『真・恋姫†無双 ~赤鬼伝~ 百死転生の果てに、孫呉の小覇王を救う』 作:パスカルDX
第5話「天の御使い、地獄の剣術修行!? 赤鬼先生と孫呉の愉快な仲間たち!」
孫呉の王城がまだ深い眠りに包まれている頃、東の空には夜明けの気配がわずかに滲み始めていた。
城壁の上では夜番の兵士たちが交代の準備を進め、厨房では朝食の仕込みが始まっている。秋の訪れを感じさせる冷たい風が石畳の上を吹き抜け、練兵場の片隅に植えられた木々の葉を静かに揺らしていた。
そんな早朝の練兵場に、二人の男が立っていた。
一人は、黒を基調とした衣服の上から孫呉軍の軽装鎧を身につけ、腰に二振りの剣を差した男。少し長めの茶色い髪を持ち、顔には二本の角と鋭い牙が彫り込まれた赤い鬼の仮面をつけている。
孫呉軍の新兵、赤鬼である。
そしてもう一人は、現代日本からこの世界へやってきたばかりの青年、北郷一刀だった。
「……赤鬼さん」
「何だ、北郷」
「一つ聞いてもいいですか?」
「質問は無料だぞ。ただし、答えるかどうかは内容次第だ」
一刀は眠そうな目をこすりながら、まだ薄暗い空を見上げた。普段なら布団の中で気持ちよく眠っている時間であり、学校に通っていた頃でさえ、これほど早く起きることは滅多になかった。
「どうして、こんな時間から訓練するんですか……?」
「朝だからだな」
「それ、答えになってませんよね!?」
赤鬼は仮面の奥で笑いながら、手にしていた木剣を肩へ担いだ。
「まあ、理由はいくつかある。朝は身体が動き始めるまで時間がかかるから、準備運動を兼ねて基礎を叩き込むにはちょうどいい。それに、昼間は俺にも部隊の仕事があるからな」
「なるほど……」
「それから、朝飯がうまくなる」
「最後の理由だけ妙に生活感がありますね!」
「重要だぞ。飯がうまいってのは、人生においてかなり大切なことだからな」
赤鬼が大真面目に答えると、一刀は思わず苦笑した。
昨日、王城で初めて出会ったこの男は、見た目こそ恐ろしいものの、話してみれば驚くほど気さくな人物だった。
孫策や周瑜を相手にしても物怖じせず、将軍である程普にも平然と軽口を叩く。その一方で、相手を見下すような態度は取らず、一刀に対しても年下の弟へ接するような親しみやすさがあった。
ただ、一つだけ問題がある。
この男の考える「普通」は、どうやら一般人の常識から大きく外れているらしい。
「さて、まずは軽く走るか」
「はい! どれくらいですか?」
「練兵場を五周だな」
「五周……それなら、何とか」
一刀は少し安心した。
練兵場は広いが、五周程度なら頑張れば走り切れるだろう。現代日本にいた頃も体育の授業で持久走を経験しているし、運動が極端に苦手というわけでもない。
ところが、赤鬼は何気ない調子で付け加えた。
「その後、歩きながら呼吸を整えて、足運びの練習をする」
「……え?」
「ん?」
「五周で終わりじゃないんですか?」
「準備運動が終わるだけだぞ」
一刀は静かに空を見上げた。
夜明け前の空には、まだ星がいくつか残っている。
昨日まで自分が暮らしていた世界では、今頃は温かな布団に包まれていただろう。目覚まし時計が鳴るまで眠り、起きてからも二度寝をするかどうかで悩んでいたはずだ。
それがどうして、異世界で赤い鬼の仮面をつけた男に走らされることになったのか。
「……異世界って、もっと夢のある場所だと思ってました」
「夢ならあるぞ。頑張れば朝飯をおかわりできるかもしれん」
「夢が小さい!」
赤鬼は声を上げて笑った。
百回の人生で幾度となく見てきた、若い頃の自分らしい反応だった。
かつての北郷一刀も、突然放り込まれた乱世に戸惑いながら、それでも周囲の人々に助けられて前へ進んできた。
今、目の前にいる青年は、まだ戦場の恐ろしさを知らない。
剣を握ることの意味も、人の命を奪う重さも、十分には理解していないだろう。
だからこそ、赤鬼は最初から無理をさせるつもりはなかった。
「冗談はこの辺にしておくか。北郷、最初から飛ばすなよ。苦しくなったら歩いていいし、気分が悪くなったらすぐ言え」
「……あれ? 意外と優しいんですね」
「意外とは何だ、意外とは」
「だって、もっと厳しい訓練をするのかと思ってました」
「お前を強くしたいのであって、壊したいわけじゃないからな」
赤鬼はそう答えると、一刀の背中を軽く叩いた。
「ほら、行ってこい。俺も一緒に走ってやる」
「はい!」
二人は並んで走り始めた。
最初の一周は、一刀も余裕を持って走ることができた。二周目になると呼吸が少し乱れ始め、三周目には額に汗が浮かび、四周目に入る頃には、隣で涼しい顔をしている赤鬼を恨めしそうに見つめていた。
「はあ……はあ……赤鬼さん……!」
「何だ?」
「どうして……そんなに……平気なんですか……!」
「慣れだな」
「どれくらい……走れば……慣れるんですか……?」
「人による」
「そこは……希望のある答えを……!」
赤鬼は笑いながら、一刀の歩幅に合わせて速度を落とした。
そして、彼の呼吸が浅くなっていることに気づくと、無理に走り続けさせず、歩いて息を整えるよう促した。
身体を鍛えるには時間が必要だ。
焦って負荷をかけすぎれば怪我につながるし、何より訓練そのものを嫌いになってしまう。
百回の人生で数多くの兵士を育ててきた赤鬼は、そのことを誰よりも理解していた。
もっとも、そんな彼の指導を見ている人物が、すでに練兵場の入口に立っていることには気づいていた。
「……あら。ずいぶん早いのね」
柔らかな女性の声が、朝の空気に溶け込んだ。
赤鬼が振り返ると、そこには程普が立っていた。
孫家に長く仕える宿将であり、真名を粋怜という女性である。
落ち着いた佇まいと涼やかな眼差しを持つ彼女は、兵士たちから厚い信頼を寄せられていた。厳しさを必要とする場面では毅然と振る舞う一方、普段は部下の小さな変化にも気づく、優しく包容力のある将軍だった。
「おはよう、程普将軍」
「おはよう、赤鬼。それから、北郷殿も」
「お、おはようございます……!」
一刀は慌てて姿勢を正そうとしたが、走り込みの疲労で足元がふらつき、危うく前のめりになりかけた。
赤鬼がさりげなく腕を支えると、粋怜は心配そうに近づいてきた。
「大丈夫? 無理をしていないかしら?」
「は、はい……ちょっと疲れただけです」
「そう。ならよかったわ」
粋怜は安心したように微笑み、それから赤鬼へ視線を向けた。
「あなた、ちゃんと相手に合わせて訓練しているのね」
「そりゃそうだろ。初日から無茶させても意味がないからな」
「ふふっ。昨日、王城で『厳しくするぞ』なんて言っていたから、少し心配していたのよ」
「あれは半分冗談だ」
「残りの半分は?」
「……気合いだな」
粋怜は小さく笑った。
「便利な言葉ね、気合いって」
「使い方を間違えると危険だけどな」
赤鬼が肩をすくめると、粋怜は感心したように目を細めた。
彼の言動は軽い。
しかし、実際の指導は驚くほど丁寧だった。
相手の呼吸、歩幅、疲労の度合いを見極め、無理のない範囲で少しずつ負荷をかけている。
それは単に剣の腕が立つというだけでは身につかない、指導者としての経験を感じさせるものだった。
「……赤鬼。あなた、以前にも誰かに剣を教えていたことがあるの?」
「まあ、何人かにはな」
「何人くらい?」
「……数えるのをやめた」
赤鬼は何気なく答えた。
粋怜はその言葉に、ほんの少しだけ表情を変えた。
若い男が見栄を張っているようには聞こえない。
むしろ、本当に数え切れないほどの人間を指導してきた者の言葉に思えた。
しかし、彼女はそれ以上追及しなかった。
赤鬼には、まだ話したくない事情があるのだろう。
そう理解していたからである。
「そう。なら、安心して任せられそうね」
「期待しすぎないでくれよ。俺はただの兵士なんだから」
「ふふっ。その台詞、もう何回聞いたかしら」
粋怜の笑顔に、赤鬼は返す言葉を失った。
どうやら、自分の「ただの兵士」という主張は、すでに彼女の中で冗談扱いされているらしい。
実に遺憾である。
その後、一刀の呼吸が落ち着いたところで、赤鬼は木剣を一本手渡した。
「さて、次は剣の握り方だ」
「はい!」
「まず、そんなに力を入れるな。握りしめすぎると腕が固まって、かえって動きが鈍くなる」
一刀は言われたとおりに力を緩めたが、今度は木剣が手から滑りそうになり、慌てて握り直した。
「うわっ!」
「緩めすぎだ。落としたら意味がないぞ」
「難しいですね……」
「最初はそんなもんだ」
赤鬼は一刀の手元を確認し、指の位置と手首の角度を丁寧に直していく。
続いて足の置き方を教え、重心を移動させながら前後へ動く練習を始めた。
剣を振る前に、まず足元を安定させる。
相手の攻撃を受けることより、危険な場所から身体を動かすことを覚える。
それが赤鬼の考える、初心者に必要な最初の一歩だった。
「いいか、北郷。戦場で一番大事なのは何だと思う?」
「えっと……敵に勝つこと、ですか?」
「違うな」
「じゃあ、仲間を守ること?」
「それも大切だ。だが、まずは自分が生き残ることだよ」
赤鬼の声から、ふっと冗談めいた響きが消えた。
「自分が倒れたら、守れるはずだった仲間も守れなくなる。だから、勝てない相手からは逃げていいし、危ないと思ったら助けを呼べ。格好つけて死ぬより、生きて帰って飯を食う方がずっと立派だ」
一刀は真剣な表情で頷いた。
その言葉には、不思議な説得力があった。
単に教本に書かれた知識を説明しているのではない。
実際に多くの戦場を経験し、何度も命の危険に晒されてきた者の言葉なのだと、自然に感じられた。
「……はい。覚えておきます」
「ああ。それでいい」
赤鬼は満足そうに頷いた。
そのやり取りを少し離れた場所から見守っていた粋怜は、静かに目を細めた。
赤鬼という男は、不思議な人物だった。
普段は給料や食事のことばかり気にしているくせに、命に関わる話になると、まるで別人のような重みを帯びる。
そして、その言葉の奥には、時折ひどく深い悲しみが覗いていた。
彼はいったい、何を経験してきたのだろう。
粋怜はそんな疑問を胸に抱きながらも、今は静かに二人を見守ることにした。
だが、練兵場の平穏は、そう長く続かなかった。
「おっはよー! みんな、元気にやってるー?」
突然、聞き覚えのある明るい声が響いたのである。
赤鬼は木剣を握ったまま、ゆっくりと目を閉じた。
「……来たか」
練兵場の入口から現れたのは、桃色の長い髪をなびかせた孫策だった。
江東の小覇王にして、孫呉を率いる王。
その華やかな容姿と堂々たる立ち姿は、誰もが思わず目を奪われるほど美しい。
もっとも、本人はそんな威厳など気にした様子もなく、満面の笑みを浮かべながら赤鬼へ手を振っていた。
「あっ、赤鬼! ちゃんと一刀の訓練してるのね!」
「……おはようございます、王様」
「何よ、その嫌そうな声!」
「気のせいだろ」
「絶対に気のせいじゃないわよね!?」
孫策は頬を膨らませながら近づいてきた。
赤鬼は心の中でため息をつく。
昨日、ようやく王城から解放されたと思ったばかりなのに、翌朝にはもう本人がやってくるとは。
百回の人生を経験した彼でさえ、孫策の行動力には毎度のことながら感心させられる。
「孫策様。おはようございます」
粋怜が穏やかに頭を下げる。
「あら、粋怜もいたのね!」
「はい。部隊の訓練を確認しに参りました」
「ふふっ、ちょうどよかったわ!」
孫策は楽しそうに笑いながら、赤鬼の手元にある木剣へ視線を向けた。
その瞬間、赤鬼は嫌な予感を覚えた。
いや、予感というより確信だった。
「ねえ、赤鬼!」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないじゃない!」
「どうせ勝負しようって言うんだろ」
「……えっ?」
孫策は目を丸くした。
赤鬼は肩をすくめる。
「昨日も同じこと言ってたからな」
「むう……先に言われちゃった」
孫策は少し悔しそうに唇を尖らせたが、すぐに楽しそうな笑顔へ戻った。
「でも、今日は違うわよ!」
「ほう?」
「一刀の訓練を見に来たの!」
赤鬼は一瞬だけ安心した。
しかし、その安心は次の一言で粉々に砕かれることになる。
「それで、ついでに私も赤鬼と勝負しようかなって!」
「結局同じじゃねえか!」
赤鬼の叫びが練兵場に響き渡った。
一刀は困ったように笑い、粋怜は口元に手を添えて微笑んでいる。
孫策だけが、心底楽しそうだった。
「いいじゃない! 昨日は途中で終わっちゃったんだもの!」
「王様には政務ってものがあるだろ!」
「今日はちゃんと冥琳に許可をもらってきたわよ!」
「……本当か?」
「もちろん!」
孫策は胸を張った。
その自信満々な態度に、赤鬼は疑いの眼差しを向けた。
過去の人生で、彼女が同じ台詞を口にした後、実際には許可を取っていなかったことが何度あっただろうか。
赤鬼は思わず粋怜へ視線を向ける。
すると、彼女は穏やかに頷いた。
「今回は本当よ。冥琳からも、短時間なら構わないと聞いているわ」
「……珍しいこともあるもんだな」
「何よ! 私だってちゃんと約束くらい守るわよ!」
「はいはい、偉い偉い」
「子供扱いしないでよ!」
孫策は頬を膨らませた。
その姿を見て、赤鬼は思わず笑ってしまった。
懐かしい。
あまりにも懐かしいやり取りだった。
何度も失ったはずの女性が、今こうして目の前で笑っている。
それだけで、胸の奥に温かなものが広がっていく。
しかし、赤鬼はすぐに気持ちを切り替えた。
今は一刀の訓練中である。
王が来たからといって、予定をすべて変更するわけにはいかない。
「悪いが、まずは北郷の訓練が先だ」
「えー!」
「えー、じゃない。俺はこいつの指南役として給料をもらってるんだからな」
赤鬼が真面目な口調で答えると、孫策は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
そして、楽しそうに笑った。
「ふふっ。赤鬼って、意外と真面目なのね」
「仕事には真面目なんだよ」
「じゃあ、仕事じゃなかったら?」
「昼寝する」
「即答!?」
一刀が思わず笑い出した。
粋怜も小さく肩を揺らしている。
孫策は呆れたように赤鬼を見つめたが、すぐに何かを思いついたらしく、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、私が一刀の相手をしてあげる!」
「駄目だ」
「どうしてよ!」
「初心者相手に王様が本気になったらどうするんだ」
「ちゃんと手加減するわよ!」
「その言葉を信用できるほど、俺は純粋じゃないんだよ」
赤鬼はきっぱりと答えた。
孫策は不満そうに頬を膨らませたものの、粋怜が穏やかに口を挟んだことで、ようやく引き下がった。
「孫策様。まずは赤鬼の指導を見守りましょう。きっと参考になることもありますよ」
「……粋怜がそう言うなら、仕方ないわね」
孫策は渋々頷いた。
赤鬼は安堵の息を吐く。
やはり、こういう場面では粋怜が頼りになる。
もっとも、その後に彼女が「終わったら少しくらいお相手してあげてもいいのでは?」と微笑んだため、赤鬼の信頼は一瞬で揺らぐことになったのだが。
訓練が再開されると、一刀は木剣を握り直し、赤鬼から教わった足運びを繰り返した。
赤鬼は彼の動きを確認しながら、必要な部分だけを短く指摘する。
「右足を出すとき、身体が前に倒れすぎてる。もう少し腰を落としてみろ」
「こ、こうですか?」
「そうそう。いい感じだ。今度は後ろへ下がってみろ」
一刀は言われたとおりに動こうとしたが、慣れない足運びに意識を取られ、左右の足が絡まりそうになった。
「うわっ!」
「おっと」
赤鬼は素早く手を伸ばし、一刀の肩を支えた。
その動きはあまりにも自然で、周囲の者たちは一瞬、何が起こったのかわからなかった。
「……ありがとうございます」
「気にするな。最初は誰でも転びそうになるもんだ」
赤鬼は笑いながら答えた。
その様子を見ていた孫策は、興味深そうに目を細めた。
「……ねえ、粋怜」
「はい?」
「赤鬼って、本当に不思議な男ね」
「ええ。私もそう思います」
「強いのに、全然偉そうにしないし……それに、何だかすごく慣れてる感じがするのよね」
粋怜は静かに頷いた。
赤鬼の指導には、確かな経験が感じられる。
しかも、相手の力量を見極める目が非常に優れていた。
ただ強いだけの武人なら、ここまで丁寧に初心者へ教えることは難しいだろう。
「……あの子、きっと多くのことを経験してきたのでしょうね」
粋怜がそう呟くと、孫策は少しだけ首を傾げた。
「ふーん……」
そして、赤鬼の背中をじっと見つめる。
赤い鬼の仮面。
茶色い髪。
腰に差した二振りの剣。
その姿は、どこか異質だった。
しかし、不思議と恐ろしさは感じない。
むしろ、近くにいると妙に安心する。
まるで、昔から知っている誰かが傍にいるような感覚だった。
「……変なの」
孫策は小さく呟いた。
その声には、本人にも説明できない感情が滲んでいた。
やがて、午前の訓練が一区切りついた頃だった。
練兵場の入口から、鋭い声が響いた。
「孫策様!」
その声に、赤鬼はゆっくりと振り返った。
現れたのは、凛とした雰囲気をまとった女性だった。
引き締まった身体に、武人らしい鋭い眼差し。腰には武器を携え、その立ち姿からは一切の隙が感じられない。
甘寧。
孫呉の将であり、孫策を守ることに強い忠誠心を抱く女性だった。
真名は思春。
赤鬼はその姿を認め、心の中で小さくため息をついた。
また一人、懐かしい人物が現れた。
そして同時に、嫌な予感もした。
何しろ甘寧という女性は、孫策の身辺に近づく不審者を決して見逃さない。
ましてや、赤い鬼の仮面をつけた正体不明の男など、警戒されない方がおかしかった。
「孫策様。こちらにおられましたか」
「あら、思春。どうしたの?」
「護衛の者から、こちらへ向かわれたと聞きましたので」
甘寧は孫策へ頭を下げた後、周囲を見渡した。
そして、その視線が赤鬼のところで止まった。
「……貴様」
「……どうも」
赤鬼は軽く片手を上げた。
甘寧の眉がわずかに動く。
「その仮面は何だ」
「趣味だ」
「……趣味?」
「ああ。気に入ってるんだよ」
赤鬼が何気なく答えると、甘寧の表情が険しくなった。
「孫策様の御前で顔を隠すとは、無礼ではないか」
「まあ、そう言われると返す言葉もないな」
「ならば外せ」
「それは断る」
即答だった。
甘寧の眼差しが鋭くなる。
周囲の空気が、少しずつ張り詰め始めた。
一刀は不安そうに二人を見比べ、孫策は面白そうに目を輝かせている。
粋怜だけが、落ち着いた様子で状況を見守っていた。
「貴様……孫策様に対して、何か隠し事でもあるのか?」
「隠し事の一つや二つ、誰にでもあるだろ」
「その態度が怪しいと言っている!」
「仮面をつけてる時点で怪しいのは認めるよ」
「開き直るな!」
甘寧の声が練兵場に響き渡った。
赤鬼は仮面の下で苦笑した。
やはり、この女性は変わらない。
真面目で、忠義に厚く、そして少々融通が利かない。
過去の人生でも、初対面の頃は何度も衝突したものだった。
「まあまあ、思春。そんなに怒らなくてもいいじゃない」
孫策が楽しそうに割って入った。
「この子、赤鬼っていうの。すごく強いのよ!」
「……赤鬼?」
「そう! 昨日、粋怜に勝ったの!」
甘寧の表情が変わった。
彼女はゆっくりと粋怜へ視線を向ける。
「程普殿。それは事実ですか?」
「ええ。見事な腕前だったわ」
粋怜は穏やかに頷いた。
甘寧はしばらく黙っていたが、やがて赤鬼へ向き直った。
「……ならば、その実力を確かめさせてもらおう」
赤鬼は天を仰いだ。
「……またかよ」
昨日は程普。
その前は採用試験。
そして今日は甘寧。
孫呉に入隊してまだ五日目だというのに、どうしてこうも将軍たちから勝負を申し込まれるのか。
「悪いが、俺は今、北郷の訓練中なんだ」
「逃げるのか?」
「逃げるというか、仕事を優先してるんだよ」
「言い訳にしか聞こえんな」
甘寧の鋭い言葉に、赤鬼は肩をすくめた。
すると、孫策が楽しそうに笑いながら手を叩いた。
「いいじゃない! 思春と赤鬼の勝負、見てみたいわ!」
「王様、あんた本当に楽しそうだな……」
「もちろん!」
孫策は満面の笑みを浮かべた。
赤鬼は深いため息をつく。
どうやら、今日も平穏な一日にはならないらしい。
しかし、ここで粋怜が静かに口を開いた。
「甘寧殿。赤鬼は今、北郷殿の指南役として訓練を行っています。もし勝負をするのであれば、午後の部隊訓練が終わってからにしていただけませんか?」
その穏やかな言葉には、将軍としての確かな威厳が込められていた。
甘寧は一瞬だけ表情を引き締め、それから頷いた。
「……承知しました」
赤鬼は心の中で歓声を上げた。
助かった。
やはり、粋怜は頼りになる。
しかし、その直後だった。
「では、午後の訓練が終わったら、改めてお相手してもらいましょう」
粋怜が微笑みながら続けたのである。
「……程普将軍」
「何かしら?」
「あんた、俺を助けたいのか、追い詰めたいのか、どっちなんだ?」
「ふふっ。もちろん、助けたいと思っているわよ」
「……本当か?」
「ええ。だから、ちゃんと休憩時間も取ってあげるでしょう?」
赤鬼は返す言葉を失った。
どうやら、この女性は優しいだけではない。
必要なときには、きっちりと逃げ道を塞いでくるらしい。
百回の人生で何度も世話になった相手だけに、今さら驚くことではないのだが、それでも赤鬼は思わず頭を抱えたくなった。
そんな彼の様子を見て、孫策は楽しそうに笑い、一刀もつられて笑っていた。
そして甘寧だけが、真剣な表情で赤鬼を見つめている。
こうして、赤鬼の午後の予定は本人の意思とは無関係に決定した。
甘寧との模擬戦。
しかも、孫策が観戦するというおまけ付きである。
赤鬼は心の中で静かに呟いた。
百一回目の人生も、どうやら平穏とは無縁らしい。
しかし、その騒動の中で、彼は一つだけ確かなことを感じていた。
今、目の前には大切な人々が生きている。
孫策が笑い、粋怜が優しく見守り、甘寧が真剣な眼差しを向け、若い一刀が戸惑いながらも前へ進もうとしている。
かつて何度も失った日常が、確かにここにあった。
だからこそ、赤鬼はこの時間を守りたいと思った。
たとえ、将軍たちに次々と勝負を申し込まれ、平穏な兵士生活が遠ざかっていくとしても。
それでも、この賑やかな日々を失うよりは、ずっといい。
「……まあ、仕方ないか」
赤鬼は小さく笑い、木剣を肩へ担いだ。
そして、隣に立つ一刀へ声をかける。
「ほら、北郷。午前の訓練を続けるぞ」
「はい!」
「午後は見学になるかもしれんから、今のうちに基本を覚えておけよ」
「わかりました!」
若い一刀は元気よく答えた。
その笑顔を見た赤鬼は、仮面の下で静かに微笑んだ。
百一回目の人生。
まだ始まったばかりの物語。
その先に何が待ち受けているのか、今は誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは、赤鬼の平穏な兵士生活が、今日もまた遠ざかっていくということだった。
そして午後。
孫呉の練兵場では、赤い鬼の仮面をつけた謎の新兵と、忠義に厚い将軍・甘寧による模擬戦が行われようとしていた。
その勝負が、赤鬼の名をさらに広めることになるとも知らずに。
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