竹林の奥の筍は、誰にも掘られない。
里の者は縁より奥へは入ってこないし、永遠亭の兎たちも、台所で使う分しか掘らないのだそうだ。
だから竹林の奥では、毎年、殆どの筍が誰の口にも入らないまま、ひと月もしないうちに竹になってしまうのだと言う。
筍を掘って売っている身としては、聞いているだけで落ち着かない話である。
永遠亭で暮らすようになって、初めての春だった。
雪が解けるのを待って、里の家を引き払った。
鉈や鋸や小刀と、冬のうちに割り溜めておいた竹ひごを背負子に括り付けて、てゐの後について、三度、竹林を行き来した。
里の人たちには、竹林の奥のお屋敷で住み込みの竹の仕事を貰ったのだ、と言ってある。
籠屋の爺さんは、そうか、とだけ言って、編んだ物はこれまで通り持ってこい、と付け足してくれた。
俺が里へ下りられない時は、笠の薬売りが、薬を売りに下りるついでに、爺さんの店まで籠を運んでくれる。
里で何度か薬を買った事のある、あの薬売りである。
ここへ来て初めて、あの菅笠の下に、兎の長い耳が仕舞われていたのを知った。
鈴仙と言う名で、てゐと同じく、この屋敷の兎なのだそうだ。
何年も前から、俺は知らずに永遠亭の薬を飲んでいた事になる。
その朝も、夜が明けるのと一緒に、庭の奥の竹藪へ入った。
山桜の枝が竹藪の方へ張り出した、その下である。
去年の春に輝夜が足の裏で見つけたあの筍は、今ではすっかり一人前の竹になって、塀よりずっと高い所で、黄ばんだ葉を鳴らしている。
竹の秋の竹藪は、何処もかしこも落ち葉に埋もれていて、地割れなど殆ど見えない。
草鞋の底に気を集めて、一歩ずつ、ゆっくりと踏んでゆく。
後ろで、かさりと乾いた音がした。
振り返ると、輝夜が縁側から下りてきていた。
素足である。
長い黒髪を片腕に巻き取るようにしてからげ、もう一方の手で裾を摘んで、竹の落ち葉の上を、そろそろとこちらへ歩いてくる。
まだ日の差さない竹藪の薄暗がりの中で、腕に巻かれた黒髪だけが、朝露に濡れたような艶を帯びていた。
お姫様が裾をからげて落ち葉を踏む所など、里の誰に話しても信じてはもらえないだろう。
そう思いながら、俺は、筍を探すのも忘れてその姿に見入っていた。
輝夜は、俺の三歩程先で、ぴたりと足を止めた。
「ここよ」
自分の足元を見下ろして、何でもない事のように言う。
しゃがんで落ち葉を払うと、黒い土が、指を二本並べた程の幅で割れていた。
その奥に、黄色く尖った頭の先が、わずかに覗いている。
俺の足は、まだそこまで辿り着いてもいなかった。
「あら。まだ見つけていなかったの?」
筍を掘るようになって、四度目の春である。
面目など、あった物ではなかった。
輝夜の見つけた所に鍬を入れて、周りの土を少しずつ退けてゆくと、根元が俺の腕よりも太い、ずんぐりとした筍が出てきた。
縁の辺りでは、もう何年も見ていない太さである。
地下茎に鍬の刃を当てて断ち切り、持ち上げると、ずしりと腕に来た。
輝夜は、それを見て満足そうに頷いた。
「一番太いのは、女将さんの所へ持っていくのでしょう」
そうしたいと思っていた事を、そのまま言い当てられた。
煮売り屋の女将さんは、太いのが入ったら真っ先に持っておいで、と春が来る度に言ってくれるのだが、縁で掘っていた頃は、滅多にそれに応えられなかったのだ。
輝夜は、裾を摘み直すと、また一歩ずつ落ち葉を踏み始めた。
次の一本も、自分で見つけるつもりらしい。
朝のうちに籠を一杯にして、てゐの案内で里へ下りた。
女将さんは、籠の一番上の筍を見るなり目を丸くして、竹林の奥のは物が違うね、と、いつもより大分色を付けて買ってくれた。
里の山桜は、もうすっかり花を落として、赤い若葉ばかりになっていた。
里の朝は、相変わらず瞬く間に過ぎる。
筍を売って、爺さんの店に籠を届けただけで、もう日が高いのだ。
その分、永遠亭へ戻った日の午後は、決まって長い。
里で編めば一日掛かった籠が、縁側で編んでいると、日が傾くより前に編み上がってしまう程である。
訳なら、もう知っている。
知っていて、別段困ってもいなかった。
竹林を戻ってくると、門の前に輝夜が立っていた。
敷居の、外である。
冬至の明くる朝に一度跨いでから、輝夜は、俺が里へ下りる朝と戻る昼には、こうして門の外まで出てくるようになった。
今日は、ちゃんと履物を履いている。
「遅いわ」
口ではそう言いながら、輝夜は、空になった俺の籠を覗き込んだ。
「女将さん、喜んだ?」
門をくぐると、庭の奥で山桜が咲いていた。
夏も、秋も、雪を被った冬至の日も、あの桜はああして、満開のまま咲いていた。
ここで暮らすようになってからは、毎朝、竹藪へ向かう前に、あの枝の下を通る。
花の一つも欠けず、根元には花びらの一枚も落ちていない。
去年の春、初めて塀の上に見上げた時と、何一つ変わらない桜だった。
***
人間の髪は、伸びる物である。
その日の午後も、○○は縁側で籠を編んでいた。
輝夜はその背中の後ろに膝を崩して座り、○○の襟足の髪を、指に巻き付けては解いていた。
冬の間に随分と伸びて、今では襟に掛かり、先の方が少しだけ外へ跳ねている。
里にいた頃は、伸びると自分で鋏を入れていたのだそうだ。
ここへ移ってきてからも、一度、鋏を貸してくれないかと言われた事がある。
「駄目よ。切ったら、冬の分が無くなってしまうじゃない」
○○は、何の事だか分からないと言う顔をしていたが、それきり鋏の事は言わなくなった。
輝夜の髪は、伸びない。
床に流れる程に長いこの黒髪は、遠い昔から一寸も伸びず、一筋も抜けず、ずっとこの長さのまま、畳の上を流れてきた。
だから、伸びる髪と言うのは、それだけで少し面白い。
○○の襟足の、この指一本分程の伸びた所には、○○の冬が、そのまま入っているのだ。
里で竹を割っていた日の分も、この屋敷の火鉢の傍で過ごした日の分も、輝夜にとっては、どちらも等しく自分の物だった。
○○の髪は、輝夜の髪よりずっと硬い。
巻き付けても、すぐに指から逃げてゆく。
○○は、初めのうちこそ擽ったそうに首を竦めていたが、近頃はもう何も言わずに、竹ひごを編み目の下へくぐらせている。
ただ、うなじの辺りが、ほんのりと赤い。
慣れた訳ではないらしい。
ここへ移ってきてから、○○は、里へ下りる朝の他は、一日中この屋敷にいる。
九日に一度の半日しか手元に無かった頃を思えば、嘘のような話である。
朝、○○が竹藪へ入れば、落ち葉を踏む音で、何処にいるのかが分かる。
昼に縁側で竹を割れば、その音で、割っているのが真竹か淡竹かまで分かる。
夜は、○○が床に就いてから、○○の寝ている部屋の前の廊下を、一度だけ通る事にしていた。
障子越しに寝息が聞こえれば、それでいい。
眠りから拾うなと永琳に言われてから、眠りには手を付けていない。
聞くだけである。
須臾をかき集めなくとも、今は全部、すぐそこにある。
里へ下りる朝の分は、相変わらず少しばかり頂いているが、それも取り立てて言う程の事ではない。
里にいる間の○○も、ここにいる間の○○も、どのみち、全部私の物なのだ。
門の外へ出してやっている分、優しいと褒めてもらいたい。
その伸びた髪の中に、一本だけ、白い物が混じっていた。
初めは、糸屑かと思った。
指先で摘んで、そっと引いてみると、それは○○の頭に繋がっていた。
黒い髪の間から、根元から先まで真っ白な一本が、すっと伸びている。
人の髪が白くなる事くらい、誰でも知っている。
長く生きていれば、黒かった髪が白くなってゆくのを、嫌と言う程見る。
竹の中から見つけられた頃には、翁の鬢は、もう白かった。
けれど、これは若白髪である。
周りの髪は、どれもまだ黒々としている。
○○の頭がみなこの色に染まるのは、まだ何十年も後の事である。
それでも、何か先触れのようなこの白髪ですら、私には看過できなかった。
毎日のようにこの髪に指を通していたその下で、私の知らないうちに、時間が、○○にこれを付けていったのだ。
千年、輝夜の傍を素通りするばかりで、この黒髪には一筋の跡も残せなかった物が、○○には、こうして私より先に印を付けてゆく。
嫉ましかった。
白髪の一本を相手に、本気で張り合う蓬莱人である。
我ながら、滑稽にも程がある。
輝夜は、その一本を摘んだまま、暫く黙っていた。
○○は何も気づかずに、竹ひごをまた一本、編み目の下へくぐらせている。
取り上げてしまおう。
私以外が○○に変化を及ぼすなんて、気に食わない。
○○の物は、白い髪の一本だろうと、私以外の、それこそ時間にだって染められてやる謂れは無いのだ。
それから、根元に近い所を指に巻き付けて、引き抜いた。
○○が短く声を上げて、首を竦めた。
何をしたのかと振り返りかけたので、輝夜は澄まして言ってやった。
「糸屑が付いていたのよ」
○○はうなじを掌で摩りながら、糸屑にしては痛かった、と言うような顔をしたが、それ以上は聞かずに、また籠に向き直った。
抜いた一本を、日の方へ翳してみた。
白い髪は、絹糸よりも細く、春の光の中で、殆ど透き通って見えた。
息を吹きかけただけで、何処かへ飛んでいってしまいそうな軽さである。
ほんの今まで、○○に繋がっていた一本だった。
指先に摘んでいると、まだ少し温かいような気がした。
輝夜はそれを、袖の中へそっと仕舞い込んだ。
袖の口を押さえたまま、今度は、○○の髪を根元から一筋ずつ掻き分けていった。
他にも、無いか。
襟足から耳の後ろへ、耳の後ろから旋毛の方へ、指の腹で地肌を辿りながら、黒い髪を一房ずつ起こしては、その奥を覗き込む。
○○は流石に擽ったいのか、何度か首を竦めて、何をしているのかと聞いた。
「理由なんてないわ。嫌だった?」
耳を食らってしまうくらいの近さでそう囁いてやれば、○○は断らない。
卑怯だ、と抗議する○○の耳輪をはむ。
○○は情けない声を出して、それからはもう観念したように抵抗をやめた。
今日の所は、あの一本きりだった。
指の下の地肌だけが、何処を辿っても、温かかった。
あの薬の事を、一度だけ思った。
あれを飲ませれば、○○の髪は、もう二度と白くならない。
薬は、永琳に作らせていない。
作らせて手元に置いておいたら、きっと、○○の眠っている間に飲ませてしまうからだ。
自分の事は、自分が一番よく知っている。
その晩、寝間の灯りの下で、袖からあの一本を取り出した。
自分の黒髪の一筋を指に取って、その上に、白い一本を重ねてみた。
黒の上に、白が一本、細く光る。
長い事、そうして眺めていた。
それから懐紙を一枚折って、その間に挟み込み、枕元に置いた。
秋から枕元に置いたままの、打ち身の桃の隣である。
桃は、今夜も、○○が持ってきた日のまま、甘く匂っていた。
あと四日で、○○が初めてこの屋敷に迷い込んできた日から、ちょうど一年になる。
数か月も、毎日毎日○○の来る日を数えたのだから、暦など見るまでもなかった。
***
それから幾日か経った朝、輝夜は、今日は里へ下りては駄目だと言った。
夜明けに竹藪で掘った筍が、籠の中に転がっている。
今日のうちに売らなければ、明日にはえぐくて売り物にならない。
そう言っても、輝夜は、駄目、と繰り返すばかりで、訳を言わなかった。
門の所で待っていたてゐが、それを聞いて、くふ、と喉の奥で笑った。
「お兄さん、今日は諦めな。姫様、朝から落ち着かないんだから」
「てゐ」
「はいはい」
てゐは首を竦めて、竹藪の方へ跳ねていってしまった。
輝夜は籠の中を覗き込んで、一番太い一本を、両手で取り出した。
「今日のうちなら、皮ごと焼くだけで甘いのでしょう」
昼を過ぎると、輝夜は兎たちに言い付けて、庭の隅に吹き溜まった竹の落ち葉と、枯れた竹を集めさせた。
手伝おうとすると、貴方は座っていなさい、と縁側へ追い返された。
仕方が無いので、縁側に腰を下ろして、庭の真ん中にしゃがみ込んだ輝夜の背中を眺めている事にした。
残りの筍は、兎たちが台所へ運んでいった。
乾いた竹の葉に火を付けると、ぱちぱちと音を立てて、見る間に燃え上がる。
兎の一匹が、枯れ竹を割らずに火へ放り込もうとした。
輝夜は、その手から、ひょいと竹を取り上げた。
「割ってからよ。弾けるわ」
兎は、きょとんとした顔で耳を伏せた。
小さい兎である。
去年、竹が火の中で弾けた時には、まだ生まれていなかったのかもしれない。
それから輝夜は、炎の前にしゃがんだまま、待った。
炎が落ち着いて、竹の燃え殻が赤い熾火になってゆくのを、何も言わずに、じっと見ている。
去年は、待つの、と口を尖らせていたような飽きっぽい彼女がである。
何でも言い付ければ兎たちが持ってくる屋敷で、長い長い間暮らしてきた人が、熾火ができ上がるまでの間を、膝を抱えて、黙って待っていた。
熾火の明かりが、輝夜の横顔を、下から赤く照らしている。
膝に載せた腕の先から白い指が少しだけ覗いて、時々、思い出したように、灰の上の燃え殻を突き崩す。
その横顔を眺めているうちに、俺は、自分が何の為に縁側に座らされているのかを、半分忘れていた。
熾火になると、輝夜は、皮を剥かずに、筍をそのまま灰の中に埋めた。
上から灰を被せて、平らに均す。
それから、傍らに置いてあった竹串を取って、時々、灰の中の根元を突いた。
何度目かに、竹串が、すっと通った。
輝夜がこちらを振り返って、得意そうに言った。
「通ったわ」
ここまで、一つも違えていなかった。
熾火を待つのも、皮ごと埋めるのも、竹串で確かめるのも、去年、俺がこの庭でして見せた通りである。
どうして今日なのかと、聞いてみた。
輝夜は、手ぬぐいを巻いた手で灰の中から筍を掘り出しながら、何を今更、と言うような顔をした。
「去年の今日でしょう」
言われても、すぐには分からなかった。
去年の今日。
何があったかは忘れずとも、それが何日だったかなど、俺の方は、とうに忘れていた。
あの日の俺は、筍がえぐくなる前に帰れるかどうかばかりを気にしていて、自分が何をして見せているのかなど、考えてもいなかったのだ。
昔の事は振り返らない事にしている、と、去年の暮れに、この人は言った。
その人が、一年前の今日を日付まで覚えていて、あの日俺がこの庭でした事を、一つ残らず、自分の手でなぞっている。
冬至の明くる朝に頼んだ事を、この人は、もうとっくに始めてくれていたのだ。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
何か言おうとしたが、口を開くと、言葉より先に余計な物が零れてきそうだった。
輝夜は、熱い熱いと小さく零しながら、焦げた竹皮を一枚ずつ剥がしていった。
最後の一枚を剥がすと、湯気の向こうから、薄い黄色の中身が覗いた。
兎が持ってきた包丁で、輝夜はそれを、少し不揃いな厚さに切り分けた。
包丁など、殆ど握った事の無い手つきだった。
一番先に切った一切れに塩を付けて、こちらへ差し出してくる。
受け取ろうと手を出すと、輝夜はその手を避けて、一切れを俺の口元まで持ってきた。
「熱いうちよ。筍は、待ってくれないのでしょう」
観念して、口を開けた。
熱くて、甘かった。
縁側の陰で、てゐが、見てらんないね、と兎たちに言っているのが聞こえた。
輝夜は聞こえない振りをして、自分の分を一切れ頬張った。
はふはふと湯気を吐きながら、満足そうに目を細める。
去年、焚き火の前で見た、あの顔だった。
食べ終えてからも、輝夜は、剥いた皮の一枚を指先に摘んだまま、その焦げ目を、いつまでも眺めていた。
***
日が傾いて、庭の焚き火の跡から、最後の煙が細く立ち上っていた。
兎たちは、火の始末をして、とうに下がっている。
○○は縁側で、膝の上に編みかけの籠を載せたまま、竹林の向こうへ傾いてゆく日を眺めていた。
夕日の当たる頬が、日向の色をしている。
輝夜は、一度寝間へ寄って、枕元の桃の隣から白い懐紙を取ってきた。
それを懐に入れ、沓脱ぎの下駄をつっかけて、庭の奥の山桜の下まで歩いた。
山桜は、今日も満開だった。
根元には、今日も、黄ばんだ竹の葉ばかりが落ちている。
花びらは、一枚も無い。
すぐ隣では、去年掘らせずにおいた筍が、もう塀より高い竹になって、黄ばんだ葉を足元へ散らしていた。
手の届く枝を一本引き寄せて、花を一つ、間近に見た。
花びらはすっかり開ききって、真ん中の蕊が、外へ反り返っている。
もう、ほんの一押しの風で散る、と言う所である。
その一押しの手前で、この花は、輝夜が留めた日から、ずっとこうして待たされているのだ。
花びらの一枚を指先で摘んで、そっと引いてみた。
取れなかった。
柔らかいのに、少しも動かない。
○○の頭から引き抜いたあの白い一本は、あんなに呆気なく抜けたのに。
枝を放して、幹に掌を当ててみる。
樹皮は、冷たくも、温かくもなかった。
何処かの春の昼下がりの温かさが、そのまま幹の中に留まっている。
夕暮れの風が庭を冷やしてゆくのに、この幹だけは、少しも冷えてゆかない。
温かいのに、掌の下から、何も伝わってこなかった。
冬至の夜、腕の中で留めた○○が、こうだった。
あの夜から輝夜は、この桜を見る度に、重ねた胸の向こうで黙っていた○○を思い出すようになっていた。
この桜を、いつの春に留めたのだったか。
思い出そうとしてみた。
余りに見事に咲いたので、散らないようにしてやった。
それだけは覚えている。
けれど、それが何時の事だったのか、その春に何があって、どんな風が吹いていたのか、何一つ出てこない。
その頃、永琳は何をしていたか。
兎たちは、もうこの竹林に居たか。
月の都を出てから、どれ程経った春だったのか。
辿ろうとする度に、満開の花ばかりが、今日と寸分違わぬ形で浮かんできて、その後ろにある筈の春を、すっかり塗り潰してしまう。
留めてからずっと、この桜は、この庭で咲き続けていたのに。
去年の今日の事なら、幾らでも出てくる。
籠を胸に抱えて座敷に入ってきた人間が、真っ先にこの黒髪を、肩から畳の上の一番先まで、目で辿っていった事。
門の敷居の一歩向こうで、今、その屋敷に俺はいない、と言った時の、少し得意そうな、少し困ったような顔。
今日の事も、きっと、ずっと出てくる。
灰の中から掘り出した筍の、焦げた皮の縞の一本一本まで。
いつか、あの縁側から、○○がいなくなる。
その時、この桜が今日と同じ花を付けていたら、この庭は、○○が迷い込んでくる前の庭と、何一つ変わらない。
一年も、十年も、○○がここに居た事が、この木の何処にも残らないのだ。
散らせると言う事は、この桜を、あの忌々しい時間にくれてやると言う事である。
私から、いつかすべてを奪ってしまう時と言う存在。
この屋敷の永遠が解けて、柱が古び、畳が擦り切れてゆくようになった時も、輝夜は何一つ惜しいとは思わなかった。
古びてゆく物を、気に留めた事が無かったのだ。
今は、違う。
幹に掌を当てたまま、もう一方の手で枝を引き寄せて、さっきの取れなかった花びらに、指の腹で触れてみる。
これが、散る。
散ってしまえば、この花は、二度とこの形では戻ってこない。
来年の春に咲くのは、よく似た、別の花である。
惜しい、と思った。
縁側に目をやると、○○がこちらを見ていた。
目が合うと、何かあったのかと言うように、少しだけ首を傾げる。
ここからでは、○○の胸の音は聞こえない。
それでも、あの胸は打っている。
この幹のように、黙ってはいない。
懐の上から、懐紙を押さえた。
それから輝夜は、幹に当てた掌から、永遠を外した。
力を込める事は、何も無い。
長い間この木に掛け続けてきた物を、ただ、やめるだけだった。
掌の下で、幹が、すうっと冷えていった。
夕暮れの風の冷たさが、ようやく、この木にも届いたのだ。
引き寄せたままの枝の、さっきの花びらを、もう一度摘んでみた。
今度は、指の腹にくっついたまま、何の手応えも無く、すっと枝を離れた。
花びら一枚は、驚く程軽かった。
抜いた白髪と同じくらい、軽い。
輝夜は、暫くそれを指の先に載せて眺めていたが、やがて指を開いた。
花びらは、夕暮れの風に乗って、縁側の方へ流れていった。
***
膝の上の編みかけの籠に、白い物が一枚、落ちてきた。
花びらだった。
指で摘み上げると、薄くて、ひんやりとしていて、端の方だけが、ほんのりと紅い。
あの桜の花びらに触れたのは、初めてだった。
顔を上げた時、竹林の方から風が来た。
竹藪の上を渡ってきた風が、黄ばんだ竹の葉を塀の向こうから巻き上げて、庭へばらばらと降らせる。
縁側の板の上にも、何枚か転がってきた。
庭の奥で、輝夜の立っている山桜の枝が、大きく揺れた。
花びらが、枝を離れた。
一枚や二枚では、終わらなかった。
揺れる枝の先から、花びらが次々と離れて、風に乗って庭の上へ流れてゆく。
風が少し弱まっても、散るのは止まなかった。
長い間堪えていた物が、一度に堰を切ったように、後から後から降ってくる。
夕日の中で、山桜の下だけが、白く煙って見えた。
根元の黒い土が、見る間に白く覆われてゆく。
去年の春からずっと、竹の葉しか落ちていなかった所である。
あの人が、何かをやめたのだと思った。
冬至の夜に、ほんの一瞬だけ俺にした事を、あの桜には、ずっとし続けていたのだろう。
気がつくと、縁側から下りていた。
下駄をつっかけるのももどかしく、花びらの降る中を、桜の下まで歩いた。
輝夜は、幹に片手を当てたまま、散ってゆく花を見上げていた。
その黒髪に、花びらが降っていた。
一枚降りては、黒の上に白く留まり、また一枚降りては、その隣に留まる。
黒髪の艶の上を、一枚が滑るように転がり落ちてゆき、途中で、ふと引っ掛かって止まった。
肩から背中へ、背中から足元に流れる先まで、あの長い黒髪の上に、白い花びらが少しずつ増えてゆく。
この一年、何度も傍で見てきた人である。
それなのに俺は、初めてこの人の髪を目で辿った日と同じように、言葉も無く見惚れていた。
輝夜が、こちらに顔を向けた。
それから懐に手を入れて、白い懐紙を取り出すと、俺の目の前で、それを開いてみせた。
白い髪が一本、挟まっていた。
「糸屑じゃ、なかったのよ」
思わず、自分のうなじに手をやった。
何日か前、縁側で、ちくりと痛んだ辺りである。
「この前、貴方の頭に見つけたの。
……癪だわ。私より先に、こんな物を付けていくなんて」
白髪である。
自分の頭にそんな物が出ているなど、考えてもみなかった。
外の世界にいた頃、若白髪だと友達にからかわれる奴が、クラスに一人はいた。
あれと同じで、一本や二本出た所で、どうと言う事も無い。
この髪がみんなこの色に染まるのは、まだずっと先の話である。
笑ってやれば済むのに、この人は、それをわざわざ懐紙に包んで、取っておいたのだ。
それでも、いずれはそうなる。
そうして最後には、俺は、この人を、この桜の下に一人で残していくのだ。
そう言いかけると、輝夜は懐紙を閉じて、それより先に口を開いた。
「知ってるわ」
花びらが一枚、輝夜の睫毛の先を掠めて落ちた。
「置いていかれるのがどんなものかは、あの雪の朝に覚えたもの。
寂しいのも、悲しいのも、貴方の事でなら、全部私が貰うわ。
他の誰にも、惜しませてなんかあげない」
冗談で言っているのではないと、その目を見れば分かった。
輝夜は、散ってゆく花を、もう一度見上げた。
「この桜は、もう留めないわ。
散って、来年また咲いて、また散るの。
貴方がここで迎える春を、一つずつ、この桜で数えてあげる。
白くなる髪も、一本残らず、私のものよ」
懐紙を胸元に押し当てて、輝夜は、俺の顔を見上げた。
濃い茶色の目が、夕日を映して、少しだけ赤い。
「それで、貴方の胸の音も、最後の一つまで、この耳で聞くの。
時間なんかに、貴方を一つだってくれてやるものですか」
言われた途端に、胸の奥で、その音が一つ、大きく打った。
この距離なら、きっと聞こえてしまっただろう。
言い終えてから、輝夜は、少しだけ唇を噛んだ。
言うつもりの無かった所まで言ってしまった、と言う顔だった。
髪に載った花びらを、払ってもいいかと聞いた。
彼女は老いる事などないだろうに、このままでは、あの長い黒髪が、残らず白くなってしまいそうだった。
「駄目よ」
輝夜は、ふっと口元を緩めた。
「……お揃いでしょう」
白い一本を包んだ懐紙を、胸に押し当てたまま、そんな事を言う。
花びらだらけの黒髪のまま、輝夜は、俺を見上げて笑った。
「好きよ、○○」
初めて聞く言葉だった。
その一言で、一年分の何もかもが、胸の内で一度に溢れそうになった。
溢れて、零れていきそうになる言葉も、想いも、涙も、すべて堪える。
冷えた指が、俺の頬に触れた。
その指が、頬から耳の後ろへ回って、うなじの髪の中へ潜り込んでくる。
輝夜が爪先立って、唇が重なった。
初めは、冷たかった。
夕暮れの風の中に、ずっと立っていた唇である。
それが、触れ合っている所から少しずつ温まって、やがて、俺の唇と同じ温かさになった。
輝夜は、それでは足りなかったらしい。
もっと奥の熱を探すように、何度も角度を変えて、唇を押し当ててくる。
うなじに潜り込んだ指に、時々、力が籠もった。
白い物がまだ隠れていないか、髪の根元を一本ずつ探っているような指だった。
俺は、輝夜の背に腕を回した。
掌の下で、花びらを載せた黒髪が、ひやりと冷たい。
その冷たさの下から、細い背中の温かさが、少しずつ掌へ伝わってくる。
息が混じる。
頭の上から、花びらが、二人の髪と肩とに、音も無く降り続けていた。
「想いが、溢れてしまいそうなの」
離れても、輝夜の指は、うなじの髪の中から出ていこうとしなかった。
その下唇に、花びらが一枚、貼り付いている。
輝夜はそれを払いもせずに、舌の先で、そっと唇の内へ攫っていった。
時間と奪い合ってまで俺の一生を欲しがる、この人の欲の深さが、ただ嬉しかった。
二人の足元には、黄ばんだ竹の葉が一枚と、もう数え切れない程の桜の花びらが、降り積もっていた。
輝夜は、いつものように俺の胸に耳を押し当てて、小さな声で歌を一首詠んだ。
「散る花を 黒髪に受け 春ごとに 君と並ばむ 共白髪まで」