冥界の桜は、去年と同じ頃に、同じだけの花を付けた。
外の世界の桜なら、その年の寒さ次第で咲く日が一週間やそこらは前後するものだが、此処の桜にそう言う気紛れがあるのかどうかは、まだ一度しか春を迎えていない俺には分からない。
ただ、夜明け前に勝手口の戸を細く開けてみれば、まだ暗い庭の奥で、どの枝も白くふっくらと膨らんでいるのが見えて、それだけで、今年もちゃんと春が来たのだと分かるのだった。
土間に下りても、吐く息はもう白くならない。
水瓶の水は相変わらず指が痺れる程に冷たいけれど、冬の間のように、柄杓の底で氷を叩き割ってやる必要は無くなった。
上がり框に置いてもらっていた火鉢も、三日程前に、靄たちが奥へ片付けてくれている。
竈の灰を火箸で崩すと、火の番の靄が埋めておいてくれた熾火が、いつものように灰の下で赤く息をしていて、焚き付けを足して火吹き竹を二、三度吹いてやれば、炎はすぐに立ち上がってくるのである。
羽釜を竈に掛けてから、勝手口の脇の壁に掛けた暦の前に立つ。
年の暮れに妖夢が里で買ってきてくれた物で、正月の膳も七草粥も、この暦と睨めっこをしながら段取りを組んだのである。
指先で日付を辿ってゆくと、今日の所で、指が勝手に止まった。
今日で、一年になる。
一年前の今頃は、まだ外の世界の自分の布団に潜り込んだまま、母に起こされるのを待っていた筈だ。
外の世界では、今日が俺の一周忌と言う事になる。
もっとも、法要と言うのは、命日が平日に当たれば、その前の休みの日に済ませてしまうものらしい。
仏事を後ろへずらすのは良くないのだと、祖父の一周忌の時に母が話していたのを覚えているから、きっともう先週のうちに寺へ行って、俺の写真に線香を上げてくれたはずだ。
写真は、どれを使ったのだろうか。
一周忌まで済ませてもらった当の本人は、こうして冥界の竈の前で、今日も主の為に飯を炊いている。
線香と一緒に祈ってもらった冥福は、ちゃんと此方まで届いている。
羽釜の蓋の縁から、白い湯気が細く噴き出し始めた。
火の番の靄に頼んで薪を一本抜いてもらいながら、俎板の上で、味噌汁に散らす葱を刻む。
今朝もあの人は、扇を開いて来るのだろうか。
何をしていても、頭の何処かに、いつもあの人が居る。
雪の夜から、幽々子の扇は、また口元に戻っている。
秋の夜から冬の間、二人きりの時には帯に差したまま滅多に開かれなかった扇が、あの夜が明けてからは、俺と目が合う度に、すっと持ち上がるのである。
鍋の最後の一杯を、俺が上がり框の縁に腰掛けて頂く間も、幽々子は扇を開いて、格子窓の方ばかり見ている。
夜、あの人の部屋で唇を合わせても、先に離れてゆくのは、いつもあの人の方だった。
あの夜、幽々子は掛け布団を頭の上まで引き上げて、その中に顔を埋めてしまった。
俺は何も聞かずに、帽子の無い髪を、ただ撫でていただけである。
何か怖い物でも思い出したのか、それとも俺が何か仕出かしてしまったのか、あの時に聞けば教えてくれたのかもしれないが、聞かずに済ませた事を三月も経ってから蒸し返すのも気が引けて、結局、今日まで何一つ聞けずにいる。
それでも膳の方は、今まで通り毎日綺麗に平らげてくれるのだから、難しい。
俺の方へ伸びかけた箸だけが、皿の手前でぴたりと止まってしまっている、とでも言えばいいのだろうか。
料理人の身からすると、箸を付けられないまま下げられてゆく皿ほど、見ていて堪える物は無い。
勝手口の戸ががらりと開いて、妖夢が入ってきた。
襷掛けにした袖から伸びた腕に竹箒を抱えていて、髪にも肩にも、桜の花びらが何枚も載っている。
傍らに付いて回っている大きな靄にまで一枚、ちょこんとくっついているのが、少し可笑しい。
「おはようございます。
夜明け前から、花見の方々が庭に集まり始めております」
春の白玉楼には、冥界中の幽霊が桜を見に来るのだと、去年のうちに妖夢から聞いていた。
戸の隙間から覗いてみれば、確かに、桜の幹と幹の間を数え切れない程の白い靄が漂っていて、どれもこれも、花を見上げるようにして、枝の下をゆっくりと巡っている。
口を利かない客ばかりなので、これだけ集まっていても、庭は朝の台所と同じくらいに静かなものである。
「幽々子様は、お昼を召し上がってから、庭をお回りになるそうです。
昨日の菜の花は、桶に水を張って、北側の日の当たらない所に置いてありますので」
菜の花と卵と豆腐は、昨日のうちに妖夢が里から背負ってきてくれた物で、今日の昼は、これで混ぜご飯と汁にすると決めてある。
改めて礼を言うと、妖夢は、いえ、と少し微笑んでから竹箒を抱え直し、戸口を出かけた所で、思い出したように振り返った。
「貴方も手が空いたら、少しは庭をご覧になってください。
今年も、よく咲きましたから」
それだけ言うと、こちらの返事も待たずに、花びらの舞う庭へ出ていってしまう。
少しだけ胸を張っていたように見えたのは、きっと気の所為ではない。
あれだけ広い庭の桜の手入れを、一人で引き受けているのは、他でもない妖夢なのだ。
羽釜の蓋が、湯気の勢いに押されて、かたかたと鳴り始めている。
今日が何の日なのかは、妖夢にも幽々子にも、言うつもりは無い。
命日だからと言って竈の火を休ませる訳にはいかないし、休ませたいとも思わないのである。
いつも通りに飯を炊いて、いつも通りに平らげてもらう。
今日の過ごし方として、それが一番、俺らしいような気がした。
***
膳と言うのは、無くなれば、次が来る物である。
朝の膳を平らげれば昼の膳が来るし、昼の膳を平らげれば、日が傾く頃には夕餉が来る。
冥界に来てからどれ程の膳を平らげてきたのか、幽々子は一つも覚えていないけれど、このサイクルが崩れた事だけは、きっと一度も無かった筈なのだ。
だから幽々子は、食べる事を怖いと思わずに済んできた。
目の前の一皿が無くなっても、それを惜しむ暇も無いうちに、次の一皿が、前よりもっと美味しそうな顔をしてやって来るのだから。
朝の膳を済ませて縁側に出ると、見渡す限り、庭は桜で埋まっていた。
撓んだ枝の先まで花がみっしりと詰まっていて、その下を、冥界中から集まってきた幽霊たちが、ふわふわと巡っている。
花を見に来たのだから、あの子たちにも、花は綺麗に見えているのだろう。
幽々子の目には、綺麗と言うより先に、美味しそうに見えてしまうのだけれど。
薄紅の花の塊は、搗き立てのお餅を塩漬けの葉でくるんだお菓子のようにも、口に含んだ途端にほどけてゆく淡い干菓子のようにも見えて、春と言うのは、何処を見てもお腹の空く季節である。
けれど、今の幽々子のお腹を空かせる相手は、桜でも、膳でもなかった。
昨日の夜も、一昨日の夜も、そうだった。
夕餉の後に部屋へ来た彼と、行灯の傍で唇を重ねたのだ。
彼の唇は、竈の前で一日立ち通した熱をまだ残していて、そこから零れてくる息は、温かくて、甘い。
もっと、と思う。
思った途端に、お腹の底の方で、何かが大きく口を開ける。
その口が閉じなくなってしまう前に、幽々子は自分から顔を離した。
彼は少しだけ不思議そうな目をしたけれど、やはり何も聞かずに、お休みなさい、と頭を下げて、自分の部屋へ戻っていった。
後に残ったのは、唇に移った彼の熱と、少しも埋まらないお腹の底ばかりである。
障子が閉まって、廊下の足音が遠ざかってしまってから、幽々子は扇で隠す事もせずに、自分の唇をそっと舐めてみた。
さっきまで重ねていた所には、彼の熱が、もう薄く残っているだけである。
舌の先で幾ら辿ってみても、そこに無い物の味は、少しもしてくれなかった。
あの雪の夜から、ずっとこうしている。
布団の中で彼の息を吸い込みながら、食べてしまいたいと思ったあの時、幽々子は、舌の上で消えた雪の事を思い出してしまったのだ。
膳なら、無くなっても次が来る。
けれど、彼の次は、何処からも来ない。
冥界中を探したところで、あの手で鍋を振る料理人は一人きりなのだから、飢えに任せて食べてしまえば、あの雪と同じように、それきりになってしまうのではないかと、そう思ってしまった。
だから明くる朝、幽々子は衣桁の帯から扇を抜いて、彼の前で開いたのである。
今の扇は、口元を隠す為の物ではない。
口に被せておく、蓋である。
蓋さえしておけば、うっかり彼を食べてしまう事も無い。
目が合えば扇を上げて、唇を重ねても、飢えが膨らみきる前に自分から離れる。
上がり框の縁で最後の一杯を掻き込む彼の喉は、見ていると蓋の内側で口の中が潤んできて仕方が無いので、そう言う時は、格子窓の外を眺めている事にした。
それで、どうにかなるものだと思っていた。
けれど、蓋をした鍋を火に掛けたまま放っておけば、いつかは噴きこぼれてしまうように、扇の内側に閉じ込めた飢えは、冬の頃よりもずっと大きく膨らんでしまっている。
春になっても竈の前は暑いのか、袖を肘まで捲り上げた彼の腕には、鍋を煽る度に筋が浮かんでは消えてゆくし、こめかみに滲んだ汗を手の甲でぐいと拭う仕草も、格子窓の方を向いていてさえ目の端に入ってくる、最後の一杯を飲み込む喉の動きも、扇の上の目は、一つも見逃してくれないのである。
見ているうちに、扇の陰で、舌の先が勝手に唇を辿ってしまう。
夏の頃は、冗談にもできない程の本気だから、それを隠していた。
今は、怖いから隠している。
私は、彼が欲しい。
冬の夜よりも、ずっと。
欲しくて堪らないのに、食べてしまうのが怖いのだ。
台所の方から、少しほろ苦いような青い匂いが、風に乗って縁側まで流れてくる。
菜の花を茹でているのだろう。
お腹が、くう、と鳴った。
こちらの空腹の方は、少なくとも、膳で埋める事ができる。
幽々子は扇を口元に当て直して、靄たちを引き連れ、長い廊下を台所へ向かった。
***
菜の花と言うのは、茹ですぎると、あっと言う間に色が死んでしまう。
桶の水から引き上げた菜の花は、一晩水を吸って、葉の先までしゃんと張っていた。
硬くなった茎の根元を少しずつ切り落とし、煮立った湯に塩を一掴み放り込んで、太い茎の方から先に沈めてやる。
少し遅れて葉まで沈め、三十も数えないうちに引き上げると、くすんでいた緑が、ぱっと目の覚めるような色に変わるのだ。
笊に上げて、水瓶の水を柄杓で何杯も掛けて熱を取り、両手で包むようにして水気を絞ると、ほろ苦い青い匂いが、指の間から土間いっぱいに立ち上ってきた。
春は苦味を盛れ、なんて食養生で有名な言葉があるくらいだ。
冬の間に縮こまっていた体を、春先の苦い物で起こしてやるのだそうで、言われてみれば、春の野に出てくる物は、どれも何処かに苦みを抱えているのである。
もっとも、此処の主の体が冬の間に縮こまっていたとは、どうにも思えないが。
絞った菜の花を細かく刻み、卵は溶いて塩をひと摘まみと砂糖を少しだけ入れてから、熱した鍋で菜箸を四本束ねて掻き回し、細かい炒り卵にする。
炊き上がった羽釜のご飯をお櫃に移して塩を振り、刻んだ菜の花と炒り卵を散らして、しゃもじで切るように混ぜてゆくと、白いご飯の中に、緑と黄色が、春の野原みたいに散らばった。
汁は、昆布と鰹の出汁で、豆腐の澄まし汁にする。
お玉の先から手の甲に一滴落として舐めてみれば、塩はこれで足りているようだ。
上がり框の方で、ひやりとした気配がする。
振り返ると、扇を口元に当てた幽々子が、いつもの所に腰を下ろしていた。
周りには、いつものように靄たちが寄り集まっている。
「あら。お花畑みたいねぇ」
扇の上の目が、俺の手元のお櫃を覗き込んで、柔らかく垂れる。
茶碗に一杯よそって、汁椀と一緒に盆に載せ、上がり框まで運ぶのも、この一年で、すっかり手が覚えてしまった段取りである。
どうぞ召し上がってください、と差し出すと、幽々子は扇を閉じて、膝の上に置いた。
「いただきます」
箸に載った菜の花の緑が、扇の陰から出てきた唇の間に、するりと消えてゆく。
冬からこちら、あの口元をまともに見ていられるのは、この人が物を食べている間だけになってしまった。
「少し、苦いのねぇ。
でも、その後が甘いわぁ」
苦いと言いながら、箸の方は少しも止まらない。
二杯目、三杯目と、空になった茶碗が上がり框から差し出されてくる度に、俺は竈の前と上がり框の間を行ったり来たりする事になる。
三杯目をよそい終えた所で、しゃもじを握った手が、お櫃の縁で止まったままになっている事に、暫くしてから気が付いた。
扇が膝の上で閉じている間にしか見られない口元の方へ、手より先に、気持ちが行ってしまっていたらしい。
慌ててしゃもじを置き直したが、幽々子はもう、箸の先で菜の花を摘まみ上げていて、こちらを見てはいなかった。
四杯目の茶碗を受け取りに行くと、お櫃の底には、ちょうど一杯分だけが残っていた。
冬の七日から、鍋や羽釜の最後の一杯は、俺の分と言う事に決まっている。
決めたのは幽々子で、俺がいくら遠慮しても、この決まりだけは曲げてくれた事が無い。
茶碗によそって上がり框の縁に腰掛けると、隣で幽々子は、もう扇を開いていて、格子窓の外の方へ目をやっていた。
菜の花の苦みは、確かに、噛んでいるうちに甘さへ変わってゆく。
自分の作った物を主の隣で座って食べると言うのにも、三月経って、ようやく少しは慣れてきた。
慣れないのは、隣の主が、こちらを見てくれない事の方である。
冬の朝、匙の先から俺が飲み込む所を、あれ程じっと見ていた人なのに。
最後の一口を飲み込んで、茶碗を置いた時だった。
「……飢え死んで、しまいそう」
扇の陰から、ぽつりと物騒な声が零れた。
お櫃を一つ空にして、四杯目の茶碗を置いてから、まだ幾らも経たないうちの言葉である。
いつもの俺なら、もう一品何か作りましょうか、とでも言う所なのだろう。
けれど、この人の言うお腹の空き方が何に向いているのかくらいは、もう知っている。
顔を上げると、扇の上の目と、まともにぶつかった。
幽々子は一瞬だけ目を見開いて、それから、扇の陰で、ふふ、と小さく笑う。
「冗談よ~。
……花見に、行ってくるわね」
それだけ言うと腰を上げて、靄たちを引き連れ、さっさと廊下へ出ていってしまう。
扇は最後まで、口元から下りてこなかった。
空になったお櫃を洗い、羽釜を濯いでから、夕餉の米を量って研ぐ。
桶の水はまだ冷たくて、米を掻き回しているうちに、指の先が少しずつ痺れてくる。
食べれば無くなるのは当たり前で、無くなれば、また作ればいい。
料理人の一日と言うのは、殆どそれの繰り返しなのである。
けれど、あの人の心の飢えだけは、お櫃を幾つ空にしたところで、少しも埋まってくれないらしい。
腹を空かせた人の前に、俺自身まで差し出しておいて、それでも埋めてやれないと言うのが、料理人にとってこんなにも居心地の悪いものだったとは知らなかった。
研いだ米を水に浸けて、竈の火を靄に預ける。
夕餉の支度までには、まだ大分間があるのだ。
コックコートを脱いで作務衣に袖を通し、勝手口を出る。
少しは庭をご覧になってください、と妖夢に言われたのもあるけれど、今日のうちに一度だけ、行っておきたい所があったのだ。
花見の客の間を縫うようにして、玉砂利の上を歩いてゆく。
靄たちは桜の枝の下を漂いながら、時々、思い出したように花の方へ伸び上がっては、またゆっくりと沈んでゆく。
満開の庭の中に、一本だけ、今年も花を一つも付けていない大きな桜があって、その枝だけが、春の真ん中で冬のまま取り残されているように見えた。
目を覚ましたあの桜は、勝手口から庭へ出れば、すぐに目に入る所に立っている。
一年、台所への行き帰りに何度もその前を通ってきたのに、根元まで行ってみようと思った事は、不思議と無かった。
根元に立つと、花の重みで撓んだ枝の向こうから、冥界の白っぽい空が、花の隙間にちらちらと覗いている。
少し迷ってから、俺は、根元の苔の上に仰向けに寝転んだ。
頭の上は、一面の桜である。
一年前のあの朝、目を覚まして最初に見たのも、この空だった。
背中の苔は柔らかくて、少し湿っていて、土の匂いがする。
目を閉じかけて、やめた。
此処で眠ってしまったら、それこそ成仏でもしてしまいそうで。
此処で過ごした一年間がふわっと消えてしまいそうな気がしたのだ。
花を見上げる靄が一つ、俺の顔の上を、ゆっくりと横切っていった。
***
春の白玉楼の庭は、花見の客でいっぱいになる。
客と言っても、口を利く者は一人も居ない。
冥界中から集まってきた幽霊たちが、桜の枝の下をふわふわと巡っては、時々、花の方へ伸び上がって、またゆっくりと沈んでゆくばかりである。
お重を広げる訳でもなく、お酒を酌み交わす訳でもないのに、あの子たちはそれで満ち足りて、日が暮れる頃には、また何処かへ帰ってゆく。
昼過ぎの庭を、幽々子は扇を口元に当てたまま、ゆっくりと歩いていた。
後ろから付いてくるいつもの靄たちは、花見の客の間に混じっては、また幽々子の傍へ戻ってくる。
花びらが一枚、扇の縁に降りてきて、すぐに風に攫われていった。
お昼の菜の花は、少し苦くて、その後で甘かった。
美味しかったのに、お腹の底の方は、相変わらず少しも埋まっていない。
さっき台所で、うっかり口から零れてしまった言葉を思い出すと、扇の陰で、頬が熱くなる。
冗談よ、とは言ったけれど、彼はもう、あんな言葉で誤魔化されてくれない筈だ。
桜の根元に、何かが落ちていた。
近づいてみると、それは彼だった。
白い上着ではなく作務衣のまま、苔の上に仰向けに寝転んで、手足を投げ出している。
花の影が、その顔の上で、まだらに揺れている。
枝から落ちてきた、よく熟れた実のようだ、と幽々子は思った。
落ちたばかりの、皮の薄い、指で少し押せば甘い汁の滲み出してきそうな実である。
白い蝶が一匹、ひらひらと彼の胸の上を渡っていって、花の間へ紛れていった。
彼は、眠ってはいなかった。
幽々子の足音に気付くと、目だけをこちらへ向けて、寝転んだまま、少し照れくさそうに笑う。
起き上がろうとはしない。
「そんな所で、一体何をしているのかしらぁ?」
扇の上から聞いてみると、彼は、一年前の今日、この桜の下に落ちてきたのだと言った。
同じ所から、同じ空を、もう一度見てみたくなったのだと。
「あら、もう一年経ったのね~」
一年。
彼と幽々子とでは、その長さが大きく違う。
冥界に来てからの年月など、とうに数えるのをやめてしまっている。
幽々子が噛みしめた四季は、幽々子の中ですぐに消化されてしまうのだ。
ただ、彼が此処へ落ちてきてから今まで、朝の膳の次には昼の膳が、昼の膳の次には夕餉が、いつもあの手から運ばれてきただけなのである。
「じゃあ、今日は、貴方の命日なのねぇ。
お昼を、ご本人に作らせてしまったわ~」
彼は、寝転んだまま、可笑しそうに肩を揺らした。
外の世界では、家族がもう法要を済ませている頃でしょう、と笑いの残った声で言う。
笑う度に、仰向けになった喉が、小さく上下するのである。
扇の陰で、口の中が、じわりと潤んでくる。
幽々子は腰を屈めて、扇の上から、彼の顔を覗き込んだ。
花の影の揺れる顔の、すぐ真上である。
扇一本分も無い所から見下ろすと、彼の瞳の中に、扇と、その上から覗く自分の目とが、小さく映っていた。
彼は、目を逸らさない。
冬からこちら、目が合う度に扇を上げてきた幽々子の目を、今は真っ直ぐに、下から見上げてくる。
屈めた膝は、何時の間にか、彼の腰を跨ぐようにして苔に突いていて、着物の膝から、苔の湿り気がじんわりと沁みてくる。
扇を持たない方の手も、彼の顔のすぐ横の地面を突いていた。
作務衣の襟元からは、竈の煙の匂いに混じって、米を研いだ水のような、淡い匂いが立ってくる。
さっきまで、台所で夕餉の米を研いでいたのだろう。
辺りを漂う花見の客たちは、桜ばかりを見上げていて、根元の二人には、誰一人として目もくれない。
この人が、欲しい。
仰向けに晒された喉が。
少しだけ開いた唇が。
そこから零れてくる、温かい息が。
扇を閉じてしまえば、食べてしまう。
食べてしまえば、この人の次は、何処からも来ない気がする。
舌の上で、形も味も残さずに消えた、あの一片の雪のように。
怖い、と思った。
思ったのに、目の方が、少しも言う事を聞いてくれない。
扇を握る指に力を込めると、扇の縁が、小さく震える。
蓋の内側では、口の中にもう唾が溢れそうになっていて、舌の先が、何度も何度も唇を辿っていた。
込み上げてくる飢えは、何故だろう、夜に布団の中で覚えたのより、ずっと深い所から来ている。
何に刺激されたのか、何処でここまで高ぶったのかすら分からない。
去年の春に彼が落ちてきてから、膳を一つ平らげる度に、少しずつ少しずつ、お腹の底に溜め込んできたものが、一度に口元まで押し寄せてくるのだ。
溢れそうになった唾を飲み込むと、その音が、自分の耳にやけに大きく響いた。
彼にも、聞こえてしまっただろうか。
いや、聞こえたのなら、それでもいい。
私は、この人が欲しい。
残さず、全部、食べてしまいたい。
怖くて、怖くて、それでも、欲しくて堪らない。
その怖さごと、お腹の底の飢えが、ひと呑みにしてしまった。
指が、ひとりでに扇を畳んでいた。
膳を前にした時に、いつもそうしてきたように。
そのまま、指から力が抜ける。
扇が何処へ落ちたのかは、分からなかった。
落ちる音さえ、耳には届かない。
気付いた時には、幽々子はもう、彼の上に覆いかぶさっていた。
***
胸の上に、柔らかい重さが落ちてきた。
耳のすぐ横の苔の上で、何かが、ぽすりと小さな音を立てる。
目だけを動かして見れば、閉じた扇が、桜に半分埋もれるようにして転がっていた。
拾ってやろうにも、俺の上には、もうあの人の体が覆いかぶさっているのである。
すぐ目の前に、扇の無い顔があった。
着物の布越しに、しっとりと湿った熱が、胸から腹へ、じわりと移ってくる。
桜の下の空気はまだ少しひんやりとしているのに、俺の上に乗ったこの人の体だけが、竈の前に立っている時のように熱い。
肩から零れた淡い薄紅色の髪の先が、俺の頬をくすぐっていて、そこから、甘いような、湿ったような、この人の匂いがする。
頬に掛かる息は、熱くて、少し速かった。
彼女の目は、ずっと何かを怖がっている。
飢えたような熱っぽい目の奥で、何かに怯えているのが、こんなに近くからだと、はっきりと分かってしまう。
何がそんなに怖いのかは、分からない。
分からないまま、俺はその目を、下から見上げていた。
幽々子が、俺を見たまま、ゆっくりと唇を舐めた。
舌の先が、上の唇の端から、真ん中の小さな膨らみを越えて、反対の端まで渡ってゆく。
それから下の唇へ降りて、同じようにゆっくりと、もう一度。
濡れた唇が、花の影の下で、艶やかに光っている。
扇の陰で、この人はずっと、こんな顔をしていたのだろうか。
夏の竈の前でも、秋の上がり框でも、冬の朝、格子窓の方を向いていた時にも。
怖さは、確かにあった。
けれど、それを丸ごと押し退けてしまう程に、嬉しかった。
冬からずっと、俺は、この目に欲しがられたかったのだ。
「……好き」
掠れた声が、唇の間から、零れ落ちてくる。
「好き。
好きよ。
貴方が、好きなの」
今まで、好きだとは言われなかった。
それで構わないと思っていた言葉が、こんなにも崩れた形で、俺の上に降ってくる。
あの人の顔が、ゆっくりと下りてくる。
唇と唇の間には、もう、紙一枚程の隙間しか残っていない。
その僅かな隙間を、熱い吐息が、湿ったまま何度も行き来する。
触れそうで、触れない。
目の前で、あの人の舌の先が、もう一度だけ自分の唇を濡らしてゆくのが見えて、俺は息をするのも忘れていた。
それから、唇のすぐ上で、囁かれる。
「……いただきます」
お決まりの返答を言う暇も無かった。
毎日の膳の前に、こちらから言ってきた言葉なのに。
持ち上がりかけていた両手が、何をしようとしていたのかは、自分でもよく分からない。
押し留めようとしたのか、抱き留めようとしたのか。
俺は、その手から力を抜いた。
手は、ゆっくりとあの人の背中へ落ちて、着物の上から、そっと添えられる。
抵抗する理由など、何処にも無かった。
唇が、塞がれた。
あの人の肩越しに見えていた桜の空が、下りてきた顔に隠れて、何も見えなくなる。
熱と熱がぶつかって、今日は微塵も離れない。
扇を手放した両手が、俺の頬を包み込んで、逃がすまいとするように、指の先に力が籠もる。
柔らかい唇が、俺の唇を食むように何度も形を変えて、熱い舌の先が、その合わせ目を割って入ってきた。
息を吸う暇も無い。
吸おうとするだけ、舌が滑り込んで蹂躙され、吐いた息は、吐いた端から、あの人の口の中へ吸い込まれてゆく。
胸が苦しくなって、それでも次の息は、胸の底から勝手に湧いてきて、湧いてきた端から、また攫われる。
重なった胸と胸の間に、二人分の熱が溜まって、作務衣の下の肌が、じっとりと汗ばんでくるのが分かった。
背中の地面の冷たさと、上から押し付けられる熱とに挟まれて、体の何処が自分の物なのかも、だんだん怪しくなってくる。
時々、唇の合わせ目が僅かにずれて、濡れた小さな音が、耳のすぐ傍で立つ。
その度に、あの人の喉の奥から、満ち足りたような、まだ足りないような、細い息が漏れてくるのである。
食べられているのだ、と思った。
唇も、息も、頭の芯まで、この人の好きな味にされてゆく。
一人の人の腹の空き具合に、俺の居場所は、何もかも懸かっている。
それが今は、少しも怖くない。
この人に食べられるのなら、それで良い。
背中に添えた手に、少しだけ力を込めると、俺の上で、あの人の体が、小さく震えた。
唇が離れたのは、どれくらい経ってからだったのか分からない。
息を整える間も無く見上げると、あの人の唇は濡れていて、少しだけ赤く、ふっくらと色付いていた。
その唇が、俺のすぐ上で、ゆっくりと綻んでゆく。
「まだ、食べ足りないわぁ」
まだ、と来た。
どうやらこの膳は、当分、下げてもらえそうにない。
熱の籠もった白い指が、顔を這ってゆく。
頬から顎の線をなぞり、耳の下を通って、仰向けの喉の上まで来た所で、指の腹がぴたりと止まった。
その指の後を追うようにして、あの人の顔が、俺の顔の横を滑り降りてゆく。
淡い薄紅色の髪が頬から首へと流れて、くすぐったさに首を竦めかけたけれど、竦めるより先に、喉へ熱い唇が押し当てられていた。
「飲み込んで頂戴」
喉に唇を付けたまま囁かれるので、声の震えが、そのまま皮膚の内側へ響いてくる。
言われるままに唾を飲み込めば、喉の骨が唇の下で持ち上がって、また下りてゆくのが、自分でもはっきりと分かった。
唇の下で、あの人が、熱い息を長く吐く。
それから、もう一度、と強請るように、舌の先が喉の骨の上をゆっくりと舐め上げてゆくのだ。
「ずっと、扇の上から見ていたのよ~。
此処が、こうして動く所」
あの人の指が作務衣の襟を掴んで、ぐいと左右へ引き開けた。
春の昼の空気が、汗ばんだ胸元にひやりと触れたのは、ほんの一瞬の事である。
すぐに、それよりずっと熱い物が、鎖骨の窪みへ降りてきた。
濡れた舌が、骨の形を確かめるように肩の方へとゆっくり辿ってゆき、辿り着いた骨の際で、ようやく止まる。
そこを唇で挟み込まれたかと思うと、骨に付いた身をしゃぶるようにして、何度も、何度も吸い上げられた。
「骨の際がね、一番美味しいのよ~」
唇を離したあの人は、濡れたそこを舌の腹で丁寧に舐め直しながら、うっとりと呟く。
くすぐったいのか熱いのかも、もう分からない。
吸われた所だけが、熾火を一つ置かれたように、じんと熱を持って疼いている。
それからは、もう、何処をどう食べられているのか、数えていられなかった。
顎の先を唇で啄まれ、こめかみに滲んだ汗を舌の先で掬われ、作務衣の袖を肘まで捲り上げられたかと思えば、腕に浮いた筋を、端から端まで唇で辿られる。
あの人の唇は、俺の体の何処一つとして、見逃してくれないのである。
その合間合間に、甘えるような、急かすような声が、あの人の喉の奥から小さく漏れてくる。
花の影の下で、汗ばんだ額に、淡い色の髪が一筋、張り付いているのが見えた。
一年前の今日、外の世界で終わった俺の体は、この桜の下に落ちてきた。
その同じ景色の中で、今、同じ体を、この人に端から順に食べられている。
唇の触れた所から一つずつ、自分の体が此処に在る事を、教え直されているような気がするのだ。
背中に添えていた右の手を、あの人の手が探り当てて、そっと持ち上げた。
夕餉の米を研いだ水の冷たさが、指の先にはまだ残っていて、触れられても、少し痺れたような心地がする。
あの人は、その指先を暫く眺めていてから、人差し指を一本、唇の間へ含んだ。
「……おいひぃわ」
口に含んだまま言われるので、言葉の形が、舌の動きごと指の腹へ伝わってくる。
熱い口の中で、痺れていた指先が、端の方から少しずつ解けてゆく。
人差し指の次は、中指。
中指の次は、薬指。
一本ずつ根元まで含まれては、名残を惜しむように舌を絡められて、ゆっくりと引き抜かれて。
包丁を握り、米を研ぎ、鍋を振って、毎日この人の膳を拵えてきた指が、今は一本ずつ、この人の膳にされていく。
小指まで食べ終えたあの人が、俺の掌に頬を押し当てて、小さく息をつく。
「……無くならないのねぇ」
何の事を言っているのかは、分からなかった。
けれど、その声が少しだけ泣き出しそうに聞こえたので、俺は、背中に残っていた方の手で、肩から零れたあの人の髪を撫でた。
冬の夜にそうしていたように、ゆっくりと。
掌に頬を預けたまま、あの人は、撫でられるのを少しも嫌がらない。
やがて、あの人が顔を上げた。
濡れた唇も、汗の浮いた額も、すぐ目の前にある。
ずっと何かを怖がっていた目の奥には、もう、何も隠れていないように見えた。
底の見えない程の飢えだけが、真っ直ぐに、俺を見下ろしている。
白い指が、開かれた襟の合わせ目を、もっと下へと辿り始めた。
「こんなに美味しいのに、まだ味わえていない部位があるなんて、許せないの」
返事の代わりに、俺は、髪を撫でていた手から、もう一度力を抜いた。
息を吸うと、胸の上で、この人の体が一緒に持ち上がる。
扇の無いその顔が、昼過ぎの光の中で、確かに笑っていた。