『真・恋姫†無双 ~赤鬼伝~ 百死転生の果てに、孫呉の小覇王を救う』 作:パスカルDX
第7話「赤鬼先生、大繁盛!? 孫呉軍の新兵たちと鬼の特別訓練!」
孫呉の王城に朝日が差し込み始めた頃、赤鬼は兵舎の寝台に腰掛け、目の前に置かれた一枚の木札をじっと見つめていた。
木札には、達筆な文字で彼の名前と新しい役目が記されている。
『程普直属部隊・剣術指南補佐 赤鬼』
その下には、当面の訓練予定と担当する兵士の人数まで丁寧に書き込まれていた。どうやら昨夜のうちに正式な指示が出されたらしく、今朝になって部隊の伝令がわざわざ届けに来たのである。
赤鬼は木札を持ち上げ、表を眺め、裏を確かめ、もう一度表へ戻した。
何度見直しても文字は変わらない。
「……おかしいな」
彼は深刻な声で呟いた。
百回の人生を経験した男にとって、少々の異常事態は驚くに値しない。戦場で数万の敵に囲まれたこともあれば、味方の軍議が大喧嘩に発展したこともあり、酒に酔った将軍たちの騒動を一晩中収拾した経験さえある。
しかし、今回ばかりは納得がいかなかった。
自分は孫呉軍へ入隊したばかりの新兵である。
まだ六日目なのだ。
それなのに、どうして部隊の剣術指導を任されることになっているのだろうか。
「……俺はいつから先生になったんだ?」
その問いかけに答えたのは、隣の寝台で朝食を楽しみにしながら靴紐を結んでいた牛山だった。
「昨日からだろ!」
「そういう意味じゃない」
「がははっ! いいじゃねえか! お前、強いんだから!」
「強いことと、人に教えることは別だぞ」
「でも、お前は北郷にも教えてるだろ?」
「……まあ、そうなんだが」
赤鬼は木札を膝の上へ置き、深いため息をついた。
確かに、若い北郷一刀の指南役を引き受けたのは自分である。特別手当が出るという話もあったし、何より、まだ戦場を知らない青年へ自分の身を守る術を教えておきたかった。
しかし、それと部隊全体の訓練を担当することは話が違う。
指導する人数が増えれば、当然ながら仕事も増える。
仕事が増えれば、休憩時間が減る。
休憩時間が減れば、昼寝ができなくなる。
これは由々しき問題だった。
「……牛山。俺は人生で何を間違えたんだろうな」
「お前、朝から難しいこと考えてんな!」
「こっちは真剣なんだよ」
「そんなことより、早く行こうぜ! 今日はお前が先生なんだろ!」
牛山は豪快に笑いながら立ち上がった。
赤鬼はその元気な姿を見上げ、ふと疑問を覚えた。
「……お前、もしかして訓練を楽しみにしてるのか?」
「当たり前だろ! お前みたいに強くなれたら、俺だって将軍になれるかもしれねえからな!」
「……なるほど」
赤鬼は小さく頷いた。
そして、仮面の下で意地悪く笑う。
「じゃあ、今日は特別に厳しくしてやるか」
「えっ?」
「将軍を目指してるんだろ? だったら、普通の訓練じゃ物足りないよな」
「……お、おい、赤鬼?」
「安心しろ。ちゃんと面倒は見てやる」
牛山の笑顔が、ゆっくりと引きつった。
赤鬼は満足そうに頷き、木札を持って立ち上がった。
どうやら、今日の訓練には一人だけ張り切っている男がいるらしい。
ならば、その期待に応えてやるのも悪くない。
もっとも、赤鬼は決して無茶な訓練をさせるつもりはなかった。
百回の人生で多くの兵士を見てきた彼は、訓練で大切なのは根性論ではなく、適切な負荷と継続であることをよく理解していた。
ただし、牛山を少しからかうくらいは許されるだろう。
何しろ、昨夜も彼のいびきのおかげで、赤鬼は十分に眠れなかったのだから。
これは正当な報復である。
少なくとも、本人はそう考えていた。
◇◇◇
練兵場へ到着すると、すでに数十人の兵士たちが集まっていた。
朝の冷たい空気の中、兵士たちは木剣を手にして整列し、これから始まる訓練を待っている。その表情には緊張と期待が入り混じっており、中には赤鬼の姿を見つけるなり、小声で何かを囁き合う者もいた。
「……あれが赤鬼か」
「程普将軍と甘寧将軍に勝ったって噂の?」
「しかも孫策様とも剣を交えたらしいぞ」
「本当に新兵なのか?」
赤鬼は聞こえてくる声を無視しながら、ゆっくりと練兵場の中央へ歩いていった。
赤い鬼の仮面に、黒を基調とした衣服。
腰には二振りの剣を差し、その立ち姿には妙な落ち着きがあった。
本人としては普通に歩いているつもりなのだが、周囲から見れば、どうしても歴戦の武人のような雰囲気が漂ってしまうらしい。
赤鬼は内心でため息をついた。
目立たないようにするという目標は、もはや完全に失敗している。
そんな彼のもとへ、穏やかな声が届いた。
「おはよう、赤鬼」
程普だった。
真名を粋怜という彼女は、今日も落ち着いた雰囲気をまとい、兵士たちの様子を優しく見守っていた。
赤鬼は軽く片手を上げる。
「おはよう、程普将軍」
「ふふっ。ちゃんと来てくれたのね」
「……来なかったらどうなってた?」
「そうね。まずは理由を聞いて、それから迎えに行ったかしら」
「……逃げ道がないな」
「あなたが逃げるつもりだったなら、そうなるわね」
粋怜は楽しそうに笑った。
赤鬼は肩を落とした。
この女性は優しい。
それは間違いない。
しかし、部下が仕事から逃げようとした場合には、実に見事な手際で逃げ道を塞いでくる。
百回の人生を経験した赤鬼でさえ、彼女のこうしたところには敵わない。
「それで、今日の訓練なんだが……」
赤鬼が木札を掲げると、粋怜は小さく頷いた。
「ええ。あなたには、基礎訓練の補佐をお願いしたいの」
「……補佐?」
「そうよ。指揮そのものは私と各隊の教官が担当するわ。あなたには、兵士たちの動きを見て、必要な助言をしてほしいの」
その説明を聞いた赤鬼は、少しだけ安心した。
どうやら、いきなり部隊全体を任されるわけではないらしい。
それならば、まだ何とかなるだろう。
「……なるほど。それならできそうだな」
「ふふっ。よかった」
粋怜は優しく微笑んだ。
そして、少しだけ真面目な表情になる。
「赤鬼。あなたの剣は、とても優しい剣だと思うの」
赤鬼の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
以前、彼女との模擬戦が終わったときにも、同じことを言われた。
百回の人生で数え切れないほどの命を奪ってきた自分の剣を、優しいと評した女性。
その言葉は、今も胸の奥に残っていた。
「……そうか?」
「ええ。あなたは相手を倒すことよりも、怪我をさせないことを考えているでしょう?」
赤鬼は黙っていた。
粋怜は静かに続ける。
「だからこそ、兵士たちにも教えてほしいの。強さだけではなく、仲間を守るための剣を」
その言葉に、赤鬼はゆっくりと息を吐いた。
彼女は、やはり変わらない。
百回の人生で何度も出会い、何度も別れた女性。
その優しさは、どの世界でも同じだった。
「……わかったよ、程普将軍」
赤鬼は静かに頷いた。
「できるだけ、みんなが怪我しないように教えるさ」
粋怜は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、赤鬼」
その笑顔を見た赤鬼は、仮面の下で小さく笑った。
こういう顔をされると、断れなくなる。
まったく、困った上官である。
訓練が始まると、赤鬼はまず兵士たちの動きを観察することにした。
木剣を握る手の力加減、足の置き方、身体の重心、攻撃を受けるときの姿勢。
一人ひとりの癖を見極めながら、必要な部分だけを丁寧に指摘していく。
「お前、剣を握りしめすぎだ。そんなに力を入れたら、すぐ腕が疲れるぞ」
「は、はい!」
「そっちは足が開きすぎだな。もう少し狭くしてみろ」
「こうですか?」
「そうそう。いい感じだ」
赤鬼は決して怒鳴らなかった。
失敗した兵士がいても、まず原因を確かめ、どうすれば改善できるのかを説明する。
できた部分は素直に褒め、難しい動きは何度でも見本を見せた。
その指導は、兵士たちにとって新鮮だった。
軍の訓練では、厳しい叱責や反復練習が当たり前である。
しかし、赤鬼はただ回数をこなさせるのではなく、動きの意味を理解させようとしていた。
「いいか。剣を振るときは、腕だけで振ろうとするな。足と腰を使って、身体全体で動くんだ」
赤鬼は木剣を構え、ゆっくりと振ってみせた。
その動きは驚くほど滑らかで、無駄がない。
兵士たちは思わず見入ってしまった。
「……すげえ」
「こんなに綺麗に動けるもんなのか……」
赤鬼はそんな反応に気づかず、淡々と説明を続けた。
「最初から速く振る必要はない。まずは正しい形を覚えろ。速さは後からついてくる」
その言葉に、兵士たちは真剣に頷いた。
赤鬼は満足そうに頷き、次の兵士へ視線を向けた。
そこには、見慣れた大柄な男が立っていた。
牛山である。
「よし! 俺もやるぞ!」
「おう。じゃあ、構えてみろ」
牛山は勢いよく木剣を構えた。
しかし、その姿勢を見た赤鬼は、思わず黙り込んだ。
肩には余計な力が入り、足は大きく開きすぎている。木剣は力任せに握りしめられ、今にも振り回しそうな雰囲気だった。
「……牛山」
「何だ!」
「お前、木剣と喧嘩してるのか?」
「はあ!?」
「そんなに力を入れたら、剣の方が先に悲鳴を上げるぞ」
周囲の兵士たちから笑い声が上がった。
牛山は少しだけ頬を膨らませた。
「だって、強く振った方がいいだろ!」
「強く振ることと、力任せに振ることは違うんだよ」
赤鬼は木剣を一本手に取り、牛山の隣に立った。
「まず、肩の力を抜け。そうそう。それから、足をもう少し狭くして……」
赤鬼は一つずつ姿勢を直していった。
牛山は最初こそ戸惑っていたものの、何度か繰り返すうちに少しずつ動きが改善していく。
「……おっ?」
「どうした?」
「何か、さっきより振りやすいぞ!」
「だろ?」
赤鬼は笑った。
「お前は力があるんだから、無駄な力を抜けばもっと強くなれる」
「本当か!?」
「ああ。ただし、調子に乗って木剣を振り回すなよ」
「わかった!」
牛山は嬉しそうに頷いた。
その姿を見て、赤鬼は少しだけ安心した。
この男は豪快で単純だが、決して悪い奴ではない。
むしろ、素直で努力家なところがある。
きちんと教えれば、きっと立派な兵士になれるだろう。
もっとも、夜のいびきだけは別問題だったが。
赤鬼は心の中で小さくため息をついた。
百回の人生を経験しても、あの騒音への対処法だけは見つからない。
どうやら、世界には剣術では解決できない問題も存在するらしい。
訓練が進むにつれ、兵士たちの表情は少しずつ変わっていった。
最初は赤鬼の異様な仮面に戸惑っていた者たちも、彼の丁寧な指導を受けるうちに、自然と親しみを覚えるようになっていた。
「赤鬼さん! こっちも見てもらえますか!」
「おう、ちょっと待ってろ」
「先生! この構えで合ってますか!」
「……先生って呼ぶな。俺はただの兵士だ」
「はい、先生!」
「聞いてたか!?」
赤鬼の叫びに、兵士たちから笑い声が上がった。
どうやら、彼の希望とは裏腹に、すっかり先生扱いされてしまったらしい。
その様子を少し離れた場所から見守っていた粋怜は、口元に手を添えて微笑んでいた。
「……ふふっ。本当に不思議な人ね」
彼女は静かに呟いた。
赤鬼は強い。
それは、すでに疑いようのない事実だった。
しかし、彼の本当の価値は、単に剣が強いということだけではないのかもしれない。
人を見て、相手に合わせて教え、できたことを素直に喜ぶ。
その姿には、長い年月をかけて培われた経験と、人を大切にする優しさがあった。
粋怜はそんな彼の姿を見つめながら、胸の奥に小さな温かさを感じていた。
この男を部隊へ迎え入れたことは、間違いではなかった。
そう確信し始めていたのである。
◇◇◇
昼休みになると、赤鬼は練兵場の木陰に腰を下ろし、支給された昼食を食べていた。
今日の献立は、麦飯に野菜の煮込み、それから少量の干し肉である。
決して豪華な食事ではないが、赤鬼にとっては十分だった。
百回の人生で、食べ物に困ったことは数え切れないほどある。
戦場で数日間まともな食事を取れなかったこともあれば、飢えた村人たちと僅かな食料を分け合ったこともあった。
だからこそ、温かな飯を食べられることが、今の彼には何よりもありがたかった。
「……うまいな」
赤鬼は満足そうに呟いた。
その隣では、若い北郷一刀が疲れた様子で座り込んでいる。
「……赤鬼さん」
「ん?」
「兵士の皆さん、すごく元気ですね……」
「まあ、毎日鍛えてるからな」
「俺、午前中だけで足が棒になりそうです……」
赤鬼は小さく笑った。
「最初はそんなもんだ。無理せず、少しずつ慣れていけばいい」
「……はい」
一刀は疲れた顔で頷いた。
しかし、その表情には充実感もあった。
赤鬼の指導は厳しい部分もあるが、決して無茶をさせない。
できないことを責めるのではなく、できるようになるまで丁寧に教えてくれる。
だからこそ、一刀も頑張ろうと思えるのだった。
「……それにしても、赤鬼さんってすごいですよね」
「何がだ?」
「剣も強いし、教えるのも上手いし……俺、尊敬してます」
赤鬼は一瞬だけ黙り込んだ。
そして、仮面の下で苦笑する。
「……そうか。ありがとな」
かつての自分に尊敬される。
何とも奇妙な気分だった。
百回の人生を経験した今の自分からすれば、若い一刀はまだ何も知らない青年である。
しかし、その純粋な眼差しを見ていると、遠い昔の自分を思い出す。
あの頃の自分も、誰かを守れる強さを求めていた。
そして、その願いは百回の人生を経た今も変わっていない。
「……北郷」
「はい?」
「強くなるのはいいことだ。でも、無理して誰かの真似をする必要はないぞ」
赤鬼は静かに続けた。
「お前にはお前の良さがある。それを大事にしろ」
一刀は少し驚いたように目を瞬かせた。
そして、嬉しそうに笑った。
「……はい!」
赤鬼は小さく頷いた。
その笑顔を見ていると、今度こそこの青年を守ってやりたいという気持ちが強くなる。
百回の人生で失ってきたものは、あまりにも多い。
だからこそ、百一回目の人生では、できるだけ多くのものを守りたい。
そう思ったところで、背後から聞き慣れた明るい声が響いた。
「赤鬼ー!」
赤鬼は箸を止めた。
そして、ゆっくりと天を仰ぐ。
「……また来たか」
現れたのは、孫策だった。
桃色の長い髪を揺らしながら、楽しそうに手を振っている。
その後ろには、周瑜の姿もあった。
冥琳は相変わらず冷静な表情を浮かべていたが、その眼差しにはどこか疲れが滲んでいる。
どうやら、今日も孫策に振り回されているらしい。
「ねえねえ、赤鬼! 訓練、順調?」
「……王様、昼飯くらい静かに食わせてくれ」
「えー! いいじゃない!」
孫策は楽しそうに笑いながら、赤鬼の隣へ腰を下ろした。
その姿を見た周囲の兵士たちは、一斉に姿勢を正そうとする。
しかし、孫策は面倒くさそうに片手を振った。
「あー、いいわよ、そういうの! 今日はちょっと見に来ただけだから!」
赤鬼は深いため息をついた。
この女性は、本当に変わらない。
王でありながら、兵士たちの輪へ平然と入り込んでくる。
そして、気づけば周囲の人間を笑顔にしてしまう。
そんな彼女の姿が、赤鬼にはたまらなく懐かしかった。
「……それで、何の用だ?」
赤鬼が尋ねると、孫策は目を輝かせた。
「聞いたわよ! あなた、兵士たちに大人気なんですって!」
「……誰から聞いたんだ」
「粋怜!」
赤鬼は心の中で頭を抱えた。
やはり、あの女性だったか。
優しい顔をして、こういうところは実に抜け目がない。
「それでね、赤鬼!」
「……嫌な予感がするな」
「今度、王城の兵士たちにも剣を教えてあげてほしいの!」
赤鬼は固まった。
孫策は満面の笑みを浮かべている。
その隣で、冥琳が静かに額を押さえた。
「……雪蓮。まだ本人の了承を得ていないだろう」
「えー、いいじゃない! 赤鬼ならきっとできるわよ!」
「できるかどうかではなく、本人の都合というものがある」
冥琳の冷静な指摘に、赤鬼は心の中で拍手を送った。
さすがは周瑜。
話がわかる。
赤鬼は勢いよく頷いた。
「そうそう! 俺にも仕事があるんだよ!」
「でも、あなた強いじゃない!」
「強いからって、何でもできるわけじゃないんだ!」
赤鬼の叫びに、孫策は少しだけ頬を膨らませた。
「むう……」
その様子を見ていた冥琳は、静かに息を吐いた。
そして、赤鬼へ視線を向ける。
「……赤鬼」
「何だ?」
「一つ聞きたいことがある」
その声には、先ほどまでとは違う鋭さがあった。
赤鬼は内心で警戒を強めた。
周瑜。
孫呉随一の知将。
彼女の観察眼と洞察力は、百回の人生を経験した赤鬼でさえ侮れないものだった。
「……何だよ」
「貴様は、どこでその剣術を身につけた?」
赤鬼は黙り込んだ。
周囲の空気が、わずかに変わる。
孫策も興味深そうに赤鬼を見つめていた。
冥琳は静かに続ける。
「程普と甘寧を破り、雪蓮とも互角以上に渡り合う。しかも、兵士たちへの指導も非常に的確だという」
彼女の眼差しが鋭くなる。
「それほどの実力を持つ者が、なぜ今まで無名だった?」
赤鬼はしばらく黙っていた。
百回の人生で培った剣術。
数え切れないほどの戦場を生き抜き、何度も死を経験しながら磨き上げた技。
そのすべてを説明することなど、できるはずがなかった。
赤鬼はゆっくりと息を吐いた。
「……旅をしてたんだよ」
「旅?」
「ああ。いろんな場所を歩いて、いろんな奴と戦ってきた。それだけだ」
冥琳は黙って彼を見つめた。
赤鬼は続ける。
「別に有名になりたかったわけじゃない。生きるために剣を覚えて、気づいたらこうなってた」
その言葉には、奇妙な重みがあった。
冥琳は少しだけ目を細めた。
赤鬼の答えは曖昧だった。
しかし、嘘をついているようにも聞こえない。
むしろ、何か大きな事情を隠しているように感じられた。
「……なるほど」
冥琳は静かに頷いた。
「だが、貴様の実力は明らかに普通ではない。今後も注意深く見させてもらうぞ」
「……お手柔らかにな」
赤鬼は肩をすくめた。
どうやら、孫呉の軍師に目をつけられてしまったらしい。
本人としては、非常に困った状況だった。
しかし、その隣で孫策は楽しそうに笑っていた。
「ふふっ。やっぱり赤鬼って面白いわね!」
「……王様、あんた本当に楽しそうだな」
「もちろん!」
孫策は満面の笑みを浮かべた。
赤鬼は深いため息をつく。
百一回目の人生。
どうやら、平穏な兵士生活という夢は、日に日に遠ざかっているらしい。
しかし、その笑顔を見ていると、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
何度も失った女性が、今こうして生きて笑っている。
それだけで、多少の面倒事など大した問題ではないように思えた。
赤鬼は静かに箸を置き、空を見上げた。
青く澄んだ空には、白い雲がゆっくりと流れている。
百回の人生で、何度も見てきた空。
しかし、今の空はどこか違って見えた。
守りたい人々が生きている。
それだけで、世界はこんなにも鮮やかになるのだ。
赤鬼は仮面の下で小さく微笑んだ。
そして、孫策へ視線を戻す。
「……わかったよ、王様」
「えっ?」
「王城の兵士たちへの指導、時間があるときなら手伝ってやる」
孫策の目が輝いた。
「本当!?」
「ああ。ただし、条件がある」
「何でも言って!」
赤鬼は真剣な表情で言った。
「……給料、上げてくれ」
その瞬間、孫策は声を上げて笑った。
「あはははっ! やっぱり赤鬼って最高ね!」
冥琳は深いため息をつき、若い一刀は苦笑し、周囲の兵士たちからも笑い声が上がった。
こうして、赤鬼の仕事はさらに増えることになった。
程普直属部隊の剣術指南補佐。
天の御使い・北郷一刀の剣術指南役。
そして、王城兵士たちの臨時指導役。
本人の望んでいた平穏な一兵卒生活からは、ますます遠ざかってしまったが、少なくとも給料が増える可能性だけは残されていた。
赤鬼はその事実を心の支えにすることにした。
百回の人生で、これほど小さな希望にすがったことがあっただろうか。
いや、きっとあったのだろう。
だが、今はそれで十分だった。
その日の夕方、赤鬼が兵舎へ戻ると、牛山が満面の笑みで迎えてくれた。
「おう、赤鬼! 聞いたぞ! 王城の兵士たちにも教えることになったんだってな!」
「……情報が早いな」
「がははっ! お前、すげえじゃねえか!」
「……俺はただの兵士なんだがな」
「もう誰もそう思ってねえよ!」
牛山の豪快な笑い声が、兵舎に響き渡った。
赤鬼は寝台へ腰を下ろし、両手で頭を抱えた。
「……俺の平穏な兵士生活、どこ行ったんだよ……」
その悲痛な呟きは、今日もまた誰にも届かなかった。
しかし、赤鬼はまだ知らない。
彼の存在が、孫呉の軍事力を少しずつ変え始めていることを。
そして、その変化がやがて、江東の小覇王・孫策の運命を大きく揺るがすことになるということを。
百一回目の人生。
赤い鬼の仮面をつけた男の物語は、まだ始まったばかりだった。
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