5月1日を境に、教室は目に見えて変わった。
始業のチャイムのあとに入ってくる者は、ほとんどいなくなった。授業中に机の下でスマートフォンをいじる者も、居眠りをする者も、数えるほどに減った。私語が始まりかけると、近くの誰かが目で止める。ひと月前には考えられなかった光景だ。
0という数字は、どんな説教よりもよく効いたらしい。
ただ、変わらない者もいた。
須藤は相変わらず授業の半分を机に突っ伏して過ごしていた。もう誰も笑って見過ごしはしない。それでも、面と向かって注意する者もいなかった。須藤の背中に向けられる視線だけが、日ごとに冷たくなっていく。
平田が放課後の勉強会を始めた。
「中間テストまで、もう三週間もないからね。分からないところはみんなで教え合おうと思うんだ。誰でも歓迎だよ」
平田は教室に残った一人ひとりに声をかけて回り、浦原の席にも来た。
「浦原くんも、よかったらどうかな。英語が得意な人がいてくれると、すごく助かるんだけど」
「……ありがとう。でも、一人でやるほうが性に合ってて」
「そっか。気が向いたら、いつでも来てね」
平田は気を悪くした様子もなく笑って、次の席へ移っていった。初日から十人ほどが集まった。
平田の勉強会に須藤、池、山内の姿はなかった。三人とも、平田に誘われたときには「パス」と手を振っていた。赤点の線の下にいた七人のうち、肝心の三人が一番勉強から遠いところにいる。
(……あの三人は、このままだと落ちるな)
浦原はそれを他人事として考えた。考えるだけで、何もしなかった。
――――――――――
5月7日の昼休み、教室で小さなざわめきが起きた。
堀北が自分から隣の席の綾小路に声をかけたのだ。何かを短く言い、綾小路が少し迷うような顔で立ち上がる。二人はそのまま連れ立って教室を出ていった。
「え、堀北さんが誘ったの?」
「綾小路、ああ見えてやるなあ」
あちこちで冷やかし半分の声が上がる。浦原は昼食のパンの袋を開けながら、二人の背中が廊下の角に消えるのを目の端で見送った。
堀北が、誰かを昼食に誘う。入学してひと月、浦原は一度も見たことがなかった。誘われた側が綾小路だというのも、偶然ではないだろう。5月1日の放課後、二人は同じ廊下の奥へ消えていった。
その日の放課後、帰り支度をしていた浦原の席に櫛田がやってきた。
「浦原くん、ちょっといいかな」
櫛田の声に、まだ教室に残っていた何人かが顔を上げた。
「明日から、須藤くんたちと勉強会をすることになったの。綾小路くんと堀北さんが、あの三人のために開くんだって。私も入れてもらうことになったんだけど……英語を、浦原くんに教えてほしくて」
「……俺が?」
「うん。前に、英語教えてほしいって言ったの、覚えてる? あれ、本当にお願いしたくて。須藤くんたち、英語が一番苦手みたいなんだ。お願い!」
櫛田は両手を顔の前で合わせてみせた。
周りの視線が浦原に集まっていた。櫛田の頼みを断る生徒は、このクラスにはまずいない。ここで断れば、浦原大輔はクラスの人気者の頼みを断った帰国子女として、しばらく人の口にのぼることになる。
それに、と浦原は思った。
綾小路と堀北が開く勉強会。二人を、すぐ近くで見られる場所だ。
「……俺でよければ。英語だけなら」
「やった! ありがとう、浦原くん。堀北さんには、私から話しておくね」
櫛田はぱっと顔を輝かせて、軽い足取りで自分の席へ戻っていった。
平田の誘いを断ったのは、数日前のことだ。今日は櫛田の頼みを引き受けた。順番だけ見れば、少し筋が通らない。だが、平田のときは「一人でやるほうが性に合う」と言い、今日は「英語だけなら」と言った。帰国子女が得意なことだけを頼まれて引き受ける。それなら、誰も不思議には思わない。
――――――――――
翌日、5月8日の放課後。図書室の奥の、六人がけの机を二つ寄せた席に八人が集まった。
堀北と綾小路。櫛田。須藤、池、山内の三人。浦原。そして、沖谷京介という男子だった。
沖谷は小柄で、女子と見間違えそうなほど線の細い顔立ちをしている。小テストは39点。赤点の線のすぐ上だった。そのことが気がかりで、櫛田が須藤たちを誘っているのを聞いて自分から入れてほしいと頼んだらしい。
堀北は浦原の顔を見ても、表情を変えなかった。
「英語を見てくれるそうね」
「……英語だけなら」
「それで十分よ。手間が省けるわ」
それだけ言うと、堀北は手作りらしい問題の束を机の上に配り始めた。
始まって10分もしないうちに、浦原は三人の遅れが思っていた以上だと分かった。
須藤は中学1年の数学の問題で手が止まった。池は国語の漢字を半分も読めなかった。山内は問題を見るより先に、消しゴムのかすを指で丸め始めていた。
「こんな問題も解けないの?」
堀北の声は責めているというより、純粋に信じられないという響きだった。それが、かえってよくなかった。
「うるせえな。解けねえから来てんだろうが」
須藤が言い返し、櫛田が慌てて「まあまあ」と間に入る。
浦原は英語の問題を前に眉を寄せている池の横に座った。
「……どこが分からない?」
「全部。いや、マジで全部。このさ、playsのsって何なんだよ。playでいいじゃん」
「……池は、ゲーム、好きだよな」
「は? 好きだけど」
「自分のことなら、I play games。目の前の相手のことなら、You play games。……じゃあ、山内がゲームをするって、山内のいないところで話すときは?」
「……山内、プレイ、ゲーム?」
「そこに、sがつく。He plays games。自分でも、目の前の相手でもない、誰か一人の話をするときだけ、動詞にsがつく。それだけ」
池はしばらく問題用紙をにらんでいた。それから、ぽつりと言った。
「……え、それだけ?」
「それだけ」
「なんか、分かるかも。浦原の説明、なんか分かるわ」
池は次の問題の動詞にsを書き足した。正解だった。続けて二問、三問と解いていく。どれも、合っていた。
(……覚えは、悪くない)
覚えが悪いのではない。覚え方を誰にも教わってこなかっただけだ。浦原が子どものころにアメリカの学校で受けた授業も、だいたいこんなふうだった。作り込んだ経歴の中でも、そこは本当のことだった。
机の反対側では、空気が少しずつ尖り始めていた。
「須藤くん。あなた、バスケットボール部の練習で忙しいそうね」
「だったら何だよ」
「部活を言い訳にするのはやめなさい。バスケットで、この学校を卒業できるわけじゃないのよ」
須藤の顔から、すっと表情が消えた。
「……てめえに、何が分かんだよ」
「分かるわ。少なくとも、今のあなたでは、中間テストで退学になるということくらいは」
須藤が立ち上がった勢いで、椅子が大きな音を立てて倒れた。図書室じゅうの視線がこちらに集まる。
「やってられっか。帰る」
「待って、須藤くん!」
櫛田の声にも、須藤は振り返らなかった。鞄を肩にかけ、大股で図書室を出ていく。
池が気まずそうに鉛筆を置いた。
「……俺も、帰るわ。悪い、浦原」
山内が続いた。池はおろおろしている沖谷の腕を引き、沖谷は何度も振り返りながら、引きずられるようにして出ていった。
残ったのは四人だけだった。
「時間の無駄だったわね」
堀北は配った問題の束を、表情ひとつ変えずに集め始めた。
「足を引っぱる人たちを、無理に引き上げる必要はないわ。私は、私のやるべきことをやる」
「堀北さん、そんな言い方……」
櫛田は何か言いかけて、やめた。うつむいたまま鞄を手に取り、「私、もう少しみんなと話してみるね」と小さな声で言って、図書室を出ていった。
浦原は自分のノートを閉じながら、ガラス張りの扉越しに廊下を見ていた。
図書室を出た櫛田は、昇降口へ下りる階段のほうへは曲がらなかった。反対側の上の階へ向かう階段を、迷いのない足取りで上っていく。
(……上か)
この上の階には、使われていない教室と屋上へ出る扉くらいしかないはずだ。須藤たちを追いかけるのなら、下へ向かうのが筋だった。
少しして、綾小路が席を立った。
「……俺も、帰る」
堀北は返事をしなかった。綾小路は図書室を出たところで一度だけ左右を見て、それから櫛田と同じ階段を上っていった。
浦原は、追わなかった。
廊下の天井には黒いレンズがある。人けのない上の階へ、女子生徒と男子生徒が続けて上がっていった。そのあとを三人目が追えば、それはもう偶然では片づかない。
櫛田の沈んだ顔と、迷いのない足取り。どちらが本当の櫛田なのか、浦原にはまだ分からなかった。そして、その櫛田のあとを綾小路が追っていった。
人のいない場所で、あの二人は何を話すのか。
(……分からないことが、ひとつずつ増えていくな)
浦原は堀北に軽く頭を下げて、図書室をあとにした。堀北は集めた問題の束に目を落としたまま、顔を上げなかった。
――――――――――
その夜、浦原は日付が変わるころに寮を出た。
寮の入口のカメラに映る浦原大輔は、夜中にコンビニへ菓子を買いに行く、ありふれた新入生だ。実際、帰りにはコンビニの袋を提げて戻ってくる。そのついでに少しだけ遠回りをする。それだけのことだった。
入学してから浦原は何度か、こうして夜の寮のまわりを歩いていた。
確かめているのは、カメラの死角だ。この学校は外との連絡を禁じている。それでも、シンシーの工作員が学校の外にいる誰かと通じているのなら、受け渡しにはレンズの届かない場所を使うはずだった。どこにカメラがあり、どこにないのか。夜の暗さでそれがどう変わるのか。頭の中の地図には、すでにいくつかの死角に印がついている。
寮の裏手も、そのひとつだった。
コンビニの袋を提げて裏手の植え込みに近づいたところで、浦原は足を止めた。
声がしたのだ。
浦原は街灯の光が届かない植え込みの陰に、静かに身を寄せた。袋が音を立てないよう、持ち手を短く握り直す。
寮の裏手のコンクリートの壁の前に、二人の人影があった。
一人は、堀北鈴音だった。制服のまま、壁を背にして立っている。
もう一人は、背の高い上級生だった。眼鏡のレンズが遠い街灯の光をかすかに拾っている。部活動紹介の日、壇上で一言も発さずに百人を超える新入生を黙らせた男。生徒会長、堀北学だ。
(兄妹で、こんな時間に、こんな場所で)
声は、ところどころしか届かなかった。
「……兄さんに、追いつくために……」
「……お前には、この学校は向いていない……」
堀北の声は、教室で聞くどんな声よりも細かった。兄の声は、壇上で聞いたときと同じように、低く、冷たく、よく通った。
浦原はそこで、もうひとつの気配に気づいた。
二人から数歩のところ、寮の角が作るもうひとつの暗がりに誰かが立っている。息を殺しているのがかえって分かった。こちらには気づいていないようだった。
目を凝らすまでもなかった。あの立ち方は、ひと月かけて見慣れたものだ。
(綾小路……)
堀北の後を追ってきたのか。それとも、最初からここにいたのか。
そのとき、兄の手が動いた。
堀北学は妹の手首をつかむと、壁から引きはがすように強く引いた。小柄な体がたやすく浮きかける。その先にあるのは、硬いコンクリートの地面だ。
浦原の重心が、半歩前に移った。
理事長室で交わした約束が頭の隅をよぎる。この学校の生徒を、傷つけないこと。傷つけさせない、とまでは約束していない。だが、目の前で投げ飛ばされる15歳を黙って見ている理由もなかった。
だが、浦原が植え込みを出るより、暗がりの人影が動くほうが早かった。
――いや、早かったのではない。
綾小路は最初からそこまでの距離を詰めていた。浦原がもう一人の気配に気づいたときには、すでに二歩で届く場所にいたのだ。
綾小路の右手が、堀北学の右の手首をつかんでいた。
堀北の体は地面に叩きつけられる寸前で止まっていた。
「……何者だ」
堀北学の声は少しも揺れていなかった。
「綾小路くん……! やめて、離して」
堀北が兄ではなく、綾小路に向かって言った。綾小路は少しだけ迷うような間をおいてから、手を離した。
その瞬間、堀北学の拳が、綾小路の顔をめがけて走った。
綾小路は、かわした。
大きくは動いていない。首をわずかに傾け、半歩だけ後ろへ引いた。それだけで、拳は顔の横の空を切った。続けて、急所を狙った蹴りが下から跳ね上がる。綾小路はそれも同じように、紙一枚ほどの間合いで外した。
浦原は植え込みの陰で、その動きから目を離さなかった。
(……今のは)
かわしたこと自体には驚かない。生徒会長の拳は、確かに速かった。だが、鍛えた人間ならかわせない速さではない。
浦原が目を奪われたのは、かわし方だった。
目を閉じなかった。体が、少しも縮こまらなかった。拳が来ると分かっていた者の動きではない。来たものを、来てから見て、必要な分だけ外している。避けたあとに反撃に移る気配がまるでない。打ち返すことは、最初から選択肢に入っていないのだ。
運動部の動きではない。空手や柔道のように、型を通して身につけた動きとも違う。もっと手前の、もっと冷たいところで、体に覚え込ませたものだ。
浦原はそれに近いものを、一度だけ見たことがあった。訓練の教官の中に一人、決して自分から手を出さない男がいた。訓練生が何人がかりで打ちかかっても、その男には一度も拳が届かなかった。
堀北学はそれ以上は手を出さなかった。
眼鏡の位置を指で直し、綾小路を値踏みするような目で見下ろしている。
「……妹に、友人がいたとはな」
それから壁際でうつむいている妹へ、短く言葉を投げた。上のクラスを目指すというのなら、死に物狂いでやれ。そういう意味の言葉だった。
堀北学は浦原のいるのとは反対の方向へ、ゆっくりと歩き去っていった。一度も振り返らなかった。
残された二人はしばらく黙って立っていた。やがて、堀北が何かを言い、綾小路がぼそぼそと答え始める。声はもう浦原のところまで届かなかった。
浦原は二人が寮の入口へ戻るより先に、植え込みの陰を離れた。来た道を引き返し、表の並木道へ回る。寮の入口のカメラの前を、コンビニの袋を提げて眠そうな顔で通り過ぎた。
――――――――――
部屋に戻っても、浦原はすぐには眠らなかった。
机の上に置いたコンビニの袋の中で、買ったばかりの菓子が手をつけられないまま転がっている。
綾小路清隆。
自己紹介で、目立たない失敗をした男。水泳で、わざと弱く壁を蹴った男。小テストで、ちょうど50点を取った男。ここまではどれも、力を隠しているという程度のことだった。
だが、今夜のあれは違う。
あの動きは隠しているというだけでは説明がつかない。普通の15歳がどこかで偶然に身につけられるものではなかった。誰かが時間をかけて、意図して教え込んだものだ。
(誰に、どこで習った)
それに、もうひとつ。
綾小路は今夜、その腕を生徒会長の前で見せた。
浦原は部活動紹介の日から、生徒会に近づこうとする新入生を疑う相手の候補として見てきた。工作員が学校の中枢に入り込むなら、生徒会に紛れ込むのが一番自然だからだ。だが、役員の募集に身を乗り出した者たちとは別に、こういう近づき方もある。
妹を助けた、ただの同級生。生徒会長の拳を、一発も受けなかった男。
堀北学は去り際に、確かに綾小路を値踏みしていた。生徒会長の記憶に、あれほどはっきり名前と顔を刻む方法は、ほかにそう多くない。
(……考えすぎか)
ただ、隣の席の女子生徒を助けただけなのかもしれない。浦原自身も半歩、体を前に出していたのだ。
だが、助けるだけなら、もっと不器用でよかった。あの男は助けたうえで、自分の腕の確かさまで見せてしまった。見せるつもりがなかったのだとしたら、それはそれで、隠しきれないほどのものを持っているということになる。
どちらに転んでも、綾小路清隆はただの帰国子女のふりをしている浦原と同じ側の人間だった。
浦原は今夜のことを、次の報告に書くと決めた。
ただ、急ぎはしない。理事長室へ通う回数を目立たせるわけにはいかない。別班からの返事も、まだ届いていない。返事が来れば、理事長のほうから帰国生の面談という名目で呼んでくるはずだった。
浦原は明かりを消してベッドに横になった。
目を閉じると、植え込みの陰から見た光景が何度も繰り返し浮かんだ。首をわずかに傾ける動き。半歩だけ引く足。拳が空を切る、乾いた音。
今夜、この学校の生徒は、誰も傷つかなかった。
それだけが、せめてもの救いだった。
早く読んで欲しくてバンバン出していたらストックが切れてしまった……