プロデューサーが死ぬと勘違いして死ぬほど依存度が上がる話   作:マロンex

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燕編

放課後の、プロデューサー室。

雨夜燕は、生徒会の書類を届けに来て、扉の前で足を止めた。

ノックをしても、返事がない。扉を開けると、部屋は空だった。

 

(留守か。書類だけ置いていくか)

 

燕は、机の上に書類を置こうとして、手を止めた。

机の上に、半紙が何枚も広げられていた。墨の匂いが、まだ新しい。

一枚目の半紙に、拙い筆跡で、こう書かれていた。

 

『露と落ち 露と消えにし 我が身かな』

 

燕の眉が、ぴくりと動いた。

 

(……豊臣秀吉の、辞世の句)

 

二枚目。

 

『極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に かかる雲なし』

 

(上杉謙信の、辞世...か)

 

三枚目にも、四枚目にも、戦国武将たちの辞世の句が、何度も何度も書き写されていた。

どれも、お世辞にも上手とは言えない字だった。

半紙の横に、一冊のノートが開いたまま置かれていた。

 

『期限まで、あと半年』

『言葉は、まだ決まらない』

 

燕は、ノートを見つめたまま、しばらく動けなかった。

 

(……辞世の句を、練習している)

 

(あと、半年……)

 

(……最期に残す言葉が、まだ決まらないのか)

 

廊下から、足音が聞こえた。

燕は、とっさに書類を机の端に置くと、何事もなかったかのように扉へ向かった。

ちょうど、プロデューサーが戻ってきたところだった。

 

「あ、雨夜さん。書類ですか。ありがとうございます」

 

「……ああ」

 

プロデューサーは、机の上の半紙に気づいて、慌ててそれを裏返した。

 

「す、すみません。散らかってて」

 

「……構わん」

 

燕は、プロデューサーの顔を見た。

いつもと同じ、穏やかな顔だった。

 

(...隠すか。...貴様らしいが気に食わん)

 

燕は、何も言わずに、部屋を出た。

 

◇

その夜、燕は、自室で一人、筆を握っていた。

半紙に向かっても、何も書けなかった。

 

(辞世の句を練習するなど、ただ事ではない)

 

燕は、歴史が好きだった。

 

戦国武将たちの辞世の句も、何度も読んできた。

死を前にした者が、最期に何を残そうとしたのか。

その言葉の重みを、誰よりも知っているつもりだった。

 

だからこそ、わかってしまった。

あれは、遊びで書き写すものではない。

 

(……あと、半年)

 

燕は、筆を置いて、拳を握りしめた。

 

(貴様の辞世など、わたしは認めんぞ)

 

◇

翌朝。

プロデューサーが部屋に入ると、燕が仁王立ちで待っていた。

 

「遅いぞ」

 

「雨夜さん? まだ始業前ですけど」

 

「今日から、わたしが貴様の生活を管理する」

 

燕は、竹の皮に包んだおにぎりを、机の上にどんと置いた。

 

「朝食だ。食え。昼食も、夜食も、わたしが用意する。睡眠時間は最低七時間。書類仕事は、わたしが手伝う。異論は認めん」

 

「あの、どうして急に」

 

「理由は聞くな。お前の返事ははい、だけだ」

 

燕は、腕を組んで、そっぽを向いた。

 

◇

その日から、燕は、プロデューサーのそばを離れなかった。

 

「顔色が悪い。昨夜は何時に寝た」

 

「一時くらいです。ちょっと、練習してて」

 

「……練習」

 

「はい。まだ、言葉が決まらなくて」

 

燕の拳に、力がこもった。

 

「……貴様、それは誰のための言葉だ」

 

プロデューサーは、少しだけ目を泳がせた。

 

《誕生日のことは、言えない。当日まで、秘密にしないと》

 

「それは……まだ、秘密です」

 

(秘密……遺される者に、伝える言葉か)

 

燕は、何も言わずに、プロデューサーの書類の束を奪い取った。

 

「これはわたしがやる。貴様は、寝ろ」

 

◇

一か月後。

プロデューサーが、燕に聞いた。

 

「雨夜さん。昔の武将たちは、大切な人に宛てた言葉を、どんな気持ちで書いたんでしょうか」

 

燕の手が、止まった。

 

「……なぜ、そんなことを聞く」

 

「雨夜さん、歴史に詳しいので。言葉を残すって、どういう気持ちなんだろうって」

 

燕は、しばらく黙っていた。

それから、静かに答えた。

 

「……辞世のことだな。悔いを、残さぬためだ。言い残したことがあれば、それを言葉にする。伝えたい相手がいれば、その者に向けて詠む。そうして、自分の生きた証を、この世に刻む」

 

燕は、窓の外を見た。

 

「……だが、わたしは、辞世の句が好きではない。どれほど美しい言葉を残しても、その者は、もういないからだ」

 

プロデューサーは、少しだけ考え込むように黙った。

それから、ノートに何かを書き留めた。

 

「……そうですね」

 

「すまんっ....いまのは...」

 

「?」

 

「....いや、なんでもない。気にするな」

 

死にゆくものへの言葉にしてはあまりに残酷すぎた。

それに気が付きはっとした。

弁明したかった。

だが、その事実をあえて隠しているプロデューサーにそれは無粋だ。

気が付いていないふりに徹するべきだ。

 

燕は、自分の不甲斐なさに悔しくて唇を噛んだ。

 

◇

週末、燕は、プロデューサーを連れ出した。

石垣だけが残る、小さな城跡だった。

燕は、一つ一つの石垣の前で立ち止まって、その歴史を語った。

いつもより、ずっと饒舌だった。

 

「ここで、二番手の武将が、主君を守って討ち死にした。その者の名は、ほとんど記録に残っていない。……わたしは、こういう者たちが好きだ。一番になれなくとも、誰かを支えて、最後まで戦った者たちが」

 

「雨夜さんも、そうですよね。一番になれなくても、ずっと誰かを支えてる」

 

燕は、答えなかった。

 

ただ、夕日に染まった石垣を、じっと見つめていた。

 

《……雨夜さん、今日は、すごく楽しそうだ。誘ってよかった》

 

「……プロデューサー。わたしは、二番手のまま終わるつもりはない。いつか必ず、一番になる」

 

燕は、プロデューサーのほうを向いた。

 

「だから、貴様は、それを見届けろ。……夢半ばで終わらせやしない」

 

「はい、もちろんです。いつまでも支えますよ」

 

「っ...もういい。...帰るぞ」

 

(しゃあしゃあと...大噓つきが...だが、そういうところも好きだったんだな)

 

死を目前にして燕は自身の思いが日に日に鮮明となるのを感じた。

だからこそ、日を追うごとにつらくなっていった。

 

半年ある。

半年あれば、まだ、時間はある。

燕は、そう自分に言い聞かせていた。

 

◇

ある日の生徒会室。

十王星南が、書類を受け取りに来ていた。

 

「ありがとう、燕。いつも、助かるわ」

 

「……当然だ。副会長として」

 

星南は、燕の顔を、じっと見つめた。

 

「……燕。最近、少し、根を詰めすぎじゃないかしら。目の下に、隈もあるわ」

 

「問題ない」

 

「無理しないでね。あなたが倒れたら、生徒会も、わたしも、困るもの」

 

何気ない、いつもの、優しい一言だった。

けれど、燕の手が、止まった。

 

(私はもう...時間がない)

 

燕は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「星南。……話がある」

 

「あら、何かしら」

 

「わたしは、お前を越える」

 

「ええ、知っているわ。ずっと、そう言っているでしょう?」

 

「違う。今までとは、違うのだ」

 

燕の目は、燃えていた。

 

「事情は、言えん。だが、わたしには、お前をも越えねばならない、理由ができてしまった」

 

「……理由?」

 

「半年だ。それまでに、必ず」

 

「半年? 何の話?」

 

星南は、きょとんと首をかしげた。

 

星南が去ったあと、燕は、一人で、小さく拳を握った。

 

(二番手のままでは終われない)

 

◇

三か月が経った頃だった。

その日、燕は、駅前の商店街で、プロデューサーを見かけた。

 

(……こんなところで、何を)

 

プロデューサーは、一軒の店の前で、立ち止まっていた。看板には、こう書かれていた。

 

『●●石材店』

 

(……石材店? 何の用だこんなところに)

 

プロデューサーは、店の人と、何かを話し込んでいた。

燕は、物陰から、そっと近づいた。

 

「……では、石は、これで。字は、一文字です。僕が書いたものを、そのまま彫ってください」

 

「かしこまりました。どのような字ですか」

 

「『飛』です。飛び立つ、という字で。……新しい、旅立ちのために」

 

燕の呼吸が、止まった。

 

(……旅立ち...まさかっ)

 

(……墓石...なのか)

 

燕の頭が、真っ白になった。

 

「納期は、いつ頃になりますか」

 

「一か月ほどです」

 

「ちょうど、いい頃ですね。お願いします」

 

(一か月……)

 

(あやつ、最期の日を、決めて……!)

 

燕は、物陰で、拳を握りしめた。

 

◇

それからの燕は、プロデューサーの様子を、よく観察するようになった。

最近、プロデューサーは、右手首に、白い包帯を巻いている。

机の引き出しには、湿布の箱が、いくつも積まれていた。

 

「……貴様、その手は」

 

「あ、これですか。ちょっと、痛めてしまって。……大したことは、ないです」

 

プロデューサーは、慌てて包帯を、袖の中に隠した。

そのとき、鞄から、診察券が、ぽとりと落ちた。

 

燕は、それを拾い上げた。

何度も通った跡のある、角の擦り切れた診察券だった。

 

「……毎日、通っているのか」

 

「あ、えっと、はい。……もう少しだけ、続きそうで」

 

「無理は、するなよ」

 

「はい。ありがとうございます」

 

(……大したことはない。……もう少しだけ)

 

(たわけ、隠し事が下手すぎる....)

 

燕は、何も言えなくなった。

その夜、燕は、自室で、城跡で撮った写真を見つめていた。

夕日に染まった石垣。

その前で、少しだけ笑っている、プロデューサー。

 

(辞世の句。石に彫る、旅立ちの字。毎日通う、病院。半年という、期限……)

 

(全部が、ひとつの線で、つながってしまう)

 

(……あやつは、自分の最期を、わかっている)

 

(わたしは、副会長だ。生徒会を、学園を支える者だ)

 

(ならば、その覚悟を、受け止めねばならん)

 

燕は、何度も、そう自分に言い聞かせた。

でも、写真の中のプロデューサーを見るたびに、胸の奥が、ぎしりと軋んだ。

 

◇

一か月後。

プロデューサー室で、燕は、いつものように書類を片付けていた。

プロデューサーが、少しだけ緊張した顔で、燕の前に立った。

 

「雨夜さん。三日後、少し時間をもらえますか」

 

「……何の用だ」

 

「やっと、仕上がりそうなんです。……一番最初に、雨夜さんに見てほしくて。受け取って、ほしいんです」

 

「なんだ? 見てほしいもの?」

 

「ええ、いやぁ...ようやく完成したので」

 

薄々わかっていた言葉だったが、それを燕は否定したかった。

 

(貴様は...なぜそんなに嬉しそうに...)

 

燕の中で、何かが、ぷつりと切れた。

燕は、ゆっくりと筆を置いた。

それから、立ち上がって、プロデューサーの胸ぐらを掴んだ。

 

「……ふざけるな」

 

「あ、雨夜さん?」

 

「ふざけるなと言っている!」

 

燕の声が、部屋に響いた。

 

「辞世など、受け取らん! 貴様の最期の言葉など、わたしは絶対に受け取らんぞ!」

 

プロデューサーの胸ぐらを掴んだ燕の手が、震えていた。

 

「この半年、わたしがどれだけ……! 毎朝、握り飯を握った。書類も、全部片付けた。睡眠も管理した。城跡にも連れていった。二番手のまま終わるつもりはないと、貴様にだけは言った……!」

 

ぽろり、と、燕の目から涙がこぼれた。

 

燕自身が、一番驚いた顔をしていた。

 

「……っ、なぜ、わたしが、泣いている……」

 

燕は、プロデューサーの胸ぐらから手を離して、袖で乱暴に目元を拭った。

拭っても拭っても、止まらなかった。

 

「受け止めようとしたのだ。貴様の覚悟を。副会長として、石のことも、病院のことも、黙って受け入れようと。……だが、できん」

 

燕は、プロデューサーの胸に、拳を押しつけた。

弱々しい拳だった。

 

「わたしは、まだ、一番になっていない……! わたしを一番にすると、見届けると……それができるのは、貴様だけだ!」

 

燕は、その場に膝をついた。

 

「もう少し時間をくれ……! 生きることをあきらめないでくれ...頼む...」

 

食いしばった歯の隙間から、嗚咽が、ひとつだけ漏れた。

 

武将のように振る舞ってきた副会長の頬を、涙が、一筋、また一筋と伝って、床に落ちた。

 

「……すまん。見苦しいところを、見せた」

 

声は、かすれていた。

それでも、燕は、顔を上げなかった。

泣き声は、なかった。

ぽたり、ぽたりと、床を叩く雫の音だけが、静かな部屋に、響いていた。

 

プロデューサーは、しばらく固まっていた。

それから、慌てて、燕の前にしゃがみ込んだ。

 

「雨夜さん、落ち着いて聞いてください」

 

「何度も言わせるな……私は受け取らんぞ...!」

 

「あ、いえ...その...すごく言いづらいのですが...僕元気ですよ。多分しばらくは死なないと思うのですが...」

 

燕の泣き声が、ぴたりと止まった。

 

「……は?」

 

「ちなみにすごく健康です。この前の健康診断も、全部A判定でしたし」

 

「……貴様は何を言っている」

 

「その...どうして、僕が死ぬと思ったのか、教えてください」

 

「そ、それは...そ、そうだ。とぼけるな! き、貴様の机の上に……辞世の句が、何枚もあったじゃないか……! ノートには、あと半年、言葉は決まらない、と……! ! 毎日、病院にも通って……!」

 

プロデューサーは、しばらく考え込んだ。

それから、ああ、という顔をして、机の引き出しから、細長い桐の箱を取り出した。

 

「……これですかね」

 

プロデューサーは、少しだけ照れくさそうに、箱を燕に差し出した。

 

「雨夜さん、来週誕生日ですよね」

 

燕は、ぽかんと口を開けた。

 

「……誕、生日?」

 

「はい。雨夜さん、歴史と書道が好きだって聞いたので、何か、書を贈りたいと思ったんです。でも、僕、書道なんてやったことなくて。半年かけて、一から練習してたんです」

 

プロデューサーは、自分の墨だらけの机を指さした。

 

「練習のお手本に、武将の辞世の句を選びました。雨夜さんが好きそうな言葉で、筆の練習をしようと思って」

 

「……言葉は、まだ決まらない、とノートに書いていたのは」

 

「贈る言葉です。お手本じゃなくて、自分の言葉で、何を書いて贈ろうか迷ってたんです」

 

「期限まで、あと半年、とは」

 

「誕生日までに、です」

 

「辞世の句ばかり、書き写していたのは」

 

「お手本にする武将の言葉を、片っ端から写していたんです。……ちょっと、選びすぎました」

 

「まて、だが...1つ解せないことがある……貴様、石材店で、石に字を彫っていただろう、あれはなんだ」

 

「雅印です。書に捺す、落款の石のハンコです。『飛』の字を、彫ってもらいました。……雨夜さんの書の、最後に、捺したくて」

 

「……は?」

 

「誕生日に間に合うようにと」

 

「……墓石かと、思った」

 

「墓石!?」

 

「……大体察しがついたが...まさか毎日の病院は……」

 

「書道の練習のしすぎで、腱鞘炎になりました。整形外科の先生に、治るまで半年はかかるって。……恥ずかしくて、言えなくて」

 

燕の顔が、みるみる真っ赤になっていった。

鋭い目つきも、凛々しい眉も、すべてが真っ赤に染まった。

 

「~~~~~~っ!!」

 

燕は、両手で顔を覆った。

 

「わ、わたしは……誕生日の贈り物と、石と、湿布を、辞世と、墓と、病気と……!」

 

「すみません」

 

「半年、毎朝、握り飯を……!」

 

「おいしかったです。おかかのが、特に」

 

「慣れない誘いで貴様を城跡にまで、連れていって……」

 

「すごく、かっこよかったです」

 

「言うな!!」

 

燕は、床に突っ伏した。

しばらく、肩が震えていた。

それから、くぐもった声が聞こえてきた。

真っ赤な目で、プロデューサーを睨んだ。

 

「……その...すみません。でもあの時言ったことは本当ですよ。あなたが1番になるまで支え続けます」

 

「っ...今はその話は」

 

「嬉しかったですよ。二番手では終わる気はないんですよね」

 

「....む、無論だ」

 

プロデューサーは、少しだけ照れくさそうに、でも、まっすぐに燕を見た。

 

「さっきの、最後まで見届けろって返してもらえたの、嬉しかったです。……最期まで、僕でよければ。雨夜さんが一番になるところ、ちゃんと見届けます」

 

「ふっ……半年間さんざんお前の言葉足らずに振り回された」

 

「それは……すみません」

 

「本当に腹が立つ。貴様のせいで私は飛んだ大恥だ」

 

「……返す言葉もございません」

 

燕は、ほんの少しだけ、口の端を上げた。

 

「……ならば、償え。私が一番になるその日まで、目を離すな。途中で降りることは、許さん」

 

「……はい。ずっと、見ています」

 

◇

燕は、プロデューサーの手から、桐の箱を受け取った。

 

「……その箱。今、開けさせろ。これ以上、心臓に悪いことは、ごめんだ」

 

燕は、箱の蓋を開けた。

中には、一枚の書が丁寧に巻かれていた。

燕は、それを、そっと広げた。

墨の匂いが、ふわりと立ち上った。

 

拙い筆跡だった。

 

半年間、一から練習したのだろう。

それでも、ところどころ線が震えていた。

でも、一文字ずつ、ゆっくりと、心を込めて書かれていた。

 

『燕 一番星より 高く飛べ』

 

燕は、その書を見つめたまま、動けなかった。

 

「……辞世の句は、もういない人の言葉だって、雨夜さん言ってましたよね」

 

プロデューサーは、少しだけ照れくさそうに言った。

 

「だから、最期の言葉じゃなくて、これからの言葉にしました。雨夜さんが、これから一番になるための言葉です」

 

燕は、書を胸に抱きしめた。

また、涙がこぼれた。

でも、今度は、拭わなかった。

 

「……下手な字だ」

 

「すみません」

 

「線も震えている。墨も、はみ出している」

 

「すみません」

 

「……だが」

 

燕は、顔を上げた。

涙で濡れた顔で、それでも、まっすぐにプロデューサーを見た。

 

「生涯、大事にする」

 

プロデューサーは、少しだけ目を丸くした。

それから、静かに笑った。

 

「誕生日、おめでとうございます。少し早いですけど」

 

燕は、書を抱いたまま、ふいと顔を背けた。

「……ふん。生意気な」

 

その耳は、夕日よりも赤かった。

そのとき、部屋の扉が、ぎいっと開いた。

 

「あら、杞憂だったみたいね」

 

十王星南が、扉の隙間から、楽しそうに顔を出していた。

 

「せ、星南!? いつから!」

 

「ずっとよ。心配で、見に来たの。燕が、あんなに思い詰めた顔をするから」

 

「き、貴様……!」

 

「でも、よかったわ。……お誕生日、おめでとう、燕」

 

星南は、燕の抱えた書を、そっと覗き込んだ。

 

「いい字ね。……確かに、ちょっと下手だけど」

 

「それにしても。『生涯、大事にする』だなんて。ふふっ燕にしては随分大胆ね。まるで...」

 

「ち、違う!下らん勘違いをするな!! 気持ちのこもった書だから、そう言っただけだ!」

 

「ええ、わかっているわ。それだけ、いい贈り物だったってことよね」

 

星南は、くすくすと笑った。

 

◇

それから、燕はプロデューサーのもとに顔を出す頻度が、明らかに増えた。

 

朝。

昼休み。

放課後。

 

生徒会の仕事がある日はもちろん、休日でさえ、何かしら理由をつけてやって来る。

 

「……貴様、今日の昼食は何を食べた」

 

「え? コンビニのおにぎりですけど」

 

「……またか」

 

「今日はサラダも買いましたよ」

 

「そういう問題ではない!」

 

燕は、持ってきた弁当箱を机に置いた。

 

「明日からは、これを食え。栄養の偏りを防ぐためだ」

 

「ありがとうございます。でも、毎日作るのは大変じゃないですか?」

 

「私が好きでやっているのだ。貴様が気にすることではない」

 

「……では、お言葉に甘えて」

 

「うむ」

 

満足げに頷いた燕だったが、プロデューサーが弁当箱を開けるまで、その場を離れようとしなかった。

 

「……雨夜さん?」

 

「何だ」

 

「見られていると、少し食べづらいのですが……」

 

「気にするな。私はただ、貴様がきちんと食べるか確認しているだけだ」

 

「そうですか」

 

プロデューサーは苦笑しながら、卵焼きを口に運んだ。

 

「おいしいです」

 

「……そうか」

 

燕は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「……ならば、明日も作ってくる」

 

「ありがとうございます」

 

「明後日もだ」

 

「はい」

 

「……その次も」

 

「はいはい」

 

「なっ……! はいは一度でいい!」

 

怒ったように声を上げる燕だったが、その顔はどこか嬉しそうだった。

 

(……食べている)

 

(今日も、ちゃんと食べている)

 

以前は、ただ彼を支えたいと思っていた。

 

けれど、あの半年間を経てからは、彼が食事をしていることも、仕事をしていることも、明日も同じように会えることも、ひとつひとつ確かめずにはいられなくなった。

 

彼が生きている。

それだけのことが、今では何よりも大切だった。

 

◇

ある休日。

プロデューサーが自宅で洗濯物を干していると、インターホンが鳴った。

 

「はい?」

 

『……私だ』

 

「……雨夜さん?」

 

扉を開けると、燕が立っていた。

 

片手には買い物袋。

もう片方の手には、見慣れた弁当箱。

 

「……何をしている」

 

「何って、洗濯ですけど……」

 

「そうか。ならば、手伝う」

 

「えっ?」

 

燕は当然のように靴を脱ぎ、部屋へ上がろうとした。

 

「ま、待ってください! どうして雨夜さんがここに!?」

 

「昨日、貴様が洗剤を切らしたと言っていただろう」

 

「……ああ、確かに言いましたけど」

 

「だから、買ってきた」

 

燕は買い物袋を掲げた。

 

中には洗剤のほか、食料品や日用品まで入っていた。

 

「……それと、冷蔵庫の中身も気になったのでな。少し買い足しておいた」

 

「いや、そこまでしていただかなくても……」

 

「遠慮するな。貴様は、放っておくと食事を抜く。洗濯物も溜める。仕事ばかりして、休むことを忘れる」

 

「……そんなことは」

 

「ある」

 

燕は、きっぱりと言い切った。

 

「私は知っているぞ。貴様が、どれだけ自分のことを後回しにする人間なのか」

 

その言葉に、プロデューサーは口を閉じた。

燕は少しだけ視線を落とした。

 

「……だから、時々は見に来る」

 

「時々、ですか?」

 

「……何だ。不満か」

 

「いえ。驚いただけです」

 

「ならば問題ないな」

 

燕は、さっさと袖をまくった。

 

「洗濯物を貸せ。私が干す」

 

「いやいや、来客にそんなことはさせられません!」

 

「私は来客ではない」

 

「……え?」

 

燕は、言ってから、自分の言葉に気づいたように固まった。

 

「……っ、いや、その……」

 

耳が赤くなる。

 

「……何度も来ているのだから、来客ではないだろう! そういう意味だ!」

 

「……なるほど?」

 

「わかったら、さっさと洗濯物を持ってこい!」

 

「はい」

 

プロデューサーは笑いながら、洗濯かごを持ってきた。

二人で洗濯物を干し、買ってきた食材を冷蔵庫にしまい、簡単な昼食を作った。

気がつけば、夕方になっていた。

 

「……もう、こんな時間か」

 

燕が時計を見上げる。

 

「雨夜さん、今日はありがとうございました。すごく助かりました」

 

「……当然だ」

 

燕は弁当箱を片付けながら、少しだけ言い淀んだ。

 

「……また、来てもいいか」

 

プロデューサーは、すぐに頷いた。

 

「もちろんです。いつでも来てください」

 

「……本当だな」

 

「はい。約束します」

 

燕は、そっと息を吐いた。

本当は、家事を手伝うことなど、口実にすぎなかった。

ただ、彼が普段どんな生活をしているのか知りたかった。

 

仕事をしていないとき、どんな顔で笑うのか。

疲れたとき、ちゃんと休んでいるのか。

一人でいるときも、ちゃんと食べているのか。

 

そして。

 

自分がいない時間にも、彼が無事に過ごしていることを知りたかった。

 

「……では、また来る」

 

「はい。お待ちしています」

 

玄関で靴を履きながら、燕は振り返った。

 

「……それと、明日は何時に起きる」

 

「えっ、明日ですか?」

 

「朝食を持ってくる。起きる時間くらい、教えろ」

 

「……七時くらいでしょうか」

 

「わかった。遅れるなよ」

 

「雨夜さんがですか?」

 

「貴様がだ!」

 

扉が閉まる直前まで、燕の声が響いていた。

 

◇

翌週、生徒会室。

 

「燕。最近、ずいぶんと機嫌がいいわね」

 

十王星南の言葉に、燕は書類から顔を上げた。

 

「……そうか?」

 

「ええ。以前よりも、表情が柔らかくなった気がするわ」

 

「気のせいだ」

 

「そうかしら?」

 

星南は微笑みながら、燕の机に書類を置いた。

 

「それに、仕事の速度も上がっている。以前から優秀だったけれど、最近は特にね」

 

「当然だ。無駄な時間を減らしただけだ」

 

「ふふっ。いいことじゃない」

 

星南は、ふと燕の机の端に置かれた紙に目を留めた。

そこには、あの書が写し取られていた。

 

『燕 一番星より 高く飛べ』

 

「……あら。これは?」

 

「っ!? 見るな!」

 

燕は慌てて紙を伏せた。

 

「……何でもない」

 

「ずいぶん大事そうにしているのね」

 

「当然だ。大切なものだからな」

 

「……そう」

 

星南は、からかうように目を細めた。

 

「あなた、変わったわね。以前なら、誰かに支えてもらうことを、そんなに素直に受け入れなかったでしょう?」

 

「……」

 

「今は、その人の言葉を大事にしている。まるで、自分の背中を押してくれる人を見つけたみたい」

 

燕は、しばらく黙っていた。

やがて、ゆっくりと顔を上げる。

 

「……私は、必ずお前を越える」

 

星南は驚くこともなく、微笑んだ。

 

「ええ。期待しているわ」

 

「今までは、ただお前に勝ちたかった。お前より上に立ちたかった。それだけだった」

 

燕は、拳を握った。

 

「だが、今は違う」

 

「……何が違うの?」

 

「私は、私が一番になるところを、あいつに見せたい」

 

星南の表情が、わずかに変わった。

 

「……プロデューサーに?」

 

「そうだ」

 

燕は、まっすぐに星南を見た。

 

「私は、あいつに約束したのだ。私が一番になるところを、最後まで見届けろとな」

 

「……素敵な約束ね」

 

「当然だ。あいつは、その約束を受け入れたのだからな」

 

燕は、誇らしげに胸を張った。

 

「だから私は、必ず一番になる。お前を越え、誰よりも高く飛ぶ。そして……あいつに、私の勝利を見せる」

 

星南は、しばらく燕を見つめていた。

やがて、ふっと笑った。

 

「いいわ。なら、私も簡単には負けられないわね」

 

「望むところだ」

 

「ただし、燕」

 

「何だ」

 

「そのプロデューサーに、勝利の報告をするだけで満足しないことね」

 

「……どういう意味だ」

 

星南は、意味ありげに微笑んだ。

 

「あなた、本当はもっと欲しいのでしょう?」

 

「……っ」

 

「一番になった自分を見てほしい。褒めてほしい。喜んでほしい。……それだけではなく、これからもずっと、そばにいてほしい」

 

「……貴様!」

 

燕の顔が、真っ赤になった。

 

「くだらんことを言うな!」

 

「あら、違うの?」

 

「……っ、違わん、が……!」

 

言いかけて、燕は口をつぐんだ。

 

星南は、そんな燕を見て、優しく笑った。

 

「いいことだと思うわ。誰かに見届けてもらいたいと思うことも、誰かと一緒に未来を歩きたいと思うことも」

 

「……」

 

「でも、その人に心配をかけすぎてはいけないわよ。あなたが一番になることを、その人もきっと望んでいるのだから」

 

燕は、書の写しに目を落とした。

 

『燕 一番星より 高く飛べ』

 

「……わかっている」

 

そして、小さく呟いた。

 

「だからこそ、私は飛ぶのだ」

 

◇

その日の放課後。

プロデューサー室に、燕が勢いよく入ってきた。

 

「プロデューサー!」

 

「はい? どうしました、雨夜さん」

 

「……今日は、時間があるか」

 

「ええ。もう少ししたら、仕事も終わりますよ」

 

「そうか」

 

燕は、彼の机の前に立った。

 

「ならば、今日は私に付き合え」

 

「何か予定があるんですか?」

 

「……ある」

 

「どこに行くんですか?」

 

「……秘密だ」

 

プロデューサーは少し考えてから、笑った。

 

「わかりました。ご一緒します」

 

「うむ、よろしい」

 

燕は、満足げに頷いた。

 

◇

連れてこられたのは、以前二人で訪れた城跡だった。

夕暮れの光が、石垣を赤く染めている。

 

「……覚えているか」

 

「もちろんです。雨夜さんが、歴史の話をたくさんしてくれた場所ですよね」

 

「ああ」

 

燕は、石垣を見上げた。

 

「……あの日、私は貴様に、私が一番になるところを見届けろと言った」

 

「はい」

 

「そして、貴様は、いつまでも支えると言った」

 

「……はい」

 

燕は、ゆっくりと彼のほうを向いた。

 

「……あの言葉が、私は嬉しかった」

 

「雨夜さん……」

 

「だから、もう一度言っておく」

 

燕は、まっすぐに彼を見つめた。

 

「私は、必ず一番になる。星南を越える。誰もが認めるアイドルになってみせる」

 

拳を握る。

 

「そのときは、貴様が一番近くで見ていろ。……私がどれほど高く飛んでも、見失うな」

 

プロデューサーは、穏やかに微笑んだ。

 

「はい。必ず見ています」

 

「……絶対だぞ」

 

「約束します」

 

燕は、しばらく彼を見つめていた。

それから、そっと彼の袖をつまんだ。

 

「……それと」

 

「はい?」

 

「……今日は、その...少しだけ甘えたい」

 

言った瞬間、燕の顔が赤くなった。

 

「な、何だ、その顔は! 別におかしなことは言っていないだろう!」

 

「いえ。嬉しいなと思って」

 

「……っ」

 

プロデューサーは、優しく両腕を広げた。

 

「どうぞ、雨夜さん」

 

「……言われなくても」

 

燕は彼の胸に身を寄せた。

腕を回し、背中に額を押しつける。

 

「……今日は...少し長くてもいいか」

 

「もちろんです」

 

「……本当に?」

 

「はい。雨夜さんが満足するまで」

 

燕は、彼の服をぎゅっと握った。

 

「……ならば、離れるな」

 

「はい」

 

「……私が一番になるまで、ずっとだ」

 

「はい」

 

「……一番になったあとも、だ」

 

ぼそりといった一言にプロデューサーは、少し驚いたように目を瞬かせた。

そして、彼女の背中に手を回した。

 

「……もちろんです。雨夜さんが一番になったあとも、その先も。ずっと支えます」

 

燕は、彼の胸の中で目を閉じた。

 

(……そうだ)

 

(私は、まだ飛べる)

 

(貴様が見ていてくれるのなら、どこまでも)

 

そして、ほんの少しだけ顔を上げる。

 

「……プロデューサー」

 

「はい?」

 

「……好きだ」

 

あまりにも小さな声だった。

 

夕暮れの風に消えてしまいそうなほど、かすかな声。

けれど、プロデューサーには、確かに届いていた。

 

「……僕も、雨夜さんのことが大切ですよ」

 

「……そういう返事ではない」

 

「え?」

 

「……いや、何でもない」

 

燕は再び彼の胸に顔を埋めた。

 

「……今のは忘れろ」

 

「……わかりました」

 

「……だが、明日も言うかもしれん」

 

「はい。何度でも聞きますよ」

 

「……っ、貴様は……!」

 

燕は彼の背中をぎゅっと抱きしめた。

 

「……本当に、ずるい男だ」

 

そう呟く声は、いつもの威勢のいい燕とは違っていた。

甘くて、弱くて、どうしようもなく幸せそうだった。

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