プロデューサーが死ぬと勘違いして死ぬほど依存度が上がる話   作:マロンex

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麻央編

聞き覚えのある声だった。

 

(プロデューサー? こんな時間に、こんなところで何を……)

 

麻央は、扉の隙間から、そっと中を覗いた。

 

プロデューサーが、窓辺に一人で立っていた。手には、数枚の紙を持っている。

 

「……医者に、言われたんだ」

 

プロデューサーの声は、ひどく平坦だった。

感情を押し殺しているような、淡々とした声だった。

 

「あと、半年だって」

 

麻央の呼吸が、止まった。

 

「……誰にも言わないでほしいんだ。心配させたくないから。残りの時間は、いつも通りに過ごしたいんだ」

 

プロデューサーは、窓の外の夕日を見つめた。

 

「……ただ、最後に、ひとつだけ。大切な人に伝えたいことがある」

 

そこで、プロデューサーは黙り込んだ。

手元の紙をじっと見つめて、小さくため息をついた。

 

麻央は、音を立てないように、扉の前から離れた。

廊下の壁に、背中を押しつける。

 

(……半年)

 

(誰にも、言うつもりはない...か。プロデューサーは優しいな)

 

麻央は、拳を握りしめた。

 

(なら、ボクも、気づかないふりをしよう。……その代わり)

 

麻央は、顔を上げた。

 

(キミの残りの半年は、ボクが守る)

◇

翌朝。

プロデューサーが校門をくぐると、麻央が待っていた。

 

「おはよう、プロデューサー。鞄、持つよ」

 

「え? 自分で持てますけど」

 

「いいから。ボクに持たせてくれ」

 

麻央は、プロデューサーの鞄を奪うように受け取った。

 

「階段、気をつけて。手すりにつかまって」

 

「有村さん、今日、どうしたんですか」

 

「どうもしないさ。ボクは王子様だからね。大切な人をエスコートするのは、当然だろう?」

 

プロデューサーは、首をかしげた。

 

◇

昼休み。

麻央は、プロデューサーの隣に座って、じっと弁当を見つめていた。

 

「プロデューサー。最近、ちゃんと眠れてるかい」

 

「あんまり、ですね。夜、いろいろ考えてしまって」

 

「……いろいろ?」

 

「人生について...ちょっと色々」

 

麻央の箸が、止まった。

 

「有村さん。ひとつ、聞いてもいいですか」

 

「……なんだい」

 

「もし、自分に残された時間が少ないとわかったら。有村さんなら、大切な人に何を伝えますか」

 

麻央は、すぐには答えられなかった。

喉の奥が、熱かった。

 

「……ボクなら、ありがとう、って伝えるよ。出会ってくれて、ありがとうって」

 

「……ありがとう、ですか」

 

プロデューサーは、手元の手帳に、何かを書き留めた。

 

「あ、急にすみません! お芝居の参考にさせてもらいます」

 

(お芝居……ね、嘘だけは下手なんだから)

 

麻央は、空を見上げた。

泣きそうになるのを、必死にこらえた。

 

◇

それからの麻央は、まるで本物の王子様だった。

プロデューサーが廊下を歩けば、隣について歩いた。

咳をすれば、すぐにのど飴を差し出した。

重い資料を運ぼうとすれば、何も言わずに半分持った。

 

「有村さん、最近、ずっと隣にいますね」

 

「迷惑かい?」

 

「いえ。ただ、有村さんのレッスンの時間が減ってないか、心配で」

 

「レッスンなら、夜にやってるさ」

 

麻央は、さらりと言った。

それは、本当だった。

昼間はプロデューサーのそばにいて、夜遅くまで一人でレッスンをした。

半年あれば、まだ時間はある。

最後に見せたいステージを、ちゃんと作れる。

 

◇

二か月が経った頃。

プロデューサーが、レッスン室で麻央を呼び止めた。

 

「有村さん。この前のお芝居の話の続きなのですが...泣くのを我慢するには、どうしたらいいと思いますか」

 

麻央の肩が、びくりと跳ねた。

 

「……ああ、前言ってた」

 

「ええ、最後の場面で、泣かずに伝えたいことがあるんです。でも、うまくできなくて。有村さん、そういうの、得意そうなので」

 

麻央は、唇を噛んだ。

 

(得意なものか)

 

子役の頃から、泣く演技も、泣かない演技も、たくさんしてきた。

でも、今、目の前で、本当に泣きそうな自分を、どうやって隠せばいいのか、わからなかった。

 

「……上を向くんだ」

 

麻央は、ぽつりと言った。

 

「涙がこぼれそうになったら、少しだけ上を向く。それから、伝えたい相手の顔を、ちゃんと見る。そうすれば、言葉は、ちゃんと届くよ」

 

「ありがとうございます。やってみます」

 

プロデューサーは、また手帳に何かを書き留めた。

麻央は、その横顔を見つめながら、上を向いた。

 

◇

三か月が経った頃だった。

プロデューサーが、少し遅れてレッスン室にやってきた。

 

「すみません。いやあ、次の担当の方と話してたら、盛り上がっちゃって」

 

麻央の手が、止まった。

 

「……次の、担当?」

 

「はい。元気で、声が大きい人でしたよ。有村さんとも、絶対話が合うと思います。あ、今度紹介しましょうか」

 

プロデューサーは、手帳を開いた。

 

「引き継ぎのとき、有村さんの台本の読み合わせの記録も、全部渡しておきますね。今まで録音してきたもの、全部」

 

「……引継ぎ...?」

 

「はい。来月で、今の契約は解除するので。それまでに、全部移しておかないと」

 

まるで、明日の天気の話でもするような口ぶりだった。

麻央は、何も言えなかった。

 

(来月……)

 

(半年じゃ、なかったのか)

 

(ボクの稽古の記録まで、もう全部、次の人に渡す準備をしてる……)

 

麻央は、静かに上を向いた。

 

◇

その夜、麻央は寮の自室で、作りかけのドレスを見つめていた。

淡いピンクの、フリルのたっぷりついたドレス。

何週間もかけて、少しずつ縫い上げてきたものだった。

 

(……王子様なら、こういうときは、笑って送り出すべきだ)

 

プロデューサーは、自分のために、ちゃんと後任を選んでくれた。

最後の時間を、自分のことより、担当アイドルのために使ってくれている。

 

それを拒むのは、王子様のやることじゃない。

 

(わかってる。ボクは、わかってるよ)

 

麻央は、針を持つ手に、力を込めた。

 

(だから、せめて最後に、本当のボクを見てもらおう)

 

◇

一か月後。

契約解除の、前日。

麻央は、プロデューサーをレッスン室に呼び出した。

 

「プロデューサー。今日は、キミに見てほしいものがあるんだ」

 

麻央は、レッスン室の奥のカーテンを開けた。

そこから出てきた麻央は、いつもの凛々しい衣装ではなかった。

淡いピンクの、フリルのたっぷりついたドレスだった。

 

プロデューサーが、目を丸くした。

 

「……有村さん。それ」

 

「ボクの、本当に好きなもの」

 

麻央は、少しだけ恥ずかしそうに、スカートの裾をつまんだ。

 

「ずっと、カッコいいボクでいなきゃいけないと思ってた。でも、本当は、こういう可愛いものも好きなんだ。……誰にも、見せたことはなかったけど」

 

麻央は、まっすぐにプロデューサーを見た。

 

「キミには、見てほしかった。最後に、本当のボクを」

 

それから、麻央は、ドレスのまま、一曲だけ歌った。

王子様の歌ではなかった。

ずっと歌ってみたかった、可愛らしいラブソングだった。

歌い終えると、プロデューサーは、静かに拍手をした。

 

「似合ってます。すごく、よかったです」

 

それから、プロデューサーは、録画していたスマートフォンを掲げた。

 

「今のも新しいほうにも、ちゃんと移しておきますね。記録にしておけばこれから先もずっと見られますし...」

 

麻央の中で、何かが、ぷつりと切れた。

 

「……記録って」

 

「はい」

 

「……っ、なんで」

 

 

麻央の声が、震えた。

 

「なんで、記憶に残そうとは思わないんだ」

 

「有村さん?」

 

「ボクの、本当の姿は……キミにだけ、見せたかったのに」

 

上を向いた。こぼれないように。

でも、もう、止まらなかった。

 

「ボクは、キミのために、王子様でいようと思った。残りの半年を、ボクが守ろうって。キミが次の担当を選んでくれたなら、笑って送り出そうって。……何度も、自分に言い聞かせた」

 

麻央は、ドレスの裾を握りしめたまま、その場に膝をついた。

 

「でも、駄目なんだ。王子様のふりなんて、もうできない」

 

麻央は、顔を上げた。

涙で濡れた顔だった。

 

「次の担当なんて、いらない。どんなに声が大きくて、話が合う人でも、いらないんだ。ボクの稽古も、ボクのドレスも、全部、キミにだけ見ていてほしい」

 

麻央は、プロデューサーのスーツの袖を、ぎゅっと握った。

 

「最後まで、キミがいい。キミが死んじゃったら……ボクは、これから、誰のために王子様でいればいいんだ……!」

 

麻央は、声を上げて泣いた。

子役の頃から、一度も、人前でこんな泣き方をしたことはなかった。

プロデューサーは、しばらく固まっていた。

それから、ゆっくりと、麻央の前にしゃがみ込んだ。

 

「……有村さん」

 

「……なんだい」

 

「今、死んじゃったら、って言いましたか」

 

「言ったよ……」

 

「誰が、ですか」

 

「キミに、決まってるだろう……!」

 

プロデューサーは、目をぱちぱちと瞬かせた。

 

「……僕、死ぬんですか?」

 

麻央の泣き声が、ぴたりと止まった。

 

「……え?」

 

「僕、健康ですけど。この前の健康診断、全部A判定でした」

 

「……え……?」

 

「どうして、僕が死ぬと思ったんですか」

 

「旧校舎で……医者に言われた、あと半年だって。誰にも言うつもりはなかったって。最後に、大切な人に伝えたいことがあるって……」

 

プロデューサーは、しばらく考え込んだ。

それから、ああ、という顔をして、鞄から紙の束を取り出した。

表紙に、こう書かれていた。

 

『初星学園放送部 連続ボイスドラマ「最後の半年」 主人公役:プロデューサー(代役)』

 

「……それ、台詞の練習です」

 

麻央は、ぽかんと口を開けた。

 

「あれ...お芝居のお話してなかったでしたっけ、ほらこの前も最後に何を伝えたいかってお話で...」

 

「そ、それは君が余命が短いことを隠すためじゃなかったのかい」

 

「……い、いえ、すみません、そのような意図は...それに私は麻央さんに隠し事なんて」

 

「じゃあ...泣くのを我慢する方法も」

 

「えっと、ええ、最終回の演技指導を、お願いしたつもりでした」

 

「……次の担当の人は」

 

「携帯ショップの店員さんです」

 

「……は?」

 

「収録用のマイクを買いたくて、携帯のプランを見直したんです。来月で今の契約を解除して、新しい携帯に乗り換えます」

「ボクの、台本の読み合わせの記録を、全部渡すって……!」

 

「有村さんに見てもらった練習の録音です。全部、新しい携帯に移しておかないと消えちゃうので。店員さんに、データを移す方法を教えてもらってたんです。....あははっ...言葉足らずですみません」

 

麻央の顔が、みるみる真っ赤になっていった。

それを察したのか、焦ってプロデューサーがフォローするように続ける

 

「あ、あの...僕、棒読みってよく言われるので。たぶん、演技に聞こえなかったんだと思います。麻央さんが勘違いしてしまうのもしかたないですよ」

 

「~~~っ!!」

 

麻央は、ドレスの裾で顔を覆った。

 

「主語! 携帯の契約なら、携帯って言ってくれ!」

 

「言ってなかったですか」

 

「言ってないよ! 一回も!」

 

麻央は、膝に顔をうずめた。

 

「……ボクの、半年」

 

「すみません」

 

「ボクは、本気で、キミを守ろうとしてたんだ。毎日、鞄も持って、のど飴も用意して」

 

「ありがとうございました。のど飴、助かりました。台詞の練習で、喉を痛めてたので」

 

「~~~っ!!」

 

プロデューサーは、少しだけ考えてから、静かに言った。

 

「ドレスかわいいですね」

 

麻央の肩が、ぴくりと動いた。

 

「本当の有村さんを見せてくれて、嬉しかったです。それに、さっきの、最後までキミがいい、っていうのも」

 

プロデューサーは、少しだけ照れくさそうに、でも、まっすぐに麻央を見た。

 

「最期まで、僕でよければ。有村さんの王子様も、ドレスも、全部、僕が見ています」

 

麻央は、ゆっくりと顔を上げた。

真っ赤な目で、プロデューサーを見つめた。

それから、少しだけ、いつもの王子様の笑みを取り戻した。

 

「……当然さ。ボクの本当の姿を知ってるのは、キミだけなんだから。その責任は、最期まで取ってもらうよ」

 

「はい」

 

「それと」

 

麻央は、プロデューサーの台本を、ひょいと取り上げた。

 

「キミの収録、ボクが演技指導してあげるよ。元子役のボクを半年も騙したんだ。その演技力、ボクがもっと磨いてあげる」

 

それから、少しだけ頬を染めて、付け加えた。

 

「……その代わり、最終回の収録が終わったら、もう一回、このドレスを見てくれるかい」

 

「はい。何回でも」

 

麻央は、上を向いた。

今度は、嬉しくて、涙がこぼれそうだったから。

 

ーそれからしばらくして...

 

ボイスドラマの最終回の収録も終わり、麻央には、新しい習慣ができた。

プロデューサーを見かけたら、できるだけ一緒に過ごすこと。

 

以前なら、仕事の合間に軽く声をかける程度だった。

けれど、今では違う。

 

「プロデューサー、今、時間はあるかい?」

 

「ええ。どうしました?」

 

「いや、特に用事はないんだけどね」

 

麻央は、いつもの王子様らしい笑みを浮かべた。

 

「キミと一緒にいたくなったんだ」

 

「……え?」

 

「ふふっ。そんなに驚くことかな?」

 

そう言って、麻央はプロデューサーの隣に腰を下ろした。

肩が触れる。

それだけで、彼女の表情がほんの少し緩んだ。

 

「……うん。やっぱり、ここがいい」

 

「ここ、ですか?」

 

「キミの隣さ」

 

麻央は当然のように答え、彼の肩にこつんと頭を預けた。

 

「……有村さん?」

 

「何だい?」

 

「近くないですか?」

 

「そうかな? ボクはちょうどいいと思うけど」

 

「いや、でも……」

 

「もしかして、キミはボクが隣にいると落ち着かないのかな?」

 

顔を上げた麻央が、いたずらっぽく見つめてくる。

 

「そ、そんなことはありません」

 

「なら、問題ないね」

 

「……有村さん、最近ちょっと強引になってませんか?」

 

「おや。今さら気づいたのかい?」

 

麻央はくすくすと笑った。

けれど、再び彼の肩に頭を預けたとき、その笑顔は少しだけ変わった。

以前の彼女なら、こんなふうに誰かに甘えることはなかっただろう。

いつだって余裕があって、頼られる側で、弱いところなど見せない。

それが麻央の、自分自身に課した王子様の姿だった。

 

けれど、あの日から変わったことがある。

大切な人が、突然いなくなってしまうかもしれない。

そう考えただけで、胸が苦しくなった。

 

いつも隣にいることが当たり前だと思っていた。

 

明日も会える。

来週も話せる。

これから先も、ずっと。

 

そんな当たり前が、決して保証されたものではないと知ってしまった。

 

だから今は。

 

一緒にいられる時間を、以前よりずっと大切にしたかった。

 

「……プロデューサー」

 

「はい?」

 

「今日、帰りは空いているかい?」

 

「特に予定はありませんけど」

 

「そうか。なら、一緒に帰ろう」

 

「いいですよ」

 

「……本当に?」

 

「はい?」

 

「いや、ほら。キミも忙しいだろう? ボクに付き合ってもらうのは、申し訳ないかなと思ってね」

 

「有村さんと一緒に帰るのは、別に嫌じゃありませんよ」

 

「……別に?」

 

麻央がぴくりと反応した。

 

「そこは、嬉しいと言ってくれてもいいんじゃないかな?」

 

「えっ、あ、嬉しいですよ。もちろん」

 

「ふふっ。よろしい」

 

彼女は満足そうにうなずいた。

それから、彼の手元に目を落とす。

少し迷ったあと、そっと指先を伸ばした。

 

触れる。

離れる。

もう一度、触れる。

 

「……有村さん?」

 

「……手」

 

「はい?」

 

「……手を、つないでもいいかな」

 

最後だけ、声が小さくなった。

プロデューサーは微笑み、手を差し出した。

 

「もちろんです」

 

麻央は一瞬、目を丸くした。

それから、嬉しそうに彼の手を握った。

指を絡め、手のひらをぴったりと重ねる。

 

「……えへへ」

 

「……今、笑いました?」

 

「笑っていないよ?」

 

「いや、絶対に笑ってましたよね」

 

「気のせいさ」

 

麻央は顔をそらした。

けれど、つないだ手は、少しも離そうとしなかった。

 

「……ねえ、プロデューサー」

 

「はい」

 

「ボク、最近、少し欲張りになった気がするんだ」

 

「欲張り、ですか?」

 

「うん。以前は、キミと話せるだけで十分だと思っていたんだけどね」

 

麻央は、つないだ手を見つめた。

 

「今は、もっと話したい。一緒にいたい。キミの笑った顔も、困った顔も、できるだけたくさん見ていたいと思うんだ」

 

「……はい」

 

「キミが帰ってしまうと、少し寂しい。次に会えるまで、ずいぶん長く感じる」

 

彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……これって、困ったことかな?」

 

「いいえ」

 

「……本当に?」

 

「僕も、有村さんと一緒にいるのは楽しいですから」

 

「……そっか」

 

麻央は、ほっとしたように笑った。

 

「なら、これからも遠慮なく欲張らせてもらおうかな」

 

「ほどほどにお願いしますね」

 

「ふふっ。善処するよ」

 

そう答えた彼女は、さっそく彼の腕に自分の腕を絡めた。

 

「……有村さん?」

 

「何だい?」

 

「手をつないだばかりですよね?」

 

「手だけじゃ足りなくなったんだ」

 

あまりにも堂々と言われて、プロデューサーは返事に困った。

麻央は、そんな彼の反応を楽しそうに眺めていた。

 

「……キミは、ボクのことをどう思っているんだい?」

 

「大切な人ですよ」

 

「…………」

 

今度こそ、麻央は黙り込んだ。

 

「……そういうことを、急に言わないでくれないかな」

 

「すみません」

 

「だから、謝らないでくれ!」

 

頬を赤くしながら、麻央は彼の腕に顔を寄せた。

 

「……嬉しいに決まっているだろう」

 

その声は、いつもの王子様より、ずっと素直な女の子のものだった。

 

帰り道。

 

夕暮れの街を、二人は並んで歩いていた。

手はつないだまま。

途中で何度か人とすれ違ったが、麻央は腕を離そうとしなかった。

 

「……有村さん、知り合いに見られたらどうするんですか?」

 

「どうもしないさ」

 

「恥ずかしくないんですか?」

 

「キミと一緒にいるところを見られて、何が恥ずかしいんだい?」

 

「……それは、そうですけど」

 

「それに」

 

麻央は、つないだ手を少しだけ持ち上げた。

 

「ボクは、キミと一緒にいるのが嬉しいんだ。隠す必要なんてないだろう?」

 

プロデューサーが微笑むと、麻央は得意げに胸を張った。

しかし、しばらく歩いたあと、彼女はふいに足を止めた。

 

「……ねえ」

 

「はい?」

 

「明日も、会えるよね?」

 

何気ない問いかけのようだった。

けれど、握られた手には、少しだけ力がこもっていた。

プロデューサーは彼女の顔を見つめた。

 

「もちろんです。明日も仕事で会いますよ」

 

「……うん」

 

「どうしたんですか?」

 

「……いや」

 

麻央は笑おうとした。

 

「少し、確認したくなっただけさ」

 

彼女は、あの日のことを思い出していた。

突然、目の前から彼がいなくなってしまったように感じた、あの瞬間。

頭では、ただの出来事だとわかっていた。

 

けれど、心はそうではなかった。

 

失いたくない。

もっと一緒にいたい。

今まで言えなかった言葉を、伝えられるうちに伝えたい。

 

そんな気持ちが、日に日に大きくなっていた。

 

「……有村さん」

 

「うん?」

 

「明日だけじゃなくて、これからも、ちゃんと会いましょう」

 

麻央は足を止め、まっすぐ彼を見つめた。

 

「仕事のときだけじゃなくて。時間があるときは一緒に帰ったり、ご飯を食べたり……たまには、二人で出かけたりもしたい」

 

「……いいですね」

 

「それから、ボクが寂しいときは、寂しいって言ってもいいかな?」

 

プロデューサーは、優しくうなずいた。

 

「もちろんです」

 

「……キミが忙しいときは、ちゃんと待つよ。でも、落ち着いたら、ボクにも時間をくれると嬉しい」

 

「わかりました」

 

「……約束だよ?」

 

「約束です」

 

麻央は、ようやく笑った。

そして、つないだ手をぎゅっと握り直す。

 

「……よし」

 

「何がですか?」

 

「これで、明日も頑張れそうだ」

 

「そんなにですか?」

 

「そんなにさ」

 

麻央は、少しだけ背伸びをして、彼の耳元に顔を寄せた。

 

「……それにね」

 

「はい?」

 

「本当は、明日まで待つのも、少し寂しいんだ」

 

「……え?」

 

「今日、別れたら、次に会えるのは明日だろう?」

 

「そうですね」

 

「……長いじゃないか」

 

あまりにも真剣な声だったので、プロデューサーは思わず笑ってしまった。

 

「一晩ですよ?」

 

「キミにとっては一晩でも、ボクにとっては一晩なんだよ」

 

「それは、そうですけど……」

 

「ふふっ。困ったかい?」

 

「いえ、嬉しいです」

 

麻央は、今度こそ言葉を失った。

 

「……キミって、本当に……」

 

「はい?」

 

「……大好き」

 

ぽつりとこぼれた言葉。

 

言ってしまってから、麻央は目を見開いた。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……今のは」

 

「はい」

 

「……聞こえたかな?」

 

「はい」

 

「……そうか」

 

麻央は、真っ赤になった顔を両手で覆った。

 

「……ああ、もう。格好がつかないな……」

 

「僕は、嬉しかったですよ」

 

「……本当に?」

 

「はい。僕も、有村さんのことが大好きです」

 

麻央は、ゆっくりと顔を上げた。

 

その瞳が、驚きと喜びで揺れる。

 

「……もう一度、言ってくれないかい?」

 

「有村さんが大好きです」

 

「…………」

 

「麻央さん?」

 

名前を呼ばれた瞬間、彼女は息をのんだ。

いつもは「有村さん」と呼ばれることが多い。

けれど、今は違った。

 

「……もう一度」

 

「麻央さん」

 

「……うん」

 

麻央は、幸せそうに目を細めた。

 

「……えへへ。これは、何度聞いても嬉しいものだね」

 

そして、今度は彼女から、彼の手を両手で包み込んだ。

 

「……ボクも、大好きだよ。プロデューサー」

 

 

事務所に戻る前、二人は少しだけ遠回りをした。

特に目的地はない。

ただ、もう少し一緒に歩いていたかった。

 

「……ねえ、プロデューサー」

 

「はい?」

 

「今度、二人で出かけるなら、どこがいいかな?」

 

「有村さんの行きたいところでいいですよ」

 

「それじゃ駄目だ。キミの希望も聞きたい」

 

「うーん……水族館とか、どうですか?」

 

「水族館?」

 

「はい。ゆっくり見て回れますし」

 

麻央は少し考えてから、にっこり笑った。

 

「いいね。じゃあ、約束だ」

 

「予定を合わせましょう」

 

「うん。絶対に行こう」

 

それから、彼女は少しだけ声を小さくした。

 

「……デート、だね」

 

「……そうですね」

 

「……ふふっ」

 

麻央は、うつむいて笑った。

 

「……なんだか、楽しみで眠れなくなりそうだ」

 

「まだ日程も決まってませんよ?」

 

「だからこそ、だよ。いつ行くのか、何を着ていこうか、キミとどんな話をしようか……考えることがいっぱいあるだろう?」

 

「そうですね」

 

「……ああ、早く行きたいな」

 

彼女は彼の腕に寄り添った。

そして、ほんの少しだけ甘えるように、肩に頭を預ける。

 

「……今日は、もう少しだけ、このままでいさせてくれないかい?」

 

「もちろんです」

 

「……ありがとう」

 

麻央は目を閉じた。

つないだ手の温かさ。

すぐ隣から聞こえる声。

歩調を合わせてくれる、彼の存在。

 

どれも、以前は当たり前のように思っていたものだった。

 

今は、その一つ一つが愛おしい。

失うかもしれないと感じたからこそ、気づいてしまった。

 

彼がいるだけで、自分はこんなにも幸せなのだと。

そして、その幸せを、これからもずっと守りたいのだと。

 

「……プロデューサー」

 

「はい」

 

「……明日、会ったら」

 

麻央は、少しだけ顔を上げた。

 

「最初に、ボクのところへ来てくれるかい?」

 

「もちろんです」

 

「……それで、少しだけ話をして、それから一緒にお昼を食べて……」

 

「はい」

 

「……帰りも、一緒に帰ろう」

 

「わかりました」

 

麻央は、満足そうに笑った。

 

「……よし。明日の予定も決まりだね」

 

「ずいぶん先まで決めるんですね」

 

「当然さ。ボクは、キミと過ごす時間を大切にしたいんだから」

 

そう言って、彼女はもう一度、ぎゅっと手を握った。

 

「……ねえ」

 

「はい?」

 

「……これからも、ボクの隣にいてくれるかい?」

 

今度の問いかけには、冗談も、演技もなかった。

 

ただ、大好きな人を失いたくないという、まっすぐな気持ちだけがあった。

 

プロデューサーは、彼女の手を握り返した。

 

「もちろんです。これからも、ずっと」

 

「…………」

 

麻央の瞳が、ゆっくりと細められる。

 

「……ふふっ」

 

彼女は彼の腕に頬を寄せた。

 

「……なら、ボクも約束するよ」

 

「何をですか?」

 

「キミが寂しいときも、困ったときも、嬉しいときも……一番近くで、キミのそばにいる」

 

そして、少し照れくさそうに付け加えた。

 

「……それに、キミがボクを必要としてくれるなら、ボクはいつだって会いに行くよ」

 

「……ありがとうございます」

 

「ふふっ。お礼なんていらないさ」

 

麻央は、幸せそうに微笑んだ。

 

「だって、ボクがそうしたいんだから」

 

夕暮れの道を、二人は再び歩き出す。

 

つないだ手は、もう離れなかった。

明日も会える。

明後日も、その先も。

その約束を胸に、麻央は彼の隣で、いつまでも嬉しそうに笑っていた。

 

―もう、彼がいない未来なんて、想像したくなかった。

 

だからこそ、これからは。

好きだという気持ちを、ちゃんと言葉にしよう。

一緒にいたいと、素直に伝えよう。

そして、彼が隣にいてくれる幸せを、何度でも確かめよう。

 

「……プロデューサー」

 

「はい?」

 

「……大好きだよ」

 

「僕も大好きです、麻央さん」

 

「……えへへ」

 

その日、麻央は帰り際に、もう一度だけ彼の手を握り直した。

 

「……じゃあ、また明日」

 

「はい。また明日」

 

「……約束だからね?」

 

「約束です」

 

麻央は、満面の笑みを浮かべた。

そして、今度こそ安心したように手を離した。

 

―明日も会える。

 

そう信じられることが、こんなにも嬉しいなんて。

彼女は、帰り道の途中で何度も思い出しては、ひとりで小さく笑ってしまうのだった。

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