東方恋桜華   作:ごまだれさん

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西行寺幽々子の恋桜華
亡霊少女との春


 

 新学期の朝と言うのは、毎年、桜が散り始めと共にやってくる。

川沿いの道には、ずっと先まで桜の並木が続いていて、俺は毎朝、その下をバイクで抜けて学校へ通っていた。

前の晩に降った雨のせいで、アスファルトはまだ黒く濡れていて、その上一面に、散った花びらが重なって張り付いている。

晴れた日なら風に転がってゆく花びらも、一度濡れてしまえば、地面に貼った薄紙のようにその場から動かなくなるのだから、桜と言うのは案外、散った後の方が往生際が悪いのかもしれない。

川風がヘルメットの隙間から入り込んできて、並木の枝が揺れる度に、その上へまた新しい花びらが撒かれてゆく。

 

 背中のリュックが、いつもより重い。

中身は教科書ではなく、包丁である。

牛刀と、ペティナイフと、出刃が一本ずつ、布の包丁入れに巻いて納めてあって、その上に、前の晩に洗って畳んだコックコートが載っている。

少し珍しく思うかもしれないが、小学校の道具袋のようなものだ。

俺が調理師の専門学校に入って、今日から二年目になる。

 

 二年目の最初の実習で何を作るのかは、まだ聞かされていなかった。

一年目は、殆ど包丁と鍋の前に立ちっぱなしで終わった。

指先がふやけるほど大根の桂剥きを重ね、目が痛くなるまで玉葱を刻み、何度も出汁を引き直す。

先生は小皿を傾け、塩が強すぎるとか香りが飛んでいるとか、冷淡に点を付けるだけだ。

栄養素や職業倫理といった座学も受けたが、身についたのは結局、泥臭い手元の基本だけだった。

 

 評価されるのが嫌な訳じゃない。

けれど、俺が料理を面白いと感じた原点は、もっと別の所にある。

 

 中学の時、母が熱を出して寝込んだ冬の晩の事だ。

鍋に余った冷や飯と卵を投げ込み、見よう見まねで雑炊を作った。

かじかむ手で湯気の立つお椀を枕元へ持っていくと、母は少し驚いたような顔をして、熱っぽいまぶたを細めた。

 

 そして、二杯もお代わりしてくれたのだ。

 

 ふうふうと息を吹きかけながら雑炊を口に運ぶ、あの時の母の顔。

俺は今でも、ふとした瞬間に思い出す。

自分の作った一皿を、目の前の誰かが綺麗に平らげてくれる嬉しさ。

二年目になれば、校内の食堂で他学科や教員の方々に料理を出す実習が始まるらしい。

まだ誰も知らないその誰かの顔を想像すると、胸の奥が、少しだけ熱くなった。

 

 川に架かる橋の手前で、道は左へ緩く曲がっている。

毎朝通る、何でもない曲がり角である。

いつものように少しだけ速度を落として、車体を傾けた。

 

 後輪が、すっと横へ流れた。

 

 ハンドルが手の中で急に軽くなって、並木の幹と、灰色の空と、川面とが、斜めに傾いだまま目の前を滑ってゆく。

ヘルメットのシールドに、花びらが一枚、ぴたりと張り付いた。

白い、地面に散ったものと同じ小さな花びら。

それが、外の世界で見た、最後の桜になった。

 

 それきり、何も分からなくなった。

 

      ***

 

 目を覚ました時、頭の上は一面の桜であった。

 

 仰向けに寝転がったままの目の先で、枝と言う枝に花がびっしりと付いていて、その隙間から、白っぽい空が透けて見える。

並木の桜は散り際だった筈なのに、此処の桜はどれもこれも今が盛りと言う風情で、散ると言っても、時々一枚ずつ、音も無く降ってくるばかりである。

 

 静かだった。

車の音も、川の音も、鳥の声もしない、耳に綿でも詰められたような静けさの中で、桜の葉擦れと自分の息の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 

 起き上がろうとすると、背中の下に何かがごつごつと当たるので、リュックを背負ったまま寝ていたのだと気が付いた。

中の包丁入れの、柄の並んだ辺りが、ちょうど背骨に食い込んでいたらしい。

体を起こして手足を順に動かしてみたが、何処も痛まないし、被っていた筈のヘルメットも見当たらず、頭に触ってみても、指に血は付いてこない。

あの曲がり角で何があったにせよ、膝の擦り傷一つ無いと言うのは、有り難いと言うより、却って気味が悪い。

 

 ふと見ると、右手の人差し指に、白い蝶が一匹止まっていた。

何時から居たのかは分からないが、目の前まで持ち上げても逃げようとはせず、翅を閉じたり開いたりしながら、ただ、そこに居るのである。

指先に乗っている筈の重さは殆ど感じられないまま、綺麗だな、と見つめる。

暫くすると蝶はふわりと浮いて、桜の間へ紛れていった。

 

 辺りを見回してみれば、見渡す限り桜の木が続いていて、とんでもなく広い庭である事が分かった。

その幹と幹の間を、白い靄のような物が幾つもゆっくりと漂っていて、煙にしては形がまとまっているし、霧にしては、一つ一つが何か考えがあって動いているようにも見えた。

そんな靄と満開の桜ばかりの中に、一本だけ、花を一つも付けていない大きな桜が混じっている。

 

 少し離れた桜の下に、女の人が立っていた。

 

 ふんわりと波打つ淡い薄紅色の髪が、肩の辺りで柔らかく揺れている。

着ているのは着物なのだろうが、水色と白の生地の、襟元にも、大きく広がった袖口にも、裾にも白いフリルが躍っていて、和なのか洋なのか、俺には見当も付かない。

濃い青紫の帯がその全部をきりりと締めていて、頭には、白地に水色のフリルの付いた、変わった形の帽子を被っている。

女性だった。

彼女は開いた扇で、口元を隠していた。

 

 扇の上から覗いているのは、赤紫の、柔らかい色の目だけである。

目元しか見えないと言うのに、綺麗な人なのだと、何故だかはっきり分かってしまった。

知らない人の、それも目だけを、じっと見つめている自分に気付く。

失礼だと頭では分かっているのに、吸い寄せられたように視線が外せない。

ただ、そのあまりに浮世離れした姿から逃げるように、俺の目はゆっくりと彼女の頭元へ向かっていった。

 

 改めて見ても、妙な形の帽子だ。

真ん中には赤い渦巻きのような模様があって、その両脇からは薄い白い布が、ベールのように垂れている。

その形を眺めているうちに、何故か、祖父の葬式の事を思い出していた。

棺の中の祖父の傍に、白い三角の布が納められていて、死んだ人が額に着ける物なのだと、あの時に母から教わったのである。

 

 それで、曲がり角の事を思い出した。

流れた後輪と、斜めになった川面と、シールドに張り付いた一枚の花びらとが、順番に、やけにはっきりと浮かんでくる。

 

 ああ、そうか。

俺は、死んだのだ。

真っ先に頭に浮かんだのが、親に分割で返す筈だったバイク代だったのだから我ながら呆れてしまうが、返すも何も、もう会う事もできないのだと、少し遅れて気が付いた。

 

 女の人が、桜の下からゆっくりとこちらへ歩いてくる。

急ぐ様子は少しも無く、散歩の途中で道端に珍しい物でも見つけたような足取りで、俺の傍まで来ると腰を屈めて、扇の上から、俺の顔をしげしげと覗き込んだ。

近くで見る赤紫は、思っていたよりもずっと深い色をしていた。

 

「あら、起きたのねぇ」

 

 扇の向こうから、のんびりとした声がする。

 

「桜の下に落ちてきて、そのまま、すやすや寝ているんだもの。

熟れて落ちた実みたいで、美味しそうだったわ」

 

 独特な恰好からして少し覚悟していたが、性格もかなり個性的らしい。

美味しそう、と言われたのは生まれて初めての事で、褒められたのか、狙われているのかは、よく分からなかった。

 

 此処は何処なのかと尋ねると、女の人は、扇を口元に当てたまま、小首を傾げる。

 

「冥界よ。此処は、白玉楼。私のお屋敷」

 

 冥界が死んだ人の行く所だと言う事くらいは、俺にも分かる。

それなら、やっぱり俺は、と言いかけると、女の人は目だけでにこりと笑った。

 

「そうねぇ。死んでるわねぇ」

 

 驚きで目を見開く俺を他所に、彼女は扇の向こうで蕩けたような笑みを浮かべる。

 

「そんなに青い顔をしなくても、いいのよ~。

私たちはもう死んでいるのだから、これ以上怖い事なんて起こり得ないでしょう?」

 

 私たち、と言う所で、女の人が自分の事も数に入れるように小さく頷いたので、この人も死んでいるのだと、それで分かった。

帽子を見た時から、そんな気はしていたのである。

不思議な事に、それで少しだけ楽になったのは、死んだと言う一大事も、この人の口から出ると、明日の天気の話くらいに聞こえてしまうからだろう。

 

「普通はねぇ、死んだら、まず川を渡るの。

川を渡って、閻魔様に裁いてもらって、それから此処へ来るのよ。

来る頃には、皆、ああなってるわ」

 

 扇を持っていない方の白い指が指したのは、桜の間を漂う靄で、あれが俗世で言う幽霊なのだそうだ。

 

「貴方は、川も渡らずに、裁きも受けずに、そのまんまで来ちゃったのねぇ。

そう言うのは、珍しいのよ?」

 

 その時、砂利を踏む足音が、慌ただしく近づいてきた。

 

「幽々子様!」

 

 駆けてきたのは、腰に長い刀と短い刀を差した少女で、傍らには白い大きな靄が一つ、寄り添うように付いて回っている。

少女は俺と女の人の間に割り込むなり、刀の柄に手を掛けた。

 

「お下がりください。川も通らずに入り込んだ者など、何をするか分かりません」

 

「いいのよ、妖夢。彼は寝てただけだもの」

 

 女の人が扇をひらりと振ると、少女は渋々と刀から手を離して下がったものの、その目は、俺の背中のリュックに、ぴたりと留まったままである。

幽々子と言うのが、この人の名前らしい。

 

      ***

 

 がるる、とでも擬音を発しそうな少女の視線を受けながら、とりあえず縁側に上げられた。

屋敷の方も、庭に負けず劣らず広い。

 

 座布団を一枚勧められたが、勧めてくれたのは幽々子の方で、妖夢と呼ばれた少女は、その間ずっと俺から目を離さず、腰の刀も何時でも抜ける所に置いたままである。

 

「その荷物、検めさせていただきます」

 

 きっぱりとした声だったが、主の前に得体の知れない物を背負った男を置いておく訳にはいかないと言う事なのだろうから、もっともな話ではある。

自分で開けてもいいかと聞くと、妖夢は少し意外そうな顔をしてから、頷いた。

 

 リュックの口を開けて、中から包丁入れを取り出し、巻いてあった紐を解いて、縁側の板の上に広げる。

牛刀と、ペティナイフと、出刃の三本が、昼前の光の下で並んで鈍く光ると、妖夢の手がまた刀の柄に掛かったので、慌てて、学校の物なのだと言った。

調理師の学校に通っていて、今日はその実習の日だったのだ、と説明しながら、ついでに包丁入れの下に畳んであったコックコートも広げて見せる。

 

「あら」

 

 幽々子が扇の陰から身を乗り出して、扇の上の目で、三本の包丁と、それを広げた俺の手との間を、行ったり来たりさせている。

 

「料理人なの?」

 

 料理人ではありません、と答えた。

まだ未熟で、作った物を客に出した事も無いのです、と。

 

「まぁ、そうなの」

 

 幽々子は扇を口元に当てたまま、少し考えるような目をする。

 

「困ったわねぇ。

裁きを受けていない人はね、閻魔様の所へ届けないといけない決まりなのよ。

向こうで、生きていた頃の事を書き付けてもらって、それから行き先を決めてもらうの。

私、冥界の管理を任されているから」

 

 届けられたら最後、俺もさっきの白い靄の仲間入りをするのだろう。

身勝手を言うなら少し怖いが、そう言う決まりなら文句を言える身でもない。

勝手に死んで、勝手に此処へ落ちてきたのは、他でもない俺である。

 

「でもねぇ」

 

 くう、と小さな音がしたのは幽々子のお腹の辺りからだったが、当の本人には、少しも慌てる様子が無い。

 

「お昼が、まだなのよ。

届けるのは届けるとして、その前に、何か作ってくれない?」

 

 大層な物は作れません、と俺は言った。

白玉楼、だったか。

此処は見るからに豪邸である。

学校で習っただけの者の料理が、ちゃんとした食事として通用するとは思えなかった。

 

「お昼の膳は、うちの子たちが美味しく作ってくれるのだけれど。

たまには、違う物も食べたいのよねぇ」

 

 それに、人の台所の物に許しも無く手を付ける訳にもいかないと伝えると、幽々子は扇の陰で、ころころと笑った。

 

「此処は私のお屋敷だもの。私の台所よ。好きに使っていいわ」

 

 許しは、拍子抜けする程あっさりと下りてしまう。

 

 それでも、俺は首を振った。

今朝死んだばかりで、流れた後輪の感触も、斜めになった川面も、まだ目の奥にこびり付いたまま離れないと言うのに、その同じ日に包丁を握れと言われても、手がそちらへ伸びていかないのである。

そう言おうとして、声が途中で掠れてしまった。

 

 幽々子は何も言わずに、扇の上の目で、黙って俺を見ている。

笑ってもいなければ憐れんでもいない目で、ただ、俺が言い終えるのを、急かさずに待っているように見えた。

縁側の端に桜の花びらが一枚降りて、それから、もう一度、くう、と小さな音がした。

 

「じゃあ、こうしましょう」

 

 幽々子が、扇を少し傾ける。

 

「貴方の事は、お客様と言う事にしてあげる。

冥界にお客様なんて、久しぶりなのよ。

此処に来るのは、お話もできない子たちばかりだもの。

そのお客様を、来たその日に閻魔様の所へ届けてしまうなんて、勿体無いじゃない?」

 

 どうやら、今日のうちに届けるつもりは無くなったらしい。

扇の上の目は、俺の顔より、膝の前に広げたままの包丁の方を見ているような気がした。

 

「その代わり、お客様なら、手土産の一つくらいは欲しいわねぇ。

手土産なんて、気持ちの物でしょう?

上手か下手かなんて、貰う方は気にしないものよ」

 

 手土産と言われても、背負ってきたのは包丁三本とコックコートだけなので、出せる物は一つしか無い。

それに、上手い下手は問わないと先に言われてしまえば、こんな屋敷に出せる料理ではない、と言う断りも、もう通らなかった。

要するに、お昼が食べたいのだろう。

お客様だの手土産だのは口実で、本音の方は、さっきから二度もお腹の音で聞かされている。

けれど、お腹を空かせた人を目の前にして、何も作らずに座っているのは、熱を出した母の枕元へ雑炊を運んだあの晩から、どうにも性に合わないのだった。

 

 気が付くと笑っていて、一本取られたのだと思った。

 

 せめて名前くらいは名乗っておこうとすると、幽々子は扇をひらひらと振る。

 

「名前はいいわ。そう言うのは、向こうで書く物だもの」

 

 それから幽々子はゆっくりと立ち上がって、台所へ案内するようにと妖夢に言い付け、妖夢は何か言いたげな顔をしたものの、口には出さずに頭を下げた。

俺は包丁入れを巻き直して、リュックを背負い直す。

 

      ***

 

 白玉楼の台所は、土間である。

 

 広い土間の奥に竈が三つ並んでいて、真ん中の竈には大きな羽釜が掛かり、壁の棚には黒い鉄の鍋が伏せてある。

板の間との境には一段高い上がり框があり、その上にお櫃やら笊やら、味噌の甕やらが並んでいる。

水瓶の傍では柄杓がひとりでに水を汲んでいるので、よく見てみると、白い靄が一つ、柄にくるりと巻き付いているのだった。

どうやら此処の台所仕事はあの靄たちの受け持ちらしく、傍を一つ通り過ぎると、そこだけひやりと空気が冷える。

 

 幽々子は上がり框に腰を下ろしたが、扇は相変わらず口元にあって、土間へは下りてこないまま、そこから俺の手並みを眺めるつもりらしい。

妖夢はその後ろに控えて、まだ俺を見張っている。

 

 コックコートに袖を通してボタンを留め、白い袖口がいつもの所で揃うと、それだけで少し息がしやすくなるのだから、我ながら単純なものだ。

まな板を借りてもいいかと聞けば、幽々子が答えるより先に、白い靄が一つ、棚から一枚下ろしてきてくれた。

板の間の端に包丁入れを広げる手は、少し震えていた。

 

 お櫃の蓋を取ると、朝に炊いたらしいご飯が、すっかり冷えて固まったまま半分ほど残っている。

籠には卵、笊には葱、甕には菜種油、塩も醤油も揃っていて、竈の脇の小鍋の、昆布と鰹で引いた出汁も、まだ温かい。

冷えたご飯と卵と葱があって、火があって、腹を空かせた人が上がり框で待っているのなら、学校で何を習っていようと、作る物は一つしか無いのである。

 

「何を作るの?」

 

 上がり框から幽々子が聞くので、炒飯だと答えると、扇の陰で、ああ、と頷く気配がする。

 

「焼き飯の事ね。

此処の台所からは、滅多に出る事が無いから楽しみだわぁ」

 

 炒飯は、冷やご飯で作る方が上手くいくと言う人と、温かいご飯でなければ駄目だと言う人がいるらしいが、学校の先生は、どっちでもいいから、とにかく火を怖がるな、と言っていた。

 

 冷えて固まったご飯は、濡らした手で一粒ずつ離すようにほぐしておき、卵を三つ割って溶いてから、葱を牛刀で刻みにかかる。

柄を握った途端に手が勝手に動き出して、刃を引く角度も、葱を押さえる指の曲げ方も、一年分の実習で身に付けた通りに、頭より先に手の方が覚えているのである。

とん、とん、とまな板が鳴る度に、頭の中の曲がり角が、少しずつ遠くなっていった。

 

 鉄の鍋は学校の中華鍋より一回り大きくて、右の竈へ掛けようと持ち上げると、ずしりと腕に来る。

竈の前に立てば顔に火の熱が当たって、薪の燃える匂いがする所からして、ガス台の前とは何から何まで勝手が違う。

火の番は白い靄がしてくれているのだが、どう見ても火が強すぎるので、もう少し弱く、と頼んでみると、靄は首を傾げるように揺れてから、薪を一本足した。

 

 竈の火はガスのように絞れないのだから、こうなると、鍋の方を動かす他無い。

熱くなりすぎたら火から持ち上げて、冷めかけたら、また下ろす。

 

 鍋から薄く煙が上がり始めたところで油を回し入れ、鍋肌を一周、油が覆ったのを見て溶き卵を流し込むと、じゅわっ、と卵が膨らんだ。

固まりきらないうちに、ほぐしたご飯をその上へあけて、お玉の背で押すように混ぜてゆくと、卵が一粒ずつのご飯に絡んで、白かったご飯が見る間に黄色く染まってゆく。

鍋を煽る度にご飯が宙で跳ねては、鍋肌に落ちて乾いた音を立てた。

葱を入れて塩を振り、最後に醤油を、鍋の縁の一番熱い所へ回しかける。

 

 じゅっ、と音がして、焦げた醤油の香りが土間いっぱいに立ち上ると、台所中の白い靄が、ふわふわと寄ってきた。

上がり框で、扇の上の目も、心なしか大きくなったように見える。

 

 炒飯を皿に移してから小鍋の出汁を火に掛け、煮立ったところに塩と醤油を少し落として、溶き卵の残りを細く垂らすと、卵が汁の中で、白い雲のようにほどけて広がった。

葱を散らし、お玉の先から手の甲に一滴落として、舐める。

一年目の担任の癖が何時の間にか移っていたのだが、先生に言わせれば、小皿を出すより早いのだそうだ。

塩が僅かに足りないので、一つまみ足して、もう一度、手の甲で見る。

 

 顔を上げると、扇の上の目が俺の手元に留まっていた。

行儀が悪いととられただろうか。

それとも、格好付けのように見られただろうか。

少し恥ずかしくなり、すぐに意識を逸らす。

 

 皿と汁椀を盆に載せて、上がり框まで運んでゆく。

箸を添えて、どうぞ召し上がってください、と差し出すと、幽々子は扇を口元に当てたまま、盆の上の炒飯をじっと見下ろした。

 

「いただきます」

 

 そう言いながら、扇の上の目は、皿ではなく俺の方を見ていた。

 

 それから幽々子は、扇をすっと閉じて、膝の上に置く。

扇の陰に隠れていた口元を、俺はその時、初めて見たのである。

小さくて柔らかそうな唇が、箸に乗せた炒飯を迎え入れて、そっと閉じる。

頬が小さく動き、白い喉が一度だけ上下すると、もう次の一口が運ばれてゆく。

ずっと隠されていた所を、覗いてはいけないものを覗いているような気がするのに、俺はそれから、どうしても目が離せなかった。

 

 皿は、すぐに空になった。

 

「おかわり、いいかしらぁ」

 

 空の皿が、すっと差し出される。

 

 二皿目を作りながら上がり框の方を盗み見ると、汁椀にはまだ手が付いていなかったので、炒飯の方が気に入ったのか、それとも汁が熱すぎるのか、どちらだろうと考える。

二皿目は、醤油を焦がす間を心持ち長く取ってみた。

差し出すと、幽々子は一口目を食べてから、一度だけ箸を止め、それからの頬の動きは、一皿目よりゆっくりになった気がする。

 

 三皿目を作る前に、小鍋の汁を別の椀に移して、少し冷ましてから注ぎ直した。

今度は幽々子も汁椀を手に取って一口啜ると、それから椀の底まで、あっと言う間に空けてしまったので、熱すぎたのだと、それで分かった。

 

 学校の先生は小皿の一口で塩と香りを見るのだが、食べている人を見ていると、小皿では分からない事が幾つも分かってくる。

どの一口で箸が止まるのか、何を先に食べて何を後に取っておくのか、あの頬がどの一口でゆるむのか、鍋を振りながら、俺はそればかりを見ていたのだ。

 

 四皿目になっても、幽々子の箸の運びは少しも遅くならず、あれだけの量が一体何処へ入ってゆくのか、さっぱり分からない。

主が四皿目に箸を付けたのを見て、後ろの妖夢が何か言いかけたが、結局やめてしまったらしい。

白い靄たちは鍋の周りから離れようとせず、四皿目を鍋から移し終えた時には、お櫃の底が見えていた。

 

「ごちそうさまでした」

 

 幽々子は、空になった四枚目の皿を名残惜しそうに盆へ戻すと、膝の上の扇を開いて、また口元を隠す。

 

 俺は鍋を持ったまま、土間に突っ立っていた。

学校の先生でもなく、家族でもない人が、俺の作った物を四皿も平らげたのだから、点を付けてもらう為ではなく、食べてもらう為に作ったのは、これが初めてと言う事になる。

初めての客だった。

額の汗を、コックコートの袖で拭う。

嬉しかった。

包丁入れを広げる時にはあれ程震えていた手が、何時の間にか、すっかり落ち着いている。

 

 それで、閻魔様の所へは何時届けられるのかと聞いてみると、幽々子は扇の縁を、指先で軽く叩いた。

 

「そうねぇ。まだ、決められないわ。

たったの四皿じゃ、お腹の方がまだ決めてくれないもの。

届けるのは、もう少し食べてからにするわね」

 

 たったの、と来た。

お櫃に半分残っていたご飯を四皿に分けて平らげておいて、まだ物足りないと言わんばかりの口振りだ。

人としての底も見えなければ、胃袋の方も底無しとは、恐れ入るものである。

 

 それから幽々子は、後ろに控えた妖夢の方を振り向いた。

 

「妖夢。お部屋を一つ、用意してあげて」

 

「幽々子様、ですが、規律に反している存在を、このお屋敷に置くなど……」

 

「そんなのどうだっていいわぁ」

 

 聞くに相当重要そうなルールをもバッサリ切り捨てる幽々子。

妖夢はもにゅもにゅと口を動かして暫く主の横顔を見ていたが、やがて律儀に一礼して、奥へ下がっていった。

下がってゆく背中は、少しも納得していないように見える。

 

 空になったお櫃の底には、ご飯粒が一粒だって残されていなかった。

 

      ***

 

 辺りが暗くなってから、妖夢が部屋へ案内してくれた。

 

 長い廊下を先に立って歩きながら、妖夢は一度も振り返らなかったが、角を一つ曲がった所で、前を向いたまま、ぼそりと言った。

 

「幽々子様は、朝に召し上がった物も、お昼には覚えていらっしゃらない方ですから。

明日の朝には、貴方の事も、お忘れになっているかもしれませんよ」

 

 慰めているのか、脅かしているのか、どちらとも付かない声である。

 

 用意してもらった部屋は八畳ほどの座敷で、真ん中に布団が一組、枕の置き場所まで物差しで測ったように真っ直ぐ、きっちりと角を揃えて敷いてある。

口では渋っていた割りに、仕事は律儀な人らしい。

妖夢が下がってから、リュックを部屋の隅に置いて、布団の上に腰を下ろす。

 

 一人になると、今朝の事が、静かに戻ってくる。

 

 家を出る時、母に、弁当は要らないのかと聞かれて、今日は実習で作って食べるから要らない、と答えたのが、母と話した最後になったのである。

今日の実習で皆は何を作ったのか、俺の分の調理台は一つだけ空いたままだったのか、そんな事ばかりが次々に浮かんでくる。

 

 泣くかと思ったが、涙は出なかった。

ただ、胸の奥の、何処か大事な所が、ごっそり無くなっているのが分かる。

 

 手を見ると、指の先には、まだ葱と醤油の匂いが残っていた。

この手が今日、四皿作って、初めての客に出して、四皿とも空になって返ってきたのだと思うと、無くなった所のすぐ傍が、少しだけ温かくなる。

 

 障子を少し開けると、夜の庭が見えた。

灯り一つ無いと言うのに、桜は夜の底でほの白く咲いていて、その間を、白い靄が昼と同じように、ゆっくりと漂っている。

俺は、あれにならずに済んだらしい。

障子を閉めて布団に潜り込むと、日に干したような匂いがして、冥界にも日は照るのだろうかと、少しだけ考えた。

眠れないかと案じていたのに、眠りは、思ったよりずっと早くに来た。

 

      ***

 

 冥界の膳は、黙って出てくる。

 

 朝になれば朝の膳が、昼になれば昼の膳が白玉楼の座敷へ運ばれてくるが、作っているのは台所の幽霊たちで、幽霊は口を利かないから、今日は何を作ったとも、何がよくできたとも言わない。

膳は音も無く置かれ、幽々子がそれを食べ、空になった器は、また何も言わずに下げられてゆく。

どれも美味しいので幾らでも食べるし、食べた物は次の朝には、大抵もう覚えていない。

冥界に来てからどれくらいの間そうして暮らしてきたのかも、とうに覚えていないけれど、覚えていないからと言って、膳の味が落ちる訳でもないのだった。

 

 膳の外の物も、幽々子の目には、大抵美味しそうに見える。

庭の桜の花も、妖夢が里から提げて帰る大根も、空に浮かぶ綺麗で丸いお月様も、美味しそう、と口に出すと妖夢は決まって困った顔をするので、それが面白くて、また言うのである。

そうやって何にも急がずに、ずっと暮らしてきた。

 

 台所の土間には、今まで下りた事が無かった。

下りる用が無いのだ、膳と言うのは、待っていれば向こうから出てくる物なのだから。

 

 その台所の上がり框に、幽々子は、夜更けに一人で座っていた。

 

 竈の火はとうに落ちていて、土間は暗く、幽霊たちだけが昼と変わらずに、暗がりの中をふわふわと漂っている。

それでも昼間の匂いは、熱い油と、鍋の縁で焦げた醤油の匂いとして、まだ土間の何処かに残っていた。

 

 一口目の味も、まだ舌の上に残っている。

焦げた醤油の香りが口の中から鼻へ抜けて、卵の甘さがご飯の一粒ずつを包んでいて、それから、熱かった。

座敷へ運ばれてくる膳は、長い廊下を渡ってくる間に幾らか冷めてしまう物だから、竈から下ろしたばかりの物を口に入れたのが何時以来の事なのか、幽々子には思い出せない。

二皿目は一皿目より、醤油の焦げた香りが強かった。

頼んでもいないのにそうなっていたと言う事は、あの料理人は鍋を振りながら、ずっとこちらを見ていたのだろう。

 

 客に出した事が無い、とあの料理人は言っていたから、彼の初めてを頂いてやったのは、この幽々子と言う事になる。

美味しかった。

これは、なかなか良い気分である。

 

 廊下の方から、小さな灯りが近づいてくる。

手燭を提げた妖夢が、上がり框に座る主を見つけて、足を止める。

 

「幽々子様。こんな所で、何をなさっているんですか」

 

「お腹が空いたのよ」

 

「あれだけ召し上がった後で、ですか」

 

 妖夢は呆れたように言ってから、手燭を少し下げて、声を落とした。

 

「あの者の事ですが。

本当に、このままお屋敷に置かれるおつもりですか。

裁きも受けていない者を、閻魔様に届けもせずに置いておいて、もしお耳に入ったら」

 

「入らないわよ。此処の子たちはお喋りできないし、妖夢は告げ口なんてしないもの。

ねぇ?」

 

「ですが」

 

「それにねぇ、妖夢。閻魔様は、お忙しい方なのよ~。

そんな人を一人届けたら、その一人の為に、向こうで資料を作る所から始めないといけないでしょう?

幻想郷の外の、それも川も渡らずに、死んだ時のまんまで落ちてきた人よ。

何処に何と書けばいいのか、きっとお困りになるわ。

お仕事を増やすだなんて、気の毒じゃない?」

 

 妖夢は暫く黙っていたが、主の言う事に筋が通っているのかいないのか、考えている顔である。

 

「……そう言うものでしょうか」

 

「そう言うものよ~。

それより妖夢も、たまには焼き飯を食べてみたら?」

 

「幽々子様が四皿全て召し上がったので、一粒も残っておりません」

 

 ちょっとおいしそうではありましたけど、と呟いて、妖夢は律儀に一礼すると、手燭の灯りごと、廊下の奥へ戻っていった。

 

 幽々子は、気の優しい亡霊なのである。

それに何より、あれは届けてしまうには勿体無い味だった。

 

 名前を聞かなかったのは、聞いてしまえば、それは閻魔様の所へ届ける者の名前になってしまうからである。

聞かないうちは、あれはただの、焼き飯を作る料理人でいられる。

届けないうちは、あの料理人は何処へも行かないし、川の向こうへも、閻魔様の前へも、次に生まれる所へも、行かせようが無いのだから、急ぐ事は何も無いのだった。

 

 それなのに、目を閉じると、あの瞬間が浮かんでくる。

 

 小鍋の汁をお玉の先から一滴だけ手の甲に落として舐め、一つまみ塩を足して、もう一度舐めていた。

何でもない仕草だったが、何故かよく思い出せる、目に焼き付いてしまった仕草。

 

 あの手の甲は、どんな味がするのだろう。

 

 汁の味が残っているのか、それとも、後から足した一つまみの塩の味がするのか。

それで味を決めているのなら、今日一日に作った物の味が、あそこには少しずつ全部、染み込んでいる筈である。

もしかしたら、今まで彼が作ってきたもの全ての味があの手に──

 

 そこまで考えて、幽々子は、閉じた扇の縁を唇に当てた。

四皿など、幽々子にしてみれば、ほんの味見のような物である。

お櫃が空になったから止めただけで、お腹の方はまだ半分も埋まっていないのだから、また空いてくるのも当たり前なのだ。

きっと、そうに違いない。

 

      ***

 

 目を覚ますと、障子の向こうが明るい。

 

 顔を洗ってコックコートを羽織り、台所へ行ってみると、朝の膳の支度なのか、土間では白い靄たちが、もう竈に火を入れている。

昨日空にしたお櫃は、綺麗に洗われて、板の間の端に伏せてある。

 

 上がり框には、幽々子が居た。

扇で口元を隠して、昨日と同じ所に昨日と同じように座っていて、俺を見ると、扇の上の目が柔らかく垂れる。

 

「おはよう。

ねぇ、昨日、私、何を食べたのかしら。

覚えていないのよねぇ」

 

 覚えていない人が、こんなに朝早くから台所の上がり框で待っているものだろうか。

 

「だから、もう一度作ってくれない? 同じ物でいいわ。

同じ物かどうかなんて、私には分からないけれど~」

 

 堪えきれずに、噴き出してしまった。

 

 お櫃は空なので、今日は炊き立てのご飯で作る事になるが、そうなると昨日とは少しばかり違う炒飯になる筈だ。

それを言うと、幽々子は、それでいいわ、と頷いて、どうせ分からないんだもの、と付け足した。

 

 部屋から持ってきた包丁入れを板の間の端に広げると、白い靄が一つ、昨日と同じように、棚からまな板を下ろしてきてくれる。

格子窓から差す明かりに三本の柄が並んでいて、今朝は、紐を解く手が震えなかった。

 

 コックコートのボタンを上から一つずつ留めてゆくと、竈の火が、ぱちりと爆ぜた。

扇の上の目が、朝の光の中で、笑っているように見えた。

 

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