『真・恋姫†無双 ~赤鬼伝~ 百死転生の果てに、孫呉の小覇王を救う』   作:パスカルDX

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『真・恋姫†無双 ~赤鬼伝~ 百死転生の果てに、孫呉の小覇王を救う』

第1話「百一回目の転生! 赤鬼、孫呉の一兵卒になる!」

 

 

人間という生き物は、一度死ねばそれで終わりだ。

 

少なくとも、北郷一刀はかつてそう信じていた。現代日本で生まれ育ち、ごく普通の学生として生活していた頃は、死後の世界や輪廻転生など、漫画や小説の中だけの話だと思っていたのである。

 

ところが、人生というものは何が起こるかわからない。

 

一度目の死を迎えたとき、彼は自分が再び目を覚ましたことに驚いた。二度目の死では、またかと困惑した。十度目には何かがおかしいと疑い始め、五十度目を迎える頃には、もはや天に向かって文句を言う気力さえ失っていた。

 

そして、記念すべき百回目の人生を終えたとき。

 

彼は心の底から願った。

 

もういい加減、休ませてくれ、と。

 

それなのに。

 

「…………またかよ」

 

乾いた声が、誰もいない森の中に落ちた。

 

木々の隙間から差し込む朝日が、柔らかな光となって地面を照らしている。鳥のさえずりが聞こえ、湿った土と若草の匂いが鼻をくすぐった。遠くでは小川が流れているらしく、水のせせらぎまで聞こえてくる。

 

実に清々しい朝だった。

 

ただし、地面に仰向けで倒れている青年の心境だけは、まったく清々しくなかった。

 

「百一回目……百一回目だぞ? 普通、百回も死んだら何かしらの特典があってもいいだろ。天国で悠々自適とか、神様から退職金が出るとかさ」

 

誰に聞かせるでもなく愚痴をこぼしながら、青年はゆっくりと上体を起こした。

 

年齢は二十代半ばほど。ほどよく鍛えられた身体を、黒を基調とした動きやすい旅装が包んでいる。少し長めの茶色い髪は無造作に伸び、前髪が額にかかっていた。

 

腰には二振りの剣がある。

 

一振りは、白銀の鞘に収められた《雪白》。

 

もう一振りは、漆黒の鞘を持つ《黒蓮》。

 

百回の人生を共に駆け抜けてきた、彼にとって何よりも大切な相棒だった。

 

そして、その傍らにはもう一つ、見慣れた品が転がっていた。

 

赤い鬼の仮面である。

 

額から二本の角が伸び、鋭い目元と牙を剥いた口元が彫り込まれたその仮面は、見る者に恐ろしい印象を与える。しかし、実際に手に取ってみれば驚くほど軽く、長時間身につけても邪魔にならないよう工夫されていた。

 

青年は仮面を拾い上げ、指先で表面を軽く撫でた。

 

「……こいつまで一緒か。まったく、律儀なことで」

 

過去の人生で使っていた装備が転生後も手元に残っていることは、これまでにも何度かあった。理由はわからないが、少なくとも丸腰で乱世に放り出されるよりはありがたい。

 

もっとも、武器が必要な世界へ再び送り込まれたという事実そのものは、まったくありがたくなかった。

 

青年は立ち上がると、周囲を見渡した。

 

木々の種類、空気の匂い、遠くから聞こえる人の声。百回もの人生で培われた記憶が、目の前の景色と過去の経験を結びつけていく。

 

「この森……見覚えがあるな。たしか江東の外れだったか」

 

そう呟いた瞬間、青年の表情から冗談めいた色が薄れた。

 

江東。

 

孫呉。

 

その二つの言葉は、彼にとって特別な意味を持っていた。

 

かつて幾度となく戦い、笑い、酒を飲み、そして大切な者を失った土地。

 

脳裏に浮かんだのは、一人の女性の姿だった。

 

桃色の髪を風になびかせ、豪快に笑う江東の小覇王。

 

孫策伯符。

 

彼女の笑顔を思い出すだけで、胸の奥がひどく痛んだ。

 

「……孫策、か」

 

その名前を口にすると、青年はしばらく黙り込んだ。

 

過去の人生で、彼女を救おうとしたことは一度や二度ではない。

 

刺客を事前に捕らえたこともあった。襲撃される場所を変えさせたこともあった。彼女の身辺警護を徹底し、誰も近づけないようにしたことさえある。

 

それでも、結果は変わらなかった。

 

毒、刃、戦場での不意打ち。手段を変え、場所を変え、時にはまったく予想していなかった形で、彼女は命を落とした。

 

百回目の人生で、ようやくその死の背後に《七つの大罪》と呼ばれる存在が関わっていることを知った。

 

そして、その一員である《死》という暗殺者の存在も。

 

「……今度こそ、か」

 

青年は小さく息を吐き、赤い鬼の仮面を顔に当てた。

 

これまでの人生で使ってきた名前は、もう必要ない。

 

北郷一刀という名も、天の御使いという肩書きも、今の彼には重すぎた。

 

だからこそ、百一回目の人生では別の名を名乗ることにした。

 

「今日から俺は赤鬼だ。英雄でも御使いでもない、ただの赤鬼。……うん、なかなか悪くないな」

 

仮面の位置を調整しながら、彼は一人で頷いた。

 

そして、少し考えてから付け加える。

 

「できれば今回は、給料の出る仕事に就いて、三食きっちり食って、屋根のある家で寝たいもんだ」

 

百回の転生を経験した男の願いとしては、あまりにも慎ましい。

 

だが、戦場で野宿を重ね、飢えに苦しみ、泥水をすすった経験のある彼にとって、温かな食事と柔らかな寝床ほどありがたいものはなかった。

 

赤鬼は腰の二振りを確かめると、森の向こうに見える街道へと歩き始めた。

 

目指す先は孫呉。

 

今度こそ、あの王を守るために。

 

そして、できることなら面倒な出世話とは無縁の生活を送るために。

 

もっとも、その二つの願いが致命的に噛み合っていないことに、彼はまだ気づかないふりをしていた。

 

◇◇◇

 

江東の街は、朝から活気に満ちていた。

 

城門の前には商人の荷車が並び、行商人たちが威勢のよい声を上げている。道端では野菜や果物を売る露店が軒を連ね、子供たちが人混みの間を元気よく駆け回っていた。

 

赤鬼はそんな街の様子を眺めながら、懐かしさに目を細めた。

 

百回の人生の中で、この街を訪れた回数は数え切れない。戦火に包まれた姿も、繁栄を極めた姿も、そして廃墟と化した姿さえ見たことがある。

 

今、目の前に広がっているのは、まだ戦乱の影が色濃く残りながらも、人々が明日を信じて暮らしている街だった。

 

「……悪くないな」

 

そう呟いたところで、城門を守る兵士が赤鬼に気づいた。

 

「おい、そこの者! 止まれ!」

 

「ん? 俺か?」

 

「貴様以外に誰がいる! その仮面は何だ!」

 

兵士は槍を構えながら、赤鬼の顔をまじまじと見つめた。

 

無理もない。真っ赤な鬼の仮面をつけ、腰に二振りの剣を差した男が堂々と城門へ近づいてきたのだから、警戒するなという方が難しい。

 

赤鬼は自分の仮面を指差した。

 

「これか? 趣味だ」

 

「趣味でそんな恐ろしい仮面をつける奴がいるか!」

 

「ここにいるぞ」

 

「そういう問題ではない!」

 

兵士の怒鳴り声が城門前に響き、近くにいた商人たちが何事かと振り返った。

 

赤鬼は面倒くさそうに肩をすくめたものの、騒ぎを大きくするつもりはなかった。腰の剣に手をかけることもなく、両手を軽く上げて敵意がないことを示す。

 

「わかった、わかった。怪しい者じゃない。仕事を探しに来ただけだ」

 

「仕事だと?」

 

「ああ。兵士を募集してるって聞いたんだが、まだ間に合うか?」

 

その言葉に、兵士は一瞬だけ呆気に取られた。

 

「……貴様、兵士になりたいのか?」

 

「そう言ってるだろ。できれば飯がうまくて、給料がちゃんと出るところがいい」

 

「孫呉軍を何だと思っている!」

 

「就職先」

 

「間違ってはいないが、言い方というものがあるだろう!」

 

周囲から小さな笑い声が漏れた。

 

兵士は額に青筋を浮かべたものの、赤鬼が本気で入隊を希望しているらしいと理解すると、ようやく槍を下ろした。

 

「……まったく。現在、孫呉軍では兵の募集を行っている。志願するなら城内の練兵場へ向かえ。ただし、採用試験があるぞ」

 

「試験か。筆記は苦手なんだが」

 

「武芸の試験だ!」

 

「それなら助かった。百回くらい受けたことがある」

 

「何?」

 

「いや、こっちの話だ」

 

赤鬼は適当に手を振り、城門をくぐった。

 

背後から兵士の「怪しい奴だな……」という声が聞こえてきたが、聞こえなかったことにする。

 

百回の人生で学んだことの一つに、世の中には反論するだけ無駄な場面がある、というものがあった。

 

ちなみに、赤鬼自身が怪しさの原因であることについては、本人も十分に理解していた。

 

理解した上で仮面を外すつもりがないのだから、始末に負えない。

 

城内へ入った赤鬼は、通りを歩きながら兵士募集の掲示を探した。

 

やがて、大きな練兵場の前に人だかりができているのを見つける。

 

そこには、若い男たちを中心とした志願者が集まっていた。農村から出てきたらしい青年、腕自慢の傭兵、家族を養うために軍へ入ろうとしている男など、その顔ぶれはさまざまだ。

 

赤鬼は列の最後尾に並び、前にいた大柄な男へ声をかけた。

 

「なあ、ここで兵士の採用試験をやってるんだよな?」

 

「ああ、そうだ。お前も志願者か?」

 

「そのつもりだ」

 

男は振り返り、赤鬼の仮面を見るなり目を丸くした。

 

「うおっ!? 何だその顔!」

 

「顔じゃない。仮面だ」

 

「見ればわかるわ!」

 

「なら聞くなよ」

 

赤鬼が真顔で返すと、男は一瞬言葉に詰まり、それから豪快に笑い始めた。

 

「がははっ! 変な奴だな、お前! 俺は牛山っていうんだ。よろしくな!」

 

「赤鬼だ。よろしく」

 

「赤鬼? ずいぶん物騒な名前だな!」

 

「牛山に言われたくないな。強そうでいい名前じゃないか」

 

「おっ、わかるか!」

 

どうやら牛山という男は、見た目どおり単純で気のよい性格らしい。

 

赤鬼はこういう相手を嫌いではなかった。裏表がなく、思ったことをそのまま口にする人間は、百回の人生で数多くの謀略を見てきた彼にとって、むしろ付き合いやすい存在だった。

 

しばらく雑談していると、練兵場の奥から鎧姿の兵士が現れた。

 

「志願者たちよ、静粛に!」

 

よく通る声が響き渡り、ざわついていた人々が一斉に口を閉じる。

 

「これより孫呉軍の兵士採用試験を開始する! 試験は体力、武芸、そして実戦形式の模擬戦によって行う。優秀な者は将軍直属の部隊に配属される可能性もあるため、各自、全力を尽くすように!」

 

その説明を聞いた赤鬼は、仮面の下で眉をひそめた。

 

将軍直属。

 

実に嫌な響きである。

 

直属部隊に入れば、それだけ将軍たちと顔を合わせる機会が増える。そうなれば、平穏な兵士生活から遠ざかってしまうではないか。

 

「……よし。ほどほどにやろう」

 

赤鬼は小さく頷いた。

 

今回の目標は、あくまで一般兵として採用されること。

 

目立たず、騒がず、普通の成績で合格する。

 

百回の人生で身につけた技術を考えれば、難しいことではないはずだった。

 

ところが。

 

「次! 赤鬼!」

 

「はいよ」

 

「まずは木剣を使い、あの藁人形を攻撃しろ! 威力と正確さを確認する!」

 

試験官が指差した先には、太い木柱に固定された藁人形が立っていた。

 

赤鬼は支給された木剣を受け取り、その重さを確かめる。

 

軽い。

 

あまりにも軽すぎる。

 

長年使い慣れた雪白や黒蓮とは重心も握り心地も異なり、力加減を間違えれば簡単に壊してしまいそうだった。

 

「……まあ、軽く叩けばいいか」

 

赤鬼は肩の力を抜き、藁人形へ向き直った。

 

狙うのは胴体の中央。特別な技術など使わず、普通の兵士が振るう程度の一撃を与えればいい。

 

そう考えて木剣を振り下ろした瞬間だった。

 

バキィッ!

 

乾いた破裂音が練兵場に響き渡った。

 

藁人形を支えていた木柱が真ん中から折れ、勢いよく後方へ倒れ込む。固定されていた縄が弾け、藁が宙に舞い上がった。

 

赤鬼は木剣を振り下ろした姿勢のまま、しばらく動かなかった。

 

「…………」

 

試験官も動かなかった。

 

周囲の志願者たちも、口を開けたまま固まっていた。

 

最初に沈黙を破ったのは赤鬼だった。

 

「……あれ?」

 

彼は折れた木柱を見つめ、それから手元の木剣へ視線を落とす。

 

「おかしいな。かなり手加減したんだが」

 

「どこがだぁぁぁっ!!」

 

試験官の怒鳴り声が、練兵場全体に響き渡った。

 

「貴様! 何をした!」

 

「いや、普通に叩いただけだぞ?」

 

「普通に叩いて木柱が折れるか!」

 

「古かったんじゃないか?」

 

「昨日交換したばかりだ!」

 

「……じゃあ、材木屋に文句を言った方がいいな」

 

「貴様に言っているんだ!」

 

赤鬼は仮面の下で顔をしかめた。

 

どうやら、百回の人生で培われた身体の使い方は、本人が思っている以上に一般人の常識から外れているらしい。

 

筋力そのものを抑えても、足の踏み込み、腰の回転、刃筋の合わせ方が自然と最適化されてしまう。

 

しかも、今回は木剣だったため、なおさら力加減を誤ってしまった。

 

「……まずいな」

 

赤鬼が小さく呟くと、隣で見ていた牛山が目を輝かせた。

 

「すげえぞ、赤鬼! お前、めちゃくちゃ強いじゃねえか!」

 

「いや、違うんだ。これは事故だ」

 

「事故で柱をへし折る奴がいるかよ!」

 

「ここにいる」

 

「それ、城門でも言っただろ!」

 

どうやら今日一日で、赤鬼の言い訳の種類は早くも尽きかけているらしかった。

 

そして、彼の不幸はそれだけでは終わらなかった。

 

次の模擬戦では、対戦相手の木剣を受け流そうとして、相手を勢いよく地面へ転がしてしまったのである。

 

もちろん、怪我をさせないよう細心の注意は払っていた。

 

だが、相手からすれば、何が起こったのか理解できないうちに背中から地面へ倒されていたのだから、たまったものではない。

 

「ま、参りました……!」

 

「えっ、もう?」

 

「もう、ではない! お前、今の動きは何だ!」

 

試験官が再び怒鳴る。

 

赤鬼は困ったように頭をかいた。

 

「いや、相手の力を利用しただけだぞ。ほら、こう、ひょいっと」

 

「ひょいっとで説明するな!」

 

周囲から笑い声が上がる一方、試験官たちの表情は次第に真剣なものへと変わっていった。

 

彼らは歴戦の武人というわけではないが、それでも兵士の力量を見極める程度の経験はある。

 

赤鬼の動きが尋常ではないことくらい、すぐに理解できた。

 

そして、その様子を少し離れた場所から見つめている女性がいた。

 

落ち着いた雰囲気をまとい、整った顔立ちに涼やかな眼差しを宿した女性である。孫呉軍の将としての威厳を備えながらも、周囲を威圧するような気配はなく、むしろ穏やかで優しげな印象を与えていた。

 

程普。

 

孫家に長く仕える宿将であり、真名を粋怜という。

 

彼女は兵士から提出された試験記録に目を通しながら、赤鬼へ視線を向けた。

 

「……あの仮面の志願者、少し変わっているわね」

 

傍らに控えていた副官が、困惑した様子で頷く。

 

「はい。名は赤鬼と申すそうです。武芸の腕は相当なものですが、どうにも言動が軽く……」

 

「ふふっ。それは見ればわかるわ」

 

粋怜は小さく笑った。

 

赤鬼はちょうど試験官に何か言い訳をしているところだったが、その立ち姿には不思議なほど隙がなかった。

 

力んでいるわけでも、周囲を警戒しているわけでもない。

 

ただ自然体で立っているだけなのに、どこから攻撃されても対応できそうな安定感がある。

 

長年、数多くの武人を見てきた粋怜だからこそ、その異質さが理解できた。

 

「……面白い子ね」

 

「子、でございますか? 年齢は二十代半ばほどに見えますが」

 

「私から見れば、まだまだ若いわよ」

 

粋怜は穏やかに答えると、手元の記録を閉じた。

 

「それに、あの子はまだ本気を出していないでしょうね」

 

「まさか。あれだけの腕を見せて、まだ余力があると?」

 

「ええ。むしろ、必死に力を隠そうとしているように見えるわ」

 

副官は信じられないという表情を浮かべた。

 

粋怜はそんな彼に微笑みかけると、静かに立ち上がった。

 

「少し話をしてみましょうか」

 

その頃、赤鬼はようやく試験を終え、練兵場の隅で腰を下ろしていた。

 

「……やっちまった」

 

膝に肘をつき、仮面越しに深いため息を漏らす。

 

目立たず、普通に、平穏に。

 

そう決めていたはずなのに、初日から藁人形を破壊し、模擬戦では対戦相手を一瞬で倒してしまった。

 

百回の人生を経験した男が、たった一度の採用試験で自分の力加減を誤るとは、何とも情けない話である。

 

「……まあ、採用されればそれでいいか」

 

そう自分に言い聞かせたところで、柔らかな女性の声が聞こえてきた。

 

「あなたが赤鬼ね?」

 

顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。

 

赤鬼はその姿を認めた瞬間、わずかに息を止めた。

 

程普。

 

かつて幾度となく同じ戦場を駆け抜けた、孫呉の宿将。

 

その優しさも、強さも、仲間を思う心も、彼はよく知っている。

 

しかし、今の彼女にとって赤鬼は初対面の男でしかない。

 

赤鬼は胸の奥に込み上げてきた懐かしさを押し隠し、いつもの軽い調子で答えた。

 

「ああ、そうだけど。あんたは?」

 

「私は程普。孫呉軍で将を務めているわ」

 

「へえ、将軍様か。これはどうも」

 

赤鬼は座ったまま軽く頭を下げた。

 

そのあまりにも気楽な態度に、副官が眉を吊り上げる。

 

「貴様! 程普将軍の御前だぞ! 立って礼をせぬか!」

 

「ああ、悪い悪い」

 

赤鬼が立ち上がろうとすると、粋怜が片手を上げて副官を制した。

 

「いいのよ。試験で疲れているのでしょう?」

 

「いや、疲れてはいないけどな」

 

「ふふっ。正直なのね」

 

粋怜は赤鬼の仮面を興味深そうに眺めた。

 

「それにしても、ずいぶん立派な仮面ね。何か理由があるのかしら?」

 

「顔を覚えられたくないんだよ」

 

「……それなら、もう少し目立たないものを選んだ方がいいと思うわ」

 

「…………」

 

赤鬼は言葉を失った。

 

確かに、そのとおりだった。

 

真っ赤な鬼の仮面をつけておきながら目立ちたくないなど、冷静に考えれば矛盾も甚だしい。

 

しかし、長年使い続けた仮面には愛着があるし、何より今さら素顔をさらすつもりもなかった。

 

「……まあ、そこは男のこだわりってやつだ」

 

「そう。なら、無理に聞かないでおくわね」

 

粋怜は優しく微笑んだ。

 

その笑顔を見た赤鬼は、一瞬だけ言葉を忘れそうになった。

 

過去の人生でも、彼女はこうして人の事情に踏み込みすぎず、必要なときにはそっと手を差し伸べてくれた。

 

百回の転生を経験しても、人の本質というものはそう簡単には変わらないらしい。

 

「ところで赤鬼。あなた、どこで剣を学んだの?」

 

「独学だな」

 

「独学であの動きができるの?」

 

「長く生きてると、いろいろ覚えるもんさ」

 

「あなた、そんなに年上には見えないけれど」

 

「見た目より苦労してるんだよ」

 

赤鬼が肩をすくめると、粋怜は少しだけ目を細めた。

 

冗談めいた言葉の奥に、妙な重みがある。

 

若い男が見栄を張っているようには聞こえなかった。

 

むしろ、本当に長い年月を生きてきた老人が、昔話を軽く流しているような不思議な感覚があった。

 

「……そう。なら、その苦労話もいつか聞かせてほしいわね」

 

「長くなるぞ?」

 

「構わないわ。聞くのは得意なの」

 

粋怜はそう答えると、手にしていた試験記録を赤鬼へ示した。

 

「それで、あなたの配属についてなのだけれど」

 

「おっ、採用か?」

 

「ええ。もちろんよ」

 

「よかった。これで飯に困らずに済むな」

 

心底安心したように肩を落とす赤鬼を見て、粋怜は思わず笑みを深めた。

 

これほどの武芸を持ちながら、本人が気にしているのは食事と給料ばかり。

 

普通なら名誉や昇進を望むところだが、この青年にはそうした欲がまるで感じられなかった。

 

「あなたには、私の部隊に入ってもらおうと思っているの」

 

「……へ?」

 

「私の直属部隊よ。ちょうど腕の立つ兵士を探していたところなの」

 

赤鬼は固まった。

 

直属部隊。

 

よりにもよって、将軍直属。

 

初日から最も避けたかった展開である。

 

「……あの、程普将軍」

 

「何かしら?」

 

「普通の部隊じゃ駄目か?」

 

「どうして?」

 

「いや、その……俺、あんまり目立ちたくないんだよ」

 

粋怜は赤鬼の仮面を見つめた。

 

赤鬼も黙って彼女を見返した。

 

数秒の沈黙が流れる。

 

やがて、粋怜は口元に手を添え、上品に笑った。

 

「ふふっ。あなた、本当に面白い人ね」

 

「いや、笑い事じゃないんだが」

 

「大丈夫よ。無理に出世させたりはしないわ。ただ、あなたの力を必要としている兵士たちがいるの」

 

その言葉に、赤鬼は反論しかけた口を閉じた。

 

粋怜の声には、将軍としての威厳よりも、部下を思いやる温かさが込められていた。

 

彼女は赤鬼の力を、自分の手柄のために使おうとしているわけではない。

 

兵士たちを守るために必要としているのだ。

 

そんなことを言われてしまえば、断る理由など見つからなかった。

 

「……わかったよ。世話になる」

 

「ええ。こちらこそ、よろしくね。赤鬼」

 

粋怜が差し出した手を、赤鬼は静かに握った。

 

その温もりは、かつての人生で知っていたものと少しも変わらなかった。

 

赤鬼は仮面の下で、誰にも見えないほど小さく微笑んだ。

 

こうして、百一回目の人生における彼の所属先が決まった。

 

孫呉軍、程普直属部隊。

 

階級は一般兵。

 

給料は新兵と同額。

 

本人の希望どおり、出世とは無縁の立場からの出発である。

 

ただし、すでに将軍の目に留まっているという一点を除けば、だが。

 

粋怜と別れた赤鬼は、支給された兵士用の衣服と寝具を受け取り、案内された兵舎へ向かった。

 

建物は古いものの、手入れは行き届いていた。寝台には清潔な藁が敷かれ、窓からは夕方の柔らかな風が吹き込んでいる。

 

同じ部屋には、採用試験で知り合った牛山も配属されていた。

 

「おお、赤鬼! お前もここか!」

 

「なんだ、お前も程普将軍の部隊だったのか」

 

「ああ! よろしく頼むぜ!」

 

「こちらこそ。ところで飯は何時だ?」

 

「お前、本当に飯のことばっかりだな!」

 

牛山が豪快に笑う。

 

赤鬼もつられて笑いながら、空いている寝台へ荷物を置いた。

 

久しぶりに、誰かと他愛のない話をする時間が心地よかった。

 

戦場でも、謀略の渦中でもない。

 

ただの兵士として、同僚と笑い合う。

 

それだけのことが、今の赤鬼には何よりも貴重だった。

 

やがて夕食の時間となり、兵舎の食堂には温かな粥と野菜の煮込みが並べられた。

 

豪華とは言えない食事だったが、赤鬼は一口食べるなり満足そうに頷いた。

 

「……うまいな」

 

「そうか? 普通の兵糧だぞ?」

 

「普通が一番なんだよ」

 

赤鬼はそう答え、ゆっくりと食事を味わった。

 

百回の人生で、彼は数え切れないほどの豪華な料理を口にしてきた。王宮の宴席で振る舞われた珍味も、名高い料理人が腕を振るった料理も知っている。

 

だが、戦場で飢えた兵士たちと分け合った一杯の粥ほど、心に残る食事はなかった。

 

その夜。

 

兵舎の寝台に横たわった赤鬼は、窓の外に浮かぶ月を見つめていた。

 

昼間の騒がしさが嘘のように、辺りは静まり返っている。

 

隣の寝台からは牛山の豪快ないびきが聞こえ、遠くでは夜番の兵士が交代する声がした。

 

赤鬼は枕元に置いた赤い鬼の仮面を手に取り、指先でそっと撫でた。

 

明日からは、孫呉の兵士としての生活が始まる。

 

程普の直属部隊に配属された以上、雪蓮と顔を合わせる機会も遠くないだろう。

 

そのとき、自分はどんな顔をすればいいのか。

 

いや、仮面をつけているのだから顔など見えないのだが、そういう問題ではなかった。

 

「……孫策」

 

赤鬼は小さく呟いた。

 

今の彼女は、まだ自分のことを知らない。

 

共に戦った記憶も、酒を酌み交わした夜も、交わした約束も、すべて赤鬼だけが覚えている。

 

それでいい。

 

彼女が生きていてくれるのなら、それだけで十分だった。

 

「今度こそ、守ってやるからな」

 

静かな声が、夜の闇に溶けていく。

 

赤鬼は仮面を枕元へ戻し、ゆっくりと目を閉じた。

 

百一回目の人生。

 

孫呉の一兵卒として始まった、新たな物語。

 

その先にどれほどの戦乱が待ち受けていようとも、今度こそ大切なものを失わないために、彼は剣を振るうつもりだった。

 

もっとも、翌朝になれば程普将軍から早朝訓練への参加を命じられ、さらに彼の噂を聞きつけた別の将軍が模擬戦を申し込んでくることになるのだが――。

 

それは、まだ少し先の話である。

 

少なくとも今夜だけは、赤鬼も平穏な眠りにつくことができた。

 

隣の牛山のいびきが、あまりにも凄まじかったことを除けば。

 

「……おい、牛山。お前のいびき、戦場の銅鑼よりうるさいぞ……」

 

百回の死を乗り越えた男は、百一回目の人生の初夜にして、思わぬ強敵と遭遇したのであった。

 

 




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