東方恋桜華   作:ごまだれさん

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月の姫君の恋桜華

 

 竹林の奥の筍は、誰にも掘られない。

里の者は縁より奥へは入ってこないし、永遠亭の兎たちも、台所で使う分しか掘らないのだそうだ。

だから竹林の奥では、毎年、殆どの筍が誰の口にも入らないまま、ひと月もしないうちに竹になってしまうのだと言う。

筍を掘って売っている身としては、聞いているだけで落ち着かない話である。

 

 永遠亭で暮らすようになって、初めての春だった。

 

 雪が解けるのを待って、里の家を引き払った。

鉈や鋸や小刀と、冬のうちに割り溜めておいた竹ひごを背負子に括り付けて、てゐの後について、三度、竹林を行き来した。

里の人たちには、竹林の奥のお屋敷で住み込みの竹の仕事を貰ったのだ、と言ってある。

籠屋の爺さんは、そうか、とだけ言って、編んだ物はこれまで通り持ってこい、と付け足してくれた。

俺が里へ下りられない時は、笠の薬売りが、薬を売りに下りるついでに、爺さんの店まで籠を運んでくれる。

里で何度か薬を買った事のある、あの薬売りである。

ここへ来て初めて、あの菅笠の下に、兎の長い耳が仕舞われていたのを知った。

鈴仙と言う名で、てゐと同じく、この屋敷の兎なのだそうだ。

何年も前から、俺は知らずに永遠亭の薬を飲んでいた事になる。

 

 その朝も、夜が明けるのと一緒に、庭の奥の竹藪へ入った。

山桜の枝が竹藪の方へ張り出した、その下である。

去年の春に輝夜が足の裏で見つけたあの筍は、今ではすっかり一人前の竹になって、塀よりずっと高い所で、黄ばんだ葉を鳴らしている。

竹の秋の竹藪は、何処もかしこも落ち葉に埋もれていて、地割れなど殆ど見えない。

草鞋の底に気を集めて、一歩ずつ、ゆっくりと踏んでゆく。

 

 後ろで、かさりと乾いた音がした。

 

 振り返ると、輝夜が縁側から下りてきていた。

素足である。

長い黒髪を片腕に巻き取るようにしてからげ、もう一方の手で裾を摘んで、竹の落ち葉の上を、そろそろとこちらへ歩いてくる。

まだ日の差さない竹藪の薄暗がりの中で、腕に巻かれた黒髪だけが、朝露に濡れたような艶を帯びていた。

お姫様が裾をからげて落ち葉を踏む所など、里の誰に話しても信じてはもらえないだろう。

そう思いながら、俺は、筍を探すのも忘れてその姿に見入っていた。

 

 輝夜は、俺の三歩程先で、ぴたりと足を止めた。

 

「ここよ」

 

 自分の足元を見下ろして、何でもない事のように言う。

しゃがんで落ち葉を払うと、黒い土が、指を二本並べた程の幅で割れていた。

その奥に、黄色く尖った頭の先が、わずかに覗いている。

俺の足は、まだそこまで辿り着いてもいなかった。

 

「あら。まだ見つけていなかったの?」

 

 筍を掘るようになって、四度目の春である。

面目など、あった物ではなかった。

 

 輝夜の見つけた所に鍬を入れて、周りの土を少しずつ退けてゆくと、根元が俺の腕よりも太い、ずんぐりとした筍が出てきた。

縁の辺りでは、もう何年も見ていない太さである。

地下茎に鍬の刃を当てて断ち切り、持ち上げると、ずしりと腕に来た。

輝夜は、それを見て満足そうに頷いた。

 

「一番太いのは、女将さんの所へ持っていくのでしょう」

 

 そうしたいと思っていた事を、そのまま言い当てられた。

煮売り屋の女将さんは、太いのが入ったら真っ先に持っておいで、と春が来る度に言ってくれるのだが、縁で掘っていた頃は、滅多にそれに応えられなかったのだ。

輝夜は、裾を摘み直すと、また一歩ずつ落ち葉を踏み始めた。

次の一本も、自分で見つけるつもりらしい。

 

 朝のうちに籠を一杯にして、てゐの案内で里へ下りた。

女将さんは、籠の一番上の筍を見るなり目を丸くして、竹林の奥のは物が違うね、と、いつもより大分色を付けて買ってくれた。

里の山桜は、もうすっかり花を落として、赤い若葉ばかりになっていた。

 

 里の朝は、相変わらず瞬く間に過ぎる。

筍を売って、爺さんの店に籠を届けただけで、もう日が高いのだ。

その分、永遠亭へ戻った日の午後は、決まって長い。

里で編めば一日掛かった籠が、縁側で編んでいると、日が傾くより前に編み上がってしまう程である。

訳なら、もう知っている。

知っていて、別段困ってもいなかった。

 

 竹林を戻ってくると、門の前に輝夜が立っていた。

敷居の、外である。

冬至の明くる朝に一度跨いでから、輝夜は、俺が里へ下りる朝と戻る昼には、こうして門の外まで出てくるようになった。

今日は、ちゃんと履物を履いている。

 

「遅いわ」

 

 口ではそう言いながら、輝夜は、空になった俺の籠を覗き込んだ。

 

「女将さん、喜んだ?」

 

 門をくぐると、庭の奥で山桜が咲いていた。

夏も、秋も、雪を被った冬至の日も、あの桜はああして、満開のまま咲いていた。

ここで暮らすようになってからは、毎朝、竹藪へ向かう前に、あの枝の下を通る。

花の一つも欠けず、根元には花びらの一枚も落ちていない。

去年の春、初めて塀の上に見上げた時と、何一つ変わらない桜だった。

 

      ***

 

 人間の髪は、伸びる物である。

 

 その日の午後も、○○は縁側で籠を編んでいた。

輝夜はその背中の後ろに膝を崩して座り、○○の襟足の髪を、指に巻き付けては解いていた。

冬の間に随分と伸びて、今では襟に掛かり、先の方が少しだけ外へ跳ねている。

里にいた頃は、伸びると自分で鋏を入れていたのだそうだ。

ここへ移ってきてからも、一度、鋏を貸してくれないかと言われた事がある。

 

「駄目よ。切ったら、冬の分が無くなってしまうじゃない」

 

 ○○は、何の事だか分からないと言う顔をしていたが、それきり鋏の事は言わなくなった。

 

 輝夜の髪は、伸びない。

床に流れる程に長いこの黒髪は、遠い昔から一寸も伸びず、一筋も抜けず、ずっとこの長さのまま、畳の上を流れてきた。

だから、伸びる髪と言うのは、それだけで少し面白い。

○○の襟足の、この指一本分程の伸びた所には、○○の冬が、そのまま入っているのだ。

里で竹を割っていた日の分も、この屋敷の火鉢の傍で過ごした日の分も、輝夜にとっては、どちらも等しく自分の物だった。

 

 ○○の髪は、輝夜の髪よりずっと硬い。

巻き付けても、すぐに指から逃げてゆく。

○○は、初めのうちこそ擽ったそうに首を竦めていたが、近頃はもう何も言わずに、竹ひごを編み目の下へくぐらせている。

ただ、うなじの辺りが、ほんのりと赤い。

慣れた訳ではないらしい。

 

 ここへ移ってきてから、○○は、里へ下りる朝の他は、一日中この屋敷にいる。

九日に一度の半日しか手元に無かった頃を思えば、嘘のような話である。

朝、○○が竹藪へ入れば、落ち葉を踏む音で、何処にいるのかが分かる。

昼に縁側で竹を割れば、その音で、割っているのが真竹か淡竹かまで分かる。

夜は、○○が床に就いてから、○○の寝ている部屋の前の廊下を、一度だけ通る事にしていた。

障子越しに寝息が聞こえれば、それでいい。

眠りから拾うなと永琳に言われてから、眠りには手を付けていない。

聞くだけである。

 

 須臾をかき集めなくとも、今は全部、すぐそこにある。

里へ下りる朝の分は、相変わらず少しばかり頂いているが、それも取り立てて言う程の事ではない。

里にいる間の○○も、ここにいる間の○○も、どのみち、全部私の物なのだ。

門の外へ出してやっている分、優しいと褒めてもらいたい。

 

 その伸びた髪の中に、一本だけ、白い物が混じっていた。

 

 初めは、糸屑かと思った。

指先で摘んで、そっと引いてみると、それは○○の頭に繋がっていた。

黒い髪の間から、根元から先まで真っ白な一本が、すっと伸びている。

 

 人の髪が白くなる事くらい、誰でも知っている。

長く生きていれば、黒かった髪が白くなってゆくのを、嫌と言う程見る。

竹の中から見つけられた頃には、翁の鬢は、もう白かった。

 

 けれど、これは若白髪である。

周りの髪は、どれもまだ黒々としている。

○○の頭がみなこの色に染まるのは、まだ何十年も後の事である。

それでも、何か先触れのようなこの白髪ですら、私には看過できなかった。

 

 毎日のようにこの髪に指を通していたその下で、私の知らないうちに、時間が、○○にこれを付けていったのだ。

千年、輝夜の傍を素通りするばかりで、この黒髪には一筋の跡も残せなかった物が、○○には、こうして私より先に印を付けてゆく。

 

 嫉ましかった。

 

 白髪の一本を相手に、本気で張り合う蓬莱人である。

我ながら、滑稽にも程がある。

 

 輝夜は、その一本を摘んだまま、暫く黙っていた。

○○は何も気づかずに、竹ひごをまた一本、編み目の下へくぐらせている。

 

 取り上げてしまおう。

私以外が○○に変化を及ぼすなんて、気に食わない。

○○の物は、白い髪の一本だろうと、私以外の、それこそ時間にだって染められてやる謂れは無いのだ。

 

 それから、根元に近い所を指に巻き付けて、引き抜いた。

 

 ○○が短く声を上げて、首を竦めた。

何をしたのかと振り返りかけたので、輝夜は澄まして言ってやった。

 

「糸屑が付いていたのよ」

 

 ○○はうなじを掌で摩りながら、糸屑にしては痛かった、と言うような顔をしたが、それ以上は聞かずに、また籠に向き直った。

 

 抜いた一本を、日の方へ翳してみた。

白い髪は、絹糸よりも細く、春の光の中で、殆ど透き通って見えた。

息を吹きかけただけで、何処かへ飛んでいってしまいそうな軽さである。

ほんの今まで、○○に繋がっていた一本だった。

指先に摘んでいると、まだ少し温かいような気がした。

輝夜はそれを、袖の中へそっと仕舞い込んだ。

 

 袖の口を押さえたまま、今度は、○○の髪を根元から一筋ずつ掻き分けていった。

他にも、無いか。

襟足から耳の後ろへ、耳の後ろから旋毛の方へ、指の腹で地肌を辿りながら、黒い髪を一房ずつ起こしては、その奥を覗き込む。

○○は流石に擽ったいのか、何度か首を竦めて、何をしているのかと聞いた。

 

「理由なんてないわ。嫌だった?」

 

 耳を食らってしまうくらいの近さでそう囁いてやれば、○○は断らない。

卑怯だ、と抗議する○○の耳輪をはむ。

○○は情けない声を出して、それからはもう観念したように抵抗をやめた。

 

 今日の所は、あの一本きりだった。

指の下の地肌だけが、何処を辿っても、温かかった。

 

 あの薬の事を、一度だけ思った。

あれを飲ませれば、○○の髪は、もう二度と白くならない。

 

 薬は、永琳に作らせていない。

作らせて手元に置いておいたら、きっと、○○の眠っている間に飲ませてしまうからだ。

自分の事は、自分が一番よく知っている。

 

 その晩、寝間の灯りの下で、袖からあの一本を取り出した。

自分の黒髪の一筋を指に取って、その上に、白い一本を重ねてみた。

黒の上に、白が一本、細く光る。

長い事、そうして眺めていた。

それから懐紙を一枚折って、その間に挟み込み、枕元に置いた。

秋から枕元に置いたままの、打ち身の桃の隣である。

桃は、今夜も、○○が持ってきた日のまま、甘く匂っていた。

 

 あと四日で、○○が初めてこの屋敷に迷い込んできた日から、ちょうど一年になる。

数か月も、毎日毎日○○の来る日を数えたのだから、暦など見るまでもなかった。

 

      ***

 

 それから幾日か経った朝、輝夜は、今日は里へ下りては駄目だと言った。

 

 夜明けに竹藪で掘った筍が、籠の中に転がっている。

今日のうちに売らなければ、明日にはえぐくて売り物にならない。

そう言っても、輝夜は、駄目、と繰り返すばかりで、訳を言わなかった。

門の所で待っていたてゐが、それを聞いて、くふ、と喉の奥で笑った。

 

「お兄さん、今日は諦めな。姫様、朝から落ち着かないんだから」

 

「てゐ」

 

「はいはい」

 

 てゐは首を竦めて、竹藪の方へ跳ねていってしまった。

 

 輝夜は籠の中を覗き込んで、一番太い一本を、両手で取り出した。

 

「今日のうちなら、皮ごと焼くだけで甘いのでしょう」

 

 昼を過ぎると、輝夜は兎たちに言い付けて、庭の隅に吹き溜まった竹の落ち葉と、枯れた竹を集めさせた。

手伝おうとすると、貴方は座っていなさい、と縁側へ追い返された。

仕方が無いので、縁側に腰を下ろして、庭の真ん中にしゃがみ込んだ輝夜の背中を眺めている事にした。

残りの筍は、兎たちが台所へ運んでいった。

 

 乾いた竹の葉に火を付けると、ぱちぱちと音を立てて、見る間に燃え上がる。

兎の一匹が、枯れ竹を割らずに火へ放り込もうとした。

輝夜は、その手から、ひょいと竹を取り上げた。

 

「割ってからよ。弾けるわ」

 

 兎は、きょとんとした顔で耳を伏せた。

小さい兎である。

去年、竹が火の中で弾けた時には、まだ生まれていなかったのかもしれない。

 

 それから輝夜は、炎の前にしゃがんだまま、待った。

炎が落ち着いて、竹の燃え殻が赤い熾火になってゆくのを、何も言わずに、じっと見ている。

去年は、待つの、と口を尖らせていたような飽きっぽい彼女がである。

何でも言い付ければ兎たちが持ってくる屋敷で、長い長い間暮らしてきた人が、熾火ができ上がるまでの間を、膝を抱えて、黙って待っていた。

 

 熾火の明かりが、輝夜の横顔を、下から赤く照らしている。

膝に載せた腕の先から白い指が少しだけ覗いて、時々、思い出したように、灰の上の燃え殻を突き崩す。

その横顔を眺めているうちに、俺は、自分が何の為に縁側に座らされているのかを、半分忘れていた。

 

 熾火になると、輝夜は、皮を剥かずに、筍をそのまま灰の中に埋めた。

上から灰を被せて、平らに均す。

それから、傍らに置いてあった竹串を取って、時々、灰の中の根元を突いた。

何度目かに、竹串が、すっと通った。

輝夜がこちらを振り返って、得意そうに言った。

 

「通ったわ」

 

 ここまで、一つも違えていなかった。

熾火を待つのも、皮ごと埋めるのも、竹串で確かめるのも、去年、俺がこの庭でして見せた通りである。

 

 どうして今日なのかと、聞いてみた。

輝夜は、手ぬぐいを巻いた手で灰の中から筍を掘り出しながら、何を今更、と言うような顔をした。

 

「去年の今日でしょう」

 

 言われても、すぐには分からなかった。

去年の今日。

何があったかは忘れずとも、それが何日だったかなど、俺の方は、とうに忘れていた。

あの日の俺は、筍がえぐくなる前に帰れるかどうかばかりを気にしていて、自分が何をして見せているのかなど、考えてもいなかったのだ。

 

 昔の事は振り返らない事にしている、と、去年の暮れに、この人は言った。

その人が、一年前の今日を日付まで覚えていて、あの日俺がこの庭でした事を、一つ残らず、自分の手でなぞっている。

冬至の明くる朝に頼んだ事を、この人は、もうとっくに始めてくれていたのだ。

 

 胸の奥が、じわりと熱くなった。

何か言おうとしたが、口を開くと、言葉より先に余計な物が零れてきそうだった。

 

 輝夜は、熱い熱いと小さく零しながら、焦げた竹皮を一枚ずつ剥がしていった。

最後の一枚を剥がすと、湯気の向こうから、薄い黄色の中身が覗いた。

兎が持ってきた包丁で、輝夜はそれを、少し不揃いな厚さに切り分けた。

包丁など、殆ど握った事の無い手つきだった。

一番先に切った一切れに塩を付けて、こちらへ差し出してくる。

受け取ろうと手を出すと、輝夜はその手を避けて、一切れを俺の口元まで持ってきた。

 

「熱いうちよ。筍は、待ってくれないのでしょう」

 

 観念して、口を開けた。

熱くて、甘かった。

 

 縁側の陰で、てゐが、見てらんないね、と兎たちに言っているのが聞こえた。

輝夜は聞こえない振りをして、自分の分を一切れ頬張った。

はふはふと湯気を吐きながら、満足そうに目を細める。

去年、焚き火の前で見た、あの顔だった。

 

 食べ終えてからも、輝夜は、剥いた皮の一枚を指先に摘んだまま、その焦げ目を、いつまでも眺めていた。

 

      ***

 

 日が傾いて、庭の焚き火の跡から、最後の煙が細く立ち上っていた。

 

 兎たちは、火の始末をして、とうに下がっている。

○○は縁側で、膝の上に編みかけの籠を載せたまま、竹林の向こうへ傾いてゆく日を眺めていた。

夕日の当たる頬が、日向の色をしている。

 

 輝夜は、一度寝間へ寄って、枕元の桃の隣から白い懐紙を取ってきた。

それを懐に入れ、沓脱ぎの下駄をつっかけて、庭の奥の山桜の下まで歩いた。

 

 山桜は、今日も満開だった。

根元には、今日も、黄ばんだ竹の葉ばかりが落ちている。

花びらは、一枚も無い。

すぐ隣では、去年掘らせずにおいた筍が、もう塀より高い竹になって、黄ばんだ葉を足元へ散らしていた。

 

 手の届く枝を一本引き寄せて、花を一つ、間近に見た。

花びらはすっかり開ききって、真ん中の蕊が、外へ反り返っている。

もう、ほんの一押しの風で散る、と言う所である。

その一押しの手前で、この花は、輝夜が留めた日から、ずっとこうして待たされているのだ。

花びらの一枚を指先で摘んで、そっと引いてみた。

取れなかった。

柔らかいのに、少しも動かない。

○○の頭から引き抜いたあの白い一本は、あんなに呆気なく抜けたのに。

 

 枝を放して、幹に掌を当ててみる。

樹皮は、冷たくも、温かくもなかった。

何処かの春の昼下がりの温かさが、そのまま幹の中に留まっている。

夕暮れの風が庭を冷やしてゆくのに、この幹だけは、少しも冷えてゆかない。

温かいのに、掌の下から、何も伝わってこなかった。

 

 冬至の夜、腕の中で留めた○○が、こうだった。

 

 あの夜から輝夜は、この桜を見る度に、重ねた胸の向こうで黙っていた○○を思い出すようになっていた。

 

 この桜を、いつの春に留めたのだったか。

思い出そうとしてみた。

余りに見事に咲いたので、散らないようにしてやった。

それだけは覚えている。

けれど、それが何時の事だったのか、その春に何があって、どんな風が吹いていたのか、何一つ出てこない。

その頃、永琳は何をしていたか。

兎たちは、もうこの竹林に居たか。

月の都を出てから、どれ程経った春だったのか。

辿ろうとする度に、満開の花ばかりが、今日と寸分違わぬ形で浮かんできて、その後ろにある筈の春を、すっかり塗り潰してしまう。

留めてからずっと、この桜は、この庭で咲き続けていたのに。

 

 去年の今日の事なら、幾らでも出てくる。

籠を胸に抱えて座敷に入ってきた人間が、真っ先にこの黒髪を、肩から畳の上の一番先まで、目で辿っていった事。

門の敷居の一歩向こうで、今、その屋敷に俺はいない、と言った時の、少し得意そうな、少し困ったような顔。

今日の事も、きっと、ずっと出てくる。

灰の中から掘り出した筍の、焦げた皮の縞の一本一本まで。

 

 いつか、あの縁側から、○○がいなくなる。

その時、この桜が今日と同じ花を付けていたら、この庭は、○○が迷い込んでくる前の庭と、何一つ変わらない。

一年も、十年も、○○がここに居た事が、この木の何処にも残らないのだ。

 

 散らせると言う事は、この桜を、あの忌々しい時間にくれてやると言う事である。

 

 私から、いつかすべてを奪ってしまう時と言う存在。

この屋敷の永遠が解けて、柱が古び、畳が擦り切れてゆくようになった時も、輝夜は何一つ惜しいとは思わなかった。

古びてゆく物を、気に留めた事が無かったのだ。

 

 今は、違う。

幹に掌を当てたまま、もう一方の手で枝を引き寄せて、さっきの取れなかった花びらに、指の腹で触れてみる。

これが、散る。

散ってしまえば、この花は、二度とこの形では戻ってこない。

来年の春に咲くのは、よく似た、別の花である。

 

 惜しい、と思った。

 

 縁側に目をやると、○○がこちらを見ていた。

目が合うと、何かあったのかと言うように、少しだけ首を傾げる。

 

 ここからでは、○○の胸の音は聞こえない。

それでも、あの胸は打っている。

この幹のように、黙ってはいない。

 

 懐の上から、懐紙を押さえた。

 

 それから輝夜は、幹に当てた掌から、永遠を外した。

 

 力を込める事は、何も無い。

長い間この木に掛け続けてきた物を、ただ、やめるだけだった。

 

 掌の下で、幹が、すうっと冷えていった。

夕暮れの風の冷たさが、ようやく、この木にも届いたのだ。

 

 引き寄せたままの枝の、さっきの花びらを、もう一度摘んでみた。

今度は、指の腹にくっついたまま、何の手応えも無く、すっと枝を離れた。

 

 花びら一枚は、驚く程軽かった。

抜いた白髪と同じくらい、軽い。

輝夜は、暫くそれを指の先に載せて眺めていたが、やがて指を開いた。

 

 花びらは、夕暮れの風に乗って、縁側の方へ流れていった。

 

      ***

 

 膝の上の編みかけの籠に、白い物が一枚、落ちてきた。

 

 花びらだった。

指で摘み上げると、薄くて、ひんやりとしていて、端の方だけが、ほんのりと紅い。

あの桜の花びらに触れたのは、初めてだった。

 

 顔を上げた時、竹林の方から風が来た。

 

 竹藪の上を渡ってきた風が、黄ばんだ竹の葉を塀の向こうから巻き上げて、庭へばらばらと降らせる。

縁側の板の上にも、何枚か転がってきた。

庭の奥で、輝夜の立っている山桜の枝が、大きく揺れた。

 

 花びらが、枝を離れた。

 

 一枚や二枚では、終わらなかった。

揺れる枝の先から、花びらが次々と離れて、風に乗って庭の上へ流れてゆく。

風が少し弱まっても、散るのは止まなかった。

長い間堪えていた物が、一度に堰を切ったように、後から後から降ってくる。

夕日の中で、山桜の下だけが、白く煙って見えた。

根元の黒い土が、見る間に白く覆われてゆく。

去年の春からずっと、竹の葉しか落ちていなかった所である。

 

 あの人が、何かをやめたのだと思った。

冬至の夜に、ほんの一瞬だけ俺にした事を、あの桜には、ずっとし続けていたのだろう。

 

 気がつくと、縁側から下りていた。

下駄をつっかけるのももどかしく、花びらの降る中を、桜の下まで歩いた。

 

 輝夜は、幹に片手を当てたまま、散ってゆく花を見上げていた。

その黒髪に、花びらが降っていた。

一枚降りては、黒の上に白く留まり、また一枚降りては、その隣に留まる。

黒髪の艶の上を、一枚が滑るように転がり落ちてゆき、途中で、ふと引っ掛かって止まった。

肩から背中へ、背中から足元に流れる先まで、あの長い黒髪の上に、白い花びらが少しずつ増えてゆく。

この一年、何度も傍で見てきた人である。

それなのに俺は、初めてこの人の髪を目で辿った日と同じように、言葉も無く見惚れていた。

 

 輝夜が、こちらに顔を向けた。

それから懐に手を入れて、白い懐紙を取り出すと、俺の目の前で、それを開いてみせた。

 

 白い髪が一本、挟まっていた。

 

「糸屑じゃ、なかったのよ」

 

 思わず、自分のうなじに手をやった。

何日か前、縁側で、ちくりと痛んだ辺りである。

 

「この前、貴方の頭に見つけたの。

……癪だわ。私より先に、こんな物を付けていくなんて」

 

 白髪である。

自分の頭にそんな物が出ているなど、考えてもみなかった。

外の世界にいた頃、若白髪だと友達にからかわれる奴が、クラスに一人はいた。

あれと同じで、一本や二本出た所で、どうと言う事も無い。

この髪がみんなこの色に染まるのは、まだずっと先の話である。

笑ってやれば済むのに、この人は、それをわざわざ懐紙に包んで、取っておいたのだ。

 

 それでも、いずれはそうなる。

そうして最後には、俺は、この人を、この桜の下に一人で残していくのだ。

そう言いかけると、輝夜は懐紙を閉じて、それより先に口を開いた。

 

「知ってるわ」

 

 花びらが一枚、輝夜の睫毛の先を掠めて落ちた。

 

「置いていかれるのがどんなものかは、あの雪の朝に覚えたもの。

寂しいのも、悲しいのも、貴方の事でなら、全部私が貰うわ。

他の誰にも、惜しませてなんかあげない」

 

 冗談で言っているのではないと、その目を見れば分かった。

 

 輝夜は、散ってゆく花を、もう一度見上げた。

 

「この桜は、もう留めないわ。

散って、来年また咲いて、また散るの。

貴方がここで迎える春を、一つずつ、この桜で数えてあげる。

白くなる髪も、一本残らず、私のものよ」

 

 懐紙を胸元に押し当てて、輝夜は、俺の顔を見上げた。

濃い茶色の目が、夕日を映して、少しだけ赤い。

 

「それで、貴方の胸の音も、最後の一つまで、この耳で聞くの。

時間なんかに、貴方を一つだってくれてやるものですか」

 

 言われた途端に、胸の奥で、その音が一つ、大きく打った。

この距離なら、きっと聞こえてしまっただろう。

 

 言い終えてから、輝夜は、少しだけ唇を噛んだ。

言うつもりの無かった所まで言ってしまった、と言う顔だった。

 

 髪に載った花びらを、払ってもいいかと聞いた。

彼女は老いる事などないだろうに、このままでは、あの長い黒髪が、残らず白くなってしまいそうだった。

 

「駄目よ」

 

 輝夜は、ふっと口元を緩めた。

 

「……お揃いでしょう」

 

 白い一本を包んだ懐紙を、胸に押し当てたまま、そんな事を言う。

花びらだらけの黒髪のまま、輝夜は、俺を見上げて笑った。

 

「好きよ、○○」

 

 初めて聞く言葉だった。

その一言で、一年分の何もかもが、胸の内で一度に溢れそうになった。

溢れて、零れていきそうになる言葉も、想いも、涙も、すべて堪える。

 

 冷えた指が、俺の頬に触れた。

その指が、頬から耳の後ろへ回って、うなじの髪の中へ潜り込んでくる。

輝夜が爪先立って、唇が重なった。

 

 初めは、冷たかった。

夕暮れの風の中に、ずっと立っていた唇である。

それが、触れ合っている所から少しずつ温まって、やがて、俺の唇と同じ温かさになった。

輝夜は、それでは足りなかったらしい。

もっと奥の熱を探すように、何度も角度を変えて、唇を押し当ててくる。

うなじに潜り込んだ指に、時々、力が籠もった。

白い物がまだ隠れていないか、髪の根元を一本ずつ探っているような指だった。

俺は、輝夜の背に腕を回した。

掌の下で、花びらを載せた黒髪が、ひやりと冷たい。

その冷たさの下から、細い背中の温かさが、少しずつ掌へ伝わってくる。

息が混じる。

頭の上から、花びらが、二人の髪と肩とに、音も無く降り続けていた。

 

「想いが、溢れてしまいそうなの」

 

 離れても、輝夜の指は、うなじの髪の中から出ていこうとしなかった。

その下唇に、花びらが一枚、貼り付いている。

輝夜はそれを払いもせずに、舌の先で、そっと唇の内へ攫っていった。

 

 時間と奪い合ってまで俺の一生を欲しがる、この人の欲の深さが、ただ嬉しかった。

 

 二人の足元には、黄ばんだ竹の葉が一枚と、もう数え切れない程の桜の花びらが、降り積もっていた。

 

 輝夜は、いつものように俺の胸に耳を押し当てて、小さな声で歌を一首詠んだ。

 

「散る花を 黒髪に受け 春ごとに 君と並ばむ 共白髪まで」

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ゆきおんなに執着されるケータの話(作者:19時45分)(原作:妖怪ウォッチ)

ゆきおんなを最終的に巨悪のヤンデレにしてしまう(予定)ケータくんの話です


総合評価:1810/評価:9.09/連載:15話/更新日時:2026年11月01日(日) 00:20 小説情報

ヤンデレに監禁されるわけwww(作者:むにゃ枕)(オリジナル:ファンタジー/冒険・バトル)

ヤンデレから逃げようと思ってる。▼ヤンデレのみんなには悪いけど抜け駆けで▼ヤンデレは逃走とかされたことないから、びっくりするかもしれないけど、もう逃げたい気持ちを我慢できないから▼


総合評価:3974/評価:8.03/連載:15話/更新日時:2026年09月28日(月) 21:16 小説情報

そいつの開発者、俺なんだが(作者:束田せんたっき)(オリジナル:SF/コメディ)

なんか学生時代の黒歴史が、未来でディストピアの管理AIをやってたんですけど。国家ぐるみのストーキングやめてね。▼《真面目なあらすじ》▼高城之男へ一致せよ。▼タカギニアでは、すべての人間が、三百年前に死んだ偉人・高城之男とどれだけ似ているかで評価される。似ている者には栄光を、似ていない者には屈辱を。▼管理番号11-F-283-D503、平野平人。彼は一致度0.…


総合評価:8487/評価:8.3/完結:51話/更新日時:2026年10月11日(日) 19:15 小説情報

処女の女冒険者に気をつけろ(作者:三つ眼の荒木)(オリジナル:ファンタジー/恋愛)

冒険者は命がけの仕事だ。▼だからパーティを組めば、いつの間にか誰かと誰かがくっつく。▼フリーでやっていて弱い女には、体目当ての依頼しか回ってこない。▼つまり、フリーで長く続いていて、下世話な噂が一つも聞こえてこない女冒険者。▼そういう相手は、体を売らずに済むほど強く、それでいて誰ともパーティを組めなかった人間ということになる。▼強くて訳アリの女。▼「処女の女…


総合評価:3761/評価:7.1/連載:12話/更新日時:2026年09月29日(火) 20:00 小説情報

アイドルに執着されるドルオタ(作者:未完)(オリジナル:現代/恋愛)

小学生の頃、二年間だけ同じクラスだった初恋の女の子がいた。▼彼女はアイドルになるという夢を持っていて、俺はそれを応援していた。▼しかし、小学校を卒業するとその子は遠くへ引っ越した。▼俺も中学に上がると同時に、その子との記憶は薄れていった。▼そして、高校二年の夏。▼画面の中で、アイドルとして活動する彼女の姿があった。▼アイドルの夢を応援し、ファン第一号とまで言…


総合評価:4380/評価:8.75/連載:4話/更新日時:2026年10月26日(月) 18:05 小説情報


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