週が明けた月曜日、5月18日。中間テストまで、あと四日だった。
週末のあいだに、浦原は二つのことを決めていた。
ひとつは、理事長室へはしばらく行かないこと。茶柱が数えている以上、次の報告は本当に急ぐときまで持っておく。
もうひとつは、浦原大輔という生徒の輪郭を、今まで以上にぼかすことだった。学校の外の誰かが、その名前に目を留めた。問い合わせてきたのが誰であれ、次に何を調べに来るかは分からない。帰国子女で、英語が得意で、少し口の重い、どこにでもいる新入生。その外側に、はみ出すものを作ってはいけない。
午前中の休み時間は、これまでどおり池の英語で埋まった。
「浦原、これ。過去形のedって、つくやつとつかないやつがあるじゃん。あれ何なの」
「……つかないやつは、覚えるしかない。表にしてある」
「出たよ、覚えるしかないやつ」
池は文句を言いながらも、浦原が作った不規則動詞の表をノートに写していった。写し終えると、前よりずっと少ない数の丸をつけたプリントを、得意げに見せてくる。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室の何人かが図書室へ向かう支度を始めた。その中で、綾小路と櫛田だけが違う方へ歩いていった。図書室とは反対の、食堂へ下りる階段のほうだ。
「池、先に図書室に行ってて。……昼、買ってから行く」
「おう」
池にそう言い置いて、浦原は財布代わりの学生証をポケットに入れて、少し遅れて教室を出た。
廊下は、昼休みの生徒であふれていた。
浦原は二人の背中をまっすぐには追わなかった。あいだに四、五人の生徒を挟み、目は前を歩く生徒の肩のあたりに置く。人の流れに乗って歩いているかぎり、誰かの後ろを歩いていることは、誰の目にも特別なことにはならない。
見失う心配はなかった。ひと月半、同じ教室で見てきた背中だ。人波に紛れて頭が見えなくなっても、肩の揺れ方で分かる。
階段の踊り場で、浦原は一度だけ足をゆるめた。踊り場の大きな窓ガラスに、下の階へ折り返していく二人の姿が映っている。櫛田が何か話しかけ、綾小路がうなずく。二人とも、後ろを気にするそぶりはない。
ただ、気にしていないように見えるのと、本当に気にしていないのとは違う。綾小路は、気にしていないように見せることのできる男だ。浦原は窓から目を離し、手すりにもたれて友達を待つ生徒のふりを数秒だけ挟んだ。
二人が食堂の正面の入口へ入っていくのを、浦原は階段の下から見届けた。
同じ入口は使わなかった。廊下をもう少し先まで歩き、奥にあるもうひとつの入口へ回る。正面の入口の天井には、入ってくる者の顔を正面からとらえるレンズがある。奥の入口のレンズは券売機のほうを向いていて、入ってくる者の顔は斜めにしか映らない。入学二日目にこの食堂へ来たとき、確かめておいたことだった。
二人が入ってから、一呼吸ぶんの間を置いた。同じ時刻に、同じ入口から、同じ教室の生徒が続けて入る。それだけで、あとから見れば偶然では済まなくなる。
昼どきの食堂は混んでいる。新入生が一人で昼食を買いに行くのは、何も珍しいことではない。
――――――――――
食堂は相変わらずにぎやかだった。
浦原は券売機の列に並びながら、入口から見える範囲を目で一周した。
綾小路と櫛田は、まだ席に着いていなかった。二人は食堂の端の、配膳口がよく見える場所に立っている。櫛田が何か話しかけ、綾小路が短く答える。綾小路の目は櫛田ではなく、配膳口に並ぶ生徒たちのほうを向いていた。
浦原も、同じものを見た。
盆を受け取って席へ向かう上級生たち。その中に、山菜定食の盆を持った者が何人かいる。値段の欄に「0」と書かれた、あの定食だった。
入学二日目の昼、浦原はこの食堂で、上級生たちの会話を聞いている。今月も山菜かよ。来月こそは。
綾小路が動いた。
山菜定食の盆を持った三年生らしい男子生徒が、窓際の空いた席に座る。綾小路は櫛田を連れて、その向かいの席に腰を下ろした。
浦原は列の前へ進み、ありふれた日替わりの定食を選んだ。盆を受け取り、三人の席から斜めに離れた、柱の陰になる席に座る。ここなら、こちらの顔は柱に半分隠れる。向こうの手元は見える。天井のレンズから見れば、柱の向こうで一人昼食をとっている、ただの新入生だ。
声は届かなかった。
話しているのは、ほとんど綾小路だった。上級生は最初、警戒するように眉を寄せていた。櫛田が笑って何か言い添えると、その眉が少しゆるむ。上級生が指を一本立て、綾小路が首を横に振る。上級生が指をもう一本立てかけて、やめた。
(……値段の交渉か)
やがて、上級生と綾小路がそれぞれスマートフォンを取り出した。画面を確かめ合うようにして、短く操作する。上級生の顔に、山菜定食を前にした人間らしくない、満足げな色が浮かんだ。
ポイントが動いたのだ。
何を買ったのかは見えない。上級生の手元から何かが渡された様子もない。物の受け渡しは、あとでどこか別の場所でやるのだろう。
「あ、浦原くんだ」
すぐ横で声がして、浦原は箸を止めた。
盆を持った一之瀬が、友達らしい女子生徒たちと通りかかるところだった。一之瀬は小さく手を振った。
「この前はありがとね。テスト勉強、がんばってる?」
「……うん、まあ」
「そっか。じゃあ、またね」
一之瀬はそれだけ言って、友達と一緒に少し離れた席へ歩いていった。
浦原は箸を動かしながら、今の数秒を頭の中で巻き戻した。
一之瀬が声をかけてきたとき、浦原の目はどこを向いていたか。窓際の席だ。柱の陰から、綾小路の手元を見ていた。一之瀬の位置から、それが見えたかどうか。
見えていたかもしれない。見えていなかったかもしれない。一之瀬の顔には、何も浮かんでいなかった。何も浮かんでいなかったからこそ、どちらとも決められなかった。
(……あの目は、厄介だな)
浦原は日替わりの定食に目を落とし、しばらく窓際を見ないようにした。
次に顔を上げたとき、浦原は別のものに気づいた。
窓際の三人から、さらに離れた奥の席。小柄な女子生徒が一人、ほとんど手のつけられていない盆を前に座っている。椅子の背には、細い杖が立てかけてあった。
色の淡い髪。人形のように整った横顔。向かいの席には、もう一人女子生徒がいて、退屈そうにスマートフォンをいじっている。
杖の女子生徒は、窓際の席を見ていた。
正確には、綾小路を見ていた。
浦原はその顔を知っていた。会うのは初めてだが、知っていた。潜入の前の下調べで、理事長の娘が今年この学校に入学することも、杖をついていることも頭に入れてある。入学の日には、掲示板の名簿で、その名前がAクラスの欄にあるのを確かめた。
坂柳有栖。
坂柳の目に、熱はなかった。好意でも、敵意でもない。珍しい形の石を拾い上げて、光にかざして眺めるような目だった。
綾小路は気づいていない。少なくとも、気づいたそぶりは見せていない。櫛田も上級生も、もちろん気づいていない。
浦原はゆっくりと汁物の椀を口に運んだ。
理事長室で読んだ紙が、頭の中によみがえる。施設を出てから入学するまでの空白。その空白に、シンシーが関わっている可能性。
もし綾小路がその空白のあいだに取り込まれていたのなら、学校の中に、綾小路の様子を見る者がいてもおかしくない。連絡役だ。その連絡役が、理事長の娘だとしたら。
理事長室にはカメラがない。理事長の娘なら、その部屋に出入りしても誰も怪しまない。
(……まだ、決めつけるな)
浦原は自分に言い聞かせた。一度目にしただけだ。坂柳はただ、Dクラスの地味な男子生徒が上級生と取引をしているのを、面白がって見ているだけかもしれない。
だが、面白がって見る理由は何だ。何十人もいる食堂で、なぜ綾小路なのか。
坂柳は、やがて綾小路から目を外した。向かいの女子生徒に何か言い、杖を手に取って、ゆっくりと立ち上がる。足取りは遅かったが、迷いはなかった。食堂を出ていくまで、坂柳は一度も浦原のほうを見なかった。
窓際では、綾小路と櫛田も席を立つところだった。上級生は山菜定食の残りを、さっきよりずっと機嫌のよさそうな顔で口に運んでいた。
――――――――――
その日の午後の授業を、浦原はほとんど聞いていなかった。
聞いているふりをしながら、頭の中では、ひと月前の小テストの問題用紙を広げていた。
五科目から四問ずつ、全二十問。最初の十七問は、中学の復習のような問題だった。最後の三問だけが、桁違いに難しかった。高校に入ってひと月の生徒に解かせる問題ではない。あのとき浦原は、解かせるための問題ではないのかもしれない、と考えた。そこで考えるのをやめていた。
解かせるためでないのなら、何のためにある。
答えの手前まで来て、浦原は今日の食堂を思い出した。
ポイントに困っている上級生。山菜定食を食べている三年生。その三年生も、二年前の4月には、同じように小テストを受けたはずだ。
(……毎年、同じ問題なのか)
もし小テストが毎年同じ問題なら、最後の三問は、解けない者をふるい落とすためのものではない。上級生から前の年の問題を手に入れた者だけが、答えを知っている。そういう問題だ。
そして、中間テストも同じだとしたら。
浦原は教科書のページをめくるふりをした。
この学校は、最初の日から一度も「上級生と話すな」とは言っていない。ポイントの使い道に決まりがあるとも、聞いた覚えはない。
問題そのものを、上級生から買う。それは、この学校では反則ではないのだ。むしろ、そうやって手に入れられるかどうかを試しているのかもしれない。
綾小路は、それに気づいた。気づいたうえで、まっすぐ山菜定食の列を見た。ポイントに困っている上級生なら、安く売ってくれる。そこまで読んでいた。
(……あいつは、どこまで見えている)
浦原は、クラスには何も言わないと決めた。
帰国子女の浦原大輔が、小テストの仕組みから過去問の存在を見抜く。それは、浦原大輔の外側にはみ出すことだ。それに、言う必要もなかった。綾小路が買ったのなら、それはいずれクラスに回ってくる。回ってこなければ、そのときに考えればいい。
――――――――――
5月21日、木曜日。中間テストの前日だった。
帰りのホームルームが終わり、茶柱が教室を出ていくと、櫛田が教壇に立った。
「みんな、ちょっとだけいいかな。実は、テストに役立ちそうなものを手に入れたの」
櫛田が配り始めたのは、コピーの束だった。上級生が去年受けた、1年生の一学期の中間テストの問題だという。知り合いの先輩に頼んで、譲ってもらったのだと櫛田は言った。
「もしかしたら、似た問題が出るかもしれないから。今夜、一回だけでも解いてみて」
教室がわっと沸いた。
「櫛田ちゃん、マジ天使!」
「先輩にまで顔が広いとか、さすがすぎる」
池が叫び、何人もの声がそれに続いた。櫛田は照れたように笑い、一人ひとりにコピーを手渡していった。
浦原の席にも一部が回ってきた。
浦原は「ありがとう」と小さく言って受け取りながら、教室の窓際に目をやった。綾小路は自分の分のコピーを、ほかの生徒と同じように受け取っていた。礼を言うわけでも、何か言いたげにするわけでもない。手に入れた者の顔ではなかった。
(手柄を、人に渡したのか)
知り合いの先輩、と櫛田は言った。だが浦原は、月曜日の食堂で、その先輩の向かいに座っていたのが誰だったかを知っている。話していたのは、ほとんど綾小路だった。
綾小路は手に入れたものを、自分の名前ではなく、櫛田の名前でクラスに配った。人気者の櫛田からなら、誰も疑わずに受け取る。そして、綾小路という名前はどこにも残らない。
浦原が同じ立場でも、そうしただろう。
そのことが、かえって浦原を落ち着かなくさせた。
寮の部屋に戻ってから、浦原はコピーの束を机に広げた。
一枚ずつ見ていくうちに、答えの手前で止まっていた考えが、最後まで形になった。問題の並び方、問い方の癖、配点。どれも、ひと月前の小テストとよく似た作りをしていた。この学校のテストは、毎年ほとんど同じ問題が出るのかもしれない。確かめる方法は、明日のテストしかない。だが、綾小路がポイントを払ってまで買ったものだ。外れだとは思えなかった。
それなら、明日、クラスの点数は大きく跳ね上がる。
浦原は鉛筆を取り、紙の端に数字を書いた。
4月の小テストの平均は64.4点。赤点の線は32点で、平均点のほぼ半分だった。あの線の引き方が中間テストでも同じなら、平均が上がれば、線も一緒に上がる。
過去問がクラスに行き渡れば、平均は少なく見積もっても80点に近づく。その半分。
(……線は、40点前後か)
浦原は自分の点数を考え直した。
もともとは、英語で高い点を取り、ほかの科目は平均の少し下に置くつもりだった。だが、平均そのものが大きく上がるのなら、「平均の少し下」もそれに合わせて上げなければならない。過去問を配られたクラスの中で、一人だけ点数が伸びない生徒。それもまた、はみ出すことだ。
英語は90点台。ほかの四科目は、70点台の後半。浦原は紙の端の数字を消しゴムで消した。
ほかの生徒の顔が、ひとつずつ浮かんだ。池は大丈夫だろう。この二週間で、あの男の英語は見違えた。山内も、ぎりぎりのところで踏みとどまるはずだ。
須藤は。
須藤の英語だけが、どうしても読めなかった。
――――――――――
5月22日、金曜日。中間テストの日。
朝のホームルームで、茶柱は問題用紙の束を教卓に置いてから言った。
「中間テストと、7月の期末テスト。この二つで退学者を一人も出さなければ、夏休みにクラス全員をバカンスに連れていってやる」
教室がざわついた。池が「マジかよ」と身を乗り出す。
浦原は表情を変えずに、その言葉を頭の中の名簿の脇に書き留めた。
この学校が、ただで生徒を遊ばせるとは思えない。生徒を集めて、学校の外へ連れ出す。そこで何かを試すのだとしても、少しも不思議ではなかった。
テストは午前中から始まった。
一時間目、二時間目、三時間目。休み時間のたびに、廊下や教室の隅で「あれ、昨日のやつと同じじゃなかった?」という声がした。過去問とそっくり同じ問題が、いくつも出ていた。顔を上げる生徒たちの表情が、時間を追うごとに明るくなっていく。
浦原は決めたとおりに解いていった。どの科目も、解ける問題を解かずに残すのは簡単だった。難しいのは、残し方が不自然にならないようにすることだ。
四時間目が終わり、残りは英語だけになった。
その休み時間、教室の後ろで須藤が頭を抱えていた。
「……やべえ。英語、ほとんど見てねえ」
池が振り返った。
「は? 昨日、過去問配られただろ」
「寝ちまったんだよ。部活のあと、ちょっと横になったら、朝だった」
須藤の声は、いつもの荒っぽさがなかった。机の上に開いた英語の過去問には、ほとんど書き込みがない。
堀北が須藤の席の前に立った。
「休み時間は、あと10分あるわ。過去問の英語で、配点の大きい問題から覚えなさい。答えだけでいい」
須藤は顔を上げた。言い返す余裕も、もうなかった。
堀北が浦原のほうを振り向いた。
「浦原くん。英語の問題の中で、過去問とそっくり同じに出そうなものを選んで」
浦原はうなずいて、須藤の机の横にかがんだ。
「……長文は、捨てる。ここと、ここ。それから、ここの並べ替え。この三つだけ、答えを丸ごと覚える」
「三つだけでいいのか」
「……三つだけ。全部やろうとすると、全部こぼれる」
浦原は答えの部分を指でなぞった。須藤は唇を動かして、それを繰り返した。一度目は半分しか言えなかった。二度目は、最後の単語が抜けた。三度目で、ようやく全部が口から出た。
浦原は須藤の横顔を見ていた。
覚えが悪いわけではない。池と同じだ。覚え方を教わってこなかっただけで、言われたことは、言われたとおりに頭に入れようとしている。ただ、時間が足りなかった。
あと二日。いや、あと一日あれば。
チャイムが鳴った。須藤は小さく舌打ちをして、過去問を机の中にしまった。
英語の問題用紙が配られた。
浦原は自分の答案を、予定どおりの点数になるように埋めていった。途中で一度だけ、斜め後ろの須藤の気配をうかがった。鉛筆の音は、ときどき止まり、また動き、また長く止まった。
――――――――――
テストが終わると、教室は解放された声でいっぱいになった。
「終わったー!」
「昨日の過去問、ほんとにそのまま出たよな」
「櫛田ちゃんのおかげだって、マジで」
池は浦原の席まで来て、両手で浦原の肩を揺さぶった。
「浦原、英語、めっちゃ書けた! edのとこも、表のやつ全部出た!」
「……よかった」
「デートは俺のもんだな、これは」
池が胸を張り、山内が「いや俺だろ」と割り込む。櫛田が困ったように笑っていた。
教室の後ろでは、須藤が机に突っ伏していた。
堀北がその前に立った。何か言うのかと、近くの何人かが息をひそめた。
「……須藤くん。あなた、よくやったわ」
須藤が顔を上げた。
「最初に、ひどいことを言ったわね。……ごめんなさい」
堀北はそれだけ言うと、自分の席へ戻っていった。
須藤はしばらく、その背中をぽかんと見ていた。それから急に耳まで赤くなって、また机に突っ伏した。
浦原はその光景を、少し離れたところから見ていた。
二週間前の図書室では、この二人が椅子を倒して言い争っていた。人は、ひと月半でこれだけ変わる。15歳なら、なおさらだ。
須藤が突っ伏したまま、くぐもった声で池に言うのが聞こえた。
「……英語、半分くらいしか書けてねえ。覚えたとこは、出たけどよ」
「半分なら大丈夫だろ。前の小テストの赤点、32点だったし」
「……だよな」
池の明るい声に、須藤は少しだけ安心したように息を吐いた。
浦原は何も言わなかった。
ゆうべ紙の端に書いて、消した数字を思い出していた。
4月の線は32点だった。だが、それは平均が64.4点だったときの線だ。今日、クラスの平均は大きく跳ね上がる。過去問とそっくりの問題が、あれほど出たのだから。
線は、きっと40点のあたりに引かれる。
そして須藤の英語は、その線のすぐそばにいる。
浦原は自分の筆箱のふたを閉めた。
教室の窓際で、綾小路が窓の外を眺めていた。テストが終わった安堵の輪にも、須藤のほうにも目を向けずに。
あの男も、同じ数字を見ているのだろうか。
答え合わせは、結果が張り出される日まで持ち越しだ。