『真・恋姫†無双 ~赤鬼伝~ 百死転生の果てに、孫呉の小覇王を救う』 作:パスカルDX
第2話「赤鬼、初日から大騒動! 優しき将軍・程普と鬼の新兵」
孫呉の朝は早い。
まだ東の空が白み始めたばかりの時刻だというのに、城内の練兵場からは兵士たちの威勢のよい掛け声が響き、厨房では朝食の支度に追われる炊事兵たちが忙しなく動き回っていた。
戦乱の世において、軍隊とは常に備えを怠らない組織である。敵がいつ攻めてくるかわからない以上、日々の訓練を欠かすことはできず、兵士たちは日の出とともに起床するのが当たり前だった。
もちろん、そんなことは百回もの人生を経験した赤鬼にとって、今さら説明されるまでもない常識である。
常識ではあるのだが、それを快く受け入れられるかどうかは、また別の問題だった。
「……朝っぱらから元気だねえ、まったく」
兵舎の寝台に腰掛けた赤鬼は、眠たそうに茶色い髪をかき上げながら、大きな欠伸を漏らした。
昨夜は久しぶりに屋根のある場所で眠れると喜んでいたものの、隣の寝台で眠る牛山のいびきが想像以上に凄まじく、結局まともに眠れたのは夜明け前のわずかな時間だけだった。
百回の人生で数多くの戦場を経験し、敵軍の奇襲にも動じなくなった赤鬼でさえ、牛山のいびきには完全に敗北したのである。
「おーい、赤鬼! 起きてるか!」
当の本人は、そんな事情など知る由もなく、朝から元気いっぱいだった。
大柄な身体を揺らしながら寝台へ近づいてきた牛山は、赤鬼の肩を勢いよく叩く。
「今日は初めての訓練だぞ! 気合い入れていこうぜ!」
「……お前さ、昨日はよく眠れたか?」
「おう! ぐっすりだ!」
「だろうな。こっちはお前のおかげで敵襲の夢を三回も見たぞ」
「敵襲!? 大丈夫だったのか!?」
「敵の正体がお前だったからな。どうにもならなかった」
赤鬼が恨めしそうに答えても、牛山は意味がわからないといった顔で首を傾げるばかりだった。
その無邪気な反応に怒る気も失せた赤鬼は、深いため息をつきながら立ち上がる。
黒を基調とした動きやすい衣服の上から、支給された孫呉軍の軽装鎧を身につける。腰には愛刀である雪白と黒蓮を差し、最後に枕元へ置いていた赤い鬼の仮面を顔に当てた。
額から伸びる二本の角と、牙を剥いた恐ろしい鬼の面。
その姿を見た牛山は、なぜか感心したように腕を組んだ。
「しかし、何度見てもすげえ仮面だな。お前、寝るときもそれつけてるのか?」
「寝るときくらい外すわ。息苦しいだろ」
「じゃあ、素顔を見せてくれよ!」
「嫌だ」
「即答かよ!」
牛山は大笑いしたが、赤鬼は取り合わなかった。
別に素顔を見られたからといって、すぐに正体が露見するとは限らない。しかし、今回の世界にはもう一人の北郷一刀が存在する可能性があり、余計な混乱を避けるためにも、しばらくは顔を隠しておくつもりだった。
もっとも、そんな深刻な事情を説明したところで、目の前の男が理解できるとは思えない。
「ほら、さっさと行くぞ。遅刻して将軍に怒られるのは御免だ」
「おう!」
赤鬼は牛山を連れて兵舎を出た。
朝の空気は少し冷たく、頬を撫でる風には草木の香りが混じっている。城壁の向こうでは太陽が昇り始め、練兵場へ向かう兵士たちの鎧が淡い光を反射していた。
その光景を眺めながら、赤鬼は小さく息を吐く。
こうして一兵卒として朝の訓練に向かうのも、随分と久しぶりだった。
過去の人生では将軍として軍を率いたこともあれば、軍師として戦場全体を指揮したこともある。王の傍らで政務に追われたことさえあったが、今の彼に与えられている仕事は、ただ命令に従って訓練を受けることだけである。
責任が軽いというのは、実に素晴らしい。
「……よし。今日は絶対に目立たないぞ」
赤鬼は誰にも聞こえないように呟いた。
昨日の採用試験では、力加減を間違えて木柱をへし折るという失態を犯してしまった。
同じ過ちは繰り返さない。
今日こそ普通の兵士として振る舞い、平穏な一日を過ごすのだ。
そう固く決意した赤鬼だったが、残念ながら運命というものは、彼の希望を尊重してくれるほど親切ではなかった。
◇◇◇
練兵場に到着すると、すでに程普直属部隊の兵士たちが整列していた。
数十人ほどの兵士が横一列に並び、その前には落ち着いた雰囲気をまとった女性が立っている。
程普。
真名を粋怜という、孫家に長く仕える歴戦の宿将である。
彼女は整列する兵士たちを見渡しながら、一人ひとりの様子を確認していた。厳しい表情で威圧するようなことはせず、姿勢の崩れた新兵には穏やかに注意し、緊張している者には安心させるような微笑みを向けている。
その姿は、まさしく面倒見のよいお姉さんといったところだった。
「おはよう、みんな。今日から新しい兵士も加わることだし、まずは基本的な訓練から始めましょう」
柔らかな声が練兵場に響き、兵士たちが一斉に返事をする。
「「「はっ!」」」
赤鬼も周囲に合わせて軽く頭を下げた。
すると、粋怜の視線が彼のところで止まった。
「あら、赤鬼。ちゃんと来てくれたのね」
「そりゃ来るさ。給料をもらう以上、仕事はする主義なんでね」
「ふふっ。感心な心がけね」
粋怜は微笑みながら、赤鬼の顔を覆う仮面を眺めた。
「それにしても、その仮面……やっぱり目立つわね」
「……昨日も言われた」
「でしょうね。赤い鬼の仮面をつけて目立ちたくないと言われても、少し説得力に欠けるもの」
「そこは触れないでくれると助かる」
赤鬼が肩をすくめると、周囲の兵士たちから小さな笑い声が漏れた。
普通なら将軍に対してこのような軽口を叩けば叱責されてもおかしくないが、粋怜は気にした様子もなく、むしろ楽しそうに目を細めている。
「それじゃあ、赤鬼。今日はあなたの実力をもう少し見せてもらおうかしら」
「……え?」
嫌な予感がした。
赤鬼はゆっくりと顔を上げる。
「いや、程普将軍。俺は普通の新兵だから、普通の訓練で十分だと思うんだが」
「そうね。でも、昨日の採用試験では木柱を折ってしまったのでしょう?」
「……あれは事故だ」
「模擬戦の相手も、一瞬で倒してしまったそうね」
「……あれも事故だ」
「ふふっ。ずいぶん事故の多い人なのね」
粋怜の微笑みが、ほんの少しだけ意地悪なものに変わった。
赤鬼は悟った。
この女性、完全に楽しんでいる。
「安心して。無理なことはさせないわ。ただ、あなたがどの程度動けるのか知っておきたいだけなの」
「……本当か?」
「ええ、本当よ」
その穏やかな声には、嘘をついているような響きはなかった。
しかし、赤鬼は百回の人生で知っている。
程普という女性は優しいが、必要だと判断したことについては決して妥協しない。
つまり、ここで何を言っても逃げられないということである。
「……わかったよ。ほどほどにな」
「ええ。期待しているわ」
「期待しないでくれ。それが一番困る」
赤鬼のぼやきに、粋怜は楽しそうに笑った。
こうして、赤鬼の平穏な一日は開始早々、怪しい雲行きを見せ始めたのである。
最初の訓練は、兵士たちによる基礎体力の確認だった。
練兵場の周囲を走り、一定の距離を往復し、最後に重い荷物を運ぶという、単純ながら体力を必要とする内容である。
赤鬼は当然ながら、全力で走るつもりなどなかった。
周囲の兵士たちに合わせ、ほどほどの速度で走りながら、適当に息を切らしているふりをする。
「はあ……はあ……いやあ、きついなあ……」
実際には呼吸一つ乱れていないが、仮面のおかげで表情が見えないため、演技は完璧だった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
「赤鬼!」
隣を走っていた牛山が、汗を流しながら声をかけてきた。
「お前、すげえな! 全然疲れてねえじゃねえか!」
「いや、疲れてるぞ。ほら、はあはあ」
「口で言ってるだけだろ!」
「……鋭いな、お前」
赤鬼は思わず感心した。
牛山は単純な男だが、こういうところでは妙に勘が働く。
仕方なく赤鬼は走る速度をさらに落とし、集団の中ほどへ紛れ込もうとした。
ところが、そのとき前方を走っていた新兵が足をもつれさせ、勢いよく転倒したのである。
「うわっ!」
倒れた兵士のすぐ後ろには、別の新兵が走っていた。
このままでは衝突する。
赤鬼は反射的に地面を蹴った。
次の瞬間、彼の身体は周囲の兵士たちの間を滑るように抜け、転倒した新兵の襟首を掴んで引き起こしていた。
同時に、後続の兵士の肩を軽く押し、衝突しない方向へ誘導する。
それは、あまりにも自然で無駄のない動きだった。
「おっと、大丈夫か?」
「えっ……あ、はい!」
助けられた新兵は、何が起こったのかわからない様子で目を瞬かせた。
赤鬼は安心したように頷くと、何事もなかったかのように走り始める。
しかし、周囲の兵士たちは完全に足を止めていた。
「……今、見えたか?」
「いや……赤鬼が急に消えたように見えたんだが……」
「気づいたらあいつ、転んだ奴を助けてたぞ……」
赤鬼は聞こえないふりをした。
聞こえないふりをしながら、心の中で頭を抱えていた。
またやってしまった。
百回の人生で身についた反射行動は、本人が意識して抑えようとしても、誰かが危険に晒された瞬間に勝手に身体を動かしてしまう。
それは彼にとって誇るべき経験の証であると同時に、平穏な生活を送る上では非常に厄介な習慣でもあった。
「……今日も駄目かもしれん」
赤鬼が小さく呟いたところで、練兵場の端から粋怜の声が聞こえた。
「赤鬼、今の動きは見事だったわ」
「……見てたのか」
「ええ。ちゃんと見ていたわよ」
粋怜は優しく微笑んだ。
「転んだ仲間をすぐに助けたことも、後続の兵士が怪我をしないよう配慮したことも、とてもよかったわ」
その言葉に、赤鬼は少しだけ肩の力を抜いた。
粋怜は彼の動きの速さだけでなく、仲間を守ろうとした意図まで理解していたのだ。
「……まあ、怪我人が出なくてよかったよ」
「そうね。でも、あなたには後で少し付き合ってもらうわ」
「……何に?」
「模擬戦よ」
赤鬼は天を仰いだ。
どうやら今日は、厄日らしい。
◇◇◇
午前の訓練が終わる頃には、赤鬼の噂は部隊内に広まり始めていた。
曰く、赤い鬼の仮面をつけた新兵がいる。
曰く、採用試験で木柱をへし折ったらしい。
曰く、走っている最中に姿が消え、次の瞬間には転んだ兵士を助けていたらしい。
そして、最も厄介な噂がこれだった。
赤鬼は将軍より強いのではないか。
「……誰だよ、そんな適当なこと言い始めた奴は」
昼食を取りながら、赤鬼は心底うんざりした声を漏らした。
隣に座る牛山は、相変わらず豪快に飯をかき込んでいる。
「でもよ、赤鬼。お前、本当に強いんだろ?」
「普通だよ、普通」
「普通の奴は木柱を折らねえって!」
「材木が悪かったんだ」
「まだ言うか!」
牛山が笑い、周囲の兵士たちもつられて笑った。
赤鬼は肩をすくめながら、器に残っていた粥を口へ運ぶ。
こうして同僚たちと笑い合う時間は、決して悪くなかった。
むしろ、百回の人生で戦場ばかりを駆け抜けてきた彼にとって、何気ない日常こそが何よりも貴重だった。
だが、その穏やかな時間は長く続かなかった。
「赤鬼、いるかしら?」
食堂の入口から、聞き覚えのある柔らかな声が響いた。
赤鬼が振り返ると、そこには粋怜が立っていた。
兵士たちが慌てて姿勢を正す中、彼女は穏やかな笑みを浮かべて赤鬼へ歩み寄る。
「食事中にごめんなさいね。午後の訓練について、少し話があるの」
「……嫌な予感しかしないんだが」
「ふふっ。そんな顔をしないで」
「仮面で顔は見えないだろ」
「声でわかるわ」
赤鬼は返す言葉を失った。
どうやら、この女性には仮面など大した意味を持たないらしい。
「午後は私が直接、あなたの相手をするわ」
その一言で、食堂が静まり返った。
程普将軍が新兵と直接模擬戦を行う。
それがどれほど珍しいことなのか、孫呉の兵士たちはよく知っていた。
「……将軍自ら?」
「ええ。あなたの剣を見てみたいの」
「俺の剣なんて大したもんじゃないぞ?」
「それなら、私が確かめてみるわね」
粋怜は楽しそうに微笑んだ。
赤鬼は深いため息をつく。
百回の人生で、彼は程普と幾度となく剣を交えたことがある。
彼女の戦い方も、癖も、間合いの取り方も、よく知っている。
しかし、今の粋怜はそんなことを知らない。
自分だけが相手のことを知っているという状況は、どうにも居心地が悪かった。
「……わかった。ただし、怪我しても文句言うなよ?」
その言葉に、周囲の兵士たちが息を呑んだ。
将軍に対して、なんという無礼な発言だろうか。
しかし、粋怜は怒るどころか、少し驚いたように目を瞬かせ、それから楽しそうに笑った。
「あら。心配してくれるの?」
「そりゃそうだろ。優しい上官に怪我されたら、こっちが困る」
「ふふっ。ありがとう。でも、私も簡単には負けないわよ」
その穏やかな笑顔を見た赤鬼は、仮面の下で小さく笑った。
やはり、この女性は変わらない。
強く、優しく、そして少しだけ負けず嫌いだ。
午後の練兵場には、普段より多くの兵士が集まっていた。
程普将軍が新兵と模擬戦を行うという噂を聞きつけ、他の部隊からも見物人がやってきたのである。
赤鬼はその光景を見渡し、思わず頭を抱えたくなった。
「……おいおい。見世物じゃないんだぞ」
そんな彼の前へ、木製の模擬武器を手にした粋怜が歩み出る。
「準備はいいかしら?」
「……まあ、いつでも」
赤鬼も木剣を受け取り、軽く構えた。
腰に差した雪白と黒蓮は使わない。
この程度の模擬戦で愛刀を抜くつもりはなかったし、何より本気を出せば、せっかく手に入れた平穏な兵士生活が完全に終わってしまう。
粋怜は赤鬼の構えを見つめ、わずかに目を細めた。
無駄がない。
自然体でありながら、どこにも隙が見当たらない。
剣を構えているというより、剣そのものが身体の一部になっているかのようだった。
「……不思議な構えね」
「そうか?」
「ええ。まるで、何十年も剣を振り続けてきた人みたい」
赤鬼は内心で苦笑した。
何十年どころではない。
百回の人生を合計すれば、いったい何年剣を握っていたのか、本人でさえ正確には覚えていなかった。
「……まあ、長いことやってるからな」
「そう。なら、遠慮なくいかせてもらうわ」
粋怜が静かに踏み込んだ。
その動きは滑らかで、歴戦の武将らしい安定感があった。
赤鬼は木剣を軽く傾け、迫ってきた一撃を受け流す。
乾いた音が響き、二人の武器が交差した。
粋怜はすぐさま体勢を変え、角度を変えて攻撃を繰り出す。
赤鬼はそのすべてを、最小限の動きで捌いていった。
右からの一撃には半歩下がり、左からの攻撃には身体をひねる。突きには剣の腹を合わせ、相手の力を利用して軌道を逸らす。
まるで、次にどこから攻撃が来るのかを知っているかのようだった。
粋怜の表情が、次第に真剣なものへと変わっていく。
「……赤鬼。あなた、本当に新兵なの?」
「昨日入ったばかりだぞ」
「そういう意味ではないのだけれど」
「じゃあ、何の意味だ?」
「……ふふっ。意地悪ね」
粋怜は小さく笑うと、さらに踏み込んだ。
その瞬間、赤鬼の身体が自然に動いた。
相手の武器を受け流し、懐へ入り込み、木剣の切っ先を喉元へ突きつける。
それは、百回の人生で幾度となく繰り返してきた動作だった。
あまりにも自然すぎて、手加減することさえ忘れていた。
「……あ」
赤鬼が気づいたときには、すでに勝負が決まっていた。
粋怜の喉元には、木剣の切っ先が寸前で止められている。
練兵場が静まり返った。
兵士たちは、何が起こったのか理解できない様子で二人を見つめていた。
程普将軍が負けた。
それも、入隊したばかりの新兵に。
赤鬼はゆっくりと木剣を下ろし、気まずそうに頭をかいた。
「……悪い。つい、身体が動いた」
粋怜はしばらく黙っていた。
やがて、彼女は小さく息を吐き、穏やかな笑みを浮かべた。
「……本当に、驚いたわ」
「怒ってるか?」
「いいえ。むしろ感心しているの」
粋怜は赤鬼の木剣を見つめた。
「あなた、最後まで私に怪我をさせないようにしていたでしょう?」
「そりゃ模擬戦だからな」
「それだけじゃないわ。あなたの剣には、相手を傷つけずに制する技術がある。……とても優しい剣ね」
赤鬼は思わず黙り込んだ。
百回の人生で、彼の剣は数え切れないほどの命を奪ってきた。
敵を斬り、仲間を守り、時には自分の信念さえ曲げながら戦い続けてきた。
そんな剣を、優しいと言われたのは久しぶりだった。
「……買いかぶりすぎだよ」
「そうかしら?」
粋怜は微笑んだ。
「私は、そうは思わないわ」
その言葉に、赤鬼は何も返せなかった。
ただ、仮面の奥で静かに目を伏せる。
遠い昔、同じような言葉を彼女からかけられたことがあった。
あのときも、彼女はこうして優しく笑っていた。
胸の奥に懐かしさと痛みが広がる。
だが、その感傷に浸る暇はなかった。
「すげえええええっ!!」
牛山の大声が、練兵場に響き渡ったのである。
「赤鬼! お前、程普将軍に勝っちまったじゃねえか!」
「……おい、牛山。声がでかい」
「でかくもなるだろ! お前、何者なんだよ!」
「ただの兵士だって言ってるだろ」
「そんな兵士がいてたまるか!」
周囲の兵士たちも、ようやく我に返ったように騒ぎ始めた。
赤鬼は深いため息をついた。
今日もまた、平穏な生活から一歩遠ざかってしまったらしい。
◇◇◇
その日の夕方。
孫呉の王城では、一人の女性が退屈そうに椅子へ腰掛けていた。
美しい桃色の髪を持ち、華やかな容姿と堂々たる雰囲気を兼ね備えた女性。
江東の小覇王、孫策である。
彼女は机に積まれた書簡を眺めながら、心底うんざりしたように頬杖をついていた。
「ねえ、冥琳。まだ終わらないの?」
「終わらないのではない。お前が仕事をしていないだけだ」
向かいに立つ周瑜は、冷静な口調で答えた。
その手には新たな書簡が握られている。
「各地からの報告が溜まっている。王として、きちんと目を通せ」
「えー、面倒くさいわねえ。こういうのは冥琳の仕事じゃないの?」
「私の仕事は、お前の仕事をすべて肩代わりすることではない」
「けち」
「何とでも言え」
冥琳はため息をつきながら、書簡を机へ置いた。
孫策という女性は、戦場では恐るべき才能を発揮するが、政務となると途端に集中力を失う。
それでも、孫呉の王として人々を導く器量を備えているのだから、何とも厄介な人物だった。
そんな二人のもとへ、一人の兵士が報告に訪れた。
「失礼いたします! 程普将軍の部隊に配属された新兵について、ご報告がございます!」
「新兵?」
雪蓮が顔を上げた。
「何かあったの?」
「はっ! 本日の模擬戦において、その新兵が程普将軍に勝利したとのことです!」
冥琳の眉がわずかに動いた。
「……何だと?」
一方、雪蓮は目を輝かせた。
「えっ!? 粋怜に勝ったの!?」
「はっ! しかも、ほとんど攻撃を受けずに勝利したそうです!」
「へえ……!」
雪蓮は楽しそうに笑った。
退屈そうだった表情が、一瞬にして生き生きとしたものへ変わる。
「面白そうじゃない!」
冥琳は嫌な予感を覚えた。
「待て、雪蓮。まずは詳しい報告を――」
「ねえ、その新兵の名前は?」
「赤鬼と申します!」
「赤鬼?」
雪蓮は首を傾げた。
「変わった名前ねえ」
「それと、常に赤い鬼の仮面を身につけているそうです」
その説明を聞いた雪蓮は、ついに声を上げて笑い始めた。
「あはははっ! 何それ! ますます面白いじゃない!」
「……雪蓮」
冥琳の声が低くなる。
しかし、雪蓮はすでに椅子から立ち上がっていた。
「決めた! 明日、その赤鬼って子に会いに行くわ!」
「待て。お前にはまだ仕事が残っている」
「大丈夫よ! ちょっと顔を見るだけだから!」
「お前の『ちょっと』が信用できるものか!」
冥琳の制止も虚しく、雪蓮は楽しそうに笑いながら窓の外を眺めた。
孫呉に現れた、赤い鬼の仮面をつけた謎の新兵。
歴戦の宿将である程普を破ったという、その実力。
戦いを好み、強者との出会いを何より楽しむ雪蓮にとって、これほど興味をそそられる話はなかった。
「ふふっ……赤鬼、ね」
彼女は小さく呟いた。
「どんな男なのかしら?」
その声には、まだ見ぬ相手への純粋な好奇心が込められていた。
一方、その頃の赤鬼はというと。
「……へっくし!」
兵舎で突然くしゃみをしていた。
「おい、赤鬼。風邪か?」
隣で寝台を整えていた牛山が心配そうに尋ねる。
「いや……なんか、嫌な予感がした」
「嫌な予感?」
「ああ。ものすごく面倒なことが起こりそうな気がする」
赤鬼は仮面を外し、茶色い髪をかき上げながら深いため息をついた。
百回の人生で培われた勘が、何かを告げている。
それは敵襲でも、謀略でも、暗殺でもない。
もっと身近で、もっと厄介な何かだった。
「……まあ、気のせいだろ」
そう呟き、赤鬼は寝台へ横になった。
明日こそ平穏に過ごそう。
そう決意しながら目を閉じる。
しかし、その願いが叶うことはなかった。
翌朝、江東の小覇王が自ら練兵場へ乗り込んでくることなど、赤鬼はまだ知らない。
そして、百回の人生で幾度となく愛し、守ろうとしてきた女性と、百一回目の再会を果たすことになるのだった。
もっとも、その再会が感動的なものになるかどうかは、彼女の気分次第である。
何しろ相手は、あの孫策なのだから。
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