プロデューサーが死ぬと勘違いして死ぬほど依存度が上がる話 作:マロンex
聞き覚えのある声だった。
(プロデューサー? こんな時間に、こんなところで何を……)
麻央は、扉の隙間から、そっと中を覗いた。
プロデューサーが、窓辺に一人で立っていた。手には、数枚の紙を持っている。
「……医者に、言われたんだ」
プロデューサーの声は、ひどく平坦だった。
感情を押し殺しているような、淡々とした声だった。
「あと、半年だって」
麻央の呼吸が、止まった。
「……誰にも言わないでほしいんだ。心配させたくないから。残りの時間は、いつも通りに過ごしたいんだ」
プロデューサーは、窓の外の夕日を見つめた。
「……ただ、最後に、ひとつだけ。大切な人に伝えたいことがある」
そこで、プロデューサーは黙り込んだ。
手元の紙をじっと見つめて、小さくため息をついた。
麻央は、音を立てないように、扉の前から離れた。
廊下の壁に、背中を押しつける。
(……半年)
(誰にも、言うつもりはない...か。プロデューサーは優しいな)
麻央は、拳を握りしめた。
(なら、ボクも、気づかないふりをしよう。……その代わり)
麻央は、顔を上げた。
(キミの残りの半年は、ボクが守る)
◇
翌朝。
プロデューサーが校門をくぐると、麻央が待っていた。
「おはよう、プロデューサー。鞄、持つよ」
「え? 自分で持てますけど」
「いいから。ボクに持たせてくれ」
麻央は、プロデューサーの鞄を奪うように受け取った。
「階段、気をつけて。手すりにつかまって」
「有村さん、今日、どうしたんですか」
「どうもしないさ。ボクは王子様だからね。大切な人をエスコートするのは、当然だろう?」
プロデューサーは、首をかしげた。
◇
昼休み。
麻央は、プロデューサーの隣に座って、じっと弁当を見つめていた。
「プロデューサー。最近、ちゃんと眠れてるかい」
「あんまり、ですね。夜、いろいろ考えてしまって」
「……いろいろ?」
「人生について...ちょっと色々」
麻央の箸が、止まった。
「有村さん。ひとつ、聞いてもいいですか」
「……なんだい」
「もし、自分に残された時間が少ないとわかったら。有村さんなら、大切な人に何を伝えますか」
麻央は、すぐには答えられなかった。
喉の奥が、熱かった。
「……ボクなら、ありがとう、って伝えるよ。出会ってくれて、ありがとうって」
「……ありがとう、ですか」
プロデューサーは、手元の手帳に、何かを書き留めた。
「あ、急にすみません! お芝居の参考にさせてもらいます」
(お芝居……ね、嘘だけは下手なんだから)
麻央は、空を見上げた。
泣きそうになるのを、必死にこらえた。
◇
それからの麻央は、まるで本物の王子様だった。
プロデューサーが廊下を歩けば、隣について歩いた。
咳をすれば、すぐにのど飴を差し出した。
重い資料を運ぼうとすれば、何も言わずに半分持った。
「有村さん、最近、ずっと隣にいますね」
「迷惑かい?」
「いえ。ただ、有村さんのレッスンの時間が減ってないか、心配で」
「レッスンなら、夜にやってるさ」
麻央は、さらりと言った。
それは、本当だった。
昼間はプロデューサーのそばにいて、夜遅くまで一人でレッスンをした。
半年あれば、まだ時間はある。
最後に見せたいステージを、ちゃんと作れる。
◇
二か月が経った頃。
プロデューサーが、レッスン室で麻央を呼び止めた。
「有村さん。この前のお芝居の話の続きなのですが...泣くのを我慢するには、どうしたらいいと思いますか」
麻央の肩が、びくりと跳ねた。
「……ああ、前言ってた」
「ええ、最後の場面で、泣かずに伝えたいことがあるんです。でも、うまくできなくて。有村さん、そういうの、得意そうなので」
麻央は、唇を噛んだ。
(得意なものか)
子役の頃から、泣く演技も、泣かない演技も、たくさんしてきた。
でも、今、目の前で、本当に泣きそうな自分を、どうやって隠せばいいのか、わからなかった。
「……上を向くんだ」
麻央は、ぽつりと言った。
「涙がこぼれそうになったら、少しだけ上を向く。それから、伝えたい相手の顔を、ちゃんと見る。そうすれば、言葉は、ちゃんと届くよ」
「ありがとうございます。やってみます」
プロデューサーは、また手帳に何かを書き留めた。
麻央は、その横顔を見つめながら、上を向いた。
◇
三か月が経った頃だった。
プロデューサーが、少し遅れてレッスン室にやってきた。
「すみません。いやあ、次の担当の方と話してたら、盛り上がっちゃって」
麻央の手が、止まった。
「……次の、担当?」
「はい。元気で、声が大きい人でしたよ。有村さんとも、絶対話が合うと思います。あ、今度紹介しましょうか」
プロデューサーは、手帳を開いた。
「引き継ぎのとき、有村さんの台本の読み合わせの記録も、全部渡しておきますね。今まで録音してきたもの、全部」
「……引継ぎ...?」
「はい。来月で、今の契約は解除するので。それまでに、全部移しておかないと」
まるで、明日の天気の話でもするような口ぶりだった。
麻央は、何も言えなかった。
(来月……)
(半年じゃ、なかったのか)
(ボクの稽古の記録まで、もう全部、次の人に渡す準備をしてる……)
麻央は、静かに上を向いた。
◇
その夜、麻央は寮の自室で、作りかけのドレスを見つめていた。
淡いピンクの、フリルのたっぷりついたドレス。
何週間もかけて、少しずつ縫い上げてきたものだった。
(……王子様なら、こういうときは、笑って送り出すべきだ)
プロデューサーは、自分のために、ちゃんと後任を選んでくれた。
最後の時間を、自分のことより、担当アイドルのために使ってくれている。
それを拒むのは、王子様のやることじゃない。
(わかってる。ボクは、わかってるよ)
麻央は、針を持つ手に、力を込めた。
(だから、せめて最後に、本当のボクを見てもらおう)
◇
一か月後。
契約解除の、前日。
麻央は、プロデューサーをレッスン室に呼び出した。
「プロデューサー。今日は、キミに見てほしいものがあるんだ」
麻央は、レッスン室の奥のカーテンを開けた。
そこから出てきた麻央は、いつもの凛々しい衣装ではなかった。
淡いピンクの、フリルのたっぷりついたドレスだった。
プロデューサーが、目を丸くした。
「……有村さん。それ」
「ボクの、本当に好きなもの」
麻央は、少しだけ恥ずかしそうに、スカートの裾をつまんだ。
「ずっと、カッコいいボクでいなきゃいけないと思ってた。でも、本当は、こういう可愛いものも好きなんだ。……誰にも、見せたことはなかったけど」
麻央は、まっすぐにプロデューサーを見た。
「キミには、見てほしかった。最後に、本当のボクを」
それから、麻央は、ドレスのまま、一曲だけ歌った。
王子様の歌ではなかった。
ずっと歌ってみたかった、可愛らしいラブソングだった。
歌い終えると、プロデューサーは、静かに拍手をした。
「似合ってます。すごく、よかったです」
それから、プロデューサーは、録画していたスマートフォンを掲げた。
「今のも新しいほうにも、ちゃんと移しておきますね。記録にしておけばこれから先もずっと見られますし...」
麻央の中で、何かが、ぷつりと切れた。
「……記録って」
「はい」
「……っ、なんで」
麻央の声が、震えた。
「なんで、記憶に残そうとは思わないんだ」
「有村さん?」
「ボクの、本当の姿は……キミにだけ、見せたかったのに」
上を向いた。こぼれないように。
でも、もう、止まらなかった。
「ボクは、キミのために、王子様でいようと思った。残りの半年を、ボクが守ろうって。キミが次の担当を選んでくれたなら、笑って送り出そうって。……何度も、自分に言い聞かせた」
麻央は、ドレスの裾を握りしめたまま、その場に膝をついた。
「でも、駄目なんだ。王子様のふりなんて、もうできない」
麻央は、顔を上げた。
涙で濡れた顔だった。
「次の担当なんて、いらない。どんなに声が大きくて、話が合う人でも、いらないんだ。ボクの稽古も、ボクのドレスも、全部、キミにだけ見ていてほしい」
麻央は、プロデューサーのスーツの袖を、ぎゅっと握った。
「最後まで、キミがいい。キミが死んじゃったら……ボクは、これから、誰のために王子様でいればいいんだ……!」
麻央は、声を上げて泣いた。
子役の頃から、一度も、人前でこんな泣き方をしたことはなかった。
プロデューサーは、しばらく固まっていた。
それから、ゆっくりと、麻央の前にしゃがみ込んだ。
「……有村さん」
「……なんだい」
「今、死んじゃったら、って言いましたか」
「言ったよ……」
「誰が、ですか」
「キミに、決まってるだろう……!」
プロデューサーは、目をぱちぱちと瞬かせた。
「……僕、死ぬんですか?」
麻央の泣き声が、ぴたりと止まった。
「……え?」
「僕、健康ですけど。この前の健康診断、全部A判定でした」
「……え……?」
「どうして、僕が死ぬと思ったんですか」
「旧校舎で……医者に言われた、あと半年だって。誰にも言うつもりはなかったって。最後に、大切な人に伝えたいことがあるって……」
プロデューサーは、しばらく考え込んだ。
それから、ああ、という顔をして、鞄から紙の束を取り出した。
表紙に、こう書かれていた。
『初星学園放送部 連続ボイスドラマ「最後の半年」 主人公役:プロデューサー(代役)』
「……それ、台詞の練習です」
麻央は、ぽかんと口を開けた。
「あれ...お芝居のお話してなかったでしたっけ、ほらこの前も最後に何を伝えたいかってお話で...」
「そ、それは君が余命が短いことを隠すためじゃなかったのかい」
「……い、いえ、すみません、そのような意図は...それに私は麻央さんに隠し事なんて」
「じゃあ...泣くのを我慢する方法も」
「えっと、ええ、最終回の演技指導を、お願いしたつもりでした」
「……次の担当の人は」
「携帯ショップの店員さんです」
「……は?」
「収録用のマイクを買いたくて、携帯のプランを見直したんです。来月で今の契約を解除して、新しい携帯に乗り換えます」
「ボクの、台本の読み合わせの記録を、全部渡すって……!」
「有村さんに見てもらった練習の録音です。全部、新しい携帯に移しておかないと消えちゃうので。店員さんに、データを移す方法を教えてもらってたんです。....あははっ...言葉足らずですみません」
麻央の顔が、みるみる真っ赤になっていった。
それを察したのか、焦ってプロデューサーがフォローするように続ける
「あ、あの...僕、棒読みってよく言われるので。たぶん、演技に聞こえなかったんだと思います。麻央さんが勘違いしてしまうのもしかたないですよ」
「~~~っ!!」
麻央は、ドレスの裾で顔を覆った。
「主語! 携帯の契約なら、携帯って言ってくれ!」
「言ってなかったですか」
「言ってないよ! 一回も!」
麻央は、膝に顔をうずめた。
「……ボクの、半年」
「すみません」
「ボクは、本気で、キミを守ろうとしてたんだ。毎日、鞄も持って、のど飴も用意して」
「ありがとうございました。のど飴、助かりました。台詞の練習で、喉を痛めてたので」
「~~~っ!!」
プロデューサーは、少しだけ考えてから、静かに言った。
「ドレスかわいいですね」
麻央の肩が、ぴくりと動いた。
「本当の有村さんを見せてくれて、嬉しかったです。それに、さっきの、最後までキミがいい、っていうのも」
プロデューサーは、少しだけ照れくさそうに、でも、まっすぐに麻央を見た。
「最期まで、僕でよければ。有村さんの王子様も、ドレスも、全部、僕が見ています」
麻央は、ゆっくりと顔を上げた。
真っ赤な目で、プロデューサーを見つめた。
それから、少しだけ、いつもの王子様の笑みを取り戻した。
「……当然さ。ボクの本当の姿を知ってるのは、キミだけなんだから。その責任は、最期まで取ってもらうよ」
「はい」
「それと」
麻央は、プロデューサーの台本を、ひょいと取り上げた。
「キミの収録、ボクが演技指導してあげるよ。元子役のボクを半年も騙したんだ。その演技力、ボクがもっと磨いてあげる」
それから、少しだけ頬を染めて、付け加えた。
「……その代わり、最終回の収録が終わったら、もう一回、このドレスを見てくれるかい」
「はい。何回でも」
麻央は、上を向いた。
今度は、嬉しくて、涙がこぼれそうだったから。
ーそれからしばらくして...
ボイスドラマの最終回の収録も終わり、麻央には、新しい習慣ができた。
プロデューサーを見かけたら、できるだけ一緒に過ごすこと。
以前なら、仕事の合間に軽く声をかける程度だった。
けれど、今では違う。
「プロデューサー、今、時間はあるかい?」
「ええ。どうしました?」
「いや、特に用事はないんだけどね」
麻央は、いつもの王子様らしい笑みを浮かべた。
「キミと一緒にいたくなったんだ」
「……え?」
「ふふっ。そんなに驚くことかな?」
そう言って、麻央はプロデューサーの隣に腰を下ろした。
肩が触れる。
それだけで、彼女の表情がほんの少し緩んだ。
「……うん。やっぱり、ここがいい」
「ここ、ですか?」
「キミの隣さ」
麻央は当然のように答え、彼の肩にこつんと頭を預けた。
「……有村さん?」
「何だい?」
「近くないですか?」
「そうかな? ボクはちょうどいいと思うけど」
「いや、でも……」
「もしかして、キミはボクが隣にいると落ち着かないのかな?」
顔を上げた麻央が、いたずらっぽく見つめてくる。
「そ、そんなことはありません」
「なら、問題ないね」
「……有村さん、最近ちょっと強引になってませんか?」
「おや。今さら気づいたのかい?」
麻央はくすくすと笑った。
けれど、再び彼の肩に頭を預けたとき、その笑顔は少しだけ変わった。
以前の彼女なら、こんなふうに誰かに甘えることはなかっただろう。
いつだって余裕があって、頼られる側で、弱いところなど見せない。
それが麻央の、自分自身に課した王子様の姿だった。
けれど、あの日から変わったことがある。
大切な人が、突然いなくなってしまうかもしれない。
そう考えただけで、胸が苦しくなった。
いつも隣にいることが当たり前だと思っていた。
明日も会える。
来週も話せる。
これから先も、ずっと。
そんな当たり前が、決して保証されたものではないと知ってしまった。
だから今は。
一緒にいられる時間を、以前よりずっと大切にしたかった。
「……プロデューサー」
「はい?」
「今日、帰りは空いているかい?」
「特に予定はありませんけど」
「そうか。なら、一緒に帰ろう」
「いいですよ」
「……本当に?」
「はい?」
「いや、ほら。キミも忙しいだろう? ボクに付き合ってもらうのは、申し訳ないかなと思ってね」
「有村さんと一緒に帰るのは、別に嫌じゃありませんよ」
「……別に?」
麻央がぴくりと反応した。
「そこは、嬉しいと言ってくれてもいいんじゃないかな?」
「えっ、あ、嬉しいですよ。もちろん」
「ふふっ。よろしい」
彼女は満足そうにうなずいた。
それから、彼の手元に目を落とす。
少し迷ったあと、そっと指先を伸ばした。
触れる。
離れる。
もう一度、触れる。
「……有村さん?」
「……手」
「はい?」
「……手を、つないでもいいかな」
最後だけ、声が小さくなった。
プロデューサーは微笑み、手を差し出した。
「もちろんです」
麻央は一瞬、目を丸くした。
それから、嬉しそうに彼の手を握った。
指を絡め、手のひらをぴったりと重ねる。
「……えへへ」
「……今、笑いました?」
「笑っていないよ?」
「いや、絶対に笑ってましたよね」
「気のせいさ」
麻央は顔をそらした。
けれど、つないだ手は、少しも離そうとしなかった。
「……ねえ、プロデューサー」
「はい」
「ボク、最近、少し欲張りになった気がするんだ」
「欲張り、ですか?」
「うん。以前は、キミと話せるだけで十分だと思っていたんだけどね」
麻央は、つないだ手を見つめた。
「今は、もっと話したい。一緒にいたい。キミの笑った顔も、困った顔も、できるだけたくさん見ていたいと思うんだ」
「……はい」
「キミが帰ってしまうと、少し寂しい。次に会えるまで、ずいぶん長く感じる」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……これって、困ったことかな?」
「いいえ」
「……本当に?」
「僕も、有村さんと一緒にいるのは楽しいですから」
「……そっか」
麻央は、ほっとしたように笑った。
「なら、これからも遠慮なく欲張らせてもらおうかな」
「ほどほどにお願いしますね」
「ふふっ。善処するよ」
そう答えた彼女は、さっそく彼の腕に自分の腕を絡めた。
「……有村さん?」
「何だい?」
「手をつないだばかりですよね?」
「手だけじゃ足りなくなったんだ」
あまりにも堂々と言われて、プロデューサーは返事に困った。
麻央は、そんな彼の反応を楽しそうに眺めていた。
「……キミは、ボクのことをどう思っているんだい?」
「大切な人ですよ」
「…………」
今度こそ、麻央は黙り込んだ。
「……そういうことを、急に言わないでくれないかな」
「すみません」
「だから、謝らないでくれ!」
頬を赤くしながら、麻央は彼の腕に顔を寄せた。
「……嬉しいに決まっているだろう」
その声は、いつもの王子様より、ずっと素直な女の子のものだった。
帰り道。
夕暮れの街を、二人は並んで歩いていた。
手はつないだまま。
途中で何度か人とすれ違ったが、麻央は腕を離そうとしなかった。
「……有村さん、知り合いに見られたらどうするんですか?」
「どうもしないさ」
「恥ずかしくないんですか?」
「キミと一緒にいるところを見られて、何が恥ずかしいんだい?」
「……それは、そうですけど」
「それに」
麻央は、つないだ手を少しだけ持ち上げた。
「ボクは、キミと一緒にいるのが嬉しいんだ。隠す必要なんてないだろう?」
プロデューサーが微笑むと、麻央は得意げに胸を張った。
しかし、しばらく歩いたあと、彼女はふいに足を止めた。
「……ねえ」
「はい?」
「明日も、会えるよね?」
何気ない問いかけのようだった。
けれど、握られた手には、少しだけ力がこもっていた。
プロデューサーは彼女の顔を見つめた。
「もちろんです。明日も仕事で会いますよ」
「……うん」
「どうしたんですか?」
「……いや」
麻央は笑おうとした。
「少し、確認したくなっただけさ」
彼女は、あの日のことを思い出していた。
突然、目の前から彼がいなくなってしまったように感じた、あの瞬間。
頭では、ただの出来事だとわかっていた。
けれど、心はそうではなかった。
失いたくない。
もっと一緒にいたい。
今まで言えなかった言葉を、伝えられるうちに伝えたい。
そんな気持ちが、日に日に大きくなっていた。
「……有村さん」
「うん?」
「明日だけじゃなくて、これからも、ちゃんと会いましょう」
麻央は足を止め、まっすぐ彼を見つめた。
「仕事のときだけじゃなくて。時間があるときは一緒に帰ったり、ご飯を食べたり……たまには、二人で出かけたりもしたい」
「……いいですね」
「それから、ボクが寂しいときは、寂しいって言ってもいいかな?」
プロデューサーは、優しくうなずいた。
「もちろんです」
「……キミが忙しいときは、ちゃんと待つよ。でも、落ち着いたら、ボクにも時間をくれると嬉しい」
「わかりました」
「……約束だよ?」
「約束です」
麻央は、ようやく笑った。
そして、つないだ手をぎゅっと握り直す。
「……よし」
「何がですか?」
「これで、明日も頑張れそうだ」
「そんなにですか?」
「そんなにさ」
麻央は、少しだけ背伸びをして、彼の耳元に顔を寄せた。
「……それにね」
「はい?」
「本当は、明日まで待つのも、少し寂しいんだ」
「……え?」
「今日、別れたら、次に会えるのは明日だろう?」
「そうですね」
「……長いじゃないか」
あまりにも真剣な声だったので、プロデューサーは思わず笑ってしまった。
「一晩ですよ?」
「キミにとっては一晩でも、ボクにとっては一晩なんだよ」
「それは、そうですけど……」
「ふふっ。困ったかい?」
「いえ、嬉しいです」
麻央は、今度こそ言葉を失った。
「……キミって、本当に……」
「はい?」
「……大好き」
ぽつりとこぼれた言葉。
言ってしまってから、麻央は目を見開いた。
「…………」
「…………」
「……今のは」
「はい」
「……聞こえたかな?」
「はい」
「……そうか」
麻央は、真っ赤になった顔を両手で覆った。
「……ああ、もう。格好がつかないな……」
「僕は、嬉しかったですよ」
「……本当に?」
「はい。僕も、有村さんのことが大好きです」
麻央は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳が、驚きと喜びで揺れる。
「……もう一度、言ってくれないかい?」
「有村さんが大好きです」
「…………」
「麻央さん?」
名前を呼ばれた瞬間、彼女は息をのんだ。
いつもは「有村さん」と呼ばれることが多い。
けれど、今は違った。
「……もう一度」
「麻央さん」
「……うん」
麻央は、幸せそうに目を細めた。
「……えへへ。これは、何度聞いても嬉しいものだね」
そして、今度は彼女から、彼の手を両手で包み込んだ。
「……ボクも、大好きだよ。プロデューサー」
事務所に戻る前、二人は少しだけ遠回りをした。
特に目的地はない。
ただ、もう少し一緒に歩いていたかった。
「……ねえ、プロデューサー」
「はい?」
「今度、二人で出かけるなら、どこがいいかな?」
「有村さんの行きたいところでいいですよ」
「それじゃ駄目だ。キミの希望も聞きたい」
「うーん……水族館とか、どうですか?」
「水族館?」
「はい。ゆっくり見て回れますし」
麻央は少し考えてから、にっこり笑った。
「いいね。じゃあ、約束だ」
「予定を合わせましょう」
「うん。絶対に行こう」
それから、彼女は少しだけ声を小さくした。
「……デート、だね」
「……そうですね」
「……ふふっ」
麻央は、うつむいて笑った。
「……なんだか、楽しみで眠れなくなりそうだ」
「まだ日程も決まってませんよ?」
「だからこそ、だよ。いつ行くのか、何を着ていこうか、キミとどんな話をしようか……考えることがいっぱいあるだろう?」
「そうですね」
「……ああ、早く行きたいな」
彼女は彼の腕に寄り添った。
そして、ほんの少しだけ甘えるように、肩に頭を預ける。
「……今日は、もう少しだけ、このままでいさせてくれないかい?」
「もちろんです」
「……ありがとう」
麻央は目を閉じた。
つないだ手の温かさ。
すぐ隣から聞こえる声。
歩調を合わせてくれる、彼の存在。
どれも、以前は当たり前のように思っていたものだった。
今は、その一つ一つが愛おしい。
失うかもしれないと感じたからこそ、気づいてしまった。
彼がいるだけで、自分はこんなにも幸せなのだと。
そして、その幸せを、これからもずっと守りたいのだと。
「……プロデューサー」
「はい」
「……明日、会ったら」
麻央は、少しだけ顔を上げた。
「最初に、ボクのところへ来てくれるかい?」
「もちろんです」
「……それで、少しだけ話をして、それから一緒にお昼を食べて……」
「はい」
「……帰りも、一緒に帰ろう」
「わかりました」
麻央は、満足そうに笑った。
「……よし。明日の予定も決まりだね」
「ずいぶん先まで決めるんですね」
「当然さ。ボクは、キミと過ごす時間を大切にしたいんだから」
そう言って、彼女はもう一度、ぎゅっと手を握った。
「……ねえ」
「はい?」
「……これからも、ボクの隣にいてくれるかい?」
今度の問いかけには、冗談も、演技もなかった。
ただ、大好きな人を失いたくないという、まっすぐな気持ちだけがあった。
プロデューサーは、彼女の手を握り返した。
「もちろんです。これからも、ずっと」
「…………」
麻央の瞳が、ゆっくりと細められる。
「……ふふっ」
彼女は彼の腕に頬を寄せた。
「……なら、ボクも約束するよ」
「何をですか?」
「キミが寂しいときも、困ったときも、嬉しいときも……一番近くで、キミのそばにいる」
そして、少し照れくさそうに付け加えた。
「……それに、キミがボクを必要としてくれるなら、ボクはいつだって会いに行くよ」
「……ありがとうございます」
「ふふっ。お礼なんていらないさ」
麻央は、幸せそうに微笑んだ。
「だって、ボクがそうしたいんだから」
夕暮れの道を、二人は再び歩き出す。
つないだ手は、もう離れなかった。
明日も会える。
明後日も、その先も。
その約束を胸に、麻央は彼の隣で、いつまでも嬉しそうに笑っていた。
―もう、彼がいない未来なんて、想像したくなかった。
だからこそ、これからは。
好きだという気持ちを、ちゃんと言葉にしよう。
一緒にいたいと、素直に伝えよう。
そして、彼が隣にいてくれる幸せを、何度でも確かめよう。
「……プロデューサー」
「はい?」
「……大好きだよ」
「僕も大好きです、麻央さん」
「……えへへ」
その日、麻央は帰り際に、もう一度だけ彼の手を握り直した。
「……じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
「……約束だからね?」
「約束です」
麻央は、満面の笑みを浮かべた。
そして、今度こそ安心したように手を離した。
―明日も会える。
そう信じられることが、こんなにも嬉しいなんて。
彼女は、帰り道の途中で何度も思い出しては、ひとりで小さく笑ってしまうのだった。