『真・恋姫†無双 ~赤鬼伝~ 百死転生の果てに、孫呉の小覇王を救う』 作:パスカルDX
第3話「江東の小覇王、赤鬼に興味津々! 孫策と仮面の兵士、運命の再会!」
江東の朝は、今日も穏やかだった。
王城の周囲には柔らかな朝日が降り注ぎ、城壁の向こうからは商人たちの威勢のよい声が聞こえてくる。市場では新鮮な野菜や魚が並べられ、荷車を引く商人たちが忙しなく通りを行き交っていた。戦乱の世にあっても、人々は日々の暮らしを営み、今日という一日を懸命に生きている。
そんな平和な朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、赤鬼は練兵場へ向かっていた。
黒を基調とした衣服の上から孫呉軍の軽装鎧を身につけ、腰には白銀の剣《雪白》と漆黒の剣《黒蓮》を差している。少し長めの茶色い髪は、朝の風に揺れるたびに赤い鬼の仮面の後ろから覗いていた。
仮面は今日も相変わらず恐ろしい顔をしている。
額から伸びる二本の角に、鋭い眼差しを思わせる目元。そして、牙を剥いた口元。
もっとも、本人の頭の中は、そんな物騒な見た目とは正反対のことでいっぱいだった。
「……今日は何事もなく終わってほしいもんだな」
赤鬼は心底疲れたように呟いた。
孫呉軍に入隊して、まだ三日目。
初日は採用試験で木柱をへし折り、二日目には直属の上官である程普との模擬戦に勝利してしまった。
百回もの人生を経験した男が、平穏な兵士生活を送ろうとしているだけなのに、なぜこうも毎日騒動が起こるのか。
本人としては、まったく納得がいかなかった。
「おーい、赤鬼!」
背後から聞き慣れた大声が響き、赤鬼は振り返る。
そこには、大柄な身体を揺らしながら走ってくる牛山の姿があった。
「お前、今日も早いな!」
「お前が遅いだけだろ。あと、朝から声がでかい」
「がははっ! 元気が一番だからな!」
「お前の元気を半分くらい分けてもらいたいよ。ついでに、いびきの音量も半分にしてくれ」
「まだ言ってるのかよ!」
「こっちは毎晩、敵軍の太鼓を聞きながら寝てる気分なんだぞ」
赤鬼が大げさに肩を落とすと、牛山は腹を抱えて笑い始めた。
その笑い声もまた、なかなかの音量である。
赤鬼は思った。
こいつの身体には、声量を調整する機能が備わっていないのではないだろうか。
そんなくだらないことを考えながら歩いているうちに、二人は練兵場へ到着した。
すでに多くの兵士たちが集まり、木剣を使った素振りや体力訓練を始めている。
赤鬼は周囲の様子を眺めながら、今日は何としてでも目立たないようにしようと心に誓った。
昨日のように将軍を倒すなど、もってのほかである。
「よし、今日は普通に過ごすぞ」
「普通って何だ?」
「普通は普通だ。木柱を折らない、将軍を倒さない、変な噂を広めない」
「お前の普通って、ずいぶん大変なんだな」
「……自分でもそう思う」
赤鬼は深いため息をついた。
すると、練兵場の奥から穏やかな女性の声が聞こえてきた。
「おはよう、みんな。今日もよろしくね」
程普が姿を現したのである。
孫呉の宿将である彼女は、今日も落ち着いた雰囲気をまとっていた。兵士たちを見渡す眼差しには優しさがあり、姿勢の崩れた者には柔らかな口調で注意を促している。
その姿を見た赤鬼は、思わず懐かしさを覚えた。
過去の人生でも、彼女はいつもこうして兵士たちを見守っていた。
戦場では冷静に指揮を執り、負傷者が出れば真っ先に駆け寄り、若い兵士が失敗すれば頭ごなしに叱るのではなく、次にどうすればよいのかを教えてくれる。
優しく、頼りがいがあり、そして誰よりも部下思いの女性だった。
「赤鬼、おはよう」
粋怜が赤鬼に気づき、微笑みかける。
「おはよう、程普将軍」
「昨日はよく眠れたかしら?」
「……隣の奴が静かなら、もっとよく眠れたんだがな」
赤鬼が牛山へ視線を向けると、当の本人は不思議そうに首を傾げた。
「俺か?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
粋怜は二人のやり取りを見て、小さく笑った。
「ふふっ。仲がいいのね」
「いや、こいつのいびきに殺されかけてるんだが」
「あら、それは大変ね。必要なら寝台の場所を変えてあげましょうか?」
「……本当か?」
「ええ、もちろんよ」
赤鬼は思わず身を乗り出した。
百回の人生を経験しても解決できなかった問題が、こんなにも簡単に解決するとは思わなかったのである。
「程普将軍……あんた、いい人だな」
「ふふっ。今さら気づいたの?」
粋怜は少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
その笑顔を見た赤鬼は、仮面の下で小さく笑う。
こういう何気ない会話ができることが、今の彼には何よりも嬉しかった。
だが、そんな穏やかな時間は、長く続かなかった。
練兵場の入口から、慌ただしい足音が聞こえてきたのである。
「程普将軍! 大変です!」
一人の兵士が駆け込んできた。
その顔には、明らかな焦りが浮かんでいる。
粋怜は落ち着いた様子で振り返った。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「そ、それが……!」
兵士は息を整えながら、驚くべき報告を口にした。
「孫策様が、こちらへ向かっておられます!」
その瞬間、練兵場の空気が変わった。
兵士たちは一斉に姿勢を正し、周囲に緊張が走る。
江東の小覇王。
孫呉の王である孫策が、わざわざ練兵場へやってくるというのだ。
普通の兵士にとっては、滅多にない出来事である。
しかし、赤鬼だけは違った。
「…………」
彼はゆっくりと空を見上げた。
青く澄み渡った空には、白い雲がのんびりと流れている。
実にいい天気だった。
「……帰っていいか?」
「駄目よ」
即答したのは粋怜だった。
赤鬼は彼女へ顔を向ける。
「まだ何も言ってないんだが」
「帰りたいのでしょう?」
「……よくわかったな」
「ふふっ。あなたのこと、少しずつわかってきたもの」
粋怜は楽しそうに微笑んだ。
赤鬼は頭を抱えたくなった。
どうやら、この女性には本当に何も隠せないらしい。
そして、彼が逃げ道を探している間にも、運命の足音は確実に近づいていた。
◇◇◇
「おっはよー!」
練兵場の入口から響いたのは、王の威厳など微塵も感じさせない、明るく元気な声だった。
その声に、兵士たちが一斉に振り返る。
現れたのは、桃色の長い髪を風になびかせた美しい女性だった。
華やかな衣装に身を包み、腰には愛刀を差している。整った顔立ちには自信に満ちた笑みが浮かび、その立ち姿には、自由奔放な性格とは裏腹に、歴戦の武人だけが持つ鋭い気配が宿っていた。
孫策伯符。
江東の小覇王にして、孫呉を率いる王。
彼女の姿を認めた兵士たちは、一斉に膝をつこうとした。
しかし、孫策は面倒くさそうに片手を振った。
「あー、いいわよ、そういうの! 今日はちょっと遊びに来ただけだから!」
その言葉を聞いた粋怜は、困ったように微笑んだ。
「孫策様。王が遊びに来たというのは、少々問題があるのではありませんか?」
「えー、いいじゃない。たまには息抜きも必要よ!」
「それはそうですが、政務はどうなさったのです?」
「…………」
孫策の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
粋怜はそれを見逃さなかった。
「……また冥琳に押しつけてきたのですね?」
「押しつけたんじゃないわよ! ちょっと任せてきただけ!」
「それを押しつけたと言うのでは?」
「粋怜まで冥琳みたいなこと言わないでよ!」
孫策は頬を膨らませた。
その姿は、とても一国の王とは思えない。
しかし、兵士たちは慣れているのか、誰も驚いた様子を見せなかった。
赤鬼もまた、懐かしい光景に思わず口元を緩めていた。
変わらない。
本当に、何も変わっていない。
あの豪快な笑い方も、自由奔放な振る舞いも、周囲を巻き込む天性の明るさも。
百回の人生で幾度となく見てきた孫策が、今、目の前で生きている。
その事実だけで、胸の奥が熱くなった。
「……孫策」
赤鬼は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
今すぐ駆け寄りたい衝動があった。
もう一度、その笑顔を間近で見たいという願いがあった。
だが、彼は動かなかった。
今の孫策にとって、自分は初対面の兵士でしかない。
過去の人生で交わした約束も、共に過ごした日々も、彼女は何一つ覚えていないのだ。
だからこそ、赤鬼は仮面の奥で静かに息を整えた。
彼女の前では、ただの兵士として振る舞う。
それが、百一回目の人生で自分に課した決まりだった。
しかし、そんな赤鬼の決意など、孫策が知るはずもない。
「ねえ、粋怜!」
「はい、何でしょう?」
「昨日の新兵って、どこにいるの?」
その言葉に、赤鬼の肩がわずかに跳ねた。
粋怜は一瞬だけ赤鬼へ視線を向け、それから穏やかに答える。
「赤鬼のことですね?」
「そうそう! その赤鬼!」
孫策は目を輝かせた。
「聞いたわよ! 昨日、粋怜に勝ったんでしょう?」
「ええ。見事な腕前でした」
「へえ……!」
孫策の笑みが深くなる。
その表情を見た赤鬼は、心の中で盛大にため息をついた。
ああ、知っている。
この顔を、嫌というほど知っている。
面白そうな玩具を見つけた子供のような笑顔。
そして、その笑顔を浮かべた孫策は、たいてい周囲の人間を巻き込んで大騒動を引き起こすのである。
「それで、どこにいるの?」
粋怜は赤鬼を見た。
赤鬼は首を横に振った。
粋怜は微笑んだ。
赤鬼はもう一度、今度は少し大きく首を横に振った。
しかし、粋怜は何事もなかったかのように口を開いた。
「赤鬼。こちらへ来てくれるかしら?」
「……裏切り者」
「あら、何か言った?」
「何でもないです、程普将軍」
赤鬼は諦めたように肩を落とし、兵士たちの列から歩み出た。
その姿を見た孫策の目が、さらに輝いた。
「わあ! 本当に鬼の仮面をつけてる!」
「……どうも」
「しかも真っ赤! 角まであるじゃない!」
「……見ればわかるだろ」
「ねえねえ、ちょっと触っていい?」
「駄目だ」
「えー! けち!」
孫策は楽しそうに笑いながら、赤鬼の周囲をぐるぐると歩き始めた。
右から眺め、左から眺め、時には背伸びをして仮面の角を覗き込む。
その様子は、珍しい動物を見つけた子供そのものだった。
「ねえ、あなた、本当に赤鬼って名前なの?」
「ああ」
「本名?」
「今はそう名乗ってる」
「ふーん……怪しいわねえ」
「仮面をつけてる時点で怪しいだろ」
「自覚あるんだ!」
孫策が声を上げて笑う。
赤鬼は肩をすくめた。
その様子を見ていた兵士たちは、内心で冷や汗を流していた。
王に対して、あまりにも遠慮がなさすぎる。
普通なら叱責されてもおかしくない態度だったが、孫策本人はまったく気にしていない。
むしろ、赤鬼が軽口を返すたびに楽しそうな笑みを深めていた。
「あなた、面白いわね!」
「よく言われる」
「しかも強いんでしょう?」
「普通だよ」
「普通の兵士が粋怜に勝てるわけないじゃない!」
「……それもよく言われる」
赤鬼が疲れたように答えると、孫策は満面の笑みを浮かべた。
そして、彼が最も恐れていた言葉を口にしたのである。
「ねえ、赤鬼! 私と勝負しない?」
練兵場が静まり返った。
兵士たちの視線が、一斉に赤鬼へ集まる。
赤鬼はしばらく孫策を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「……嫌だ」
あまりにも迷いのない即答だった。
孫策が目を丸くする。
「えっ?」
「嫌だって言ったんだよ。俺は普通の兵士なんだから、王様と勝負する理由がない」
「えー! いいじゃない、ちょっとくらい!」
「その『ちょっと』で何人の兵士が病院送りになったと思ってるんだ」
「……え?」
赤鬼は、しまったと思った。
過去の人生で見てきた光景が、つい口から出てしまったのである。
孫策は不思議そうに首を傾げた。
「あなた、私のこと知ってるの?」
「……有名だからな」
「ふーん?」
孫策は赤鬼の仮面をじっと見つめた。
その眼差しには、先ほどまでの無邪気な好奇心とは少し違うものが宿っていた。
赤鬼の言葉には、妙な親しみがある。
まるで、長年の知り合いに向かって話しているような自然さだった。
初めて会ったはずなのに、不思議と不快ではない。
むしろ、どこか懐かしい。
「……ねえ、赤鬼」
「何だ?」
「あなた、私とどこかで会ったことない?」
その問いかけに、赤鬼の胸が小さく痛んだ。
何度も会った。
何度も笑い合った。
何度も、守れなかった。
しかし、そんなことを今の彼女に話すわけにはいかない。
「……さあな。王様みたいな美人に会ったことがあれば、忘れないと思うけど」
赤鬼は冗談めかして答えた。
孫策は一瞬きょとんとした後、楽しそうに笑い始める。
「あははっ! 何それ! 口が上手いじゃない!」
「本当のことだろ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね!」
孫策は上機嫌になった。
赤鬼は内心で安堵する。
どうやら、うまく話を逸らせたらしい。
しかし、彼女の興味そのものが消えたわけではなかった。
「じゃあ、勝負しましょう!」
「話が戻ってるぞ!?」
「だって、強い人と戦うの好きなんだもの!」
「知ってるよ!」
「ほら、やっぱり私のこと知ってるじゃない!」
「有名だからだって!」
二人のやり取りを見ていた粋怜は、口元に手を添えて笑いを堪えていた。
普段は誰に対しても自由奔放な孫策だが、ここまで遠慮なく言い返してくる兵士は珍しい。
しかも、赤鬼は本気で困っているように見える。
その様子が、何とも微笑ましかった。
「孫策様。赤鬼も困っていますし、今日はこの辺りで――」
「えー、粋怜までそんなこと言うの?」
「赤鬼はまだ入隊して三日目ですから」
「でも、粋怜に勝ったんでしょう?」
「それはそうですが……」
粋怜は少し考え、それから赤鬼へ視線を向けた。
「赤鬼。無理にとは言わないけれど、もしよければ一度だけお相手してあげてくれないかしら?」
「……程普将軍」
「何?」
「あんた、俺の味方じゃなかったのか?」
「もちろん味方よ」
「味方の意味を辞書で調べ直した方がいいぞ」
粋怜は上品に笑った。
赤鬼は悟った。
逃げ道は、完全に塞がれたらしい。
◇◇◇
こうして、練兵場の中央に二人の姿が並ぶことになった。
一人は江東の小覇王、孫策。
もう一人は、赤い鬼の仮面をつけた謎の新兵、赤鬼。
周囲には兵士たちが集まり、興奮した様子で二人を見守っている。
赤鬼は支給された木剣を手に取り、その重さを確かめた。
昨日の反省を生かし、今日は絶対に力加減を間違えないつもりだった。
対する孫策も木剣を握り、楽しそうに肩を回している。
「ねえ、赤鬼。手加減しないでよ?」
「無茶言うな。王様に怪我させたら俺の首が飛ぶだろ」
「大丈夫よ! そんなことで怒らないから!」
「本人が怒らなくても、周りが怒るんだよ」
赤鬼は粋怜へ視線を向けた。
粋怜は穏やかに微笑んでいる。
しかし、その隣に立つ兵士たちは明らかに緊張していた。
王に怪我をさせれば、ただでは済まない。
赤鬼は深いため息をつく。
「……まあ、ほどほどにな」
「ふふっ。楽しみ!」
孫策が構えた。
その瞬間、彼女の雰囲気が変わった。
先ほどまでの無邪気な笑顔はそのままだが、身体から余計な力が抜け、足運びが静かになる。
歴戦の武人としての鋭さが、自然と滲み出していた。
赤鬼はその姿を見つめ、胸の奥に懐かしさを覚えた。
何度も見てきた構えだった。
何度も剣を交えた相手だった。
そして、何度も守れなかった女性だった。
「……いくわよ!」
孫策が地面を蹴った。
その踏み込みは鋭く、普通の兵士であれば反応することさえ難しい速度だった。
木剣が赤鬼の肩口へ迫る。
しかし、赤鬼は慌てなかった。
半歩だけ身体をずらし、剣の腹で攻撃を受け流す。
乾いた音が響いた。
「へえ!」
孫策の目が輝く。
彼女はすぐさま体勢を変え、連続して斬撃を繰り出した。
右、左、そして上段からの一撃。
赤鬼はそのすべてを、最小限の動きで捌いていく。
周囲の兵士たちは息を呑んだ。
孫策の剣は速い。
しかも、ただ速いだけではない。
相手の動きを見極め、隙を作り、そこへ鋭い一撃を叩き込む。
まさしく江東の小覇王にふさわしい剣術だった。
しかし、赤鬼はその攻撃をすべて見切っていた。
「……あなた、本当に強いわね!」
「そりゃどうも」
「でも、まだ本気じゃないでしょう?」
「……何のことだか」
赤鬼は軽く答えながら、孫策の攻撃を受け流した。
彼女の剣筋は、過去の人生で知っていたものとほとんど変わらない。
踏み込みの癖も、攻撃の組み立ても、勝負を急ぐときの呼吸も。
赤鬼にとって、それらはすべて懐かしい記憶だった。
しかし、今の孫策はそんなことを知らない。
だからこそ、彼女は次第に不思議な感覚を覚え始めていた。
自分の攻撃が、ことごとく読まれている。
それも、単に反応が速いというだけではない。
まるで、こちらが何をするのか最初から知っているような動きだった。
「……ねえ、赤鬼」
「何だ?」
「あなた、私の剣を知ってるの?」
赤鬼の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
その隙を、孫策は見逃さなかった。
「もらった!」
鋭い踏み込みとともに、木剣が赤鬼の胸元へ迫る。
赤鬼は反射的に身体をひねり、攻撃をかわした。
そして、そのまま孫策の手首を軽く押さえ、木剣の軌道を逸らす。
次の瞬間、二人の距離が一気に縮まった。
「……っ!」
孫策の目が見開かれる。
赤鬼の仮面が、すぐ目の前にあった。
彼の手は、孫策の手首を優しく支えている。
力任せに押さえつけるのではなく、怪我をさせないよう細心の注意を払った動きだった。
赤鬼はすぐに手を離し、一歩後ろへ下がった。
「……悪い。ちょっと近づきすぎたな」
孫策はしばらく黙っていた。
そして、突然笑い始めた。
「あはははっ! すごい! すごいわ、赤鬼!」
「……何がだよ」
「私の攻撃、全部読んでたでしょう!」
「偶然だ」
「嘘! 絶対に嘘!」
孫策は楽しそうに笑いながら、赤鬼へ詰め寄った。
「ねえ、もう一回!」
「嫌だ」
「もう一回だけ!」
「その言葉、信用できないんだよな……」
「お願い!」
赤鬼は仮面の下で深いため息をついた。
昔から、孫策という女性はこうだった。
面白い相手を見つければ、納得するまで付き合おうとする。
そして、そのたびに周囲の人間が振り回されるのである。
赤鬼は粋怜へ助けを求めるように視線を向けた。
すると、彼女は小さく頷いた。
「孫策様。そろそろお時間です」
「えー! まだ始まったばかりじゃない!」
「王のお仕事が残っていますから」
「冥琳に任せてあるわよ!」
「その冥琳から、先ほど伝令が届きました」
粋怜は懐から一枚の書簡を取り出した。
孫策の表情が固まる。
「……何て書いてあるの?」
「『今すぐ戻れ。逃げた場合は覚悟しておけ』とのことです」
「…………」
孫策はゆっくりと空を見上げた。
赤鬼もつられて空を見上げた。
青空には白い雲が浮かび、鳥たちが気持ちよさそうに飛んでいる。
実に平和な光景だった。
「……孫策様」
「何よ」
「ご愁傷様です」
「他人事みたいに言わないでよ!」
孫策の抗議に、赤鬼は思わず笑ってしまった。
その笑い声を聞いた孫策は、少しだけ頬を膨らませる。
「……赤鬼。あなた、絶対にまた相手してもらうからね!」
「気が向いたらな」
「約束よ!」
「いや、約束はしてないぞ」
「したことにする!」
「王権の乱用だ!」
赤鬼の叫びが練兵場に響き、周囲の兵士たちから笑い声が上がった。
孫策もまた、楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見た赤鬼は、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
百回の人生で、何度も失った笑顔。
今、目の前で確かに生きている女性。
それだけで、今日の騒動にも意味があったように思えた。
やがて孫策は木剣を返し、練兵場を後にすることになった。
しかし、去り際に彼女はふと足を止め、赤鬼を振り返った。
「……ねえ、赤鬼」
「何だ?」
「あなた、変な人ね」
「今さらかよ」
「でも……なんだか、懐かしい感じがするの」
赤鬼は息を止めた。
孫策は少しだけ不思議そうに微笑んだ。
「初めて会ったはずなのに、昔から知ってるみたい」
その言葉は、赤鬼の胸に深く突き刺さった。
何度も共に過ごした。
何度も笑い合った。
そして、何度も失った。
だが、その記憶を持っているのは自分だけだ。
赤鬼はしばらく黙っていたが、やがていつもの軽い調子で答えた。
「……王様が美人だから、どこかで夢にでも見たんじゃないか?」
孫策は一瞬きょとんとした後、楽しそうに笑った。
「あははっ! あなた、本当に口が上手いわね!」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
「ふふっ。またね、赤鬼!」
孫策は大きく手を振り、練兵場を後にした。
その背中を見送りながら、赤鬼は静かに息を吐いた。
百一回目の再会。
それは、思っていたよりもずっと騒がしく、そして温かなものだった。
◇◇◇
孫策が去った後、練兵場にはしばらく興奮した空気が残っていた。
兵士たちは口々に赤鬼の剣術を称賛し、牛山に至っては、まるで自分の手柄であるかのように大騒ぎしていた。
「すげえぞ、赤鬼! お前、王様と互角に戦ってたじゃねえか!」
「互角じゃない。向こうが遊んでただけだ」
「それでもすげえって!」
「……頼むから静かにしてくれ」
赤鬼は疲れたように肩を落とした。
すると、背後から柔らかな声が聞こえてきた。
「赤鬼。少しいいかしら?」
振り返ると、粋怜が立っていた。
彼女は先ほどまでの穏やかな笑みを浮かべていたが、その眼差しにはどこか真剣なものが宿っている。
「……何だ、程普将軍」
「少し歩きましょうか」
赤鬼は頷き、彼女の後について練兵場を離れた。
二人が向かったのは、城壁沿いにある静かな庭だった。
木々の間を抜ける風が心地よく、遠くからは兵士たちの訓練の声が聞こえてくる。
粋怜はしばらく黙って歩いていたが、やがて足を止めた。
「……赤鬼」
「何だ?」
「あなた、本当は孫策様のことを知っているのでしょう?」
赤鬼の足が止まった。
粋怜は責めるような口調ではなかった。
ただ、静かに問いかけているだけだった。
「あなたの剣には、あの方の動きを知り尽くしているようなところがあったわ。それに……」
彼女は少しだけ目を細めた。
「孫策様を見るあなたの目が、とても懐かしそうだったから」
赤鬼は何も答えなかった。
仮面の下で、静かに息を吐く。
この女性は、本当に人をよく見ている。
戦場では敵の動きを見抜き、日常では仲間の心の変化を察する。
百回の人生を経験しても、彼女のこうしたところには敵わない。
「……昔、似たような人に会ったことがあるんだ」
赤鬼はゆっくりと口を開いた。
「豪快で、自由奔放で、人の話を聞かなくて……でも、誰よりも仲間思いの女だった」
粋怜は黙って聞いていた。
「そいつも、よく笑ってたよ。馬鹿みたいに明るくて、周りを巻き込んで……気づいたら、みんな笑ってるんだ」
赤鬼の声には、いつもの軽さがなかった。
遠い記憶を辿るような、静かな響きがあった。
「……大切な人だったのね」
粋怜が優しく尋ねる。
赤鬼は少しだけ顔を上げた。
「……ああ。大切だった」
その短い答えに込められた感情を、粋怜は察したのだろう。
それ以上、無理に聞こうとはしなかった。
ただ、そっと微笑んだ。
「そう。なら、きっと素敵な人だったのでしょうね」
「……そうだな」
赤鬼は小さく頷いた。
粋怜はしばらく彼の隣に立ち、静かな風を感じていた。
そして、少しだけ明るい声で言った。
「でも、赤鬼。今のあなたには、ここにも仲間がいるのよ」
「……仲間?」
「ええ。牛山も、他の兵士たちも、そして私も」
粋怜は優しく微笑んだ。
「あなたが何を抱えているのか、今はわからないけれど……一人で全部背負わなくてもいいのよ」
赤鬼は思わず彼女を見つめた。
百回の人生で、何度も聞いたような言葉だった。
それでも、今の彼には新鮮に響いた。
「……程普将軍」
「何かしら?」
「あんた、本当に優しいな」
「ふふっ。褒めてもお給料は上がらないわよ?」
「……そこは上げてくれてもいいんじゃないか?」
「残念ね。まだ入隊三日目でしょう?」
粋怜が楽しそうに笑う。
赤鬼もつられて笑った。
重くなりかけていた空気が、少しずつ柔らかくなっていく。
こうして誰かと冗談を交わせることが、今の赤鬼には何よりもありがたかった。
しかし、その日の騒動はまだ終わっていなかった。
夕方、赤鬼が兵舎へ戻ると、牛山が満面の笑みで駆け寄ってきた。
「おい、赤鬼! 大変だぞ!」
「……今度は何だ」
「お前、王様に気に入られたらしいぞ!」
「……は?」
「さっき伝令が来てな! 明日、王城へ来るようにって!」
赤鬼は固まった。
牛山は嬉しそうに続ける。
「すげえじゃねえか! 入隊三日目で王様から直々に呼び出しだぞ!」
「…………」
「どうした、赤鬼?」
赤鬼はゆっくりと天井を見上げた。
そして、百回の人生で培ったすべての感情を込めて、深いため息をついた。
「……俺の平穏な兵士生活、どこ行った?」
牛山は豪快に笑った。
その笑い声が兵舎に響き渡る。
赤鬼は寝台へ腰を下ろし、両手で頭を抱えた。
孫呉に入隊して、まだ三日目。
それなのに、王に目をつけられ、将軍に実力を見抜かれ、兵士たちからは英雄扱いされ始めている。
百回の人生で何度も経験した、嫌な流れだった。
だが、赤鬼はまだ知らない。
この呼び出しが、彼の運命をさらに大きく動かすことになるということを。
そして、王城ではもう一つの異変が起ころうとしていた。
天から現れたと噂される、一人の青年。
その名は――北郷一刀。
百一回目の世界で、二人の北郷一刀がついに交わろうとしていた。
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