プロデューサーが死ぬと勘違いして死ぬほど依存度が上がる話   作:マロンex

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千奈編

昼休みの中庭。

 

倉本千奈は、ベンチの裏の植え込みで、四つ葉のクローバーを探していた。

 

「むむむ……なかなか見つかりませんわね……」

 

そのとき、ベンチのほうから、聞き慣れた声がした。

 

先生だった。

千奈が顔を出そうとした瞬間、先生がスマートフォンを耳に当てるのが見えた。

千奈は、なんとなく、植え込みの陰で身を縮めた。

 

「……うん、母さん。検査の結果、聞いたよ」

 

先生の声は、いつもより少しだけ沈んでいた。

 

「やっぱり、心臓部がもう限界なんだって。……うん。次の検査には、たぶん通らない」

 

千奈の手から、摘んだばかりのクローバーが落ちた。

 

「古いからね。交換できるところも、もうほとんどないらしい。……うん、わかってる。ずっと頑張ってくれたんだから...むしろありがとうって伝えたいくらいだよ」

 

(……心臓が、限界……?)

 

千奈は、両手で口を押さえた。

 

「……あと半年か。最後は、家族みんなで見送ろう。……うん。最後に、もう一度だけ、海にいきたいかな、みんなでさ」

 

先生は、電話を切ると、空を見上げて、小さく息をついた。

それから、何事もなかったかのように立ち上がって、校舎へ戻っていった。

千奈は、植え込みの陰で、しばらく動けなかった。

 

(あと、半年……)

 

(最後に、海を……)

 

千奈の目に、じわりと涙が浮かんだ。

それから、千奈は、ぎゅっと拳を握った。

 

(泣いている場合では、ありませんわ。倉本家のちから、見せて差し上げます)

 

◇

翌朝。

 

千奈は、レッスン室で先生を待ち構えていた。

 

「先生! おはようございますですわ!」

 

「倉本さん。おはようございます。今日は早いですね」

 

「先生、お体の調子はいかがですの!?」

 

「体ですか? 普通ですけど」

 

「む、無理をなさらないでくださいまし! 胸が苦しくなったら、すぐにおっしゃってくださいね!」

 

「胸、ですか?」

 

《……昨日揚げ物食べ過ぎて胸焼けしてるけど...倉本さんに言ったっけな》

 

先生は、不思議そうに首をかしげた。

 

「今日のお昼は、香名江が特別に作らせた減塩のお弁当をご用意いたしましたわ! 心臓に優しい食材だけを使っておりますの!」

 

「わざわざ、ありがとうございます」

 

先生は、弁当を受け取りながら、少しだけ笑った。

 

「でも、倉本さん。どうして、急に心臓なんですか?」

 

「そ、それは……け、健康は大事ですもの!」

 

《……胸焼けは心臓では...まあ厚意は受け取っておこう》

 

◇

 

「先生! 階段は危のうございますわ! エレベーターをお使いくださいまし!」

 

「この校舎、エレベーターないですよ」

 

「では、わたくしが背負いますわ!」

 

「ありがとうございます、でも...倉本さんでは少し難しいかと...」

 

《倉本さんの力だと、僕の膝くらいまでしか持ち上がらない気がする》

 

◇

レッスンの合間、千奈は、先生の隣にちょこんと座った。

 

「先生。何か、やり残したことはございませんの?」

 

「やり残したこと、ですか」

 

「はい。行きたい場所や、見たい景色など。わたくし、なんでも叶えてさしあげますわ」

 

先生は、少しだけ考えてから、答えた。

 

「うーん...強いて言えば海に、行きたいですね。昔、家族でよく行ったんです」

 

《シルバー号にも最後にもう一度、潮風を浴びさせてあげたいなぁ》

 

(最後にもう一度、連れていってあげたい……? ご家族を、ということですのね……)

 

千奈は、スカートの裾を握りしめた。

 

「わ、わかりましたわ。わたくしに、お任せくださいまし」

 

◇

それからの千奈は、全力だった。

 

レッスンは、一度も休まなかった。先生に、立派なアイドルになった姿を見せたかった。

今までは「むむむ」と唸って諦めていたステップも、できるまで何度でも繰り返した。

 

とはいえ、ステップは、そう簡単には身につかなかった。

 

「むむむ……また、間違えましたわ……」

 

千奈は、鏡の前で、何度目かの尻もちをついた。

 

入学試験は、最下位だった。

みんなが当たり前にできることが、千奈には、いつも一歩遅れてやってくる。

お家の力では、ステップは踏めない。

 

(……わたくしは、いつも、誰かに助けていただいてばかり)

 

(でも、先生に見ていただけるうちに、ちゃんと、一人で立てるようにならなければ)

 

千奈は、よろよろと立ち上がった。

もう一度。もう一度。

夜の七時を過ぎても、鏡の前から動かなかった。

 

レッスン室の扉の陰では、先生が、そっと中を覗いていた。

 

「倉本さん、最近、すごく上達しましたね」

 

「当然ですわ! 先生に見ていただけるうちに、わたくし、立派なアイドルになってみせますの!」

 

「見ていただけるうちに?」

 

「な、なんでもありませんわ!」

 

◇

ある日の昼休み。千奈は、先生が一人でベンチに座っているのを見かけた。

先生は、スマートフォンの画面を、じっと見つめていた。

画面には、一枚の写真。

色褪せた銀色の何かの前で、小さな男の子と、その家族が笑っている。

 

「……寂しくなるな」

 

ぽつりと、そうつぶやいて、先生は、画面にそっと親指を滑らせた。

 

千奈は、遠くの柱の陰から、その横顔を見ていた。

 

(ご家族のお写真……。あんなに、大切そうに……)

 

(最後に、思い出を、見返していらっしゃるのですわ……)

 

千奈の胸が、きゅうっと痛んだ。

 

◇

ある日の放課後、千奈は、先生が職員室の前で誰かと話しているのを見かけた。

 

「……はい。もう、部品も手に入らないそうで。ずっと、無理させてきたので」

 

「そうですか。長く付き合ってきたんでしょう...残念でしたね」

 

「はい。生まれたときから、ずっと一緒でした。覚悟はしていたのですが...いざその時が来ると、寂しいですね」

 

千奈は、廊下の角で、両手で口を押さえた。

 

(部品……? 先生、ご自分の体のことを、部品なんて……!)

 

◇

三か月が経った頃だった。

レッスン室の隅で、先生が、何かの書類に、ペンを走らせていた。

 

「先生、何をお書きになっていますの?」

 

「ああ、倉本さん。保険の書類です。ずっと迷ってたんですけど、ようやく決めて。来月で、今の契約は解除することにしました」

 

「……契約を、解除」

 

「はい。実家の家族と相談して、次は家族の(保険)契約に、まとめてもらうことにしたんです。今後はそのほうが、何かあったとき、手厚くて、安心なので」

 

先生は、書類にサインをしながら、のんびりと続けた。

 

(...今後はって...まるで自分のことは考えないのですね)

 

千奈は普段、温厚で、怒りをおぼえることは少なかった。

だが、自分をないがしろにしている大好きな人を目の前に、次第に冷静さを失っていった。

 

「手続きは、担当の方が、全部やってくれて。すごく親切な人なんです。新しいのにも、きれいに切り替えてくれるそうで」

《新しいのは、色を選べるらしい。何色にしようかな》

 

「それに、新しいほうが、いろいろ新鮮ですから。まあ、(車の)目的を果たすためなら、代わりなんて、いくらでも...」

《趣味の一環ではあるけど家族の送迎とかでも使うしな、とりあえずはそれが滞らないようにしないと》

 

まるで、明日の天気の話でもするような口ぶりだった。

千奈の手から、ノートがはらりと落ちた。

 

(……代わりなんて、いくらでも……?)

 

千奈の顔が、みるみる、赤くなっていった。

 

「……先生」

 

「はい?」

 

「今、なんとおっしゃいましたの」

 

「え? 新しいほうが、新鮮だって」

 

「その後ですわ!」

 

「代わりなんて、いくらでもって部分ですk……?」

 

「先生!!」

 

千奈は、ばん、と机を叩いた。

 

「(先生の)代わりなんて、いくらでもいるわけが、ございませんでしょう!? 」

 

「えっ」

 

先生は、しばらく目をぱちぱちとさせていた。

それから、ふと、真面目な顔になって、頭を下げた。

 

「……すみません。確かに、そうですね」

 

「……え」

 

「ずっと、お世話になってきたのに。代わりなんて、いくらでもなんて、失礼な言い方でした。これまでの、お礼が、足りていませんでした」

 

「お礼...確かに。ちゃんと、お礼を言ってから、お別れするべきでした。……倉本さんに言われて、気づけました。ありがとうございます」

 

「すみません、こちらも言い過ぎました...。次の方が決まったらお声がけくださいまし、では」

 

《倉本さんも車興味あるのか?》

 

勢いよく扉を開き、レッスン室を出る。

怒って出て行ったわけではなかった。

ただ、これ以上先生の顔をみていると泣いてしまう気がしたからだった。

 

(お礼……お別れの、ご挨拶……!)

 

逃げるようにこもったトイレで千奈の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。

 

(先生は、やっぱり、お別れを、覚悟していらっしゃるのですわ……!)

 

《優しい子だな、でも、そうだよな...お世話になった車だもんな、倉本さんが正しい。今度謝ろう》

 

そんな中、プロデューサーはのんきのそんなことを考えていた。

 

◇

その夜、千奈は、寮の部屋で正座をしていた。

 

(わたくしは、倉本家の娘。立派なアイドルを目指す者)

 

(先生が、ご家族のもとで静かに過ごしたいとお望みなら、それをお支えするのが、立派な者の務めですわ)

 

千奈は、膝の上で、ぎゅっと拳を握った。

 

(わがままを言ってはいけませんわ。次の担当の方とも、ちゃんと……)

 

そこまで考えて、千奈の目から、ぽろりと涙がこぼれた。

 

(……でも、せめて)

 

(せめて、先生が、一日でも長く、ご家族と過ごせるように)

 

千奈は、涙を拭って、電話をかけた。

 

「香名江! 至急、お願いがございますの!」

 

『お、お嬢さま? こんな夜更けに、いかがなさいました』

 

「世界中の、心臓の名医を集めてくださいまし! アメリカでも、ドイツでも、どこからでも構いませんわ!」

 

『……は?』

 

「わたくしの、大切な先生が……あと、半年だと……!」

 

電話の向こうで、香名江が息を呑む音が聞こえた。

 

『……かしこまりました。倉本家の総力をあげて、手配いたします』

 

◇

一か月後。契約解除の日の前日。

千奈は、先生を学園の正門まで連れ出した。

正門の前には、黒塗りの高級車が十台並んでいた。

その後ろには、大型のバスが一台。白衣を着た外国人の医師たちが、ずらりと整列していた。

 

「……倉本さん。これは、何ですか」

 

先生が、珍しく目を丸くしていた。

 

「世界中から集めた、心臓の名医の方々ですわ。倉本病院の特別室も、押さえてございます。プライベートジェットも、手配いたしましたの。世界中のどこの海でも、お連れいたしますわ」

 

千奈は、震える声で言った。

 

「先生が、ご家族のもとで過ごされるとお決めになったのは、わかっておりますわ。わたくしのために、次の担当の方まで用意してくださったことも」

 

《……用意? 手続きのことかな》

 

「……倉本さん?」

 

「ですから、わたくし、笑ってお見送りしようと決めておりましたの。立派なアイドルとして、わがままは言わないと」

 

ぽろり、と涙がこぼれた。

 

「でも……でも、無理ですわ……!」

 

千奈は、先生の袖を、ぎゅっと掴んだ。

 

「次の担当の方なんて、いりませんわ……! どんなに親切な方でも、いりませんの……!」

 

一度こぼれた涙は、止まらなかった。

 

「わたくし、入学試験は最下位で、何をしてもうまくできなくて……毎晩、鏡の前で、尻もちばかりついて……でも、先生だけは、いつも『すごいですね』と言ってくださいましたの……! だから、頑張れましたのに……!」

 

千奈は、その場にしゃがみ込んだ。

 

「最後まで、先生がいいのですわ……! 先生が死んじゃったら、わたくし、立派なアイドルになっても、誰にも見ていただけませんわ……!」

 

千奈は、声を上げて泣いた。

 

整列した医師たちが、おろおろと顔を見合わせた。

香名江が、ハンカチで目元を押さえていた。

 

先生は、しばらく固まっていた。

 

それから、ゆっくりと、千奈の前にしゃがみ込んだ。

先生は、目をぱちぱちと瞬かせた。

 

「……僕、死ぬんですか?」

 

千奈の泣き声が、ぴたりと止まった。

 

「……え?」

 

「僕、健康ですけど。心臓も、たぶん正常かと...。この前の健康診断、でも特段何も言われませんでしたし」

 

「……え、え……?」

 

「どうして、僕の心臓が悪いと思ったんですか」

 

「だ、だって……中庭で、お母さまとお電話なさっているのを、聞いてしまいましたの……! 心臓部がもう限界で、次の検査には通らないと……! 先生と同じ年に生まれて、二十年頑張ってくれたと……! あと半年で、家族みんなで見送ると……! それに、ベンチで、ご家族のお写真を、じっと見つめて……!」

 

先生は、しばらく考え込んだ。

 

それから、ああ、という顔をして、スマートフォンを取り出した。

画面には、一枚の写真が映っていた。

銀色の、古い車だった。

少し色褪せたボディの前で、小さな男の子と、その家族が笑っている。

 

「……これ、実家の車です。シルバー号っていうんですけど。ベンチで見てたのも、この写真です」

 

千奈の涙が、完全に止まった。

 

「……く、車……?」

 

「はい。僕が生まれた年に、両親が買った車なんです。だから、僕と同い年で、二十年乗ってます」

 

「……し、心臓部が限界、というのは……」

 

「エンジンのことです。この前、点検に出したら、エンジンがもう限界で、半年後の車検は通らないって言われて」

 

「交換できるところも、もうほとんどないと……」

 

「古い車なので、部品がもう生産終了してるんです」

 

「あと半年で、家族みんなで見送るというのは……」

 

「半年後の車検が通らなかったら、廃車にすることになったので、最後に家族で見送ろうって」

 

「……ベンチで、よく頑張ってくれたよな、とつぶやいていたのも……」

 

「シルバー号のことです。最後のお礼を言いに、整備工場にも行ってきました」

 

「……で、では、ご家族のところにまとめる、というのは……!」

 

「携帯の、実家の家族割です。今の携帯の契約を解除して、家族割に入り直すんです。そのほうが、何かあったとき、家族とすぐ連絡が取れて安心なので」

 

「へっ....へえ!? わ、わたくしなんて勘違いを...」

 

千奈の顔が、みるみる真っ赤になっていった。

それから、ゆっくりと、背後を振り返った。

 

黒塗りの高級車が十台。

大型バスが一台。

白衣を着た、世界中の心臓の名医たち。

ハンカチで目元を押さえたままの、香名江。

 

「~~~~~~っ!!」

 

千奈は、両手で顔を覆った。

 

「わ、わたくしの勘違いのために、世界中の名医の方々を……!」

 

「すごい数ですね」

 

「プライベートジェットまで……!」

 

「乗ったことないので、ちょっと気になりますけど」

 

「せ、先生! 冗談を言っている場合ではございませんわ! それに、先生も悪いですわ! 主語! 主語をおっしゃってくださいまし! 」

 

「言ってなかったですか」

 

「おっしゃっておりませんわ! 一度も!」

 

千奈は、その場でうずくまった。

 

医師たちは、事情を通訳から聞いて、なぜか全員が拍手をし始めた。

「ベリー・グッド・ハート」「美しい誤解だ」「女神の誕生に出会えました」と口々に言いながら、千奈の頭を撫でていった。

 

香名江が、そっと千奈の肩に手を置いた。

 

「お嬢さま。お嬢さまが、これほど誰かのために必死になられたのは、初めてでございますよ」

 

千奈は、顔を覆ったまま、小さく唸った。

先生は、少しだけ考えてから、静かに言った。

 

「倉本さん。減塩のお弁当、おいしかったです。レッスンも、この半年で、本当に上手になりました。すごいですね」

 

「……先生は、いつもそれですわ」

 

「本当のことなので」

 

「夜遅くまで、一人で残って練習していたのも、知ってます」

 

「み、見ていらっしゃいましたの!?」

 

「はい。すみません。声をかけそびれました」

 

千奈は、真っ赤になって、顔を覆った。

 

「……先生は、本当に、主語が足りませんわ」

 

先生は、少しだけ照れくさそうに、でも、まっすぐに千奈を見た。

 

「それに、さっきの、最後まで先生がいい、っていうの。嬉しかったです」

 

千奈の肩が、ぴくりと動いた。

 

「最期まで、僕でよければ。倉本さんが立派なアイドルになるところ、ちゃんと隣で見ています」

 

千奈は、ゆっくりと顔を上げた。

 

真っ赤な目で、先生を見つめた。

 

「……当然ですわ。わたくしの先生は、先生しかおりませんもの」

 

それから、千奈は、ぐっと涙を拭った。

 

「先生。ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」

 

「はい」

 

「そのシルバー号は、本当に、もう直りませんの?」

 

「部品がないので、難しいみたいです」

 

千奈は、くるりと振り返って、香名江に向かって叫んだ。

 

「香名江! 倉本家のお抱えの整備士を、全員呼んでくださいまし! 部品がないなら、作らせてくださいませ!」

 

「お、お嬢さま!?」

 

「倉本家の総力をあげて、シルバー号を直しますわ! 先生の大切なご家族ですもの!」

 

先生は、目を丸くした。

 

それから、少しだけ、笑った。

 

「……倉本さん。ありがとうございます」

 

◇

 

半年後。

 

ぴかぴかに磨き上げられたシルバー号が、海沿いの道を走っていた。

運転席には先生のお父さん、助手席にはお母さん。

後部座席には、先生と、千奈が並んで座っていた。

 

エンジンの音は、驚くほど静かだった。

倉本家の整備士たちが、半年かけて、部品を一から作り直したのだ。

車検にも、無事に通った。

 

「……本当に、直っちゃいましたね」

 

「当然ですわ! 倉本家に、不可能はございませんもの!」

 

千奈は、胸を張った。

 

窓の外に、きらきらと光る海が見えてきた。

 

「先生! 海ですわ!」

 

「はい。海ですね」

 

先生は、窓の外を見つめながら、静かに言った。

 

「最後じゃなくなりました。これからも、何回でも来られます」

 

千奈は、先生の横顔を見つめた。

 

それから、少しだけ照れくさそうに、言った。

 

「……では、先生。次は、わたくしも、また連れてきてくださいまし。何回でも、最期まで」

 

「はい。約束します」

 

シルバー号は、海沿いの道を、どこまでも走っていった。

 

《……バックミラー越しに、両親がずっとにやにやしている。何なんだろう》

 

 

―シルバー号が直ってから、二週間。

 

倉本千奈の生活は、以前より少しだけ賑やかになっていた。

 

理由は簡単。

先生のご家族と、倉本家がすっかり仲良くなってしまったからである。

シルバー号の修理をきっかけに、先生のご両親は倉本家に何度もお礼の連絡を入れた。

倉本家も「大切なお車を救えたのですから」と、今度は先生のご実家にまで招待状を送った。

 

最初は、ただのお礼の食事会だった。

少なくとも、千奈はそう思っていた。

 

「まあまあ! 先生のお母様、お茶のおかわりはいかがですの?」

 

「ありがとう、千奈ちゃん。あなた、本当に気が利くのねえ」

 

「そ、そんな! 当然のことですわ!」

 

「うちの息子も、千奈ちゃんみたいな子がお嫁さんだったら幸せでしょうねえ」

 

「…………へ?」

 

千奈の手から、急須が滑り落ちそうになった。

一方、先生のお父さんは、隣に座る倉本家の当主と楽しそうに話していた。

 

「いやあ、まさか、あの車がまた走れるようになるとは思いませんでしたよ」

 

「いえいえ。娘が大変お世話になっている先生の、大切なご家族ですからな」

 

「娘さんには本当に感謝しています。息子も、最近は家に帰るたびに千奈ちゃんの話をするんですよ」

 

「ほう……!」

 

倉本家当主の目が、きらりと光った。

 

「それは、実に興味深い」

 

「お父様?」

 

千奈が振り向いたときには、すでに父は満足げにうなずいていた。

 

「なるほど。これは、思っていた以上に相性がよろしいようですな」

 

「ええ、私もそう思います」

 

先生のお父さんも、なぜか同じようにうなずいた。

 

「……何のお話ですの?」

 

「いやいや、こちらの話だよ、千奈」

 

父は、にこにこと笑った。

その笑顔が、千奈には妙に恐ろしかった。

 

◇

食事会から三日後。

倉本家の会議室にて。

 

「では、先生を千奈の伴侶候補として迎える方向で進めよう」

 

「かしこまりました」

 

「まずは住環境だ。千奈がアイドル活動を続けることを考慮し、学園へのアクセスがよく、先生の仕事部屋も確保できる邸宅をいくつか選定してくれ」

 

「すでに候補を三件ほどご用意しております」

 

「早いな」

 

「お嬢様のお相手ですので」

 

「うむ。さすがだ」

 

――千奈は、その会話を廊下で聞いてしまった。

 

「…………」

 

手に持っていたおやつのマカロンが、ぽろりと床に落ちた。

 

(……は、伴侶……?)

 

(……先生が、わたくしの……?)

 

頭の中で、父の声が何度も繰り返される。

 

伴侶。

 

先生。

 

伴侶。

 

先生。

 

(ま、待ってくださいまし……!)

 

(わたくし、先生とお昼をご一緒したり、手をつないだり、褒めていただいたりするだけで、精一杯ですのよ!?)

 

(そ、それなのに……と、伴侶……!?)

 

千奈は両手で頬を押さえた。

 

頬が熱い。

心臓がうるさい。

そして、何より困ったことに。

 

―少しだけ、想像してしまった。

 

先生と一緒に暮らす未来を。

 

朝、先生を起こして。

一緒に朝食を食べて。

お仕事へ向かう先生を玄関で見送って。

帰ってきた先生に「おかえりなさいませ」と言って。

 

そして夜には、隣に座って、今日あったことをお話しして。

 

(…………っ!)

 

「むむむむむ……っ!」

 

千奈は、その場にしゃがみ込んだ。

 

(な、なにを考えておりますの、わたくし!)

 

(まだ、そのようなお話は一切……! 先生ご本人の意思だって、確認されていないではありませんか!)

 

そこまで考えて、千奈ははっとした。

 

(……先生の、ご意思)

 

もし。

もし先生が、そんなことを望んでいなかったら。

自分だけが勝手に期待して、勝手に夢を見ているのだとしたら。

胸の奥が、きゅっと痛んだ。

 

「……だめですわ」

 

千奈は立ち上がった。

 

「先生に、ご迷惑をおかけしてはいけませんもの……」

 

そう言いながらも。

 

頭の中では、すでにウェディングドレスを着た自分が、先生の隣で微笑んでいた。

 

(……むむむむむむむ……っ!)

 

千奈は、顔を真っ赤にして逃げ出した。

 

◇

翌日。

学園の廊下。

 

「先生!」

 

「はい、倉本さん。どうしました?」

 

「せ、先生は……その……」

 

千奈は、もじもじと指先を合わせた。

聞かなければならない。

先生が、結婚についてどう考えているのか。

けれど、直接聞くのは恥ずかしすぎる。

 

「先生は、将来……どのようなご家庭を築きたいとお考えですの?」

 

「家庭?」

 

「は、はい! たとえば、その……お住まいですとか、ご家族ですとか……!」

 

先生は少し考えた。

 

「うーん。そうですね。落ち着いて暮らせる家がいいですね。仕事から帰ってきたら、ほっとできるような」

 

「ほ、ほっとできる……」

 

「家族とご飯を食べたり、休日に出かけたり。そういう普通の生活ができたらいいなと思います」

 

「…………」

 

千奈の脳内に、先ほど想像していた未来が鮮明によみがえった。

 

一緒に朝食。

玄関でお見送り。

 

「おかえりなさいませ」。

 

そして、休日の海。

 

(……わ、わたくしでも……そのような家庭を、築けるのでしょうか……)

 

「倉本さん?」

 

「は、はいっ!」

 

「どうしてそんなに真っ赤なんですか?」

 

「な、なんでもございませんわ!」

 

千奈は勢いよく首を振った。

 

「た、ただ! 将来について考えることは、大切だと思いまして!」

 

「そうですね。倉本さんは、しっかりしていますね」

 

「しっかり……!」

 

褒められた。

しかも、将来の話をしているときに。

千奈は、胸を押さえた。

 

(だめですわ……!)

 

(先生は、何もご存じないのです!)

 

(ご自分が、いま、どれほどわたくしの心をかき乱していらっしゃるのか……!)

 

「先生!」

 

「はい?」

 

「……その、もしも、ですわよ?」

 

「はい」

 

「もしも、将来、誰かとご結婚なさるとしたら……!」

 

言ってしまった。

千奈は口元を押さえた。

先生は、きょとんとした。

 

「結婚ですか?」

 

「は、はい……!」

 

「うーん。相手の方と、ちゃんと話し合って決めたいですね。お互いに無理をせず、一緒にいて安心できる関係がいいです」

 

「……一緒にいて、安心できる……」

 

千奈は、ぎゅっと胸元を握った。

 

「……そう、ですのね」

 

「はい。倉本さんは、どうですか?」

 

「へっ!?」

 

「どんな家庭が理想なんですか?」

 

「わ、わたくし……!」

 

千奈の脳内が真っ白になった。

まさか、聞き返されるとは思わなかった。

 

「そ、その……!」

 

―先生と。

先生と一緒に。

先生の隣で。

毎日。

 

ずっと。

 

「……あ、あたたかい家庭が、よろしいですわね!」

 

「いいですね」

 

「そ、それで……毎日、笑顔で過ごせるような……!」

 

「素敵だと思います」

 

「そ、それから……お互いのことを大切にして……!」

 

「はい」

 

「……っ!」

 

千奈は、とうとう耐えきれなくなった。

 

「せ、先生! わたくし、レッスンがございますので失礼いたしますわ!」

 

「はい。頑張ってくださいね」

 

「……っ、はいっ!」

 

千奈は駆け出した。

背後から、先生の声が追いかけてくる。

 

「倉本さん! 廊下は走らないでくださいね!」

 

「わ、わかっておりますわーーーっ!」

 

◇

その日の放課後。

千奈は、レッスン室の隅で膝を抱えていた。

 

(……先生と、結婚……)

 

口に出すだけでも恥ずかしい。

 

けれど、一度意識してしまうと、もう止められなかった。

先生が別の誰かと結婚する未来を想像すると、胸がちくりと痛む。

 

先生が自分の知らない誰かに「おかえりなさい」と言われること。

自分の知らない誰かと、休日を過ごすこと。

自分の知らない誰かの隣で、先生が笑うこと。

 

(…………いやですわ)

 

千奈は、ぎゅっと膝を抱え直した。

 

(……わたくし、こんなにも、欲張りだったのですね)

 

先生が元気でいてくれれば、それだけでいいと思っていた。

先生が明日も学園に来てくれるなら、それだけでいいと思っていた。

 

けれど、いつの間にか。

 

先生の未来に、自分もいたいと思うようになっていた。

先生の一番近くにいたい。

先生が困ったとき、真っ先に頼ってもらいたい。

先生が嬉しいとき、一番にその笑顔を見たい。

 

そして、いつか。

 

先生が人生の大切な選択をするとき。

自分の名前を、候補のひとつに入れてほしい。

 

「……むむむむむ……!」

 

千奈は顔を覆った。

 

(……だめですわ! これは、まだ、早すぎますわ!)

 

(わたくしは、まず、立派なアイドルにならなければ……!)

 

(先生にふさわしい女性になるためにも……!)

 

そこで、千奈はぴたりと固まった。

 

(……先生に、ふさわしい……?)

 

自分で考えて、自分で赤くなった。

 

「~~~~っ!」

 

「倉本さん?」

 

「ひゃああああっ!?」

 

いつの間にか、先生がレッスン室の入り口に立っていた。

 

「だ、大丈夫ですか? 何か悩み事でも?」

 

「な、ななな、なんでもございませんわ!」

 

「そうですか? ずいぶん顔が赤いですけど……」

 

先生が心配そうに近づいてくる。

 

千奈は、反射的にその袖をつかんだ。

 

「……っ」

 

つかんでから、気づいた。

 

「あ……」

 

先生が、千奈の手を見る。

 

千奈は慌てて離そうとした。

 

けれど、その前に。

 

「どうしました?」

 

先生が、優しく尋ねた。

 

その声を聞いた瞬間、千奈の胸がいっぱいになった。

言いたいことは、たくさんある。

 

結婚のこと。

家族のこと。

 

先生の未来に、自分もいたいということ。

でも、今はまだ、何ひとつ言えそうになかった。

だから千奈は、せめて。

 

「……先生」

 

「はい」

 

「……もう少しだけ、ここにいていただけませんか?」

 

先生は、少し驚いたあと、微笑んだ。

 

「もちろんです」

 

千奈は、そっと先生の袖を握り直した。

 

(……いまは、これだけで)

 

(いまは、先生が隣にいてくださるだけで、十分ですわ)

 

そう思った。

 

―そのはずだった。

 

「そうだ、倉本さん」

 

「は、はい?」

 

「今度の休日、うちの両親が倉本家にお礼をしに行くそうです。よかったら、倉本さんも一緒にどうですか?」

 

「…………え?」

 

「前にお世話になったお礼を、改めてしたいそうで」

 

「…………せ、先生の、ご実家に……?」

 

「いえ、今回は倉本家に伺うそうです」

 

「……ご家族同士で……?」

 

「はい」

 

千奈の頭の中で、何かが弾けた。

 

両家の食事会。

両親同士の笑顔。

 

「うちの息子も、千奈ちゃんみたいな子がお嫁さんだったら幸せでしょうねえ」

 

そして、倉本家当主の、あの意味深な笑顔。

 

(ま、まさか……!)

 

(これは……両家の顔合わせ……!?)

 

「倉本さん?」

 

「……せ、先生!」

 

「はい?」

 

千奈は、真っ赤な顔で、先生の袖を握りしめた。

 

「……わ、わたくし! 当日は、失礼のないよう、精一杯おもてなしをいたしますわ!」

 

「ありがとうございます。両親も喜ぶと思います」

 

「そ、それから……!」

 

「はい?」

 

「……その……!」

 

言えない。

 

「わたくしも、先生のご家族に……その……」

 

―お嫁さん候補として、見ていただけるように。

 

そんな言葉が、喉まで出かかった。

千奈は、ぷるぷると首を振った。

 

「……な、なんでもございませんわ!」

 

先生は、不思議そうに首をかしげた。

 

「そうですか?」

 

「はいっ!」

 

千奈は、満面の笑みを浮かべた。

ただし、その頭の中は大騒ぎだった。

 

(……ど、どうしましょう……!)

 

(先生のご家族にお会いするのですわ……!)

 

(お洋服は? 髪型は? 手土産は? そもそも、わたくし、先生のことをどこまでお話ししてよいのでしょう!?)

 

(……いえ! 落ち着きなさい、千奈!)

 

(これは、ただのお礼の会ですわ! 結婚とは何の関係も……!)

 

そこまで考えたところで、千奈は小さくうなった。

 

(……でも)

 

(もしも、万が一……ほんの少しでも、可能性があるのなら……)

 

千奈は、先生の袖を握る手に、そっと力を込めた。

 

(……わたくし、頑張りますわ)

 

◇

 

その夜。

 

倉本家の会議室。

 

「お嬢様、週末のお召し物はこちらでいかがでしょうか」

 

「……えっ?」

 

千奈の前に、上品なワンピースが三着並べられた。

 

「ご家族でのお食事会ですので、華美になりすぎず、しかしお嬢様の魅力が十分に伝わるものを選びました」

 

「か、香名江……? なぜ、そこまで……?」

 

「もちろん、先生のご家族をお迎えするためでございます」

 

「そ、それはわかっておりますけれど……!」

 

香名江は、にこりと微笑んだ。

 

「お嬢様。先生のことを、どうお思いですか?」

 

「…………っ!」

 

千奈は固まった。

 

「そ、それは……大切な先生ですわ!」

 

「ええ。存じております」

 

「わたくしを、いつも褒めてくださって……頑張る力をくださって……とても優しくて……」

 

「はい」

 

「それに……先生がいらっしゃると、嬉しくて……お会いできないと、少し寂しくて……」

 

「はい」

 

「……先生の隣にいると、安心して……」

 

千奈の声が、だんだん小さくなっていく。

香名江は、何も言わずに待っていた。

やがて、千奈は真っ赤な顔を両手で覆った。

 

「……も、もう! 言わせないでくださいまし!」

 

香名江は、優しく微笑んだ。

 

「かしこまりました、お嬢様」

 

「……香名江?」

 

「私どもは、お嬢様が幸せになることを、何より願っております」

 

千奈は、指の隙間から、香名江を見た。

 

「……幸せ」

 

「はい。お嬢様が、心から一緒にいたいと思う方と、これからも笑って過ごせること。それが、私どもの願いでございます」

 

千奈は、ゆっくりと手を下ろした。

 

そして、膝の上で、ぎゅっと拳を握った。

 

「……わたくし」

 

「はい」

 

「……先生と、ずっと一緒にいたいですわ」

 

初めて、自分の口からはっきりと言えた。

 

それだけで、胸の奥が熱くなった。

 

香名江は、静かに頭を下げた。

 

「かしこまりました、お嬢様」

 

「……で、でも! 先生のお気持ちもございますから! 倉本家の力で無理にどうこうするのは、いけませんわ!」

 

「もちろんでございます」

 

「先生ご本人が、望んでくださらなければ……!」

 

千奈はそこまで言って、急にうつむいた。

 

(……望んで、くださるのでしょうか)

 

不安が、ほんの少しだけ胸をよぎった。

 

そのとき、香名江がそっと千奈の肩に手を置いた。

 

「お嬢様。先生は、これまでもお嬢様の努力を、きちんと見ていてくださいました」

 

「……はい」

 

「ですから、今は焦らず、お嬢様らしくお過ごしになればよろしいかと」

 

千奈は、こくりとうなずいた。

 

「……わかりましたわ」

 

そして、ワンピースを見つめた。

 

「……ところで、香名江」

 

「はい」

 

「……この三着でしたら、どれが一番……その……」

 

千奈は、頬を染めながら、小さな声で尋ねた。

 

「……先生に、素敵だと思っていただけそうですの?」

 

香名江は、一瞬だけ目を丸くした。

 

それから、これまで見たことがないほど嬉しそうに笑った。

 

「―お嬢様。三着とも、ご試着なさいましょう」

 

「……っ! お、お願いしますわ!」

 

倉本家の夜は、いつもより少しだけ騒がしかった。

 

そして千奈は、まだ知らない。

その翌日、倉本家当主が先生の父親に電話をかけ、

 

「いやあ、息子さんと千奈の将来について、一度ゆっくりお話しできればと思いましてな」

 

などと、本人たちの知らないところで、勝手に第二回の会食を企画していることを。

もちろん、先生はまだ何も知らない。

千奈も、まだ何も知らない。

 

ただ一人、香名江だけが、すべてを把握していた。

 

「……お嬢様。どうか、明日は心臓のお薬ではなく、胃薬をご用意なさってくださいませ」

 

「か、香名江!? なぜですの!?」

 

「いえ。今後、いろいろと胸の高鳴る出来事が増えそうでございますので」

 

「~~~~っ! 香名江!!」

 

千奈の叫び声が、倉本家に響き渡った。




千奈さんは依存度が上がっても透き通ってました
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