白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険 作:AmethystBlue
テラン王国の奥地にある湖は、周囲を深い森と山々に囲まれ、静かな水面に青空を映していた。
ナバラとメルルに案内されてやってきたダイたちは、その湖の中央に向かって伸びる細い石造りの道を歩いていた。道の先端には小さな祠のような建物があり、中央には翼を広げた竜の石像が鎮座している。
「ここが、竜の騎士にまつわる伝説が残されている場所です」
メルルの説明を聞きながら、一行は石像へと近づいた。そして、その台座に刻まれた紋様を見た瞬間、ポップが驚きの声を上げた。
「おい、ダイ! これ、お前の額に出る紋章と同じじゃねえか!」
「えっ!? 本当!?」
確かに、石像の台座には、ダイが力を発揮したときに額へ浮かび上がる竜の紋章と同じ模様が刻まれていた。レオナも興味深そうに覗き込み、ヒルダはその紋様をじっと見つめていた。
「伝説によれば、この湖の底には竜の騎士だけが入ることを許された神殿があるそうです。そこへ行けば、何か分かるかもしれません」
メルルの言葉に、ダイは湖面へ視線を向けた。
自分が何者なのか。あの不思議な紋章は何なのか。これまで分からなかったことの答えが、湖の底にあるというのだろうか。
「ダイ君、これを持っていって」
レオナが差し出したのは、一本の鋼の剣だった。ベンガーナで念のために買っておいたもので、以前使っていた剣を失ったダイには、ちょうどよい贈り物だった。
「ありがとう、レオナ!」
ダイは嬉しそうに剣を受け取り、軽く振って感触を確かめた。そんな彼を見て、ポップもひと安心したように笑った。
「よし、それじゃあ行ってみるか。湖の底に何があるか分かんねえし、俺たちも……」
「……ごめん、みんな……1人で行きたいんだ……」
ダイの静かな言葉に、ポップは足を止めた。
「……ダイ?」
「ごめん。でも、これはオレ自身のことだから……自分で確かめたいんだ」
俯き加減にそう答えたダイの表情には、いつもの明るさがなかった。
デルムリン島で暮らしていた頃、ダイは自分が何者なのかなど考えたこともなかった。島にいるのはほとんどが怪物で、人間は自分ひとりだったが、そんなことを不思議に思う必要もなかった。
ブラスをはじめ、島の怪物たちは皆、姿形の違いなど気にせずに接してくれた。ダイにとって、種族が違うことは仲間になれない理由にはならなかったし、誰かと一緒に暮らすうえで、そんなことを考えたことさえなかったのである。
けれど、人間は違うのかもしれない。
ベンガーナで、自分の力を目撃した人々が見せた恐怖。まるで恐ろしい怪物を見るような視線を向けられたことが、ダイの心に深い傷を残していた。
もし、自分が人間ではなかったら。
ポップやレオナまで、いつか自分を怖がるようになってしまうのだろうか。そんな不安を抱くこと自体が嫌だったが、どうしても頭から離れなかった。
「……ダイくん」
ヒルダが、そっと声を掛けた。
彼女には、ダイの気持ちが痛いほどよく分かった。人々から恐れられる悲しさも、何もしていないのに拒絶される辛さも、自分自身が嫌というほど経験してきたものだった。
ただ、ダイと自分では、少し事情が違う。
物心がついた頃から周囲の人々に迫害され、他人に受け入れてもらうことさえ難しかったヒルダとは違い、ダイは島の怪物たちに囲まれて育ってきた。自分が何者かなど考える必要のなかった少年が、突然、人間と違うことを恐れられる現実に直面したのである。
その純粋な心がどれほど傷ついたのか、想像するだけでも胸が痛んだ。
ヒルダはゆっくりと歩み寄ると、ダイの顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「おひとりで行きたいのでしたら、わたしはここでお待ちしています。でも、その前に、ひとつだけお伝えしておきたいことがあります」
「……なに?」
「ダイくんが何者だろうと、関係ありません。ダイくんは、わたしの大切なお友達ですから。それを忘れないでください」
ダイが顔を上げると、ヒルダはいつもと変わらない優しい笑みを浮かべていた。そこには迷いも、彼の正体を知ることへの恐れもなかった。
「へっ、当たり前だろ! お前が人間だろうが何だろうが、俺たちの仲間には変わりねえよ!」
「そうよ、ダイ君。あたしたちがそんなことで態度を変えると思う?」
ポップとレオナも、当然のように頷いた。
その言葉に、ダイの表情が少しだけ和らぐ。胸の奥に生まれた不安がすべて消えたわけではなかったが、目の前の仲間たちが変わらず自分を信じてくれていることが、何よりも嬉しかった。
「……うん。ありがとう、みんな!」
ようやく笑顔を見せると、ダイは剣を握り直し、湖の中央にある神殿へと向かった。
その小さな背中を、ヒルダたちは黙って見送った。
やがてダイの姿が見えなくなると、ポップは大きく息を吐いた。
「ったく、あいつ……そんなこと気にしてたのかよ」
「無理もないわよ。あんな目に遭ったんだもの」
レオナの言葉に、ポップは何も答えなかった。ベンガーナでダイに向けられた人々の視線を思い出したのか、その表情には隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。
ヒルダはそんな2人を見つめながら、静かに湖へと視線を戻した。
自分が何者なのかを知ることが、必ずしも幸せに繋がるとは限らない。それでも、ダイがその答えを求めているのなら、彼自身の意思を尊重してあげたかった。
どうか、あの少年がこれ以上傷つくことのありませんように。
ヒルダは胸の内で、そう願った。
◇ ◇ ◇
湖底に眠る神殿は、長い年月を経てもなお、神秘的な威厳を保っていた。
石壁には竜を象った彫刻が刻まれ、中央には大きな水晶が浮かんでいる。その淡い光に導かれるように歩み寄ったダイは、突然、頭の中へ響いてきた声に驚いて足を止めた。
竜水晶。
それは、竜の騎士に自らの使命と真実を伝えるための存在だった。
竜の騎士とは、人間でも魔族でも竜でもない。三界の神々によって生み出され、地上の均衡を守る使命を与えられた究極の戦士なのだという。
その説明を聞いたダイは、言葉を失った。
「じゃあ……オレは、人間じゃないのか……?」
普通の人間とは違う力を持っていることは、以前から分かっていた。しかし、どこか心の中では、自分も皆と同じ人間なのだと信じていたのかもしれない。
その僅かな希望さえも、目の前の水晶によって否定されてしまった。
呆然と立ち尽くすダイの背後で、不意に足音が響いた。
「……!」
振り返った先には、背中に長大な剣を負った男が立っていた。
「だっ、誰だ!!」
ダイが警戒して剣を構えると、男は鋭い眼差しを向け、低い声で名乗った。
「……超竜軍団長、バラン」
「魔王軍の……!?」
ダイの表情が強張った。
バランは動じることなく、目の前の少年を見つめていた。
「……私の部下になれ。ともに人間どもを滅ぼすのだ!」
あまりにも一方的な要求に、ダイは耳を疑った。
「ふざけるな! どうしてオレがそんなことをしなきゃならないんだよ!」
竜の騎士とは、地上の均衡を乱す者に天罰を下す存在なのだという。だが、バランが滅ぼすべきと考えているのは、人間だった。
「竜の騎士が悪者に天罰を与えるっていうなら、大魔王バーンの方がよっぽど悪いじゃないか!」
「悪いのは人間どもだ。奴らこそ、この地上から滅び去るべき存在なのだ」
バランの答えに、ダイは強く首を振った。
人間が自分を恐れることは、確かにあるのかもしれない。しかし、それだけですべての人間が悪いなどと、どうしても思えなかった。
「オレは絶対に、あんたの仲間になんかならない!」
ダイは鋼の剣を構え、渾身の力を込めて踏み込んだ。
「《アバンストラッシュ》!!」
凄まじい斬撃が、バランを正面から捉えた。
しかし、男は剣を抜こうとさえしなかった。直撃を受けた鎧に亀裂が走ったものの、その下にある身体には傷ひとつなく、バランは平然と立っている。
「そ、そんな……!?」
ダイは驚愕した。
アバン先生から教わり、これまで幾度となく強敵を打ち破ってきた必殺技。それをまともに受けて、傷ひとつ負わない相手など初めてだった。
バランは驚きに立ち尽くす少年へと近づき、静かに口を開いた。
「……できれば傷つけたくなかったが……」
次の瞬間、ダイの腕が掴まれた。
「力づくでも連れて帰るぞ!」
「うわああっ!?」
ダイが振りほどこうと暴れるが、その手はまるで鋼鉄の枷のように動かなかった。バランは少年を掴んだまま神殿の天井へ向かって飛び上がり、凄まじい勢いで湖面へと突き進んだ。
轟音と共に水柱が立ち上がる。
2人の竜の騎士が、湖底から地上へと飛び出した。
◇ ◇ ◇
「な、何だ!?」
突然の異変に、湖岸で待っていたポップが飛び上がった。
静かだった湖面が激しく波打ち、中央から巨大な水柱が立ち上っている。その中から飛び出してきたのは、見覚えのある小さな人影だった。
「ダイ!!」
ダイは水辺の地面へと叩きつけられ、何度か転がってようやく止まった。慌てて駆け寄ったポップとレオナに続き、ヒルダもすぐさまその傍らへ膝をつく。
「ダイくん! 大丈夫ですか!?」
「う、うん……なんとか……」
苦しげに顔を上げたダイの視線は、湖の上へと向けられていた。
そこには、悠然と空中に浮かぶ男の姿があった。
ヒルダは立ち上がり、男を見つめた。
「あ、あいつは……!」
ポップが思わず息を呑んだ。
「あいつは……魔王軍の超竜軍団長、バランだ……!」
「何ですって!?」
ダイの言葉に、レオナの顔色が変わった。ポップも杖を構え直したが、メルルはそれ以上に、男の額に浮かぶ紋章を見つめていた。
「そんな……竜の騎士は、ひとつの時代に1人しか現れないはずなのに……!」
「そのとおりだ。この時代の真の竜の騎士は、この私だ」
バランは静かに答え、ダイへと視線を戻した。
「ダイ。いつまでそのような者たちと行動するつもりだ。お前の居場所はそこではない」
「何だと……!?」
「お前が成長し、竜の力に目覚めるにつれ、人間はお前を恐れ、疎み、迫害をはじめるだろう。今は仲間だと言っている者たちも、いずれはお前の力を恐れるようになる」
ダイの肩が、小さく震えた。
ベンガーナで自分に向けられた、人々の怯えた視線が脳裏に蘇る。あの出来事を経験してしまった今、バランの言葉がすべてでたらめだとは言い切れなかった。
「ふざけんじゃねぇっ! ダイは仲間だ! たとえ正体が何だろうと、迫害なんかするもんか!」
その迷いを吹き飛ばすように、ポップが叫んだ。
「ポップ……」
ダイが顔を上げる。
ヒルダはそのやり取りを見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
ポップの言葉に嘘はない。レオナも同じ気持ちだろうし、もちろん自分もそうだった。ダイが竜の騎士であろうと、まったく別の何かであろうと、共に過ごしてきた時間が消えてしまうわけではない。
ただ、ヒルダはバランの言葉を、単なる脅しとして退けることもできなかった。
人間は、未知のものを恐れる。
理解できない力を前にしたとき、その持ち主の心を知ろうとするよりも先に、拒絶してしまう者もいる。自分が何もしていなくても、ただそこに存在するだけで疎まれることがあるのだと、ヒルダは身をもって知っていた。
「ダイ。もう一度だけ言う。私と来い」
「……嫌だ!」
ダイは、はっきりと答えた。
「オレは、みんなと一緒にいる!」
バランの眉が、僅かに動いた。
「……ならば、力ずくでも連れていくまでだ」
バランがゆっくりと歩み寄る。
その瞬間、ポップはダイを庇うように前へ出た。相手がただ者ではないことは分かっている。それでも、黙って仲間を連れ去らせるわけにはいかなかった。
「勝手なこと言ってんじゃねえぞ! ダイが嫌だって言ってんだろうが!」
ポップは杖を構え、素早く呪文を唱えた。
「《ベタン》!!」
強烈な重圧がバランを襲い、足元の地面が大きく沈み込んだ。しかし、バランは僅かに膝を曲げただけで、その場から動こうともしない。
次の瞬間、男の全身から凄まじい闘気が噴き上がり、重力の呪文を強引に押し返した。弾け飛んだ衝撃が周囲へ広がり、ポップたちは悲鳴を上げて地面へ転がった。
「くっ……!」
ヒルダは咄嗟に風のマナを広げ、レオナたちを襲う衝撃を和らげた。自身も足を滑らせながら体勢を立て直し、バランへと鋭い視線を向ける。
凄まじい力だった。
それも、単純な魔力の放出とは違う。身体の奥底から湧き上がる生命力が、強固な闘気となって全身を包み込んでいるかのようだった。
「ダイ君は渡さないわ!」
レオナが立ち上がり、ダイの前へと進み出た。ポップも痛む身体を押して立ち上がり、杖を構え直す。
「同じ竜の騎士だか何だか知らねえけどな! そんな理由でダイを連れていく権利なんか、お前にはねえだろ!」
「……権利ならある」
バランは低い声で答えた。
「この子は、私の息子だ」
その場に、静寂が落ちた。
「……えっ?」
ダイが呆然と呟いた。
ポップもレオナも、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
突然現れた魔王軍の軍団長。自分と同じ紋章を持ち、竜の騎士の秘密を知る男が、今度は自分の父親だという。
「オレの……父さん……?」
「そうだ。お前の本当の名はディーノ。長い間、捜し続けていた我が息子なのだ」
バランの声には、これまでとは違う感情が滲んでいた。
「だからといって……だからといって、オレがあんたについていく理由にはならないだろ!」
ダイは剣を握り締めた。
「オレにはブラスじいちゃんがいる! ポップも、レオナも、ヒルダも……みんな大事な仲間なんだ! それを捨てて、あんたと一緒に人間を滅ぼすなんて、絶対に嫌だ!」
バランの表情が険しくなる。
「……まだ分からぬか。人間どもと共にいても、お前が傷つくだけだということが」
「そんなの、あんたが決めることじゃない!」
ダイの額に、竜の紋章が浮かび上がった。
その瞬間、身体の奥底から凄まじい力が湧き上がる。ダイは鋼の剣を構えると、バランを見据えた。
「どうしても連れていくっていうなら……オレは戦うぞ!」
「……よかろう。ならば、その力がどれほどのものか見せてみるがいい」
バランは静かに剣を抜いた。
背中から現れたのは、竜を象った柄と重厚な刀身を持つ大剣。その剣が放つ尋常ならざる威圧感に、ヒルダの表情が引き締まった。
あれは、ただの武器ではない。
剣そのものに途方もない力が宿っているかのような、異様な存在感があった。
「ダイくん、無理をしないでください!」
ヒルダの声が届くよりも早く、ダイは地面を蹴っていた。
紋章の力を解放した少年の身体が、瞬く間に空へ舞い上がる。
「うおおおおっ!!」
ダイが剣を掲げると、空に雷鳴が轟いた。
呼び寄せられた雷が鋼の剣へと吸い込まれ、刀身が青白い光を放ち始める。雷の魔法とアバン流刀殺法を組み合わせた、ダイの持つ最強の一撃だった。
「《ライデインストラッシュ》!!」
雷光を纏ったダイの一撃が、バランに炸裂する。
その速度と威力は、先ほど湖底で放った《アバンストラッシュ》とは比較にならなかった。轟音と共に振り抜かれた斬撃が、バランの身体を真正面から捉える。
しかし。
「……なるほど。なかなかの威力だ」
バランは、その一撃を真魔剛竜剣で受け止めていた。
「だが、まだ甘い!」
次の瞬間、バランの全身を覆う闘気が一段と膨れ上がった。
ポップたちを庇いながら見ていたヒルダは、その力を感じ取った瞬間、息を呑んだ。
「……いけません!」
バランが真魔剛竜剣を掲げると、空に凄まじい雷鳴が轟いた。
天から降り注いだ雷が、真魔剛竜剣へと吸い込まれる。
「《ギガブレイク》!!」
轟雷を纏った斬撃が、ダイを真正面から捉える。
「うわあああああっ!!」
凄まじい衝撃によってダイの鎧が砕け散り、その小さな身体が湖面へ向かって吹き飛ばされた。
大きな水柱が立ち上がり、湖面に幾重もの波紋が広がっていく。
「ダイ!!」
ポップの絶叫が響いた。
しかし、ヒルダは声を上げるより早く、既に湖へ飛び込んでいた。
ヒルダは水中で目を開き、湖底へ向かって沈んでいくダイの姿を捉えた。激しい衝撃を受けた少年は意識を失って水中深く、沈んでいった。
急いでその身体を抱きかかえると、ヒルダは片手を傷ついた胸元へ当て、回復のマナを集中させた。
淡い金色の光が、水中に広がっていく。
それでも、ダイは目を覚まさなかった。
ヒルダは胸を締めつけられる思いで少年を抱き寄せ、そのまま水面へ向かって泳ぎ始めた。魔法によって傷を癒しながら、できる限り身体を揺らさないように、慎重に浮上していく。
その途中で、もうひとつの人影が近づいてきた。
レオナだった。
彼女もまた、迷わず湖へ飛び込んできたのだ。
ヒルダがダイの身体を支えて水面へ浮上すると、レオナはすぐに少年の胸元へ手をかざした。
「ダイ君……! お願い、目を覚まして……!」
《ベホマ》の柔らかな光が、ダイの身体を包み込んでいく。
ヒルダも回復魔法を重ね、傷ついた身体を懸命に癒し続けた。
どうか、間に合ってほしい。
祈るような思いで治療を続けながら、ヒルダは湖岸へと視線を向けた。
◇ ◇ ◇
一方、湖岸ではポップが杖を握り締めていた。
ダイを湖へ叩き落としたバランは、何事もなかったかのように地上へ降り立っている。その圧倒的な力を目の当たりにして、ポップの身体は恐怖に震えていた。
それでも、逃げるつもりはなかった。
ヒルダとレオナがダイを助けている間、自分が何としてもバランを食い止めなければならない。そう決意して杖を構えた、そのときだった。
「待てっ!」
森の方から響いた野太い声に、ポップは振り返った。
「ク、クロコダイン!!」
現れたのは、巨大な斧を携えた獣王クロコダインだった。
ポップは思わず顔を輝かせたが、その喜びはすぐに驚きへと変わった。
クロコダインの身体が、震えていたのである。
バランの恐ろしさを知る彼には、今から自分がどれほど無謀な戦いに挑もうとしているのか、嫌というほど分かっていた。目の前の男に立ち向かえば、まず生きては帰れないだろう。
それでも、クロコダインは退かなかった。
「ポップ。お前はレオナ姫たちを助け、ダイを守ってやれ。ここは俺が引き受ける」
「で、でもよ……!」
「心配するな。これでも俺は、かつて獣王と呼ばれた男だ」
クロコダインは不敵に笑い、斧を握り直した。
その姿に、ポップは何も言えなくなった。
「……クロコダインか。まさか、お前まで私の邪魔をするとはな」
バランはクロコダインを一瞥すると、手にしていた真魔剛竜剣を、ゆっくりと鞘へ収めた。巨大な斧を構える獣王を前にしても、その表情には一片の警戒も浮かんでいない。
その態度に、クロコダインの表情が険しくなった。
クロコダインが咆哮し、巨大な斧を振り上げた。
バランは剣を抜こうともしなかった。
振り下ろされた斧は、男の首筋へとまともに叩きつけられた。しかし、首を断ち切るどころか、凄まじい衝撃音と共に砕け散ったのは斧の方だった。
「なっ……!?」
クロコダインが愕然とする。
バランの身体を包んでいるのは、竜の騎士だけが持つ最強の闘気、《竜闘気(ドラゴニックオーラ)》だった。強靱な肉体をさらに強化するその力は、並の剣や呪文をほとんど寄せつけない。
圧倒的な力の差を前にしても、クロコダインは退かなかった。
しかし、戦況は一方的だった。
バランの拳がクロコダインの巨体を打ち据え、続く攻撃が右腕の骨を砕く。さらに額の竜の紋章から放たれた光線、《紋章閃》が残された右目を掠め、獣王の視界を奪った。
獣王の巨体が、地面に崩れ落ちる。
「……これでもう、お前は戦えない」
「……クロコダイン!!」
ポップは思わず駆け寄ろうとしたが、バランがこちらへ視線を向けたことで足を止めた。倒れた獣王は動かず、湖では今もヒルダとレオナがダイを治療している。
ここで自分まで逃げ出せば、誰が仲間たちを守るというのか。
「……まだ、俺がいるぜ……!」
ポップは震える両手で杖を握り直し、バランの前へ立ちはだかった。
「呪文が効かねえってんなら……この杖でぶん殴ってでも、てめえを止めてやる!」
バランは呆れたように目を細めた。先ほどの重力呪文でさえほとんど通用しなかったというのに、今度はその細い杖一本で向かってこようというのだ。
しかし、ポップが駆け出そうとした瞬間、背後から苦しげな声が響いた。
「……ま、待て……ポップ……!」
「……クロコダイン!?」
振り返ったポップは、我が目を疑った。
倒れたはずのクロコダインが、左腕を地面について身体を起こそうとしていたのである。折れた右腕は力なく垂れ下がり、顔面から流れる血が足元の地面を濡らしていた。
それでも獣王は歯を食いしばり、再び立ち上がった。
「こ、この場は……俺に任せろと……言ったはずだぞ……!」
「ば、馬鹿野郎! そんな身体で、まだ戦うつもりかよ!?」
ポップは思わず叫んだ。クロコダインがどれほどの傷を負っているのか、見れば分かる。今すぐ治療を受けなければ、命に関わるかもしれない。
しかし、クロコダインは退こうとしなかった。
「……右腕は折れた。目も、もうほとんど見えん……。だが、まだ左腕が残っている……!」
獣王は荒い息を吐きながら、残された拳を握り締めた。
「それに……たとえ両目が塞がれようと、俺にはまだ……お前が拭ってくれた、心の目がある……!」
「……クロコダイン……!」
ポップの胸に、熱いものが込み上げた。
かつて敵として戦った頃のクロコダインは、勝利のために卑劣な手段へ頼り、そのことを深く悔いていた。だが、今の彼は違う。自分の命が失われようとしていることを理解しながら、それでも仲間を守るために立ち上がろうとしている。
目の前にいるのは、誇り高き真の戦士だった。
「……敵わぬ相手だからといって、手をこまねいているわけにはいかん……!」
クロコダインはバランへと向き直った。
その巨体は今にも崩れ落ちそうだったが、残された左腕には、再び凄まじい闘気が集まり始めていた。
ポップは唇を噛み締め、杖を握る手に力を込めた。もう止められないのだと、彼にも分かった。
ならば、せめて最後まで見届けよう。
仲間のために命を懸ける、獣王クロコダインの戦いを。
◇ ◇ ◇
一方、湖ではヒルダとレオナが、今も懸命に回復魔法をかけ続けていた。
《ギガブレイク》によって受けたダイの傷は深く、2人が力を合わせても、すぐに意識が戻ることはなかった。ヒルダは少年の身体を支えながら傷ついた部分へマナを送り続け、レオナも《ベホマ》の力を惜しみなく注いでいた。
「……ダイ君……お願い……!」
レオナの祈るような声が、静かな湖面に響く。
ヒルダも必死だった。湖岸では今もクロコダインが戦っているはずだが、まずは目の前の少年を助けなければならない。
そのとき、ダイの身体が微かに動いた。
「……ダイくん!?」
ヒルダが顔を覗き込むと、閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。
傷ついた身体には、まだ激しい戦いの疲労が残っていた。しかし、湖岸から伝わってくる凄まじい闘気と、聞き覚えのある獣王の咆哮に、ダイはすぐに何が起きているのかを察した。
「……クロコダインが……!」
ダイはヒルダの腕から身を起こすようにして、湖岸へと視線を向けた。
ヒルダはその肩を支えながら、少年の表情を見つめていた。そこには、仲間を助けたいという強い意志が宿っている。
回復したばかりの身体で再び戦うことが、どれほど危険なのかは分かっていた。
しかし、それ以上に、今も命懸けで戦っているクロコダインを見捨てることなど、この少年にはできないのだろう。
「……ありがとう、ヒルダ。レオナも……!」
ダイは短く礼を告げると、剣を握り直した。
ヒルダとレオナが見守る中、少年は湖岸へと顔を向け、その身体に残された力を振り絞った。
◇ ◇ ◇
クロコダインは、残された左腕に力を集中させていた。
既に右腕は折れ、視界もほとんど利かない。だが、最後の一撃を放つだけの力は、まだ残っていた。
「……これが、俺の最後の力だ……!」
闘気が、残された左腕へと集中していく。
バランはその気配を察知すると、再び真魔剛竜剣を抜き放った。
「……ならば、竜の騎士の力をもって引導を渡してやろう」
空に雷鳴が轟く。
バランが《ギガデイン》を呼び寄せようとした、まさにその瞬間だった。
「させるかああっ!!」
湖面を突き破るように、ダイが飛び出した。
少年は手にしていた鋼の剣を、雷光が集まり始めた上空へ向かって投げつける。鋼の刀身が雷を引き寄せ、バランの真魔剛竜剣へ集中するはずだった電撃を遮った。
「……何っ!?」
バランが僅かに目を見開く。
その隙を、ダイは見逃さなかった。
少年が新たに抜き放ったのは、身につけていたパプニカのナイフだった。
「クロコダイン!!」
「おおっ!!」
2人の声が重なる。
「《アバンストラッシュ》!!」
それに合わせて、残された力を振り絞り、クロコダインが左腕を突き出した。
「《獣王会心撃》!!」
凄まじい闘気の奔流が、バランへと襲いかかる。
獣王の渾身の一撃と、勇者の必殺剣。
2つの力が、ほぼ同時にバランを捉えた。
バランは咄嗟に竜闘気を全開にし、正面からその攻撃を受け止める。しかし、2人の想いを込めた一撃は、強固な竜闘気を突破し、ついにその身体へと届いた。
凄まじい衝撃が湖岸へ広がる。
砂煙が晴れたとき、バランは僅かに後退していた。
その身体には、確かに傷が刻まれていた。
「……やった……!」
ポップが思わず声を漏らす。
ヒルダもまた、その光景を見つめながら胸を熱くしていた。
あれほど圧倒的な力を持つバランに、ダイとクロコダインは諦めずに立ち向かった。互いの力を信じ、傷ついた身体で放った渾身の一撃が、ついに相手の絶対的な防御を突破したのである。
その勇気と見事な連携に、ヒルダは素直に感動していた。
しかし、その喜びは長くは続かなかった。
「……なるほど」
バランは自分の身体に刻まれた傷へ視線を落とし、ゆっくりと顔を上げた。
傷は、決して深いものではない。
竜闘気を破られたことには驚いている様子だったが、その立ち姿にはいまだ余裕があり、戦闘能力が大きく損なわれた気配もなかった。
一方のダイとクロコダインは、もはや立っているだけでも精一杯だった。
ダイは荒い息を繰り返し、クロコダインの巨体も僅かに揺らいでいる。2人とも、今の一撃をもう一度放つだけの余力は残されていないだろう。
それでもなお、2人はバランへ向かって構えようとしていた。
「……もう、十分です」
静かな声が、その場に響いた。
ダイが振り返ると、ヒルダがゆっくりと歩み寄ってきていた。
「……ヒルダ?」
「ダイくん、クロコダインさん。ここからは、わたしに任せてください。どうか、お2人は下がっていてください」
ヒルダは2人を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「お2人の想いは、確かに届いたと思います。あれほどの力を持つ方に、力を合わせて立ち向かわれたこと……本当に、素晴らしかったです」
その言葉に、クロコダインは僅かに目を見開いた。
ヒルダは、再びバランへ視線を向けた。
彼女の胸には、深い後悔があった。
ダイの父親だという男を、できることなら傷つけたくなかった。2人が親子として理解し合える道を、何とか残しておきたかった。
しかし、結果としてダイは瀕死の重傷を負い、クロコダインもまた、命を落としていてもおかしくないほど傷ついてしまった。
このまま戦いを続ければ、次は本当に誰かが命を失うかもしれない。
そう思ったとき、ヒルダの心は決まった。
「……わたしも、もう迷いません」
静かにそう告げると、ヒルダは背中にあるアストレアの柄へ手を伸ばした。
「これ以上、皆さんが傷つくのを見ていられません。……ここからは、わたしが本気で戦います」
クロコダインが、僅かに顔を上げた。
今まで彼は、ヒルダが優れた魔法使いであり、並の戦士を遥かに超える力を持っていることは理解していた。しかし、その実力がどの程度のものなのか、具体的には知らなかった。
何しろ、目の前にいるのはあのバランなのだ。
自分でさえ、あれほど一方的に打ちのめされた相手。その恐ろしさを知っているからこそ、まだ17歳の少女を前に立たせることには、強い抵抗があった。
「……ヒルダ殿。相手は、あのバランだぞ……!」
「……はい。分かっています」
ヒルダは静かに頷いた。
「ですが、もう大丈夫です。どうか、今度はわたしに任せてください」
その声には、少しの迷いもなかった。
クロコダインは何かを言いかけたが、結局、それ以上は口にできなかった。
ヒルダの表情は普段とほとんど変わらない。しかし、背中から大剣を引き抜いた少女の周囲には、先ほどまでとは明らかに異なる気配が漂い始めていた。
彼は戦士としての本能で、その変化を感じ取っていた。
自分が守ろうとしていた少女は、もしかすると、自分が考えているよりも遥かに強い存在なのかもしれない。
「……ポップさん、レオナさん。お2人をお願いします」
「あ、ああ……!」
「分かったわ。ヒルダも気をつけて!」
ポップとレオナが頷く。
ヒルダは2人に小さく微笑みかけると、アストレアを手に、バランの前へと歩み出た。
◇ ◇ ◇
「……今度はお前か」
バランは、目の前へ進み出た少女を見つめた。
水色の長い髪に、白を基調とした軽鎧。手にしている大剣は、その華奢な身体に不釣り合いなほど長大だった。
先ほどから、この少女が普通ではないことには気づいていた。
仲間を守るために風の力を使った際も、ほとんど詠唱らしいものを必要とせず、複雑な魔力の制御を行っていた。しかも、身体の内側に秘めている力は、通常の人間の魔法使いとは明らかに異質なものだった。
だが、今のバランにとって、それが何者であるかなど大した問題ではなかった。
「……お前も、ディーノを私から引き離そうというのか」
低い声で問われ、ヒルダは静かに首を横へ振った。
「……いいえ。わたしは、ダイくんとお父様が離れ離れになることを望んでいるわけではありません」
その返答に、バランが僅かに眉を動かす。
「あなたが、どれほど長い間、息子さんを捜していらしたのか……わたしには、その年月の重さをすべて理解することはできません。でも、ようやく再会できた大切な方を、二度と失いたくないというお気持ちは分かるつもりです」
ヒルダは一度、ダイへと視線を向けた。
仲間たちに支えられながらも、少年は心配そうにこちらを見つめている。
その姿に、胸が締めつけられた。
「……ですが、ダイくんには、これまで一緒に暮らしてきた大切な方たちがいます。育ててくださった方も、お友達も……。その方たちとの関係まで、突然なくしてしまうのは違うと思います」
「……人間どもとの関係など、あの子には不要だ」
バランは冷たく言い放った。
「いずれ奴らは、ディーノの力を恐れるようになる。そのときになって後悔しても遅いのだ」
「……そういう方も、いらっしゃるかもしれません」
ヒルダは否定しなかった。
「でも、すべての人がそうではありません。人を傷つける方もいれば、傷ついた人に手を差し伸べてくださる方もいます。わたしは、そのことを信じています」
「……愚かな。お前はまだ、人間というものを知らぬのだ」
その言葉に、ヒルダは少しだけ悲しそうに目を伏せた。
知らないわけではない。
むしろ、知りたくなかったことまで知ってしまったからこそ、今の自分があるのだろう。
人々から恐れられ、拒絶され、時には命さえ狙われた。そんな経験を重ねてきた彼女だからこそ、バランが人間を憎むに至った理由も、単なる思い込みではないのだろうと感じていた。
しかし、どれほど辛い経験をしたからといって、すべての人間が同じだと決めつけてよいはずはない。
「……わたしは、ダイくん自身の気持ちを大切にしていただきたいだけです」
ヒルダはゆっくりと顔を上げた。
「ダイくんが、ご自分の意思であなたについていくとお決めになったのでしたら、わたしもその気持ちを尊重します。でも、ダイくんは皆さんと一緒にいたいと願っています。……どうか、その気持ちも大切にしてあげてください」
バランは、しばらく少女を見つめていた。
「……お前は、何者だ?」
「ヒルダと申します。ダイくんとは、デルムリン島で知り合いました」
「……そういうことを聞いているのではない……ただの人間ではあるまい。その身体から感じられる力は、私の知る魔法使いのものとは明らかに違う」
ヒルダは少し驚いたように瞬きした。
初めて会った相手に、ここまで自分の力の違いを見抜かれたことは珍しかった。やはり、竜の騎士という存在は、単に戦闘能力が高いだけではないらしい。
「……はい。実は、わたしはこちらとは違う世界から来たんです」
「……異なる世界だと?」
バランの眼差しが鋭くなった。
神々によって生み出された竜の騎士である彼にとっても、異なる世界から来たという存在は珍しい。目の前の少女が纏う奇妙な力も、それならば説明がつくのかもしれなかった。
しかし、今はそのようなことを詮索している場合ではない。
「……ならば、お前にはなおさら関係のないことだ。異なる世界から来たというのなら、私たち親子の問題に口を挟む理由はあるまい」
ヒルダは静かに首を振った。
「……いいえ。ダイくんは、わたしの大切なお友達でもありますから」
その言葉に、ダイが顔を上げた。
ヒルダは一度だけ少年を振り返り、柔らかく微笑んだあと、再びバランへと向き直った。
「ですから、ダイくんを無理やり連れていこうとするのでしたら……わたしは、あなたを止めなければなりません」
バランの表情が険しくなった。
「……そうか。ならば、お前も私の前に立ちはだかるというわけだな」
「……はい」
その返答に、バランの身体から凄まじい闘気が噴き上がった。
湖岸の草が一斉になぎ倒され、湖面には巨大な波紋が広がっていく。ポップとレオナは思わず身構えたが、ヒルダはアストレアを構えたまま、静かにその圧力を受け止めていた。
彼女の周囲を、柔らかな風が巡り始める。
バランの放つ竜闘気が風の流れと衝突し、空気が激しく震えた。
その様子を見て、バランは僅かに目を細めた。
相当な使い手らしい。
「……力ずくでも退いてもらうぞ」
バランが真魔剛竜剣を構える。
ヒルダもまた、アストレアを両手で握り直した。
「……できれば、そうしたくはありませんでした」
静かな声と共に、少女の周囲を巡る風が強まった。
「……ですが、これ以上、大切な方たちを傷つけさせるわけにはいきません」
次の瞬間、2人の姿が同時に消えた。
◇ ◇ ◇
最初の剣戟は、雷鳴のような音を伴って湖岸へ響いた。
ヒルダが踏み込み、アストレアを横薙ぎに振り抜く。バランは真魔剛竜剣でその一撃を受け止めたが、剣同士が触れ合った瞬間、予想以上の衝撃が腕を伝った。
「……むっ!?」
見た目からは想像もつかないほど、重い斬撃だった。
しかも、単純に剣を振るう腕力だけではない。刀身に纏わりついた風のマナが、剣の動きに合わせて鋭く流れ、受け止めた刃をさらに押し込んでくる。
バランは即座に剣を押し返し、返す刃でヒルダを斬り払おうとした。
だが、少女は既に動いていた。
アストレアを引き戻すと同時に身体を捻り、相手の斬撃を僅かな動きでかわす。そのまま踏み込み直し、今度は斜め下から鋭い一撃を繰り出した。
バランの真魔剛竜剣が、それを受け止める。
続けざまに金属音が響いた。
互いの剣が激しく衝突し、そのたびに竜闘気と風のマナが弾け飛ぶ。周囲の地面には亀裂が走り、湖面には大きな波紋が幾重にも広がっていった。
「……ほう」
バランの表情が変わった。
ただ力が強いだけではない。
少女の剣技には無駄が少なく、長大な大剣を振るっているにもかかわらず、その動きには僅かな淀みもなかった。しかも、足元に生じる風の流れを利用しているのか、踏み込みの速度や方向が通常の剣士とはまるで違っている。
バランが剣を振り下ろす。
ヒルダはそれを受け流し、身体を横へ滑らせるようにして間合いを外した。
直後、足元から巻き起こった風が少女の身体を押し出す。
予想外の角度から放たれた斬撃に、バランは咄嗟に真魔剛竜剣を引き戻して対応した。
再び、凄まじい衝撃が走る。
「……っ!」
バランの身体が、僅かに後退した。
その光景を見ていたポップが、思わず息を呑んだ。
「……す、すげえ……!」
ヒルダの強さなら、嫌というほど知っている。
自分自身も何度も特訓を受けてきたし、ダイとの手合わせもずっと見ていた。バルジ島では、あのフレイザードを一撃で両断した姿さえ目撃している。
それでも、今のヒルダの動きは、これまで見てきたものとは明らかに違っていた。
あれほど恐ろしい力を持つバランを相手に、一歩も退いていない。
それどころか、少しずつ攻撃の速度を上げ始めているように見えた。
「……おいおい……冗談だろ……?」
ポップは、目の前で繰り広げられる剣戟から目を離せなかった。
ヒルダが手加減していたこと自体は、以前から分かっていた。特訓の際も、こちらの実力に合わせて攻撃の威力や速度を調整してくれていたのだろう。
しかし、その差がこれほど大きいとは思っていなかった。
あれだけの力を持つバランを相手にして、なお攻撃の鋭さを増していく少女の姿に、ポップは背筋が寒くなるのを感じていた。
そして、その隣でクロコダインは、傷ついた瞼の隙間から、ぼんやりと戦場を見つめていた。
自分がどれほど必死に斧を振るっても、傷ひとつ負わせることができなかった相手。そのバランと、ヒルダは真正面から剣を交え、互角以上に渡り合っている。
しかも、相手の攻撃を避けるだけではない。
時には真魔剛竜剣を受け止め、時には鋭い反撃を繰り出し、あの竜騎将を少しずつ押し始めているのである。
(……何ということだ……!)
クロコダインは、思わず歯を食いしばった。
自分は、この少女を守らなければならないと思っていた。いくら優れた戦士であろうと、あのバランの前へ立たせるわけにはいかないと、本気で考えていたのだ。
しかし、目の前で繰り広げられている戦いは、その認識を根底から覆すものだった。
(……ヒルダ殿……。あなたは、いったい……!)
戦場では、さらに激しい攻防が続いていた。
バランが踏み込み、真魔剛竜剣を大きく振り抜く。
凄まじい竜闘気を纏った斬撃が、ヒルダへと迫った。
少女はアストレアを斜めに構え、その一撃を受け止めた。
激しい衝撃と共に足元の地面が砕ける。
しかし、ヒルダは後退しなかった。
彼女は剣に伝わる力を見極めると、刀身に纏わせた風のマナを一気に強めた。アストレアの周囲を巡る風が鋭い渦となり、バランの剣を横へと押し流す。
「……何っ!?」
剣を押し流されたバランの構えが、一瞬崩れた。その隙を逃さず、ヒルダはアストレアを鋭く振り抜いた。
バランは咄嗟に身体を捻ったが、完全には避けきれなかった。
鋭い風を纏った刃が鎧の一部を切り裂き、その下に細い傷を刻む。
「……っ!」
バランは即座に距離を取り、真魔剛竜剣を構え直した。
目の前の少女は、追撃しようとはしなかった。
ただ静かに剣を構え、こちらの動きを見つめている。
その様子に、バランは初めて明確な警戒を覚えた。
速い。
そして、重い。
剣技だけを見ても相当な達人であることは間違いないが、それ以上に厄介なのは、少女が操る奇妙な風の力だった。
普通の魔法のように、呪文を唱えて攻撃を放つわけではない。
剣を振るう動作、身体を移動させるための踏み込み、相手の攻撃を受け流す瞬間。そのすべてに風の力が組み込まれ、まるで身体の一部であるかのように自在に操られている。
しかも、先ほどから少女の動きは少しずつ鋭さを増していた。
まだ、力を出し切っていないというのか。
その可能性に気づいた瞬間、バランの眼差しが変わった。
「……なるほど。どうやら、少々見くびっていたようだな」
バランの全身から、竜闘気が再び噴き上がった。
これまで以上に濃密な闘気が鎧を包み込み、真魔剛竜剣の刀身へと流れ込んでいく。湖岸の空気が激しく震え、周囲に漂っていた砂埃が吹き飛ばされた。
ヒルダは、その変化を静かに見つめていた。
強い。
先ほどまでの攻防でも、その剣技と身体能力が尋常ではないことは十分に理解できた。竜闘気と呼ばれる力も、剣と身体を同時に強化する、極めて厄介なものだった。
そして何より、相手には豊富な戦闘経験がある。
僅かな攻防の中で、こちらの動きや風の使い方を少しずつ見極めようとしていることが分かった。
下手な攻撃を繰り返せば、すぐに対応されてしまうだろう。
だが、ヒルダもまた、まだ本来の力を出し切ってはいなかった。
相手はダイの実の父親である。
できれば命を奪いたくないという思いは、今も変わっていない。それでも、これ以上仲間を傷つけさせるわけにはいかない以上、必要な力を出し惜しみしている場合ではなかった。
ヒルダは静かに息を吸い、アストレアを握り直した。
その瞬間、周囲を巡っていた風の流れが変わった。
先ほどまで少女の身体を包み込むように流れていた風が、次第に密度を増していく。水色の髪が大きく靡き、白い衣の裾が激しく揺れる。
アストレアの刀身には、淡い光を帯びた風のマナが幾重にも重なり、鋭い渦となって纏わりつき始めた。
「……これは……!」
バランが目を細める。
少女の身体から感じられる力が、急激に高まり始めていた。
先ほどまでと比べても、明らかに異なる。
それでいて、ヒルダの表情には焦りも興奮もなかった。
ただ静かに、相手を見据えている。
「……参ります」
その声が響いた瞬間、ヒルダの姿が掻き消えた。
「……っ!?」
バランは反射的に剣を構えた。
直後、猛烈な衝撃が真魔剛竜剣を襲う。
ヒルダは既に懐へ踏み込んでいた。
受け止められたアストレアが風を巻き込みながら跳ね上がり、次の一撃へと繋がる。バランが剣を振り下ろせば、その軌道を見極めて身体を滑らせ、僅かな隙へ鋭い斬撃を叩き込んでくる。
互いの剣が、凄まじい速度で交錯した。
バランは真魔剛竜剣を振るい、竜闘気を纏った斬撃で応戦する。しかし、ヒルダはそれらを受け流し、あるいは僅かな動きでかわしながら、次々と攻撃を繰り出していった。
その速度は、先ほどまでとは比較にならなかった。
バランの剣が空を切る。
次の瞬間、ヒルダのアストレアがその側面へ叩きつけられ、強烈な風圧と共に剣の軌道を逸らした。
バランは体勢を立て直そうとしたが、既に少女は次の一撃を放っていた。
「……ぬうっ!!」
真魔剛竜剣が、辛うじてその斬撃を受け止める。
しかし、剣越しに伝わる凄まじい力に、バランの足が地面を削りながら後退した。
ヒルダは間髪を入れず、さらに踏み込んだ。
風のマナが一気に膨れ上がり、アストレアの刀身が淡い光の軌跡を描く。
バランは全身の竜闘気を強め、正面からその一撃を迎え撃った。
轟音。
2本の剣が衝突した瞬間、湖面が大きく割れるように波立った。
凄まじい衝撃が周囲へ広がり、湖岸の木々が激しく揺れる。ポップたちは思わず腕で顔を覆い、地面を伝わってくる震動に足を踏ん張った。
やがて衝撃が収まったとき、2人の姿は少し離れた場所にあった。
ヒルダは静かにアストレアを構えている。
対するバランは、真魔剛竜剣を握り締めたまま、数歩後退していた。
「……馬鹿な……!」
バランの口から、思わず言葉が漏れた。
竜の騎士として、これまで数多くの強敵と戦ってきた。人間の勇者も、魔族の戦士も、強大な竜も、その力の前には屈してきた。
それなのに。
目の前にいる少女は、自分の攻撃を真正面から受け止め、剣技で渡り合い、さらには力で押し返してきたのである。
しかも、彼女の身体から感じられる力は、今もなお高まり続けている。
「……いったい、何者なのだ……お前は……!」
バランが低く呟いた。
ヒルダはその問いに答えることなく、アストレアを構え直した。その周囲では、風のマナがさらに強く、鋭く渦を巻いていた。
ポップは、そんなヒルダを呆然と見つめていた。
強いことは知っていた。
自分たちとは比べものにならないほどの力を持っていることも、十分に理解していたつもりだった。
しかし、ここまでとは思っていなかった。
あれほど恐ろしいバランを相手に、ヒルダは少しずつ戦いの主導権を握り始めている。
しかも、その動きにはまだ余裕が感じられた。
(……あいつ……いったい、どこまで強えんだよ……!?)
ポップの胸に、驚きとも畏怖ともつかない感情が広がっていく。
傍らにいるダイも、息を呑んでいた。
かつてデルムリン島で、アバン先生とヒルダが木剣を交えたときのことを思い出す。あのときも、彼女の剣技は驚くほど鋭かった。
けれど、今のヒルダは、あのときとはまるで違っていた。
剣を振るう姿は、あのときと変わらないはずなのに、その速さも、重さも、纏っている力も、何もかもが違っていた。
「……すごい……」
ダイは、思わず呟いた。
そして、その隣でクロコダインは、ただ黙って戦場を見つめていた。
自分が守るべきだと思っていた少女が、あのバランを相手に、これほどの戦いを繰り広げている。
その事実を目の当たりにして、獣王はようやく理解し始めていた。
この少女は、自分たちが考えていたよりも遥かに強い。
いや、もしかすると。
今まで彼女が見せてきた力は、その本当の実力の、ほんの一部分に過ぎなかったのかもしれない。
バランは真魔剛竜剣を構え直し、目の前の少女を鋭く睨みつけた。
もはや、単なる人間の小娘などと侮るつもりはなかった。
竜の騎士としての誇りが、目の前にいる強敵を決して軽視してはならないと告げている。
ヒルダもまた、静かに剣を構えた。
その瞳には激しい怒りも、敵を打ち倒すことへの喜びもない。
ただ、大切な仲間たちを守るための、揺るぎない決意だけが宿っていた。
再び、風が巻き起こる。
竜の騎士と白き薔薇の聖女。
2人の戦いは、さらに激しさを増そうとしていた。
――第13話・了――