6月に入って最初の週の朝、茶柱は筒状に丸めた紙を何本も抱えて教室に入ってきた。
ひと月前、同じように丸めた紙が黒板に広げられた日のことを、教室の誰もが覚えている。私語がすっと引いていった。
「中間テストの結果を発表する」
茶柱は一本目の紙を黒板に広げた。国語の点数が、上から順に並んでいる。
最初に声を上げたのは池だった。
「うわ、100点、何人いんだよ」
満点の欄に、名前がいくつも並んでいた。二本目の数学も、三本目の英語も同じだった。過去問とそっくりの問題が、あれだけ出たのだ。教室のあちこちで、ため息まじりの歓声が上がった。
浦原は自分の名前を探すより先に、一枚ずつ全体を見ていった。
英語の欄で、池の名前は上から数えたほうが早い場所にあった。88点。
「浦原! 見ろよ、88! 俺、英語で88!」
池が振り返って、両手を上げた。
浦原は小さくうなずいた。
「……すごいな」
それは本心だった。playsのsも知らなかった男が、ひと月足らずでここまで来た。過去問のおかげもある。それでも、覚えたのは池自身だ。
浦原の名前は、英語で94点。ほかの四科目は、どれも70点台の後半に並んでいた。どの欄でも、上からも下からも目立たない場所だ。予定どおりだった。
浦原の目は、英語の欄のいちばん下へ向かった。
須藤健。39点。
茶柱が赤いペンのキャップを外した。
「さて。今回の赤点の線だが」
茶柱は英語の紙の前に立ち、須藤の名前のすぐ上に、一本の赤い線を引いた。
「今回の赤点は40点だ。クラス全体の平均点、79.6点の半分を四捨五入した」
教室から音が消えた。
「須藤。お前は退学だ」
須藤が椅子から腰を浮かせかけ、そのまま固まった。顔から血の気が引いていくのが、離れた席からでも分かった。
浦原は膝の上で、指を一本ずつ握り込んだ。
(……40点)
読みは当たっていた。紙の端に書いて、消した数字だ。
当たったところで、何の役にも立たなかった。
「待ってください、先生」
平田が立ち上がった。
「1点です。たった1点じゃないですか。須藤くんは、ほかの科目は赤点じゃありません。何か、救済の方法は」
「ない。決まりは決まりだ」
「先生、須藤、めっちゃ頑張ってたんすよ!」
池が叫んだ。堀北までが立ち上がって、何か言いかけた。
茶柱は誰の顔も見なかった。
「話は以上だ。須藤、放課後に職員室へ来い。手続きの説明をする」
茶柱は紙を巻き取りもせずに、教室を出ていった。
残された教室は、ひと月前の5月1日よりも静かだった。
須藤は机の一点を見たまま動かなかった。池が何度か口を開きかけ、そのたびに閉じた。櫛田が両手で口元を押さえている。
浦原は須藤の横顔を見ていた。
あの休み時間、三つだけ覚えろと言った。全部やろうとすると全部こぼれる、と。須藤はそのとおりにした。三度目で、ようやく全部が口から出た。
三つではなく、四つだったら。いや、長文の最初の設問だけでも拾わせていれば。
(……教え方を、間違えた)
1点だった。浦原が教えきれなかった、たった1点だった。
そのとき、窓際の席で椅子を引く音がした。
綾小路が立ち上がり、誰に何を言うでもなく、教室を出ていった。トイレにでも行くような、気の抜けた歩き方だった。誰も気に留めなかった。
浦原以外は。
――――――――――
浦原は数えた。十まで数えて、席を立った。
須藤のことで頭がいっぱいの教室で、もう一人が出ていくのを気にする者はいない。
廊下に出ると、茶柱の姿はもうなかった。綾小路の背中も見えない。だが、職員室へ戻るなら、階段は左だ。茶柱がまっすぐ職員室へ帰るとは思えなかった。あの教師は、誰かが追ってくるのを待つ。5月1日に綾小路を呼び出したときも、職員室ではなく廊下の奥へ連れていった。
浦原は右へ曲がった。
特別教室の並ぶ人けのない廊下の角で、浦原は足を止めた。角の向こうから、声がする。
「――先生は、この社会が平等だと思いますか」
綾小路の声だった。教室で聞くどの声とも違う、平らな声だった。
「思わないな」
「俺もです」
浦原は壁に背を寄せた。廊下の天井のレンズは、角の手前と向こうをそれぞれ映している。角のちょうど真下は、どちらのレンズからも外れる。この廊下も、前に確かめてあった。
「過去問を手に入れたのは、お前だな、綾小路」
「さあ。櫛田が配ってましたけど」
「とぼけるな。……よくやった、とは言っておく」
短い沈黙があった。
「範囲の変更を、Dクラスにだけ伝えなかったのも、わざとですよね」
「否定はしない」
「なら、学校に訴えます」
「訴えたところで、須藤の退学は覆らない。この学校のルールの中では、な」
「ルールの中で、なら」
綾小路の声が、少しも変わらないまま続いた。
「先生。須藤の英語の点数を、1点だけ売ってもらえませんか」
浦原は息を止めた。
(……点数を、買う?)
ポイントの使い道に、決まりはない。過去問を上級生から買えるのなら、点数そのものを学校から買えてもおかしくない。
角の向こうで、茶柱が小さく笑う気配がした。
「面白いことを考える。いいだろう。1点、10万ポイントだ」
「……10万」
「どうした。払えないのか」
綾小路の答えは、すぐには返ってこなかった。
浦原は自分の学生証の残高を、頭の中で確かめた。入学の日の10万のうち、使ったのは半分足らず。5月も6月も、振り込みは0だった。それでも、まだ5万あまりが残っている。
ここで出ていく理由を、浦原は一瞬で並べた。
ひとつ。須藤は一緒に勉強会をした仲間だ。あの1点を教えきれなかったのは、英語の係の浦原だった。
ひとつ。クラスの信頼だ。いつか工作員の正体をつかんだとき、浦原はその生徒を、この学校から退学させなければならない。そのとき、クラスの誰からも信用されていない帰国子女の言うことを、誰が聞くか。仲間のために身銭を切った生徒の言うことなら、聞く者もいる。
出ていかない理由も、ひとつだけあった。目立つ。
浦原は、角を曲がった。
「……あの」
茶柱が顔を上げた。綾小路は振り返らなかった。
「……俺も、出します。須藤の、1点」
茶柱の眉が、ほんのわずかに動いた。この教師が表情を変えるのを、浦原は初めて見た。
「浦原。立ち聞きか」
「……すみません。英語、教えたの、俺なんで。……三つしか、教えられなかったから」
綾小路がようやくこちらを見た。
驚いた顔ではなかった。少なくとも、浦原にはそう見えた。角の向こうに誰かがいることを、最初から知っていた者の顔だ。浦原は音も立てず、影も落とさず、レンズの外で待っていたはずだった。
二人の目が、一瞬だけ合った。
綾小路の目の中に、何かが動いた。それが何なのかを確かめる前に、背後から別の足音が近づいてきた。
「私も出すわ」
堀北だった。息ひとつ乱さず、茶柱の前まで歩いてくる。
「三人で払えば、足りるでしょう」
茶柱は三人の顔を順に見た。それから、今度ははっきりと口の端を上げた。
「いいだろう。三人分、まとめて受け取ろう」
浦原が3万。残りを、綾小路と堀北が出した。学生証を端末にかざすと、残高の数字が音もなく減った。
「須藤の英語は40点に訂正しておく。退学はなしだ」
茶柱は端末をしまい、三人に背を向けた。
「綾小路、堀北。お前たちなら、もしかするとAクラスに手が届くかもしれんな」
去り際に、茶柱は一度だけ振り返った。目は浦原に向いていた。
「浦原。お前はよく顔を出すな。理事長室に三度、今日で四度目だ」
それだけ言って、茶柱は廊下の奥へ消えていった。
残された三人は、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に動いたのは堀北だった。「先に戻るわ」とだけ言って、教室のほうへ歩いていく。綾小路もそのあとに続きかけて、ふと浦原を見た。
「……戻らないのか」
「……トイレ、寄ってから」
綾小路は何も言わずにうなずき、堀北のあとを追っていった。
三人がそろって教室に戻れば、誰かが何かに気づく。浦原は本当にトイレに寄り、手を洗い、鏡の中の浦原大輔の顔を確かめてから、二人より5分遅れて教室に戻った。
――――――――――
須藤の退学が取り消されたことは、その日の帰りのホームルームで茶柱の口から告げられた。理由は「事情が変わった」とだけだった。
教室は沸いた。須藤は机に突っ伏したまま、しばらく顔を上げなかった。
その夜、浦原のスマートフォンが震えた。
一之瀬からのメッセージだった。
『Dクラス、大丈夫だった? 退学になりそうな子がいるってうわさを聞いて、心配になっちゃって』
浦原は少し考えてから、返事を打った。
『大丈夫だった。ありがとう』
すぐに、ほっとした顔の絵文字が返ってきた。
『よかった! 何かあったら、ほんとにいつでも言ってね』
浦原は画面を消した。
Dクラスの退学騒ぎは、その日のうちにBクラスまで届いている。噂の早さも、一之瀬の耳のよさも、覚えておくことにした。
――――――――――
翌日の放課後、綾小路の部屋で祝勝会が開かれた。
言い出したのは池だった。誘われたのは勉強会の顔ぶれで、浦原にも「英語係は強制参加な」というメッセージが届いた。
寮の一室に、七人が詰め込まれた。床に菓子の袋が広げられ、紙コップにジュースが注がれていく。
「堀北さん、ほんっとにありがとう!」
池が床に手をついて頭を下げた。山内がそれにならい、須藤までが、大きな体を縮めるようにして頭を下げた。
「……助かった。マジで」
「礼を言われるようなことはしていないわ」
「いやいや、でもさ、どうやって退学取り消させたんだよ。教えてくれよ」
「秘密よ」
堀北はそっけなく言って、紙コップに口をつけた。
そのとき、部屋の隅でスナック菓子をつまんでいた綾小路が、ぽつりと言った。
「浦原も、ポイントを出してくれた」
部屋が静かになった。
全員の目が、浦原に集まった。
「え……マジで?」
「浦原、お前……」
浦原はとっさに、浦原大輔の顔を作った。少し困ったような、居心地の悪そうな顔だ。
「……英語、教えたの、俺だから。……教えきれなかった分」
須藤が浦原の前に来た。
何か言おうとして、うまく言葉にならないようだった。須藤は頭をがしがしとかき、それから、ぶっきらぼうに右手を差し出した。
「……借りは、返す」
浦原はその手を見た。大きな手だった。バスケットボールのたこがある。
握り返した。
「……別に、いい」
「よくねえよ」
「浦原ー! お前、いいやつかよ!」
池が後ろから浦原の首に腕を回した。櫛田が「浦原くん、かっこいい」と笑い、山内がなぜか悔しがる。部屋の空気が、もう一度ほどけていった。
ひとしきり騒いだあとで、櫛田が楽しそうに言った。
「そういえばね、堀北さんと綾小路くん、Aクラスを目指してるんだって」
「は? Aクラス? 俺らが?」
池が目を丸くした。山内が「無理だろ、0ポイントだぞ」と笑う。
「テストの点数だけで、クラスの順位が決まるわけじゃないわ」
堀北は紙コップを置いて、淡々と言った。
「この学校は、私たちの何もかもを見て、点をつけている。だったら、取り返す方法もあるはずよ」
浦原は黙って聞いていた。何もかもを見て、点をつけている。それは、この学校に来た最初の日から、浦原が考えてきたことだった。
浦原は池の腕に揺さぶられながら、手の中にまだ残っている須藤の手の熱を感じていた。
信頼を得るために、身銭を切った。それは本当だ。いつか工作員を退学させるとき、この手が浦原の言葉を信じてくれるかもしれない。そう計算したのも本当だった。
それでも、須藤が頭を下げたとき、浦原の中で動いたものは計算ではなかった。
15歳のころの自分には、こういう部屋がなかった。
浦原はその考えを、紙コップのジュースと一緒に飲み込んだ。
部屋の隅に目をやると、綾小路がスナック菓子の袋に手を伸ばしているところだった。誰も、綾小路のほうを見ていない。
綾小路は、自分の名前を出さなかった。堀北は秘密だと言い、綾小路は浦原の名前だけを出した。部屋じゅうの目が浦原に集まったぶん、誰の目も綾小路に向かなかった。
過去問を櫛田の手柄にしたのと、同じやり方だ。
(……盾にされたか)
――――――――――
祝勝会がお開きになったのは、寮の門限が近づいたころだった。
池たちが騒がしく廊下へ出ていき、櫛田が堀北を引っぱるようにして続く。浦原は最後に靴を履いた。
部屋の主が、戸口で見送っていた。
「……ごちそうさま」
「ああ」
浦原は廊下に出かけて、足を止めた。振り返らずに言った。
「……どうして、俺の名前を出した」
少しの間があった。
「本当のことだろ」
綾小路の声は、教室で聞くときと同じように平らだった。
「浦原こそ。どうして、あそこにいたんだ」
「……英語係、だから」
「そうか」
それ以上、どちらも何も言わなかった。
背中で扉の閉まる音がした。
浦原は廊下を歩きながら、廊下の角で一瞬だけ合った綾小路の目を思い出していた。
驚いていなかった。最初から、角の向こうに浦原がいると知っていた目だ。
そして、浦原が角を曲がったとき、あの目の中で動いたもの。
あれは警戒だった。
同じものを見て、同じ場所で待ち、同じ答えを出した相手に向ける警戒だ。浦原が綾小路に向けているのと、同じ種類のものだった。