プロデューサーが死ぬと勘違いして死ぬほど依存度が上がる話 作:マロンex
昼休みの中庭。
倉本千奈は、ベンチの裏の植え込みで、四つ葉のクローバーを探していた。
「むむむ……なかなか見つかりませんわね……」
そのとき、ベンチのほうから、聞き慣れた声がした。
先生だった。
千奈が顔を出そうとした瞬間、先生がスマートフォンを耳に当てるのが見えた。
千奈は、なんとなく、植え込みの陰で身を縮めた。
「……うん、母さん。検査の結果、聞いたよ」
先生の声は、いつもより少しだけ沈んでいた。
「やっぱり、心臓部がもう限界なんだって。……うん。次の検査には、たぶん通らない」
千奈の手から、摘んだばかりのクローバーが落ちた。
「古いからね。交換できるところも、もうほとんどないらしい。……うん、わかってる。ずっと頑張ってくれたんだから...むしろありがとうって伝えたいくらいだよ」
(……心臓が、限界……?)
千奈は、両手で口を押さえた。
「……あと半年か。最後は、家族みんなで見送ろう。……うん。最後に、もう一度だけ、海にいきたいかな、みんなでさ」
先生は、電話を切ると、空を見上げて、小さく息をついた。
それから、何事もなかったかのように立ち上がって、校舎へ戻っていった。
千奈は、植え込みの陰で、しばらく動けなかった。
(あと、半年……)
(最後に、海を……)
千奈の目に、じわりと涙が浮かんだ。
それから、千奈は、ぎゅっと拳を握った。
(泣いている場合では、ありませんわ。倉本家のちから、見せて差し上げます)
◇
翌朝。
千奈は、レッスン室で先生を待ち構えていた。
「先生! おはようございますですわ!」
「倉本さん。おはようございます。今日は早いですね」
「先生、お体の調子はいかがですの!?」
「体ですか? 普通ですけど」
「む、無理をなさらないでくださいまし! 胸が苦しくなったら、すぐにおっしゃってくださいね!」
「胸、ですか?」
《……昨日揚げ物食べ過ぎて胸焼けしてるけど...倉本さんに言ったっけな》
先生は、不思議そうに首をかしげた。
「今日のお昼は、香名江が特別に作らせた減塩のお弁当をご用意いたしましたわ! 心臓に優しい食材だけを使っておりますの!」
「わざわざ、ありがとうございます」
先生は、弁当を受け取りながら、少しだけ笑った。
「でも、倉本さん。どうして、急に心臓なんですか?」
「そ、それは……け、健康は大事ですもの!」
《……胸焼けは心臓では...まあ厚意は受け取っておこう》
◇
「先生! 階段は危のうございますわ! エレベーターをお使いくださいまし!」
「この校舎、エレベーターないですよ」
「では、わたくしが背負いますわ!」
「ありがとうございます、でも...倉本さんでは少し難しいかと...」
《倉本さんの力だと、僕の膝くらいまでしか持ち上がらない気がする》
◇
レッスンの合間、千奈は、先生の隣にちょこんと座った。
「先生。何か、やり残したことはございませんの?」
「やり残したこと、ですか」
「はい。行きたい場所や、見たい景色など。わたくし、なんでも叶えてさしあげますわ」
先生は、少しだけ考えてから、答えた。
「うーん...強いて言えば海に、行きたいですね。昔、家族でよく行ったんです」
《シルバー号にも最後にもう一度、潮風を浴びさせてあげたいなぁ》
(最後にもう一度、連れていってあげたい……? ご家族を、ということですのね……)
千奈は、スカートの裾を握りしめた。
「わ、わかりましたわ。わたくしに、お任せくださいまし」
◇
それからの千奈は、全力だった。
レッスンは、一度も休まなかった。先生に、立派なアイドルになった姿を見せたかった。
今までは「むむむ」と唸って諦めていたステップも、できるまで何度でも繰り返した。
とはいえ、ステップは、そう簡単には身につかなかった。
「むむむ……また、間違えましたわ……」
千奈は、鏡の前で、何度目かの尻もちをついた。
入学試験は、最下位だった。
みんなが当たり前にできることが、千奈には、いつも一歩遅れてやってくる。
お家の力では、ステップは踏めない。
(……わたくしは、いつも、誰かに助けていただいてばかり)
(でも、先生に見ていただけるうちに、ちゃんと、一人で立てるようにならなければ)
千奈は、よろよろと立ち上がった。
もう一度。もう一度。
夜の七時を過ぎても、鏡の前から動かなかった。
レッスン室の扉の陰では、先生が、そっと中を覗いていた。
「倉本さん、最近、すごく上達しましたね」
「当然ですわ! 先生に見ていただけるうちに、わたくし、立派なアイドルになってみせますの!」
「見ていただけるうちに?」
「な、なんでもありませんわ!」
◇
ある日の昼休み。千奈は、先生が一人でベンチに座っているのを見かけた。
先生は、スマートフォンの画面を、じっと見つめていた。
画面には、一枚の写真。
色褪せた銀色の何かの前で、小さな男の子と、その家族が笑っている。
「……寂しくなるな」
ぽつりと、そうつぶやいて、先生は、画面にそっと親指を滑らせた。
千奈は、遠くの柱の陰から、その横顔を見ていた。
(ご家族のお写真……。あんなに、大切そうに……)
(最後に、思い出を、見返していらっしゃるのですわ……)
千奈の胸が、きゅうっと痛んだ。
◇
ある日の放課後、千奈は、先生が職員室の前で誰かと話しているのを見かけた。
「……はい。もう、部品も手に入らないそうで。ずっと、無理させてきたので」
「そうですか。長く付き合ってきたんでしょう...残念でしたね」
「はい。生まれたときから、ずっと一緒でした。覚悟はしていたのですが...いざその時が来ると、寂しいですね」
千奈は、廊下の角で、両手で口を押さえた。
(部品……? 先生、ご自分の体のことを、部品なんて……!)
◇
三か月が経った頃だった。
レッスン室の隅で、先生が、何かの書類に、ペンを走らせていた。
「先生、何をお書きになっていますの?」
「ああ、倉本さん。保険の書類です。ずっと迷ってたんですけど、ようやく決めて。来月で、今の契約は解除することにしました」
「……契約を、解除」
「はい。実家の家族と相談して、次は家族の(保険)契約に、まとめてもらうことにしたんです。今後はそのほうが、何かあったとき、手厚くて、安心なので」
先生は、書類にサインをしながら、のんびりと続けた。
(...今後はって...まるで自分のことは考えないのですね)
千奈は普段、温厚で、怒りをおぼえることは少なかった。
だが、自分をないがしろにしている大好きな人を目の前に、次第に冷静さを失っていった。
「手続きは、担当の方が、全部やってくれて。すごく親切な人なんです。新しいのにも、きれいに切り替えてくれるそうで」
《新しいのは、色を選べるらしい。何色にしようかな》
「それに、新しいほうが、いろいろ新鮮ですから。まあ、(車の)目的を果たすためなら、代わりなんて、いくらでも...」
《趣味の一環ではあるけど家族の送迎とかでも使うしな、とりあえずはそれが滞らないようにしないと》
まるで、明日の天気の話でもするような口ぶりだった。
千奈の手から、ノートがはらりと落ちた。
(……代わりなんて、いくらでも……?)
千奈の顔が、みるみる、赤くなっていった。
「……先生」
「はい?」
「今、なんとおっしゃいましたの」
「え? 新しいほうが、新鮮だって」
「その後ですわ!」
「代わりなんて、いくらでもって部分ですk……?」
「先生!!」
千奈は、ばん、と机を叩いた。
「(先生の)代わりなんて、いくらでもいるわけが、ございませんでしょう!? 」
「えっ」
先生は、しばらく目をぱちぱちとさせていた。
それから、ふと、真面目な顔になって、頭を下げた。
「……すみません。確かに、そうですね」
「……え」
「ずっと、お世話になってきたのに。代わりなんて、いくらでもなんて、失礼な言い方でした。これまでの、お礼が、足りていませんでした」
「お礼...確かに。ちゃんと、お礼を言ってから、お別れするべきでした。……倉本さんに言われて、気づけました。ありがとうございます」
「すみません、こちらも言い過ぎました...。次の方が決まったらお声がけくださいまし、では」
《倉本さんも車興味あるのか?》
勢いよく扉を開き、レッスン室を出る。
怒って出て行ったわけではなかった。
ただ、これ以上先生の顔をみていると泣いてしまう気がしたからだった。
(お礼……お別れの、ご挨拶……!)
逃げるようにこもったトイレで千奈の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
(先生は、やっぱり、お別れを、覚悟していらっしゃるのですわ……!)
《優しい子だな、でも、そうだよな...お世話になった車だもんな、倉本さんが正しい。今度謝ろう》
そんな中、プロデューサーはのんきのそんなことを考えていた。
◇
その夜、千奈は、寮の部屋で正座をしていた。
(わたくしは、倉本家の娘。立派なアイドルを目指す者)
(先生が、ご家族のもとで静かに過ごしたいとお望みなら、それをお支えするのが、立派な者の務めですわ)
千奈は、膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
(わがままを言ってはいけませんわ。次の担当の方とも、ちゃんと……)
そこまで考えて、千奈の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
(……でも、せめて)
(せめて、先生が、一日でも長く、ご家族と過ごせるように)
千奈は、涙を拭って、電話をかけた。
「香名江! 至急、お願いがございますの!」
『お、お嬢さま? こんな夜更けに、いかがなさいました』
「世界中の、心臓の名医を集めてくださいまし! アメリカでも、ドイツでも、どこからでも構いませんわ!」
『……は?』
「わたくしの、大切な先生が……あと、半年だと……!」
電話の向こうで、香名江が息を呑む音が聞こえた。
『……かしこまりました。倉本家の総力をあげて、手配いたします』
◇
一か月後。契約解除の日の前日。
千奈は、先生を学園の正門まで連れ出した。
正門の前には、黒塗りの高級車が十台並んでいた。
その後ろには、大型のバスが一台。白衣を着た外国人の医師たちが、ずらりと整列していた。
「……倉本さん。これは、何ですか」
先生が、珍しく目を丸くしていた。
「世界中から集めた、心臓の名医の方々ですわ。倉本病院の特別室も、押さえてございます。プライベートジェットも、手配いたしましたの。世界中のどこの海でも、お連れいたしますわ」
千奈は、震える声で言った。
「先生が、ご家族のもとで過ごされるとお決めになったのは、わかっておりますわ。わたくしのために、次の担当の方まで用意してくださったことも」
《……用意? 手続きのことかな》
「……倉本さん?」
「ですから、わたくし、笑ってお見送りしようと決めておりましたの。立派なアイドルとして、わがままは言わないと」
ぽろり、と涙がこぼれた。
「でも……でも、無理ですわ……!」
千奈は、先生の袖を、ぎゅっと掴んだ。
「次の担当の方なんて、いりませんわ……! どんなに親切な方でも、いりませんの……!」
一度こぼれた涙は、止まらなかった。
「わたくし、入学試験は最下位で、何をしてもうまくできなくて……毎晩、鏡の前で、尻もちばかりついて……でも、先生だけは、いつも『すごいですね』と言ってくださいましたの……! だから、頑張れましたのに……!」
千奈は、その場にしゃがみ込んだ。
「最後まで、先生がいいのですわ……! 先生が死んじゃったら、わたくし、立派なアイドルになっても、誰にも見ていただけませんわ……!」
千奈は、声を上げて泣いた。
整列した医師たちが、おろおろと顔を見合わせた。
香名江が、ハンカチで目元を押さえていた。
先生は、しばらく固まっていた。
それから、ゆっくりと、千奈の前にしゃがみ込んだ。
先生は、目をぱちぱちと瞬かせた。
「……僕、死ぬんですか?」
千奈の泣き声が、ぴたりと止まった。
「……え?」
「僕、健康ですけど。心臓も、たぶん正常かと...。この前の健康診断、でも特段何も言われませんでしたし」
「……え、え……?」
「どうして、僕の心臓が悪いと思ったんですか」
「だ、だって……中庭で、お母さまとお電話なさっているのを、聞いてしまいましたの……! 心臓部がもう限界で、次の検査には通らないと……! 先生と同じ年に生まれて、二十年頑張ってくれたと……! あと半年で、家族みんなで見送ると……! それに、ベンチで、ご家族のお写真を、じっと見つめて……!」
先生は、しばらく考え込んだ。
それから、ああ、という顔をして、スマートフォンを取り出した。
画面には、一枚の写真が映っていた。
銀色の、古い車だった。
少し色褪せたボディの前で、小さな男の子と、その家族が笑っている。
「……これ、実家の車です。シルバー号っていうんですけど。ベンチで見てたのも、この写真です」
千奈の涙が、完全に止まった。
「……く、車……?」
「はい。僕が生まれた年に、両親が買った車なんです。だから、僕と同い年で、二十年乗ってます」
「……し、心臓部が限界、というのは……」
「エンジンのことです。この前、点検に出したら、エンジンがもう限界で、半年後の車検は通らないって言われて」
「交換できるところも、もうほとんどないと……」
「古い車なので、部品がもう生産終了してるんです」
「あと半年で、家族みんなで見送るというのは……」
「半年後の車検が通らなかったら、廃車にすることになったので、最後に家族で見送ろうって」
「……ベンチで、よく頑張ってくれたよな、とつぶやいていたのも……」
「シルバー号のことです。最後のお礼を言いに、整備工場にも行ってきました」
「……で、では、ご家族のところにまとめる、というのは……!」
「携帯の、実家の家族割です。今の携帯の契約を解除して、家族割に入り直すんです。そのほうが、何かあったとき、家族とすぐ連絡が取れて安心なので」
「へっ....へえ!? わ、わたくしなんて勘違いを...」
千奈の顔が、みるみる真っ赤になっていった。
それから、ゆっくりと、背後を振り返った。
黒塗りの高級車が十台。
大型バスが一台。
白衣を着た、世界中の心臓の名医たち。
ハンカチで目元を押さえたままの、香名江。
「~~~~~~っ!!」
千奈は、両手で顔を覆った。
「わ、わたくしの勘違いのために、世界中の名医の方々を……!」
「すごい数ですね」
「プライベートジェットまで……!」
「乗ったことないので、ちょっと気になりますけど」
「せ、先生! 冗談を言っている場合ではございませんわ! それに、先生も悪いですわ! 主語! 主語をおっしゃってくださいまし! 」
「言ってなかったですか」
「おっしゃっておりませんわ! 一度も!」
千奈は、その場でうずくまった。
医師たちは、事情を通訳から聞いて、なぜか全員が拍手をし始めた。
「ベリー・グッド・ハート」「美しい誤解だ」「女神の誕生に出会えました」と口々に言いながら、千奈の頭を撫でていった。
香名江が、そっと千奈の肩に手を置いた。
「お嬢さま。お嬢さまが、これほど誰かのために必死になられたのは、初めてでございますよ」
千奈は、顔を覆ったまま、小さく唸った。
先生は、少しだけ考えてから、静かに言った。
「倉本さん。減塩のお弁当、おいしかったです。レッスンも、この半年で、本当に上手になりました。すごいですね」
「……先生は、いつもそれですわ」
「本当のことなので」
「夜遅くまで、一人で残って練習していたのも、知ってます」
「み、見ていらっしゃいましたの!?」
「はい。すみません。声をかけそびれました」
千奈は、真っ赤になって、顔を覆った。
「……先生は、本当に、主語が足りませんわ」
先生は、少しだけ照れくさそうに、でも、まっすぐに千奈を見た。
「それに、さっきの、最後まで先生がいい、っていうの。嬉しかったです」
千奈の肩が、ぴくりと動いた。
「最期まで、僕でよければ。倉本さんが立派なアイドルになるところ、ちゃんと隣で見ています」
千奈は、ゆっくりと顔を上げた。
真っ赤な目で、先生を見つめた。
「……当然ですわ。わたくしの先生は、先生しかおりませんもの」
それから、千奈は、ぐっと涙を拭った。
「先生。ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「そのシルバー号は、本当に、もう直りませんの?」
「部品がないので、難しいみたいです」
千奈は、くるりと振り返って、香名江に向かって叫んだ。
「香名江! 倉本家のお抱えの整備士を、全員呼んでくださいまし! 部品がないなら、作らせてくださいませ!」
「お、お嬢さま!?」
「倉本家の総力をあげて、シルバー号を直しますわ! 先生の大切なご家族ですもの!」
先生は、目を丸くした。
それから、少しだけ、笑った。
「……倉本さん。ありがとうございます」
◇
半年後。
ぴかぴかに磨き上げられたシルバー号が、海沿いの道を走っていた。
運転席には先生のお父さん、助手席にはお母さん。
後部座席には、先生と、千奈が並んで座っていた。
エンジンの音は、驚くほど静かだった。
倉本家の整備士たちが、半年かけて、部品を一から作り直したのだ。
車検にも、無事に通った。
「……本当に、直っちゃいましたね」
「当然ですわ! 倉本家に、不可能はございませんもの!」
千奈は、胸を張った。
窓の外に、きらきらと光る海が見えてきた。
「先生! 海ですわ!」
「はい。海ですね」
先生は、窓の外を見つめながら、静かに言った。
「最後じゃなくなりました。これからも、何回でも来られます」
千奈は、先生の横顔を見つめた。
それから、少しだけ照れくさそうに、言った。
「……では、先生。次は、わたくしも、また連れてきてくださいまし。何回でも、最期まで」
「はい。約束します」
シルバー号は、海沿いの道を、どこまでも走っていった。
《……バックミラー越しに、両親がずっとにやにやしている。何なんだろう》
―シルバー号が直ってから、二週間。
倉本千奈の生活は、以前より少しだけ賑やかになっていた。
理由は簡単。
先生のご家族と、倉本家がすっかり仲良くなってしまったからである。
シルバー号の修理をきっかけに、先生のご両親は倉本家に何度もお礼の連絡を入れた。
倉本家も「大切なお車を救えたのですから」と、今度は先生のご実家にまで招待状を送った。
最初は、ただのお礼の食事会だった。
少なくとも、千奈はそう思っていた。
「まあまあ! 先生のお母様、お茶のおかわりはいかがですの?」
「ありがとう、千奈ちゃん。あなた、本当に気が利くのねえ」
「そ、そんな! 当然のことですわ!」
「うちの息子も、千奈ちゃんみたいな子がお嫁さんだったら幸せでしょうねえ」
「…………へ?」
千奈の手から、急須が滑り落ちそうになった。
一方、先生のお父さんは、隣に座る倉本家の当主と楽しそうに話していた。
「いやあ、まさか、あの車がまた走れるようになるとは思いませんでしたよ」
「いえいえ。娘が大変お世話になっている先生の、大切なご家族ですからな」
「娘さんには本当に感謝しています。息子も、最近は家に帰るたびに千奈ちゃんの話をするんですよ」
「ほう……!」
倉本家当主の目が、きらりと光った。
「それは、実に興味深い」
「お父様?」
千奈が振り向いたときには、すでに父は満足げにうなずいていた。
「なるほど。これは、思っていた以上に相性がよろしいようですな」
「ええ、私もそう思います」
先生のお父さんも、なぜか同じようにうなずいた。
「……何のお話ですの?」
「いやいや、こちらの話だよ、千奈」
父は、にこにこと笑った。
その笑顔が、千奈には妙に恐ろしかった。
◇
食事会から三日後。
倉本家の会議室にて。
「では、先生を千奈の伴侶候補として迎える方向で進めよう」
「かしこまりました」
「まずは住環境だ。千奈がアイドル活動を続けることを考慮し、学園へのアクセスがよく、先生の仕事部屋も確保できる邸宅をいくつか選定してくれ」
「すでに候補を三件ほどご用意しております」
「早いな」
「お嬢様のお相手ですので」
「うむ。さすがだ」
――千奈は、その会話を廊下で聞いてしまった。
「…………」
手に持っていたおやつのマカロンが、ぽろりと床に落ちた。
(……は、伴侶……?)
(……先生が、わたくしの……?)
頭の中で、父の声が何度も繰り返される。
伴侶。
先生。
伴侶。
先生。
(ま、待ってくださいまし……!)
(わたくし、先生とお昼をご一緒したり、手をつないだり、褒めていただいたりするだけで、精一杯ですのよ!?)
(そ、それなのに……と、伴侶……!?)
千奈は両手で頬を押さえた。
頬が熱い。
心臓がうるさい。
そして、何より困ったことに。
―少しだけ、想像してしまった。
先生と一緒に暮らす未来を。
朝、先生を起こして。
一緒に朝食を食べて。
お仕事へ向かう先生を玄関で見送って。
帰ってきた先生に「おかえりなさいませ」と言って。
そして夜には、隣に座って、今日あったことをお話しして。
(…………っ!)
「むむむむむ……っ!」
千奈は、その場にしゃがみ込んだ。
(な、なにを考えておりますの、わたくし!)
(まだ、そのようなお話は一切……! 先生ご本人の意思だって、確認されていないではありませんか!)
そこまで考えて、千奈ははっとした。
(……先生の、ご意思)
もし。
もし先生が、そんなことを望んでいなかったら。
自分だけが勝手に期待して、勝手に夢を見ているのだとしたら。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「……だめですわ」
千奈は立ち上がった。
「先生に、ご迷惑をおかけしてはいけませんもの……」
そう言いながらも。
頭の中では、すでにウェディングドレスを着た自分が、先生の隣で微笑んでいた。
(……むむむむむむむ……っ!)
千奈は、顔を真っ赤にして逃げ出した。
◇
翌日。
学園の廊下。
「先生!」
「はい、倉本さん。どうしました?」
「せ、先生は……その……」
千奈は、もじもじと指先を合わせた。
聞かなければならない。
先生が、結婚についてどう考えているのか。
けれど、直接聞くのは恥ずかしすぎる。
「先生は、将来……どのようなご家庭を築きたいとお考えですの?」
「家庭?」
「は、はい! たとえば、その……お住まいですとか、ご家族ですとか……!」
先生は少し考えた。
「うーん。そうですね。落ち着いて暮らせる家がいいですね。仕事から帰ってきたら、ほっとできるような」
「ほ、ほっとできる……」
「家族とご飯を食べたり、休日に出かけたり。そういう普通の生活ができたらいいなと思います」
「…………」
千奈の脳内に、先ほど想像していた未来が鮮明によみがえった。
一緒に朝食。
玄関でお見送り。
「おかえりなさいませ」。
そして、休日の海。
(……わ、わたくしでも……そのような家庭を、築けるのでしょうか……)
「倉本さん?」
「は、はいっ!」
「どうしてそんなに真っ赤なんですか?」
「な、なんでもございませんわ!」
千奈は勢いよく首を振った。
「た、ただ! 将来について考えることは、大切だと思いまして!」
「そうですね。倉本さんは、しっかりしていますね」
「しっかり……!」
褒められた。
しかも、将来の話をしているときに。
千奈は、胸を押さえた。
(だめですわ……!)
(先生は、何もご存じないのです!)
(ご自分が、いま、どれほどわたくしの心をかき乱していらっしゃるのか……!)
「先生!」
「はい?」
「……その、もしも、ですわよ?」
「はい」
「もしも、将来、誰かとご結婚なさるとしたら……!」
言ってしまった。
千奈は口元を押さえた。
先生は、きょとんとした。
「結婚ですか?」
「は、はい……!」
「うーん。相手の方と、ちゃんと話し合って決めたいですね。お互いに無理をせず、一緒にいて安心できる関係がいいです」
「……一緒にいて、安心できる……」
千奈は、ぎゅっと胸元を握った。
「……そう、ですのね」
「はい。倉本さんは、どうですか?」
「へっ!?」
「どんな家庭が理想なんですか?」
「わ、わたくし……!」
千奈の脳内が真っ白になった。
まさか、聞き返されるとは思わなかった。
「そ、その……!」
―先生と。
先生と一緒に。
先生の隣で。
毎日。
ずっと。
「……あ、あたたかい家庭が、よろしいですわね!」
「いいですね」
「そ、それで……毎日、笑顔で過ごせるような……!」
「素敵だと思います」
「そ、それから……お互いのことを大切にして……!」
「はい」
「……っ!」
千奈は、とうとう耐えきれなくなった。
「せ、先生! わたくし、レッスンがございますので失礼いたしますわ!」
「はい。頑張ってくださいね」
「……っ、はいっ!」
千奈は駆け出した。
背後から、先生の声が追いかけてくる。
「倉本さん! 廊下は走らないでくださいね!」
「わ、わかっておりますわーーーっ!」
◇
その日の放課後。
千奈は、レッスン室の隅で膝を抱えていた。
(……先生と、結婚……)
口に出すだけでも恥ずかしい。
けれど、一度意識してしまうと、もう止められなかった。
先生が別の誰かと結婚する未来を想像すると、胸がちくりと痛む。
先生が自分の知らない誰かに「おかえりなさい」と言われること。
自分の知らない誰かと、休日を過ごすこと。
自分の知らない誰かの隣で、先生が笑うこと。
(…………いやですわ)
千奈は、ぎゅっと膝を抱え直した。
(……わたくし、こんなにも、欲張りだったのですね)
先生が元気でいてくれれば、それだけでいいと思っていた。
先生が明日も学園に来てくれるなら、それだけでいいと思っていた。
けれど、いつの間にか。
先生の未来に、自分もいたいと思うようになっていた。
先生の一番近くにいたい。
先生が困ったとき、真っ先に頼ってもらいたい。
先生が嬉しいとき、一番にその笑顔を見たい。
そして、いつか。
先生が人生の大切な選択をするとき。
自分の名前を、候補のひとつに入れてほしい。
「……むむむむむ……!」
千奈は顔を覆った。
(……だめですわ! これは、まだ、早すぎますわ!)
(わたくしは、まず、立派なアイドルにならなければ……!)
(先生にふさわしい女性になるためにも……!)
そこで、千奈はぴたりと固まった。
(……先生に、ふさわしい……?)
自分で考えて、自分で赤くなった。
「~~~~っ!」
「倉本さん?」
「ひゃああああっ!?」
いつの間にか、先生がレッスン室の入り口に立っていた。
「だ、大丈夫ですか? 何か悩み事でも?」
「な、ななな、なんでもございませんわ!」
「そうですか? ずいぶん顔が赤いですけど……」
先生が心配そうに近づいてくる。
千奈は、反射的にその袖をつかんだ。
「……っ」
つかんでから、気づいた。
「あ……」
先生が、千奈の手を見る。
千奈は慌てて離そうとした。
けれど、その前に。
「どうしました?」
先生が、優しく尋ねた。
その声を聞いた瞬間、千奈の胸がいっぱいになった。
言いたいことは、たくさんある。
結婚のこと。
家族のこと。
先生の未来に、自分もいたいということ。
でも、今はまだ、何ひとつ言えそうになかった。
だから千奈は、せめて。
「……先生」
「はい」
「……もう少しだけ、ここにいていただけませんか?」
先生は、少し驚いたあと、微笑んだ。
「もちろんです」
千奈は、そっと先生の袖を握り直した。
(……いまは、これだけで)
(いまは、先生が隣にいてくださるだけで、十分ですわ)
そう思った。
―そのはずだった。
「そうだ、倉本さん」
「は、はい?」
「今度の休日、うちの両親が倉本家にお礼をしに行くそうです。よかったら、倉本さんも一緒にどうですか?」
「…………え?」
「前にお世話になったお礼を、改めてしたいそうで」
「…………せ、先生の、ご実家に……?」
「いえ、今回は倉本家に伺うそうです」
「……ご家族同士で……?」
「はい」
千奈の頭の中で、何かが弾けた。
両家の食事会。
両親同士の笑顔。
「うちの息子も、千奈ちゃんみたいな子がお嫁さんだったら幸せでしょうねえ」
そして、倉本家当主の、あの意味深な笑顔。
(ま、まさか……!)
(これは……両家の顔合わせ……!?)
「倉本さん?」
「……せ、先生!」
「はい?」
千奈は、真っ赤な顔で、先生の袖を握りしめた。
「……わ、わたくし! 当日は、失礼のないよう、精一杯おもてなしをいたしますわ!」
「ありがとうございます。両親も喜ぶと思います」
「そ、それから……!」
「はい?」
「……その……!」
言えない。
「わたくしも、先生のご家族に……その……」
―お嫁さん候補として、見ていただけるように。
そんな言葉が、喉まで出かかった。
千奈は、ぷるぷると首を振った。
「……な、なんでもございませんわ!」
先生は、不思議そうに首をかしげた。
「そうですか?」
「はいっ!」
千奈は、満面の笑みを浮かべた。
ただし、その頭の中は大騒ぎだった。
(……ど、どうしましょう……!)
(先生のご家族にお会いするのですわ……!)
(お洋服は? 髪型は? 手土産は? そもそも、わたくし、先生のことをどこまでお話ししてよいのでしょう!?)
(……いえ! 落ち着きなさい、千奈!)
(これは、ただのお礼の会ですわ! 結婚とは何の関係も……!)
そこまで考えたところで、千奈は小さくうなった。
(……でも)
(もしも、万が一……ほんの少しでも、可能性があるのなら……)
千奈は、先生の袖を握る手に、そっと力を込めた。
(……わたくし、頑張りますわ)
◇
その夜。
倉本家の会議室。
「お嬢様、週末のお召し物はこちらでいかがでしょうか」
「……えっ?」
千奈の前に、上品なワンピースが三着並べられた。
「ご家族でのお食事会ですので、華美になりすぎず、しかしお嬢様の魅力が十分に伝わるものを選びました」
「か、香名江……? なぜ、そこまで……?」
「もちろん、先生のご家族をお迎えするためでございます」
「そ、それはわかっておりますけれど……!」
香名江は、にこりと微笑んだ。
「お嬢様。先生のことを、どうお思いですか?」
「…………っ!」
千奈は固まった。
「そ、それは……大切な先生ですわ!」
「ええ。存じております」
「わたくしを、いつも褒めてくださって……頑張る力をくださって……とても優しくて……」
「はい」
「それに……先生がいらっしゃると、嬉しくて……お会いできないと、少し寂しくて……」
「はい」
「……先生の隣にいると、安心して……」
千奈の声が、だんだん小さくなっていく。
香名江は、何も言わずに待っていた。
やがて、千奈は真っ赤な顔を両手で覆った。
「……も、もう! 言わせないでくださいまし!」
香名江は、優しく微笑んだ。
「かしこまりました、お嬢様」
「……香名江?」
「私どもは、お嬢様が幸せになることを、何より願っております」
千奈は、指の隙間から、香名江を見た。
「……幸せ」
「はい。お嬢様が、心から一緒にいたいと思う方と、これからも笑って過ごせること。それが、私どもの願いでございます」
千奈は、ゆっくりと手を下ろした。
そして、膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
「……わたくし」
「はい」
「……先生と、ずっと一緒にいたいですわ」
初めて、自分の口からはっきりと言えた。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
香名江は、静かに頭を下げた。
「かしこまりました、お嬢様」
「……で、でも! 先生のお気持ちもございますから! 倉本家の力で無理にどうこうするのは、いけませんわ!」
「もちろんでございます」
「先生ご本人が、望んでくださらなければ……!」
千奈はそこまで言って、急にうつむいた。
(……望んで、くださるのでしょうか)
不安が、ほんの少しだけ胸をよぎった。
そのとき、香名江がそっと千奈の肩に手を置いた。
「お嬢様。先生は、これまでもお嬢様の努力を、きちんと見ていてくださいました」
「……はい」
「ですから、今は焦らず、お嬢様らしくお過ごしになればよろしいかと」
千奈は、こくりとうなずいた。
「……わかりましたわ」
そして、ワンピースを見つめた。
「……ところで、香名江」
「はい」
「……この三着でしたら、どれが一番……その……」
千奈は、頬を染めながら、小さな声で尋ねた。
「……先生に、素敵だと思っていただけそうですの?」
香名江は、一瞬だけ目を丸くした。
それから、これまで見たことがないほど嬉しそうに笑った。
「―お嬢様。三着とも、ご試着なさいましょう」
「……っ! お、お願いしますわ!」
倉本家の夜は、いつもより少しだけ騒がしかった。
そして千奈は、まだ知らない。
その翌日、倉本家当主が先生の父親に電話をかけ、
「いやあ、息子さんと千奈の将来について、一度ゆっくりお話しできればと思いましてな」
などと、本人たちの知らないところで、勝手に第二回の会食を企画していることを。
もちろん、先生はまだ何も知らない。
千奈も、まだ何も知らない。
ただ一人、香名江だけが、すべてを把握していた。
「……お嬢様。どうか、明日は心臓のお薬ではなく、胃薬をご用意なさってくださいませ」
「か、香名江!? なぜですの!?」
「いえ。今後、いろいろと胸の高鳴る出来事が増えそうでございますので」
「~~~~っ! 香名江!!」
千奈の叫び声が、倉本家に響き渡った。
千奈さんは依存度が上がっても透き通ってました