午前七時三十分。
ジャポネ無宗教軍、第七駐屯基地。
「……腹減った」
黒瀬迅は、訓練場の片隅でしゃがみ込んでいた。
入隊してから数日。迅が学んだことは三つある。
一つ、この軍隊はとにかく金がない。
二つ、この軍隊はとにかく飯がまずい。
そして三つ。
「……軍隊って、こんな朝早ぇの?」
とにかく朝が早い。
「黒瀬ぇぇぇ!!」
背後から怒声が響いた。
振り返ると、鬼のような形相をした教官が立っていた。
「貴様! また集合時間に遅れたな!!」
「いや、まだ三十分しか遅れてねぇだろ」
「三十分もだ!!」
「細けぇなぁ」
「貴様が大雑把すぎるんだ!!」
教官は額に青筋を浮かべた。
「今日は他宗教軍からの派遣兵が到着する日だ! 分かっているのか!?」
「派遣兵?」
「昨日説明しただろうが!!」
「……あー」
迅は思い出したように手を叩いた。
「強ぇ奴が来るってやつ?」
「優秀な人材が来るんだ!」
「同じじゃねぇか」
「違う!!」
迅は立ち上がり、軽く肩を回した。
「ま、面白ぇ奴なら何でもいいけどな」
「貴様はもう少し軍人としての自覚を持て!」
「へいへい」
「返事は『はい』だ!!」
「はいはい」
「一回でいい!!」
教官の怒声が、朝の訓練場に響き渡った。
その様子を見ていた新兵たちは、既に慣れた顔をしていた。
「……また黒瀬か」
「よく営倉に入れられないよな」
「昨日も司令官に呼び出されてたぞ」
「そのうち本当に処分されるんじゃねぇか?」
そんな会話をよそに、迅は大きなあくびをした。
「……眠ぃ」
この男に反省という概念は、どうやら存在しないらしい。
同日、午前七時四十五分。
基地正門。
一台の大型軍用輸送車が到着した。
車体には、キリスト教軍の紋章。
車両名は『CMT-42 多用途装甲輸送車』。
全長九メートルを超える大型車両で、兵員輸送から物資運搬まで幅広く運用される軍用車である。
その後部ハッチが開いた。
「……おい」
中から声がした。
「ここ、本当に軍隊か?」
赤髪の青年が降りてきた。
ラフバ・エラー。
十八歳。
キリスト教軍所属。
未覚醒ながら、並の超越者に匹敵する怪力を持つ問題児である。
ラフバは基地を見渡した。
ひび割れた外壁。
錆びた監視塔。
故障したまま放置されている警備アンドロイド。
そして、傾いた基地の看板。
「…………」
ラフバはしばらく黙っていた。
そして。
「はははははっ!!」
突然笑い出した。
「なんだここ! 廃墟じゃねぇか!!」
案内役の兵士が顔をしかめた。
「失礼なことを言うな!」
「いや、だってよ!」
ラフバは監視塔を指差した。
「あれ、今にも倒れそうじゃねぇか!」
「倒れん!」
その瞬間。
ギギギ……。
監視塔から不吉な音がした。
「…………」
兵士は目を逸らした。
ラフバは腹を抱えて笑った。
「ぶはははっ! マジかよ!!」
「……とにかく、まずは受付だ」
「おう!」
ラフバは笑いながら歩き出した。
彼にとって、軍隊とは戦う場所だった。
強い相手と戦い、勝つ。
ただそれだけ。
勝負に勝つことこそが、人生最大の楽しみ。
そして、いつか神になる。
それがラフバの夢だった。
「……そういや」
ラフバは思い出したように呟いた。
「例の黒髪、どこにいんだ?」
派遣前に見せられた映像。
未覚醒にもかかわらず、異常な速度で走る少年。
黒瀬迅。
ラフバは口元を吊り上げた。
「……早く勝負してぇな」
午前七時五十分。
別の輸送車両が基地へ到着した。
仏教軍の紋章が刻まれた、白い装甲輸送車。
その中から、一人の少女が降りてきた。
アギ・ハワー。
十八歳。
仏教軍所属。
黒髪を後ろで束ね、腰には一本の刀を差している。
その姿は端正で、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
アギは基地を見渡した。
「…………」
ひび割れた壁。
老朽化した設備。
補修用の鉄板が何枚も取り付けられた兵舎。
「……なるほど」
アギは静かに呟いた。
「資料以上ですね」
案内役の兵士が苦笑した。
「まあ……予算が足りなくてな」
「承知しています」
アギは小さく頷いた。
「ですが、これでは設備の維持も難しいのでは?」
「……その通りだ」
「食料の備蓄は?」
「……十分とは言えん」
「医療設備は?」
「……最低限だ」
「訓練用の機械兵は?」
「……三機ある」
「三機?」
「うち二機は故障中だ」
「…………」
アギは目を閉じた。
「……帰ってもよろしいでしょうか?」
「まだ来たばかりだろう!?」
「冗談です」
アギは微笑んだ。
だが、その笑顔は少しだけ引きつっていた。
彼女は仏教軍でも屈指の才能を持つ少女だった。
剣術。体術。戦術分析。モナ制御。
その全てにおいて、同年代の兵士を遥かに上回る。
覚醒こそしていないものの、並の超越者では相手にならないほどの実力者。
だからこそ、彼女は派遣された。
人手不足に苦しむ無宗教軍への支援。
そして、問題を起こさず任務を遂行できる優秀な人材として。
しかし。
「……嫌な予感がしますね」
アギは小さく呟いた。
その予感は、数十分後に現実となる。
午前八時。
第七駐屯基地、第一訓練場。
新兵と派遣兵を対象とした身体能力検査が始まった。
訓練場には、数百人の兵士が集まっていた。
検査項目は四つ。
筋力。速度。耐久力。
そして、モナ量。
これらは軍人の基本的な能力を測定するための指標である。
「次! 黒瀬迅!」
教官の声が響いた。
「へーい」
迅は面倒くさそうに前へ出た。
周囲の兵士たちがざわつく。
「……あいつか」
「例の食料泥棒だろ?」
「入隊して早々に教官を怒らせまくってる奴」
「でも、身体能力は相当らしいぞ」
迅はそんな声を気にすることなく、測定装置の前に立った。
「まずは筋力測定だ!」
教官が指示する。
目の前には、大型の衝撃測定装置が設置されていた。
高密度の衝撃吸収材とモナ反応センサーを組み合わせた、軍用の測定機器である。
「全力で殴れ!」
「壊してもいい?」
「壊れるわけがないだろう!」
「ふーん」
迅は拳を握った。
軽く肩を回す。
そして。
ドンッ!!
一撃。
測定装置が大きく揺れた。
電子表示が激しく変動する。
『測定中……』
『測定中……』
『警告:基準値超過』
教官の目が見開かれた。
「……なに?」
数値が表示される。
未覚醒者の平均値を大きく上回る結果だった。
周囲がざわめく。
「……おい、見たか?」
「未覚醒だろ、あいつ?」
「なんだよ、あの数値……」
迅は自分の拳を見た。
「……まあまあか」
教官は呆然としていた。
「……貴様、本当に覚醒していないのか?」
「してねぇよ」
「モナを使った形跡もない……」
「何か問題あんの?」
「問題しかないわ!!」
迅は笑った。
「ははっ、褒めてんのか?」
「褒めてない!!」
そのときだった。
「おい!!」
訓練場の入り口から、大きな声が響いた。
全員が振り返る。
そこには、赤髪の青年が立っていた。
ラフバ・エラー。
彼は迅を見つめていた。
「お前が黒瀬迅か?」
迅は首を傾げた。
「……誰?」
「ラフバ・エラーだ!」
「……ラフ?」
「ラフバだ!!」
「似たようなもんだろ」
「全然違ぇ!!」
ラフバは大股で近づいてきた。
「お前、強ぇんだろ?」
迅は少し考えた。
「……まあ、弱くはねぇと思うけど」
「よし!」
ラフバは拳を握った。
「俺と勝負しろ!!」
「…………」
迅はラフバを見た。
赤髪。大柄な体格。異様なほどの闘争心。
そして何より。
その目。
まるで獲物を見つけた猛獣のような、ぎらついた瞳。
迅は、にやりと笑った。
「……面白ぇじゃん」
教官が叫ぶ。
「おい! 勝手に何をしている!!」
しかし。
二人は既に、互いしか見ていなかった。
「ルールは?」
迅が尋ねた。
ラフバは笑った。
「相手が負けを認めるまで!」
「いいねぇ」
迅は軽く拳を握った。
「じゃ、やるか」
「おう!!」
次の瞬間。
ドンッ!!
地面が震えた。
ラフバが踏み込んだ。
速い。巨体に似合わない爆発的な加速。
その拳が、迅の顔面へ迫る。
だが。
「……おっと」
迅は首を傾けた。
拳が頬をかすめる。
「避けたか!」
ラフバが笑う。
迅も笑った。
「お前、結構速ぇな!」
「まだまだぁ!!」
ラフバが連続で拳を振るう。
右。左。右。膝蹴り。
迅はその全てを紙一重で避けた。
「……ははっ!」
そして。
「今度はこっちの番だ!」
迅が踏み込む。
一瞬。
ラフバの視界から迅が消えた。
「!?」
次の瞬間。
ドッ!!
ラフバの腹部に拳が突き刺さった。
「ぐっ……!」
しかし。
ラフバは倒れなかった。
それどころか。
「……ははっ!」
笑っていた。
「いい拳じゃねぇか!!」
ラフバが迅の腕を掴む。
「!?」
「捕まえたぞ!!」
そのまま力任せに投げ飛ばす。
迅の体が宙を舞った。
「うおっ!?」
地面へ叩きつけられる寸前。
迅は体をひねった。
片手を地面につく。勢いを殺し、着地。
「……危ねぇな!」
「避けんなよ!!」
「無茶言うな!!」
二人は同時に笑った。
「ははははっ!!」
「ははっ! お前、面白ぇ!!」
再び激突する。
速度の迅。怪力のラフバ。
互いに一歩も譲らない。
周囲の兵士たちは、ただ呆然と見つめていた。
「……なんだ、あいつら」
「未覚醒だよな……?」
「どっちも化け物じゃねぇか……」
教官が怒鳴る。
「やめろぉぉぉ!!」
しかし、二人には聞こえていなかった。
ラフバの拳が迅の頬をかすめる。
迅の蹴りがラフバの肩を打つ。
一撃ごとに、地面が震えた。
そして。
「……おい、ラフ!」
「ラフバだ!!」
「どっちでもいいだろ!」
「よくねぇ!!」
迅は笑った。
「お前、なかなかやるじゃん!」
ラフバも笑った。
「お前こそな!!」
二人は同時に拳を引いた。
そして。
「「うおらぁぁぁぁ!!」」
互いの拳が、真正面からぶつかろうとした。
その瞬間。
「――そこまでです」
静かな声が響いた。
次の瞬間。
二人の拳が止まった。
「…………は?」
迅が目を見開く。
「……あ?」
ラフバも固まった。
二人の間に、一人の少女が立っていた。
黒髪。
腰には刀。澄んだ瞳。
アギ・ハワー。
彼女は、迅とラフバの腕をそれぞれ片手で掴んでいた。
「……何してるんですか、あなたたち」
迅は目を丸くした。
ラフバも同じだった。
なぜなら。
二人とも、全力で拳を振るっていたからだ。
それを。この少女は、当たり前のように止めていた。
「……お前」
迅が呟いた。
「……強ぇな」
ラフバも口元を吊り上げた。
「……面白ぇ」
アギは小さくため息をついた。
「……話を聞いてください」
「お前も勝負すんのか!?」
ラフバが尋ねた。
「しません」
「えー」
迅が不満そうに声を漏らした。
アギは二人を見た。
そして。
「……あなたたち」
少しだけ、眉をひそめた。
「軍隊に何をしに来たんですか?」
迅は答えた。
「飯食いに」
ラフバも答えた。
「戦いに」
「…………」
アギは目を閉じた。
深呼吸。
一秒。二秒。三秒。
そして。
「……帰りたい」
心の底から呟いた。
その日の午後。
第七駐屯基地、司令官室。
「……で?」
榊原宗一郎大佐は、机に肘をついていた。
目の前には三人。
黒瀬迅。
ラフバ・エラー。
アギ・ハワー。
迅は椅子に座り、足を組んでいる。
ラフバは腕を組み、不満そうにしている。
アギは背筋を伸ばし、静かに立っていた。
榊原は書類を見た。
「訓練場の床、損傷」
「…………」
「測定装置、一部破損」
「…………」
「新兵十二名、訓練中断」
「…………」
「教官三名、精神的疲労」
「…………」
榊原は顔を上げた。
「……貴様ら、何をしていた?」
迅は答えた。
「勝負」
ラフバも答えた。
「勝負」
アギは答えた。
「……止めていました」
榊原は深くため息をついた。
「……黒瀬」
「あ?」
「貴様は入隊してから、何回問題を起こせば気が済む?」
「まだそんな起こしてねぇだろ」
「昨日だけで五件だ!!」
「……少なくね?」
「多いわ!!」
榊原はラフバを見る。
「ラフバ・エラー」
「おう!」
「貴様も、派遣初日から何をしている!」
「強ぇ奴がいたから勝負した!」
「理由にならん!!」
「なんでだよ!」
「なんでもだ!!」
そして、アギを見る。
「……アギ・ハワー」
「はい」
「貴様だけはまともだと思っていた」
「……ありがとうございます」
「だが、報告書によると、貴様も訓練場の設備を一部破損させたそうだな?」
「…………」
アギは目を逸らした。
「……二人を止める際に、少々」
「少々?」
「……床が」
「床?」
「……割れました」
「…………」
榊原は天井を見上げた。
「……神よ」
その瞬間。
迅が口を開いた。
「おっさん、無宗教軍だろ」
「…………」
「神に祈ってどうすんだよ」
「……うるさい」
榊原は机を叩いた。
「決めた!!」
三人が顔を上げる。
「貴様ら三人を、同じ班にする!!」
「…………は?」
迅が固まった。
「……あ?」
ラフバも固まった。
「……え?」
アギも固まった。
榊原は続けた。
「黒瀬とラフバ! 貴様ら二人は問題児すぎる!」
「失礼だな!」
「そうだぞ!」
「黙れ!!」
榊原はアギを指差した。
「アギ・ハワー! 貴様を班長に任命する!」
「…………」
アギはゆっくりと目を見開いた。
「……私が?」
「そうだ!」
「……この二人の?」
「そうだ!!」
「…………」
アギは静かに手を挙げた。
「……辞退してもよろしいでしょうか?」
「却下だ!!」
「…………」
アギは天井を見上げた。
「……仏よ」
迅が即座に言った。
「だから神に祈んなって」
「仏です!!」
「似たようなもんだろ」
「違います!!」
ラフバが笑った。
「はははっ! 面白ぇじゃねぇか!」
迅も笑った。
「ははっ! まあ退屈はしなさそうだな!」
アギは二人を見た。
そして、小さく呟いた。
「……最悪です」
こうして。
世界最弱の軍隊に、一つの班が誕生した。
黒瀬迅。
ラフバ・エラー。
アギ・ハワー。
後に世界を揺るがすことになる三人。
しかし、現時点での彼らの評価は。
『問題児二名と、その監視役一名』
それだけだった。
夕暮れ。
基地の食堂。
迅とラフバは、向かい合って座っていた。
二人の前には、大量のパンが積まれている。
アギは隣で静かに食事をしていた。
「……で?」
迅が言った。
「次は何で勝負すんだ?」
ラフバは笑った。
「決まってんだろ!」
パンを一つ掴む。
「どっちが多く食えるかだ!!」
迅はにやりと笑った。
「……上等」
アギは顔を上げた。
「……あの」
二人は同時にパンを口へ放り込んだ。
「んぐっ!」
「むぐっ!」
「……食べ物で遊ばないでください」
聞いていない。
「……おい、ラフ!」
「ラフバだ!!」
「今度こそ俺が勝つ!」
「さっきの勝負も決着ついてねぇだろ!」
「じゃあ今回で決めりゃいいじゃん!」
「上等だ!!」
アギはため息をついた。
「……本当に、仲が良いですね」
その瞬間。
二人が同時に振り返った。
「「誰がこいつと仲良しだ!!」」
アギは目を丸くした。
迅はラフバを指差した。
「こいつは友達じゃねぇ!」
ラフバも迅を指差した。
「そうだ! こいつは俺のライバルだ!!」
二人は同時に叫んだ。
「「友達じゃねぇ! ライバルだ!!」」
アギはしばらく二人を見つめていた。
そして。
「……はいはい」
小さく笑った。
「分かりましたよ」
二人は再びパンを食べ始めた。
くだらない勝負。
くだらない喧嘩。
くだらない日常。
けれど。
この日、三人は確かに出会った。
そして、まだ誰も知らない。
いつか、このくだらない日々が。
何よりも大切な思い出になることを。
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