プロデューサーが死ぬと勘違いして死ぬほど依存度が上がる話 作:マロンex
プロデューサーが出ていくと、広はブラウザを開いた。
検索窓をクリックすると、検索履歴がずらりと表示された。
広の指が、止まった。
『余命半年 過ごし方』
『余命宣告 受けたら 何をする』
『最期に 伝えたいこと 例』
『起承転結 結末 決め方』
『遺される人へ 手紙 書き方』
『死ぬまでに やりたいこと リスト』
広は、しばらく画面を見つめていた。
(……なに……これ)
(……余命?)
それから、画面の端に開きっぱなしになっていたカレンダーに、目をやった。
半年後の日付に、赤い丸がついていた。
『ここで、終わり』
広は、ゆっくりとブラウザを閉じた。
調べものは、もうどうでもよくなっていた。
◇
その夜、広は、寮の部屋で、ノートに書き出していた。
『観測された事実』
・検索履歴:余命半年、余命宣告、最期に伝えたいこと、遺される人への手紙
・カレンダー:半年後に「ここで、終わり」
・最近、夜遅くまで起きている(目の下に隈)
『考えられる仮説』
・プロデューサーは、余命半年を宣告されている
広は、ペンを置いた。
いつもなら、仮説を立てたら、それを証明する証拠を探す。
でも、今夜は、逆だった。広は、ページをめくって、書いた。
『反証の探索』
『検索履歴は、誰か別の人のための調べもの』
『小説などの、創作』
『全部、ただの偶然』
広は、一つずつ、検証した。
ここ数週間、同じ端末から。
他人の調べものとは、考えにくい。
却下。
小説の創作?
でも、プロデューサーが、何かを書いているところを、観測したことがない。
根拠がない。却下。
五つの検索語が、同じ方向に揃う確率は、計算するまでもない。却下。
(……導き出される答えは)
=と記載した先は空白だった。
広は、ノートの余白に、小さく書いた。
『反証の探索:継続』
いつもなら、自分の仮説が、いちばん信じられる。
でも、今回だけは、違った。
どれだけ合理的でも、どれだけ確率が高くても。
(……間違っていてほしい)
(誰か、この仮説が誤りだと否定してほしい)
難しいことは、好きだった。
解けない問題ほど、面白かった。
でも、この問題だけは、ちっとも面白くなかった。
◇
翌日。
広は、プロデューサーの隣に座って、じっとその顔を観察した。
「……プロデューサー。最近、眠れてる?」
「あんまり、ですね。夜中まで、ずっと考えごとをしてて」
「考えごと?」
「はい。……終わりの場面を、どうしようかなって」
広の喉が、ひくりと鳴った。
「……終わりの、場面」
「頭の中では、もう、決まってるんです。……あとは、そこにたどり着くまでを、どうするか」
《あの台詞、やっぱり、もう少し短くしたほうがいいかな》
プロデューサーは、少しだけ遠くを見た。
「後悔のないように、したいんです。……ちゃんと、届くものにしたくて」
広は、何も言えなかった。
◇
その日から、広は、久々に昔やっていたことをやり直した。
医学の勉強だった。
徹夜で、医学書を読んだ。
論文を、片っ端から調べた。
余命半年と宣告された患者が回復した例。
新しい治療法。
海外の臨床試験。
重い医学書の束を、一度に運ぼうとして、廊下で転んだ。
「……想定内」
広は、本の山に埋もれたまま、つぶやいた。
勉強は、得意だった。
でも、医学は、知れば知るほど、絶望的だった。
同じ論文を、何度も読み返した。
四度目で、指が止まった。
『五年生存率:十五パーセント』
(……確率、低い)
(でも、ゼロじゃない。ゼロじゃない)
広は、その数字を、赤ペンで丸く囲んだ。
ペンを持つ手が、細かく震えていた。
「プロデューサー。これ、読んで」
一か月後、広は、分厚いファイルを差し出した。
「何ですか、これ」
「治療法の一覧。最新のもの。海外の臨床試験も、全部まとめた。……まだ、諦めるのは早いと思う。確率は低いけど、ゼロじゃない」
プロデューサーは、ファイルをぱらぱらとめくって、首をかしげた。
「篠澤さん、すごいですね。でも、病院に行く必要はないと思います」
《……ここまで調べてくれるなんて。篠澤さん、本当に勉強熱心だ》
広の手が、震えた。
(……治療を、拒否してる)
「どうして」
「もう、決めたので。最後まで、自分の力でやり切りたいんです」
広は、ファイルを胸に抱えたまま、俯いた。
◇
医学が駄目なら、と広は考えた。
せめて、残りの半年を、少しでも楽にしてあげたい。
広は、料理を始めた。
体力がないので、包丁を持つだけで腕がぷるぷると震えた。
玉ねぎを切って、泣いた。
それが玉ねぎのせいなのかどうか、自分でもよくわからなかった。
「プロデューサー。お弁当。三回、指を切った」
「大丈夫ですか!?」
「平気。……プロデューサーのほうが、大変だから」
「僕、何か大変なことありましたっけ」
広は、答えなかった。
広は、マッサージも覚えた。
肩を揉もうとして、握力が足りなくて、ただプロデューサーの肩に手を置いているだけになった。
「篠澤さん、その、ありがたいのですが...えっと一応聞くと、肩をもんでいただいているのですよね」
「揉んでる。全力で」
《……手が置かれているだけな気がする》
「……ありがとうございます」
広は、プロデューサーの背中に手を置いたまま、目を閉じた。
(温かい。まだ、温かい)
◇
(プロデューサーが諦めても...私は絶対諦めない)
広は、ノートに、プロデューサーの観測記録をつけていた。
『歩数:一万二千歩。食事:三食、完食。睡眠:五時間。握力:標準』
(……健康、そのもの)
広は、首を振った。
(短期間での測定誤差の可能性。……あるいは、末期ほど、症状が出ない病気?)
ノートに、赤ペンで書き足した。
『再測定』
翌日も、翌々日も、結果は、同じだった。
『歩数:一万五千歩。食事:おかわり。握力:良好』
(……私の杞憂だった?)
(でも、人間の病気はメンタル面からくることもある....後悔はしたくない)
否定するための記録は、次第に不安を解消する目的に代わっていた。
広は、データのほうを、疑うことにした。
◇
三か月が経った頃だった。
プロデューサーが、少し疲れた顔で、部屋に戻ってきた。
プロデューサーは、机の上に積まれた封筒を、ぱらぱらとめくった。
『解約について』と書かれた紙が、いくつも、見えた。
「最近、(サブスクの)契約がいくつも重なってて。そろそろ、整理しないといけないんですよね」
まるで、明日の天気の話でもするような口ぶりだった。
《意外と馬鹿になんないんだよな、こういう月額サービス》
「……解約するの」
「いえ、全部じゃないです。残すものも、ありますよ」
プロデューサーは、封筒を一通ずつ手に取っては、机の上に仕分けていった。
「これは、もう使ってないので、解約。……これは、まだ迷ってますけど、たぶん解約。これは、長い付き合いだったんですけどね。そろそろ、いいかなって」
「……長い、付き合い」
「はい。でも、思い切りが大事なので。来月までに、全部、片付けたいんです」
《一年以上、ほとんど開いてないサービスもあったな。……もったいないことをした》
広は、仕分けられていく封筒を、じっと見つめていた。
「……それ、いつから、考えてたの」
「ずいぶん前から、です。ずっと、迷ってたんですけど」
プロデューサーは、少しだけ、寂しそうに笑った。
「サインするだけなんですけどね。一枚ずつ、ありがとうって、心の中で言いながら書いてるんです」
(……一枚ずつ、ありがとうって)
(……お別れの、挨拶)
広は、ノートに書き込む手を、止めたままだった。
(……身辺整理、ということ)
広のペンを握る指が、固まった。
◇
その夜、広は、ひとりでノートを開いた。
『契約解除:メリットとデメリット』
広は、ペンを走らせた。
『メリット:プロデューサーの残り時間を、わたしのために使わせずに済む』
『メリット:治療に専念する時間ができる(本人は拒否しているが)』
『メリット:大切な人と過ごす時間が、増える』
そこまで書いて、ペンが止まった。
『デメリット:』
広は、その先を、書けなかった。
(……デメリット)
(……わたしが、さびしい)
(そんなもの、変数に入れてはいけない)
広は、『デメリット』の欄に、横線を引いた。
(残された時間は、プロデューサーのもの。わたしのものじゃない)
(合理的に考えれば、答えは、ひとつだ、ね)
ペンを握る手が、震えていた。
『結論:契約解除を、提案する』
書き終えたとき、ノートの文字が、ぼやけて見えた。
◇
翌日の放課後。
広は、プロデューサーの隣に、いつもより少しだけ背筋を伸ばして座った。
「……プロデューサー。提案がある」
「何ですか」
「契約、解除しよう。来月で」
声は、震えていなかった。そう、練習した。
プロデューサーは、目を丸くした。
《……契約? ああ、整理したいって言ってた、あれのことか。篠澤さん、覚えててくれたのか》
「あ、はい。ちょうど、僕もそう思ってたんです。来月で、解約しようと思ってて。手続きは、担当の方が、全部やってくれるので」
広の指が、止まった。
(……承諾された)
(わたしの提案を。即答で)
(……ためらいも、なく)
「……本当に、いいの」
「はい。全然。むしろ、助かります」
広の喉が、ひくりと鳴った。
(……助かる)
(わたしとの契約が、なくなって、助かる……)
(合理的。わたしが出した答えで、わたしが望んだ答え。……なのに)
「……あの」
言いかけて、口を閉じた。
(やっぱり、やめる。そう言えば、いい。撤回すれば、いい)
(でも、提案したのは、わたし。自分から言い出して、すぐに引っ込めるのは、論理的に、矛盾する)
(それに。……撤回したら、わたしの我儘で、プロデューサーの残り時間を、また縛ってしまう)
「どうしましたか?」
広は、首を横に振りかけて、止まった。
「……なんで」
「え?」
「なんで、そんなにあっさり解除できるの。……理由を、聞かせて」
自分から切り出したのに。
広は、自分の声が、問い詰めるような響きになっているのが、わかった。
「理由、ですか」
プロデューサーは、少しだけ考えて、淡々と答えた。
「……もう、役目は、果たしたかなと」
「……役目は、果たした」
「はい。もう、十分、お世話になりました」
(……十分、お世話に、なりました)
「……止めないの」
「止める?」
「……わたしが、提案した、けど...普通は、引き止めるもの」
「止める理由が、特にないので。むしろ、先に言ってくれて、ありがたいくらいです」
(……止めて、くれない。当たり前、私の提案だ)
(引き止めてほしかったのは、わたしのほう。……理由も、論理も、ないのに)
「……後悔は、ないの」
「ないですよ。いい判断だったと思います」
広は、唇を噛んだ。
(……淡々と)
(...私ってそんなに最期にはいらないのかな)
広は、気づいた。
(……わたし、いま、論理じゃなくて、感情で、質問してる)
(理由なんて、わかってるのに。合理的な、答えなのに。……それでも、聞かずにいられなかった)
(……感情を、優先する人の気持ち、初めて、わかった)
悔しかった。
論理で、割り切れると思っていた。
解けない問題は、ないと思っていた。
(……こんな、非合理な気持ちが、わたしの中に、あったなんて)
「……そう。よかった」
広は、ノートに、小さな字で書き込んだ。
『契約解除:承諾』
インクが、少しだけ、にじんだ。
ペンを持つ手の甲に、ぽたり、と、一滴落ちた。広は、慌てて、袖で拭った。
◇
その夜、広は、寮のベッドで、ノートを開いていた。
『観測された事実(追加)』
・契約解除の提案を、即答で承諾
・契約解除は、来月
『合理的な結論』
・プロデューサーの判断は、正しい
・残された時間で、担当アイドルが困らないよう準備するのは、最も効率的な選択
・わたしは、それを受け入れるべき
広は、ペンを置いた。
結論は、出ていた。理屈は、完璧に通っていた。
それなのに、なぜか、ノートの文字が霞む。
ぽろぽろと落ちる涙でインクがにじんでいく。
(……おかしい。理屈は、合ってるのに)
(納得、できない)
広は、生まれて初めて、自分の出した結論を、受け入れられなかった。
◇
一か月後。契約解除の、数日前。
レッスン室で、広は、いつものように限界までステップを踏んでいた。
足が、もつれた。転んだ。
床に倒れたまま、天井を見上げた。
いつもなら、笑えた。
つらいことは、楽しかった。
でも、今は、ちっとも笑えなかった。
「篠澤さん、大丈夫ですか」
プロデューサーが、手を差し伸べた。
「……今日も頑張っていますね」
広は、天井を見上げたまま、動かなかった。
「転んでも、いつも、『もう一回』って、立ち上がる。向いてないことほど、楽しそうに挑んで。……元気もらえますよ」
その言葉が、広の胸の奥の、何かを、ほどいた。
(……やっと、諦めついたのに...)
天井の白い光が、にじんだ。
初めて会った日。
「向いてないことに挑むのが、好きですか」と聞かれて、「大好き」と答えたこと。
初めて転んだレッスン。
笑った自分に、「はい、もう一回」と、笑って付き合ってくれた声。
夜の自主練。
誰もいない廊下で、「無理は、しないでください」と言いながら、結局、最後まで、残っていてくれた背中。
ライブの袖で、「大丈夫。篠澤さんなら」と、静かに言ってくれたこと。
全部、楽しかった。
全部、この人が、いた。
(……これが、もうすぐ、終わる)
広の喉が、ひくりと鳴った。
(……終わるのが、怖い)
広は、その手を掴まずに、床に寝転がったまま、ぽつりと言った。
「……プロデューサー。わたし、初めて知った」
「何をですか」
「つらいのに、楽しくないこと」
プロデューサーは、少しだけ目を丸くした。
「いつもなら、苦しいことは楽しいはず、だったのに。でも、今は全然楽しくない」
広は、腕で目元を覆った。
「……解けない問題が、初めて、怖いと思った」
プロデューサーは、何も言わずに、広の隣に座った。
それから、少しだけ考えて、言った。
「……どんな問題でしょうか」
「一緒に、乗り越えましょう。一人で解けない問題でも、二人なら、きっと、答えが見つかります」
広の腕の下で、何かが、ぷつりと切れた。
「……なんで」
「え?」
「じゃあなんで...一番に諦めちゃうの...」
広の声が、震えた。
腕の下から、ぽろぽろと涙がこぼれて、床に落ちた。
「篠澤さん?」
「わたし、頑張った。医学書、全部読んだ。論文も、全部調べた。治療法も、まとめた。料理も、マッサージも、向いてないのに、やった」
広は、腕を目元から外した。
「なのに、プロデューサーは……病院に、行かないって……」
「契約解除も……わたしから、言ったのに……即答で……」
「それが、一番……納得、できなかった……っ」
広は、上半身を起こして、プロデューサーの袖を、弱々しく掴んだ。
「合理的に考えたら、それが正しいって、わかってる。ノートにも、ちゃんと書いた。結論は、出てる。……なのに」
広は、涙でぐしゃぐしゃの顔で、プロデューサーを見上げた。
「次の担当なんて、いらない。わたしをわかってくれるのは、プロデューサーだけ」
「…………」
「最後まで、プロデューサーがいい。……プロデューサーが死んじゃったら、もう、何も楽しくない……!」
あふれ出た思いは涙に、涙は気道を狭め、嗚咽に変わる。
だが、伝えたいことを、伝えなければいけない言葉を、広は、息を継ぎながら、絞り出した。
「ごめん……っ。体力、なくて……ごめん……」
「すぐ、泣いて……すぐ、息、できなくなって……ごめん……っ」
「直す……っ。ぜんぶ、直すから……」
「だから……いなくならないで……っ」
その途中で、広の呼吸が、ひゅっ、と詰まった。
「……っ、は、……っ」
息が、うまく、吸えない。胸が、小刻みに上下して、肺が、空気を拒んでいる。
(……あ。……これ、前にも)
体の弱い広は、昔から、感情が高ぶると、呼吸が乱れた。
「篠澤さん!?」
プロデューサーの顔色が、変わった。
プロデューサーは、一瞬だけ固まって、すぐに、広のそばに膝をついた。
「篠澤さん、ゆっくり。ゆっくり、息を吐いてください」
「喋らなくて、いいです。吸わなくても、いいです。先に、吐いて」
「……は、……っ。ご、ごめん……なさい」
プロデューサーは、上着を脱いで、広の肩にかけた。
それから、広の隣に座って、一緒に、ゆっくりと、息を吐いてみせた。
数分かけて、広の呼吸は、少しずつ、落ち着いていった。
「……ごめん。迷惑、かけた。……脈拍、まだ、速い」
「迷惑じゃないです。こちらこそすみません、取り乱させてしまい」
プロデューサーは、少しだけ迷ってから、静かに聞いた。
「……さっきの、続きを、聞かせてください。僕が、何ですって?」
広は、まだ浅い息を継ぎながら、答えた。
「……プロデューサーが、死んじゃう話……」
「え?僕が、ですか?」
「……うん」
プロデューサーは、目を見開いた。
それから、拳を、ぎゅっと握りしめた。
「えっと...何の話でしょうか」
広の泣き声が、ぴたりと止まった。
「……え?」
「僕は、健康です。この前の健康診断も、全部A判定でした。死ぬ予定は、ありません」
「……え」
広は、涙で濡れた目を、ぱちぱちと瞬かせた。
「どうして、僕が死ぬと思ったのか、教えてください」
「……検索履歴」
「検索履歴?」
「パソコン、借りたとき。余命半年の過ごし方、余命宣告を受けたら何をする、最期に伝えたいこと、遺される人への手紙の書き方。それと、カレンダーに...マークが」
プロデューサーは、しばらく考え込んだ。
それから、ああ、という顔をして、鞄から、分厚い紙の束を取り出した。
表紙には、こう書かれていた。
『小説コンテスト応募作 「余命半年のプロデューサー」』
「……それ、小説の取材です」
広は、ぽかんと口を開けた。
「実は、趣味で小説を書いてるんです。主人公が、余命半年を宣告されたプロデューサーで。残された時間で、担当アイドルたちに何を残すか、っていう話なんです」
「……頭の中では、もう、決まってるっていうのは」
「プロットの段階で、決めてたので」
「……病院に行く必要ないって。最後まで、自分の力でやり切るって」
「篠澤さんが治療法の一覧をくれたとき、正直、何の話かよくわからなかったんです。でも、小説の材料として資料提供してくれたのかと...でもそこまでする必要ないと思い...」
「カレンダーの、〆切、ここで終わりは」
「コンテストの応募締め切りです」
「……契約解除は、私もう解除されるんだよね」
「しません!この前の話は資料用の、電子書籍の月額サービスです。確かにこれは来月で解約しますが……篠澤さんが言ってくれたとき、同じ話だと思って、即答しちゃいました」
「……契約を整理する、って言ってたのは」
「月額のサービスが、いつの間にか増えてたので。……身辺整理だと、思ったんですか?」
「……うん」
「サブスクの整理です」
「……わたしは、プロデュース契約のことかと」
「え!?」
プロデューサーは、慌てて立ち上がった。
「あなたを手放すわけないじゃないですか」
「っ...急にやめて」
広の顔が、ゆっくりと、真っ赤になっていった。
広の顔が赤くなるのを、プロデューサーは初めて見た。
「……プロデューサー」
「はい」
「わたし、半年、医学書を読んでた」
「すごいですね」
「論文も、五百本くらい読んだ」
「すごいですね」
「三回、指を切った」
「それは、本当にすみません」
広は、床に仰向けに倒れた。
天井を見上げて、しばらく黙っていた。
それから、肩が、小さく震え始めた。
「……ふ」
「篠澤さん?」
「ふふ……ふふふ……」
広は、両手で顔を覆って、笑い出した。
泣きながら、笑っていた。
「……ふふ。こんなの、初めて。半年かけて、全力で、まったく見当違いの問題を解いてた」
「すみません」
「謝らなくていい。……面白い」
広は、指の隙間から、プロデューサーを見上げた。
「あなたを手放すわけないじゃないですか、か」
「はい」
「……ふふ。それは、ちょっとキュンキュンした」
プロデューサーは、少しだけ照れくさそうに、でも、まっすぐに広を見た。
「さっきの、最後まで僕がいい、っていうの。嬉しかったです。……最期まで、僕でよければ。篠澤さんのことは、ずっと隣で見ています」
広は、指の隙間から、じっとプロデューサーを見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……うん。そうして。プロデューサーは、わたしが今まで出会った中で、一番、予測できない人だから」
「褒められてますか」
「褒めてる。……すごく」
◇
その夜、広は、寮の部屋で、プロデューサーの小説を読んだ。
主人公のプロデューサーは、余命半年を宣告されて、担当のアイドルたちに、一つずつ何かを残していく。
その中に、一人、体力のない、変わったアイドルがいた。
難しいことが好きで、向いていないことに挑むのが好きで、いつも楽しそうに苦しんでいる、不思議な女の子。
広は、そのページで、手を止めた。
(……わたし?)
最終章で、主人公のプロデューサーは死んだ。
遺されたアイドルたちは、泣きながら、それでも最後に笑った。
広は、原稿を閉じた。
それから、赤いペンを取り出して、最終章の余白に、一行だけ書き込んだ。
◇
翌日。
プロデューサーは、返ってきた原稿をめくって、最終章の余白に目を留めた。
丸い字で、こう書かれていた。
『主人公、死なせないで。遺されたヒロインは、嬉しくない。わたしが半年かけて確かめたから、間違いない』
プロデューサーは、しばらく、その一行を見つめていた。
それから、隣に座っている広を見た。
広は、眠たげな目で、窓の外を見ていた。
「……篠澤さん」
「なに」
「結末、書き直します。主人公、生きてることにします」
広は、窓の外を見たまま、小さく笑った。
「ふふ。それがいい。……そのほうが、ずっと面白い」
―あの日から篠澤広の言動は大きく変化した。
そして、篠澤広には、新しい習慣ができた。
朝、プロデューサー室に来る。
昼、一緒にご飯を食べる。
放課後、仕事が終わるまで隣にいる。
そして、帰る前に、必ず確かめる。
「……プロデューサー」
「はい?」
広は返事をする代わりに、彼の手を取った。
両手で包み込んで、指先を一本ずつ確かめるように触れる。
「……今日も、生きてる。手、あったかい、ね」
「そうですね。今日は少し暖かいですから」
「……そういうことじゃない」
広は、彼の手を自分の頬にそっと当てた。
「……ちゃんと、ここにいる」
「……広さん」
「……もう一回、確認させて」
彼女は目を閉じて、頬を手のひらにすり寄せた。
プロデューサーは少し驚いたものの、やがて空いている手で広の頭を撫でた。
「はい。何度でもどうぞ」
「……ふふ」
広は、そのまま彼の腕に身体を寄せた。
「……じゃあ、もう少し」
「もちろんです」
「……もうちょっと」
「はい」
「……あと、ちょっと」
「……広さん、今日はなかなか終わりませんね」
「……うん。終わらせるつもり、ないから」
広は彼の腕を抱きしめた。
「……だって、こうしてると、安心するんだもん」
◇
一週間もすると、広はプロデューサー室のソファを自分の定位置にしていた。
ただし、以前のように一人で座ることはなくなった。
プロデューサーがソファに腰を下ろすと、広は当然のように隣に座る。
肩が触れるくらい近くに。
しばらくすると、腕が触れるくらい近くに。
さらにしばらくすると―
「……広さん、少し近くないですか?」
「……そう?」
広は、彼の肩に頭を預けたまま答えた。
「……これくらい、普通だと思う」
「そうでしょうか……」
「……嫌?」
「いえ。嫌ではありませんよ」
「……じゃあ、問題なし」
広は満足そうに目を閉じた。
プロデューサーが書類を手に取ると、広も一緒に身体を起こす。
彼がペンを持てば、その手元を覗き込む。
彼が立ち上がろうとすれば、袖をつまむ。
「……どこに行くの?」
「お茶を淹れに行こうかと」
「……わたしも行く」
「すぐ戻ってきますよ?」
「……知ってる。でも、一緒に行く」
広は袖をつまんだまま、ゆっくり立ち上がった。
「……歩くの、得意じゃないけど」
「はい」
「……今日は、プロデューサーと歩きたい」
「わかりました。ゆっくり行きましょう」
広は彼の隣に並んだ。
そして、少し迷ったあと、そっと手を差し出す。
「……手」
「はい?」
「……つないで」
プロデューサーは一瞬だけ目を丸くした。
それから、広の手を優しく握った。
広の指が、すぐに彼の指の間へ入り込む。
「……ふふ」
「嬉しそうですね」
「……うん。指、全部つながった」
「全部というと?」
「……離れにくい」
広は、つないだ手を軽く持ち上げた。
「……これなら、どこに行くか、すぐわかる」
「僕は黙ってどこかへ行ったりしませんよ」
「……わかってる。でも、こうしていたいの」
広は彼の腕にぴたりと寄り添った。
「……理由がなくても、いいでしょ?」
「もちろんです」
「……ふふ。じゃあ、今日はずっと」
◇
ある日の昼休み。
プロデューサーが広のためにお弁当を用意していた。
「今日は、広さんが前においしいと言っていた卵焼きを作ってみました」
「……わたしのため?」
「はい」
広はお弁当を見つめたあと、ゆっくり彼の顔を見上げた。
「……ちょっと、こっちに来て」
「はい?」
プロデューサーが身をかがめると、広は彼の肩に両腕を回した。
ぎゅっ。
短く、けれど思い切り抱きしめる。
「……ありがとう」
「……どういたしまして」
「……まだ、離さない」
「お弁当が冷めてしまいますよ?」
「……あと五秒」
広は彼の背中に腕を回したまま、数を数え始めた。
「……いち、に、さん、し、ご」
数え終わっても、腕はほどけなかった。
「……広さん?」
「……おまけ」
「おまけですか」
「……うん。十秒くらい」
プロデューサーは小さく笑い、広の背中をぽんぽんと優しく撫でた。
広はその手の動きに気づくと、さらにぎゅっと抱きしめた。
「……それ、好き」
「背中を撫でることですか?」
「……うん。あと、頭も」
「注文が増えましたね」
「……いっぱい、増やす予定」
「それは楽しみですね」
広はようやく腕をほどいた。
けれど、今度は彼の手を握り、お弁当を食べている間も離さなかった。
「……広さん、食べにくくないですか?」
「……少し」
「では、手を離しましょうか」
「……やだ」
「……そうですか」
「……右手で食べる。左手は、プロデューサーとつなぐ」
広は真剣な顔で、お箸を持ち直した。
「……効率的」
「そうですね。……食べこぼさないように気をつけてくださいね」
「……うん」
卵焼きを一口食べる。
広の目が、ふわりと細くなった。
「……おいしい」
「よかったです」
「……明日も、作って」
「はい」
「……明後日も」
「はい」
「……ずっと」
広は、つないだ手を両手で包み込んだ。
「……ずっと、一緒に食べたい」
プロデューサーは、広の頭を優しく撫でた。
「これからも、一緒に食べましょう」
広はその手に頬を寄せた。
「……約束、三つ目」
◇
休日の午後。
プロデューサーが自宅で本を読んでいると、スマートフォンが震えた。
『……今、何してる?』
『家で本を読んでいますよ』
『……ご飯は?』
『これから食べるところです』
『……何を?』
『冷蔵庫にあるもので、適当に』
少し間が空いてから、返信が来た。
『……だめ』
『えっ?』
『……わたし、行く』
『広さん? どうしたんですか?』
『……適当なご飯は、健康によくない』
続けて、もう一通。
『……あと、会いたい』
プロデューサーは、思わず笑った。
『わかりました。気をつけて来てくださいね』
三十分後。
玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、広が大きな袋を抱えて立っていた。
袋には黒く汚れた跡がある。何度が床に置いたり、引きずったのだろうか。
だが、そうまでしてわざわざ運んでくれた彼女がいとおしく、かわいらしかった。
「……来た」
「いらっしゃい、広さん。荷物、持ちますよ」
「……大丈夫。今日は、わたしが作るから」
プロデューサーが袋を受け取ろうとすると、広はその手を避け、代わりに彼の手を握った。
「……まず、確認」
「確認ですか?」
「……うん」
広は一歩近づいて、彼の顔をじっと見つめた。
「……顔色、正常。声、正常。呼吸、正常」
「はい。健康ですよ」
「……じゃあ」
広は、そっと彼の胸元に額を寄せた。
「……ぎゅってして」
プロデューサーは、すぐに広の背中へ腕を回した。
広も彼の腰に腕を回し、胸元に頬を押しつける。
「……ふぅ」
小さな息が漏れた。
「……よかった」
「広さん?」
「……会いたかった」
その声は、いつもの淡々としたものより、ずっと幼く聞こえた。
「学校で毎日会っているのに、変ですね」
「……学校で会うのと、ここで会うのは違う」
「どう違うんでしょう?」
「……学校だと、仕事が終わったら帰らなきゃいけない。でも、ここなら」
広は、彼の服をきゅっと握った。
「……もう少し、一緒にいられる」
プロデューサーは、広の頭をゆっくり撫でた。
「今日は、ゆっくりしていってください」
「……うん」
広は顔を上げると、少し恥ずかしそうに言った。
「……あと一回」
「何をですか?」
「……ぎゅってするの」
「……今もしていますけど」
「……もっと」
プロデューサーは笑い、もう一度、少しだけ強く抱きしめた。
広は満足そうに目を閉じた。
「……ふふ。ここ、好き」
「気に入ってもらえてよかったです」
「……違う」
広は彼の背中に腕を回した。
「……ここにいる、プロデューサーが好き」
◇
夕食を作り終えたあとも、広はプロデューサーのそばを離れなかった。
食事中は隣の椅子を選び、食器を片づけるときには一緒に立ち、ソファに戻ればすぐ隣に座る。
そして、しばらくすると。
「……プロデューサー」
「はい?」
「……膝、借りてもいい?」
「どうぞ」
広は横向きになって、彼の膝に頭を乗せた。
「……こうすると、落ち着く」
「それならよかったです」
プロデューサーが髪を撫でる。
広は目を閉じ、彼の手を探して、自分の両手で包んだ。
「……そのまま」
「はい」
「……手、止めないで」
「わかりました」
「……あと、頭だけじゃなくて、手も握ってて」
「はい」
「……あと」
「まだありますか?」
広は薄く目を開けた。
「……わがまま?」
「いいえ。聞いていますよ」
広は少し考え、彼の手を自分の頬に当てた。
「……じゃあ、もう一個」
「どうぞ」
「……好きって、言って」
プロデューサーの手が、一瞬だけ止まった。
広は、少し不安そうに彼を見上げる。
「……だめ?」
「...篠澤さんにはアイドルとしての自覚をもってもらった方がいいですね..。まったく」
プロデューサーは、優しく微笑んだ。
「言ってくれないんだ」
「大好きですよ」
学校では決して聞けない言葉。
広は、ぴたりと動かなくなった。
「……もう一回」
「広さんのことが、大好きです」
「……さん、は不要」
「……広のことが大好きです」
「……ふふ、ふふふ」
広は、彼の手のひらに頬をすり寄せた。
その後、頭をこすりつけるように、腕にじゃれ付いた。
「……だめ。嬉しすぎる」
「広?」
「……今、絶対に離れたくない」
プロデューサーは、広の肩にそっと毛布をかけた。
「では、もう少し、このままでいましょうか」
「……うん」
広は彼の手を握ったまま、目を閉じた。
「……寝ても、いい?」
「もちろんです」
「……寝てる間も、そばにいて」
「ここにいますよ」
「……起きたときも?」
「います」
「……帰るときは?」
「ちゃんと声をかけます」
広は、ゆっくり頷いた。
「……うん。なら、安心」
少しして、広の呼吸が規則正しくなった。
眠ってしまったらしい。
プロデューサーは動かないように気をつけながら、空いている手で広の髪を撫でた。
すると、眠っているはずの広が、彼の指をきゅっと握った。
「……ん……」
「広?」
「……いかないで……」
寝言だった。
プロデューサーは、広の手を握り返した。
「……大丈夫ですよ。ここにいます」
広の表情が、少しだけ和らいだ。
彼は、そのまま広が目を覚ますまで、隣にいた。
◇
数週間後。
広は、プロデューサー室のソファで、彼の隣に座っていた。
肩を寄せ、手をつなぎ、時折、彼の腕に頬をくっつける。
プロデューサーが書類を読み終えると、広はすぐに顔を上げた。
「……終わった?」
「はい。ひと段落しました」
「……じゃあ」
広は彼の前に両腕を広げた。
「……ぎゅー」
プロデューサーは、思わず笑ってしまった。
「……広さん、最近それが増えましたね」
「……うん」
「何か理由があるんですか?」
広は、少しだけ考えた。
「……前は、触れたら、いつかいなくなるのがもっと怖くなると思ってた」
「……はい」
「……だから、あんまり考えないようにしてた。でも、違った」
広は、彼の手を取った。
「……触れると、今ここにいるってわかる。手を握ると、温かいってわかる。抱きしめてもらうと、わたしがここにいていいんだって、わかる」
「広……」
「……だから、もっとしたくなった」
広は、彼の胸元にそっと身体を寄せた。
「……もう少し、近くにいたい」
プロデューサーは、広の背中に腕を回した。
「……もちろんです」
広は彼を抱きしめ返した。
「……好き」
「ええ、私も好きですよ」
「……違う」
「大好きです」
「……そう」
プロデューサーは、少し困ったように笑った。
「……まったく、甘え上手になりましたね」
広は、しばらく黙っていた。
それから、彼の胸元に顔を埋めたまま、小さく笑った。
「……ふふ。記録、更新」
「何の記録ですか?」
「……プロデューサーに好きって言ってもらった回数」
「そんな記録をつけているんですか?」
「……うん。毎日、増えてる」
広は顔を上げ、彼の頬に自分の頬をそっと寄せた。
「……明日も、増やしてね」
「はい。約束します」
「……明後日も」
「はい」
「……その次の日も」
「はい」
広は、嬉しそうに目を細めた。
「……ふふ。未来の予定が、いっぱい」
そして、もう一度、彼の胸に抱きついた。
今度は、確かめるためだけではない。
そばにいたいから。
温もりを感じたいから。
大好きな人に、大好きだと伝えたいから。
広は、彼の背中に回した腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「……ねえ、プロデューサー」
「はい」
「……明日も、抱きしめてね」
「もちろんです」
「……朝、会ったら?」
「はい」
「……お昼も?」
「はい」
「……放課後も?」
「はい」
広は、くすくすと笑った。
「……じゃあ、明日は三回」
「三回で足りますか?」
広は、顔を上げた。
一瞬、驚いたように目を丸くする。
それから、嬉しそうに彼の首に腕を回した。
「……足りない」
「そうですか」
「……だから、明日になったら、また考える」
「わかりました」
広は、彼の肩に頬を寄せた。
「……ふふ。プロデューサーといると、予定が立てられない」
「それは困りましたね」
「……ううん。楽しいの」
広は、彼の手を握った。
「……解けない問題があってもいい。先のことがわからなくてもいい」
そして、いつものように、小指を差し出した。
「……でも、明日も会うのは、約束」
プロデューサーは、その小指に自分の小指を絡めた。
「はい。明日も会いましょう、広」
「……うん」
広は、最後にもう一度、彼をぎゅっと抱きしめた。
「……大好き」
その声は、もう震えていなかった。
半年後の未来を恐れる代わりに、広は今日の温もりを抱きしめていた。
そして明日も、その先も。
きっと彼のそばで、何度だって確かめるのだろう。
手をつないで。
頬を寄せて。
抱きしめ合って。
「……ふふ。今日も、ちゃんと生きてるね」
「はい。今日も、元気ですよ」
「……よかった」
広は、もう一度、彼の胸に顔を埋めた。
「……じゃあ、もうちょっとだけ」
プロデューサーは、優しく彼女を抱きしめた。
「……はい。もうちょっとだけ」
その「もうちょっと」は、きっと明日も続いていく。