永遠の命を得ながらも自我と居場所を失いかけていた彼は、幻想郷の境界を司る者、八雲紫と出会う。
数千年の虚無の果ての男の結末とは---
序
或る男は東方に渡った。
徐福は東方に渡った。そして二度と帰らなかった。
秦の始皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を求めて海を渡った男、徐福。
彼はその後、どうなったのか。
航海の途上で命を落としたのか。あるいは、仙薬を見つけることができず、始皇帝への報告を恐れて帰国を諦めたのか。
はたまた、始皇帝を欺いて持ち出した財宝と人々を率い、異国の地に新たな国を築いた詐欺師なのか。
徐福の行方については、さまざまな説が語られてきた。彼がどこへ渡り、何を成し遂げ、なぜ故郷へ帰らなかったのか。その真実を知る者は、今となっては誰もいない。
ただ、ひとつ確かなことがある。
徐福は東方に渡った。
そして、二度と帰らなかった。
一
八雲紫は、今日も幻想郷の結界を管理していた。
外の世界と幻想郷を隔てる、博麗大結界。
今日も結界に異常はない。
いつもと変わらぬ、平穏な一日。
紫はふと、遠い昔のことを思い出した。
ある男のことを。
幻想郷が今の姿を持つよりも、ずっと昔。
一人の男が、この地へ渡ってきた。
彼は、自分が何者であるかを知っていた。
けれど、それが自分にとって何を意味するのか、もう分からなくなっていた。
紫は、彼と初めて出会った日のことを、今でも覚えている。
その男の名は徐福といった。
かつて秦の始皇帝に命じられ、不老不死の仙薬を求めて海を渡った男。
彼が本当に仙薬を手に入れたのか。海の向こうで何を見たのか。そして、なぜ故郷へ帰らなかったのか。
それを知る者は、歴史の中にはもう誰もいない。
ただ、八雲紫だけは知っていた。
徐福が何を求め、何を手に入れ、何を捨てたのかを。
「ねえ、あなた。この地の人間ではないのでしょう?」
紫は、いつもの調子で彼に話しかけた。
「昔は、どんな人間だったの?」
男は少しだけ考えた。
「…昔、ですか」
「ええ。あなたにも、人間だった頃があるのでしょう?」
「そうですね。確かに、ありました」
男はあっさりと答えた。懐かしむ様子も、悔やむ様子もなかった。
「私はかつて、徐福という名で呼ばれていました」
まるで、どこかで聞いた他人の名前を教えるような口ぶりだった。
「秦の始皇帝に仕え、不老不死の仙薬を求めて海を渡った男です」
紫は黙って続きを待った。
「…そうですね。せっかくですから、少し昔話でもしましょうか」
男は、遠い過去を振り返るように目を細めた。
「私がまだ、人間だった頃の話です」
始皇帝は、死を恐れていた。
天下を統一し、数え切れぬほどの人間を従え、望むものの多くを手に入れた男であっても、死だけは意のままにならなかった。
どれほどの財宝を積もうとも、どれほどの人間を働かせようとも、命には終わりがある。
だからこそ、始皇帝は不老不死を求めた。
排し難い死の恐怖を乗り越えるため、その望みを叶えるために、私に命じたのだ。
海の向こうにあるという仙境へ渡り、不老不死の仙薬を持ち帰れ、と。
私は命令を受け入れた。
それが忠義によるものだったのか、名誉を求めたためだったのか、あるいは皇帝の命に背くことを恐れたからだったのか。今となっては、よく分からない。
ただ、あの頃の私は、まだ自分の人生が自分のものであると信じていた。
命令を受け、船を用意し、人々を集めた。
海を渡るための支度を整え、故郷を離れる日を迎えた。
出航の日、私は岸を振り返った。
そこには、見慣れた土地があった。
私が生まれ、育ち、これまで生きてきた場所。帰るべき場所。旅を終えた私を待っているはずの場所。
そのときの私は、疑いもしなかった。
いずれ帰るのだと。
不老不死の仙薬を持ち帰り、始皇帝の望みを叶え、再びこの岸に立つのだと。
船は岸を離れた。
陸地は少しずつ遠ざかり、やがて海と空の向こうに消えていった。
私はそれを見届けてから、前を向いた。
東へ。
ただひたすらに、東へと向かった。
旅は、私が想像していたものとは違っていた。
海は広く、天候は気まぐれで、人間の都合などお構いなしだった。穏やかな日もあれば、船が砕けるのではないかと思うほどの嵐に見舞われる日もあった。食料が尽きかけたこともあれば、行く先を見失い、ただ海の上を漂うしかないこともあった。
それでも、私は旅を続けた。
仙薬を見つけなければならなかった。
それが始皇帝の命令だったからなのか、自分自身が望んだことだったのか。その違いを考えることは、あまりなかった。
人々は新たな土地を探し、海の向こうにあるものを求めた。私もまた、何かを求めていた。
ただ、旅が長くなるにつれて、故郷のことを考える時間は少しずつ減っていった。
初めの頃は、帰国したあとのことをよく考えていた。始皇帝に仙薬を献上すること。故郷へ戻ること。旅の終わりに何をするかということ。
だが、いつしか、それらを考えなくなった。
考えなくとも、旅は続いた。
明日も海を渡り、次の土地を探し、仙薬の手掛かりを求める。
それだけで十分だった。
人間とは不思議なものだ。
どれほど遠い場所へ来ようとも、最初に抱いた目的さえあれば、歩き続けることができる。
たとえ、その目的を抱いた理由を忘れかけていても。
どれほどの年月が過ぎたのか、今となっては正確には分からない。
私は多くの土地を訪れ、多くのものを見た。
そして、ついに仙薬を手に入れた。
それは、長い旅の果てに見つけたものだった。
人間の身ではたどり着けぬ場所にあり、人間の知恵だけでは得られぬもの。少なくとも、当時の私はそう考えていた。
それを手にしたとき、私は何を思ったのだろう。
喜びだったのか。安堵だったのか。
あるいは、ようやく旅が終わるのだという、ただそれだけの感慨だったのか。
よく覚えていない。
いや、正確には、覚えてはいるのだろう。
あのときの自分が何を考え、何を感じたのか。思い返そうとすれば、いくらかのことは思い出せる。
ただ、それが本当に自分の感じたことだったのか、確信が持てないのだ。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
私は仙薬を口にした。
不老不死を求めて海を渡った男が、ついにその願いを叶えたのだ。
少なくとも、そのときの私はそう思っていた。
初めのうち、何も変わらなかった。
朝になれば目が覚め、腹が減れば食事をし、疲れれば休んだ。身体に不思議な力が宿ったわけでもなければ、世界の見え方が変わったわけでもない。
私は相変わらず、私だった。
だからこそ、変化に気づくまでには時間がかかった。
傷が癒える。病に倒れても、やがて回復する。年月が過ぎても、身体は衰えない。
周囲の人間が年老い、やがて姿を消していく一方で、私だけが変わらずにそこにいた。
そこで初めて、私は自分が手に入れたものの意味を理解した。
永遠の命。死ぬことのない身体。
始皇帝が求め、私が海を渡って探し続けたもの。
私はそれを手に入れたのだ。
しかし、不思議なことに、喜びは長く続かなかった。
永遠に生きられる。
それは、何を意味するのだろう。
昨日までの私には、答えがあったはずだった。
始皇帝の望みを叶える。故郷へ帰る。自分の成し遂げたことを、人々に伝える。
だが、それらの答えは、いつしか私の中で輪郭を失っていった。
記憶が消えたわけではない。
始皇帝の顔も、旅立った日の海も、遠ざかっていく故郷の姿も、覚えていた。自分が何者だったのかも、分かっていた。
私は徐福だ。
秦の始皇帝に仕え、不老不死の仙薬を求めて海を渡った男。
それは間違いのない事実だった。
けれど、その事実が私にとって何を意味するのか、分からなくなっていった。
徐福という名を聞いても、懐かしさは湧かなかった。
故郷を思い出しても、帰りたいとは思わなかった。
私は私自身を、いつしか置き去りにしてしまっていたのだ。
かつての使命を思い返しても、それを果たさなければならないとは感じなかった。
すべて覚えている。すべて理解している。
それなのに、どれも私を動かさなかった。
私は、永遠を手に入れた。
自由を得たはずのその永遠の中で、かつての自分が少しずつ遠ざかっていくのを、ただ見ていた。
「…それで、あなたはどうしたの?」
紫の声が、遠い記憶の底から私を引き戻した。
私は顔を上げた。
「どうした、とは?」
「仙薬を手に入れたのでしょう? そのあと、故郷へ帰ろうとは思わなかったの?」
私は考えた。
帰る。その言葉の意味は理解できた。かつて自分がいた場所へ戻ること。離れた土地へ再び足を踏み入れること。
だが、それを自分が望んでいたかと問われれば。
「…さあ。どうだったでしょうね」
私は答えた。
「その頃には、帰るということが、私にとってどれほど大切なことだったのかも、よく分からなくなっていたのです。自分自身すらも失いかけていた頃に、あなたが私の前に現れたのです。」
紫は、何も言わなかった。
ただ、私の顔をじっと見つめていた。
その眼差しが何を意味していたのか、当時の私には分からなかった。いや、今でも分からないのかもしれない。
ただ、あのときの彼女は、私が口にした言葉の向こうに、私自身でさえ気づいていなかった何かを見ていたのだろう。
永遠を手に入れた男が、永遠の中で何を失っていくのか。
その男がいつか、どこへたどり着くことになるのかを。
二
「ねえ、徐福。あなたは死なない。けれど、それは『生きている』と言えるかしら?」
紫は静かに、けれど逃げ場を塞ぐように語りかけてきた。
「このまま名前も記憶も擦り切れて、ただの虚無として風に流されていく…それが、あなたが海を渡って得た永遠の答えなの?」
「…答え、ですか。分かりません。私にはもう、悲しむ心も、喜ぶ価値も残っていない。ただ、この身がそこにあるというだけのことです」
「それならば、私と契約をしましょう」
紫の瞳に、かすかな揺らぎが浮かんだ。
「この地は近代化の波によって、いずれ人間も妖怪も滅びてしまう不安定な場所なの。外の世界からたどり着いたあなたなら分かるでしょう? この美しい幻想の地の儚さを」
「契約、と言われましても。私にとっての居場所や存在意義は、この世界にはもう何もないですから」
「あなたの居場所はここよ」
紫は断言した。
「ここは、あなたを受け入れる幻想の場所。あなたはこの美しい場所を守るために存在する。…これが、あなたの存在意義であり、幸福なの」
私に新たな存在意義を見出した彼女の言葉に、私は数千年ぶりの温かみを覚えた。
そうだ。帰る場所がないのではない。
私自身が、それを忘れてしまっていたのだ。
私は、そんな彼女がいるこの地を守るべきなのだ。
「あなたと、この地のために。私は尽くしましょう」
徐福はついに、この永遠を生きる意味を見出したのだ。
結
「――ありがとう、最初の旅人さん」
紫の言葉が聞こえた気がした。
男――かつて徐福と呼ばれた存在の身体から、ゆっくりと輪郭が失われていく。
痛みも、恐怖もなかった。数千年の旅の中で擦り減っていた魂の空隙が、今やこの土地の空気と、土と、空の青さによって満たされていくような、どこか懐かしい感覚だけがあった。
肉体が解け、光の粒子となって広がる。
その光は、幻想郷という境界の内側を優しく包み込んでいった。
常識と非常識を分かつ、博麗大結界。
それは単なる呪術でも、冷酷な壁でもなかった。
外の世界から弾き出され、居場所を失った者たちを護るための、巨大で温かな「器」の誕生だった。
始皇帝の命を受け、海を渡った男の旅は、ここでようやく終わりを迎えたのだ。
かつて故郷の岸辺から遠ざかっていく船の上で彼が求めたものは、不老不死の薬などではなかったのかもしれなかった。
ただ、自分が自分として息を吐き、誰かのために留まることができる「帰るべき場所」だった。
徐福という名は、風に溶けて消えた。
けれど、彼の永遠の時間は、いまや幻想郷の風となり、木々のざわめきとなり、この地を生きるすべての命を静かに包み込んでいる。
数百年後の、ある晴れた午後。
博麗神社の縁側で、博麗霊夢はお茶をすすりながら、ぼんやりと境内を眺めていた。
鳥居の向こうから、貸本屋の小鈴が新しく入った本を抱えて石段を登ってくるのが見える。その後ろからは、阿求が歩調を合わせてゆっくりと続いていた。境内では、魔理沙が境内の落ち葉を掃くフリをしながら、縁側の煎餅を狙っている。
いつもと変わらない、平和で、どこか賑やかな日常。
「ふう……今日も平和ねえ」
霊夢が小さく呟くと、境内を心地よい風が吹き抜けた。
その風は、どこか懐かしく、ひだまりのように温かかった。
「…ねえ、紫」
境内のかげりから、ゆらりと姿を現した境界の妖怪に向かって、霊夢はふと思い出したように声をかけた。
「大結界って、ただの『技』じゃないわよね。なんというか……たまに、すごく古い誰かの気配を感じるのよ。護られているような、見守られているような」
紫は手に持った扇子を静かに広げ、口元を隠しながら微笑んだ。
「さあ、どうかしらね。ただの気のせいかもしれないわよ?」
「もう、相変わらず勿体ぶって」
霊夢はお茶をもうひとくち飲み、空を見上げた。
空はどこまでも青く、澄み渡っている。
紫もまた、霊夢と同じ空を見つめていた。
風の中に混ざる、遠い昔に海を渡ってきた男の気配を感じながら、誰にも聞こえない声でそっと呟いた。
「――ねえ、あなた。今日もこの地は、とても美しいわよ」
空を渡る風が、まるでその問いかけに応えるかのように、神社の大樹を優しく揺らした。
徐福は東方に渡った。
不老不死を求めて海を渡り、永遠を手に入れ、やがて自分が何者であったかにさえ執着しなくなった。
彼は帰らなかった。
故郷を忘れたからではない。
そこへ帰ることよりも、ここに在ることを幸福だと思ったからだ。
探していたものは、不老不死ではなく「自分が自分として在れる場所」だったのだと知った。
そして今日も、幻想郷と外の世界のあいだには境界がある。
徐福は、二度と帰らなかった。
今作は中国の伝承上の人物、徐福が不老不死の薬を見つけていたら、またもし、彼が渡った東方の地が日本であり幻想郷であったらという発想を元に書いた作品です。東方Projectにおける不老不死(蓬莱人など)は、時に非常に残酷で切ないものとして描かれます。記憶や感情が摩耗し、自分自身すら置き去りにしてしまう虚無感。そこから彼にとってどのような意味を見出すのかを描いた作品です。
現代に生きる我々にとって徐福がどのような最後を遂げたのかはわかりませんが一つ確かなことがあります。
徐福は東方に渡った。そして二度と帰らなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。