沈黙の語り部 ― The Silent Storyteller ―   作:Mr.S,S

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はじめまして。そして、他の掲載先からお越しの方はありがとうございます。

『沈黙の語り部 ― The Silent Storyteller ―』は、言葉によって現実に働きかける『語り部』たちが存在する世界を舞台にした、オリジナルのハイファンタジー作品です。

ハーメルンでは、まず序章を先行公開する形で投稿いたします。

一人の少女と、彼女を取り巻く人々が紡いでいく物語。

その始まりを、どうぞお楽しみください。


沈黙の語り部 ― The Silent Storyteller ―

序章「沈黙の語り部」

 

 

ーーーー『語り部』とは、物語を紡ぐ者である。

 

ただ昔話や英雄譚を語るだけの者ではない。

人の心に言葉を届け、恐れに名を与え、勇気に形を与える者。

 

そしてこの世界において、『語り』は時に、人だけでなく現象にさえ届く。

 

ーーーー火に意味を与える。

ーーーー風に道を与える。

ーーーー水に行き先を与える。

ーーーー土に在り方を思い出させる。

 

だからこそ、『語り』は慎重でなければならない。

 

語りは世界を支えることがある。

けれど同じように、世界を歪めることもある。

 

それを、カナリア・シンフォニアは知っていた。

 

「……」

 

灰色のローブを被った少女は、丘の上で足を止めていた。

 

視線の先には、港町がある。

その向こうには海が広がっているはずだった。

 

だが今、その海は黒く沈んでいた。

 

沖合に、異様な影が立ち上がっている。

波ではない。

霧でもない。

まるで海そのものが背を伸ばし、陸を見下ろしているかのような、巨大な水の壁。

 

上空には暗雲が渦を巻いていた。

低く垂れ込めた雲の腹が、重い唸りを上げている。

海面から水柱が幾つも立ち上がり、それらは空と海を繋ぐ竜巻へと姿を変えつつあった。

 

さらに背後の山も鳴っている。

地の底から響くような鈍い音。

木々がざわめき、鳥達が一斉に飛び立つ。

 

海から。

空から。

山から。

 

別々であるはずの災害が、まるで一つの合図に従うように動き始めていた。

 

「……『語り』が、混ざってる」

 

カナリアは小さく呟いた。

 

それは、普通の者なら雨風に紛れて聞き逃してしまうほど細い声だった。

けれど、隣にいたミオ・バスメロデは聞き逃さなかった。

 

「語り?」

 

ミオはカナリアの視線を追う。

 

遠くの港町では、既に鐘が鳴っていた。

避難を知らせる鐘だ。

だが、その音は海から吹きつける風に潰され、町の隅々へ届く前に掻き消されていく。

 

町の外れには人影が見えた。

荷車を引く者。

海の異変に気づいて足を止めた者。

何かを叫びながら家族を探す者。

 

災害は、……もう始まっている。

 

カナリアは、ほんの少しだけローブの裾を握った。

 

「寄り道……だけど」

 

その声には迷いがあった。

 

本来、彼女達にも向かうべき場所がある。

調べるべきことがある。

通りすがった道草に時間を費やす暇はあまりない。

 

…………それでも、カナリアは暗雲の下で震える町を見た。

 

「見逃せない」

 

短い言葉だった。

 

けれどミオには、それだけで十分だった。

 

ミオは一瞬だけカナリアの横顔を見る。

止める言葉は、最初から用意していなかった。

彼女がそう言うことを、どこかで分かっていたからだ。

 

「……うん」

 

ミオは頷く。

 

「じゃあ、行こっか」

 

二人は丘を下り始めた

 

ーーその頃、町の外れで最初に先陣を切る様に前へ出ていたのは、《救光の先駆け》だった。

 

「ラウガ、右の濁流を潰せ! イリス、上の瓦礫を落とすな! ベルノ、奥を見ろ! ユナ、動けない奴を立たせろ!」

 

白槍ディオンの声が、雨と風の中で響く。

 

ーーーー《救光の先駆け》ーーーー

 

魔物討伐や危険地帯突破を得意とする討伐特化型の冒険者パーティーである。

白槍ディオン、鉄拳ラウガ、裂風剣イリス、黒煙ベルノ、祈刃ユナ。

荒くれ者めいた空気を纏う一団ではあるが、その実、誰もが戦場慣れした実力者達だった。

 

彼らは本来、敵の喉元へ真っ先に踏み込む者達だ。

危険の先頭へ飛び込み、逃げ道を切り開く者達だ。

 

ーーだからこそ、動きは早かった。

 

「言われなくても!」

 

鉄拳ラウガが拳を大地へ叩きつける。

魔錬を込めた一撃が石畳を割り、避難路へ向かっていた泥水の流れを横へ逃がした。

 

裂風剣イリスの剣閃が飛ぶ。

竜巻に巻き上げられた木材と瓦礫が、避難民の頭上へ落ちる前に細かく砕け散った。

 

黒煙ベルノは雨に煙る通りへ黒い煙を這わせ、崩落しかけた建物の影や、逃げ遅れた者の気配を探る。

祈刃ユナは倒れた者の傍に膝をつき、傷を完全に癒すのではなく、まず歩けるだけの力を戻していった。

 

「完治は後! 立てるなら立って! あっちの白火を追いなさい!」

 

救助専門ではない。

それでも、助けると決めた者を途中で捨てることはない。

 

それが《救光の先駆け》の荒々しい武勇だった。

 

だが、相手は魔物ではなかった。

 

「ディオン!」

 

イリスが叫んだ。

 

水壁の一部が、避難民の流れる通りへ向かって膨れ上がっていた。

波ではない。

まるで水そのものが壁となり、町を押し潰そうとしているようだった。

 

「イリス、斬れるか!」

 

「斬るわ!」

 

イリスの剣に風の魔錬が集まる。

一歩踏み込み、彼女は雨を裂いて剣を振り抜いた。

 

魔錬を込めて放たれた飛ぶ斬撃が、水の壁を横一文字に断つ。

 

轟音。

壁の一角が白い飛沫となって吹き飛び、避難路の前にわずかな空白が生まれた。

 

「今だ! 走れ!」

 

ディオンの声に、避難民達が動く。

 

だが、次の瞬間だった。

 

裂かれた水が、左右から寄り集まった。

吹き飛んだはずの水量が、背後から押し寄せる流れと混ざり、断たれた境目を塞いでいく。

 

まるで、傷口を縫い合わせるように。

 

「……戻った?」

 

イリスが目を見開く。

 

「もう一度だッ!」

 

今度はディオンの白槍が閃いた。

槍先に込めた魔錬が水壁を穿ち、一瞬だけ大穴を開ける。

 

それでも、水は戻った。

 

ラウガが地面を砕いて濁流を逸らしても。

ベルノが煙で水と泥の流れを読み、逃げ道を示しても。

イリスが斬り、ディオンが穿ち、ラウガが叩き潰しても。

 

水は、風は、土砂は、形を取り戻そうとする。

 

「何だ、こいつは……!」

 

ラウガが歯を剥いた。

 

「水そのものは吹っ飛ぶ。瓦礫も砕ける。土砂の流れも変えられる。なのに、すぐ戻りやがる!」

 

「ただの自然現象じゃないわね」

 

ベルノが黒煙を引き戻しながら言った。

 

「そりゃ同感だが、さっきから探ってんだがよ……敵の気配はねぇ。魔物も、術者も、仕掛けの核も見当たらねんだわ」

 

「おい、マジかベルノ?」

 

「……だが、ただの自然災害で片付けるには規模も現象もおかしすぎるっ」

 

ディオンが奥歯を噛む。

 

ただの自然災害なら、斬った水があんな風に繋がるわけがない。

 

言葉にできない異常だけが、確かにそこにあった。

 

だが、それが何なのか分からない。

 

分からないまま、災害は迫る。

 

「考えるのは後だ!」

 

ディオンは槍を構え直した。

 

「止められないなら逸らせッ! 逸らせないなら削れッ! 削れないなら、人が逃げる一瞬だけでも空けろッ!」

 

《救光の先駆け》の面々は、そこで散った。

 

ディオンは白槍で水壁の圧を裂き続ける。

ラウガは拳で大地を砕き、泥流の進路を変える。

イリスは飛来する瓦礫と竜巻の端を斬り払い、ベルノは黒煙で危険の兆候を拾い続ける。

ユナは負傷者を立たせ、動ける者から順に避難路へ押し出した。

 

彼らは災害を倒せない。

 

だが、災害が人を呑み込む道を逸らし続けることならできる。

 

それが、今この場で彼らにできる最大の時間稼ぎだった。

 

その時、町の別の通りから新たな一団が駆け込んできた。

 

「南側の避難路、開けました!」

 

雨を裂くように声を上げたのは、風目エルナ・リュシールだった。

 

その後ろから、震刃ガルド・レーヴェンが大剣を担いで現れる。

白幕セリア・フランネルは既に半透明の結界を展開し、灯癒ノルン・ステイシアは肩を貸した負傷者を白火の灯りの方へ送り出していた。

 

ーーーー《蒼嵐の道標》ーーーー

 

瓦礫撤去、避難路確保、崩落地帯突破を得意とする、災害救助特別クエスト経験者の冒険者パーティーである。

 

彼らは別地点で崩れた街道を切り開き、孤立しかけた避難民の逃げ道を確保してから、この前線へ合流したのだった。

 

そして、その中央にもう一人いた。

 

濡れた外套をまとい、息を切らしながらも、瞳だけは異様に鋭い女。

 

はぐれ語り部、ミオレ・サージュ。

 

「状況は!」

 

ガルドが叫ぶ。

 

ディオンは水壁を睨んだまま答えた。

 

「斬れる! 砕ける! 逸らせる! だが戻る! 原因は不明! 術者も核も見つからねぇ!」

 

「戻る?」

 

「見れば分かる!」

 

イリスが再び水壁を裂く。

裂けた水が、また繋がる。

 

土砂の流れをラウガが砕いた地割れへ逃がす。

しかし濁流は、まるで元の道を思い出したかのように人のいる方へ戻ろうとする。

 

竜巻をイリスの風刃が削る。

削られた渦は一度崩れ、しかしすぐに黒雲から垂れる風を吸って形を取り戻していく。

 

それを見たミオレの顔色が変わった。

 

「……違う、でもなんで?」

 

「何がだ!」

 

ガルドが問う。

 

ミオレは答える前に、胸元を押さえた。

まるで、そこにないはずの震えを感じ取ったように。

 

「これ、ただの自然現象じゃない」

 

「それは俺達も見りゃ分かる!」

 

「そうじゃない!」

 

ミオレは雨の中で声を張った。

 

「水も風も土砂も、それぞれ勝手に暴れてるんじゃない。動き方に筋がある。流れ方に意味がある。誰かが、あるいは何かが、災害としての形を与えてる」

 

「何だ、それは」

 

セリアが結界を張りながら問う。

 

ミオレは、迫る水壁を見た。

 

「『語り』の気配がするの」

 

その言葉に、周囲の冒険者達が一瞬だけ静まった。

 

「語りだと?」

 

ディオンが目を細める。

 

「語り部の書か?」

 

「ーー分からないわ」

 

ミオレは即答した。

 

「普通なら、これだけの規模で語りが関わっているなら、もっとはっきり痕跡が残る。書の気配、語り手の痕跡、言葉の残響……何か一つくらい掴めるはずなの」

 

「だが?」

 

「ーーーー薄すぎる」

 

ミオレは唇を噛んだ。

 

「薄いのに、深い。表にはほとんど出ていないのに、現象の奥にある筋道だけが異様に強い」

 

「つまり、どういうことだ」

 

ラウガが苛立った声を出す。

 

「ーーどうすりゃ止まる」

 

「今の私には、止め方までは分からない」

 

ミオレの返答は残酷だった。

 

「分かるのは、この災害には『語り』が関わっているということだけ。水や風や土砂を壊しても戻るのは、“災害であれ”という筋道が現象を元の形へ戻しているから」

 

ベルノが低く呟く。

 

「そりゃ最悪だな」

 

「ええ」

 

ミオレは認めた。

 

「元凶の『語り』がどこにあるのか分からない。語り手がいるのかも分からない。書の暴走なのか、残響なのか、誰かが意図してやっているのかも分からない」

 

「分かってるのは、語りが関わっているってことだけか」

 

ディオンが槍を握り直す。

 

「危機的状況ね」

 

ミオレは、逃げずにそう告げた。

 

「原因を断てない。止める方法も見えない。私の『語り』で補助はできるけど、災害そのものの筋道はほどけない」

 

「なら、やることは変わらんな」

 

ガルドが言った。

 

ミオレが振り向く。

 

「変わらない?」

 

「原因が分からん。止め方も分からん。根本解決はできん。ーーなら、俺達は人を逃がす」

 

ガルドは大剣を地面へ突き立てた。

 

「《蒼嵐》はここを護りの要にする!セリア、結界を張れ。ノルン、負傷者を集めろ。エルナ、次の崩落を読み続けろ」

 

「了解」

 

「分かりました」

 

「見ています」

 

《蒼嵐の道標》が動く。

 

セリアの白幕が避難路の要所を覆い、ノルンが負傷者をその内側へ運び込み、エルナの風読みが竜巻と崩落の兆しを探る。

ガルドの震刃が大地を打ち、崩れかけた道を砕いて作り直す。

 

そこは、完全に安全な場所ではない。

 

だが、人が一度息を継ぐための場所。

逃げる方向を見失った者が、次の道へ進むための要。

災害の中に打ち込まれた、仮初めの杭だった。

 

「《救光》は散れッ!」

 

ディオンが叫んだ。

 

「俺達は災害の道を逸らし続ける! 水でも土砂でも竜巻でも、町と避難路へ向かうものは全部削れ!」

 

「やっと分かりやすくなったなぁッ!」

 

ラウガが笑い、泥流の方へ走る。

 

「分かりやすいのかしら、これ!」

 

イリスはそう言いながらも、竜巻に巻き上げられた瓦礫を斬り落とすため屋根へ跳んだ。

 

ベルノは黒煙を広げ、災害の流れと逃げ遅れた者の位置を同時に探る。

ユナは蒼嵐の防護地点と避難路の間を走り、倒れた者を次々と立たせていった。

 

「ミオレ!」

 

ガルドが叫ぶ。

 

「お前は元を探れ! 分からんでもいい、何か掴め!」

 

「簡単に言うわね!」

 

「簡単じゃないから頼んでる!」

 

ミオレは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。

 

「……本当に冒険者って、無茶を言うわ」

 

彼女は息を吸う。

 

雨と風と水と土砂。

混ざり合う轟音の中で、彼女は『語り』を紡ぎ始めた。

 

『その刃は、海を殺すためのものじゃない。人の道を開くためのもの』

 

イリスの斬撃が水壁の端を裂き、ほんの一瞬だけ避難路への圧が弱まる。

 

『砕ける大地は、壊れるために砕けるのではない。流れを逃がすため、身を裂く』

 

ラウガの拳が地面を割り、泥流が人のいない方へ逃げる。

 

『白き幕よ、完全でなくていい。今だけでいい。人が通るまで、そこに在れ』

 

セリアの結界が軋みながらも、瓦礫を受け止める。

 

ミオレは支援しながら、探っていた。

 

この災害を災害として縛っている『語り』の元を。

水を壁へ戻す筋道を。

風を牙へ戻す言葉を。

土砂を人のいる方へ向けようとする意味を。

 

ーーーーけれど、届かない。

 

触れたと思った瞬間、遠ざかる。

聞こえたと思った瞬間、雨音に紛れる。

そこにあるのは分かる。

だが、掴めない。

 

「……駄目」

 

ミオレの声がかすれた。

 

「元が見えない。近くにあるのか、遠くにあるのかも分からない。ただ、『語り』が絡んでいる。それだけは間違いない」

 

「それだけ分かれば十分だ!」

 

ディオンが水壁の圧を裂きながら叫ぶ。

 

「十分なわけないでしょ!」

 

「十分だッ!」

 

今度はガルドが答えた。

 

「原因が分からんことが分かった。なら、今は原因探しで足を止めるなってことだ!」

 

ミオレは言葉を失う。

 

「俺達は冒険者だ」

 

ガルドは大剣を構え直した。

 

「分からんものを前にした時、全部分かるまで待つ仕事じゃない。分からんままでも、人が死ぬなら動く仕事だ」

 

ディオンが笑う。

 

「その通りだ。語りだろうが何だろうが、今は人が逃げる時間を稼ぐ。それだけだ」

 

ラウガが濁流を殴り飛ばす。

 

「形が戻るなら、戻るたびにぶっ飛ばす!」

 

イリスが瓦礫を斬る。

 

「効率は最悪だけどね!」

 

ベルノの黒煙が避難路を包む。

 

「最悪でも、死ぬよりはましよ」

 

ユナが負傷者を立たせる。

 

「歩けるなら進んでください。進めないなら、私達が運びます」

 

ミオレは、その場に立つ冒険者達を見た。

 

彼らは、この災害を理解していない。

理解できていない。

 

止め方も知らない。

勝ち筋も見えていない。

 

それでも、誰一人として膝を折っていなかった。

 

「……本当に」

 

ミオレは小さく息を吐く。

 

「悪い予感ばかり当たる日ね」

 

それでも彼女は、再び声を張った。

 

「分かったわ! 私は『語り』の流れを探り続ける! 支援も切らさない! だから――」

 

言いかけた言葉を、ディオンが引き取った。

 

「だから、俺達は止まらない」

 

ガルドが続ける。

 

「一人でも多く逃がす」

 

白火の灯りが、雨の向こうで揺れる。

避難民を導く声が遠くから聞こえる。

 

災害はなお迫っていた。

水壁は戻り、竜巻は吠え、土砂は避難路を狙うように流れ続ける。

 

『語り』の元は見えない。

原因は分からない。

打開策はまだない。

 

それでも。

 

《蒼嵐の道標》は護りの要として立ち続ける。

《救光の先駆け》は散開し、災害の道を逸らし続ける。

ミオレ・サージュは声を枯らしながら、見えない語りの源を探り続ける。

 

彼らは諦めなかった。

 

勝てるからではない。

 

諦めた瞬間、誰かが死ぬと分かっていたからだ。

 

その頃、白火の輪が雨に濡れた石畳の上で揺れていた。

 

《白火の旅団》が灯した避難誘導の光。

だが、恐怖に呑まれた人の流れは、光だけでは整わない。

 

津波の轟音。

竜巻の唸り。

崩れ落ちる瓦礫。

山側から迫る土砂の音。

 

それらが重なり、避難民達はどこへ逃げればよいのか分からなくなっていた。

 

「皆さま、白火の輪が続く方へ! 慌てず、けれど止まらずお進みください!」

 

白面のリオネル・クラウンが声を張る。

火輪のテオ・アッシュベルが足元へ白い火を置き、鎮音のミラベル・リュートが恐慌を抑える旋律を鳴らし、千里眼のセレナ・フィールが取り残された者を探していた。

 

そこへ、黒髪の少女が飛び込んできた。

 

「右の路地へ詰めないでください! そこは水が戻ります!」

 

リオネルが一瞬、少女を見る。

 

「君は――」

 

問いかけるより早く、少女は懐から薄いカードを取り出した。

雨に濡れぬよう、手の中でほんの一瞬だけ見せる。

 

何のカードなのか。

どこの誰が発行したものなのか。

避難民達には分からない。

 

だが、《白火の旅団》にはそれだけで十分だった。

 

リオネルの目が細くなり、テオが短く頷く。

少なくとも、この少女は無関係な民間人ではない。

この場で動く資格を持つ、同業者だ。

 

「状況説明は後で!」

 

少女――ミオ・バスメロデは、すぐにカードをしまった。

 

「白火の輪を三つ先まで左へ移してください! 大通りはこの先で瓦礫が落ちます! 倉庫裏の搬入口から丘へ抜ければ、荷車も一台ずつ通れます!」

 

リオネルはそれ以上、問わなかった。

 

「テオ!」

 

「分かってる!」

 

テオが指を鳴らす。

白火の輪が、ミオの示した路地へ移っていく。

 

「進路を変更します! 皆さま、白火の輪を追ってください!」

 

リオネルの声が、即座に群衆へ向けられる。

 

ミオはその横で、人の流れを組み直し始めた。

 

「お母さん、その子を抱いて。そちらの方、手を貸してください!」

 

「荷車は中央じゃなく壁際へ! 詰まると後ろが止まります!」

 

「老人の方を真ん中に。強い方は外側へ。列を崩さないでください!」

 

「食料袋と水袋は捨てないで。持てる人が持ってください。逃げた後に必要になります!」

 

その指示は、ただ人を逃がすためだけのものではなかった。

どこを通れば詰まらないか。

誰を先に動かすべきか。

何を捨て、何を残すべきか。

逃げた後に、誰が凍え、誰が飢えるか。

 

ミオは、それを見ていた。

 

「ミラベルさん、右側の列が止まります。音をそちらへ」

 

「承知しました」

 

ミラベルの旋律が、泣き叫ぶ子供達の方へ流れる。

泣き声は消えない。

恐怖も消えない。

それでも、人々の足が少しずつ前へ動き出す。

 

「セレナさん、取り残された人は?」

 

「青い屋根の奥に二人。けれど道が塞がっています」

 

「白火をそこへ一つ。リオネルさん、行けますか」

 

「ええ。舞台より少々足場が悪い程度です」

 

「お願いします」

 

ミオの指示を受け、《白火の旅団》は迷わず動く。

 

なぜこの少女がここまで的確に指示できるのか。

なぜ旅団がそれを受け入れているのか。

 

避難民の多くには分からない。

 

けれど、今この瞬間、彼女の声は道を示していた。

ならば、従う理由としては十分だった。

 

その人の流れの外側を、もう一人の少女が進んでいた。

 

灰色のローブを被った、小柄な少女だった。

 

誰かが初めてその姿に気づいた時、彼女は崩れた壁の前に立っていた。

道を塞いでいた梁が、泥水に押されて軋んでいる。

その向こう側には、逃げ遅れた少年が一人、壁際で身を縮めていた。

 

ローブの少女は、何かを叫ぶでもなく、駆け寄るでもなく、ただ梁の前で足を止めた。

 

雨に濡れた袖が、わずかに揺れる。

 

その唇が、ほんの少しだけ動いたように見えた。

 

けれど、何を言ったのかは誰にも聞こえない。

 

次の瞬間、泥水に押されていた梁が、わずかに角度を変えた。

人一人が通れるだけの隙間ができる。

 

少年は、呆然とその隙間を見た。

 

ローブの少女は、少年へ手を伸ばす。

少年がその手を取ると、彼女は白火の灯る方を示した。

 

それだけだった。

 

名前も告げない。

礼も待たない。

少年が走り出すのを見届けると、少女はまた災害の奥へ向かって歩き出した。

 

別の場所では、老人がぬかるみに足を取られて倒れかけていた。

 

ローブの少女は、そこでまた立ち止まる。

細い腕で老人を支えるには、あまりにも頼りない。

 

だが、不思議と老人の足元の泥流が一瞬だけ弱まった。

 

彼女は老人の手を取り、白火の列へ向けて押し出す。

老人が何かを言おうとした時には、もう少女は背を向けていた。

 

声は、ほとんど聞こえない。

 

ただ、彼女の通った後には、人が一人助かるだけの隙間が残る。

誰かが転ぶ前に、ほんの少し風が逸れる。

瓦礫が落ちる前に、誰かが顔を上げる。

水が戻る前に、わずかな間だけ足場が残る。

 

大技ではない。

奇跡と呼ぶには小さい。

だが、災害の牙がその一瞬だけ鈍る。

 

その程度のことが、彼女の歩く先々で起きていた。

 

ミオは避難民の列を整えながら、時折その背を確認していた。

 

「中央を空けてください!」

 

ミオの声が飛ぶ。

 

「左へ寄って! 右側の方は壁沿いに! 止まらないで、そのまま進んでください!」

 

人の流れが、少しずつ左右へ分かれていく。

 

「白火を中央に三つ。足元だけでいいです!」

 

テオが火を放つ。

白い火の輪が、泥の上に静かに灯った。

 

「ミラベルさん、音を少し落としてください。あの子の周りだけ」

 

ミラベルは一瞬だけ目を伏せ、弦を撫でる指を弱めた。

 

災害の轟音は消えない。

人々の悲鳴も消えない。

けれど、ほんのわずか、中央の道だけ音が薄くなる。

 

ミオはさらに声を張った。

 

「《蒼嵐》の方、前方の瓦礫を左右へ!」

 

遠くで、震刃ガルド・レーヴェンの大剣が地を打つ。

崩れた石材が左右へ押し分けられ、白幕セリア・フランネルの結界がその端を押さえる。

 

「《救光》の方、後ろから来る水を逸らしてください!」

 

鉄拳ラウガの拳が地面を砕き、泥水の流れを横へ逃がす。

裂風剣イリスの斬撃が、竜巻に飛ばされた木材を粉砕する。

 

それは、誰か一人のための道ではなかった。

 

避難民を逃がすための道。

冒険者達が命を繋ぐために作った道。

そして今、ローブの少女が災害の中心へ向かうための道。

 

ミオはその道の入口に立った。

 

「カナリア」

 

初めて、名前を呼ぶ。

 

ローブの少女が振り返る。

 

ミオは短く告げた。

 

「ここから先は人が少ない。水は左へ逸らしてる。右の建物は長く持たないけど、結界がある間なら通れる」

 

カナリアは、小さく頷いた。

 

「……うん」

 

それだけだった。

 

ミオは少しだけ笑う。

 

「白火を追って。三つ目から先は、私が人を入れない」

 

カナリアはもう一度、頷く。

 

それ以上の言葉はなかった。

 

ミオは一歩横へ退いた。

 

「道を開けてください!」

 

白火が灯る。

結界が軋む。

冒険者達が瓦礫を押し返す。

避難民が左右へ分かれる。

 

その中央へ、カナリア・シンフォニアは静かに足を踏み出した。

 

ローブの裾が泥水を撫でる。

小さな足が、白火の灯りを一つずつ越えていく。

 

前線にいた者達は、その姿を見た。

だが、誰もすぐには言葉を発せなかった。

 

あまりにも小さな背中だった。

 

それなのに。

 

豪雨の音が、わずかに遠のいた気がした。

 

カナリア・シンフォニアは、白火の灯りを一つずつ越えて進んだ。

 

足元では泥水が流れている。

横殴りの雨がローブを叩き、遠くでは竜巻が瓦礫を巻き上げ、背後では避難民達の息遣いと叫びがまだ残っていた。

 

それでも、彼女の歩みは変わらない。

 

速くもない。

遅くもない。

ただ、災害の中心へ向かうには、あまりにも静かな歩き方だった。

 

「おい、本当に行かせるのか……?」

 

誰かが呟いた。

 

「とめないで。彼女を行かせてください」

 

ミオ・バスメロデが言った。

 

その声に迷いはなかった。

ただし、不安がないわけではない。

指先はわずかに震え、視線はカナリアの背中から離れない。

 

ミオレ・サージュもまた、その小さな背を見つめていた。

 

『語り部』として、彼女には分かる。

あの少女は、何かを始めようとしている。

 

けれど、分からない。

 

語り部の書を開く気配がない。

術式を展開する気配もない。

周囲の魔錬を束ねるわけでも、誰かの行動に『語り』を添えるわけでもない。

 

ただ、歩いている。

 

ただ、そこにいる。

 

それなのに。

 

「……何?」

 

ミオレは、思わず胸元を押さえた。

 

耳に届いたわけではない。

目に見えたわけでもない。

 

けれど、何かがめくられた気がした。

 

雨音の奥で。

風の唸りの底で。

海鳴りよりも深い場所で。

 

存在しないはずの頁が、静かに一枚、めくられたような気がした。

 

カナリアが足を止める。

 

目の前には、海があった。

 

いや、海だったものがあった。

 

本来なら広がり、揺れ、寄せては返すはずの水が、今は巨大な壁となって町へ迫っている。

その表面を竜巻が撫で、雨が叩き、土砂の濁りが混ざり、黒く重い水の塊となって唸っていた。

 

カナリアは、それを見上げた。

 

小さな少女が、町を呑み込もうとする水壁を見上げる。

 

あまりにも釣り合わない光景だった。

 

だが、彼女は怯えなかった。

 

「……あなたは」

 

声が落ちる。

 

それは叫びではなかった。

号令でもなかった。

祈りとも少し違った。

 

静かで、細くて、雨に消えてしまいそうな声。

 

けれど、その声は消えなかった。

 

『海は、壁じゃない』

 

水壁の表面が、かすかに揺れた。

 

それは攻撃を受けた揺れではない。

何かを思い出そうとするような、迷いに似た揺れだった。

 

『押し潰すために、そこにあるんじゃない』

 

カナリアのローブの裾が、風に揺れる。

その内側で、淡い文字のようなものが一瞬だけ光った気がした。

 

だが、それをはっきり見た者はいない。

 

雨の反射だったのか。

白火の灯りだったのか。

あるいは、ただの錯覚だったのか。

 

誰にも分からなかった。

 

『寄せて、返して』

 

カナリアは続ける。

 

『満ちて、引いて』

 

水壁の輪郭が崩れ始める。

崩壊ではない。

破壊でもない。

 

壁として立ち上がっていた水が、波であったことを思い出すように、ゆっくりと形を緩めていく。

 

『あなたは、帰る場所を知っている』

 

海鳴りが、低く変わった。

 

それまで町を呑もうとしていた轟音が、わずかに遠ざかる。

沖へ向かう流れが、水壁の底に生まれた。

 

『風』

 

カナリアは顔を上げる。

 

空では、無数の竜巻が黒雲と海面を繋いでいた。

瓦礫を巻き上げ、雨をねじり、人々の逃げ道を断つように暴れている。

 

『あなたは、牙じゃない』

 

竜巻の一つが、びくりと震えた。

 

『裂くためだけに吹くんじゃない』

 

彼女の声は、なお小さい。

けれど、不思議と誰も聞き逃さなかった。

 

『通り過ぎて』

 

風が、細く鳴る。

 

『巡って』

 

竜巻の柱がほどける。

まるで固く結ばれた糸が緩むように、渦の輪郭が崩れ、風は風へと戻っていく。

 

その一つが消えたことで、空にわずかな隙間が生まれた。

重く垂れ込めた雲の奥に、鈍い灰色の光が見える。

 

『雨』

 

カナリアは、掌を少しだけ上げた。

 

雨粒がその手に落ちる。

冷たい雨だった。

けれど、その雨はもう針のようには突き刺さらなかった。

 

『奪うために、降るんじゃない』

 

彼女の指先を、雨が伝う。

 

『冷やして』

 

『満たして』

 

『流して』

 

『それから、やんで』

 

黒雲の奥で雷が鳴った。

 

だが、その音は先ほどまでの怒号ではなかった。

遠ざかっていく荷車の軋みのように、鈍く、長く、空の向こうへ消えていく。

 

雨脚が、少しずつ弱まる。

 

完全に止んだわけではない。

だが、人の目を奪うほどの豪雨ではなくなっていく。

 

『土』

 

最後に、カナリアは背後の山を見た。

 

豪雨に削られ、泥と岩を吐き出し続ける斜面。

人を呑み込み、道を塞ぎ、町の背を押し潰そうとしていた土砂。

 

『あなたは、呑み込むためだけにあるんじゃない』

 

土砂の流れが、低く唸る。

 

『支えて』

 

『受け止めて』

 

『積もって』

 

『いつか、また道になる』

 

その言葉に応じるように、ガルド達が砕いた大地の亀裂へ、泥の流れが吸い込まれていく。

ラウガが開いた水路へ、濁流が向きを変える。

セリアの結界が支えていた瓦礫の壁に、土砂がぶつかり、勢いを失う。

 

冒険者達が作った道。

壊し、砕き、押し固め、命を繋ぐために作った即席の逃げ道。

 

カナリアの『語り』は、それらをなぞるように災害の流れを変えていった。

 

まるで、彼らの行動一つ一つに、後から意味が与えられていくように。

 

「……違う」

 

ミオレが呟いた。

 

「押さえ込んでるんじゃない」

 

誰も、彼女の言葉に返事をしなかった。

返事をする余裕がなかった。

 

目の前で、災害がほどけていく。

 

水は海へ。

風は空へ。

雨は雲へ。

土は低き場所へ。

 

「壊してない。戻してる……」

 

ミオレの声は震えていた。

 

彼女は『語り部』だった。

だからこそ分かる。

 

普通、『語り』とは、人の行いに添えるものだ。

剣に意味を与える。

道に名を与える。

恐怖を鎮め、勇気を形にする。

 

だが、あの少女は違う。

 

人の行動に語っていない。

水そのものに語っている。

風そのものに語っている。

雨に、土に、災害という形を与えられた自然そのものに語りかけている。

 

しかも。

 

「……書を、開いていない」

 

ミオレは、声にならない息を吐いた。

 

開かれた本はない。

刻まれた陣もない。

儀式も、詠唱も、供物もない。

 

それなのに、彼女には聞こえていた。

 

かすかな頁の音を。

 

誰も持っていないはずの書が、世界のどこかでめくられているような音を。

 

カナリアは、その音に気づいているのか、いないのか。

 

分からない。

 

ただ彼女は、目の前の災害を見ていた。

 

悲しそうに。

少しだけ困ったように。

それでも、逃げずに。

 

『あなたたちは』

 

カナリアは最後に、海と空と山をまとめて見渡した。

 

『壊すために、ここに来たんじゃない』

 

水壁が、波へ戻る。

竜巻が、風へ戻る。

雨が、雨へ戻る。

土砂が、人のいない谷筋へ流れを変える。

 

『だから』

 

彼女は、小さく息を吸った。

 

その瞬間、辺りの音が一つ減った。

 

津波の轟きが。

竜巻の唸りが。

雨の叩きつける音が。

避難民の叫びが。

 

すべてが消えたわけではない。

 

ただ、カナリアの声を聞くために、世界がほんの少しだけ黙ったように感じられた。

 

『おやすみ』

 

その一言で、災害は崩れた。

 

いや、崩れたのではない。

 

ほどけた。

 

水は沖へ引いていく。

風は町を避けるように流れを変える。

雨は細くなり、黒雲は裂け始める。

土砂は防壁に受け止められ、谷筋へと落ちていく。

 

そこに勝利の轟音はなかった。

敵を討ち倒した歓声もなかった。

 

ただ、さっきまで町を呑もうとしていたものが、自然の姿へ戻っていく静けさだけがあった。

 

カナリアは、しばらくその場に立っていた。

 

やがて、ゆっくりと腕を下ろす。

 

ローブの内側で揺れていた淡い文字のような光は、もう見えない。

聞こえた気がした頁の音も、雨上がりの滴の音に紛れて消えていた。

 

彼女の手には、何もない。

 

本など、どこにもない。

 

けれどミオレ・サージュは、しばらく目を離せなかった。

 

あれは何だったのか。

 

『語り』なのか。

『祈り』なのか。

それとも、もっと『別の何か』なのか。

 

分からない。

 

ただ一つだけ、分かることがあった。

 

あの少女の言葉を、世界は聞いていた。

 

雨は、まだ降っていた。

 

けれど先ほどまでのように、人の肌を叩き、視界を奪い、恐怖を煽る雨ではない。

細く、静かに、町の熱を冷ますような雨だった。

 

沖へ戻っていく波の音。

遠ざかる風の唸り。

谷筋へ落ちていく土砂の重い響き。

 

災害は、消えたわけではない。

だが、町を呑むための形を失っていた。

 

その中心に、カナリア・シンフォニアは立っていた。

 

ローブの裾は泥に濡れ、細い肩には雨粒が残っている。

大津波を退けた英雄にも、天災を討ち果たした勇者にも見えない。

ただ少し疲れたように、静かに息を吐く小柄な少女だった。

 

彼女は周囲を見回す。

 

避難民。

冒険者達。

崩れた家屋。

押し固められた瓦礫の壁。

泥にまみれながらも、まだ立っている者達。

 

そのすべてを確認してから、カナリアはほんの少しだけ頭を下げた。

 

深い礼ではない。

名乗りでもない。

称賛を受けるための仕草でもない。

 

ただ、そこにいた者達へ向けた、簡素な挨拶だった。

 

それから彼女は、何事もなかったかのように身を翻す。

 

「カナリア」

 

ミオ・バスメロデが駆け寄る。

 

「大丈夫?」

 

「……うん」

 

カナリアは小さく頷いた。

 

「少し、喋りすぎただけ」

 

その言葉の意味を、正しく理解できた者はほとんどいなかった。

ただ、ミオだけは表情を少し曇らせ、それ以上を問わずにカナリアの隣へ並んだ。

 

「じゃあ、下がろっか。まだ足元悪いし」

 

「……うん」

 

二人は、冒険者達の視線を背に受けながら、避難民の少ない方へと歩き出す。

 

カナリアは振り返らなかった。

もう一度名乗ることも、何かを説明することもなかった。

 

その背を、ミオレ・サージュは黙って見つめていた。

 

濡れた髪が頬に張りついている。

息はまだ荒い。

喉も痛む。

冒険者達の支援に語りを使い続けたせいで、声は少しかすれていた。

 

それでも、彼女は視線を外せなかった。

 

「……ミオレ」

 

白槍ディオンが、槍を杖代わりにして近づいてくる。

 

「今のは、何だ」

 

その問いに、すぐ答えられる者はいなかった。

 

鉄拳ラウガは、まだ沖へ引いていく水を睨んでいる。

裂風剣イリスは剣を下ろしたまま、言葉を失っていた。

白幕セリアは半ば破れかけた結界を解きながら、カナリアの背を見送っている。

白火の旅団のリオネルでさえ、舞台役者めいた口上を忘れたように沈黙していた。

 

「語り部、なのよね?」

 

セリアがぽつりと言った。

 

「でも、普通の語り部じゃない。あんな語り方、見たことがありません」

 

「俺もだ」

 

ガルドが低く唸る。

 

「水も風も、斬っても砕いても戻りやがった。だが、あの嬢ちゃんが何か言ったら、災害の方が勝手に道を変えたように見えた」

 

「勝手に、じゃないわ」

 

ミオレはようやく口を開いた。

 

声は小さい。

だが、その場にいた冒険者達の耳にははっきり届いた。

 

「あの子が、戻したのよ」

 

「戻した?」

 

「押さえ込んだんじゃない。打ち消したんでもない。水を水に、風を風に、雨を雨に、土を土に戻した。災害として歪められていた筋道を、本来の流れへほどいたの」

 

「そんなことができるのか」

 

ディオンが眉をひそめる。

 

ミオレは、すぐには答えなかった。

 

できる。

そう言えば嘘になる。

 

できない。

そう言い切るには、目の前で起きたことがあまりにも確かだった。

 

だから彼女は、正直に言った。

 

「分からないわ。少なくとも、私はできない」

 

その一言で、冒険者達の空気がわずかに変わった。

 

ミオレ・サージュは、はぐれ語り部である。

正規の語り部として扱われる者ではない。

だが、この災害の中で、彼女の語りが何度も冒険者達を助けたことを、ここにいる者達は知っている。

 

そのミオレが、自分にはできないと言った。

 

ならば、あの少女が行ったことは、少なくとも並の『語り』ではない。

 

「……なあ」

 

黒煙ベルノが、濡れた帽子のつばを指で押し上げた。

 

「もしかして、あれか?」

 

「何がだ」

 

ラウガが問う。

 

「噂で聞いたことがある。災害や異常現象の現場に現れて、ほとんど何も語らずに鎮めていく語り部がいるって」

 

その言葉に、数人の冒険者が反応した。

 

「……沈黙の語り部か?」

 

誰かが、そう呟いた。

 

その名が落ちた瞬間、雨上がりの空気が少しだけ重くなった。

 

「聞いたことがある」

 

セレナ・フィールが静かに言う。

 

「辺境の街道で、暴走した魔錬霧を鎮めた語り部。名前も姿もはっきりしない。ただ、語り終えた後には、被害だけが不自然なほど少なくなっていたとか」

 

「俺が聞いた話じゃ、山火事を止めたって話だったぞ」

 

テオ・アッシュベルが白火を指先で消しながら言った。

 

「止めたというより、火が燃えるべきものだけを燃やして、それ以上広がらなかったとか何とか」

 

「私が聞いたのは、逆流した川の話です」

 

リオネルが仮面の奥で目を細める。

 

「語り部本人はほとんど名乗らず、ただ一言二言だけを残して去った。だから人々は、その者を“沈黙の語り部”と呼ぶようになった、と」

 

ばらばらの噂だった。

 

場所も違う。

内容も違う。

目撃証言も曖昧で、本名も容姿も定まっていない。

 

けれど、共通していることがある。

 

災厄の場に現れること。

多くを語らないこと。

そして、語った時には現象そのものが静まること。

 

ミオレは、下がっていくカナリアの背を見た。

 

「私も、噂だけは知っていた」

 

彼女は言った。

 

「言葉少なに災厄を鎮める、名も知られぬ語り部。普通の語り部のように長く語らず、けれどその声だけが現象の奥まで届く存在」

 

「じゃあ、あの子が……」

 

ディオンの言葉は、途中で止まった。

 

誰も断言できない。

ミオレも、まだカナリア・シンフォニアという個人を知らない。

 

けれど、今見たものを別の名で呼ぶこともできなかった。

 

「あれが、沈黙の語り部……?」

 

イリスが呟く。

 

ミオレは答えない。

 

代わりに、カナリアの手元を思い出す。

 

本はなかった。

語り部の書は開かれていなかった。

それなのに、あの時、確かに頁がめくられるような気配があった。

 

見えない頁。

聞こえないはずの音。

世界の奥で、何かが少女の言葉に応じていたような感覚。

 

「……ただ」

 

ミオレは、少しだけ声を落とした。

 

「普通の語り部として見るなら、あの子はおかしい」

 

「おかしい?」

 

「語りの上手い下手じゃない。魔錬の量でもない。私達は普通、人の行動に語りを添える。剣に、盾に、道に、灯りに。そうやって現象へ少しだけ届かせる」

 

ミオレは、遠ざかる白と灰のローブを見つめたまま続ける。

 

「でも、あの子は違った」

 

雨粒が、瓦礫の上から落ちる。

 

「海に語った。風に語った。雨に、土に語った。人の行動を介さず、現象そのものに言葉を届かせていた」

 

沈黙が落ちた。

 

冒険者達は、今さらながら理解する。

 

自分達が戦っていたものは、倒せる敵ではなかった。

そして、あの少女がしたことは、敵を倒すことでもなかった。

 

もっと深い場所に触れていた。

 

「それは、危険なのか」

 

ガルドが問う。

 

ミオレは、少し迷った。

 

「分からない」

 

それは逃げではなかった。

語り部としての正直な答えだった。

 

「でも、少なくとも今は、あの子がいなければもっと多くの人が死んでいた」

 

その言葉に、誰も異を唱えなかった。

 

避難路に残る人々の息遣い。

抱き合って泣く親子。

泥に座り込んだ老人。

肩を貸し合う冒険者達。

 

それらが、答えだった。

 

「……礼を言うべきだったか」

 

ディオンが呟く。

 

「言われ慣れていない顔でしたよ」

 

リオネルが静かに返す。

 

「それに、あの手の方は、大仰な礼よりも、まず人が生きていることを確認する方を好むでしょう」

 

「分かったような口を」

 

「舞台役者ですので。顔を見るのは得意です」

 

そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩む。

 

だが、ミオレだけはまだ笑えなかった。

 

彼女の視線の先で、ミオ・バスメロデがカナリアの隣に並び、何かを話しかけている。

カナリアは小さく頷き、少しだけローブの裾を握り直した。

 

災厄を鎮めた少女。

けれどその背中は、あまりにも普通に疲れて見えた。

 

「沈黙の語り部」

 

ミオレは、もう一度その名を口にした。

 

噂の中の異名。

名も姿も知らなかった存在。

 

その名が、今、目の前の小さな少女と結びつこうとしている。

 

けれどミオレは、まだ知らない。

 

あの少女が何を背負っているのかを。

なぜ、あれほど静かに災害へ語りかけられるのかを。

 

分からないことは、あまりにも多い。

 

ただ一つだけ、確かなことがあった。

 

この場にいた冒険者達は、今日見た光景を忘れない。

 

海を斬れなかった剣。

風を止められなかった拳。

土砂を押し返しきれなかった結界。

それら全てが届かなかった場所へ、小さな語りが届いた瞬間を。

 

そしていつか、この日の話はまた噂になる。

 

名だたる冒険者達が災害に抗い、はぐれ語り部がその異常を見抜き、最後に一人の少女が静かに災厄を鎮めた話として。

 

人々は、きっとこう呼ぶだろう。

 

沈黙の語り部が現れた日、と。

 

 

 

 

 

本作は、作者の原案・設定をもとに、生成AIを文章整理・推敲補助として使用しています。最終的な内容確認と編集は作者が行っています。




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

『沈黙の語り部』の序章、いかがでしたでしょうか。

今回の序章では、物語の舞台となる世界と、『語り部』という存在、そして主人公カナリア・シンフォニアの一端を描いています。

彼女がなぜ《沈黙の語り部》と呼ばれるのか。
そして、これからどのような物語が紡がれていくのか。

それらは、今後の物語の中で少しずつ明らかになっていきます。

なお、ハーメルンではひとまず序章のみを先行公開し、第1話以降の投稿については様子を見ながら検討していく予定です。

本作はpixiv・note・カクヨムにも掲載しております。

ご感想やご意見などございましたら、お寄せいただけると幸いです。
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