図書室の勉強会が崩れてから、一週間近くがたった。
須藤たちが自分から教科書を開くことはなかった。平田の勉強会には毎日十人ほどが集まっていたが、その輪に三人の姿はない。中間テストまでは、もう十日を切っていた。
寮の裏手で見たことを、浦原は誰にも話していない。あの夜のことは二度目の作文に符丁で書き込み、封をして鞄の底に入れてある。理事長室へ持っていく日は、まだ決めていなかった。
その日の昼休み、櫛田からメッセージが届いた。
「パレットに来られる? 勉強会のことで、相談したいことがあるの」
パレットは敷地の中にあるカフェで、昼どきは女子生徒でにぎわう。浦原が店に入ると、窓際の席に櫛田と堀北、それに綾小路が座っていた。
「あ、浦原くん。来てくれてありがとう」
櫛田が手を振り、自分の隣の椅子を引いた。浦原が腰を下ろしてまもなく、入口のほうから聞き慣れた騒がしい声がした。須藤、池、山内の三人だった。櫛田が呼んだらしい。
須藤は席に着くなり腕を組んだ。
「先に言っとくけどよ。勉強会なら、やらねえぞ。放課後は部活があんだよ」
「俺らも、テストの前の晩にまとめてやるからさ」
池が言い、山内がうなずく。一週間前の図書室の空気が、そのままテーブルの上に戻ってきたようだった。
堀北が静かにカップを置いた。
「放課後の時間は使わないわ」
須藤の眉がわずかに動いた。
「授業中に、覚えるべきところだけを覚えなさい。分からなかったところは、休み時間に私たちが教える。放課後は部活に行けばいい。あなたたちからもらう時間は、休み時間の10分だけよ」
浦原は少し意外に思った。
一週間前の堀北は、足を引っぱる者を無理に引き上げる必要はないと言い切った。その堀北が、今は相手の都合に合わせた作戦を持ってきている。この一週間で、誰かが堀北の考えを動かしたのだ。
浦原の目は自然と綾小路へ向いた。綾小路は自分のことではないような顔で、アイスティーのストローをくわえていた。
それでも三人の顔は渋いままだった。休み時間まで取られるのか、という顔だ。
綾小路が櫛田のほうへ少しだけ身を寄せ、何かを短くささやいた。櫛田は一瞬きょとんとして、それから困ったように笑った。
「……じゃあ、こうしよっか。今度の中間テストで、一番点数がよかった人と……私、一日デートしてあげる」
池と山内が同時に身を乗り出した。
「マジで!?」
「櫛田ちゃん、それ本気? 本気のやつ?」
須藤まで、組んでいた腕をほどいている。
浦原は手元のアイスコーヒーに目を落とした。
(……餌のぶら下げ方を、心得ている)
だが、その餌を考えたのは櫛田ではない。ささやいたのは綾小路だった。誰の前に何をぶら下げれば動くのか。それを見抜いたうえで、自分は口を開かずに、人の口から言わせた。
池がくるりと浦原のほうを向いた。
「あ、浦原は英語係だから対象外な。先生がテスト受けて一番取ったら、ずるいだろ」
「……最初から、出るつもりはないよ」
「よっしゃ、ライバルが一人減った」
池の言い草に、櫛田がくすくすと笑った。それから浦原に向き直る。
「浦原くん。英語係、続けてくれる?」
「……英語だけなら」
「それ、浦原くんの決まり文句になってきたね」
櫛田が笑い、池が「頼むぜ、先生」と浦原の肩を叩いた。
池の目は一週間前と違っていた。playsのsを覚えたときの目だ。デートという餌がなくても、この男は英語だけはやるかもしれない、と浦原は思った。
須藤はストローをくわえたまま、「……バスケの邪魔にならねえなら」とだけ言った。
――――――――――
堀北の作戦は、翌日の一時間目から動き出した。
休み時間のたびに、池が英語のプリントを持って浦原の席にやってくる。分からないところには、鉛筆で丸がつけてある。午前中だけで、丸の数は目に見えて減った。
昼休みは図書室に集まることになった。前と同じ、奥の机だ。
勉強会は前よりずっとましだった。須藤は数学の公式を口の中で繰り返し、山内は消しゴムのかすを丸めていない。池は浦原が作った動詞の表をにらみながら、正解するたびに小さく拳を握った。
その「小さく」が少しずつ大きくなっていった。
「よっしゃ、また当たった!」
「おい。ちょっと、うるさいんだけど」
隣の机から声が飛んできた。見知らぬ男子が四、五人、こちらを見ている。
「あ……悪い」
池が首をすくめた。それで終わるはずだった。
だが、男子の一人が須藤の顔を見て、口の端をつり上げた。
「ん? お前ら、Dクラスじゃん。0ポイントの」
別の一人が笑った。
「不良品が勉強して、何か意味あんの?」
須藤の椅子がきしんだ。立ち上がりかけた須藤の前に、堀北の冷たい声が落ちた。
「やめなさい、須藤くん。相手にするだけ時間の無駄よ」
「あ?」
須藤は堀北をにらんだが、腰は椅子に戻った。男子たちはそれを見て、ますます面白がった。一人が身を乗り出して、机の上のプリントをのぞき込む。
「せいぜい頑張れよ。……って言っても、お前ら、範囲違うとこやってんじゃん。やっぱDはDだな」
その一言で、須藤の手が伸びた。
相手の制服の襟をつかみ、椅子ごと引き寄せる。図書室じゅうの視線が、いっせいにこちらへ集まった。
浦原は鉛筆を置いた。
椅子の脚を、音を立てないように引く。いつでも立ち上がれる位置に、足を置き直した。
相手の男子は、襟をつかまれても笑っていた。殴られるのを怖がっている顔ではない。殴られるのを待っている顔だ。
(……殴らせたいのか)
ここで須藤が拳を振るえば、損をするのはDクラスだ。それが分かっているから、あの男子たちはわざわざ隣の机まで来て、聞こえるように言った。
止めるなら、今だった。慌てた帰国子女が、慌てたまま友達の腕にしがみつく。それくらいなら、誰の記憶にも残らない。
浦原が腰を浮かせかけた、そのときだった。
「はーい、そこまで!」
明るくよく通る声が、図書室の空気を割った。
長い髪の女子生徒が、須藤と相手の男子のあいだに、ためらいなく体を入れていた。
「図書室でけんかはだめだよ。これ以上続けるなら、私、先生を呼んでくるけど。……それでもいい?」
声は明るいままだった。だが、目は笑っていなかった。
襟をつかまれていた男子が、舌打ちをした。須藤の手が離れると、男子たちは「行こうぜ」と言い捨てて、図書室を出ていった。
女子生徒は振り返って、ぺこりと頭を下げた。
「急に割り込んでごめんね。Bクラスの、一之瀬です。……えっと、余計なお世話だったかな」
浦原はその顔を知っていた。
部活動紹介の日、生徒会の役員募集に身を乗り出していた顔。5月1日の放課後、職員室の前で星之宮を呼び止めていた顔だ。
(一之瀬、か)
顔と名前が、ようやく頭の中の名簿でひとつになった。
「ほんとは、図書室は静かにね、って言いに来ただけなんだけど。じゃあ、勉強がんばってね」
一之瀬は軽く手を振って、書架のあいだへ消えていった。
浦原は椅子を元の位置に戻した。誰にも気づかれていない。少なくとも、浦原はそう思った。
向かいの席では、綾小路が開いたページに目を落としたままだった。騒ぎのあいだ、一度もページをめくらず、一度も腰を浮かせなかった。
あの夜、生徒会長の手首を誰よりも先につかんだ男が、今日は指一本動かさなかった。動く必要がないと、最初から分かっていたかのように。
――――――――――
「……さっきの人、範囲が違うと言ったわね」
堀北が、手元のプリントを見下ろしたまま言った。
確かめに行こう、ということになった。昼休みは、まだ20分ほど残っていた。
職員室の茶柱は、自分の机で書類に目を通していた。堀北が中間テストの範囲を尋ねると、茶柱はペンを置きもせずに答えた。
「ああ、範囲か。範囲なら、先週の金曜に変わった」
一拍おいて、茶柱は付け足した。
「……伝え忘れていたな」
机の引き出しから、新しい範囲を書いた紙が一枚出てくる。池が「伝え忘れたって……」と言いかけたところで、堀北が紙を受け取った。
「行きましょう。文句を言っている時間はないわ」
浦原は一行のあとについて職員室を出ながら、茶柱の声を頭の中でもう一度鳴らした。
伝え忘れていた。
居眠りの数を数え、私語の数を数え、遅刻の数を数えていた教師だ。小テストの平均点も、赤点の線も、中間テストまでの日数も、正確に口にした。その教師が、テストの範囲だけを忘れる。
あの声は、違反を数えていたときと同じ温度だった。
(忘れたんじゃない。言わなかったんだ)
先週の金曜。図書室の勉強会が崩れた日だ。その日のうちに範囲は変わっていて、Dクラスはそれを知らないまま、一週間を使った。
職員室を出たところで、綾小路が櫛田に何か頼んでいた。範囲が変わったことを、クラスのみんなに知らせてほしい、ということらしい。
五時間目の前、櫛田が教壇に立って、新しい範囲を読み上げた。
教室のあちこちから悲鳴に近い声が上がった。平田がすぐに立ち上がり、「みんなで手分けして、新しい範囲のまとめを作ろう」と声をかける。ざわめきは、怒りから焦りへ変わっていった。
浦原の前の席では、松下が教科書を開いていた。櫛田が読み上げた範囲の、最初のページだった。周りの女子が「え、どこからどこ?」と言い合っているあいだに、もう一枚めくっている。
要領のいい生徒だ。浦原はそれだけ思って、自分の教科書を開いた。
――――――――――
その日の放課後、浦原は教室を出たところで呼び止められた。
「浦原」
廊下の壁ぎわに、茶柱が立っていた。生徒が教室から出てくるのを待っていたような立ち方だった。
「理事長室から呼び出しだ。帰国生の面談だそうだ」
「……はい」
「入学式の日。四月の終わり。今日で三度目か」
茶柱は指を折りもせず、淡々と数を口にした。
「帰国生というのは、手のかかるものだな」
「……書類が、いろいろあって」
「そうか」
茶柱はそれだけ言うと、浦原に背を向けて歩き去った。
浦原はその背中を見送った。
理事長室へ通う回数に気をつけようと決めたのは、四月の終わりにこの教師とすれ違ってからだ。間を空けたつもりだった。だが、茶柱は数えていた。数えていることを、わざわざ浦原に聞かせていった。
返事が来れば、理事長のほうから帰国生の面談という名目で呼んでくる。それは決めてあったことだ。担任を通して呼ぶのも、手続きとしてはおかしくない。おかしくないからこそ、茶柱の耳にも入る。
浦原は鞄の底から封筒を取り出して、制服の内ポケットへ移した。二度目の作文が、今日届けられることになった。
――――――――――
理事長室のある校舎へは、職員室の前を通って渡り廊下へ抜ける。その途中の廊下で、後ろから声をかけられた。
「あ、浦原くん!」
振り返ると、一之瀬が小走りで追いついてくるところだった。腕にプリントの束を抱えている。
「……一之瀬、さん」
「わ、名前覚えててくれたんだ。お昼はびっくりさせちゃってごめんね」
「……いや。助かった」
「浦原くんのことは、前から知ってたよ。英語がすっごく上手な帰国子女の男の子がDクラスにいるって、うちのクラスでも噂になってたから」
一之瀬は屈託なく笑った。噂がクラスの外まで届いていることは知っていた。だが、こうして本人の口から聞くと、自分の名前がどこまで歩いているのかを改めて思い知らされる。
「浦原くんも、こっちに用事?」
「……書類の、手続きで」
「そっか、帰国生って大変なんだね。私は星之宮先生に、クラスのプリントを届けに行くとこ」
二人は並んで廊下を歩いた。一之瀬の歩き方には、相手に歩幅を合わせる者の癖があった。
「そういえば、テストの範囲のこと、大丈夫だった? あの人たち、範囲が違うって言ってたけど」
「……先生に聞いたら、先週の金曜に、変わってたって」
「え? Dクラスは、聞いてなかったの? うちは金曜日のホームルームで、星之宮先生から……」
そこまで言って、一之瀬は口をつぐんだ。笑顔がほんの少しだけ曇った。
「……ごめん。今の、言わないほうがよかったかな」
「……いや。教えてくれて、ありがとう」
浦原は本心からそう言った。
ほかのクラスは、先週の金曜に知らされていた。茶柱の「伝え忘れた」が、これで忘れたのではないとはっきりした。
「Dクラス、今月はポイントが大変だって聞いたよ。だから、ってわけじゃないんだけど……」
一之瀬はプリントの束を片腕に抱え直し、もう片方の手でスマートフォンを取り出した。
「もしよかったら、連絡先、交換しない? 困ったことがあったら、いつでも言ってね。クラスは違っても、同じ一年生なんだし」
断る理由はなかった。
学年じゅうに顔の広い生徒とつながっておけば、ほかのクラスの様子が自然に耳に入ってくる。Bクラスの空気も、星之宮という教師のことも。浦原がいちばん欲しいものを、一之瀬は善意のまま差し出していた。
画面を合わせて連絡先を交換したあとで、一之瀬がふと浦原の顔を見上げた。
「浦原くんって、ちょっと不思議だね」
「……何が?」
「お昼のとき。須藤くんが相手の襟をつかんで、みんな慌ててたでしょ。浦原くんも、びっくりした顔はしてたんだけど」
一之瀬は首をかしげた。
「椅子を、すっと引いてたよね。音を立てないように。それに、目はぜんぜん慌ててなかった。……なんだか、止める準備をしてるみたいに見えたんだ」
浦原の背中を、冷たいものがひとすじ伝った。
顔には出さなかった。出さなかったはずだ。あの騒ぎの中で、須藤と相手の男子のあいだに割って入りながら、この女子生徒は離れた席の椅子の脚まで見ていたのだ。
「……アメリカの学校、ああいうの、わりとあったから。慣れてる、だけだと思う」
「そっか、慣れてるんだ。向こうの学校って、そういうの多いって言うもんね」
一之瀬はあっさりうなずいた。疑っている顔ではなかった。
探っているのではない、と浦原は思った。ただ、見えてしまうのだ。悪意も計算もないまま、人が隠しているものの輪郭が見えてしまう。こういう目は、探る目よりもかえって厄介だった。
「あ、でもね。もう一人いたよ、落ち着いてた人」
一之瀬が指を一本立てた。
「浦原くんの向かいに座ってた男の子。あの子なんて、ページから顔も上げてなかった。Dクラスって、落ち着いてる人が多いのかな」
「……綾小路、かな。あいつは、いつもああだから」
「綾小路くん、か。覚えとこ」
浦原はそれ以上、綾小路の話を広げなかった。一之瀬が綾小路を見ていたことは覚えておく。それで十分だった。
廊下の先に、職員室の扉が見えてきた。浦原は、何気ない調子で聞いた。
「……一之瀬さんは、部活とか、入ってるの?」
「ううん、部活は入ってないんだ。ほんとは生徒会に入りたくて、申し込んだんだけどね」
一之瀬は明るい声のまま続けた。
「会長に、断られちゃった」
笑顔は崩れなかった。ただ、その笑顔が言葉に追いつくまでに、一拍だけ遅れがあった。
明るい声の下で、扉が一枚、そっと閉まった。浦原にはそんなふうに見えた。何の扉なのかは分からない。分からないまま、浦原はそれを見なかったことにした。
生徒会長、堀北学。部活動紹介の壇上で、百人を超える新入生を黙らせた男。あの男が、この一之瀬を断った。
そして、あの夜。綾小路は、その生徒会長の前で腕を見せた。
「じゃあ、私はここで。テスト、お互いがんばろうね」
一之瀬は職員室の扉の前で手を振り、中へ入っていった。
浦原は一人で渡り廊下のほうへ歩き出した。
生徒会に近づこうとする新入生を、浦原は疑う相手の候補として見てきた。一之瀬の名前も、その名簿から消えたわけではない。だが、工作員なら、図書室で人目を集めてまでけんかを止めはしないだろう。
疑う相手としては、遠い。味方にするには、目がよすぎる。
それでも、つながっておく価値のある相手だった。浦原はスマートフォンをポケットにしまい、渡り廊下を抜けて、人けのない廊下のいちばん奥の扉の前に立った。
――――――――――
「どうぞ」
ノックに返ってきた声は、いつもと同じように穏やかだった。
理事長室の窓からは、傾きかけた日が差し込んでいた。坂柳理事長は机の向こうで立ち上がり、浦原に椅子をすすめた。
「お呼び立てしてすみません。茶柱先生にお願いしたのは、そのほうが面談らしく見えるかと思ったのですが」
「……三度目だな、と言われました」
「そうですか」
理事長はかすかに目を細めた。それ以上は何も言わなかった。
浦原は内ポケットから封筒を出して、机の上に置いた。帰国生の作文。二度目の報告だ。理事長は前と同じように中を見ずに、鍵のかかる引き出しへしまった。
それから、別の引き出しを開けた。出てきたのは、厚みのある事務用の封筒だった。表には、在外教育施設の書類に関する照会、と印字されている。
「あなたあての書類が届いています。ここで読んで、ここに置いていってください」
理事長は部屋の隅を目で示した。書類棚の横に、小型のシュレッダーが置いてあった。
浦原は封筒を開けた。
中身は、帰国生の手続きに関する事務的な文書に見えた。だが、ところどころに、別班の者だけが読める符丁が混ぜてある。浦原は一枚ずつ、それを頭の中で組み直していった。
最初の報告で、浦原は綾小路清隆の名前を書いた。別班はそれを受けて、総理を通じて、父親の綾小路篤臣に問い合わせていた。
父親の答えは短かった。息子は施設を出た。その後の足取りは知らない。
施設の名は、ホワイトルーム。
綾小路篤臣が関わる、外からは中が見えない教育施設だった。幼い子どもを集め、学問から武術まで、ありとあらゆるものを詰め込んで育てる。そこで育った者がどんな人間になるのか、別班もまだつかみきれていない。綾小路清隆は、そこで育った。
そして、施設を出てからこの学校に入るまでの足取りに、空白がある。
最後の一枚には、別班の見立てが書かれていた。その空白に、シンシーが関わっている可能性がある。施設からの脱出に、外の誰かが手を貸したのではないか。
浦原はゆっくりと紙を伏せた。
(……ホワイトルーム)
寮の裏手で見た動きが、頭の中でよみがえった。首をわずかに傾ける動き。半歩だけ引く足。来たものを、来てから見て、必要な分だけ外すかわし方。
誰かが時間をかけて、意図して教え込んだもの。あの夜の読みは、外れていなかった。
だが、その先が問題だった。施設で何を詰め込まれたにせよ、綾小路は施設を出た。出たあとの空白のあいだに、誰が近づいたのか。手を貸した者がいたのなら、その者は見返りに何を求めたのか。
空白のあいだに取り込まれた人間が、何食わぬ顔でこの学校の教室に座っている。それなら、力を隠していることにも、生徒会長の前で腕を見せたことにも、筋が通る。
浦原は最後の一枚まで二度読み、すべてを頭に入れてから、紙の束を封筒に戻した。
「終わりました」
理事長は封筒を受け取ると、中を見ずにシュレッダーへ差し込んだ。低いモーターの音がして、紙は細い帯になって消えていった。
音がやむのを待って、浦原は口を開いた。
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「この学校は、どんな生徒でも、受け入れるんですか。たとえば、経歴に、空白があるような生徒でも」
理事長は、すぐには答えなかった。
ほんの一拍だった。目も動かなかった。だが、その一拍のあいだに、答えを選ぶ者の静けさがあった。
「この学校は、ここで学びたいと願う生徒に、等しく門を開いています」
「……誰かが、その生徒を、外から探していても、ですか」
「生徒一人ひとりの事情を、ほかの生徒にお話しすることはできません。それは、あなたについても同じです」
穏やかな声だった。答えになっていない答えだった。
浦原はそれ以上は聞かなかった。聞いても、この人は同じ声で同じことを言うだろう。ただ、ひとつだけ分かった。理事長は、経歴に空白のある生徒とは誰のことかを、尋ねなかった。尋ねないということは、思い当たる生徒がいるということだ。
浦原が立ち上がろうとしたとき、理事長が言った。
「それから、ひとつお伝えしておくことがあります」
浦原は腰を椅子に戻した。
「先日、ある方から、帰国生のあなたの身元について問い合わせがありました」
部屋の空気が、わずかに変わった。
「……ある方、というのは」
「お名前は申し上げられません。学校としては、生徒の個人的な事柄にはお答えできない、とだけお返事しました」
理事長は机の上で手を組んだ。
「入学式の日、あなたは、この学校の生徒を守るために来たと言いましたね。私も同じです。そして、あなたも、この学校の生徒です」
「……ありがとうございます」
浦原は頭を下げた。下げたまま、頭の中で糸をたぐった。
別班は総理を通じて、綾小路篤臣に息子のことを問い合わせた。父親は、誰かが自分の息子を調べていると知った。総理に近いところから、息子の名前が出てきたことも知った。
では、父親はどこを探すか。
息子と同じ年に、同じ学校へ入った生徒。その中に、政府の依頼で入学した者がいないか。経歴の届け出に、外国での暮らしが書かれた者がいないか。
帰国生の浦原大輔は、その網にいちばん引っかかりやすい場所にいた。
(探り返された)
問い合わせてきたのが綾小路篤臣本人なのか、その手の者なのか。そこまでは分からない。ただひとつ確かなのは、学校の外の誰かが、浦原大輔という名前に目を留めたということだった。
――――――――――
理事長室を出ると、廊下の窓の外はもう夕方の色に変わっていた。
職員室の前を通り過ぎるとき、浦原は中をのぞかなかった。一之瀬がまだいるのかどうかも確かめなかった。
寮へ戻る並木道の途中で、ポケットのスマートフォンが震えた。
一之瀬からのメッセージだった。今日はありがとう、テストお互いがんばろうね、という短い文に、笑った顔の絵文字がひとつついている。
浦原は短く返事を打った。こちらこそ、ありがとう。それだけだ。
画面を消すと、暗くなった画面に自分の顔が映った。
入学してひと月半。浦原は教室の四十人を、ずっと見る側にいるつもりだった。誰が嘘をつき、誰が力を隠し、誰がシンシーとつながっているのか。名簿を作り、印をつけ、疑いを並べてきた。
だが、今日一日で、それがどこまで本当だったのか分からなくなった。
来た回数を数えていた担任。椅子の脚の動きまで見ていた、善意の目。そして、名前も顔も分からないまま、学校の外から浦原大輔の身元を問い合わせてきた誰か。
調べる側にいたはずの自分が、いつのまにか、調べられる側にも立っている。
浦原はスマートフォンをポケットにしまい、寮の明かりのほうへ歩き出した。