よう実の世界に別班入れてみた   作:なかなかさかな

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5月その3

 図書室の勉強会が崩れてから、一週間近くがたった。

 須藤たちが自分から教科書を開くことはなかった。平田の勉強会には毎日十人ほどが集まっていたが、その輪に三人の姿はない。中間テストまでは、もう十日を切っていた。

 寮の裏手で見たことを、浦原は誰にも話していない。あの夜のことは二度目の作文に符丁で書き込み、封をして鞄の底に入れてある。理事長室へ持っていく日は、まだ決めていなかった。

 その日の昼休み、櫛田からメッセージが届いた。

 

「パレットに来られる? 勉強会のことで、相談したいことがあるの」

 

 パレットは敷地の中にあるカフェで、昼どきは女子生徒でにぎわう。浦原が店に入ると、窓際の席に櫛田と堀北、それに綾小路が座っていた。

 

「あ、浦原くん。来てくれてありがとう」

 

 櫛田が手を振り、自分の隣の椅子を引いた。浦原が腰を下ろしてまもなく、入口のほうから聞き慣れた騒がしい声がした。須藤、池、山内の三人だった。櫛田が呼んだらしい。

 須藤は席に着くなり腕を組んだ。

 

「先に言っとくけどよ。勉強会なら、やらねえぞ。放課後は部活があんだよ」

 

「俺らも、テストの前の晩にまとめてやるからさ」

 

 池が言い、山内がうなずく。一週間前の図書室の空気が、そのままテーブルの上に戻ってきたようだった。

 堀北が静かにカップを置いた。

 

「放課後の時間は使わないわ」

 

 須藤の眉がわずかに動いた。

 

「授業中に、覚えるべきところだけを覚えなさい。分からなかったところは、休み時間に私たちが教える。放課後は部活に行けばいい。あなたたちからもらう時間は、休み時間の10分だけよ」

 

 浦原は少し意外に思った。

 一週間前の堀北は、足を引っぱる者を無理に引き上げる必要はないと言い切った。その堀北が、今は相手の都合に合わせた作戦を持ってきている。この一週間で、誰かが堀北の考えを動かしたのだ。

 浦原の目は自然と綾小路へ向いた。綾小路は自分のことではないような顔で、アイスティーのストローをくわえていた。

 それでも三人の顔は渋いままだった。休み時間まで取られるのか、という顔だ。

 綾小路が櫛田のほうへ少しだけ身を寄せ、何かを短くささやいた。櫛田は一瞬きょとんとして、それから困ったように笑った。

 

「……じゃあ、こうしよっか。今度の中間テストで、一番点数がよかった人と……私、一日デートしてあげる」

 

 池と山内が同時に身を乗り出した。

 

「マジで!?」

 

「櫛田ちゃん、それ本気? 本気のやつ?」

 

 須藤まで、組んでいた腕をほどいている。

 浦原は手元のアイスコーヒーに目を落とした。

 

(……餌のぶら下げ方を、心得ている)

 

 だが、その餌を考えたのは櫛田ではない。ささやいたのは綾小路だった。誰の前に何をぶら下げれば動くのか。それを見抜いたうえで、自分は口を開かずに、人の口から言わせた。

 池がくるりと浦原のほうを向いた。

 

「あ、浦原は英語係だから対象外な。先生がテスト受けて一番取ったら、ずるいだろ」

 

「……最初から、出るつもりはないよ」

 

「よっしゃ、ライバルが一人減った」

 

 池の言い草に、櫛田がくすくすと笑った。それから浦原に向き直る。

 

「浦原くん。英語係、続けてくれる?」

 

「……英語だけなら」

 

「それ、浦原くんの決まり文句になってきたね」

 

 櫛田が笑い、池が「頼むぜ、先生」と浦原の肩を叩いた。

 池の目は一週間前と違っていた。playsのsを覚えたときの目だ。デートという餌がなくても、この男は英語だけはやるかもしれない、と浦原は思った。

 須藤はストローをくわえたまま、「……バスケの邪魔にならねえなら」とだけ言った。

 

――――――――――

 

 堀北の作戦は、翌日の一時間目から動き出した。

 休み時間のたびに、池が英語のプリントを持って浦原の席にやってくる。分からないところには、鉛筆で丸がつけてある。午前中だけで、丸の数は目に見えて減った。

 昼休みは図書室に集まることになった。前と同じ、奥の机だ。

 勉強会は前よりずっとましだった。須藤は数学の公式を口の中で繰り返し、山内は消しゴムのかすを丸めていない。池は浦原が作った動詞の表をにらみながら、正解するたびに小さく拳を握った。

 その「小さく」が少しずつ大きくなっていった。

 

「よっしゃ、また当たった!」

 

「おい。ちょっと、うるさいんだけど」

 

 隣の机から声が飛んできた。見知らぬ男子が四、五人、こちらを見ている。

 

「あ……悪い」

 

 池が首をすくめた。それで終わるはずだった。

 だが、男子の一人が須藤の顔を見て、口の端をつり上げた。

 

「ん? お前ら、Dクラスじゃん。0ポイントの」

 

 別の一人が笑った。

 

「不良品が勉強して、何か意味あんの?」

 

 須藤の椅子がきしんだ。立ち上がりかけた須藤の前に、堀北の冷たい声が落ちた。

 

「やめなさい、須藤くん。相手にするだけ時間の無駄よ」

 

「あ?」

 

 須藤は堀北をにらんだが、腰は椅子に戻った。男子たちはそれを見て、ますます面白がった。一人が身を乗り出して、机の上のプリントをのぞき込む。

 

「せいぜい頑張れよ。……って言っても、お前ら、範囲違うとこやってんじゃん。やっぱDはDだな」

 

 その一言で、須藤の手が伸びた。

 相手の制服の襟をつかみ、椅子ごと引き寄せる。図書室じゅうの視線が、いっせいにこちらへ集まった。

 浦原は鉛筆を置いた。

 椅子の脚を、音を立てないように引く。いつでも立ち上がれる位置に、足を置き直した。

 相手の男子は、襟をつかまれても笑っていた。殴られるのを怖がっている顔ではない。殴られるのを待っている顔だ。

 

(……殴らせたいのか)

 

 ここで須藤が拳を振るえば、損をするのはDクラスだ。それが分かっているから、あの男子たちはわざわざ隣の机まで来て、聞こえるように言った。

 止めるなら、今だった。慌てた帰国子女が、慌てたまま友達の腕にしがみつく。それくらいなら、誰の記憶にも残らない。

 浦原が腰を浮かせかけた、そのときだった。

 

「はーい、そこまで!」

 

 明るくよく通る声が、図書室の空気を割った。

 長い髪の女子生徒が、須藤と相手の男子のあいだに、ためらいなく体を入れていた。

 

「図書室でけんかはだめだよ。これ以上続けるなら、私、先生を呼んでくるけど。……それでもいい?」

 

 声は明るいままだった。だが、目は笑っていなかった。

 襟をつかまれていた男子が、舌打ちをした。須藤の手が離れると、男子たちは「行こうぜ」と言い捨てて、図書室を出ていった。

 女子生徒は振り返って、ぺこりと頭を下げた。

 

「急に割り込んでごめんね。Bクラスの、一之瀬です。……えっと、余計なお世話だったかな」

 

 浦原はその顔を知っていた。

 部活動紹介の日、生徒会の役員募集に身を乗り出していた顔。5月1日の放課後、職員室の前で星之宮を呼び止めていた顔だ。

 

(一之瀬、か)

 

 顔と名前が、ようやく頭の中の名簿でひとつになった。

 

「ほんとは、図書室は静かにね、って言いに来ただけなんだけど。じゃあ、勉強がんばってね」

 

 一之瀬は軽く手を振って、書架のあいだへ消えていった。

 浦原は椅子を元の位置に戻した。誰にも気づかれていない。少なくとも、浦原はそう思った。

 向かいの席では、綾小路が開いたページに目を落としたままだった。騒ぎのあいだ、一度もページをめくらず、一度も腰を浮かせなかった。

 あの夜、生徒会長の手首を誰よりも先につかんだ男が、今日は指一本動かさなかった。動く必要がないと、最初から分かっていたかのように。

 

――――――――――

 

「……さっきの人、範囲が違うと言ったわね」

 

 堀北が、手元のプリントを見下ろしたまま言った。

 確かめに行こう、ということになった。昼休みは、まだ20分ほど残っていた。

 職員室の茶柱は、自分の机で書類に目を通していた。堀北が中間テストの範囲を尋ねると、茶柱はペンを置きもせずに答えた。

 

「ああ、範囲か。範囲なら、先週の金曜に変わった」

 

 一拍おいて、茶柱は付け足した。

 

「……伝え忘れていたな」

 

 机の引き出しから、新しい範囲を書いた紙が一枚出てくる。池が「伝え忘れたって……」と言いかけたところで、堀北が紙を受け取った。

 

「行きましょう。文句を言っている時間はないわ」

 

 浦原は一行のあとについて職員室を出ながら、茶柱の声を頭の中でもう一度鳴らした。

 伝え忘れていた。

 居眠りの数を数え、私語の数を数え、遅刻の数を数えていた教師だ。小テストの平均点も、赤点の線も、中間テストまでの日数も、正確に口にした。その教師が、テストの範囲だけを忘れる。

 あの声は、違反を数えていたときと同じ温度だった。

 

(忘れたんじゃない。言わなかったんだ)

 

 先週の金曜。図書室の勉強会が崩れた日だ。その日のうちに範囲は変わっていて、Dクラスはそれを知らないまま、一週間を使った。

 職員室を出たところで、綾小路が櫛田に何か頼んでいた。範囲が変わったことを、クラスのみんなに知らせてほしい、ということらしい。

 五時間目の前、櫛田が教壇に立って、新しい範囲を読み上げた。

 教室のあちこちから悲鳴に近い声が上がった。平田がすぐに立ち上がり、「みんなで手分けして、新しい範囲のまとめを作ろう」と声をかける。ざわめきは、怒りから焦りへ変わっていった。

 浦原の前の席では、松下が教科書を開いていた。櫛田が読み上げた範囲の、最初のページだった。周りの女子が「え、どこからどこ?」と言い合っているあいだに、もう一枚めくっている。

 要領のいい生徒だ。浦原はそれだけ思って、自分の教科書を開いた。

 

――――――――――

 

 その日の放課後、浦原は教室を出たところで呼び止められた。

 

「浦原」

 

 廊下の壁ぎわに、茶柱が立っていた。生徒が教室から出てくるのを待っていたような立ち方だった。

 

「理事長室から呼び出しだ。帰国生の面談だそうだ」

 

「……はい」

 

「入学式の日。四月の終わり。今日で三度目か」

 

 茶柱は指を折りもせず、淡々と数を口にした。

 

「帰国生というのは、手のかかるものだな」

 

「……書類が、いろいろあって」

 

「そうか」

 

 茶柱はそれだけ言うと、浦原に背を向けて歩き去った。

 浦原はその背中を見送った。

 理事長室へ通う回数に気をつけようと決めたのは、四月の終わりにこの教師とすれ違ってからだ。間を空けたつもりだった。だが、茶柱は数えていた。数えていることを、わざわざ浦原に聞かせていった。

 返事が来れば、理事長のほうから帰国生の面談という名目で呼んでくる。それは決めてあったことだ。担任を通して呼ぶのも、手続きとしてはおかしくない。おかしくないからこそ、茶柱の耳にも入る。

 浦原は鞄の底から封筒を取り出して、制服の内ポケットへ移した。二度目の作文が、今日届けられることになった。

 

――――――――――

 

 理事長室のある校舎へは、職員室の前を通って渡り廊下へ抜ける。その途中の廊下で、後ろから声をかけられた。

 

「あ、浦原くん!」

 

 振り返ると、一之瀬が小走りで追いついてくるところだった。腕にプリントの束を抱えている。

 

「……一之瀬、さん」

 

「わ、名前覚えててくれたんだ。お昼はびっくりさせちゃってごめんね」

 

「……いや。助かった」

 

「浦原くんのことは、前から知ってたよ。英語がすっごく上手な帰国子女の男の子がDクラスにいるって、うちのクラスでも噂になってたから」

 

 一之瀬は屈託なく笑った。噂がクラスの外まで届いていることは知っていた。だが、こうして本人の口から聞くと、自分の名前がどこまで歩いているのかを改めて思い知らされる。

 

「浦原くんも、こっちに用事?」

 

「……書類の、手続きで」

 

「そっか、帰国生って大変なんだね。私は星之宮先生に、クラスのプリントを届けに行くとこ」

 

 二人は並んで廊下を歩いた。一之瀬の歩き方には、相手に歩幅を合わせる者の癖があった。

 

「そういえば、テストの範囲のこと、大丈夫だった? あの人たち、範囲が違うって言ってたけど」

 

「……先生に聞いたら、先週の金曜に、変わってたって」

 

「え? Dクラスは、聞いてなかったの? うちは金曜日のホームルームで、星之宮先生から……」

 

 そこまで言って、一之瀬は口をつぐんだ。笑顔がほんの少しだけ曇った。

 

「……ごめん。今の、言わないほうがよかったかな」

 

「……いや。教えてくれて、ありがとう」

 

 浦原は本心からそう言った。

 ほかのクラスは、先週の金曜に知らされていた。茶柱の「伝え忘れた」が、これで忘れたのではないとはっきりした。

 

「Dクラス、今月はポイントが大変だって聞いたよ。だから、ってわけじゃないんだけど……」

 

 一之瀬はプリントの束を片腕に抱え直し、もう片方の手でスマートフォンを取り出した。

 

「もしよかったら、連絡先、交換しない? 困ったことがあったら、いつでも言ってね。クラスは違っても、同じ一年生なんだし」

 

 断る理由はなかった。

 学年じゅうに顔の広い生徒とつながっておけば、ほかのクラスの様子が自然に耳に入ってくる。Bクラスの空気も、星之宮という教師のことも。浦原がいちばん欲しいものを、一之瀬は善意のまま差し出していた。

 画面を合わせて連絡先を交換したあとで、一之瀬がふと浦原の顔を見上げた。

 

「浦原くんって、ちょっと不思議だね」

 

「……何が?」

 

「お昼のとき。須藤くんが相手の襟をつかんで、みんな慌ててたでしょ。浦原くんも、びっくりした顔はしてたんだけど」

 

 一之瀬は首をかしげた。

 

「椅子を、すっと引いてたよね。音を立てないように。それに、目はぜんぜん慌ててなかった。……なんだか、止める準備をしてるみたいに見えたんだ」

 

 浦原の背中を、冷たいものがひとすじ伝った。

 顔には出さなかった。出さなかったはずだ。あの騒ぎの中で、須藤と相手の男子のあいだに割って入りながら、この女子生徒は離れた席の椅子の脚まで見ていたのだ。

 

「……アメリカの学校、ああいうの、わりとあったから。慣れてる、だけだと思う」

 

「そっか、慣れてるんだ。向こうの学校って、そういうの多いって言うもんね」

 

 一之瀬はあっさりうなずいた。疑っている顔ではなかった。

 探っているのではない、と浦原は思った。ただ、見えてしまうのだ。悪意も計算もないまま、人が隠しているものの輪郭が見えてしまう。こういう目は、探る目よりもかえって厄介だった。

 

「あ、でもね。もう一人いたよ、落ち着いてた人」

 

 一之瀬が指を一本立てた。

 

「浦原くんの向かいに座ってた男の子。あの子なんて、ページから顔も上げてなかった。Dクラスって、落ち着いてる人が多いのかな」

 

「……綾小路、かな。あいつは、いつもああだから」

 

「綾小路くん、か。覚えとこ」

 

 浦原はそれ以上、綾小路の話を広げなかった。一之瀬が綾小路を見ていたことは覚えておく。それで十分だった。

 廊下の先に、職員室の扉が見えてきた。浦原は、何気ない調子で聞いた。

 

「……一之瀬さんは、部活とか、入ってるの?」

 

「ううん、部活は入ってないんだ。ほんとは生徒会に入りたくて、申し込んだんだけどね」

 

 一之瀬は明るい声のまま続けた。

 

「会長に、断られちゃった」

 

 笑顔は崩れなかった。ただ、その笑顔が言葉に追いつくまでに、一拍だけ遅れがあった。

 明るい声の下で、扉が一枚、そっと閉まった。浦原にはそんなふうに見えた。何の扉なのかは分からない。分からないまま、浦原はそれを見なかったことにした。

 生徒会長、堀北学。部活動紹介の壇上で、百人を超える新入生を黙らせた男。あの男が、この一之瀬を断った。

 そして、あの夜。綾小路は、その生徒会長の前で腕を見せた。

 

「じゃあ、私はここで。テスト、お互いがんばろうね」

 

 一之瀬は職員室の扉の前で手を振り、中へ入っていった。

 浦原は一人で渡り廊下のほうへ歩き出した。

 生徒会に近づこうとする新入生を、浦原は疑う相手の候補として見てきた。一之瀬の名前も、その名簿から消えたわけではない。だが、工作員なら、図書室で人目を集めてまでけんかを止めはしないだろう。

 疑う相手としては、遠い。味方にするには、目がよすぎる。

 それでも、つながっておく価値のある相手だった。浦原はスマートフォンをポケットにしまい、渡り廊下を抜けて、人けのない廊下のいちばん奥の扉の前に立った。

 

――――――――――

 

「どうぞ」

 

 ノックに返ってきた声は、いつもと同じように穏やかだった。

 理事長室の窓からは、傾きかけた日が差し込んでいた。坂柳理事長は机の向こうで立ち上がり、浦原に椅子をすすめた。

 

「お呼び立てしてすみません。茶柱先生にお願いしたのは、そのほうが面談らしく見えるかと思ったのですが」

 

「……三度目だな、と言われました」

 

「そうですか」

 

 理事長はかすかに目を細めた。それ以上は何も言わなかった。

 浦原は内ポケットから封筒を出して、机の上に置いた。帰国生の作文。二度目の報告だ。理事長は前と同じように中を見ずに、鍵のかかる引き出しへしまった。

 それから、別の引き出しを開けた。出てきたのは、厚みのある事務用の封筒だった。表には、在外教育施設の書類に関する照会、と印字されている。

 

「あなたあての書類が届いています。ここで読んで、ここに置いていってください」

 

 理事長は部屋の隅を目で示した。書類棚の横に、小型のシュレッダーが置いてあった。

 浦原は封筒を開けた。

 中身は、帰国生の手続きに関する事務的な文書に見えた。だが、ところどころに、別班の者だけが読める符丁が混ぜてある。浦原は一枚ずつ、それを頭の中で組み直していった。

 最初の報告で、浦原は綾小路清隆の名前を書いた。別班はそれを受けて、総理を通じて、父親の綾小路篤臣に問い合わせていた。

 父親の答えは短かった。息子は施設を出た。その後の足取りは知らない。

 施設の名は、ホワイトルーム。

 綾小路篤臣が関わる、外からは中が見えない教育施設だった。幼い子どもを集め、学問から武術まで、ありとあらゆるものを詰め込んで育てる。そこで育った者がどんな人間になるのか、別班もまだつかみきれていない。綾小路清隆は、そこで育った。

 そして、施設を出てからこの学校に入るまでの足取りに、空白がある。

 最後の一枚には、別班の見立てが書かれていた。その空白に、シンシーが関わっている可能性がある。施設からの脱出に、外の誰かが手を貸したのではないか。

 浦原はゆっくりと紙を伏せた。

 

(……ホワイトルーム)

 

 寮の裏手で見た動きが、頭の中でよみがえった。首をわずかに傾ける動き。半歩だけ引く足。来たものを、来てから見て、必要な分だけ外すかわし方。

 誰かが時間をかけて、意図して教え込んだもの。あの夜の読みは、外れていなかった。

 だが、その先が問題だった。施設で何を詰め込まれたにせよ、綾小路は施設を出た。出たあとの空白のあいだに、誰が近づいたのか。手を貸した者がいたのなら、その者は見返りに何を求めたのか。

 空白のあいだに取り込まれた人間が、何食わぬ顔でこの学校の教室に座っている。それなら、力を隠していることにも、生徒会長の前で腕を見せたことにも、筋が通る。

 浦原は最後の一枚まで二度読み、すべてを頭に入れてから、紙の束を封筒に戻した。

 

「終わりました」

 

 理事長は封筒を受け取ると、中を見ずにシュレッダーへ差し込んだ。低いモーターの音がして、紙は細い帯になって消えていった。

 音がやむのを待って、浦原は口を開いた。

 

「……ひとつ、聞いてもいいですか」

 

「どうぞ」

 

「この学校は、どんな生徒でも、受け入れるんですか。たとえば、経歴に、空白があるような生徒でも」

 

 理事長は、すぐには答えなかった。

 ほんの一拍だった。目も動かなかった。だが、その一拍のあいだに、答えを選ぶ者の静けさがあった。

 

「この学校は、ここで学びたいと願う生徒に、等しく門を開いています」

 

「……誰かが、その生徒を、外から探していても、ですか」

 

「生徒一人ひとりの事情を、ほかの生徒にお話しすることはできません。それは、あなたについても同じです」

 

 穏やかな声だった。答えになっていない答えだった。

 浦原はそれ以上は聞かなかった。聞いても、この人は同じ声で同じことを言うだろう。ただ、ひとつだけ分かった。理事長は、経歴に空白のある生徒とは誰のことかを、尋ねなかった。尋ねないということは、思い当たる生徒がいるということだ。

 浦原が立ち上がろうとしたとき、理事長が言った。

 

「それから、ひとつお伝えしておくことがあります」

 

 浦原は腰を椅子に戻した。

 

「先日、ある方から、帰国生のあなたの身元について問い合わせがありました」

 

 部屋の空気が、わずかに変わった。

 

「……ある方、というのは」

 

「お名前は申し上げられません。学校としては、生徒の個人的な事柄にはお答えできない、とだけお返事しました」

 

 理事長は机の上で手を組んだ。

 

「入学式の日、あなたは、この学校の生徒を守るために来たと言いましたね。私も同じです。そして、あなたも、この学校の生徒です」

 

「……ありがとうございます」

 

 浦原は頭を下げた。下げたまま、頭の中で糸をたぐった。

 別班は総理を通じて、綾小路篤臣に息子のことを問い合わせた。父親は、誰かが自分の息子を調べていると知った。総理に近いところから、息子の名前が出てきたことも知った。

 では、父親はどこを探すか。

 息子と同じ年に、同じ学校へ入った生徒。その中に、政府の依頼で入学した者がいないか。経歴の届け出に、外国での暮らしが書かれた者がいないか。

 帰国生の浦原大輔は、その網にいちばん引っかかりやすい場所にいた。

 

(探り返された)

 

 問い合わせてきたのが綾小路篤臣本人なのか、その手の者なのか。そこまでは分からない。ただひとつ確かなのは、学校の外の誰かが、浦原大輔という名前に目を留めたということだった。

 

――――――――――

 

 理事長室を出ると、廊下の窓の外はもう夕方の色に変わっていた。

 職員室の前を通り過ぎるとき、浦原は中をのぞかなかった。一之瀬がまだいるのかどうかも確かめなかった。

 寮へ戻る並木道の途中で、ポケットのスマートフォンが震えた。

 一之瀬からのメッセージだった。今日はありがとう、テストお互いがんばろうね、という短い文に、笑った顔の絵文字がひとつついている。

 浦原は短く返事を打った。こちらこそ、ありがとう。それだけだ。

 画面を消すと、暗くなった画面に自分の顔が映った。

 入学してひと月半。浦原は教室の四十人を、ずっと見る側にいるつもりだった。誰が嘘をつき、誰が力を隠し、誰がシンシーとつながっているのか。名簿を作り、印をつけ、疑いを並べてきた。

 だが、今日一日で、それがどこまで本当だったのか分からなくなった。

 来た回数を数えていた担任。椅子の脚の動きまで見ていた、善意の目。そして、名前も顔も分からないまま、学校の外から浦原大輔の身元を問い合わせてきた誰か。

 調べる側にいたはずの自分が、いつのまにか、調べられる側にも立っている。

 浦原はスマートフォンをポケットにしまい、寮の明かりのほうへ歩き出した。

 

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