プロデューサーが死ぬと勘違いして死ぬほど依存度が上がる話   作:マロンex

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莉波編

放課後の、プロデューサー室。

姫崎莉波は、いつものように、二人分のお弁当を抱えて、扉をノックした。

 

(プロデューサーくん、今日も、ちゃんと食べてくれるかな)

 

幼なじみの世話を焼くのは、物心ついたときから、莉波の日課だった。

転んだら、手当てをして。

泣いたら、手を引いて。

それが、お姉さんの役目だった。

 

「お邪魔します。お昼、持ってきたよ」

 

「あ、莉波さん。……すみません、今日は...遠慮しておきます」

 

莉波の手が、止まった。

 

「え?」

 

「食欲がなくて。……ご好意を無碍にしてしまいすみません」

 

プロデューサーくんは、片方の頬を、そっと手で押さえていた。

 

(……食欲がない。……頬を押さえて)

 

「……そっか。無理しなくて、いいよ」

 

莉波は、にこりと笑って、二人分のお弁当を、鞄に戻した。

笑っているのに、胸の奥が、すうっと冷たくなっていた。

 

《……悪いことをしたな。でも、今日は、本当にあまり口に入れられなくて》

 

◇

その日の夕方。莉波は、お茶の入った魔法瓶を持って、もう一度、プロデューサー室を訪ねた。

ノックしようとした手が、止まった。

部屋の中から、プロデューサーくんの声が聞こえたのだ。

電話をしているらしい。

厚い扉のせいかところどころ、途切れて聞こえた。

 

「……はい。診てもらいました。……ええ」

 

莉波の指が、ぴくりと動いた。

 

「……中身が、……だいぶ、ぼろぼろだそうで。……ずっと、無理させてきたので」

 

「……ええ。……このままだと、半年も、……持たないって」

 

莉波の手から、魔法瓶が滑り落ちそうになった。

慌てて、両手で抱え直した。

 

「……はい。……手術、受けることにしました。……全身麻酔、だそうです。……予約が、いっぱいで。……半年後」

 

「……付き添いの人が、必要なんですけど。……頼める人、いるかな」

 

「……いい年して恥ずかしいですが、ちょっと怖くて」

 

《……廊下で、何かを落としかけたような音がした》

 

莉波は、魔法瓶を胸に抱えたまま、そっと扉から離れた。

廊下の窓に、自分の顔が映っていた。泣きそうな顔だった。

 

(……お姉さんは、泣かないの)

 

莉波は、ぎゅっと唇を噛んで、窓に映った自分に言い聞かせた。

 

(……聞いちゃった。でも、プロデューサーくんの口から、ちゃんと聞きたい)

 

(隠されるのは、いや。……お姉さんには、先に言ってほしい)

 

(付き添い。……お姉さんが、行く)

 

◇

翌日。

莉波は、プロデューサー室の扉を、今度は、ちゃんとノックして開けた。

 

「プロデューサーくん、ごめん。昨日の電話、聞いちゃった」

 

「え?」

 

「隠し事は、しないでほしいの。……つらいことはお姉さんには、先に言って」

 

莉波は、まっすぐに、プロデューサーくんを見つめた。

プロデューサーくんは、少しだけ目を丸くして、それから、ふっと笑った。

 

「……聞こえてましたか。莉波さんには、敵いませんね」

 

《まだ話してなかったな。心配させたくなくて、黙ってたけど。……お姉さんには、お見通しか》

 

「実は、近々、手術を受けることになりました。半年後です」

 

莉波の呼吸が、止まった。

 

「……そっか。……それって、大丈夫、なの?」

 

「正直少し怖いですが...いや、すみません、お恥ずかしい。大丈夫です」

 

プロデューサーくんは、明るく言った。

いつもより、少しだけ、声が大きかった。

 

「……うん。治るよね」

 

莉波は、にこりと笑った。

 

(……空元気、だ)

 

(大丈夫って、言ってくれた。……でも、本当の話は、全部は、言えないんだね)

 

(優しいけど。……ちょっと、寂しいな)

 

「ちゃんと、話してくれて、ありがとう」

 

「いえ。莉波さんには、先に話しておきたかったので」

 

(……先に、わたしに。……それでも、全部は言ってくれないんだね)

 

莉波の胸が、ぎゅっと熱くなった。

嬉しいのと、寂しいのが、一緒になって。

 

「付き添い、お姉さんがやるよ。手術の日、ずっと、そばにいる」

 

「いいんですか? 助かります。...一人じゃ、帰れないので」

 

(全身麻酔初めてだしなぁ……一人じゃ、帰れないじゃないかな……多分?)

 

(……それほど、大きな手術なんだ)

 

◇

数日後。

莉波は、手作りのお弁当を持って、プロデューサー室に現れた。

 

「プロデューサーくん、お昼まだでしょ? お姉さんが作ってきたよ」

 

「莉波さん。ありがとうございます」

 

プロデューサーくんは、弁当箱を開けて、少しだけ目を丸くした。

 

「……すごく、おいしそうですね!」

 

「うん。……体、大事にしないとね」

 

莉波は、にこにこと笑った。

笑っていないと、泣いてしまいそうだった。

 

「……あ。これ、すごく食べやすい。本当に助かります」

 

プロデューサーくんは、夢中でお弁当を食べながら、ぽつりとつぶやいた。

 

「……お昼ごはん、久しぶりに、ちゃんと食べた気がします」

 

「久しぶり?」

 

「あ、いえ。最近、ちょっと、節約してて」

 

《あちこち見に行きすぎて、財布が軽い。……担当の莉波さんには、言いづらい》

 

(……もしかして、治療費……?)

 

莉波は、ノートの端に、小さく書き足した。『お金・心配』

◇

その日から、莉波は、毎日プロデューサー室に通った。

掃除をした。

書類を整理した。

お茶を淹れた。

そして、鞄から、小さなノートを取り出した。

 

『プロデューサーくん 体調ノート』

食事。睡眠。顔色。機嫌。

 

(……今日は、食べた量、昨日より少し多い)

 

(……でも、頬が、ちょっと腫れてる)

 

「莉波さん、それ、何を書いてるんですか」

 

「ふふっ、気にしないで。お姉さんの嗜みだから」

 

「そ、そうですか」

 

(頬の腫れ……)

 

(……もしかして、リンパ……)

 

莉波は、ノートの端に、小さく書いた。『病院・調べる』

 

(調べちゃだめ。……でも、調べないと)

 

莉波は、スマートフォンの画面を、何度も開いては、閉じた。

 

「プロデューサーくん、ちゃんと寝てる? 目の下、隈ができてるよ」

 

「夜になると、ちょっと、疼いて。その間に、いろいろ調べたり、準備したりしてて」

 

「……疼く。夜に」

 

(夜に、痛むんだ……)

 

「入院の準備なら、お姉さんが手伝ってあげる。パジャマとか、歯ブラシとか、全部揃えてあげるからね」

 

「歯ブラシ……ですか。助かります。柔らかいのが、いいので」

 

(……口の中まで、ひどいの……?)

 

《莉波さん、歯ブラシまで気が回るの、さすがだ》

 

◇

週末、莉波は、プロデューサーくんを誘って、二人の地元に帰った。

小さい頃に、二人でよく遊んだ公園。ブランコは、昔より錆びていた。

 

「懐かしいね。プロデューサーくん、ここでよく転んで泣いてたよね」

 

「莉波さんが、いつも手当てしてくれました」

 

「そうだよ。お姉さんだもん」

 

帰り道。

夕焼けの中を、二人で並んで歩いた。

 

「プロデューサーくん。昔のこと、覚えてる?」

 

「全部、覚えてますよ。最近、ずっと昔のことを思い出しながら、準備してたので」

 

莉波の足が、止まった。

 

「正直...少し怖くて。何かで気を紛らわせたくて」

 

《……莉波さん、なんで袖を掴んでるんだろう。昔の癖かな》

 

莉波は、何も言えなかった。

ただ、プロデューサーくんの袖を、そっと掴んだ。

小さい頃、迷子になりそうなプロデューサーくんの手を、いつも引いていたように。

 

(半年ある。半年あれば、まだ、いっぱいお姉さんでいてあげられる)

 

◇

その夜。

莉波は、プロデューサーくんに、電話をかけた。

 

(痛み、大丈夫かな)

 

呼び出し音が、鳴り続ける。

 

出ない。

 

(……もう一回)

 

出ない。

 

(……三回目)

 

出ない。

莉波は、スマートフォンを握りしめて、じっと画面を見つめた。

 

(……寝ちゃったのかな? ……それとも)

 

普段なら何のこともない。

時間も時間だ。疲れて寝てしまったかもしれない。

ただ、直近の出来事が莉波の不安を煽った。

 

(……夜に、痛んで……)

 

(……検査? ……救急……?)

 

胸の奥が、ざわざわと波立った。

翌朝。

莉波は、プロデューサー室に、駆け込んだ。

 

「プロデューサーくん! 昨日の夜、電話したのに、出なかったでしょ!」

 

「え? ……あ、すみません。ちょっと、出かけてて。電波が、悪い場所にいて」

 

「どこに」

 

「え、えっと。……いろいろ、です」

 

《他アイドルのライブに偵察で行っていた。……とは絶対に莉波さんには、言えない》

 

(いろいろ。……電波が、悪い場所。……病院の、奥の……)

 

(……検査室、とか)

 

莉波は、ノートに、小さく書き足した。『病院頻度上昇』

 

◇

ある日の放課後。プロデューサーくんが、ふらふらと、部屋に戻ってきた。

顔色が、真っ青だった。

 

「プロデューサーくん!?」

 

「あ、莉波さん。……ちょっと、座ります」

 

椅子に倒れ込むように座った、その腕の内側には、小さな絆創膏が貼ってあった。

 

「……どうしたの、それ」

 

「ちょっと、血を抜いてきて」

 

莉波の頭が、真っ白になった。

 

「ち、血を……抜く……!?」

 

「はい。朝から、何も食べてなかったので、ちょっと、クラクラしますけど」

 

プロデューサーくんは、鞄から、小さな紙袋を取り出して、中のクッキーとジュースを、夢中で食べ始めた。

 

《空腹で行ったのは、失敗だった。……献血をおやつ目当て、なんて、言えない》

 

そのとき、鞄の口から、一枚の紙が、ひらりと落ちた。

莉波は、それを拾い上げた。

 

『領収書 夜行バス 往復 一万二千円』

 

(……夜行バス。……往復)

 

(……遠くの病院に、通ってる……?)

 

「あ、それは、ちょっと」

 

プロデューサーくんは、慌てて、紙を受け取って、鞄に押し込んだ。

 

「遠出してて。……いろいろ、あって」

 

(いろいろ。……また、いろいろ)

 

(……ふらふら。……顔、真っ青)

 

(……血を抜いて、何かをもらって……いま、必死に、食べてる)

 

(……そんなに、体力が……)

 

莉波は、震える手で、魔法瓶からお茶を注いだ。

 

「……飲んで。……ゆっくり。……お姉さんが、ついてるから」

 

「ありがとうございます。……あ、このお菓子、莉波さんも、よかったら」

 

「……ううん。それは、プロデューサーくんの。……ちゃんと、食べて」

 

(病院でもらった、栄養のあるもの……)

 

(……お金も、体も……)

 

莉波は、ノートに、震える字で、書き足した。

『お金・体・心配』

◇

三か月が経った頃だった。

その日、莉波は、プロデューサー室で、一枚の書類を前に、ペンを持ったまま唸っているプロデューサーくんを見つけた。

 

「どうしたの、プロデューサーくん」

 

「あ、莉波さん。実は、ここの書き方が、わからなくて」

 

莉波は、書類をのぞき込んだ。

 

『全身麻酔下での手術に関する、説明と同意書』

 

大きな文字が、目に飛び込んできた。

 

(……全身麻酔、同意書)

 

『全身麻酔には、ごくまれに、重篤な合併症が起こる可能性があります』

 

(……重篤な、合併症)

 

『万が一の事態が生じた場合、保証人様に、ご連絡いたします。保証人様は、ご家族、またはそれに準ずる方に限ります』

 

(万が一って……)

 

莉波の頭の中に、勝手に、光景が浮かんだ。

長い廊下。

白い布。

プロデューサーの名前を、呼ぶ声。

 

わかっていたつもりだった。

元気な姿で、帰ってこないかもしれない事実。

だが、文面で淡々と記載された文面をみてより自覚させられる。

莉波の指先が、冷たくなった。

 

「……保証人」

 

「はい。お願いできる人が、莉波さんしか、思い浮かばなくて」

 

プロデューサーくんは、少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「普通家族にするのですが、実家だとちょっと遠くて...連絡が行くのが、莉波さんでも……いいですか?」

 

(万が一のとき。……手術が、うまくいかなかったときに、わたしに)

 

莉波は、しばらく、何も言えなかった。

目の奥が、じわりと熱くなった。

 

(……だめ。まだ、だめ)

 

プロデューサーくんの前で、泣くわけにはいかない。

お姉さんは、泣かないのだ。

莉波は、瞬きを、ぐっと我慢した。

 

それから、ぎゅっと魔法瓶を握りしめて、笑った。

 

「……いいよ。お姉さんに、任せて」

 

莉波は、ペンを受け取った。手が、小刻みに震えていた。

署名欄に、自分の名前を書く。

その下に、『続柄』の欄があった。

 

(……続柄)

 

(わたし、プロデューサーくんの、何なんだろう)

 

莉波は、少しだけ迷ってから、『姉』と書いた。

 

「ありがとうございます。これで、書類は、全部です」

 

「……うん。よかった」

 

莉波は、にこりと笑った。

 

(これで、プロデューサーくんが、もしも、いなくなったとき)

 

(一番に、連絡が来るのは、わたし)

 

そのとき、プロデューサーくんが、思い出したように、付け加えた。

 

「あと、手術の当日は、病院の待合室で、待っててもらえますか。……麻酔に入る前の、最後に顔を見るのが、莉波さんだと、安心するので」

 

「……っ」

 

莉波の喉が、ひくりと鳴った。

 

「……うん。もちろん。ずっと、そばにいるから」

 

「ありがとうございます。心強いです」

 

莉波の視界が、一気に、にじんだ。

 

(……だめ。いま、泣いたら。一番不安なのはプロデューサーくんなんだから)

 

莉波は、にこりと笑って、首を横に振った。

 

「……大げさだよ。そんなこと、言わないで」

 

声が、ほんの少しだけ、震えた。

 

(……麻酔の、前。……最後に、顔を)

 

(……もし、目が覚めなかったら)

 

莉波の頭が、真っ白になった。

 

◇

その夜、莉波は、寮の部屋で、編みかけの膝掛けに、顔をうずめた。

声を殺して、少しだけ、泣いた。

 

(お姉さんは、泣かない。……明日になったら、ちゃんと、笑えるから)

 

(でも、もし、いなくなったら)

 

想像もしたくない想像に、涙は止まらなかった。

 

◇

それから、プロデューサーくんは、たびたび、莉波を外に誘うようになった。

 

水族館。

遊園地。

商店街の小さな喫茶店。

 

「莉波さん、今日は、行きたいところ、ありますか」

 

「え?」

 

「なんでも、付き合います。……最近、あまり、一緒に出かけられていなかったので」

《偵察ばっかりで、担当の莉波さんを、放ったらかしにしてた気がして。……せめて、埋め合わせを》

 

(……プロデューサーくんから、誘ってくれるなんて久しぶり)

 

(……嬉しい。……けど、つらいよ)

 

水族館は、休日の人混みで、ごった返していた。

 

「プロデューサーくん、ほら、こっち。迷子になるよ」

 

莉波は、プロデューサーくんの袖を、ぎゅっと引いた。

小さい頃から、変わらない癖だった。

 

(……この袖を、引けるのも、あと、どのくらいだろう)

 

大きな水槽の前で、プロデューサーくんは、スマートフォンを構えた。

 

「莉波さん、そこに立ってもらって、いいですか。……撮りたくて」

 

「え、わたし?」

 

「はい。たくさん、撮ってもいいですか。……残しておきたくて」

 

(……残しておきたい)

 

カシャ。カシャ。カシャ。

 

水槽の前で。

クラゲの前で。

ベンチで。

アイスを食べている途中の、莉波を。

何枚も、何枚も、撮った。

 

《最近の表情を、ちゃんと残しておかないと。プロデュースの記録として》

 

その日、プロデューサーくんが撮った写真は、百二十三枚。

莉波は、その枚数を、ずっと数えていた。

 

(……こんなに。……これ、全部、最後の……)

 

お昼は、水族館の、小さなレストランだった。

会計のとき、プロデューサーくんは、財布を開いて、小銭を数えていた。

 

(……足りない)

 

プロデューサーくんの耳が、赤くなった。

 

「あ、あの、莉波さん。すみません、ちょっと、足りなくて」

 

「……いいよ。お姉さんが、出すから」

 

莉波は、にこりと笑って、自分の財布を出した。

 

(まったく……治療費でかつかつなのに……無理しちゃって)

 

「面目ない……あとで、返します」

 

「……ううん、いいよ。お姉さんらしいことさせて。...でも返してほしいな...いつまでかかってもいい...必ずだよ」

 

「も、もちろんです」

 

プロデューサーくんの目が泳ぐ。

ばつが悪そうに苦笑いするプロデューサー君。

 

「ちょっと...お時間いただくかもですが」

《次の給料日まで結構あるんだよな...できるだけ早く返したいが》

 

「...うん。待ってるから」

 

本心だった。

生きていてほしい。

返してくれる日が来ないかもしれないことは自分が一番わかっていたのに。

 

(...意地悪な姉でごめんね)

 

午後。

莉波は、鞄から、自分のスマートフォンを取り出した。

 

「……わたしも、撮りたい」

 

「莉波さんが、ですか」

 

「うん。プロデューサーくん、そこ、立って。……笑って」

 

カシャ。

 

画面の中の、プロデューサーくんは、いつもの、少し困った顔で笑っていた。

 

(……この顔、ずっと、覚えておきたい)

 

カシャ。カシャ。

 

「……二人でも、撮ろ?」

 

莉波は、プロデューサーくんの隣に並んで、スマートフォンを、腕を伸ばして構えた。

 

「はい、チーズ」

 

画面の中の莉波は、笑っていなかった。口の端が、引きつっていた。

 

「……もう一回」

 

カシャ。

目が、赤かった。

 

「……もう一回」

 

カシャ。

笑おうとするほど、口元が、震えた。

 

「……もう一回」

 

「莉波さん、緊張してます?」

 

「……してない」

 

「いつも通りで、いいですよ。いつも通りの、莉波さんで」

 

(……いつも通りの、わたしで)

 

莉波は、深呼吸をして、もう一度、画面を見つめた。

 

「はい、チーズ」

 

画面の中の、プロデューサーくんは、自然に笑っていた。

莉波は、笑おうとして、笑えなくて、半分だけ、泣き笑いの顔をしていた。

 

「……変な顔」

 

「いい顔ですよ」

 

「……うん。ありがとう」

 

莉波は、その写真を、そっと胸に当てるように、スマートフォンを抱きしめた。

 

(……この写真は、ずっと、とっておこう)

 

(……上手に、笑えなかったけど。……これが、いまの、わたしだから)

 

(……お姉さんは、泣かない。……最後まで、笑ってるから)

 

◇

それから、二か月が過ぎた。

手術の、前日。

莉波は、紙袋を抱えて、プロデューサー室に入った。

 

「プロデューサーくん。入院の準備、持ってきたよ」

 

紙袋の中には、ふかふかのパジャマと、やわらかめの歯ブラシと、氷嚢と、小さなクッションと、手編みの膝掛けが入っていた。

 

「……莉波さん、これ、全部」

 

「うん。病院で、寂しくないように。膝掛けは、お姉さんが編んだんだよ」

 

「ありがとうございます。……氷嚢まで。莉波さんは、何でもお見通しですね」

 

「……うん。わかった。また今度、ね」

 

いつもの、お姉さんの声だった。

プロデューサーくんは、紙袋を抱えたまま、ふっと息をついた。

 

「……莉波さん。この数か月、本当に、ありがとうございました」

 

「え?」

 

「お弁当も、入院の準備も。保証人まで、引き受けてくれて。……手術のことで、こんなにお世話になるなんて、思ってなかったです」

 

莉波は、首を横に振った。

 

「いいよ。……君が今までしてくれたことに比べたら、全然、大したことないもん」

 

「そんなことないです」

 

「ううん、まだ全然返せてないよ。...それに貸し借り抜きでもわたしは、お姉ちゃんだもん。これくらいさせて」

 

莉波は、胸を張って見せた。いつもの、お姉さんの顔だった。

プロデューサーくんは、少しだけ、照れくさそうに笑った。

 

「……実は、小さい頃から、ひとつだけ、夢があったんです」

 

「夢?」

 

「お姉さんに、献身的に、看病されてみたい、って」

 

莉波の笑顔が、一瞬だけ、固まった。

 

「僕、一人っ子なので。莉波さんが、お姉さんみたいだったから。風邪をひいたとき、おかゆを作ってもらって、おでこに冷たいタオルを乗せてもらって。そういうのに、憧れてたんです」

 

「……そう、なんだ」

 

「今回、それが、全部、叶いました。……ははっ大げさですね」

 

 

プロデューサーくんは、嬉しそうに言った。

 

(……夢が、叶った)

 

(……その夢を、最後に、叶えてあげられた)

 

莉波は、にこりと笑った。いつもの、お姉さんの顔で。

 

「……よかったね」

 

「はい」

 

「……でもね、プロデューサーくん」

 

莉波は、ぽつりと、言った。

 

「わたし、まだ、してあげたいこと、いっぱいあるんだよ」

 

「え?」

 

「来年の夏祭りも、一緒に行きたいし。……新しい衣装も、見せたい。……プロデューサーくんの好きなプリンも、もっと上手に、作れるようになりたい」

 

声が、少しずつ、小さくなっていた。

 

「……ステージの袖で、見ててほしい。……ライブが終わったら、いちばんに」

 

「……わたしの、ステージ。……見て、ほしかった」

 

覚悟していたはずなのに。

笑顔で、送り出すと決めていたはずなのに。

一言話すたびに、胸がきしんだ。

 

「……ごめん。……あれ」

 

莉波は、手で口元を押さえた。

 

「……笑って……言うつもり、だったのに」

 

ぽろり、と、涙がこぼれた。

一粒落ちると、あとは、止められなかった。

 

頬を、ぽろぽろと、涙が伝っていく。

手の甲で拭っても、拭っても、追いつかない。

笑おうとした

口の端を、持ち上げようとした。

でも、唇は、震えるだけで、言うことを聞かなかった。

窓の外では、夕焼けが、部屋を、オレンジ色に染めていた。

時計の秒針の音だけが、やけに、大きく響いていた。

莉波は、息を吸おうとして、うまく吸えなかった。

 

「……っ、……は……」

 

ひく、と肩が揺れた。

小さい頃から、泣いているプロデューサーくんの手を、引いてきた。

大丈夫だよ、お姉さんがいるよ、と言ってきた。

泣くのは、いつも、プロデューサーくんの役目で。

お姉さんは、泣かない。

 

そう、決めていたのに。

 

(……こんなときに、限って)

 

(……ちゃんと、笑って、言いたかったのに)

 

涙が、膝掛けの上に、ぽたり、ぽたりと落ちた。

プロデューサーくんは、何も言えずに、ただ、立ち尽くしていた。

 

「……ごめんね。……お姉さん、失格、だね」

 

莉波は、その場にしゃがみ込んだ。

膝掛けを抱えたまま、顔をうずめた。

それから、莉波は、何も言えなくなった。

肩だけが、小さく震えていた。

 

「面倒見るのは……ずっと、わたしだったのに……。最後まで……お姉さんで、いたいよ……」

 

莉波は、顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔だった。

 

「ごめん、...ね、今日は...お姉ちゃん....できそうに...ないや」

 

莉波は、声を上げて泣いた。

お姉さんでいるのをやめて、小さな子供みたいに泣いた。

 

「莉波さん、落ち着いてください!」

 

「……落ち着いて、いられないよ……!」

 

「何を言ってるんですか。僕が、何ですって?」

 

「プロデューサーくんが、死んじゃうんでしょ……」

 

プロデューサーくんは、目を見開いた。それから、拳を、ぎゅっと握りしめた。

 

「死にません。……絶対に、死にません」

 

莉波の泣き声が、ぴたりと止まった。

 

「……え?」

 

「僕は、健康です。この前の健康診断も、全部A判定でした。死ぬ予定は、ありません」

 

「……え、え?」

 

 

プロデューサーくんは、莉波の目の高さに、そっと視線を合わせた。

 

「……莉波さん。まず、深呼吸しましょう」

 

「……うん」

 

「ゆっくり、吸って。……吐いて」

 

莉波は、言われるままに、深く息を吸った。

吐いた。もう一度。

プロデューサーくんは、机の上のお茶を、紙コップに注いで差し出した。

 

「飲んでください。……僕は、ここにいますから」

 

莉波は、両手でコップを包んで、こくりと飲んだ。温かかった。

 

「……ごめん。……取り乱して」

 

「謝らないでください。……僕の説明が、足りなかったんです」

 

プロデューサーくんは、穏やかに、続けた。

 

「莉波さんが、そこまで思い詰めるくらい、僕のことを、心配してくれていた。……それは、すごく、ありがたいことです」

「だから、今度は、僕の番です。ちゃんと、順番に、話しますね」

 

「莉波さん。……どうして、そう思ったのか、ゆっくり、聞かせてください」

 

莉波は、紙コップを両手で包んだまま、ぽつり、ぽつりと話した。

 

「……この部屋で、電話してたでしょ……? 病院の先生に診てもらって、中身がもうぼろぼろで、半年も持たないって……。同意書の保証人にって……万が一のとき、連絡が行くのがわたしって……最後に顔を見るのが、わたしだと安心するって……」

 

プロデューサーくんは、しばらく考え込んだ。

それから、ああ、という顔をして、鞄から、一枚の写真を取り出した。

白と黒の、歯の写真だった。

奥のほうに、横向きに埋まった一本が、赤い丸で囲まれていた。

 

「……それ、この歯の話です」

 

莉波は、ぽかんと口を開けた。

 

「……え?」

 

「親知らずです。横向きに埋まってて、虫歯になって、中身がもうぼろぼろで。このままだと半年も持たないって言われて。……抜くことにしたんです」

 

「ぬ、抜く……?」

 

「はい。大学病院の口腔外科で。横向きに埋まってると、普通の歯医者さんじゃ抜けなくて。全身麻酔の手術になって、予約が半年待ちだったんです」

 

「……病院の、先生って」

 

「歯の、先生です」

 

「手術って……」

 

「歯茎を切って、骨を少し削って、歯を割って、取り出すんです」

 

「……プロデューサーくん、手術のこと、ちゃんと話してくれたのに……」

 

「はい。歯の手術のことを、ちゃんと話しました」

 

「じゃ、じゃあ同意書ってまさか」

 

「全身麻酔の同意書です。万が一のとき、連絡が行く人が必要で。……麻酔は、ごくまれに、リスクがあるって説明されたので」

 

「……頬が腫れてたのは」

 

「虫歯のせいです。夜になると、疼いて」

 

 

「……ま、待ってじゃあ金欠の理由はなに?治療費じゃ...」

 

「その...言いづらくて黙ってたのですが、最近、あちこちのライブに通ってて。他の事務所や、他の学園の、新人アイドルを偵察しに。チケット代と、交通費で、財布が軽くなって」

 

「……偵察?」

 

「はい。莉波さんの、これからの参考になればと」

 

「……最近、お出かけに誘ってくれたのも……」

 

「偵察ばかりで、莉波さんを放ったらかしにしてた気がして。お詫びのつもりでした」

 

「……わたし完全にそうだと思って...笑って写真を...。……笑えなかったけど」

 

「あの写真、僕も、気に入ってます。莉波さんの、泣き笑い。……莉波さんらしいので」

 

「……ばか」

 

「……最後の思い出に、って、思ってた」

 

「最後?」

 

「……ううん。何でもない」

 

莉波は、ぐっと唇を噛んだ。

それから、プロデューサーくんの鼻先に、人差し指を突きつけた。

 

「お金がないなら、お姉さんに言いなさいって、いつも言ってるでしょ!」

 

「……はい。反省してます」

 

「……でも」

 

莉波の声が、少しだけ、やわらかくなった。

 

「わたしのために、そんなに、見に行ってくれてたんだ」

 

「……莉波さんは、生涯かけて支えるうちの大事な担当なので」

 

莉波の顔が、みるみる真っ赤になっていった。

耳の先まで、首の付け根まで、真っ赤になった。

 

「~~~~~~っ!!」

 

莉波は、膝掛けで顔を隠した。

デリカシーのないプロデューサーが追い打ちをかける。

 

「膝掛け、すごく上手でした」

 

「言わないで……! それに、主語……! 歯なら歯って、手術なら歯の手術って……!」

 

「言ってなかったですか」

 

「言ってないよ……! 一回も……!」

 

莉波は、膝掛けの陰で、しばらく唸っていた。

それから、膝掛けを少しだけ下げて、目だけを出した。

 

「……ほんとに、ほんとに、大丈夫なの」

 

「はい。……心配かけて、すみませんでした」

 

プロデューサーくんは、スマートフォンを取り出して、一枚の写真を見せた。

 

「僕、これ、ずっと持ち歩いてるんです」

 

画面には、古い写真が映っていた。

小さな男の子と、小さな女の子が、並んで、わんわん泣いていた。

 

「……これ」

 

「僕が、ブランコで転んで泣いて。莉波さんが、手当てしながら、一緒に泣いてて。莉波さんのお母さんが、撮ってくれたんです」

 

莉波は、写真の中の、泣いている小さな自分を見つめた。

 

「……お姉さんでも、泣いてたんだ。昔から」

 

「はい。だから、さっき泣いても、驚かなかったです。昔から、知ってるので」

 

莉波は、ふふっと笑った。泣き笑いだった。

 

「莉波さんは、お姉さんじゃなくても、ここにいていいです」

 

「……え」

 

「でも、お姉さんの莉波さんに、いつも助けてもらってます。……明日も、よろしくお願いします」

 

莉波は、ぐっと涙を拭った。

 

「……うん。任せて。お姉さんだもん」

 

◇

手術の日。

莉波は、病院の待合室で、魔法瓶と小さな保冷バッグを抱えて、座っていた。

 

(……大丈夫。歯。歯の手術。親知らず)

 

何度も、自分に言い聞かせていた。

 

(でも、全身麻酔は、全身麻酔……)

 

数時間後。看護師さんが、にこやかに声をかけた。

 

「姫崎さん。手術は、無事に終わりましたよ」

 

「……よかったぁ……っ」

 

莉波は、その場で、へなへなと座り込んだ。

病室のベッドで、プロデューサーくんは、片頬を氷嚢で冷やしながらぼんやりと目を開けた。

 

「……莉波さん」

 

「プロデューサーくん! 痛い? 水飲む? お粥は? プリンは?」

 

「……ふふ。莉波さんの顔、最初に見えました」

 

「当たり前でしょ。お姉さんだもん」

 

「……あの、これ」

 

プロデューサーくんは、小さな容器を、枕元から取り出した。

中には、一本の、大きな歯が入っていた。

 

「抜いた歯です。持って帰っていいって言われて」

 

「……それ、どうするの?」

 

「取っておきます。ずっと一緒だったので」

 

「……ちょっと、気持ち悪いよ?」

 

「え」

 

莉波は、ふふっと笑った。泣き笑いだった。

 

◇

手術が終わった。

プロデューサーの親知らずは、無事に抜かれた。

あれほど恐れていた出来事は、終わってみれば拍子抜けするほどあっけないものだった。

けれど、姫崎莉波にとっては、決して簡単に忘れられる出来事ではなかった。

 

半年後にはいなくなってしまうかもしれない。

そう思い込んでいた日々。

 

何気ない会話も、一緒に過ごす時間も、いつか失われてしまうかもしれないと思うと、ひどく愛おしかった。

だからこそ、手術が終わった今、莉波の中には一つの気持ちが残っていた。

 

もう、我慢したくない。

好きな人には、好きだと伝えたい。

そばにいたいときには、そばにいたいと言いたい。

甘えたいときには、遠慮せずに甘えたい。

今まで自分が誰かにしてあげていたことを、今度は自分もしてもらいたい。

そんな気持ちを、莉波は少しずつ隠さなくなっていった。

 

◇

「プロデューサーくん、おはよ」

 

朝の事務室。

いつものように出勤してきたプロデューサーを、莉波が笑顔で迎える。

 

「おはようございます、莉波さん。今日もよろしくお願いします」

 

「はい。今日も一日頑張りましょうね」

 

いつもと変わらない挨拶。

 

けれど、彼が荷物を置き終えた瞬間、莉波はそっと近づいた。

 

「……ねえ」

 

「はい?」

 

「ぎゅー、して?」

 

両手を広げて、彼を見上げる。

 

その表情は、普段の余裕のあるお姉さんとは少し違っていた。

 

「朝からですか?」

 

「うん。朝だからだよ」

 

彼が腕を広げると、莉波は嬉しそうに胸元へ飛び込んだ。

 

「えへへ……」

 

背中に両腕を回し、頬をすり寄せる。

 

「今日も会えたね」

 

「毎日会っていますよ」

 

「それでも嬉しいの」

 

莉波は彼の服をきゅっと握った。

 

「だって、今日もあなたがここにいるんだもの」

 

「いますよ。大丈夫です」

 

「……うん」

 

彼の胸に顔を埋めたまま、莉波は小さく頷いた。

 

「もうちょっとだけ、このまま」

 

「いいですよ」

 

「あと一分」

 

「わかりました」

 

「……やっぱり、二分」

 

彼は苦笑しながら、莉波の背中を優しく撫でた。

それだけで、彼女の表情は幸せそうに緩んでいく。

以前の莉波なら、こんなふうに甘えることはなかった。

誰かに甘えられることはあっても、自分から抱きついて、離れたくないと伝えることはなかった。

 

けれど、今は違う。

彼の前では、そんなことを気にする必要がなくなっていた。

 

◇

昼休み

 

「プロデューサー、ちょっと相談したいことがあるんだけど、今いい?」

 

事務室にやってきた麻央が、手に持っていた資料を差し出した。

 

「もちろんです。どうしたんでしょうか?」

 

「次のレッスンのことでね。自分ではうまくできているつもりなんだけど、どうしても納得できないところがあって……」

 

「なるほど。資料をみせていただいても」

 

プロデューサーは資料を受け取り、麻央の話に耳を傾ける。

麻央が説明する間、彼は何度も頷きながら、具体的な改善案を考えていた。

 

「ここは悪くないと思います。ただ、麻央さんの魅力をもっと出すなら、少し見せ方を変えてみてもいいかもしれません」

 

「見せ方?」

 

「麻央さんは普段、堂々としています。だからこそ、あえて少しだけ表情を柔らかくするところを作ると印象に残ると思います」

 

「ああ、なるほど……!」

 

麻央の表情が明るくなる。

 

「ありがとう、プロデューサー。やっぱり相談してよかった!」

 

「役に立てたならよかったです」

 

「うん。これなら頑張れそう!」

 

麻央は嬉しそうに笑い、資料を抱えて事務室を出ていった。

その様子を、少し離れた場所から莉波が眺めていた。

 

「ふふ。麻央ちゃん、すっかり元気になったわね」

 

「そうですね。相談してくれてよかったです」

 

「プロデューサーさん、頼りにされているわね」

 

「そんなことないですよ。話を聞いただけです」

 

「もう。謙遜しなくてもいいのに」

 

莉波はいつものように微笑んだ。

 

けれど、彼が麻央に向けていた優しい表情を思い出すと、胸の奥が少しだけむずむずした。

 

(……いいなあ)

 

麻央ちゃんは、あんなふうに自然にあなたを頼れるのね。

困ったことがあれば、すぐに相談して。

真剣に話を聞いてもらって。

最後には、あんなに嬉しそうに笑って。

 

(私も、あんなふうに構ってほしいな)

 

もちろん、麻央は大切な友人だ。

彼女がプロデューサーを頼りにすることも、二人が仲良く話していることも、嫌ではない。

 

ただ、少しだけ羨ましかった。

自分だって、本当はもっと甘えたい。

もっと話を聞いてほしいし、もっと褒めてほしい。

何より、彼の優しい視線を独り占めしたい。

 

「莉波さん?」

 

「……えっ?」

 

「どうかしましたか?」

 

気づけば、プロデューサーがこちらを見ていた。

 

「ううん。なんでもないわ」

 

莉波は笑顔を作る。

 

それから、彼の隣にそっと近づいた。

 

「ねえ、プロデューサーさん」

 

「はい?」

 

「私の話も聞いてくれる?」

 

「もちろんですよ」

 

「ふふ。じゃあ、こっちに来て?」

 

彼の袖をつまみ、人のいない廊下へと連れ出す。

そして、周囲に誰もいないことを確かめると、莉波は両手を広げた。

 

「……ぎゅーして?」

 

「それが相談ですか?」

 

「うん。私にとっては大事な相談よ」

 

彼が抱きしめると、莉波は嬉しそうに胸元へ顔を埋めた。

 

「えへへ……」

 

「何か寂しいことでもありましたか?」

 

「ちょっとだけ」

 

莉波は彼の背中に腕を回す。

 

「麻央ちゃんがあなたに相談しているのを見ていたら、私も構ってほしくなっちゃったの」

 

「莉波さんも、いつでも相談していいんですよ」

 

「そうじゃないの」

 

彼女は顔を上げる。

 

「相談がなくても、構ってほしいの」

 

少しだけ頬を膨らませる。

 

「あなたに甘えたいだけなの。だめ?」

 

「だめなわけないでしょう」

 

「……えへへ。よかった」

 

莉波は再び彼の胸に顔を埋めた。

 

「ねえ、今日は私のことをいっぱい甘やかしてね?」

 

「わかりました」

 

「麻央ちゃんにしていたみたいに、優しくお話を聞いて?」

 

「もちろん」

 

「それから、いっぱい褒めて?」

 

「はい」

 

「最後に、もう一回ぎゅーして?」

 

「何回でもしますよ」

 

「ふふ。大好き」

 

莉波は彼の服をぎゅっと握った。

 

(……今日は、私が一番ね)

 

そんな小さな独占欲を胸にしまいながら、彼の腕の中で幸せそうに目を閉じた。

 

◇

それから数日。

 

莉波の甘え方は、少しずつ大胆になっていった。

朝は必ず抱きしめてもらう。

仕事の合間には、彼の隣に座って肩を寄せる。

昼食のときには、彼が食べているものを一口欲しがり、反対に自分のお弁当も食べさせようとする。

 

「プロデューサーくん、あーん」

 

「自分で食べられますよ」

 

「知ってるわ。でも、食べさせてあげたいの」

 

「では、いただきます」

 

「ふふ。おいしい?」

 

「おいしいです」

 

「よかった」

 

そんなやり取りを、毎日のように繰り返す。

そして、仕事が終われば、帰り道は必ず手を繋ぐ。

指を絡め、彼の腕に寄りかかりながら歩く。

 

「今日は、もう帰っちゃうの?」

 

「はい。明日もありますから」

 

「……もう少し一緒にいたいな」

 

「明日も会えますよ」

 

「今日も一緒にいたいの」

 

莉波は繋いだ手を両手で包み込む。

 

「ねえ、もう少しだけ歩きましょう?」

 

「わかりました」

 

「ありがとう」

 

彼が歩調を合わせると、莉波は嬉しそうに笑った。

以前なら、こんなわがままは言わなかった。

相手の都合を考えて、自分の気持ちは後回しにしていた。

 

けれど、今は違う。

彼にだけは、自分の気持ちを優先してほしかった。

 

◇

ある日のレッスン終わり。

 

「プロデューサー、ちょっといい?」

 

麻央がプロデューサーに声をかけた。

 

「どうしました、麻央さん?」

 

「次のステージのことで相談があるんだけど、この演出についてどう思う?」

 

麻央が資料を差し出す。

 

プロデューサーは真剣に目を通し、いくつかの改善点を伝えた。

 

「なるほど。ここを少し変えると、麻央さんの魅力がもっと伝わると思います」

 

「本当? ありがとう!」

 

「麻央さんなら、きっといいステージにできますよ」

 

「えへへ。プロデューサーにそう言ってもらえると自信がつくな」

 

少し離れたところで、莉波はその様子を見ていた。

 

「ふふ。麻央ちゃん、よかったわね」

 

「莉波もそう思う?」

 

「ええ。プロデューサーさんは頼りになるものね」

 

いつも通りの笑顔。

けれど、麻央が去っていくと、莉波は静かにプロデューサーの隣へやってきた。

 

「……プロデューサーさん」

 

「はい?」

 

「私の相談も聞いてくれる?」

 

「もちろんです。何かありましたか?」

 

「ううん。そうじゃなくて……」

 

莉波は彼の袖をつまむ。

 

「今日は、私のことも構ってほしいなって」

 

「構っていますよ?」

 

「もっと」

 

少しだけ上目遣いになる。

 

「麻央ちゃんとお話ししているとき、楽しそうだったでしょう?」

 

「相談に乗っていただけですよ」

 

「わかっているわ」

 

莉波は微笑んだ。

 

「麻央ちゃんが頑張っているのも、あなたが優しくしてあげるのも、嬉しいの」

 

「はい」

 

「でもね……」

 

彼女は視線を落とした。

 

「あなたがほかの子と楽しそうにしていると、少しだけ寂しくなっちゃう」

 

「莉波さん……」

 

「私、こんなに独占欲が強かったかしら」

 

困ったように笑う。

 

「自分でもびっくりしているの」

 

「寂しいときは、そう言ってください」

 

「……うん」

 

莉波は彼の腕にそっと抱きついた。

 

「じゃあ、今は私を見て?」

 

「もちろんです」

 

「私だけ?」

 

「今は莉波さんだけを見ていますよ」

 

「えへへ……」

 

その言葉を聞いて、莉波は満足そうに目を細めた。

 

◇

その日の帰り道。

莉波はいつもより彼にぴったりとくっついていた。

 

「莉波さん、今日はずいぶん甘えん坊ですね」

 

「だめ?」

 

「いえ。そんなことはありません」

 

「よかった」

 

莉波は彼の腕に頬を寄せる。

 

「ねえ、今日のことなんだけど」

 

「麻央さんのことですか?」

 

「うん」

 

彼女は少しだけ口を尖らせた。

 

「私、麻央ちゃんのことは好きよ。一番信頼している友人だし、頼ってもらえると嬉しいもの」

 

「はい」

 

「でも、あなたを褒めている麻央ちゃんを見ていたら、ちょっとだけ嫌だったの」

 

「どうしてですか?」

 

「あなたの素敵なところを、私だけが知っていたいと思っちゃったから」

 

莉波は繋いだ手を握り直した。

 

「優しいところも、真剣なところも、私を甘やかしてくれるところも」

 

少し間を置いて、彼の顔を見上げる。

 

「全部、私だけのものだったらいいのに」

 

「莉波さん」

 

「……ごめんなさい。困らせたいわけじゃないの」

 

「困っていませんよ」

 

「本当?」

 

「はい」

 

莉波は安心したように微笑んだ。

 

「じゃあ、今日はいっぱい甘えさせてね」

 

「いつでもどうぞ」

 

「ふふ。ありがとう」

 

そして、彼の腕にぎゅっと抱きつく。

 

「今日は帰るまで離さないから」

 

「わかりました」

 

「帰ってからも、電話してくれる?」

 

「もちろんです」

 

「寝るまでお話ししてほしいな」

 

「いいですよ」

 

「……大好き」

 

莉波は小さく呟いた。

 

「私も大好きですよ」

 

「もう一回」

 

「大好きです」

 

「もう一回」

 

「莉波さんが大好きです」

 

「……えへへ」

 

彼女は幸せそうに笑った。

 

◇

夜。

自室で過ごしていた莉波は、ベッドの上でスマートフォンを握っていた。

 

画面には、プロデューサーとの通話画面。

 

「もう寝ますか?」

 

『そろそろ寝ようと思っています』

 

「そっか……」

 

『莉波さんも、明日早いですよね』

 

「うん。でも、もう少しだけ声を聞いていたいな」

 

『わかりました。もう少し話しましょう』

 

莉波は枕を抱きしめる。

 

「ねえ」

 

『はい?』

 

「明日も会えるよね?」

 

『もちろんです』

 

「明後日も?」

 

『はい』

 

「その次の日も?」

 

『もちろんです』

 

「……よかった」

 

莉波は安心したように息を吐いた。

 

「私ね、最近ちょっと欲張りになっちゃった」

 

『そうなんですか?』

 

「うん。あなたと一緒にいる時間が、もっと欲しくなったの」

 

『嬉しいですよ』

 

「本当?」

 

『本当です』

 

「じゃあ、明日もぎゅーしてね」

 

『わかりました』

 

「頭も撫でて?」

 

『もちろんです』

 

「好きって言って?」

 

『好きですよ』

 

莉波は枕に顔を埋めた。

 

「……えへへ」

 

しばらくして、彼女は小さな声で続けた。

 

「私、あなたの前ではお姉さんでいなくてもいい?」

 

『もちろんです』

 

「わがままを言っても?」

 

『いいですよ』

 

「寂しいって言っても?」

 

『言ってください』

 

「甘えん坊になっても?」

 

『いくらでも甘えてください』

 

莉波は目を閉じた。

 

「……大好き」

 

『私も大好きですよ』

 

「ふふ。おやすみなさい」

 

『おやすみなさい、莉波さん』

 

通話が終わってからも、莉波はしばらくスマートフォンを胸に抱いていた。

 

明日になれば、また会える。

 

そう思うだけで、胸が温かくなる。

 

◇

それからも、莉波はみんなの前では変わらなかった。

後輩の相談に乗り、困っている人を助け、誰かが落ち込んでいれば優しく声をかける。

いつも通りの頼れるお姉さん。

 

「莉波、また相談に乗ってくれる?」

 

「もちろん。いつでも聞くわよ」

 

「ありがとう。やっぱり莉波は頼りになるなあ」

 

「ふふ。お姉さんに任せて」

 

そんなやり取りを、何度も繰り返していた。

けれど、二人きりになれば。

 

「プロデューサーさん、ぎゅーして?」

 

「今日はもう三回目ですけど」

 

「四回目もしてほしいの」

 

「わかりました」

 

「えへへ。大好き」

 

彼の腕の中で、莉波は幸せそうに笑う。

 

「ねえ、頭撫でて?」

 

「はい」

 

「もっと優しく」

 

「こうですか?」

 

「うん……気持ちいい」

 

そして、彼が仕事に戻ろうとすれば、袖をつまんで引き止める。

 

「まだ行っちゃだめ」

 

「もう少しで仕事が終わりますから」

 

「じゃあ、終わったら私のところに来てね?」

 

「もちろんです」

 

「約束よ?」

 

莉波は小指を差し出す。

 

彼が指を絡めると、彼女は嬉しそうに笑った。

 

「ふふ。これで安心」

 

かつて、誰かに頼られることが好きだった莉波。

誰かを支えることに喜びを感じていた莉波。

 

その気持ちは、今も変わらない。

 

ただ、彼女には新しく大切なものができた。

自分を甘やかしてくれる人。

弱いところを見せても、わがままを言っても、優しく受け止めてくれる人。

 

だから、みんなの前ではこれからもお姉さんでいる。

けれど、彼の前では違う。

寂しいときは寂しいと言う。

抱きしめてほしいときは、両手を広げる。

嫉妬したときは、少しだけ拗ねてみる。

 

そして、好きな人には何度でも好きだと伝える。

 

「ねえ、プロデューサーさん」

 

「はい?」

 

「今日も、私のこと一番にしてね?」

 

「もちろんです」

 

「ふふ。大好き」

 

莉波は彼の腕に抱きつき、頬をすり寄せた。

 

もう、お姉さんだからと我慢する必要はない。

彼の前でだけは、誰よりも甘えん坊でいたい。

そして、彼にだけは、誰よりも愛されていたい。

 

そんな小さな秘密を胸に、莉波は今日も幸せそうに笑うのだった。

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