これでようやく、何もかもから解放される。そう思っていた彼を待ち受けていたのは、天国でも極楽でもなく、死亡者受付の事務窓口だった。
死者にも受付があり、手続きがあり、審査がある。そして、寿命を全うせずに自ら命を絶った者には、地獄での強制雇用が義務づけられるという。
生きた年数と残された寿命を合算した労働期間は、実に七十八年。葬儀費用などによって減免される可能性もあるらしいが、どうやら死後の世界も世知辛い。
こうして男は、三途の川を渡る死者を輸送する巨大公共事業体、彼岸輸送公社に採用されることになった。
地獄にも会社があり、部署があり、人事課があり、書類仕事がある。死んでまで会社員を続ける羽目になった男は、採用手続きを進めながら、ふと思う。
――まあ、前の会社よりはましだろう。
これは、人生を終えたはずの男が、死後の世界で新たな社会人生活を始めるまでの、ほんの少しばかり理不尽な物語。
続きを読みたいと思ってもらえたら、もしかしたら連載化…するかも?
人間、死んでしまえば何もかも終わりだと思っていた。
少なくとも、死ぬ前の俺はそう思っていた。正確に言えば、何もかも終わりにしたかったから死んだのであって、死後の世界がどうなっているかなど、考える余裕もなかったというのが実情に近い。天国だの地獄だの、閻魔大王だの、三途の川だのといったものは、子供の頃に聞かされた昔話の類でしかなかったし、仮に本当に存在したとしても、そこまでたどり着く自分の姿を想像することに、さしたる意味があるとも思えなかった。
大学はそれなりに名の知れたところを出た。就職活動では多少の苦労をしたものの、最終的には世間体の悪くない企業に入ることができたし、親も喜んでくれた。入社式の日には、これで自分も一人前の社会人なのだと、柄にもなく身の引き締まる思いがしたものだった。
その数年後、俺は会社のために身を粉にして働き、会社のために休日を潰し、会社のために睡眠時間を削り、会社のために心身の健康を損ない、最後には会社とは何の関係もない線路の上で死んだ。
いや、関係がないというのは少々語弊があるか。
通勤途中の駅だったし、飛び込んだ先には電車が走っていた。鉄道会社には多大な迷惑をかけたことだろう。家族にも、駅員にも、乗客にも、運転士にも、その他諸々の関係者にも。そう考えると、最後の最後まで他人に迷惑をかける人生だったということになる。
我ながら、ひどい話だ。
ただ、死ぬ直前の俺には、そんなことを考える余裕さえなかった。
朝起きて、会社へ行って、働いて、帰って、眠る。休日には疲れを取るために寝て過ごし、目を覚ませば翌週の仕事を思い出して憂鬱になる。そうしているうちに、いつからか、自分が何のために働いているのかもわからなくなった。
辞めればいい、という話なのだろう。
今になって振り返れば、実際その通りだったと思う。世の中には転職という手段があるし、会社を辞めたところで即座に命を取られるわけでもない。そういう当たり前のことを、当時の俺は知識としては知っていた。知っていたが、実際にそれを自分の選択肢として考えられるかどうかは、また別の話だった。
今の仕事を辞めたら、次が見つかるだろうか。
履歴書に空白期間ができたら、どう説明すればいいのだろう。
親には何と言えばいい。
同期に置いていかれる。上司に何を言われるかわからない。そもそも、ここまで耐えてきたのだから、もう少し頑張れば何とかなるのではないか。
そんなことを考えながら、俺は毎日、ほんの少しずつ何かを削り取られていった。
そして、ある朝。
気がつけば、俺は線路に立っていた。
それから先のことは、あまり覚えていない。
ただ、電車の警笛が聞こえたことと、思っていたよりも空が明るかったことだけは、妙にはっきりと記憶に残っている。
――で。
「こちらが、弊社の採用規定になります」
目の前に差し出された書類を見ながら、俺は思った。
どうやら俺は、死んでもなお働かなければならないらしい。
最初に目を覚ましたとき、俺は見知らぬ畳の上に寝かされていた。
古びた木造建築の一室だった。天井には太い梁が通り、障子の向こうからは柔らかな光が差し込んでいる。どこか懐かしい、田舎の祖父母の家を思わせるような部屋だったが、俺にはそんな場所に心当たりがなかった。
身体を起こしてみる。痛みはなかった。頭を触っても傷ひとつないし、服も死んだときのものではなく、見覚えのない白い着物に変わっていた。
それから、自分がどうしてここにいるのかを考えた。
考えたところで、答えはひとつしかなかった。
死んだのだ、俺は。
それを理解するまでに、さほど時間はかからなかった。むしろ不思議なくらい落ち着いていたと思う。生きている間に散々考えて、悩んで、苦しんで、最後にはどうしようもなくなって死んだのだから、目が覚めた場所がどこであろうと、今さら驚くこともなかったのかもしれない。
それでも、ここが天国なのか地獄なのかくらいは気になった。
畳の上でしばらくぼんやりしていると、やがて襖が開き、紺色の制服を着た男が顔を出した。年齢は四十代くらいだろうか。角も牙も生えていない、ごく普通の人間に見えた。
「お目覚めですか。では、こちらへどうぞ」
「……あの、ここは?」
「受付です」
「受付?」
「はい。死亡者受付です。詳しい説明は移動先で行いますので、まずは立ち上がって、こちらの列にお並びください」
男はそれだけ言うと、俺の返事を待たずに廊下の向こうへ歩いていった。
受付。
死亡者受付。
聞き慣れない単語が、頭の中で妙に事務的な響きを残していた。
俺は言われた通りに立ち上がり、部屋を出た。
廊下の先には広い建物が続いていた。木造の古い建築と、近代的な鉄筋コンクリートの建物が、何の違和感もなく隣り合っている。壁には案内板が掲げられ、足元には矢印の描かれた誘導表示が貼られていた。天井から吊るされた電光掲示板には、番号と行き先らしき文字が次々と表示されている。
そして、そこには大勢の人間がいた。
老若男女、服装も様々な人々が、係員の指示に従って列を作っている。着物姿の老人もいれば、スーツ姿の会社員もいる。学生服を着た少年や、赤ん坊を抱いた女性までいた。皆が皆、どこか戸惑ったような顔をしていたが、泣き叫んだり暴れたりする者はほとんどいなかった。
中には、受付の職員に食ってかかっている男もいた。
「話が違うだろう! 俺はまだ死ぬような歳じゃないぞ!」
「恐れ入りますが、死亡記録が確認されておりますので」
「ふざけるな! 俺は昨日までピンピンしていたんだ!」
「それにつきましては、こちらの審査窓口でご相談ください。こちらの列は通常受付ですので、順番にお進み願います」
「だから、そういう問題じゃ――」
男の声が遠ざかっていく。
俺はそのやり取りを眺めながら、なんとも言えない気持ちになった。
死後の世界というものがあるとして、そこはもっとこう、神秘的な場所なのだと思っていた。雲の上に白い階段が伸びているとか、光り輝く門がそびえ立っているとか、あるいは閻魔大王が巨大な机の向こうに座っていて、こちらの生前の行いを一つひとつ読み上げるとか。
少なくとも、番号札を配られて順番を待つような場所だとは思っていなかった。
いや、考えてみれば、死者が毎日大量に発生している以上、何らかの事務処理が必要なのは当然なのだろう。むしろ、受付も審査もなしに死者を適当に振り分けている方が問題だ。
そう考えると、案外まともな仕組みなのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、俺の順番が回ってきた。
「お名前をお願いします」
窓口の向こうに座っていた女性が言った。
俺は自分の名前を告げた。彼女は手元の書類に目を落とし、何枚かの紙をめくってから、机の脇に置かれた端末を操作した。
「死亡日時、確認しました。死亡原因、鉄道への飛び込みによる自死。生前の年齢、二十七歳。戸籍上の寿命、七十八歳……」
そこで彼女は一度、顔を上げた。
「それでは、こちらの用紙に記載されている内容をご確認ください」
差し出された紙を受け取る。
そこには、俺の名前や生年月日、死亡日時などが記載されていた。下の方には、見慣れない項目がいくつも並んでいる。
死後処遇区分。
生前未了寿命。
強制労務対象該当性。
そして、一番下に。
強制雇用期間 七十八年。
「……はい?」
思わず声が出た。
「七十八年です」
窓口の女性は、まるで天気予報でも読み上げるような調子で繰り返した。
「いや、あの、七十八年というのは?」
「強制雇用期間です。生前の年齢と、死亡時点で残されていた予定寿命を合算した年数が適用されております」
「ちょっと待ってください。俺、二十七歳なんですけど」
「はい。確認しております」
「それで、七十八年働くんですか?」
「はい」
「……七十八年?」
「はい」
俺は書類を見下ろした。
計算が合わない。
いや、合っているのだろう。二十七歳で死んで、寿命が七十八歳までだったのなら、残りは五十一年。そこに生きた二十七年を足せば七十八年。理屈としてはわかる。
わかるが、納得できるかどうかは別問題だった。
「すみません、これ、何かの間違いじゃないですか?」
「死亡記録に誤りがなければ、原則として変更はできません。なお、葬儀費用や生前の納付状況、その他個別事情により、期間が減免される場合はございます」
「……お金で減るんですか?」
「審査の結果によります」
「地獄の沙汰も金次第、というやつですか」
「そういう言い方をされる方もいらっしゃいますね」
女性は特に表情を変えなかった。
俺は思わず笑いそうになった。
笑うしかなかった、という方が正しいかもしれない。
死んだら終わりだと思っていた。すべてが終わって、ようやく何も考えずに済むのだと思っていた。ところが、いざ死んでみれば、待っていたのは事務手続きと、七十八年という途方もない労働期間だった。
七十八年。
俺が今から七十八年生きたら、百五歳である。
いや、そもそも死んでいるのだから、年齢など気にする必要はないのかもしれない。だが、気にする必要がないということは、気にしなくていいということではなかった。
「……ちなみに、拒否したらどうなります?」
「強制雇用制度に基づく命令ですので、拒否は認められておりません」
「ですよね」
「ご理解いただけたようで何よりです」
理解と納得は違うのだが、訂正する気力もなかった。
女性は手際よく書類をまとめ、俺に一枚の紙を渡した。
「こちらが仮採用通知です。正式な配属先は後日決定されますが、あなたの場合、鉄道輸送事業を行う当社への採用が予定されております。詳細については、総務人事部の担当者から説明がありますので、そちらへお進みください」
「……鉄道?」
「はい。彼岸輸送公社です」
彼岸輸送公社。
その名前を聞いた瞬間、俺はなぜだか、ひどく嫌な予感がした。
――彼岸輸送公社。
その名の通り、此岸と彼岸の間に横たわる三途の川を渡り、死者を向こう岸まで輸送することを主たる業務とする公社である。
もっとも、これは後日、人事部の女性から聞かされた説明を俺なりにまとめたものであり、採用直後の俺が知っていたのは、三途の川を渡る死者を運ぶ組織が存在し、俺はそこに七十八年間勤めなければならないらしい、ということだけだった。
公社の建物は、死亡者受付のあった施設から専用の送迎車で移動した先にあった。
地獄という場所のイメージからすれば、もっと禍々しい建物を想像していたのだが、実際には拍子抜けするほど普通だった。広大な敷地にいくつもの庁舎が並び、正面には大きな看板が掲げられている。敷地内を走る道路には白線が引かれ、歩道には街路樹が植えられていた。駐車場には公用車らしき車両が整然と並び、正門の脇には警備員の詰所まである。
どう見ても、役所か大企業の本社だった。
「ここが、彼岸輸送公社です」
送迎車を運転していた職員が言った。
「公社というのは、国営企業みたいなものですか?」
「まあ、そんなところですね。管轄は地獄府ですが、独立採算制を採用している部分もありますし、現場の運営はかなり独自にやっています。細かいところは部署によって違いますけど」
「……はあ」
「死者の輸送は、誰かがやらなきゃいけない仕事ですから」
その言い方には、妙な実感がこもっていた。
車が正門を通り抜け、構内へ入っていく。
窓の外には、制服姿の職員たちが行き交っていた。書類を抱えて早足で歩く者、建物の前で煙草を吸う者、ベンチに腰掛けて弁当を食べている者。中には、何やら言い争いをしている集団もいた。
その光景を眺めながら、俺はふと思った。
ここにいる人たちは、全員死んでいるのだろうか。
死んだ人間が働いている。死んだ人間が出勤し、死んだ人間が書類を作り、死んだ人間が上司に怒られ、死んだ人間が昼休みに煙草を吸う。
そう考えると、ひどく馬鹿馬鹿しい光景だった。
だが、不思議と違和感はなかった。
生前の会社と、何も変わらない。
建物が違い、働いている人間が違い、運んでいるものが違うだけで、組織というものの構造はどこへ行っても似たようなものなのかもしれない。
むしろ、死んだ後まで仕事があるのなら、もう少し特殊な環境であってほしかった。
車が停車した。
「到着しました。人事部は本庁舎の三階です。受付で名前を言えば案内してもらえます」
「ありがとうございます」
「いえ。では、今後ともよろしくお願いします」
職員はそう言って、軽く頭を下げた。
俺も反射的に頭を下げてから、車を降りた。
今後ともよろしくお願いします。
その言葉が、妙に耳に残った。
今後とも、ということは、これから先もずっとということだろうか。
七十八年。
俺はもう一度、手元の採用通知を見た。
やはり、七十八年と書いてあった。
「はい、ではこちらに署名をお願いします」
人事部の担当者は、そう言って書類を差し出した。
俺はペンを握ったまま、机の向こうに座る女性を見た。
年齢は二十代後半から三十代前半くらいだろうか。黒髪を後ろでひとつにまとめ、紺色の制服の上に薄手のカーディガンを羽織っている。机の上には書類が積み上がっていたが、乱雑というほどではなく、必要なものをすぐ取り出せる程度には整理されていた。
胸元の名札には、総務人事部人事課、と書かれている。
「……あの」
「はい?」
「これ、本当に七十八年なんですか?」
彼女は書類から顔を上げた。
それから、俺の手元にある採用通知を見て、ああ、と小さく声を漏らした。
「その話ですか。はい、原則としては」
「原則としては?」
「葬儀費用などによる減免が認められれば、もう少し短くなる場合もあります。ただ、審査が必要ですし、必ず減るというわけでもありません。あなたの場合、まだ審査が終わっていないので、現時点では七十八年という扱いですね」
「……なるほど」
「もっとも、うちでは珍しい話でもありませんよ。残りの寿命が長い方だと、百年単位で働くことになる場合もありますから」
「百年……」
「はい」
彼女は、少し困ったように笑った。
「最初は皆さん、驚かれます」
「でしょうね」
「ええ。まあ、慣れる方もいれば、最後まで納得されない方もいますけど」
慣れる。
最後まで納得しない。
どちらにしても、七十八年は長い。
俺は手元の書類に目を落とした。
そこには、採用に関する規定が細かい文字で並んでいた。勤務時間、服務規程、給与体系、福利厚生、休暇制度、懲戒規定。どれも見慣れた形式の文章で、読んでいるだけで生前の会社を思い出す。
ただし、一番最後の項目だけは、見慣れないものだった。
第十八条 強制雇用期間中の職員は、原則として自己都合による退職を申し出ることができない。
原則として、ということは、例外もあるのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎったが、今は聞かないことにした。
どうせ、聞いたところで大した答えは返ってこないだろう。
それよりも、気になることがあった。
「すみません。ひとつ、聞いてもいいですか」
「はい、どうぞ」
「ここって、地獄なんですよね?」
彼女は一瞬だけ目を丸くした。
それから、今度は先ほどよりも少しだけ自然な笑みを浮かべた。
「ええ。地獄ですよ」
「……思っていたより普通ですね」
「そうでしょう?」
彼女は机の上の書類を揃えながら、なんでもないことのように言った。
「地獄というと、皆さん、もっとこう、釜茹でだとか、針の山だとか、そういうものを想像されるんですけど。ああいうのは、主に刑罰の話ですから。地獄にも行政がありますし、会社もありますし、商店街もあります。住んでいる人だって大勢います」
「住んでいる人……」
「ええ。地獄は刑罰を受ける場所であると同時に、社会でもありますから」
その言葉を聞いて、俺は窓の外を見た。
庁舎の向こうには、いくつもの建物が並んでいた。遠くには高層ビルらしきものまで見える。道路を走る車の列も、駅へ向かう人々の姿も、どこか見慣れたものだった。
死後の世界。
地獄。
そう呼ばれる場所に、社会がある。
考えてみれば、それほど不思議なことでもないのかもしれない。死者がいて、暮らしがあって、仕事があって、社会を維持するための仕組みが必要なら、行政も企業も生まれるだろう。
むしろ、何もない方が不自然だ。
「それにしても、あなた、ずいぶん落ち着いていますね」
彼女が言った。
「そうですか?」
「ええ。皆さん、最初はもっと取り乱されますよ。泣いたり、怒ったり、帰せと騒いだり。もちろん、そうなるのが普通ですけど」
「……もう死んでしまったので」
自分で言っておきながら、妙な言葉だと思った。
もう死んでしまったので。
それ以上、どうしようもない。
生き返る方法があるのなら話は別だが、少なくとも、目の前の女性はそんなことを言っていない。死んだものは死んだものとして扱われ、残された問題は残された問題として処理される。それだけのことなのだろう。
「それに、七十八年も働くことになるなら、今さら騒いでも仕方がないでしょう」
「……そういう考え方もありますね」
彼女は少しだけ考え込むような顔をしたあと、書類を机の端へ寄せた。
「実は、死後に性格や考え方が変わる方って、結構いらっしゃるんです」
「性格が?」
「ええ。生前は神経質だった方が妙に大らかになったり、反対に、何も気にしなかった方が細かいことを気にするようになったり。理由はよくわかっていませんけどね。死んだという事実を受け入れたことで、何かが変わるのかもしれません」
「……はあ」
「あなたの場合は、諦めがよくなったのかもしれませんね」
そう言われて、俺は少し考えた。
諦めがよくなった。
確かに、そうなのかもしれない。
生きていた頃は、何もかもが怖かった。仕事を失うことも、人から失望されることも、期待に応えられなくなることも、将来が見えなくなることも。何かを失うことが怖くて、失わないために必死になって、気がつけば、何を守ろうとしていたのかさえわからなくなっていた。
だが、死んでしまえば、失うものはずいぶんと少なくなる。
少なくとも、会社にクビにされることを恐れる必要はない。出世が遅れることを気にする必要もない。同期と比べて自分が劣っているのではないかと悩む必要もない。
何しろ、もう死んでいるのだ。
その事実は、思っていた以上に強力だった。
「まあ、そういうことにしておきます」
「ふふ。では、そういうことにしておきましょう」
彼女は笑って、別の書類を取り出した。
「それでは、今後の説明をしますね。まず、あなたは本日付で仮採用となります。正式な配属先は後日通知されますが、採用区分から考えると、鉄道部門への配属になる可能性が高いです」
「鉄道部門」
「はい。うちは船舶部門と鉄道部門に大きく分かれていまして、現在は鉄道部門が輸送の中心になっています。もっとも、船の方もなくなったわけではありませんけど」
「船もあるんですね」
「ありますよ。昔は船が主流でしたから。今でも船でなければ運べないものや、鉄道の運行に適さない状況もありますし」
彼女は説明しながら、机の上に置かれたパンフレットを俺に渡した。
表紙には、川を渡る列車の写真が載っていた。
いや、正確には、川の上に架けられた巨大な鉄橋を走る列車の写真だった。川面は暗く、対岸は薄い霧に覆われている。列車の車体には、彼岸輸送公社の紋章らしきものが描かれていた。
パンフレットの見出しには、こう書かれていた。
此岸から彼岸へ。すべての旅立ちを、安全に、確実に。
「……ずいぶん立派なことが書いてありますね」
「そうですね。広報が頑張ったんだと思います」
「広報」
「ええ。どこの組織にもありますから、そういう部署」
彼女は、少しだけ遠い目をした。
「もっとも、現場の人間からすると、広報に載っているような綺麗な話ばかりではないんですけどね」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
「何かあるんですか?」
「まあ、いろいろと」
彼女はそれ以上、詳しくは話さなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、机の上に積み上がった書類へ視線を落とした。
その表情を見て、俺は思った。
ああ、ここも同じなのだろう。
立派な理念があって、組織があって、規則があって、働く人間がいる。そして、その裏側には、外から見ただけではわからない面倒事が山ほど積み上がっている。
どこへ行っても、結局は同じなのかもしれない。
「……まあ、いいです」
俺はパンフレットを閉じた。
「よろしくお願いします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
彼女はそう言って、穏やかに微笑んだ。
「改めまして、人事課の者です。あなたの採用手続きと、当面の配属調整を担当します。しばらくは私が窓口になりますので、わからないことがあれば遠慮なく聞いてくださいね」
「ありがとうございます」
「それと、これからしばらくは研修や説明会が続きます。制服や備品の支給もありますし、職員住宅の手続きも必要になりますから、今日は少し忙しくなりますよ」
「……死んだばかりなのに?」
「死んだばかりでも、です」
彼女は悪びれもせずに言った。
俺はしばらく黙り込んだ。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……前の会社よりは、ましだといいんですけどね」
何気なく口にした言葉だった。
深い意味はなかったし、何かを期待していたわけでもない。ただ、七十八年という数字を前にして、少しでも前向きなことを考えなければ、やっていられなかっただけだ。
ところが、彼女はその言葉を聞くと、なぜか少しだけ驚いたような顔をした。
そして、困ったように笑った。
「それは……どうでしょうね」
「えっ」
「いえ。何でもありません」
彼女は書類を一枚、俺の前に差し出した。
「では、まずはこちらからお願いします。住所、緊急連絡先、希望配属先の記入欄がありますので」
「緊急連絡先って、死後でも必要なんですか?」
「必要ですよ。何かあったときに連絡する先がないと困りますから」
「……誰に連絡するんです?」
「ご遺族ですとか、関係者ですとか」
俺はペンを持ったまま、固まった。
死んだ後まで、家族に迷惑をかけるのか。
そう思ったが、今さらどうしようもなかった。
俺は結局、必要事項を記入し始めた。
名前を書き、住所を書き、その他の項目を埋めていく。希望配属先の欄では少し迷ったが、そもそも鉄道部門に配属される可能性が高いと言われているのだから、希望も何もないだろうと思い、第一希望に鉄道部門と記入した。
書類を提出すると、彼女は一通り目を通してから、満足そうに頷いた。
「はい、これで大丈夫です。お疲れさまでした」
「……どうも」
「では、これから職員住宅の案内をしますね。今日はもう遅いので、詳しい説明は明日にしましょう」
「わかりました」
俺は立ち上がった。
七十八年。
その数字は、まだ頭の片隅に居座っていた。
だが、もう一度考えてみると、少しだけ見方が変わっていた。
生前の俺は、会社を辞めることすらできなかった。辞めた後のことが怖くて、明日のことが怖くて、何もかもを失うことが怖かった。
それに比べれば、ここはどうだろう。
少なくとも、もう生きていくために働く必要はない。衣食住は用意されるらしいし、給与も出るらしい。勤務時間や休暇制度だって、一応は整備されている。七十八年間辞められないという一点を除けば、案外悪くない条件なのではないだろうか。
いや、七十八年間辞められないという一点が、致命的なのだが。
それでも。
それでも、俺は思った。
――前職よりは、ましなのではないか。
そう考えられる程度には、俺の心は壊れていたのかもしれない。
あるいは、死んだことで、本当に何かが変わったのか。
どちらでもいい。
どうせ、もう死んでいるのだ。
ならば、せめて今度は、少しくらい気楽に働いてみてもいいのではないだろうか。
「では、行きましょうか」
人事課の女性が、扉を開けた。
「明日から、いろいろ大変になりますよ」
「……お手柔らかにお願いします」
「ふふ。善処します」
俺は彼女の後について、廊下へ出た。
窓の外では、夕暮れのような赤い光が街を照らしていた。
あれが太陽なのか、それとも地獄特有の空なのか、俺にはわからない。
ただ、遠くの方から、汽笛のような音が聞こえた。
川を渡る列車が、今日もどこかで走っているのだろう。
此岸から彼岸へ。
死者を乗せて、向こう岸へ。
俺もまた、その輸送を担う側になるらしい。
七十八年間。
……長いなあ。
そう思いながらも、俺は歩くのをやめなかった。
こういうタグ入れた方がいいよ!っていうのがあったら教えていただけると幸いです。