——あの日まで、わたしは踏まれるだけの弱者だった。
「お姉ちゃん、来て来て!」
頬を紅潮させて、自室に飛び込んできた妹に、わたしはパチパチと目を瞬かせた。
「どうしたの?」
「見せたいものがあるの!」
体育座りしていたわたしの腕を、妹がぐいぐい引っ張る。
「わっ」
「早く早く!」
急かされるがままに、わたしも外へと向かう。自室から出た瞬間に、日光が目を灼いた。
「まぶし…」
目を細めつつ、足音を忍ばせて進む妹を追う。その先を見て、わたしはぎょっとした。
「ねぇ、こっちってお屋敷の方でしょ?ダメだよ、怒られちゃう」
「大丈夫だよ、今みんなお仕事中だもん!」
「でも…」
体に刻まれた無数の痣が、じくりと疼いた。
「お姉ちゃんは心配性すぎるの!」
むん、と妹が腕を組む。
「そんなに言うなら、もう知らない!お姉ちゃんなんて来なくていいもん!」
「あ、待って!」
まずい、見つかりでもしたら…!
わたしはひゅっと息を呑み、慌てて妹を追いかけた。
何度も転びそうになりながら、ピカピカに磨かれた木床を走る。角を曲がった先で妹に追いつき、わたしは急停止した。
「ああ言ったら来ると思った!」
ハアハアと息を弾ませるわたしに、妹はニシシと笑う。小憎たらしいその笑みに、思わず口を尖らせた。
「結局、何を見せたかったの」
「ふふ、ここまで来ちゃったら見るしかないよね」
笑顔のまま、妹は襖を勢いよく開けた。その中にあったのは、
「テレビ…?」
わたしが知っているものより、ずっと古くて分厚いが。
「お掃除してたら見つけたの!まあ見てなって」
テレビについたダイヤルを、得意げに回す。ジー、と軽いノイズの後、パッと映像が灯った。
「ね、まだ映るんだよ!二人で部屋に運ぼうよ、そしたらいつでも見れるの!」
目をきらきらと輝かせる妹を、わたしはそっと撫でた。
「すごいね。でもこれだけじゃ映らないと思うよ。配線とか、必要なんじゃない?」
え、と妹が動きを止める。
「…そうなの?」
「うん。ほら帰ろう、バレたら——」
ジャジャーン!!
その言葉を、テレビの効果音が遮った。
「正義の味方、参上!!」
画面には、マントを靡かせる男が一人。
「…なに、あれ」
「正義の味方」って、自分で言っちゃうんだ。ださ、と冷めた目で見つめる。
男は、今にも襲われそうだった親娘を背に庇い、怪人へと立ち向かう。
「うおりゃー!!」
バキ!
だが、一撃で男は吹き飛ばされる。
けれど。地面に転がっていた男は、ゆっくりと立ち上がった。震える親娘に笑いかけ、もう一度怪人へと飛びかかる。
殴られる。
蹴られる。
吹き飛ぶ。
その、繰り返し。
それでも。
そのたびに、起き上がって。傷だらけの顔で、笑うのだ。
いつのまにか、言葉が出なくなっていた。
「うわあ…」
腕の中で、妹がぽつりと感嘆を漏らす。
ドーン!!
とうとう、男が怪人を吹っ飛ばした。渾身の拳が決まり、男は燦然とポーズを決める。抱き合う親娘に近づいて、彼はニッと微笑んだ。
「もう大丈夫!悪いやつは倒したからね!」
「ありがとう、ヒーロー!」
画面の向こう側で、親娘が嬉しそうに言う。
「ひーろー…?」
妹が、呆然と呟いた。
「あれが、ヒーロー」
「みたい、だね」
私もそっと返す。
「かっこいい、ね」
「…うん」
使い古されたブラウン管テレビの、ノイズ混じりの再放送。名前も知らない、子供向けの安っぽいヒーローアニメ。
それでも。わたしの目には、その姿が焼きついていた。部屋の外から出た時の、輝くお日様のように。
「かっこいい」
二人で見た、あのテレビの燦めきを。わたしは生涯忘れない。
駆ける、駆ける、駆ける。
死ぬ。そう思った瞬間から、夏油傑は無様なくらい必死に走っていた。
「シにタイ、シニたイ、あハハ!」
後ろからは、愉しそうなうめき声。
ハア、ハア、ハア!苦しい。息が、もうない。
(だめだ、走るんだ)
走らねば、殺される。
震える足を叱咤して、ひたすらに走る。延々と続く、闇に包まれた森。木の枝に足を取られて、転びかけて。
「ッハア、」
つんのめって、それでも夏油は走る。
何キロ走ったかなんて、もう分からない。ただただ、迫り来る足音と恐怖から、逃げ続けていた。
「クッソ!」
(だから、やめようって言ったんだ!!)
発端は、肝試しに行こうと誘われたことだった。悪い遊びにも手を出している、背伸びしたがりの男子たちに。
夏油は、いわゆる「見える人」であった。子供の頃から、人には見えない「ナニカ」が見えた。それを誰かに言うことは無かったけれど、それゆえの勘の良さに似たものも持っていた。自分が呼ばれたのは、そういうことを当てにされたのもあるだろう。
場所は、昔誰かが自殺した山道。わざわざ大禍時である午後七時を指定してきたのだから、本気ではあるらしい。
心霊スポットには、「ナニカ」——夏油は「幽霊」と呼んでいるもの——も湧きやすい。そう知っていてなおついていったのは、好奇心ではない。
自負だ。
夏油は「幽霊」を取り込む「力」を持っていた。例えるならば吐瀉物を拭いた雑巾のような味はするけれど、それで今まで何体も「幽霊」を取り込んできたのだ。
今更、そこらの有象無象に負けることはないだろう。…そう、たかを括っていたのに。
現場に着いた時から、嫌な予感はしていた。禍々しい気配が、山道に沿って渦巻いていたのだ。威圧感、とでも言おうか。思わず「やめよう」と口走った夏油を、リーダー格の少年は嘲笑った。
——「今更怖気付いたのかよ,腰抜け」
腹が立った、と言わなければ嘘になる。もちろん、「見えない」側である連れを守らなければという気持ちがあった。
だがそれ以前に、見えもしない連中にバカにされたことが、何故だかとんでもなくムカついたのだ。
そうして、山道を進んで行った時。不意に、リーダー格が消えた。正確には、木々の間から現れた、ヒョロ長い手に掴まれたのだ。
「けケ、オちタ!」
そうして現れたのは、ニタニタと嗤う——バケモノ。
悲鳴を上げる暇もなく森の闇に飲み込まれたリーダー格に、仲間たちは一斉に逃げていった。かくいう夏油もそう。
一人、また一人と悲鳴が上がり。とうとう、追いかけられているのは自分だけになった。
何体も「幽霊」を放ってはいるものの、すぐに祓われてしまう。
(無理だ、どうやって倒せって言うんだよ、あんな化け物!)
ソレは、数十本もの人間の腕を生やしていた。もぞもぞと宙を掻くそれは、大半が血肉に塗れており、腐臭を漂わせている。そして本体は、ブヨブヨと油の浮いた肉塊。
目もないのにどうやって自分たちの場所が分かるのか。いや、ただ本能に従っているだけかもしれない。
手に掴まれた仲間たちを見て、夏油は歯を噛み締めた。…自分には、助けられない。
「あっ」
ふと、体が浮いた。
(ちくしょう!)
足元には、拳大の石。地面に勢いよく激突し、夏油は倒れ込んだ。ぽた、と鼻血が伝う。立ち上がろうとした瞬間、足が凄まじい力で引っ張られた。
気づいた時には、バケモノの醜い姿が視界いっぱいに広がっている。
「…シぬ?タベる?」
ぶらんぶらんと、逆さ吊り状態。せめてもの抵抗に青白い手を蹴り付けるが、効いている様子はない。
——死
その一文字が、頭をよぎった瞬間だった。
ドン!!
とんでもない速度で、彗星が落ちてきた。次の瞬間、乱暴に宙に投げ出される。
「…は?」
何が起こったか分からない。新手か、それとも。
目を白黒させる夏油を、誰かがふわりと抱え込んだ。とん、と地面に舞い降りる。土煙がだんだんと引き、夏油はようやく状況を把握し始めた。
完全に吹っ飛び、木々の合間でもがくバケモノ。そして、自分と仲間を肩に担いでいる乱入者。
(この人が)
あのバケモノを、倒したっていうのか?
「…はは、まさか」
掠れた声で呟いた夏油に、乱入者は素早く反応した。切り揃えられた赤髪が、ふわりと揺れる。
「ごめんね、乱暴な手段を取って。怪我はない?」
「あ、無いです、けど…アンタ、誰、」
「あー、混乱しちゃってるか。自己紹介してる暇はないから、さきにあっち祓ってくるよ」
あっち、と言った乱入者の目線がバケモノに向いているのを見て、夏油はひゅっと息を呑む。
「無茶だ!あんなの、敵うわけが、」
「大丈夫」
不思議と、その柔らかい声が染み込んでくるような。優しい口調に、夏油は思わず黙り込んだ。
「わたし、こう見えても強いから」
降ろすね、とすとんと地面に横たわらせられる。隣にはリーダー格、その他の仲間たちも。
あの一瞬の間に、全員をバケモノの手から奪い取ったのだ。
(何なんだよ、一体…!)
乱入者は、女、それも夏油とそう変わらなそうな年頃だった。飜るハーフマントを身につけて、こきりと首を鳴らす。
「さて、トドメといこうか」
「
その宣言と同時に、女の体が、光を放った。陽の光に似た、鮮やかな光明を身に纏い、女は飛び上がる。
(…速い!)
気づいた瞬間には、バケモノの眼前へ。
「シヌる、」
「悪いけど、死ぬのは君の方」
くるりと、空中で一回転。そのまま、力いっぱい、蹴り飛ばした。
パァン!
轟音とともに、バケモノが弾けた。ザフッ、と澱んだ塵となって消えていく。
とん、と着地して、女は夏油に笑いかけた。
「アイツはもう祓ったからね、大丈夫だよ。…よく耐えたね」
「…あ、はあ」
言葉が出ない。あのバケモノを、一瞬にして——蹴っただけで、倒したんだ。
あ、と女は焦ったように夏油に近づく。
「怪我してる。ごめん、触るよ」
擦っただけです、と言う前に、頬に女の柔らかい手が添えられた。ぽわり、と温かい光が全身を包む。
それが宙に溶けた時、痛みは消え去っていた。
「…これ、は」
「私の術式。さ、歩ける?このまま山麓まで行こうか。他に呪霊がいると危ないし」
「…?ジュレイって、なんですか」
あそっか、と女はぽんと手を叩く。
「君見えてるんだよね?さっきのあれが「呪霊」。人の負の感情から生まれる化け物みたいなものだよ」
「呪、霊。じゃあ今まで見えてたものも、そうなんですか?」
「恐らくね」
「幽霊」は呪霊、と言うらしい。呪いか、と夏油は口の中で転がした。そう言われれば、どれも納得できる風貌をしている。
「そういえば、名前!名乗ってなかったね。わたしは
「夏油、傑です」
「分かった、夏油君ね。ついておいで」
仲間を再び肩に担いで、燦は歩き出した。夏油もそれについていく。煌々と、月が山道を照らしていた。
「…よく中学生男子を、三人も担げますね」
「力持ちだからね、わたし」
「そうなんですか」
「ごめんごめん違うよ」
冗談だってば、と燦は慌てたように言う。
「呪力っていう力を使って身体強化してるんだ。わたしの場合は術式も絡んでくるんだけど…まあ、それはいっか」
「ジュリョク。呪うに、力ですか?」
「うん!よく分かったね」
「話の流れ的に、そうかなと」
おお、と燦は感心したように言う。
「賢いんだね、君」
「それは、どうも。…あなたは、一体何なんですか。あの幽霊、いや呪霊のことにも詳しいんでしょう」
警戒を乗せて夏油が尋ねると、燦は振り向いた。考えながら喋っているのか、その口調は先ほどよりもゆっくりしている。
「呪術師、だよ。呪いの力をもって、呪いを祓う。日本国内の怪死者・行方不明者は年間約一万人を超える。その被害のほとんどはね、呪いによるものなんだ」
「ッツ、」
夏油は「ありえない」と言いかけて、そこで止まった。さっきのようなバケモノであれば、「見えない」人間を殺すことなんて容易い。それが、山ほど存在するならば?
思わず口元を押さえた夏油に、燦は続ける。
「だからこそ、私たちは君たち一般人を守るために存在している。呪いの存在を隠匿し、犠牲を減らすためにね」
「それは、ほんの一部の人間ですよね?」
夏油は確信をもって問いかけた。今まで、自分と同じような人間にあったことはない。少なくとも、多数派ではありえないだろう。
「そうだね。だからいっつも人材不足なんだけど」
眉を下げて燦が笑う。自分より低いそのつむじをちらりと見て、夏油は問いかけた。
「純粋に、疑問なんですけど。どうして、そこまでして助けようとするんですか?呪霊がいるのは、大抵心霊スポットでしょう?そこで被害に遭うのなんて、肝試しに行こうとしたバカだけだ!なんで、」
なんで。
「命を懸けてまで、助けようとするんですか」
「助けたいから」
当たり前のように、燦は言った。
「は」
「君だって、誰かがハンカチを落としたら拾うだろ?それと一緒。目の前で苦しんでる人を助けたい。例え目の前じゃなくても、手の届く範囲なら…ううん、手の届く範囲じゃなくても」
夏油の方をまっすぐに向いて、燦は目を細めた。
「だって、誰かを助けるのに、理由なんかいらないじゃん」
「かっこいい」
そう呟いたわたしに、妹がぎゅっと抱きつく。
「お姉ちゃんの方がかっこいいもん!」
あんなのヤダ、と大声を出す。
「唯衣のヒーローは、お姉ちゃんだもん!!」
「…そっかぁ」
じゃあ、と微笑む。
「わたしも頑張らなきゃだ」
それは、澄み渡る夏の、大切な記憶——
……あーあ。言わなきゃ良かったのにね、あんなこと。そうしたら、幸せなままでいられたのに。
一人だけヒロアカにでも居そうって思いながら書きました。でもちゃんと呪術の住人。
次話は30分後投稿します。