に口づける。ネルはくすぐったそうに笑った。

「何だい、ずいぶん甘えん坊だね」

「そういう年頃なんだよ」

 フェイトはわずかに口を尖らせた。

「フフ……」

 ネルが愛おしそうにフェイトの目元を撫でる。そこには星くずを模したラメのメイクを施してもらっていた。さっきからネルはめずらしいのか、折りに触れては目元の星くずを撫でてくれる。

「そんなに気に入ったの?」

「あんたは本当に星が似合うね」

 どういう褒め言葉なのかわからないが、こんなふうに撫でてもらえるなら、たまにはメイクをするのも悪くない。フェイトは上機嫌でネルの手を引いた。

 きのこの仮装をした子どもが三人走り抜けていく。

 吟遊詩人がハロウィン風の不穏なメロディで歌っていたので、フェイトとネルはムーンリットの欄干にもたれて塩加減の絶妙な揚げポテトを分け合いながらしばらく聴いていた。

 空にはイリスの月が大きく浮かんでいた。風がやわらかく吹いて髪を心地良く靡かせる。いい夜だった。

 この夜がずっと続けばいいのに、とフェイトはネルの髪に指を絡ませた。

「ねぇ、フェイト」

「何?」

「……この夜が、ずっと続けばいいのにね」

「うそ。僕も今まったく同じこと考えてた」

「本当かい? またあんたは……」

「本当だって」

 ネルは口元で柔らかく笑いながら、目だけでフェイトを睨んでくる。その独特の表情が、フェイトは好きだった。そう思って見つめていると、ふいにネルの顔が近づいてきた。

 ハッと目を瞠るうちに、ネルはフェイトの唇に軽く口づけた。ほんの一瞬だった。

 ネルはフェイトの唇をさっと指で拭った。

「塩が効いてる……」

 フェイトがぷっと噴き出すと、ネルは何食わぬ顔でフェイトの目元をもう一度撫でた。

「ほら。星がきれいだろ」

「……それ、今言う?」

「何かおかしいかい?」

 フェイトは笑った。笑うしかなかった。

 この人は、時々こういうことをする。

 

 

 わずかなシャンパンと、スパイスの効いた牛ヒレ串、それからくだらない話が心も身体も温めた。

 ふたりは笑いながらイリスの野に出た。そこでは何組かの恋人たちが木陰や石畳に座って愛を囁いていた。いつもと違う非日常的な光景に酔いながら、ふたりはなんとなく東はずれの小道を進んだ。そこにも何軒か家が建っていて、それぞれに光るかぼちゃやこうもりの小物やおばけのテントなど、思い思いに庭を飾り立てている。

 そんな夜の雰囲気に吸い込まれるように、ふたりは歩いていた。

「……何だい?」

 ネルが不思議そうにこちらを見る。

「いや」

「何でもないのに、そんなに見るのかい?」

「見ていたいから」

 言ってから、フェイトは少しだけ笑った。ネルは何か言い返そうとして、やめたらしい。

 代わりにフェイトはネルの紅を差した唇にやわらかくキスをした。

 祭りのざわめきが遠ざかる。この夜にふたりきりになった気がした。

 唇が離れると、思わずふたりで笑った。

「さっきのお返しだよ」

「ずいぶん律儀だね」

 それから手を繋いで、また歩き始めた。

「今日はハロウィンデートできてよかった。真っ昼間から着付けにメイクに大忙しだったもんな」

「タイネーブとファリンは仕事以上に張り切るんだから始末に負えないよ」

「でも可愛らしいメイクしてもらえてよかったじゃないか。ファリンさんは腕がいいね。ネルにすごく似合ってる」

 ネルの頬に指を触れると、ネルはかすかに頬を緩ませた。

「タイネーブも、魔法の杖は壊したけどわざわざ店で探してきてくれて、いい子なんだよ」

「うん、そうだね」

 ネルの部下愛はフェイトを嬉しいような妬ましいような複雑な気持ちにさせた。

 やがて石畳が途切れて、土の感触になった。シランドの湖を囲むように建っていた家並みも、ぽつりぽつりと途切れがちになってくる。ゆるやかな坂道が見えて、そろそろ引き返そうかと立ち止まった。

「……戻ろうか」

「……ん」

 思いっきり気のない返事に思わずフェイトは微笑んでしまう。ネルはすっと首を上げて丘の方を見ていた。メイクをしたネルの白い顔が月夜にキラキラと輝いて、まるで人魚姫のように濡れて見えた。そんなネルの頬をつまんで「おうい、帰るよ」とぷにぷに揺らしている。

 ネルは「わかったよ」と言いながら、言葉とは裏腹にまるで糸を引かれるように丘へと歩き出してしまう。

「ネル?」

 フェイトは首を傾げて丘を見上げると、上にも一軒家があったのだと気がついた。だが、他の家のように飾り立ててもいないし、むしろ煤けたように暗く映った。人が住んでいるのかどうかも怪しい鄙びた様子に少し不気味なものを感じ、ネルを追いかけようとした時、ぞくりとした。

 視線を感じる。

 二階建ての三角屋根の下の窓辺から、老婆がこちらを見ていた。

 生えっぱなしの白髪を肩の下まで散らしながら、黒衣を身に纏った老婆とかちりと目が合った。

 ……生きているのか?

 ついそう思ってしまったのは何故だろうと思った時、老婆の首の向きが不自然なことに気づいた。首はまっすぐ向いているのに、目だけでこちらを見下ろしている。そのギョロついた目は確かに、生きている者の目のように見えた。

「……ネル」

 しかしネルはさっさと丘の上の家に向かってしまったようだ。フェイトも老婆から視線を外し、後を追う。

 丘の上の家までの小道は舗装もされておらず、雑草が生えっぱなしだった。家があるにしてはとにかく足場が悪い。

 ネルもまた、あの老婆を見たのだろうか。だから丘の上の家へ向かったのだろうか。

 フェイトはわずかに踏みしめられた坂道をのぼりながら、不可解な思いに囚われていた。

 家のそばまで来ると、不思議と家はますます暗く感じた。しかし目の前にはシランドの街を見下ろすことができ、今は街全体が露店の明かりや家の明かりでまばゆいほど光っている。

 湖の向こうにこんな家があるなんて、今まで気づきもしなかった。

 振り返れば大通りの音が聞こえるのに、家の前に立つと急に静かになる。遠くの笑い声だけが、妙に遠く感じられる。

 家の周りには、粗末な郵便ポストと大きな木が何本か生えているだけだ。開けっ放しの玄関ドアを見て、やはりネルはこの中にいるのだと思った。ドアの中を覗くと、明かりはひとつもついていない。一歩中に入ると、ギシギシと床が軋んだ。

「すみません」

 人の気配はしないが、一応声をかけてから家に入る。黴臭い、すえた匂いが鼻をついた。確かに老婆を見たのに、誰も住んでいないように見える。入って右手は台所とダイニングがあり、時々ぽちゃりぽちゃりと水滴が蛇口から落ちている。クロスを敷いた食卓は、長い間使われていないように埃が均一に乗っていた。一輪挿しの花は枯れて黒ずんでいる。

 やはり、この家は何かおかしい。

 左手は大きな暖炉を中心に、本棚やソファーなどの家具が揃っているが、どれもまた埃をかぶっている。ソファーなどは、破れが放置されていた。

 そして正面には、暗い階段が口を開いている。

 老婆がいたのは二階だった。

 ネルも二階にいるのか。

 その時、ぎぃぃぃ、と木が軋む音がした。二階からだ。フェイトはつい剣に手を伸ばそうとして、仮装していることを忘れていた。剣は今、携えていない。

 ただでさえ暗い一階から覗く二階は暗すぎて、何も見えない。

 ネルは本当にこんなところを上がったのか。

 足音がした。

 足音が頭の上を歩き回っている。そのたびに木の軋む音がした。足音は一人分だけだった。ネルだろうか。

 ぎっ、ぎっ、ぎしっ……。

 足音が近づいてくる。

 やがて白い脚が階段を降りてきた。闇の中で白い脚だけが浮いて見える。

 ネルの顔が見えて、フェイトは心底ホッとした。

「ネル……急にどこ行ってたんだよ」

 しかしネルは何事もなかったように降りてきた。

「ここには何もないよ。帰ろう」

「だけど、二階におばあさんがいなかった?」

 フェイトが尋ねると、ネルは肩をすくめた。

「出ていけってさ。だから出よう」

 ネルはそう言うと、フェイトを急かすようにさっさと歩いた。

 暗く埃っぽい家を出ると、月明かりが見違えるほど明るくて、空気が澄んで感じられる。ネルなどは両手を広げて深呼吸しているぐらいだ。

「あんな空気の悪いところ、なんで行ったんだよ」

 フェイトは苦笑したが、すぐに疑問が首をもたげてくる。あの老婆はここでひとりで暮らしているのだろうか。心配になってきた。

「あのおばあさん、大丈夫かな」

 するとネルはくるりと向き直って、フェイトの顔を覗き込んだ。

「だから大丈夫だってば。心配なら部下を手配させるから問題ないだろ?」

「う、うん」

 二階でひどいことでも言われたのだろうか。少し慌てた様子のネルがめずらしかった。安心させるように、そっと手を繋ぐ。ネルがハッとしたようにフェイトを見た。

「さぁ、帰ろう。ネル」

 するとネルは笑った。

「ああ、帰ろう。フェイト」

 土と雑草の下り坂を歩き始める。ネルが歩きやすいように、フェイトが先導するように歩いてネルの手を引く。

 そうしながら、フェイトは違和感をおぼえていた。理由はわからない。

 手の温度も同じ。手の形も同じ。でも、どこかいつもの感じがない。それだけの違和感だった。たまたまだろう、すぐ忘れるだろうと思いながら、どこか不安に思って、坂を下りるネルの顔をじっと見ていると安心した。

 でも、何か大切なものを忘れているような気がして、フェイトはふと丘の上の家を振り返った。

 ぎくりとした。老婆と目が合う。しかし、さっきの老婆とはどことなく様子が違っていた。顔はまっすぐ向いているが、目の表情が違う。たとえば、どこか怯えているような……。

 ふいにネルの手がフェイトを引っ張ってつんのめった。

「何してるんだい? 行くよ」

「あ、ごめん」

 月夜の下で、ネルの赤い目元が泣いているように見える。

 フェイトはふいに胸が詰まった。

 どうしてだろう。何かを間違えたような気がした。

「ごめんな」

 ネルが不思議そうにこちらを見上げる。

「何を謝っているんだい?」

「……わからない」

 フェイトはネルの手を握り直した。

「帰ろう、ネル」

「ああ。一緒に帰ろう」

 ネルは明るく笑った。

 その笑顔を見て、フェイトはまた、切なくなった。

 

 

 シャワーから出ると、ネルがベッドの上で本を読んでいた。壁に背をつけて、長い脚をやわらかくクロスさせている。その足元には、さっきつけていた黒い角の髪飾りが横になって倒れていた。

「あれ、脱いだの? これ」

 ネルは本の上から目だけ出して、フェイトを見た。ネルはまだシャワーに入っていないので、堕天使の格好のままだ。可愛い仕草だと思いながら、フェイトは角を拾った。

「脱いだよ。頭が締め付けられるからね」

「ふうん」

 少し寂しく思ったが、祭りの後というのは味気ないものだ。角をどこに飾ろうかと見回して、書き物机のサイドボードの中に置いた。なかなか決まって見える。

 それからベッドへ上がると、ネルの脇の下から甘えるように強く抱きしめた。本をつかんでいたネルの左腕が跳ね上がる。

「今日はずいぶん甘えん坊だね」

「……そうかな」

「どうしたんだい?」

「いや、べつに……」

「そうかい」

 ネルの脇の下で本を覗き込んでいると、ふいにぞわりとした感覚がフェイトを襲った。それが何なのかはよくわからなかった。確かめるようにネルの顔を見ると、視線に気づいたネルがフェイトを見た。

「ネル……」

「なんだい」

「着替えるのもったいないね」

「どうしてだい」

「だって、こんなに可愛いのにさ」

 するとネルは首まで赤らんで、堕天使の服を見下ろした。

「そんなに気に入ったのかい……?」

「うん」

「じゃあ、ずっと着ておくのも悪くないね」

 ネルが笑うと、フェイトも笑った。それからフェイトは身体を起こすように、下からネルに口づけた。やわらかい唇が震えるように動く。少し声が漏れたのも、たまらなく色っぽいと思った。静かな部屋に水音が響く。ネルの小さな歯がフェイトの舌を軽く噛んだ時、またぞわりとする感覚をおぼえた。フェイトはとっさにネルの唇から顔を離した。ネルが驚いた顔で、フェイトを見上げている。

「ご、ごめん……風邪かもしれないんだ」

 さっきからするぞわりとする感覚は、風邪の悪寒かもしれないと思い当たった。シャワーを浴びた後だから、余計敏感に反応したのかもしれない。少なくとも、そう思おうとした。

「大丈夫かい?」

 ネルは心配そうに眉根を寄せている。

「大丈夫。一晩寝れば、元気になるよ」

 フェイトはネルに背を向けて靴を履き始めた。ネルが艶めかしい手でフェイトの背中に触る。

「どこへ行くんだい?」

「今夜はあっちの部屋で寝るよ。風邪をうつしたらいけないからね」

「そう……」

 立ち上がって振り返ると、堕天使のネルが取り残されたような顔をしていて、胸が痛んだ。長い脚がしどけなく投げ出されて、そのわりに不安そうな顔はあどけなくて愛らしい。そのおでこを優しく撫でる。

「一晩だけだから」

 安心させるように言うと、ネルも頷いた。

 

 

 その夜、夢を見ていた。

 どこか暗い部屋の中にいる。何かを探していた。探しものはすぐに思い当たる。ネルだ。ネルと一緒にいたはずなのにという思いだけが強くある。

 暗い部屋の中を見回すと、大きな書棚が等間隔で立っている。書棚にはぎっしりと本が並べられていた。棚と棚の間を探しても、ネルは見つからない。

 ネルは一体どこへ行ったんだ?

 だんだん、焦りが深刻になる。このままネルとはぐれたままなら、自分はどうなってしまうのだろうと思う。

 次の棚は、次の棚はと小走りに進んでいっても、ネルは見つからない。書棚が永遠に続くのかと思ったその時、書棚の列が途切れ、壁にぶち当たった。

 しかし、ただの壁ではない。ガラスでできた壁だった。

 ガラスの向こう側にも書棚がある。そう思った時、ガラスの向こうの棚の間に赤いものが揺れた。ハッとして注視すると、ネルが走りながらこちらに気づいたところだった。

「ネル!」

 フェイトは大きな声で叫んだが、妙にはっきり自分の声がはね返ってくる。

「ネル……! 大丈夫か? やっと見つけた」

フェイトがガラスに手をつけると、ネルもまたガラス越しに手を添えてくれた。ネルの声はミュートされたように聴こえない。防音ガラスだろうか。

 だが、『フェイト』の形に口が動きながら、何か言っているのがわかる。ネルもまたフェイトを探していたのだろう。フェイトはネルの頬を撫でるようにガラスを撫でた。ネルが涙を流している。フェイトを見つけた嬉し涙だとわかっていても、拭き取ってやりたかった。ガラスに隔てられているのがもどかしい。

 出口はないのかと、見回したときだった。

 ネルの背後で、ぬるりと闇が動いた。

 フェイトはぎくりと闇を見る。闇は、鋭い一本の角のように姿を変え、今にもネルに襲いかかろうとしていた。

「後ろ! 危ない……!」

 可能な限り大声で叫んだが、フェイトの声ははね返ってくるばかりだった。ネルはただ、フェイトを見ていた。

「ネル! 逃げろ! 逃げるんだよ!」

 フェイトはガラスを力まかせに叩いてネルに知らせようとした。だが、ガラスはびくともしない。闇の角は一直線にネルの背中を突き破った。ネルの目が飛び出そうなほど見開かれる。

「……あ…………」

 闇の角はネルの背中を貫き、お腹からその鋭い角を覗かせた。ネルの突き破られたお腹から大量の血が噴き出る。

「ネル……!」

 ネルの手がガラスをすべった。ネルが何か言おうとすると、口から血が流れ出てしまう。

「…………あ……あ……」

 世界のすべてが壊れそうなほど眩暈がした。身体が尋常じゃないほど震えている。ネルの身体が倒れていく。ガラスに当てた手が汗ですべり落ちた。支えてやりたいのに、ガラスが邪魔で何もできない。

 闇の角が、倒れているネルにとどめを刺そうと構えるのが見える。

 フェイトはカラカラになった喉の奥をひくつかせて、喉が破れるほど叫んだ。

「やめろおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 ガラスにぶち当たるつもりで、思いきり何かを押す感覚があって、それが夢だと気づいた。

 自分の叫び声が鼓膜にまだ残っている。焦って目を開けると、辺りはもうすでに白んで明るくなっていた。

 フェイトはベッドの上で、ぐっしょり汗をかいていた。手のひらに残る何かを押した感覚は、何かやわらかいもののように思えた。はっとして起き上がると、ネルが床に倒れていた。ネルを押し倒したのか。

「ネル!」

 フェイトは思わず跳ね起きてネルの元へ駆け寄った。

 思わず背中やお腹を見てしまう。そこには穴が開くこともなく、いつもの身体が朝日に照らされているだけだった。

 ネルは手をついて上半身を起こすと、恨みがましい目でフェイトを見た。

「一体何だっていうのさ……」

 フェイトは目をつぶって頭を下げた。

「ごめん! 過去一最悪な悪夢を見ていたんだ」

「うなされてたから、そういうことだろうと思ってたけどさ」

 いつもの声が聴こえるとほっとする。フェイトはつい、ネルを抱きしめた。

「あっ、ちょっと……」

 立ち上がろうとしていたネルがバランスを崩したが、それも含めて抱きしめた。ネルの体温が身体に伝わってくる。その途端、またしてもぞわりとする感覚に襲われたが、フェイトは構わなかった。そんなことより、目の前にネルがいてくれている事実のほうが大切だ。

「ちょっと、どうしたんだい? 苦しいよ」

「あ、ごめん」

 あんな縁起でもない夢を見たせいで、力加減を誤ってしまった。それでも顔を見ていたくて、何度もネルの顔を確かめる。ネルが元気だと、確かめたくなる。フェイトの手の中で、ネルが不思議そうな視線を向けてくる。

「一体何の夢を見ていたんだい? そんなに震えてさ」

「えっ、震えてる?」

 フェイトは驚いた。まだ夢の余韻が続いていたようだ。それでも、ネルにこんな夢の話は聞かせられない。

「父さんが……死んだ時の夢見てた」

 困った時の父さんだ。フェイトがそれらしい理由を言うと、ネルは「ふうん」と納得したようだった。

「それより、それ食べなよ。作ってきたからさ」

 フェイトが疑問に思ってネルの指す方を見ると、ティーテーブルにサンドウィッチが置かれていた。フェイトの心はいきなり喜びであふれ出す。

「作ってきてくれたの? ありがとう!」

 ネルをもう一度抱きしめようと思ったが、自分が汗まみれなことを思い出してやめておいた。それに、まだ悪寒は治っていないようだ。

 フェイトは早速椅子に座って、サンドウィッチを食べ始めた。ネルはそれを見届けると、背中を向けて歩き出す。

「へ? どこ行くの?」

 フェイトはたまごサンドを口に入れたまま間抜けな声を出した。てっきりネルは向かい側に座って一緒に食べるものと思い込んでいた。

「どこって……自分の部屋だけど」

「ここ、おいでよ」

 フェイトはテーブルの向かい側を指し示した。

「一緒に食べようよ」

「わかった……でも、私は食べてきたからさ」

 ネルはおとなしく向かい側に座った。

「そうなの?」

 その時、口の中でガリッと音がした。たまごの殻か。できるだけネルに気づかれないようにさりげなく飲み込んだ。ネルにしてはめずらしいミスだけど、たまごの殻もご愛嬌だ。

「そんなこともあるんだね。いつもは一緒に食べるのに……」

 フェイトは向かいでじっと見ているネルの視線を感じながら、何か喋ってはくれないだろうかと思った。こっちは食べているから話題は提供できないし、じっと見つめられては食べにくい。

 そう思いながら見つめ返すと、フェイトはふふっと笑いがこみ上げてきた。ネルが目を瞬かせる。

「なんだい?」

「いや、味見したんだと思ってさ」

 フェイトは笑いがこらえきれないまま、ネルのやわらかな唇の端を指で拭った。

「ついてる、マヨネーズ」

 その一瞬、ぞわぞわっと全身が総毛立った。はっきりと腕に鳥肌が立ったのが見える。

 ──何が起こったんだ?

 ネルは目の前で顔をかああっと赤らめ、手の甲を口元に当てていた。

 あまりにもびっくりした様子だったので、あわてて取り繕うように微笑む。

「ごめん、びっくりさせちゃったね」

 フェイトはネルのマヨネーズがついた指を舐めようとして、やめた。鳥肌が止まらない。ティッシュが近くに見当たらないので、皿の縁でそれを拭った。

 

 

 ネルが「皿を洗うから」と部屋を出ていってから、フェイトは椅子に座ったまま、項垂れていた。

 自分に何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。

 悪寒はもう止まっていた。ネルが部屋を出た途端、止まったのだ。その事実が、フェイトに重くのしかかった。

 偶然だと思いたかった。たまたま具合が悪くなって、たまたまネルに触れた時に症状が出ただけだ。そう考えれば何もおかしくない。

 それなのに、どうしても思い出してしまう。ネルのうす桃色の唇に触れた時の、あの感覚を。

 ぞわりと肌が粟立った。それは、身体の奥から何かが這い上がってくるような、抗いようのない不快感だった。

 あれは、本当に自分の身体に起きたことなのだろうか。

 フェイトは自分の手を見下ろした。

 さっき、この手でネルの唇に触れた。唇にマヨネーズがついているのを見つけて、拭ってやった。それだけのことだった。いつもなら、そんな些細なことさえ愛おしい。自分の指先に触れるネルのやわらかな唇を、もっと感じていたいと思うくらいなのに。

 どうして、あんなふうに──。

 フェイトはおもむろに自分の額を殴った。何度も、何度も何度も。

 こんな悲しいことがあるだろうか。

 こんなひどいことを思われているなんて、ネルが知ったらどう思うかなんて、考えたくもなかった。

 絶対にネルに知られたくない。絶対に傷つけたくなかった。

 今だって、ネルに会いたい。

 さっき部屋を出ていったばかりなのに、もう顔が見たい。声が聞きたい。戻ってきたら、何でもない話をして、いつものように笑い合いたい。

 それなのに、身体が彼女を拒絶する。

 フェイトは自分の手を見つめた。愛する人に触れることさえ、怖くなってしまった。

 何でもないことだったって思えたら、どんなにいいだろう。

 怖い。

 フェイトはふたたび宇宙へ放り出されたような恐怖をおぼえた。いや、もっと底知れない原始的な恐怖。

 ネルを愛している。誰よりも大切で、これから先もずっとそばにいたいと決めた人だ。その気持ちだけは、疑いようがない。

 それは変わらないのに、身体がそれを否定する。

 自分の心と身体が、まるで別々の人間のものになってしまったようだった。

 ──僕は、ネルをどうしたいんだろう。

 今すぐにだって抱きしめたい。キスをしたい。ずっとそばにいたい。

 ネルを愛していることなら、誰に否定されたって譲るつもりはなかった。自分の身体にさえ、それを否定させるつもりはなかった。

 けれど、もしまた触れた時に、否応なしにあの嫌悪感が込み上げてきたら。

 もし、それをネルに気づかれてしまったら。

 フェイトはぎゅっと拳を握った。

 ネルは、何も悪くない。それなのに、自分は。

 フェイトは目をつむった。

 もう二度と、ネルを傷つけたくない。そう思っているのに、ネルを傷つけるのがこの自分になるかもしれないなんて、考えるだけでぞっとした。

 

 

 その日はできるだけネルと会わないようにして、研究所での仕事を切り上げ、早々に部屋へ戻った。

 装備を外しベッドへ寝転ぶと、通信機を取り出してブラウザを起ち上げた。『恋人 倦怠期』と入力して検索してみる。

 画面をスクロールして、検索結果を流し見る。そこには次の文言が映し出されていた。

 『付き合い始めのドキドキや新鮮さが薄れ、関係がマンネリ化して、ときめきを感じにくい、連絡やデートが減る状態になる時期のことです。相手が嫌いになったわけではなく、関係が安定・成熟してきたサインでもあります』

(倦怠期ではないよなぁ……)

 付き合いたてでもないし、付き合って三年以上経ったけど、ときめきを感じないわけではない。昨日だって、堕天使姿のネルにドキドキしていたし、ネルのちょっとした言葉にときめいたり、意外に思ったりする時間が心地良かった。

 それでも、重大な不安を抱えるフェイトにとって、最後の一文はお守りのように思えた。

 次のキーワードを入力しようとして、ずいぶんためらった。しかし、原因がわからなければ解決しない。フェイトは次に『恋人 生理的嫌悪感』と打った。

 ネルに触れるよりも強い抵抗感をおぼえる。消そうとして、思いとどまった。エンターを押す。検索結果が出た。

『恋人に対して感じる生理的嫌悪感は、本能的な拒絶反応であり、脳の進化的な嫌悪システムが働いて起きるものです』

 本能。脳のシステム。

 無情な文言に出会い、絶望的な気持ちになる。そんなことを言われたらどうしようもない。だが、スクロールしていくにしたがって、疑問符が湧き起こる。

『主な原因として考えられるのは、身だしなみ、衛生面の不潔さ。行儀の悪さ。女性の場合、ホルモンバランスの影響など』

 どれもネルには関係ないように思えた。ネルは人一倍清潔で、肌はいつも桃を剥いたように透き通っている。りんごのように甘い匂いがして、礼儀だって身についている。

少々無鉄砲なところはあるが、それを嫌だと思ったことなど一度もない。

 また、恋人の性別を女性に絞って調べてみると、男性の側に他に好きな人ができた場合や、価値観が変わった場合、性格が無理になってしまった場合など様々なケースが考えられたが、フェイトはそのどれにも当てはまらなかった。

 ネルのことは変わらず愛しているし、この妙な嫌悪感に囚われ始めたのも昨日からだ。昨日の今日で急に価値観が変わるなんてことがあるだろうか。

 そう思うと、自分がとても恐ろしいもののように思えた。ネルより自分が無理だ。

 説明できない自分たちの状態に焦れながら通信機をいじっていると、突然バスルームのドアが開いた。思わず跳び上がる。すると中からほかほかのネルが出てきたから驚いた。

「わっ!」

「な、なんだい!?」

 濡れ髪をタオルで拭きながら出てきたネルは裸でこそなかったが、バスタオル一枚巻いただけの姿でそこに立っている。

 赤毛から雫が一筋胸元にしたたり落ちるのを見て、思わずドキッとした。

 いつもなら、その無頓着すぎる姿にお説教のひとつもかましてやるところだったが、今はお互いに驚いている。どうやらネルもフェイトがいると思っていなかったらしい。

 フェイトもまた、ネルがいるなんて考えてもみなかった。ここは自分の部屋だったはずだ……と思いかけて、内装をよく見ればネルの部屋だった。どうやら習慣で無意識のうちにネルの部屋のドアを開けていたらしい。

「ごめん……自分の部屋だと勘違いしてた」

 フェイトが頭を掻いて謝ると、ネルは笑い出した。

「いいよ……私も久しぶりに長風呂だったから気づかなかった」

 ふたりして笑い声を立てると、さっきまで悩んでいたのが嘘のように感じられた。

 フェイトは思った。自分たちはうまくはいっていないのかもしれない。でもネルと離れるなんて考えたくもなかった。

「着替えてくるよ」

 ネルが部屋着を持って、ふたたびバスルームに行こうとするのを、腕を引いて止めた。

「いいよ」

「え?」

「ここで着替えて」

 ネルが目を見開いた。腕が、まだ濡れている。

 とっさのことだったが、フェイトは確かめたくなった。自分たちがやっていけるのかどうか。すがりたい気持ちだったのかもしれない。

 ネルは、もう片方の手でバスタオルをねじった。途端、ネルの一糸まとわぬ姿があらわになる。

 フェイトはごくりと唾を飲み込んだ。何よりも愛しい、愛しいネルの身体だった。今にも撫で回したくてたまらなくなる。

 ネルの腕が、フェイトの首に絡みついた。フェイトは反射的に振り払いかけて思いとどまる。ネルの上腕をやわらかく握った。

 ネルがフェイトに身体を寄せてくる。そのめずらしい仕草にネルの悲痛さを感じた。ネルもまた戸惑っているのだ。いつもはこんなことをしてくれたら、天国みたいに嬉しいのに。胸に嫌悪感がこみ上げてきた。

「愛してるよ、フェイト」

 ネルが耳元で囁いてくれる。フェイトは胸がからっぽになったようだった。

「ああ……僕も」

 その日もまた、ふたり別の部屋で眠った。

 

 

 翌日もまた研究所に籠もってネルを避け続けていた。

 しかしネルの方も何か変だと感じているのか、フェイトに無理に会いに来ない。それが寂しかった。自分が避けているのに、ネルからも距離を置かれたように感じてしまう、そんな勝手な自分に気がついた。

 フェイトは庭園で、メインストリートのハロウィンの明かりを見下ろしながら、思わず口元を覆った。

 最低の気分だった。自分に腹が立つ。どうしてネルを愛しているのに、愛することができない。どうしてネルが恋しいのに、避け続けることしかできない。

 自分が壊れてしまったみたいだった。

 ふたりでシャワーを浴びる日が恋しかった。ふたりで頭を預け合って、東雲を見る朝が恋しかった。

 愛の炎は消えないのに、どうしてこんなにもうまくいかない。

 ふと、メインストリートの群衆の中にネルの赤毛が見えた。今夜もまたお祭り騒ぎにごった返している街の中でも、愛しい人の姿は見逃さない。

 ひとりでどこに行くのだろうと目で追いかけていたら、ひとつの露店の前で立ち止まった。そこはどうやら、ネルの部下のタイネーブとファリンがやっている出店だった。ここからは見えなかったが、大方クリムゾン・ブレイド人気にあやかってグッズやイラストなどを販売しているのだろう。祭りごとのたびに出店しては、シーハーツでも空前の発行部数を叩き出している。

 フェイトはネルの人気ぶりを内心苦く思っていたが、そんな場所へ足を運んで大丈夫なのだろうかと心配になった。そう思うと身体が動いていた。さっきまで傷つけたくなくてネルを避けていながら、離れていることにも耐えられない。勝手な自分がもどかしい。

 庭園から階段を降り、一旦表門をくぐってメインストリートへ出る。

 人々の歓声が近くなった。今日もまた、仮装した人々が通りを行き交っている。せわしなく人の間隙を縫いながら知らぬうちに気が急いた。

 アースプルートの格好をした大男を抜かした途端、飴を持った少女とぶつかってしまった。少女の手から飴がすべり落ち、地面に落ちた飴が人に踏まれてつぶれる音がした。少女は驚いた顔のまま、悲しげに眉を顰めてフェイトを見る。

 フェイトは胸を突かれた。申し訳ない気持ちになり、「ごめんね」と謝った。後には靴あとで薄汚れた飴が無残につぶれていた。

 フェイトは財布から500フォルを取り出した。

「ごめん、これでまた買って?」

 できるだけ微笑んで見せると、少女はこわごわといった様子で頷いて、それを受け取った。

 きっと今日という日に誰かからもらったお菓子だろう。それをぶち壊しにしてしまった自分がすごく嫌だった。

 それでも、ネルを追いかけなきゃいけない。

 フェイトは前を向くと、ふたたび人混みに呑まれた。

 鳩尾に肘鉄を食らいながら、やっとのことで出店に辿り着く。

「あっ、フェイト様!」

 タイネーブが気づいてこちらを向いた。ファリンは客の対応をしている。

「タイネーブさん、ネルはどこ?」

 見たところ、客の姿しかなかった。

「ネル様はついさっき様子を見に来てくださって、たった今帰られましたよ」

「そうか……すれ違ったのかな」

 フェイトが肩を落とすと、会計を終えたファリンが横から顔を出してきた。

「あっ、でもぉ、あっちの方へ行ったから〜、まだそのへんにいらっしゃるかもしれないですぅ」

 言いながら、ムーンリットの方向を指し示した。

「そうか。他の露店に行ったのかな」

 するとファリンが手を叩いた。

「フェイト様、さっきネル様とはぐれちゃったんですかぁ? 今日のネル様ぁ、いつも以上にフェイト様のことを嬉しそぉ〜にお話しされていて、すごく可愛らしかったですよぉ!」

「……可愛らしかった?」

 フェイトは息を詰めた。タイネーブも頷いている。

「ええ、普段なら照れて言わないようなことまで『フェイトがね』っておっしゃってましたよ。なんだかおふたり、すごくうまくいってるんだなぁって羨ましくなっちゃいました」

 ……違う。

 喉の奥まで出かかった言葉を、フェイトは呑み込んだ。

「あ……ありがとう。じゃあもう行くよ。ふたりとも頑張って」

「ありがとうございまぁす」

「どうかネル様をよろしくお願いします!」

「よろしくぅお願いしまぁす!」

 タイネーブとファリンに無邪気に言われて、後ろめたい思いがする。その反面、今まで通りネルと関われているふたりがうらやましかった。

 出店を後にすると、ムーンリットの方へ向かった。だが人通りが多く、なかなか進まない。楽しげな音楽。かぼちゃのランタンの温かい光。仮装して笑い合う恋人たち。

 世界はどこも壊れていない。滞りなく、幸せそうに回っている。やっとのことでムーンリットに出たと思ったら、またこの前の吟遊詩人が同じ歌を歌っていた。数日前のことなのに、あの頃が懐かしい。

 ……懐かしい?

 フェイトはふと違和感をおぼえた。ここでふたりで揚げポテトを分け合ってキスをしていた時は幸せだった。どうしてその後、急におかしくなってしまったんだろう。

 フェイトは欄干で笑い合う恋人たちを見た。たった数日前は自分もあそこにいたのに。

 タイネーブもファリンも、なんの問題もなくネルと接している。

 なのになぜ、自分だけが、彼女に触れるたび皮膚が裂けるような悪寒を覚えるんだ?

 そうだ、自分だけがおかしいのだ。ネルがおかしいわけじゃない。

 でも、何故おかしいのかがわからない。

 それでも、世界で自分一人だけが間違っているような気がした。それとも、世界がおかしいのか。

 まるで透明なガラスの壁の中に閉じ込められ、世界から一人だけ弾き出されたような猛烈な眩暈と吐き気がフェイトを襲った。

 歩いているうちに、イリスの野に出た。こっちにも、家が続いていたよなと、湖を巡りだす。

 そうだ。あの丘の上の家に行ったんだよな、とフェイトは思い出して見上げる。

 ドキッとした。

 この前と同じように、二階の窓から老婆が覗いている。

 ……いつもあそこで外を見ているのだろうか?

 老婆がこちらを見ている気がする。

 老婆から目を離せない。困っているのだろうか。そう思ううち、老婆の目からぽろりと涙がこぼれた。

 ハッとした。胸がぎゅうっと締め付けられ、息ができなくなる。どうして泣いているのだろう。なんて悲しい目をしているのだろう。フェイトは吸い寄せられるように小道へ入った。

 老婆がこちらを見ながら泣いている。それがとてもたまらない気持ちになった。老婆の中に自分の孤独を見た。どうしてこんなに胸が痛むのかわからなかった。わからないまま進もうとして、いきなり腕をつかまれた。

 ぎくりとして見ると、腕をつかんでいたのはネルだった。

「どこへ行くんだい?」

 フェイトの腕を両手で握りしめながら、とても切ない目をしていた。息が上がっていた。ずっと探していたのだろうか。

「ひとりにしないでおくれよ」

 ネルを孤独にさせていた。

 フェイトは今さらのように気づいた。避け続けるフェイトを、ネルが何も感じていないはずがない。

 フェイトは焦がれるような胸の疼きと肌が粟立つような身体の反応で引き裂かれそうだった。

 自分は何をやっているのだろうと、悔やみきれない思いで思わずネルの頭を引き寄せ、その胸に抱きしめた。

 ごめん、自分はどうかしてるんだ、ごめん、そんな顔をさせてごめん……

 あふれるような謝罪の言葉ばかりがフェイトの胸をすさまじい勢いで通り過ぎた。

 どうしてこうなったのかもわからないまま、ネルの肩に顔を埋めて、鳥肌を立てていた。なんてちぐはぐな自分なのだと歯噛みした。

 ネルは優しく肩を貸して背中を撫でてくれた。それすらも受けつけないのに必死で顔を埋めた。それからネルに導かれるまま、街へ戻った。そのあいだも不思議と魔女の涙が目に焼きついていた。

 

 

 ふたりでネルの部屋に帰った。フェイトは黙りこくったまま、椅子に座った。ネルも黙って、向かいに座った。

 フェイトは重く深いため息をつくと、意を決してまっすぐにネルを見た。

「話しておきたいことがあるんだ」

 ネルもまた真剣な目で、フェイトを見つめ返していた。

 フェイトはネルに何もかも話すことにした。自分たちは今まで、何でも話すことで分かち合ってきたという自負があった。これはひとりで抱えるべき問題ではなくて、自分たちなら、分かち合うべき問題じゃないかと自分の心が告げている。

 フェイトはごくりと生唾を飲み込むと、ゆっくりと話し始めた。

「今から話すことは、決してネルのせいじゃない。ネルは何も悪くない。僕のネルへの気持ちは変わってないし、ずっとそばにいるのも変わらない。だけど──」

 フェイトはぎゅっと拳を握って見下ろした。

「最近ネルに触れると、身体が拒絶するような感覚があるんだ。どうしてだかわからない。誤解してほしくないのは、決して嫌いになったわけじゃないんだ。むしろ、そんな自分が怖くてたまらない。こんなことを言って、ネルを傷つけたくなかったから言えなかった。本当にごめん」

 フェイトはネルに向かって頭を下げた。ネルは黙って聞いていたが、困ったように首を振った。

「……顔を上げな」

 ネルが言うと、フェイトは頭を上げたが、顔を見せるとなんだか泣き出しそうになる自分を必死に堪えていた。

「……それでも、ネルと一緒にいたいんだ」

 必死に声を絞り出すと、ネルは悲しいような優しいような目をして、そっと立ち上がった。

 フェイトの横に来て、肩を抱きしめてくれる。ぞわりとする感覚があったが、それ以上にほっとした。

「気づかなくて、悪かったね」

 ネルはあたたかくフェイトを抱きしめながら、優しく囁いた。

「なんでネルが謝るんだ……僕こそ、ずっと黙っていてごめん」

 フェイトはネルの身体に身を委ねながら、ほとんど涙声だった。

「謝らなくていいよ。あんたが苦しんでいたことに、気づいてやれなかったんだから」

 ネルはフェイトの背中を撫でながら、ゆりかごのようにフェイトの身体を揺らした。フェイトは夢中でネルの胸に顔を埋めながら、熱い涙を拭っていた。ネルはそんなフェイトの髪をゆっくりと梳いた。

 こんな告白を、まさかネルにする日が来るとは思わなかった。けれども不思議と今はネルに抱かれているのが心地良かった。ネルの優しさに甘えているのかもしれない。それでも今はネルの匂いに包まれていたかった。久しぶりに安心した気持ちで、今夜は久しぶりにふたりで眠った。

 

 

 朝、目を開けると、ネルは先に起きていて、まばゆい光に包まれながらこちらを見ていた。フェイトの視線に気づくと、ネルは手の甲を枕にして笑った。ああ、幸せだと思いながら、フェイトはネルに口づけた。やわらかい、ネルの感触。

「おはよ……」

「おはよう、フェイト」

 フェイトが見つめていると、ネルもまっすぐに見つめてくるので照れてしまった。

「今日は、仕事に行かなくていいのか?」

「休みだよ」

「あ、そうだっけ……」

 フェイトはネルを腕に抱いた。

「じゃあ、ずっとこうしていようか」

「フフ……」

 ネルは頬を赤らめて笑いながら、少し心配そうな顔になった。

「でも、大丈夫なのかい、あんたは……」

 フェイトは腕の力を強くして抱きしめ直した。

「僕たちは、大丈夫だよ」

 今までだって、ふたり一緒ならいろんなことを乗り越えてこられた。

 穏やかに言うと、ネルは安心したようにフェイトの胸に身を預けた。

 今日は出かけようという話になってベッドから起き上がると、サイドテーブルに可愛らしい花の髪飾りがあるのに気づいた。

「これ、どうしたの?」

 フェイトが言うと、ネルはもじもじしながら、「買ったんだよ、昨日……」とつぶやいた。

「へえ! ネルがこういうのを買うなんてめずらしいね」

「……そうかい?」

「おいで。つけてあげる」

 フェイトはネルの髪を梳いて、髪飾りを挿し込んで留めた。赤毛に白い花飾りがよく似合っていた。

「どう……だい?」

 ネルがおずおずと訊いてくるので、フェイトはその頭を撫でながら「完璧に可愛い」と言った。

 ネルの幸せそうな笑顔に、どうしてだかフェイトはネルを初めて見たような気分になった。

 

 

 ふたりは弁当を持って、アーリグリフまで馬車を走らせた。行き先はフェイトの提案だ。今日は思い出巡りをしようと思った。

 馬車の中で、もう思い出話が始まった。

「おぼえてる? 馬車の中で言い争ったこと」

「おぼえてるに決まってるだろ。あんたは戦争に加担するのが嫌だと言って私たちへの協力にも首を縦に振らなかった」

「いきなりだったからな……ネルは今思い出してもいきなりすぎるよ」

「そうかい?」

 今隣で笑うネルが信じられないくらい、あの時のネルの血の滲むような切実さを、今のフェイトならわかってやれる。何度も何度もぶつかりながら、苦難をふたりで共にしてここまでやって来たのだから。

 アーリグリフへ着くと、出逢った頃のように静かに雪が降っていた。フェイトはネルの手を握って雪道を歩いた。

「思い出すね、出逢った頃のこと」

 フェイトが白い息をしみじみ曇天に吐くと、ネルはフッとマフラーにため息のような微笑みをこぼした。

「あんたは牢屋に入ってたね」

「ははっ、言うなよ」

 ネルを軽く肩で小突くと、ネルが意外に強い肩で押し返してきた。

「でも、あんたを助けられてよかった」

「ああ……今だから言えるけど、本当は尋問官の拷問はつらすぎてすぐ失神してたんだ」

 ネルは目を瞬いた。

「そうなのかい?」

「強がってたんだ」

 フェイトはネルの手をあたためるように両手で握った。

「だから、ネルが来てくれてずいぶん助けられたんだ」

「そりゃよかった」

 ネルは少し得意げに花飾りを揺らした。

 道の雪を踏みしめる音がする。

「ネルの顔、怖かったな……」

 フェイトがしみじみ言うと、ネルが小突いてきた。

「もう、何思い出してるんだい」

 フェイトは笑った。

「あの頃の僕は何もわかってなかったと思ってさ」

 するとネルは優しく笑った。

「そうだね」

 ふたりはアーリグリフ城へ入って、西の螺旋階段を上った。

「ネルは怖くなかった? 敵だらけの城へ、たったひとりで来ただろ」

 階段を上りながらフェイトが訊くと、ネルはゆっくり首を振った。

「戦争がこれ以上悲惨なものになることに比べれば、何も怖くなかったよ。あんたは希望だったからね」

 フェイトは意外な気持ちでネルを見た。

「そっか……そうだよな」

 ふたりの足音がことことと四方に反響してきこえた。

「あの時、ネルはどうして僕を助けに来てくれたの?」

「さっき話したじゃないか。戦争を止めるためだよ」

「うん。そうなんだけどさ」

 フェイトは笑った。

「僕がいなくても、ネルなら何とかできたんじゃないかなって、今でも思うんだ」

「そんなことはないよ」

 ネルはすぐに答えた。

「あんたが必要だったんだ。あんたがいなければ、何も始まらなかった」

 そう言って、ネルは微笑んだ。フェイトは胸があたたかくなるのを感じた。だが、あの頃のネルは、もっと必死だった。戦争を止めたいという意志だけではなく、フェイトという人間を信じることに、自分自身のすべてを賭けていたように思う。

 もちろん、今のネルだってフェイトを信じてくれている。

「……ネルは、あの時怖くなかった?」

「何がだい?」

「僕を信じること」

 ネルはすぐには答えなかった。

「怖いわけ……ないだろ」

 そう言って、ネルはからりと笑った。フェイトも微笑み返そうとした。だが、あの時のネルはこんなふうに笑っただろうかと思った。あの時のネルは、もっと必死だった。怖くなかったのではない。怖くても、自分を信じてくれたのだ。その違いを、フェイトはどうしても言葉にできなかった。

 展望台へ辿り着くと、曇天がいっそう近くなった気がした。

「おぼえてる? この街へ泊まるたびにアドレーさんがここで毎朝乾布摩擦してたの」

 フェイトが言うと、ネルは頷いた。

「ああ。この街のどこからでも見えてたよ」

 ネルが言うと、ふたりは笑った。

「いくら防寒用の施術があるからって、さすがにあの格好は寒くないのかな?」

 フェイトが首を傾げると、

「アドレー様は防寒用の施術はあえて施されていないようだよ。鍛錬のためにね」

「ええっ!? じゃあ素であれなの!?」

 フェイトが驚くと、ネルは微笑んで頷いた。

「じゃあ尚更怖いな」

 フェイトが呆れと感心のちょうど真ん中でため息をつくと、ふたりは目を見合わせてくすくす笑った。

 ふいに笑い声がやんで、沈黙が降りてくる。

 雪が静かにネルの赤毛に降り積もっていた。

 フェイトは、ネルから目を外し、トラオムの山々を見た。

 何かがおかしいような気がした。何がおかしいんだろう。わからなかったが、自分の中でずっとしっくりこなかった。

 出逢った場所に来て、思い出話に花を咲かせて笑い合っているのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。

 昨日ネルに苦しみを聞いてもらって、受け止めてもらって、あんなに安心したのに。

 花飾りをしたネルを、フェイトは盗み見た。どうして今、こんなに胸が苦しいのだろう。

 ネルは何も知らず、風に吹かれて笑っている。

 ネルの花飾りのまわりの雪を払ってやった。雪が風に流れて消えていく。その時ふと指先が当たって、花飾りが傾いた。フェイトが直してやろうと手を伸ばしかけて、ネルがつっと人差し指を伸ばし、傾きを直した。フェイトは伸ばしかけた手を雪を払うふりをして、乱暴にポケットに突っ込んだ。自分のすることがひとつなくなってしまったような気がした。

 フェイトは怖かった。手をつなげばつなぐほど、ネルのために何かすればするほど、自分の心が離れていこうとする。

 あの花飾りを自分が直してやっていたら、ネルはどんな顔をしただろう。『ありがとう』と照れ笑いしただろうか。『自分で直せる』と口を尖らせただろうか。どちらにしてもいかにもネルらしかった。

 それなのに、今のネルがどう反応するのかだけは、うまく想像できなかった。

 フェイトは失いたくなくて、ネルの肩に頭を寄せた。

 けれども展望台でアーリグリフの街を見下ろしながら弁当を食べる時も、言葉少なだった。

 

 帰りの馬車を、寄り道もせず走らせながら、フェイトはネルに尋ねた。

「ネル……僕たちは大丈夫だよね?」

 ネルの肩に頭を預けたまま、フェイトが手を握ると、ネルは手を握り返した。

「大丈夫に決まってるだろ」

 ネルは当たり前のように笑った。その笑顔を見て、フェイトは安心しようとした。

 そうだ。ネルはネルだ。自分の知らないところで、何かが変わったわけではない。自分が勝手におかしくなって、勝手に怖がっているだけなのだ。そう思えばいい。そう思わなければいけない。

 フェイトは握った手に、そっと力を籠めた。ネルもまた、何のためらいもなく握り返してくれる。それなのにどうしてだか、この手を離したら、もう二度と握り返してもらえないような気がした。

 シランドへ戻ってネルの部屋へ帰る時、明かりをつけようとベッドサイドへ寄るネルの背中を見ながら、フェイトは猛烈に淋しくなった。つい口に出る。

「君は本当にネル?」

 沈黙が落ちた。

 ネルは花飾りをした頭だけを見せてこちらを振り向いた。

「何言ってるんだい?」

 ネルは低い声で問い返した。ふいにネルの視線に刺すような眼光を感じ、フェイトは謝ろうと口を開いた。

「ごめ……」

「私はネルだよ」

 ネルが思いのほか強い口調で遮ったので、フェイトは驚いて佇んだ。

「ああ、わかってる。ネルはネルだ……」

「みんなそう言ってる。私を疑うのかい?」

 ネルが振り向きざま、いきなりつかつかと歩いてきたので、その剣幕にフェイトは驚いた。窓からの月明かりの中、ネルの顔はよく見えないのに、ネルの必死な顔だけがなぜかはっきりと浮かび上がるようによく見えた。

「わかってるよ。君はネルだ。あんなに思い出話もしたのに、ごめん」

 フェイトは暗闇の中、懸命にネルの手首をつかんだ。

「……じゃあ、どうして私を見てそんな顔をするんだい?」

 どんな顔をしているのか、自分ではわからなかった。

 フェイトはまるで溺れているみたいに息を吸った。

「どんな顔もしてないよ。僕が悪かったんだ。ごめん、明かりをつけて一緒にシャワーを浴びよう」

 フェイトはすがるようにネルの手を引こうとしたが、ネルの手は激しくフェイトの手を振り払い、フェイトの顎を引っつかんだ。

 生温かい感触が唇にぶつかった。キスされているのだと気づいたのはしばらくしてからだった。そう思ったら、たまらない気持ちになった。このキスは違う。いくらネルでも、このキスは違う!

 フェイトはネルの肩を突き飛ばして唇を離した。

 暗闇の中で、ネルが泣き出す声がきこえた。ネルの息を吸い込む音や、鼻を啜る音がしていた。

 しばらくして、ネルがしゃくりあげながら訊いた。

「私じゃ駄目なのかい……?」

 フェイトは呆然と立ち尽くしていた。

 ずいぶん黙ってから言った。

「……君は、ネルじゃない」

 

 

 おかしいのは世界の方だ。

 そう思った時、フェイトはいても立ってもいられずシランドを飛び出していた。メインストリートを抜けて、ムーンリットへ出る。ムーンリットからイリスの野へ出て湖を囲むように東を進むと、あの丘の上の家が見えた。

 泣きながら追いすがるネルを、途中から引っ張って連れていっていた。

 ふと見上げると、あの老婆が今もまた座っている。フェイトは胸がつぶれる思いがした。

 家の前に立つと、ネルがフェイトの腕を激しく引いた。

「帰ろうってばフェイト! ここに来ても意味ないって言ってるだろ!」

 フェイトはネルの腕を握り、無言で扉を開くと、すえた匂いが鼻をついた。

 老婆が窓辺にいたのに、誰も住んでいないように見える家。入って右手は台所とダイニングがあり、相変わらずぽちゃりぽちゃりと水滴が蛇口から落ちている。クロスを敷いた食卓は、長い間使われていないように埃が均一に乗っていた。一輪挿しの花は枯れて黒ずんでいる。

 フェイトはふいに目頭が熱くなった。

 左手は大きな暖炉を中心に、本棚やソファーなどの家具が揃っているが、どれもまた埃をかぶっている。ソファーなどは、破れが放置されていた。

 そして正面には、暗い階段が口を開いている。

 老婆がいたのは二階だった。

 フェイトは二階へと足を伸ばす。

 ぎしっ、ぎしっと床板が鳴った。

 ネルはいつまでも諦めずに、フェイトの服を引っぱっている。

「おばあさんのところへ行こう」

 そう言ってフェイトはネルを半ば抱くようにして、階段を上り続ける。

 階段の上は、むしろ月明かりの下で明るかった。

 月明かりの一筋に照らされるように、老婆が椅子に座っているのが見えた。フェイトはネルから手を離し、ゆっくりと老婆に近づいた。

 老婆は、まるで椅子にくっついているみたいに身動きひとつしなかった。ただ椅子に座って、シランドの街を見下ろしているように見える。

 フェイトは動かぬ老婆の目の前へ慎重にまわり込んだ。

 月明かりに照らされる老婆は、ただ泣き腫らした目でフェイトを見ていた。

 フェイトは老婆の頬にそっと手を伸ばした。新しい涙の雫が、フェイトの手の中ではじけた。

 フェイトもまた泣き出しそうになって、振り絞るような声で老婆に囁きかけた。

「ネル……」

 老婆の左右の目から、また新しい涙がこぼれた。老婆が百年ぶりに話すようなしわがれた声で言った。

「フェイト……」

 フェイトはついに嗚咽が漏れた。

 ネルはここにいた。やっとネルに会えたのだ。

 老婆のネルの涙を優しく拭っていると、ネルがフェイトの腕にしがみついた。

「ネルは私だよ!」

 しかし、そんな言葉ももう耳に入らなかった。老婆の紫色の瞳が、フェイトをまっすぐ見ているのだ。

「ちょっと、聞こえてるのかい!? ネルは私だよ!」

 ネルがフェイトの腕にしがみつきながら、また言った。

 フェイトは老婆を見つめながら、言った。

「……違う」

 フェイトは老婆の頬をやわらかく撫でながら言った。

「ネルの目はもっと鋭くて痛い。言うことももっと厳しくて滅茶苦茶だ」

「……あんた、喧嘩売ってんのかい?」

 老婆が不満そうに睨んできたので、ふたりで噴き出した。

 ネルはその様子に、口をぱくぱくさせながら立ち尽くしていた。

 

 老婆とネルが入れ替わっていたのだ。

 あのハロウィンデートの夜、この家に来た時に。

 フェイトは今初めてネルの姿をした者を見て言った。

「ネルに何をした?」

 彼女は観念したのか、首を振った。

「入れ替わっただけだよ。中身だけね。記憶ももらったよ」

 こともなげにいうので、怒りそうになった。あの夜からネルはずっとこの家でひとりで座っていたのだ。そしてひとり、この椅子に座って泣いていた。あれは確かに、ネルの目だったのだ。

「ネルもなんで逃げなかったんだよ。おばあさんになったって、僕のところへ来てくれれば……」

「その身体は椅子から動けないよ」

 彼女が肩をすくめて言った。

「そうなんだよ。どうやっても動けなくてね……強い施術で封印されているみたいに、何もできなくなったんだ」

 老婆のネルが首も動かさずに言った。確かによく見れば、さっきから顔しか動いていないのだ。

 フェイトは彼女を見た。

「施術を解いてくれ。ネルをもとに戻してほしい」

 しかし彼女はためらうように押し黙った。ふてくされたように、老婆のネルを見ている。

 そんな彼女に、老婆のネルが優しく尋ねた。

「あんたは、私になりたいのかい?」

 彼女は、初めて自分のことを話すように頷いた。

「……そう」

「どうしてだい?」

 彼女は少し目を伏せて言った。

「あなたは愛されているから……とても、愛されてるから」

「フェイトにかい?」

「特にそう」

 ネルはちょっと考えてから言った。

「それなら、私になる必要なんてないだろう」

「……どういう意味?」

「私があんたになればいい」

 ネルはこともなげに言った。彼女は少し目を瞠った。

「フェイトに愛されているからって、私の人生が正しいわけじゃない」

 ネルは彼女を振り向けなかったが、堂々としていた。

「あんたには、あんたの人生があるだろう?」

 彼女は考え込むように黙った。

 しばらくして、殻に閉じこもろうとするように言った。

「……私を愛してくれる人なんて、いない」

 それは、彼女の心の芯だった。フェイトはそこで初めて「そうかもしれない」と言った。それから「でも、まだ会っていないだけかもしれない」とも続ける。

 彼女は首を振った。

「何年もここで人と入れ替わり続けたんだ……そんな人、いるわけがない」

「僕にもわからない。でも、君がこれから出会う人のことまで、今の君が決めてしまわなくてもいいんじゃないかな」

 彼女がじっと目を伏せてしまうのがもどかしかった。

「言ったろ……僕を見つけてくれたのはネルなんだ」

 彼女がちらりとフェイトを見た。

「君も、見つけに行けばいい」

 彼女は淋しそうに目を細めてフェイトを見た。

「……私では、駄目だったんだね」

 フェイトは、首を振った。

「違うよ」

 それから、少し微笑んだ。

「君が駄目だったんじゃない。僕が愛しているのは、ネルだから」

 その言葉に、彼女の瞳がかすかに揺れた。フェイトは穏やかに続ける。

「でも……君が誰かに愛されたいと思ったことまで、間違いだとは思わないよ」

 彼女は、皮肉っぽく笑った。

「私には、もう誰かを愛してもらうことなんてできない」

「そんなこと、誰が決めたんだい?」

 老婆のネルが力強く言った。

「自分の姿で生きてみればいいじゃないか」

 ネルの言葉に、彼女は押し黙る。それからしばらくして、つかつかと老婆のそばに寄り、ただ老婆の肩を叩いた。その時起こったのは、それだけだった。

 ネルの身体が、ハッとしたように息を吸った。

 フェイトが驚いて見ると、ネルはもっと驚いたように老婆の正面にまわり込んだ。

「戻してくれたのかい!?」

 ネルが、久しぶりにネルとして喋った瞬間だった。

 老婆は気まずそうに言った。

「だって、これ以上その身体でいても、みじめなだけだし……」

 フェイトは思わず、ネルの腕をつかんだ。

「戻ったのか!?」

「ああ」

 ネルは頷いた。そして、老婆の手を握ろうとした。しかし老婆の手は、椅子にはりついたように動かなかった。

「くっ……」

 ネルが口惜しそうに唇を噛んだ。

「どうしたんだ?」

 ネルは老婆に向かって言う。

「やっぱりあんたは私を呪ったんじゃない、自分自身に呪いをかけてるんだ」

 老婆は静かな顔で、窓辺を見ていた。

「私は何年も入れ替わり続けてきたんだよ。いろんな人の記憶を取り込み、いろんな人生を生きてきた。そのうち自分が誰でどんな人間だったのか、いつ生まれたのか、自分の名前すらも忘れてしまった。たった独りぼっち、この家で、誰にも愛されず、現在まで来てしまったんだよ……今やもう、いつしか椅子からも動けなくなって窓の外を眺めるしかない年寄りさ。わかるだろう?」

「ああ……痛いほどにね」

 ネルは頷く。老婆の孤独をネルはこの数日間ずっと身代わりになって経験していたのだ。

「でも、これは紛うことなき施術だ。あんたの身体を動けなくしているのは施術だよ。解き方があるはずだ」

「忘れちまったんだよ……私は、私を」

 フェイトはネルの肩をつかんだ。

「探そう。彼女が忘れているものを」

 

 

 家の中には大量の書物があった。フェイトとネルは家をひっくり返して探した。

 ネルは感心したように言う。

「彼女の施術は特別なものだ。こんな強い施術は生まれつきだけじゃない。きっと相当に勉強して身につけたものだろう」

 それを証明するように、難しい施術書や古い日記、何かのレシピまで、本棚や文机、ありとあらゆる壁際にうず高く積まれている書物が物語っていた。

 だがそれらのどこにも、彼女を証明するものはなかった。なんて悲しい事実なのだろう。こんなに紙がありながら、彼女について書かれたものが一枚もないなんて。

 フェイトは物悲しい気持ちになった。人間とは、そういうものなのか。それとも彼女がとりわけそうなのか。

 フェイトは、書物の山に見切りをつけて一階を捜すことにした。ネルはまだ、書物と格闘している。老婆は心なしかその様子を気にするように、黙って窓辺を見ていた。

 階段を降りると、大きな暖炉が目についた。一歩、二歩と近づく。フェイトはそこで初めて、暖炉の上に肖像画が掛かっているのに気がついた。それは、少女の肖像画だった。利発そうな目をした金髪の豊かな少女が、斜めに座ってこちらを見ている。フェイトの目を引いたのは、その髪だった。金色の髪の中に、白い花飾りが留められている。それはフェイトがまさに昨日彼女が「買った」と言っていたあの髪飾りだった。これは、彼女の肖像画なのか。

 フェイトは暖炉に近づき、その上の肖像画の額縁を引っぱろうとした。だが、何かがくっついて、額縁は壁にくっついたまま吸い付くような音がしただけだった。汚れがひどいのか。フェイトは額縁の端を持って、あらためて力を籠めた。するとべりべりと音を立て、額縁の端が少し離れた。埃がどこからともなく舞い上がる。

 フェイトは力を入れ続け、額縁が半分まで壁から離れたと思ったその時、額縁の裏から何か白いものが落ちてきた。その白いものはひらりと舞って、ソファーの下に入り込んだ。

 長方形の何かの紙だっただろうか。

 フェイトは額縁から手を離し、ソファーへ近寄った。膝を折って床に顔を近づける。こんもりと積もった埃に思わず咳き込みそうになった。息を止めてそっとソファーの下を覗くと、白い紙片が斜めになって落ちていた。

 そっと指を伸ばす。手のひらがやっと入るかどうかの狭い隙間だった。暗闇の中、届くか届かないかのところに紙片が落ちている。紙片の角にやっと指が当たると、そのまま転がすように紙片をこちらに手繰り寄せた。すると埃も一緒にやってきて、フェイトは思わず腕の中で咳込んだ。

 それから、手の中の紙片を見る。

 それは、古いバースデーカードだった。二つ折りのカードを開くとそこにはこう書かれていた。

 

『グロリア、0歳の誕生日おめでとう』

 

 彼女にそれを見せると、彼女は薄い唇を震わせ、かすかな声で、「あ」とつぶやいた。彼女の指が、カードの文字をなぞろうとして震えた。

「……グロリア」

 その名前を、彼女は初めて聞くように、それでいて懐かしむようにつぶやいた。

 フェイトはネルと目を見合わせた。

 0歳のバースデーカード。最初は祝福されて生まれてきた、その証だった。

 その時、どこからか赤ん坊の泣き声がきこえてきた。誰かの腕。暖炉。初めての誕生日。ブランコを漕ぎ出す空の景色や、髪飾りの肖像画を描いてもらう時の、椅子に座ってむずむずする感じ、幼い頃の記憶が、フェイトにもなだれ込んできた。ネルもまた、その記憶を見ているようだった。

 やがて彼女が浅く息をついた。そして振り絞るように言った。

「……そうだった。私は……グロリアだった」

 彼女は本当の名前を見つけたのだ。

 愛されるために誰かになる必要なんてなかった。少なくとも、生まれた瞬間には。

 さまざまな思い出が去来し、圧倒されているようだった。

「グロリア」

 ネルが彼女に近づき、名前を呼んだ。

「グロリア」

 フェイトもネルと同じように、名前を呼んだ。

 グロリアは交互にふたりを見た。そしてその時初めて、微笑んでみせた。

 グロリアの指先が、ぴくりと動き始める。フェイトとネルは、息を呑んでグロリアを見守った。

 椅子にはりついたように動かなかったグロリアの手が、足が、身体が、今ゆっくりと動き始めたのだ。それはのろのろとした、しかし確かな動きだった。

 グロリアは自分の開いたり閉じたりする手を見下ろしながら、「ありがとう……」とつぶやいた。

 ネルもフェイトも、その様子をただ黙って見守っていた。

 グロリアはやがて立ち上がろうとするように、全身に力を籠めた。めきめきとグロリアの身体すら椅子の一部だったかのように軋み始める。

 そうして、グロリアは本当に立ったのだ。

 思ったよりも、小さな背だった。ネルは思いついたように自分の頭についていた髪飾りを外し、グロリアの髪に留めてやった。グロリアはネルを振り向いて、もう一度「ありがとう」と言った。

 それから一歩、踏み出した。そのふらついた一歩は、よろけたようにそれた。何年、何十年、もしかしたらもっと長い間、座ったままだったから。

 思わず手を貸そうとしたふたりの手を、グロリアは取らなかった。

「……大丈夫」

 自分の姿で歩き出し、自分の人生を生きることを、グロリアは選んだのだ。ずっと座っていたグロリアが、自分の人生を歩き始める。二歩目、三歩目と、どんどん力強くなった。

 二階の部屋を出て、グロリアは階段を降りた。その様子を、ふたりはそばで見守っていた。グロリアが自分で歩き、玄関を開けた瞬間、月の光にじかに照らされた。

 一歩、二歩と外に出て、グロリアは解放されたように両手を広げて月の光を浴びる。

 

 

 フェイトとネルは、ほっとしたように同時に息をついた。それから目を見合わせて、つい笑った。

 フェイトとネルはようやく、どちらからともなく抱きしめ合った。

 フェイトはおずおずと、ネルの背中に手を回した。少し怖かった。ずっと触れたいのに触れられなかった手。キスするたびに感じた悪寒。抱きしめても安心できなかった身体。

 けれど、今は何も起きなかった。

 フェイトはネルの手を握り、指を絡め、頬に触れた。

「……ネル」

 この感覚だ。フェイトは思った。

「ああ……ネルだ」

「ああ、ネルだよ」

 ネルは上目遣いに笑った。

 ネルもまた、身体が戻ったことに感動しているように、フェイトの頬に触れ、首元に頬ずりしたりした。

 フェイトはそんなネルを抱きしめた。ネルの匂いをかぎ、ネルの感触を確かめ、ネルの体温を感じた。

 ずいぶん長らくそうやって、お互いの存在を確かめた。

「……随分と長い抱擁だね」

「うん。もう離したくない」

 フェイトは幸福の中で、ネルを見つめた。ネルの、よろこびを隠しきれない口元に、そっと唇を近づけた。だがキスしたのは、ネルのそっぽを向いた頬だった。

 フェイトは不思議に思って、ネルの複雑そうな顔を見つめた。

「どうしたの?」

「べつに。ただ、視えるんだよ。あの椅子に座ってると、いろんなことが」

「まさか……グロリアとキスしたこと、気にしてるとか?」

「べつに気にしてなんかないさ。あんたは私がグロリアだなんて知らなかったんだから」

 と言いつつ、ネルはそっぽをむきながらフェイトの肩に頬を押しつけた。

 フェイトは笑い出した。本当に帰ってきたと感じる。

「なにさ」

「ネルだ。すごくネルだ」

 むっとして「なにさ」というネルのおでこにおでこをくっつけた。

「僕のこと、許さなくていい」

「だからなにさ。許すも許さないもない──」

 ネルの唇にそっと指を当てた。それから指でネルのすべすべした頬を触り、細い首元から肩、ネルの長い指先まで丁寧に触れる。

「愛してる」

「……私もだよ」

 ネルに頬ずりをし、上唇がネルの唇に触れた。ネルが何かを言おうとしてやめたような、泣き声のような吐息を唇から漏らし、フェイトはこぼさないかのように口づけた。溶けあうような優しいキスに、フェイトはふと目頭が熱くなった。

 ネルがネルであることを感じられるだけで、たまらなく幸せだった。

「ネル」

 ネルの名前を呼んだ。それだけで幸せだった。

「フェイト」

 ネルが名前を呼んでくれる。名前を呼ばれることがこんなに幸せだなんて思わなかった。

「帰ろう、ふたりで」

 ふたりは手を握り合うと、月明かりの下へ歩き出した。


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